2007年09月19日

中共のチベット侵略9

共産軍による民族抹殺・文化の破壊

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜、粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はつるし上げされる前カム省長ハル・シャペ
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引用開始
1959年6月、約二万人がインドに脱出した。それも法王と一緒に生きてゆくのだという思いの人びとばかりだった。法王は大きな精神的支柱であった。人びとは死中に活を見出したのである。後から後からと押し寄せる中共の“改革”という大波に呑み込まれないで済んだからだ。
 1959年以前六千あった僧院は1960年にはわずか三百七十にまで激減した。
 中共は僧院制度を破壊したばかりか、チベット文化の根幹、チベット人全体の息の根を止めるようなやり方を推し進めた。一切の私有地は没収され、底辺チベット民衆に分け与えられた。といえばいかにも徹底した平等主義の実践のように聞えるが、中共はチベットの新しい土地所有者を“改革”以前より一層の貧困状態に捨ておいたまま、土地からの収穫物は飢えた本土の中国人に向けて輸出したのである。中共は貧富の差をなくしたと嘯いたが、現実はチベットの誰もが一層の飢えに晒されたに過ぎない。・・・・・

 中国本土から漢民族の移民が増大し、チベット人は自国にあって少数民族になってしまった。タムジン(公開懲罰)で有罪とされた人々は牢獄に入れられ、実にしばしば計画的飢餓、遺棄、病気の放置などで生命を奪われていった。新企画の拷問、殺人が導入され、銃の台尻で頭蓋骨を打ち砕かれたり、鉄箸で眼球を抉り出されたりした。僧侶は毛布でぐるぐる巻きにされ、灯油をかけられて焼き殺されていった。公開去勢や、バーベキュー用棒杭にくくりつけて焼く、尼僧を素っ裸にしてむりやり性交させる、というのもあった。特に中共軍兵士の間で人気があったのは、チベット人を“文明化”“浄化”すると称する兵士たちによる集団レイプであった。彼らはそれを“地上の楽園”と称して楽しんだ。・・・
“地上の楽園”のもう一つはラサ人口の四分の一に当る一万人市民の投獄である。その中で最も有名だった囚人の一人は、1950年中共侵略の直前、アポによって更迭されたカム省長ハル・シャペである。彼はそれまでずっと中共の侵略に抵抗しつづけていた。
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2007年09月18日

中共のチベット侵略8

大嘘報道は共産党の常道

国民党も共産党も、世界に向けては平気で嘘八百を報道してきました。日本はこの中国の嘘をその時々に徹底否定してこなかったことで、未だにその嘘が政治の道具に使われています。
ところで、今回の総裁選について、突然出できた福田氏の優勢報道は、マスコミの国民誘導であり、演説会などでの支持は圧倒的に麻生氏であったことをジャーナリスト水間政憲氏戸井田とおる議員がアピールしています。
マスコミの世論誘導も共産党の虚偽報道も、国民には正確な判断をできなくさせる思想統制という点で瓜二つです。強大な権力を利用する本当に卑劣な手法です、議員の金の問題どころではない巨悪です。注意しましょう。

