2008年06月11日

覆面を脱いだIIL

飛行機上の美談

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 飛行機が断雲を縫うてチュンボン沖に差しかかったころ、プ氏は座席を立って私の座席に近寄った。松井機長の立派な人柄を賞賛したのち、泰貨幣500パーツを入れた封筒を示して、松井機長始め搭乗員一同に謝意の印として、さしあげたいと申出た。私はプ氏の折角の好意でもあるのでその旨を機長に告げた。ハンドルを操縦手に託して客室に入ってきた松井機長は、しばらく恐縮の面持で返事に窮した様子ののち、プ氏に次のように申出た。
「私は、祖国解放のために身を挺して戦場に向われる貴下達印度の志士をお送りできるのを無上の光栄と思っている。私の気持ちは、このまま貴下にお伴して行って、貴方の仕事に奉仕したいほどの気持ちであるが、それは不可能なことである。貴下から私に感謝の賜物をいただくことは重ね重ねの光栄と思いますので有難く頂戴する。
 そして改めて、私からこれを貴方に尊い運動の資金に献納して、私の気持ちの一端を表したいと思います。どうぞ受け取っていただきたい。私は、貴方の殉国的運動が成功を収め、印度の同胞が一日も早く輝かしい自由の日を迎えるようお祈りします」と述べた。プ氏の眼にも、機長の眼にも、立会っている私のまぶたにも、真珠のような清いものが光っていた。・・・・・

 日本軍の進撃は、疾風のごとく快調であることがわかった。
 私がこのような状況を承知し終わった頃、一将校が快ニュースをもたらした。日本海軍航空部隊がクワンタン沖で英極東艦隊主力艦プリンスオブウェルス、レパルスの二隻を捕捉轟沈させたというニュースであった。軍司令部の一角で万歳の叫びが上がった。・・・・
 土持大尉は、田代氏が住んでいた町はずれの粋な二階建ての住宅をIILの本部にすばやく準備し、F機関本部は大南公司の小さな店先に位置するように手配していた。土持大尉の案内で、私はIIL本部となる予定の家を見に出かけた。早くもこの町の印度人の数名が先着していた。プ氏も私も一見して満足した。
 大尉のこの心使いを私は何よりも嬉しいものに思った。プ氏も心から喜んでくれた。プ氏は直ちにバンコックから携行してきた印度の大国旗を二階のベランダに掲げた。国旗を掲げるプ氏の手は感動に打ち震えていた。薄桃色、緑、白の三色地にインドの悲願を象徴する紡車をおいた民族旗は、まぶしい茜色の落陽を浴びてはためいた。国旗に面して祈りを捧げるプ氏の塑像のような厳な姿は、この民族旗と落陽の光に荘厳に映え輝いた。仰ぐ私達は暫時己を忘れて感激に浸った。続いて大布に印度語と日本語で印されたIILの看板がベランダの手摺にはりひろげられた。これこそ、IILが覆面をかなぐり捨て、公然、決然祖国の自由と解放を求めんとする闘争の宣言であった。・・・・
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2008年06月10日

開戦決定の飛電

泰ピブン首相の失踪

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 12月4日の午後、武官室電報班の江里という青年(大川周明博士の塾出身)が一片の電文をわしづかみに息せき切って補佐官室に飛び込んできた。大本営からの飛電である。帝国政府はこの日の午前会議において、万死一生の決意すなわち英、米両国に対する開戦を決定したのである。ついに運命の大戦争は決意された。X日は12月8日の予定と。
 海南島に待機していたマレイ攻略軍の大船団は、この日、泊地を出航して直路南泰沖に向かうのである。
 泰、仏印国境には、近衛師団がスタートラインに勢ぞろいした競馬のように詰めかけている。・・・・
 マレイ攻略軍の船団は三日四晩も英軍の眼の光っている仏印沖を抜けて南支那海を泰湾に進航するのである。天祐か、奇蹟でもなければ、英軍の発見を免れることはできないであろう。バンコックの無線諜報は、マレイ沖からボルネオ沖にかけて英軍機の頻繁な哨戒行動を立証している。日本軍はこの奇蹟の成否に、緒戦の運命を賭けているのである。もし洋上に発見されたら、マレイ英空軍とシンガポールに不沈を誇る英極東艦隊必殺の攻撃を受けること必至である。もしそんなことが起きたらその結果は,想うだに慄然たるものがある。山下兵団の壊滅もあり得る。首そ両端を持する泰国の動向等は、この一事件だけでたちまち日本の敵になることは火を見るよりも明らかである。・・・・

