2008年05月01日

知ってはならない歴史6

劣情日本人に握られている歴史教科書

若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。

引用開始
 日本の歴史教科書は悲惨である。日本の国民を育てる教育ではなく、日本の「罪悪史」をでたらめに教え込み、日本を嫌い憎む日本人を育てるのが、今の歴史教科書である。私は高校社会科の教師を三十八年間勤めた者である。生徒は、近現代史になると、ため息をついて、言う。詰問口調のときもある。
「先生! また日本の悪口の時間ですか?」
「先生なら違うやろ・・・?」
 歴史教育はイデオロギー教育ではない。それなのに、生徒たちは中学校までに十分にイデオロギー教育の洗礼を受けてきている。経験的に間違いないのはこの二十年間、正確を期して言うと、この十五年間に急速に生徒の詰問が増えた。「教科書問題」の発生以来、急速に生徒のため息が増えた。1982年の宮沢談話と近隣条項の誕生から、露骨に変わったのは教師用の「指導書」の中身である。生徒は教科書を持つが、教師には教科書会社が発行する「指導書」なる虎の巻がサービスされる。
 この「指導書」に「検定」はないから、簡単に言えば書きたい放題である。私は準備中なのだが、「指導書」の研究書を上梓したい。教師への影響という点では、「指導書」はダイレクトである。・・・・

 日本の歴史教科書は、中韓に媚びる劣情日本人に握られている。これが言い過ぎではないことは、事態を知る人ならすぐに理解されるに違いない。劣情日本人の大部分は「旧左翼」の人たちである。
 日本を愛するなどという「ナショナリズム」は、国際主義の思想からみれば遅れた陋劣な心情である。日本人であること自体を反省するのを思想的課題とするのが、左翼の良心だと、彼らは確信しているのである。
「万国のプロレタリアート、団結せよ!」の国際主義の精神こそ高貴とするのが、左翼である。これが人間を左翼にするパラダイムの原点である。若者の多くが左翼になった。
 だがソ連の崩壊ののち、あからさまに左翼的発言を口にすることは憚れるムードになってきた。だから、信条は隠すのである。隠蔽される信条は、劣情と化すしかない。ゆえに私製語だが、劣情日本人の語を私は用いる。続きを読む
posted by 小楠 at 07:14| Comment(3) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2008年04月30日

知ってはならない歴史5

韓国併合で知ってはならない歴史3

若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。

引用開始
 当時の日本でも(朝鮮との)合併に対して異論がなかったわけではない。伊藤博文は保護国論に近い立場にあった。強硬な合併論者はいても、いわゆる植民地化論者は皆無であった。これが事実である。当時の朝鮮は極度に貧しく、李朝の苛斂誅求によって国は衰亡したも同然であった。朝鮮の前には、独立の選択肢は存在していなかった。滅亡か、日本との連衡による滅亡回避かの二択しかなく、他の道はあり得なかった。これが歴史の事実である。
 当時の日本に朝鮮植民地論者は皆無であった、と書いた。
 植民地という以上は、コロニーとしての「うま味」がなければならない。例えば収奪の対象になり得る財貨・物産が、当時の朝鮮に存したのだろうか。
 そんな物はありはしない。
収奪した物を運ぶ道路はない。鉄道はない。港湾はない。橋はない。破壊されたハゲ山、堤防のない河川と、洪水の危機に曝され、野放しの農地と破壊された自然というのが、李朝支配五百年余の惨たる風景であった。
 李朝の国是は「衛正斥邪」だが、この中華従属イデオロギーの自家中毒が李氏朝鮮滅亡の根本原因である。

