2008年06月25日

ハリマオの母の手紙

シンガポール大英帝国の降伏

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 ランプールから本部のFメンバーの全員が到着していた。神本君が沈痛な面持で私を待っていた。ハリマオ(谷君)が1月下旬ゲマス付近に潜入して活躍中、マラリヤが再発して重態だという報告であった。ハリマオはゲマス付近の英軍の後方に進出して機関車の転覆、電話線の切断、マレイ人義勇兵に対する宣伝に活躍中、マラリヤを再発しながら無理をおしていたのが悪かったのだという説明であった。私は神本君になるべく早くジョホールの陸軍病院に移して看護に付き添ってやるように命じた。
 一人として大切でない部下はない。しかし、分けてハリマオは、同君の数奇な過去の運命とこのたびの悲壮な御奉公とを思うと何としても病気で殺したくなかった。敵弾に倒れるなら私もあきらめきれるけれども、病死させたのではあきらめ切れない。私は無理なことを神本氏に命じた。「絶対に病死させるな」と。私は懐に大切に暖めていたハリマオのお母さんの手紙を神本君に手渡した。そして読んで聞かせてやってくれと頼んだ。この手紙は、大本営の参謀からイッポ―で受け取ったのであった。

 手紙は、ハリマオの姉さんが達筆で代筆されていた。手紙には、ハリマオが待ち焦がれていた内容が胸が熱くなるほど優しい情愛とりりしい激励とをこめて綿々と綴られていた。
「豊さん、お手紙を拝見してうれし泣きに泣きました。何遍も何遍も拝見致しました。真人間、正しい日本人に生まれ変わって、お国のために捧げて働いて下さるとの御決心、母も姉も夢かと思うほどうれしく思います。母もこれで肩身が広くなりました。許すどころか、両手を合わせて拝みます。どうか立派なお手柄を樹てて下さい。母を始め家内一同達者です。毎日、神様に豊さんの武運長久をお祈りします。母のこと家のことはちっとも心配せずに存分に御奉公して下さい」という文意が盛られていた。まだF機関ができる前の昨年四月以来、ハリマオと一心同体となって敵中に活動し続けてきた神本君、ことに情義に厚い熱血漢、神本君はこの手紙をひ見してハラハラと涙を流した。「この手紙を見せたらハリマオも元気がでるでしょう。必ず治して見せます」といって、ゲマスに向って出発して行った。・・・・

 14日の夜は終夜にわたって激戦が続いた。15日の朝になってもこの状況は変わらなかった。負傷者が戦車に収容されて続々と後退してきた。日本軍第十八師団はケッペルスの兵営と標高150mの丘を占領し、第五師団も墓地を奪取した。近衛師団は、シンガポールの市街の東側に侵入してカランの飛行場占領に成功した。日本軍の飛行機はピストンのようにクルアンの飛行場から爆弾を抱いて英軍陣地にたたき込んだ、英軍の抵抗は頑強をきわめた。よくもこれだけ弾丸が続くものだ。銃身も砲身もよくも裂けないものだと思われるほど英軍の射撃は猛烈をきわめた。
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2008年06月24日

シンガポール総攻撃

英印度兵が続々投降、INAに参加

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 マレイ半島とシンガポールの島をつなぐただ一本の陸橋は、英軍の手によって破壊されてしまった。
 制海、制空権を失ったこの島の英軍は、全く孤立にも等しかった。この島の防備は島の東方にあるチャンギー要塞と市街の西側にあるブラカンマティの要塞によって骨組まれていた。東および南の海正面に対しては不落を誇る厳しい備えを持っていたが、北のマレイ半島に対する陸正面の防備は手薄のようであった。日本軍はこの島によっている英軍の勢力を三万と推定していた。
 これに立ち向かう日本軍の総勢力は、鉄道や補給部隊まで加算して五万内外であった。前線で戦闘する兵員の数は二万にもおよばなかったであろう。第五、第十八、近衛の三つの師団があったけれども、完全な師団は第五師団だけであった。そのほかに、戦車連隊が二個と、重砲兵連隊が三個あった。第十八師団以外は、いずれの部隊もマレイ半島で数度の激戦で相当ひどい損害を被っていたが、士気は天に誅する勢いであった。