 12月お6日、いよいよ日本軍の船団がサイゴン沖に差しかかる日である。英軍哨戒の危険区域に入るのだ。この日、サイゴンの軍司令部から連絡の将校がきて、七日午後を期して、泰国政府に日本軍進駐を要求する最後通牒を提出することを武官と打ち合わせた。そして、泰国がこの日本の要求を容認するか否か・・・いわば泰国が日本の味方であるか、敵国であるかを確認するために、12月8日の払暁、武官室の上空に飛ばせるわが飛行機に対して煙と布板の信号をするように打ち合わせて帰って行った。この夜もオリエンタルホテルで外人達の和やかな会食や舞踏が常日のように行われていた。明くれば12月7日である。・・・
 この朝、思わざる奇怪な変事が捲き起った。午前九時頃であったろうか、田村大佐と格別に親密な間柄といわれている泰国政府の閣僚ワニット氏が、突然血相を変えて武官室の宿舎に飛び込んできたのである。そして非常な興奮の面持で応対に出た田村大佐にろくろく挨拶もせず、いきなり「ピブン首相は泰仏印国境において、泰国外務省官吏に対し日本軍が加えた重大な暴行侮辱事件に憤怒し、昨夜来失踪してしまった。誰にも行方を告げずに。これは首相の貴官あて置き手紙である」とて一通の封書を手交してそうこうと風のごとく立去ってしまった。武官室の一同はこの報を聞いてしばらく茫然自失の態となった。・・・・
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posted by 小楠 at 07:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物

2008年06月09日

F機関と開戦準備

絶望的となった日米交渉

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 11月28日朝、いつものように大使館に出かけて坪上大使と暫時面談してから、武官室に立ち廻った。補佐官室に入ると、徳永補佐官がつと立ち上がって私に目くばせしながら階下の応接室に誘った。・・・補佐官が声を潜めて私に漏らした内容は、私の予想とは別個の重大な内容であった。それは「日米交渉がいよいよ絶望状態に立ち至ったことと、開戦は12月上旬たるべきこと、田村武官の任務であり、私が補佐に任じているマレイ方面の工作は開戦と共にすべて南方軍総司令官寺内大将に引継がれ、更に同大将から第二十五軍司令官山下対象の区処下に工作を実施すること。私及び私のメンバーは南方軍総司令部に転属され、更に第二十五軍司令官のもとに派遣されてこれを担任することなどの予想であった。かねて予期していたところではあったが、現実にこのように最後の「断」のときが迫りつつあることを聞くと、名伏し難い興奮が全身を突っ走った。

 私は、即座に二つのことが思い浮んだ。その一つは、プ氏と早々活動の具体的方策を協議しなければならぬことであった。その二つは、開戦と同時にプ氏らIILメンバーと私達F機関のメンバーが如何にして南泰の戦機に間にあうように馳せ参ずるかということであった。私は、その場で徳永補佐官にダグラス一機の準備を要請して快諾を受けた。私はその夜、プ氏との会談を応急手配した。山口君が奔走して、三菱支店長の宿舎を借用するように交渉を遂げてくれた。新田支店長は心よく承諾してくれた。大田黒君がプ氏に本夜の会談を申し入れた。私の気のせいか、武官や補佐官の緊張が、自から武官室全体に反映して、この緊迫した空気と街を行く泰人や支那人の平和な気配とはそぐわない懸隔が感ぜられた。私達は今マレイ方面に対する活動を策しつつあるのだが、脚もとの泰の動向がどちらへ転ぶかわからないのだ。大使や武官の活動により、開戦にあたって泰国に日本軍の平和進駐を認めさせ得る見込みが次第に多くなったと見られていたが、複雑な泰国の政情にかんがみると、必ずしも信をおけるものではない。もし泰の動向が逆転でもしたら、日本人はことごとく拘留されるだろう。そうなると、私を始め私のメンバーは、ことごとくバンコックや南泰の監獄に押し込められて活動ができなくなる。私はそのことを予想すると気が気でなかった。
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2008年06月06日