 半島が独立したのは日清戦争での清国の敗北の結果であり、下関条約第一条で朝鮮の独立が規定されてからである。にもかかわらず、朝鮮の独立を奪ったのは日本だという韓国人、朝鮮人がいることを、私は奇観だと思う。同時に、私は合併は日本の現代史上、最大の過誤であったと言わざるを得ない。
 元の時代、高麗朝の貴族は競って「創氏改名」して、モンゴル式の名を名乗った。元が明に代わると、高麗の武将の李成桂は高麗朝を滅ぼし、朝鮮の国号を頂戴した。そしてさらに「創氏改名」して中華風の名乗りに変えた。
 清の時代になると、清朝は満州族の王朝だから、朝鮮は明に殉じて小中華をもって任じ「衛正斥邪」を国是とした。だから、明に忠節を尽そうとした宋時烈たちの義挙もあった。だが、清軍に撃破(丙子胡乱、1636年など)されると清の忠良なる属国となった。
 日本と合併ののちは、「創氏改名」を希望する者が多く、朝鮮総督府は申告制で対応した。・・・・・日本式の名乗りが多くの利便を韓国人に与えたことは事実である。支那でも、アジアでも欧米ででも、日本人として振る舞うことの利便は大きかったし、日本式の名乗りを好んだ韓国人は少なくはなかった(台湾では許可制であった)。特に支那では、ほとんどの韓国人が日本式の名乗りを用いた。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2008年04月28日

知ってはならない歴史4

韓国併合で知ってはならない歴史2

若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。

引用開始
 李朝では清国の干渉を逃れるために、密かにロシアに接近する構想が練られ始めていた。1885年(明治十七年)一月に甲申事変の後始末のための漢城条約の交渉が始まると、ウラジオストックに密使が派遣された。策謀者はメレンドルフ(清国政府推薦のドイツ人外交顧問)である。
 メレンドルフは謝罪使として東京を訪れているが、滞在期間の大部分をロシア公使館書記官スペールとの会談に費やしている。メレンドルフは天津条約に言う朝鮮軍隊の訓練にあたる第三国にロシアを当てようとしたのである。彼は清国の顧問官であり、清国を裏切ったようではあるが、清国もロシアを「利用」する気持を抱いていた。それは清国へのロシアの圧力を朝鮮経由で日本に充てようという以夷制夷策に出ている。
 メレンドルフの提案をスペールは受諾した。
 ところが、四月十八日に天津条約が締結され日清両国以外から軍事教官を招くべきことが決められると、李朝政府はアメリカから軍事教官を招くことを決定した。
 六月に漢城に到着したスペールは違約を責めるが、外務督弁・金充植は不知として相手にならない。交渉は紛糾した。

 こうしたなかで朝露密約の存在が暴露された。内容の要点は次のようである。
1、金玉均がウラジオストックに来れば、ロシアは逮捕して朝鮮政府に引き渡す。
2、日本への賠償金はロシアが日本政府への影響力を行使する。
3、外国が朝鮮を攻撃するときはロシア軍が相手となる。
4、朝鮮の海軍の代行をロシアが担当する。

 外務督弁・金充植らがウソを言ったわけではない。ウソを言ったのではなく、李朝内部の意見の分裂が露呈されたのである。・・・・
 甲申事変後の朝鮮政府内では、閔氏派は清国への服属を嫌い、もっと強大なロシア帝国の力に依存しようとする別の事大主義が力を得ていた。
・・・・朝鮮半島は、ロシアのものになると列強は見始めた。果然、イギリスが動いた。
 明治十八(1885)年四月、イギリス艦隊は朝鮮半島の南端の巨文島を占領した。朝鮮海峡を扼するこの島は、ロシアの東洋艦隊の行動を同時に扼する位置を占めている。ロシアはイギリスに抗議して、巨文島の占領を続けるならば自国も朝鮮の一部を占領すると主張した。イギリスは聞かずに、砲台構築を進めた。
 英露交渉は二年間にわたったが、清国の仲介で、ロシアは朝鮮を占領しないと宣言したことで、そしてこれを清国が「保証する」という了解のもとで、英国艦隊は去った。

続きを読む
posted by 小楠 at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2008年04月26日