 百四十機の航空部隊は日本軍のために絶対の強みであった。
 山下将軍は巧妙な陽動によって日本軍がセレタの方面から攻撃するように見せかけて、英軍をこの正面に牽制しつつ、陸橋より西の正面を攻撃する戦術をとった。2月7日には近衛師団をジョホールの東方に行動させ2月8日の未明にそのほんの一部の部隊をもってウビン島を攻略させた。軍砲兵の主力は、この正面の為陣地からセレタの敵陣地を砲撃した。こうして、英軍が陸橋の東正面に注意をひかれている隙を狙って、2月8日二四○○を期して、陸橋の西の正面から軍主力は一斉に渡河を開始し、テンガ飛行場を目指して殺到した。陽動に任じていた近衛師団も翌9日の夜、陸橋の直ぐ西側正面で渡河してマダイの高地に突進した。北から攻撃する日本軍に対してブキテマ、マダイの高地線は、英軍のためにシンガポールの運命を決する戦術上の要線であった。ブキテマ高地に上るとシンガポールの町は指呼の間にあったし、シンガポール百万市民の死命を制する水源地は、マダイ高地の南側に横たわっていた。

 日本軍は、英軍がこの要線で組織的抵抗を試みる前に、一気にこの要線を奪取する計画をもって遮二無二攻撃を急いだ。
 2月10日の朝、私はジョホールの王宮に到着し、砲兵の観測所となった高塔に上った。2月8日以来、日本軍砲爆撃のためにセレタやブキバンジャンの数十本の重油タンクが燃えさかって、捲き起る黒煙が空をおおい、また遠くシンガポールの市街方面にも幾十条の黒煙が吹き上がっていた。黒煙と青空の接際部を縫って乱舞する数十機の日本軍の飛行機に対して、数百門に上る英軍高射砲が必死の反撃を試みていた。彼我の砲撃が殷殷として天地を震撼し、シンガポールはとてもこの世のものとは思えないほど、凄絶な煉獄の形相を呈していた。
 私は直ちに渡河作業隊の舟艇に移乗して、テンガ飛行場付近の山下将軍の戦闘指揮所に向った。・・・・・
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2008年06月23日

日本軍とINAの協働

日本軍の態度に感激したINA

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 クアラルンプールを占領直後、第三飛行団司令部が前進してきた。私は米村少尉を司令部に派して「リビス」における少数将兵の不心得なる事件を通報して善処願った。その翌日遠藤少将の副官が一少尉を伴ってF機関の本部を訪ねてきた。その少尉がリビス事件の責任者であった。遠藤少将は直ちにこの将校を処罰したうえ、遠藤少将の代表として副官が、責任者を帯同して、私およびモ大尉に陳謝し、かつ品物を返還するという申出であった。
 私は遠藤少将の処置に感激して、直ちにモ大尉にこれを取次ぎ、私も共に陳謝の意を述べた。モ大尉は遠藤少将のこの正々堂々たる処置に全く感動し恐縮してしまった。
戦場において、このような一部将兵の不心得は、どの国の軍隊にもあることです。そしてこれ位のことに勝者の将軍が、捕虜の下級の将兵に丁寧に謝意を述べるなどということは例のないことです。私および私の将兵は、日本軍のこの正しく美しい行為によって日本軍に対する敬愛と信頼とをどんなに強めることでしょう。また、われわれINAの軍紀を自粛せしめる上に計り知れない感化があるでしょう。」と語った。なお私に、こっそりと「あの少尉は将軍からどんな処罰を受けたのでしょうか。重処罰ではないでしょうか。将軍に少尉を罰しないようにお願いして下さい」と申し出た。

 私はモ大尉のこの意向と思いやりを伝えた。副官も非常に喜んでくれた。たまたま懇談の際に、一番大事なクアラルンプールの飛行場が英軍の破壊と日本軍の爆撃とで使用困難な状況にあって、差迫りつつある戦況にかんがみて、当惑しているという話が出た。副官の当惑顔の話に気付いたモ大尉は、「今の話はなにか」と尋ね顔であったので、私からこの話を説明した。モ大尉は即座に「それでは直ちにINAがお手伝いを致しましょう」と申出でた。
 モ大尉のこの申出を遠藤少将は非常に喜んでくれた。まず中宮中尉が司令部を訪問して印度兵の風俗や習慣や、またINAのことについて司令部や飛行場勤務の将校に詳しく説明して、その理解と尊重を希望した。更に当初は毎日数少ないFメンバーから一名を割いて、日本軍との連絡に当たらせることとした。翌日から毎日1000名以上のINA部隊が飛行場の作業援助に出た。規則正しく、朝の九時から午後四時まで熱心に作業に従事した。飛行場部隊の日本軍将校と印度兵はたちまち大の仲好しになってしまった。能率はぐんぐん上がった。一つの些細なトラブルも起きなかった。遠藤少将は印度兵の労をねぎらうために、金や食料品や日用品などを寄贈して皆を喜ばせた。このINAの協力によって一週間ほどの間に飛行場は使用できるようになった。作業に出たINAの将兵は遠藤少将を敬愛した。作業が完成した日、遠藤少将に敬意を表するため、INA将兵は飛行場で分列式をやって少将をいたく喜ばせた。・・・・
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2008年06月20日