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真は1959年ラサ反乱で逮捕される2人のチベット人官吏
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引用開始
 ラサの反乱は二日間続いた。肉弾戦がいたる所で繰り広げられた。・・・
 しかし22日(1959年3月)の朝には戦局は中共側に傾いていった。圧倒的な兵力と火器、絶え間ない砲撃と相まって、チベット側は食糧、弾薬ともに底を尽き始めていた。
 ノルブリンカに残っていたわずかなチベット抵抗軍は今や徹底的に叩き潰された。屍体は山と築かれ、動けない重傷者は仲間が止めをさしていった、という。悪臭は耐え難く、もはや人間のいる場所ではなくなっていた。ポタラもついに陥落した。三つの僧院は見る影もなくなっていた。“鉄の丘”の医学校は文字通り跡形もなくなっていた。
 残る最後の砦はジョカン寺だった。今やこれまでと押し寄せる信者の群で境内、寺院の隅々まで埋められていった。人々は建物の周りを次第に広がる台風の目のようにぐるぐると回り始めた。“チョラの勤行”が始まったのだ。その数は優に一万人を超え、中共軍にとっては悪夢のようであった。戦火が収まっても、人びとを無事町の外へ連れ出すには二日はかかったであろうと彼らは踏んでいたという。
 しかし相手はそんなに甘くはない。夜明けとともにジョカン寺の美しく飾られた屋根に銃弾が雨霰と降り注いだ。寺院の前に屯していた群衆は機関銃で薙ぎ倒され、カンパ軍も機銃と騎馬隊で応戦した。三時間の激闘の末、双方におびただしい死傷者が出、ついに昼頃になって轟音を響かせながら戦車が登場した。戦車は一度も止まることなく、ジョカン寺の大門を押し倒し、人間を轢き潰し、内庭で急停止した。こうなることは初めから分かっていたが、“ジョホ・リンポチェ――大仏”の目の前でそれがついに現実となってしまった。
 その後、何万人ものチベット人が捕えられ、男女、子供の屍体が道路を埋め尽した。
 マッカーシーによれば(『蓮華の涙』)、無差別攻撃後、中共軍は屍体の中にダライ・ラマがいるかどうか探して回り、負傷者はその場で射殺、死にかけている者は放置したまま調査をつづけた。中共はもちろんこの国民的蜂起を一部地域の騒動に過ぎぬとごまかし、北京は一人のチベット人も死ななかったと嘯いた。それどころか、“解放”された市民は大喜びし、出遭った中国人にカタを差し出し笑顔で迎えて“チュシデライ――おめでとう”と声をかけたと報じた(「北京レビュー」1959年5月5日号)。・・・・
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2007年09月17日

中共のチベット侵略7

ダライ・ラマのラサ脱出

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜、粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はポタラ宮殿の麓で中共に抗議するチベット国民
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引用開始
 1955年3月17日,ノルブリンカの庭に砲弾が炸裂したのと同時刻、「ラサの騒動に関するニュースはまったく当てにならない。チベット問題はむしろ人びとの心と心の衝突であり、武力衝突ではない」などとネール首相はインド議会で喋っていた。彼の答弁は翌日、内外の新聞を飾った。が、それがネールのチベットに関する嘘っぱちの最後となった。三日後の3月20日、中共軍の大砲はラサのど真ん中にあったインド領事館を吹き飛ばしたのである。
 一方、3月17日の脱出組は幾つかに分かれて出発した。第一陣は法王の母、末弟のテンジン・チョイギャルと姉のツェリン・ドルマ。・・・第二陣は上級職員のグループで、防水布で覆われたトラックに分乗し脱出した。最後はダライ・ラマ、パーラ侍従長、僧院長、法王の義兄の親衛隊長クスン・デポン一行だ。・・・・ダライ・ラマは国璽をしっかりと握ったまま出発の準備を調えた。・・・・
 歴史家の中にはダライ・ラマのラサ脱出を計画し、実際に手を貸したのはCIAだという者がいるが、ロジャー・マッカーシーは強硬に否定する。それが真実でないからというだけでなく、もっと大事なこと、あの最も困難な、中共を騙し通すという離れ業をやってのけたのがチベット人なのだと主張した。・・・・

 チベット軍兵士だったキルティ・ルンドプ。彼のいた軍は何年か前に解散させられたため、ミマン(チベット語で“人民代表”の意。反中共活動組織)に加わっていた。
「ラサ市民は自分たちの無知に気づき始めていた。この何年かミマンはラサ市民に、中共に協力していればいつか必ずチベット全土を破滅させられると警告しつづけてきた。今やっと人びとはその意味を理解してくれた。法王の行方が分からないのが一番の理由であった。法王なしではラサ市民も他のチベット人と少しも変らないからだ。以前、彼らはカンパやアムド、ゴロク族たちを見下していたが、今になって同胞たちがどんな道を歩いてきたのかを知ったのだ」と彼は語った。・・・・
 中共側とてダライ・ラマの消息がつかめないでいらいらしていた。譚将軍は外国領事館に逃げ込んだのかもしれぬと、インド、ブータン、ネパール領事館に家宅捜索を申込んだが、体よく断られた。・・・・
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2007年09月15日