知ってはならない歴史3

韓国併合で知ってはならない歴史1

若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。

引用開始
 幕末から明治の日本を支配していた空気は、ロシアへの恐怖である。露国や列強に支配され、ひいては滅ぼされるのではないかという恐怖感は、なまなましい現実感を帯びていた。
 黒船の脅しに始まり、不平等条約を無理矢理に呑まされる過程で思い知らされた彼我の武力の絶対的な格差は、「富国強兵」・「殖産興業」の道を猛烈な勢いで日本を進ませることになる。エネルギーは「追いつける」という感覚である。
 当初、日本の描いた構想は、日本・清国・朝鮮(李氏朝鮮)の三国の連衡であった。
この連衡の構想は、橋本左内・吉田松陰・横井小楠たちも考えたものであったが、根はもっと深い。
 西郷隆盛のことを「征韓論」の武断主義者のように言う人もいるが、誤解である。明治六年の西郷隆盛の下野を、「征韓論」否決の抗議と書く歴史書(例えば、高校教科書)は例外なく史実を曲げている。

 高校の教科書の例に、『日本史A 現代からの歴史』(東京書籍 日A553)をあげておく。この教科書は西郷のみならず木戸、大久保たちもみな征韓論者として描いている(四十五頁)。
 江華島事件を
「日本軍艦の徴発によって砲撃事件(江華島事件)がおこるや、大久保らとともに(木戸も)朝鮮に対する強硬策を主張している。その結果、欧米からおしつけられた不平等条約を、逆に朝鮮におしつけたのである(日朝修好条規)」と書くのであるが(同頁)、こんなところが日本人に「おしつけられた」歴史の一端である。

 西郷、大久保、木戸・・・・とまるで日本の政府は侵略主義者の巣窟である。まともな感覚の文章とは思えないが、わが国の高校生はこのように教育されているのである。・・・・・
 日本の開国と朝鮮(李氏朝鮮)の出会いの不幸は、その精神世界の舞台が「衛正斥邪」と「尊王攘夷」意識の大きな隔たりにあった。・・・
 1868年、日本は明治元年である。十二月、対馬藩の代表たちが釜山に到着した。明治新政府の派遣した使節たちである。この使節たちの持参した国書の受け取りを朝鮮が拒否した、理由は日本の国書は「皇上」「奏勅」「朝廷」の文字を用いていることや、印璽や署名が伝統と異なる、などがその理由である。
 まさに「衛正斥邪」である。中華秩序と儒教が正義であり、これに服さない者を邪とする精神世界からは、日本ごとき島夷が僭上にも「皇上」とか「朝廷」の言葉をちりばめた国書を朝鮮にもたらすなど、絶対に許されることではないのである。

続きを読む
posted by 小楠 at 07:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2008年04月25日

知ってはならない歴史2

日本人が「知ってはならない」戦後の追撃戦

 若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
これは特にお薦めしたい本です、是非購読してみて下さい。

引用開始
 支那事変は日本の侵略という。しかし、支那事変を始めたのは日本ではない。盧溝橋事件は、中国共産党軍の日支両軍への発砲により始まったものであり、そして、その背後にはコミンテルンの世界革命の戦略が深く関わっていた。民国政府・軍部も日本も盧溝橋事件の拡大を避けようとした。しかし、停戦協定がなるたびにテロが繰り返された。これらのテロは、コミンテルンの指示・支持を受けた中国共産党が実行したものである。
 大陸の日本人へのテロに憤激した軍部が、戦火を拡大していったという話は、非常に不正確なハナシである。事態はそんなに単純ではない。陸軍の参謀本部、海軍の軍令部もともに不拡大・収拾の方針であった。ただ陸軍省・海軍省が一撃後和平と割れていた。
 問題は日本政府の内部にあった。昭和に入ると、日本の政官界の内部には多数の共産主義者が要路に潜伏するようになっていた。コミンテルンの人民戦線戦術によるものである。先に書いたように、日本には一撃後和平論者はいたが、日本には支那事変拡大派はいなかった。ただし、二人だけいた。尾崎秀実と、工作された近衛文麿である。