ハリマオとの初会見

ハリマオの母親宛ての手紙

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 1月7日からトロラック、スリム地域の英軍陣地に対する総攻撃が予定された。その前日私は石川君を伴って自ら戦線に進出した。戦線におけるF機関やINA、IIL宣伝班の活動を親しく激励し、その活動成果を確認するためであった。私がカンパルの村に到着したとき、村の入口に米村少尉を発見した。少尉は両手を広げて私の車を停めた。少尉は私の車に走り寄って「機関長殿。谷(ハリマオ)君が中央山系を突破してカンパル英軍陣地の背後に進出して活動していました。谷君は次の行動に出発する前に、機関長殿に一目おめにかかりたいと申しますので、いまからイッポ―の本部まで急ごうと思ってここまできたところです」と訴えた。その態度は遠い異国に苦難の長い旅路の途中、一目父にと願う弟を、案内して来た兄のようであった。眼は連夜の活動で充血していた。頬もこけていた。私は米村君の申出に驚きかつ喜んだ。「なに谷君が待っているか。おれも会いたかった。どこだ谷君は」と急き込んで車から降りた。少尉は私を本道から離れた民家に案内した。そうだ、私は重い使命を負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである。・・・・

 そうだ、開戦も間近の11月上旬ごろであったろうか、谷君がたどたどしい片仮名文字で綴った一通の開封の手紙をバンコックの田村大佐のもとに託してきたことがあった。この手紙を彼の郷里、九州の飯塚にある慈母のもとに、届けてくれという申出であった。神本君が仮名文字を教え、手をとって綴らせた手紙であろう。谷君は生後一年の幼い頃から異境に育って、目に一丁字も解することのできない気の毒な日本人であった。昭和16年4月、神本君が南泰で同君に接触以来、片仮名を教えていることを聞いていた。諜報の成果を報告させるために。

その手紙には
 お母さん。豊の長い間の不幸を許して下さい。豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配致しております。お母さん! 日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。豊は日本参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くことになりました。お母さん喜んで下さい。豊は真の日本男子として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。
 豊は近いうちに単身英軍のなかに入って行ってマレイ人を味方にして思う存分働きます。生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。お母さん! 豊が死ぬ前にたった一言! いままでの親不孝を許す。お国のためにしっかり働けとお励まし下さい。お母さん! どうかこの豊のこの願いを聞き届けて下さい。そうしてお母さん! 長く長くお達者にお暮らし下さい。お姉さんにもよろしく。
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2008年06月17日

インド国民軍の誕生

F機関とモハンシン大尉の決起

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はINA幹部、左からモハンシン将軍、ギル中佐、アグナム大尉
Forg09.jpg

引用開始
 昭和16年の年の瀬、12月31日も日没となった頃、アロルスターからモ大尉が予告もなく突然訪ねて来た。・・・・
 モ大尉はおもむろに口を開いて、「われわれ将兵は数次の慎重なる協議の後、次に述べる条件が日本軍によって容認されることを前提として、全員一致、祖国の解放と自由獲得のため決起する決意を固めました。ついては、次のような取り決めが、日本側から快諾されることを希望します」と語った。モ大尉から提言された内容は、
「(1)モ大尉は印度国民軍(INA)の編成に着手する。(2)これに対して日本軍は全幅の支援を供与する。(3)INAとIILは差当り協力関係とする。(4)日本軍は印度兵捕虜の指導をモ大尉に委任する。(5)日本軍は印度兵捕虜を友情をもって遇し、INAに参加を希望するものは解放する。(6)INAは日本軍と同盟関係の友軍と見做す」等々の条件であった。私はモ大尉のこの決意と申出は、個人としては直ちに賛同し得るものがあった。しかし、きわめて重大な問題であり、軍司令官の意向を確認する必要があるので即答を保留した。・・・・

 モ大尉の要望事項の一つ「同盟国軍に準じてINAを処遇する」問題については、公的な正式取決めは、現段階においては技術的に困難が伴うので、差当り実質的に希望に応ずることとして諒解に達した。INAの結成については、健全な育成に達するまで、差当り公表を見合すことに意見が一致した。モ大尉はINA本部を編成して、近日イッポ―に前進することとなった。
 私とモ大尉の討議が完全なる諒解に達したので、私は直ちに山下将軍の司令部に鈴木参謀長と杉田参謀を訪問して、モ大尉の申出を報告し、私とモ大尉と討議の経緯を説明した。鈴木参謀長は同盟国軍として正式に取り決めることについては、私と同様の見解を明らかにしたのち、モ大尉の提案を容認し、山下将軍の認可を受けた。私はこの機会に、更にYMA副会長オナム氏やスマトラ青年サイドアブバカル君との接触についても詳細に報告した。鈴木参謀長、杉田参謀はこの接触の成功も非常に喜んでくれた。
 私は急いで本部に引き返し、山下軍司令部のこの意向をプ氏とモ大尉に通告した。
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2008年06月16日