中共のチベット侵略6

中共、約束事の大嘘

 福田氏の首相就任が優勢のようですが、安倍政権は政策の批判で倒れたのではありません。にもかかわらず、安倍氏とは正反対のような政策を打ち出すであろう福田氏を担ぎだす自民の面々は、政策無視、自己の権勢欲のための福田支持であることは明白でしょう。保守派国民の意志とはかけ離れた擁立ではないでしょうか。福田政権成立後の内閣支持率では、国民の中の真の保守勢力からの支持は大幅に減るように思えます。
 勿論このような選択をする自民党への支持も同様でしょう。
早い機会に政界再編の動きが活発化することを祈るのみです。

星野仙一氏のオンライン・レポートにいい記事がありましたのでリンクしておきます。

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はリタンのカンパ戦士
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引用開始
 1956年は、中共の約束事が耳をかす値打ちもない大嘘だったことがはっきりしたという点で、チベット人にとって忘れられない年だった。民主的改革? 土地改革? 援助? 進歩? それらはすべて暴力、脅迫、飢餓、死、にいい換えてみればずっと分かり易い。それが中共の共産主義への道だった。チベットを乗っ取り、完全にわが物にするのが中共側の目的だったのだ。これが毛沢東のいう「大家族の一員としてチベットを抱擁する」という意味であった。
 カム、アムド、ゴロク、どこの村でも中共の虐殺を経験しており、抵抗の狼煙を最初に上げたのは自分たちの村だったというだろう。誰も間違ってはいなかった。ほんの数週間のうちに東チベットの抵抗勢力は吹き荒れる嵐となって広がったのだ。

人類の敵共産党の非道
 中共側も負けてはいない。妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。特に尊敬されている僧たちは狙いうちされ、尼僧と性交を強いられたりもした。ある僧院は馬小舎にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。あくまでも拒否した僧のある者は腕を叩き切られ、「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。大勢のチベット人は、手足を切断され、首を切り落とされ、焼かれ、熱湯を浴びせられ、馬や車で引きずり殺されていった。アムドでは高僧たちが散々殴打されて穴にほうり込まれ、村人はその上に小便をかけるよう命じられた。さらに高僧たちは「霊力で穴から飛び上がって見せろ」と中共兵に嘲られ、揚句に全員射殺された。怯える子供たちの目の前で両親は頭をぶち抜かれ、大勢の少年少女が家から追われて中共の学校や孤児院に強制収容されていった。
 貴重な仏像は冒涜され、その場で叩き壊されたり、中国本土へ持ち去られていったりした。経典類はトイレットペーパーにされた。僧院は馬や豚小舎にされるか、リタン僧院のように跡形もなく破壊されるかしてしまった。リタン省長は村人の見守る中で拷問され、射殺された。何千人もの村民は強制労働に駆り出され、そのまま行方不明になっていった。僧院長たちは自分の糞便をむりやり食わされ、「仏陀はどうしたんだ?」と中共兵に嘲られた。

 国際法曹委員会報告書は、「1956年終わり頃までに、ある地域ではほとんどの男は断種され、女性は中共兵に犯され妊娠させられていった。ある村では二十五人の富裕な村人が人びとの前で生きながら焼き殺された。また別の村では二十四人の親が、子供を中共の公立学校へ行かせるのを拒んだ罪で目に釘を打ち込まれ、虐殺された」と記している。
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2007年09月14日