F機関の理念と任務

日本民族の責務

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 われわれは毎夜のように深更までわれわれがいだくべき理念と任務達成の方策について語りあった。おたがいにこの時期が一番楽しかった。大東亜が戦場となった場合、日本の理想は、「アジアは一つなり」と叫んだ岡倉天心の遺訓に学び、相克対立を越えた共栄和楽の理想境をアジアに建設することにあらねばならない。そこに征服者の支配意識や勝者の驕りがあってはならない。
 大東亜各民族は、他民族のあらゆる支配と圧制から解放され、自由と平等の関係において、それぞれ各民族の政治的念願を成就し、文化の伝統を高揚して、東亜全体の福祉と向上とに寄与する一体観の平和境を造らねばならない。日本民族はその先達となる責務を負い、かつそれを実践しなければならない。各民族の信仰や風俗や習慣や生活はあくまで尊重しなければならない。われわれの主観的なものを強要するようなことは厳に慎まなければならない。われわれの運動はこの理想を指標として、私達の誠意と情熱と愛情とを、実践を通じて異民族に感得させ、その共鳴と共感を受けなければならない。

 英国やオランダの統治は一世紀内外にもわたっているし、巧妙な方策と豊富な物資を駆使して現地人を懐柔し縛っている。これに対して無経験なわれわれが、貧弱な陣容と不十分な準備とをもって、その鉄壁を破る方法はただ一つである。彼らの民族的念願を心から尊重し慕愛と誠心をもって臨み、その心を掴むよりほかはないのだ。至誠は天にも通ずるのだ。
 われわれの運動は、あくまでも日本のこの理念に共鳴する異民族同志の自主的運動を支援すね形において行わねばならない。少しでもわれわれの強制や干渉が加わったり、あるいは利用の観念や傀儡の印象を与えるようなことがあってはならない。術策を排し、誠実をもって任務に当たらねばならぬ。このわれわれの任務を達成するために最も重要なことは、マレイやスマトラや印度の各民族の同志が、それぞれ己の民族に対していだいている愛情と情熱と独立に対する犠牲的決意に劣らないものを、われわれがその民族に対して持たなければならない。・・・・
 作戦軍にこの趣旨の徹底を厳粛に要求しなければならない。われわれはこのような問題に関して、異民族と日本作戦軍との間に立って苦しい立場に立つことが多いことを予想されるが、勇気と信念をもってこの斡旋を完うしなければならない。更にいま一つ大切なことは、われわれのメンバーの融和と団結である。そして異民族の指導者や現地民が、自ら私達のメンバーの麗しい和合に感化されるように心がけねばならない。私は夜の会話にこのようなことを数々の例証を挙げて強調した。皆傾聴共鳴してくれた。
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2008年06月05日

F機関・深夜の密会

藤原氏とプリタムシン氏の密会

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はイッポーF機関本部でINA(インド国民軍)将兵とくつろぐ筆者
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引用開始
 時計は、約束の午後九時に十分前のところを指していた。物静かな路地の奥に目的の家があった。その家の軒先に一人の白布をまとった男が突立っていた。ぎょっとした二人が、素知らぬ素振りで行き過ぎようとした瞬間、件の男は、Yamashita と呼びとめた。われわれは彼がプ氏の案内人であることを知って安堵した。私は山下浩一と変名していた。初会の場で、プリタムシン氏にこの変名を名乗って置いたのである。
われわれは黙々として彼の後に従った。細い路地を入って漬物部屋のような異様な臭気のする納屋の二階に案内された。雑然とした物置の隅に、汚い小さな机と三脚の板張り椅子、縄張りの粗末な寝台が一つだけ備えてあった。そこには先日のプ氏が私を待っていた。待ち構えていたようにプ氏は例の合掌の挨拶ののち、私に握手の手を差し伸べた。プ氏は先ず「こんな汚いところに案内をして失礼を致します。しかし用心にはよい場所です。下に見張りを立ててありますから安心してお話し下さい。」と述べた。私は実のところ、あまりのむさ苦しさと異様な臭気とに閉口していたが、しいて「そんなご心配は無用です。こんな用心のよいところが見つかって何よりです」と答えて、彼の気苦労を解くことに努めた。・・・・・

 私は先ずプ氏からバンコックの印度人の情勢について次のようなことを聞いた。
バンコックにはIILの他に,泰印文化親善を標榜する印度人団体がある。この団体は比較的穏健な国民会議派系の思想団体であり、その中心人物はスワミイ(バンコック大学の教授)、ダース両氏である。この団体はドイツ大使館とも関係をもっているし、当地印度人の実業家の支援もあってIILに比しはるかに有力である。この団体は、シーク族を主体とするIILと反目的関係にあることなどであった。
この団体の指導者ダース氏は、サハイ氏らと共に日本において反英運動に関係していた人で、私は今年の春頃東京でサハイ氏と共に面接したことがある人である。私はダース氏の指導する文化団体とIILとの反目的関係は非常にデリケートな問題だと直感した。またこの反目の結果、IILの活動が暴露しやしないかと心配した。プ氏に両団体との提携の可能性を質したが、相入れない関係にあることが観察された。私は旧知であるダース氏の文化団体とは別個に接触したい魅力を感じないでもなかったが、このことはプ氏を初めIILメンバーによい感じを与えないことや、日本側とIILとの関係が暴露する恐れを感じたので、両者の提携は、いよいよ開戦と決ってから斡旋することがよいと思った。
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2008年06月03日