ペナンのIIL結成大会

ペナン島の印度人代表ラガバン氏

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 プ氏と私は三日間の予定をもってピナン(ペナン)に向かった。この地に詳しい鈴木氏が私達の自動車を操縦して案内に当った。われわれの本部は、この間にタイピンに躍進するように命じた。バタワースの対岸からながめたピナン(ペナン)は絵のように美しかった。六甲を背景とする祖国の神戸をしのばせるものがあった。・・・・
 海岸の豪壮なオリエンタルホテルが、日本軍軍政機関の臨時の本部に当てられていた。英軍のために危うく印度へ連行される運命を免れ、監獄から印度人やマレイ人に救出される幸運を拾った日本人たちでにぎわっていた。・・・・
 翌日午前プ氏の使いの案内を受けて、晴れのIIL結成大会場に臨んだ。広い会場は一万を越える印度人の大衆に埋められ、数流の印度国旗が浜風にはためいていた。プ氏と私はこの大衆の全視線に迎えられつつ正面の定めの席に導かれた。サリーという純白の印度服をまとった小柄な紳士が静かに進み出て、慇懃に握手の手を差し伸べた。大田黒氏の通訳を介して、この島の印度人代表ローヤル・ラガバン氏であることを知った。私は氏と対面のこの一瞬に、英知と慈愛と熱情を象徴する両眼、深い思慮と重厚な徳を示す、うるみを帯びた口調、謙虚な徳と清純沈静な風格を示す物腰など一見して氏は最高度の教養を身につけた衆望の紳士であることがうかがわれた。氏についで、ラガバン氏の縁者のメノン氏を紹介された。親しみ深い温厚な紳士であった。一同が席についてから、先ずプ氏が演壇に立って熱弁を振った。

 プ氏はIILの目的や運動の経緯を語ったのち、アロルスターやスンゲイバタニ―において、IILの下に保護されつつある印度兵捕虜や住民の幸福な状況を説明し、更に近き日にそれらの印度人有志をもって印度独立義勇軍を結成し、祖国の桎梏を断ち切らんとする烈々たる決意を強調した。満場の大衆は熱狂歓呼してこれに応えた。プ氏に次いで私は壇上に送られた。アロルスターの大会と同様の趣旨を強調したのち、将来印度独立義勇軍が祖国解放の遠征にのぼる時来たらば、日本軍もまた旗鼓相和して支援すべき抱負を述べた。
 最後にラバガン氏が起って、荘重なうるみのある声調をもって切々たる雄弁を試み満場の大衆を捉えた。特に日本軍が印度の解放に協力し、またIILを支援してマレイの印度人と印度兵捕虜を保護しつつある友情に対して、満腔の感謝を述べた。また祖国の解放と自由の獲得こそ、全印度人の念願であり、すべての印度人は祖国解放の闘いに殉ぜんとする愛国の熱情を蔵していることを強調し、IIL運動に対して全幅の支援と協力の用意を力説した。大会は大衆一致の共鳴を受けて終了した。大衆はこぞってIILに参加し、IILの運動と印度兵捕虜救恤のため、献金を申し出で、尊い献金が積まれた。
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2008年06月13日

山下将軍との面接

インド人のボース氏への敬慕

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はシンガポール攻防戦で英軍の無条件降伏時の山下将軍
Forg07.jpg

引用開始
 17日正午、私はF機関と、IILのメンバーと、モ大尉グループの印度人将校、下士官全員合同の会食を計画した。食事は印度兵の好む印度料理を希望し、印度兵諸君の手料理をモ大尉に依頼した。その準備で警察署の裏庭は朝からごった返した。・・・・私が単に親善の一助にもと思って何心なく催したこの計画は、印度人将校の間に驚くべき深刻な感激を呼んだ。モ大尉は起って「戦勝軍の要職にある日本軍参謀が、一昨日投降したばかりの敗戦軍の印度兵捕虜、それも下士官まで加えて、同じ食卓で印度料理の会食をするなどいうことは、英軍のなかではなにびとも夢想だにできないことであった。英軍の中では同じ部隊の戦友でありながら、英人将校が印度兵と食を共にしたことはなかった。印度人将校の熱意にも拘わらず、将校集会所で、時に印度料理を用いてほしいと願うわれわれの提案さえ容れられなかった。藤原少佐の、この敵味方、勝者敗者、民族の相違を超えた、温かい催しこそは、一昨日来われわれに示されつつある友愛の実践と共に、日本の印度に対する誠意の千万言にも優る実証である。印度兵一同の感激は表現の言葉もないほどである。今日の料理と設備は藤原少佐の折角の依頼にも拘わらずこんな状況下における突然の催しであったため、きわめて不十分な点を御寛容願いたいといったような趣旨のテーブルスピーチをやった。