中共のチベット侵略5

大暴動と大虐殺

参照記事共産主義黒書アジア編もご覧下さい。
共産党の犯罪はナチス以上に厳しく告発されるべきです。
マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はチベット女性を公開懲罰にかけようとする中共兵
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引用開始
1955年リタン。
 チベット僧たちはついに中共軍の憎しみの鉾先をまともに食らうことになる。アタは語った。
「1955年、中共軍の指導者が何人かリタン僧院にきて、一切の武器を差し出せと通告してきました。私たちが大量の武器、弾薬を備蓄しているのを十分知っていたのです。そしていいました。“すべての財産は共産党のものである。チベットは今や中国の一部であり、中国人の生き方を学べ”しかし僧院は武器を手離しませんでした。
 ある日のこと、高僧たちは庭に引き出され、市民は銃を突きつけられ庭へ連れてこられました。そして奴らは高僧たちを大声で罵りました。心の師として敬ってきたラマ僧たちがそんな風に扱われるなんて、人びとは皆大変なショックを受けました。
“これまで五年間お前たちを文明化しようと努力してきたが何の効果もなく、動物と少しも変らない。今から白か黒か、二つの道のどちらかを選べ。おとなしく武器と財産を差し出すなら白い道。拒否して戦いを挑むなら黒い道を辿ることになる”
 すると一人の老僧が進み出ていいました。“何を決めろというのかね? 我々は自分たちのものは自分たちのものだ、といっているだけだ。お前さんたち中国人が我々に財産をくれたことがあるかね? 我々の財産は我々のご先祖から貰ったものだ。それをまるで初めから自分たちのもののようないい方をする権利がどこにあるかね”・・・・

 同じ頃、ゴロク地方ではもっと激しく反共の嵐が吹きまくっていた。
 毛沢東はラジオで一千万の中国人をチベットに移住させると約束していた。中国と国境を接するゴロクがその最初の犠牲にされた。毛はまず数千人の中国農民をゴロク族の牧草地帯に入植させた。しかしゴロク族はラサ市民と違ってデモなんかやらなかった。部族民も僧侶も一斉に武器を取り、移住してきた中国農民に情け容赦なく襲いかかったのだ。中共軍も直ちに反撃を開始した。ゴロク族の武装を解除させるため、三千の軍隊が注入された。あっという間に戦いのニュースがゴロクじゅうに伝わり、この地域の二千人のゴロク族が刀や口ごめ銃を振りかざしながら最寄の中共軍兵舎に馬を飛ばした。この時だけで約八百人の中国兵を血祭りに上げ、新しい銃などを分捕った。部族側の被害は軽微だった。が、勝利はそこまで。中共軍は大挙してゴロク族の居住地を襲撃、家畜の群を略奪し、人家を焼き払い、数千人の老若男女を殺戮しまくった。生残った者は山に逃げ込み、以後はひたすら中国人を殺すためにのみ生きつづけることを誓ったのだ。しかしこのゴロク族の惨劇も、他地域のチベット人は長い間知ることもなく、諸外国にいたっては何年もの間まったく気づくことはなかった。通信手段の貧しさ故である。
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2007年09月13日

中共のチベット侵略4

中国共産党の裏切り

安倍首相が辞任しました。反日朝日新聞やテレビの執拗で異常なまでの安倍叩きには憤りを感じますが、産経のアンケートを見る限り、朝日の安倍叩きが国民の真意だとは思えません。
 日本はこのような偏向マスコミの一方的報道で、進路を歪められてしまうことがよく判る事例でしょう。年金問題に関する直接責任が民主党の支持団体「自治労」であることなど、ほとんど報道されませんでした。結局被害を蒙るのは一般国民なのですが。
 以下のチベットの問題も、反日マスコミでは報道された覚えがありません。朝日などに対しては根本的に中国共産党の犬だという認識を持って、報道の意図を見抜くことが大切でしょう。