 表の共産党は当局の取り締まりで、ほぼ壊滅させられたまま終戦にいたる。獄中十八年とかの「英雄的闘士」は、表の部分の残党にすぎない。獄中とは、生命と三度の食事が保証された世界である。善良な国民は職域に殉じ、戦陣に倒れていった。獄中での拷問を口にする人がいるが、内務班の辛さと戦地の地獄を思えば、獄中など天国だと吐き捨てるように言う多数の元兵士たちを、私は知っている。
 コミンテルンは、主戦力は潜り込ませたのである。尾崎・ゾルゲ事件は露頭部の一部にすぎない。これは捜査が中途で終っているからである。
 北進してソ連と対峙する路線が、なぜか米英と対決する南進に転換していった過程は十分に研究されなければならない。今や資料の類は続々と明らかになりつつある。
 中国大陸での泥沼の戦線に日本の大軍を貼り付け、ソ連への脅威を減じ、そして列強同士を噛み合わせるというコミンテルンの政策について、ひとり日本や中国にとどまらず米国の政策決定に関わる研究が急がれている。ルーズベルト政権内部にコミンテルンの影響の痕跡が歴然としている。日本、米国、中国(民国)ともにコミンテルンには存分にやられたのである。・・・・・朝鮮戦争の勃発とともに、マッカーサーは自分がかつての日本が歩んだのと同じ道を進んでいることを知り、愕然となった。日本がマットに沈んだら、たちまち中国、朝鮮、ベトナム、カンボジアは共産主義の制するところとなったからである。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2008年04月24日

知ってはならない歴史

だれが、何を知られては困るのか?

 若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介します。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。これは特にお薦めしたい本です、是非購読してみて下さい。
wakasa01.jpg

先ずは序章の一部から引用します。
引用開始
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
 ずばり言えば、日本人のなかでは日本のメルトダウン(融けて倒れる・融倒)を期待する劣情を秘めている反日的日本人である。ならんで、中国・韓国・朝鮮・ロシア、ひいてはアメリカである。
 中華人民共和国を支配する中国共産党の正統性は、日本帝国主義の侵略から中国人民を解放したという「歴史」を土台にしている。朝鮮民主主義人民共和国についても、事情は同じである。「抗日・解放」が朝鮮労働党支配の正統性の根拠である。
 しかし、心ある歴史家なら、これらの抗日解放の「歴史」は史実に反する偽史であることを知っている。早い話が、抗日パルチザンで「英雄」だった金日成と、ソ連軍に担がれて北朝鮮の支配者になった「金日成」は、まったくの別人であることは公然の事実なのに、この事実は「知ってはならない」のである。これを知らない人が本当にいるのなら、その人は単に無知であるにすぎないか、あるいは「知ってはならない」政策の犠牲者にほかならない。金聖柱ソ連軍大尉が、突如、金日成となり本人を知る人々は仰天した。

 日本が中国を侵略したというが、日本と中国の戦争は日本が始めたものではない。盧溝橋事件だけのことを言っているのではない。今日では、同事件での日本軍への射撃は共産党の工作であることが明らかになっている。・・・
 私は単に共産党の工作のみを指摘しているのではない。現地解決の和平をぶち壊した「通州事件」の工作を言うだけでもない。昭和十二年の上海事変は蒋介石の主力十個師団余が二十万の兵力を集中し、五千余の日本海軍陸戦隊と十万余日本人(女性・子供を含む)を全滅させようと企図した事件である。蒋介石はドイツの元参謀総長ゼークト(第一次世界大戦の名参謀総長とうたわれた)と彼のスタッフを顧問団に招き、軍の編成、訓練ならびに実戦の指導を依頼していたが、これはソ連とドイツのラッパロ条約を背景にしている。
(ラッパロ条約・・1922年4月26日、ソ連とドイツの間で結ばれた秘密条約。ドイツ国防軍もソ連赤軍も密かにドイツ主導のもとで進められた。蒋介石はソ連の仲介でゼークトたちを受け入れていた。)
 第一次世界大戦の敗戦国ドイツは、この密約により、列強の包囲下にあったソ連軍建設の指導に当るとともに、密かにドイツ国防軍の再建の骨格を準備していた。空軍や機甲師団建設の準備はソ連国内で進められていたのであった。これも今では周知の事実である。
 国共合作により蒋介石軍の中にソ連の影響力が一気に広まっていった。
 上海事変はこのような国際的背景をもっている。・・・
続きを読む
posted by 小楠 at 07:18| Comment(5) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2008年04月23日