 私は、ボース氏を思慕するモ大尉の念願に対して、率直にボース氏を今直ぐ東亜に迎えることは困難と思われるから、差当り東亜におけるIILのこの運動を発展させ、ヨーロッパにおけるボース氏の大事業と相呼応させて、印度の独立運動を世界的規模において、推進する着想をひれきした。モ大尉の念願を大本営を通じてボース氏に連絡すべきことをを約し、モ大尉始め印度の青年が奮起して第二、第三のボースとなることを激励した。
 五日間の会談ののち、モ大尉は祖国の解放運動に挺身する決意に近づきつつあるように見えた。しかし、日本の誠意を更に確認すること、祖国の同胞特に会議派の支持を得ること、同僚印度人全将兵の堅確なる同意を得ることなどについて、更に慎重なる研究、検討の必要を認めている様子であった。私も又革命軍を結成して、革命闘争に立ち上るというような重大な事柄を、一朝の思いつきや感動にかられて決心しても成功するものではないと思った。モ大尉を始め印度将兵が全員一致、不抜の信念を固め、自発的に展開するものでなければ、絶対に成功するものではないと信じ、私はモ大尉に急ぐことなく慎重に熟慮されんことを切望した。プ氏も私と同意見であった。
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2008年06月12日

モハンシン大尉

投降勧告

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 プ氏が数名のシーク人を伴って私の部屋に訪ねてきて,きわめて重要な情報をもたらした。プ氏の言によると、同行の印度人はこの近郊にゴム園を経営している裕福な識者で、かねがねプ氏と気脈を通じている者だということであった。もたらした情報というのは、一昨日のジットラー付近の戦闘で退路を失った英印軍の一大隊が密林沿いに退路を求めて昨日アロルスター東方三十哩のタニンコに脱出してきた。しかし既に将兵は疲労困憊かつ日本軍のアロルスター占領のことを知るに及んで退路を失い、士気喪失しつつある。その大隊は大隊長だけが英人中佐で、中隊長以下全員印度人である。その印度人は昨夜来、かわるがわるこの印度人のエステートに来て色々情報を集めたり、ラジオの戦況放送を聞いたりしている。園主がこの微妙な彼らの心理状態を看破して、真珠湾やマレイ沖航空戦の状況と、アロルスター方面英軍の敗走振りを誇張したり、IILの宣伝を試みたところ将兵の微妙な心理的反応を見てとり、帰順工作が成功するかも知れないとのことであった。・・・・

 この情報を日本軍司令部に報告することを禁じた。日本軍が掃蕩部隊を派遣することを恐れたからである。私はこの信念に徹底するために、明朝は土持大尉と大田黒通訳だけを同行し、しかも身に寸鉄をも帯びないこととした。・・・・
 エステートに着くと、私は車中の思案通り英人大隊長との会見を提案した。プ氏も園主も一寸意外の面持ちであった。しかし私は私達と印度人将校との直接交渉により、件の大隊印度人将兵と英人大隊長との間に誤解が生じて、不必要な悲創を起したり、あるいは大隊長がそのために態度が硬化する始末になることを懸念したからである。・・・・
 私は日本軍代表藤原少佐の名において、簡単に件の大隊が当面している絶望的状況ならびに誠意をもっての投降交渉に応ずる当方の用意を述べ、このエステートにおいて直ちに会見したい旨の信書を認めた。その手紙とともに、私は単独無武装であるが、大隊長は所要の護衛兵を帯同してもさしつかえないことを使者に付言させた。・・・
間もなく自動車で大隊長が現れた。一名の伝令を伴っているだけであった。私は一見既に交渉の成功を確信することができた。私は自動車のもとまで歩を運んで、大隊長を迎え握手の手を差しのべ名を名乗った。・・・
私は自ら大隊長を休憩所に案内して椅子を与え温かいコーヒーを勧めた。大隊長の安堵の色を認めてから、私はおもむろに来意を語った。・・・・
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