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はゴロク族の僧侶たち
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引用開始
 毛沢東はチベットの完全な植民地化にはダライ・ラマがなくてはならぬ存在であることを十分認識していた。彼を力ずくで屈服させることは無謀であり愚の骨頂だとも思っていた。ダライ・ラマは非常に賢明だが、何せ年若く感じ易い年頃だ。いっそのこと北京に引っさらって、チベット国民と引き離し、何千キロと離れた地に長く留めておけば、いつかは我々に靡くだろう。
 毛沢東はダライ・ラマを中国に誘い込む上手い口実を作った。新中国憲法発足祝賀会に賓客として彼を招待するのだ。ダライ・ラマはついに、四百人の随員を引き連れて中国の地に足を踏み入れることになった。ダライ・ラマはダライ・ラマで、たとえそれが罠であろうとこの企画に乗る決心をした。彼も必死だったのだ。・・・・・
 ダライ・ラマに同行した十四歳のパンチェン・ラマ――チベット第二の精神的政治的支柱――は毛沢東の操り人形であった。
“分離し征服せよ”政策は二人の聖なる存在にその通り適用された。・・・
 ダライ・ラマを北京に誘い出した本当の理由は、“PCART――チベット自治区準備委員会”という秘策によって、チベットを完全な支配下に置く道具に利用することであった。自立、自治などとは真っ赤な嘘であり、チベット人の独立心の抹殺を意図していた。・・・・
 ダライ・ラマは“委員会”を謀略ではないかと疑っていた。しかし毛沢東と個人的に接するうちに彼の誠意と寛大さに魅かれてゆき、少なくともチベットのために何かをしてくれるのではないかと信じるようになった。・・・・

1955年3月、ダライ・ラマは大きな不安を胸に抱きつつ北京を発ち、帰国の途についた。そして彼の儚い期待はすぐに打ち砕かれることになった。
 東チベットの生まれ故郷、アムドに足を踏み入れ、クンブム僧院に近づくにつれ、何かしら不吉な予感がダライ・ラマの心に忍び寄った。何かがおかしかった。東チベットにいったい何が起こっているのだ?
 道中中共の警備員が常時つきまとい、住民との接触を妨げた。それでも人びとの表情から、厳しい弾圧が始まっているのが感じ取られた。
「私が人びとに幸せかと問うと、“はい大変幸せに過ごしています。これも中国共産党と毛主席のおかげです”といいながら彼らの目は涙でいっぱいになるのだった。私に対してさえも共産党の決まり文句でしか答えられないのを知って、深い衝撃を受けた」(『チベットわが祖国――ダライ・ラマ自叙伝』)
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2007年09月12日

中共のチベット侵略3

脅迫下の協定署名

日本のマスコミ特に朝日は、安倍潰しのためには週間新潮で報道されているような、民主党に都合の悪いことはほとんど報道しません。またこのチベットの悲惨な事実も、中国共産党に都合の悪いことは報道しません。これが今の日本のマスコミの姿です。
こんなマスコミが政治を曲げたのが今回の参院選です。公平な情報を国民に隠蔽し、国民に偏った情報だけで判断させようとする卑劣なマスコミに我々の国が振り回されないようにしたいものです。

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はリウォチェから南へ移動する中共軍
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引用開始
「・・・・ その時はまだ中共軍は町を占領しようとはしていなかったにしろ、デンゴはじめ目障りな存在はすべて、つまりカム全体をその年の冬までに押える積もりだったのです」サイクロンはいった。
 一方、国際メディアにも邪魔をされず、自分たちの東チベットがどうなっているのかとんとご存じないラサ政府をいいことに、中共軍は続々とチベットに侵攻していた。・・・・
 1950年10月、中共軍は東チベットに襲いかかった。
 同時に三方から四万の軍隊が西へ向って進撃した。
 一方サイクロンは、リウォチェ僧院の屋上から中共軍が谷間に雪崩れ込んでくるのを見守っていた。・・・
「本当にびっくりしました。ちょっとした小競合はありましたが、町は直ぐ中共軍に制圧され、最後まで抵抗したチベット兵は捕えられてその場で処刑されました。中共軍はリウォチェには見向きもせず、蝗の大群のように襲来したかと思うと南の方へと去っていったのです」サイクロンはいった。・・・・
 国連は再度チベットからアピールを受け取ったが依然としてその扱いに戸惑っていた。
 ダライ・ラマは国際政治を理解しようとしたが、理屈でどうなるものではなかった。チベットのような無力な国を守ろうとしない国連なんか何のためにあるのだ? 若い君主は国連の奇妙な機構に幻滅を感じた。
「正義の支えとして国連を信頼していたのに、我々の問題がイギリスによって棚上げにされたと聞いた時には驚いた。インド代表の態度にも同様に落胆した。インド代表はこういった。“平和的解決がなされるものと確信している。そしてチベットの独立は守られよう。これを確かとする最良の方法は国連総会でチベット問題を議論しないことだ”これには、誰も我々を武力で助けてはくれないということを知った前回以上の無力感を感じた。今や、友人たちは我々の正義への訴えを代弁しようとさえしてくれないのだ。中共軍の大群の中に置き去りにされたように感じた」(『チベットわが祖国――ダライ・ラマ自叙伝』)・・・・
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2007年09月11日