F機関IILと初の密会

IILプリタムシン氏との密会

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はイッポーF機関本部の庭で語り合う筆者とアグナム大尉、中央は大田黒通訳
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引用開始
 10月10日ごろ、私が理想と運命を盟約すべきIIL書記長プリタムシン氏との初の密会が実現した。武官の宿舎で正午から会うことになった。約束の時間に彼はサムローに身を託して武官の宿舎に着いた。私は彼と面会する武官の居屋で武官と共に恋人でも待つような興奮を抑えながら氏の入室を待っていた。ボーイに案内されて氏は静かに階段を上がってきた。私と武官は室の入口まで彼を出迎えた。たくましい体躯と相貌の志士を想像していた私は、痩躯長身、稍々神経質で病弱そうに見える、物静かで柔和なシーク族の青年を目の前にして、一瞬失望に似たものを覚えた。氏は日本人が神仏に祈りを捧げるときと同様、両掌を胸の前に合わせて、敬虔な祈りの挨拶をした。握手を予想していた私は又面くらった。室内に導いてから武官はプ氏に私をねんごろに紹介してくれた。彼はにこやかにさも久しい知己を見るようなまなざしを私に注ぎながら、「私がプリタムシンです。貴方のことは田村大佐から承って鶴首して今日の日を待っておりました。よろしくお願い致します」といいながら、私の手をしびれる程固く握りしめた。私は誠実と情熱と信頼とをこめた彼の挨拶に感動し、固い握手を返しつつ答えた。「私は貴方の崇高なる理想の実現に協力するため、私のすべてを捧げて協力する用意をもって参りました。それは至誠と情熱と情義と印度の自由が必ず実現されねばならないという信念であります。おたがいに誠心と信頼と情義をもって協力致しましょう」といった意味を述べた。田村大佐の通訳で私の言葉を聞き取った彼は、私のこの挨拶に非常に満足してくれたように見受けられた。

 次で相対坐した。私は真先に昨年の末に広東から送り届けた三人の同志の消息を尋ねた。彼はとみに感激の色を見せつつ「ああ、あの三人を送ってくださったのは貴方でしたか。同志は非常に日本参謀本部の友情を感激していました。厚くお礼申し上げます。彼らはそれぞれ計画どおりにマレイと印度とベルリンに潜行致しました。安心して下さい」と武官を顧みつつ感謝の意を表した。そして彼は「私と貴方が協力する立場になったのは、既にこのときから約束されていたのですね。われわれは既に古い同志なのでした」とうれしそうに語った。それから彼は初対面から打解けて、いろいろ彼らの政治運動に関する話を明らかにしてくれた。彼が1939年祖国における独立運動に伴う身辺の危険から脱して、シンガポールを経て、バンコックのアマールシン氏の許に身を寄せて、素志を継続しつつあることを語った。
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2008年06月02日

バンコック潜行

身分を秘してバンコック入り

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はF機関メンバー
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引用開始
 その日から身分を秘してバンコックに入る研究と手続きが始まった。私と山口中尉は参謀本部からの交渉で、バンコック日本大使館の嘱託ということになった。米村少尉はタイランドホテル(日本人経営)のボーイということに。土持大尉は大南公司の社員に、中宮中尉は日高洋行の社員に、滝村軍曹は武官室書記に手配された。石川君はのちほど追及することになり、私と山口中尉がまず29日の飛行機で先発することになった。
 9月20日、私は門松中佐の紹介で増渕佐平という一紳士に引き合わされた。もう60歳にも近く、見るからに温厚でいかにも円熟した紳士で、私には慈父を見る思いがした。・・・・
 私は当時33歳であった。その他の将校はいずれも25歳に満たない若い人達であった。・・・・
 大使館差廻しの自動車で、私はタイランドホテルに落ち着いた。日本人経営のホテルで、止宿人も日本人ばかりであった。言葉のできない私はほっとした。しかし反面、顔見知りの日本人にでも出くわしたら、身分がばれてしまうことを恐れて気が気でなかった。食道にも娯楽室にも出ずに、自室に引きこもることにした。翌早朝、自動車を呼んで私は武官の宿舎に急いだ。・・・・