18年前の北京虐殺

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。今回は著者の同志が命を奪われた天安門事件についてです。

引用開始
 1989年4月、北京を中心とする中国各地で大学生たちは政治の改革や、官僚腐敗の厳罰などを訴えて、嵐のごとく民主化運動をいっせいに起した。それにたいして、中国共産党政権は戦車や正規軍部隊を北京市内に派遣し、6月3日夜から4日の朝方にかけて、天安門広場周辺で抗議活動をしている大学生へ武力弾圧を始めた。 戦車が青年たちの体を踏み潰し、機関銃を持つ兵士が学生や市民に向けて乱射し、大勢の人々が無差別に殺された。・・・・当時、すでに日本に留学していた私は難を逃れることができたが、私と面識のある数名の同志たちは、まさにこの「北京虐殺」においてかけがえのない命を奪われた。・・・・
 天安門事件で殺された人々のなかに、袁力という若者がいた。年齢は私より一歳半上で、1960年7月7日の生まれである。当時、袁力は北方交通大学修士課程を卒業して、国家電子工業省所属の自動化研究所に勤めていた。・・・・
 この年の4月下旬に民主化運動が勃発した後も、仕事に没頭していた袁力は、デモなどの抗議行動にそれほど積極的に参加しなかった、だが、同時代に生きる多くの若者たちと同様、彼も当然運動の展開を熱心に支持し、行く末に多大な関心をもっていた。
 毎日の仕事から帰宅すると、彼はさっさと夕飯を済まし、自転車で近所の中国人民大学へ行き、そこで民主運動の新しい動向や関連ニュースを聞き出すのである。そして夜遅くにふたたび家に帰ると、両親や弟を起して、自分が聞いてきたことを報告しながら,運動の行く末や国の将来について自分の意見を熱っぽく語り、家族と論争することもあった。
 5月19日、中国政府はとうとう北京において戒厳令を敷く事態になった。その時から、学生運動にたいする軍の武力鎮圧が現実味を帯びてきたが、袁力は頑としてそれを信じなかった。彼は「人民解放軍は人民に銃口を向けるようなことは絶対ない」と断言したという。

 そして、6月3日の晩、悲劇のときがやってきた。その日、袁力は友達と一緒に一日中出かけた。人民解放軍の戒厳部隊がすでに北京市外に迫っていたので、袁力らは市内への入口の一つである「公主墳」という交差点へ行き、やってくる解放軍先頭部隊にたいして宣伝活動を行い、北京から撤退するよう説得しようとした。しかし日が暮れても先頭部隊がなかなか現れなかったので、夜の九時頃に袁力はいったん帰宅した。一晩休んでから、翌日に引き続き、人民解放軍を説得しにいくつもりであった。
 その時であった。夜11時半頃、袁力の家の近くにある木犀地という長安街の交差点付近で、爆竹のような銃声が炸裂するのが聞えた。袁力はまっすぐに家から飛び出し、玄関の外に置いてある自転車に乗ろうとした。彼の後ろについて飛び出してきた母親の李雪文さんは力いっぱい袁力の自転車を止めて、「やめなさい。解放軍はもう発砲しているのよ。危険だよ。止めなさい」と、彼の外出を阻もうとした。しかし袁力は、「こんな時に何を言っているんだ。家でじっとなんて、できるわけないだろう」と険しい表情で怒り出し、気でも狂ったかのように自転車を母親の手から奪おうとした。そして、母親の手が緩まった瞬間、彼の体はすでに自転車の上に跨り、あっという間に闇の中に消え去ったのである。
それは、母親の李雪文さんが袁力の姿を見た最後であった。・・・・
 両親は今度は、自転車に乗って天安門広場の方向へ向い、息子の姿を探しまわった。途中、両親が目撃したのは、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図であった。彼らはその時に見た光景を、手記の中でこう記している。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国

2008年04月22日

中共恒例祝日前殺人祭典

処刑者の頭数確保で発明された「悪攻罪」

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。今回は文化大革命時の凄惨な殺人の実態です。
写真はハルビン郊外で民衆の前での処刑。マオより
sekihei04.jpg

引用開始
 文革中、共産党の創立記念日、国慶節、元旦などの「祝日」の直前には、全国各地の大小都市でかならず「公判大会」と称する公開処刑のための群衆大集会が開かれた。都市の規模で異なるが、一度の大会で十数名から三十数名の「反革命分子」が人民裁判で死刑を宣告され、即時銃殺となるのが慣例だった。
 中学生の時分から四川省の成都市に住む私も鮮明に記憶しているが、「祝日」の直前になると、市内の街角のあちこちに死刑宣告の「布告」が貼り出される。大きな貼り紙に数十名の受刑者の名前と罪状が順番に並べて書かれているが、一人ひとりの名前に、「死刑」を意味する赤い字で☓☓☓という符号が鮮明につけられていることは特に印象的であった。時には、中学校の生徒全員が「公判大会」に動員されることがあった。・・・・
 しかしこれが恒例化してくると、各都市の「革命委員会」は処刑を行うための「反革命分子」の人数の確保にずいぶん苦労したようである。・・・

 そこで、各地方の「革命委員会」が考え出した唯一の解決法は、「反革命分子」という罪名の適応する範囲の恣意的な拡大である。
 たとえば、当時、流行っていた「悪攻罪」は、すなわち「毛主席に対する悪辣な攻撃の罪」の拡大解釈によって発明された。・・・拡大解釈が進むと、毛沢東の政策や政治スタイルにほんの少し疑問や不信感を呈するだけでも、「悪攻罪」として認定される。・・・
毛沢東の肖像画や語録を不注意で汚したり破ったりすることも、毛沢東の顔写真が掲載された新聞紙を使って野菜を包んだり竈の火を点けることも、ことごとく「悪攻罪」にされた。

階級の敵根絶のための大虐殺
 文革中、毛沢東の手先の紅衛兵や地痞流氓たちは時々、「階級の敵=人民の敵」にたいして集団大虐殺を行うこともあった。
 中国上海出身の文革史研究者で、現在は米国カリフォルニア大学に勤める宋永毅氏は、文革中に起きた一連の「集団虐殺事件」にたいする綿密な現地調査に基いて、2002年7月に『文革大屠殺』を上梓して香港の開放雑誌社から刊行した。後に『毛沢東の文革大屠殺』というタイトルで原書房から邦訳されたこの著作は、大屠殺の実態に関する最も確実な研究書であるといえる。・・・・

広西賓陽虐殺事件
 1968年7月3日、中国共産党中央委員会、中国国務院、中央軍事委員会が連名で「7・3布告」を公表し、全国の党組織、政府機関、人民解放軍にたいして、「階級の敵をいっそう厳しく鎮圧せよ」と殺戮の大号令をかけた。それを受けて、広西自治区賓陽県革命委員会はさっそく全県内において組織的な虐殺を実施し、有名な「賓陽大虐殺」を引き起した。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:12| Comment(0) | TrackBack(1) | 書棚の中の中国