 食後武官の居室に案内された。大佐は私の差出した参謀長の訓令を熟読したのち、おもむろに口を開いた。
君は私のもとでIILとの連絡、田代氏の担任している華僑工作と神本氏の担任しているハリマオ工作の指導を補佐してもらう。しかし諜報に関することは補佐官(飯野中佐――陸大同期生)が直接担任する.差当りはバンコックの雰囲気になれるように当地の情勢を観察することだ。近日IILのプリタムシン氏に引き合わせよう。また南泰にいる田代、神本両氏を招致して合わせるように手配しよう。
 想察に難くないことと思うがバンコックは英・米・支・独の諜報戦の焦点でもあるし、日本側からも色々の軍官民が入り込んで、政治工作に、情報に、資源獲得に必死の活動を展開している。
 泰国政府は列国の策動対してきわめて神経過敏になっている。その政府要人の中にも親英派があって、その動向は微妙そのものである。日本側の策動に対しても、厳しい偵諜の眼を光らせている。もし君の仕事がばれたら、この仕事自体が駄目になるばかりではない。日本の作戦準備が暴露するし、泰国の親日動向を逆転させてしまうなど、由々しい結果を招く恐れがある。防諜に特に注意しなければならない。
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posted by 小楠 at 07:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物

2008年05月30日

IILとハリマオ

武官室の密談

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はビルマ軍司令部前で馬上の筆者
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引用開始
 バンコック日本武官室の二階の一室で田村大佐と門松中佐が対座して密談が続いていた。・・・・初めて体験するこのバンコックの熱気も忘れ、田村大佐の報告に全神経を集中し、その要旨をメモしながら時々反問する中佐の面には明らかに希望が輝き、武官に対する感謝の念が動いていた。一体中佐は田村武官からいかなる方策を拾いつつあるのであろうか。中佐は三つの新しい工作の端緒を発見し得たのである。・・・・
 その一つは、先に紹介したIILであった。その二つは「マレイのハリマオ」と称するものであった。それはマレイの東岸トレンガンに居住していた谷豊なるものの異名である。ハリマオというのはマレイ語「虎」という意味であった。彼の一家は明治の末からトレンガンに居住し、理髪業で糊口をしのいでいたが、日支事変の当初、この地に華僑の排日運動が激しかったころ、その襲撃を受けて妹静子(六歳)が拉致されて無惨に殺された。彼はそのころから素行が急変し、マレイ人の無頼の徒に加わって匪賊行動にはしるようになった。彼は大胆、変幻自在の巧妙な行動と、マレイ人の子分に対する義侠的態度によって彼らの頭目となり、三千人に上る部下をもっている。目下英官憲に追われて南泰に潜伏しているが、ここでも地方泰人の信望を集めている。・・・

 マレイに対する諜報に価値があるだけでなく、有事の日にはマレイ人に対する宣伝、英軍に対する謀略に大きな役割を果し得るだろうというのであった。その三つは先に門松中佐が東京から南泰に派遣していた田代重遠氏(佐賀県出身、実名は岩田氏、中学卒業と共に図南の志に燃えて、南方に進出し、シンガポールに長年居住し華僑事情に明るく、また知己が多いという話であった)を通じ、シンガポールの華僑特に埠頭苦力を反英運動に決起し得る見込みがあるということであった。スマトラ・ジャワに対する有効な手がかりは全くなかった。中佐は田村大佐に、この工作のため速急に適当な将校と必要な経費を手配する約束をして東京に帰ってきた。・・・・
 九月十日(1941年)の午後、門松中佐は私を自分の席に呼び寄せていつになく改まった重い口調で、思いもよらない事を宣告した。いわく「貴官には近日バンコックに行ってもらわねばならぬ。その仕事は田村大佐を補佐してマレイ方面に対する工作の準備に当ってもらうことになる。もしこの情勢が悪化して日英戦争が始まるようなことになれば、貴官は近く編成される南方総軍参謀に補佐せられたうえ、もっぱらマレイ方面の工作を担任することとなる予定である。数名の将校をつける予定だ」と。そして彼がバンコックで田村大佐から得た情報の内容をかいつまんで説明してくれた。
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posted by 小楠 at 07:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物