中共のチベット侵略2

中共軍のチベット侵入開始

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
特に人権にやかましい日本のマスコミ等が、現在も行われているこのような事実をほとんど報道しないことで、マスコミがいかに信用できないか、あるいは故意の隠蔽が日常的に行われているかを知り、日本が歩むべき道を間違えないようにしましょう。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
写真はダルツェドの大通りを行進する中共軍
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引用開始
1950年3月、チベット国境で数カ月間訓練を積み、満を持していた中共軍はついにカムに侵入を開始した。
彼らはまずダルツェドという商業の町で足を止めた。・・・・
4月中頃までに三万人以上の軍隊が町を通り抜けていった。彼らは第十八軍団の前衛部隊で、チベットの峻厳な地形の情報を収集しながら、次の目的地カンゼ――カムの有数な商業都市――へ向う道路建設の工作隊であった。・・・・
1950年8月までにダルツェドからカンゼまでの自動車道が完成し、この離れ業にチベット商人たちは憂えるよりむしろ大歓迎したのであった。・・・・
中共軍はカンゼで、“牝竜の城”という古いチベット人の砦に司令部を置いた。ニャロンの首長、領袖たちはそこに呼ばれ軍政官に会った。
「初めのうち彼はマルクス主義については余り喋らなかった。代わりに俺たちがいやというほど知っている国民党の腐敗、堕落を非難し、中共政府はそれらを一掃して一般庶民の生活を向上させることを願っている、と力説した。そのためには人民自らの統治が欠かせず、指導者諸君はこの改革の要だ、とね。我々はごもっともと頷き、けっこうなことですと口々にいった」(ジャムヤン・ノルブ)

 デァウポンの故郷、ジェクンドにも中共軍がやってきて、今回は町の下手に大きな陣地を構えた。
「最初、中共軍はジェクンド部族の好感を得ようと一生懸命でした。この地域を占拠する気のないことを散々に宣伝したのです。父はこの地方の行政官でしたから、私も中共軍の指導者たちに会いました。ジェクンドの中国人住民は昔から茶の交易に従事しており、国民党軍と仲良くしていたのですが、中共軍が入ってくるとたちまち彼らに靡きました。彼らは正当な値段で何でも買ってくれ、ずいぶん潤ったのです。女性をとても尊重し、住民は安堵しました」デァウポンは語った。・・・・
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2007年09月10日

中共のチベット侵略1

本文引用の前に9月5日付けの新聞報道をご紹介しておきます。
R.ギアさんが北京五輪ボイコット呼びかけ
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3日、ベネチア国際映画祭で新作映画をPRするリチャード・ギアさん=AP
 チベット仏教の熱心な信者として知られる俳優のリチャード・ギアさん(58)が、中国の人権問題を理由に来年夏に開催される北京五輪ボイコットを呼びかけ、波紋が広がっている。
 ギアさんはロイター通信に対し、「五輪は、チベットの将来を決め、中国にチベットの人々への人権弾圧をやめさせることを促す良い機会だ」と述べた。・・・・・

では今回ご紹介する本から。
中共軍チベット侵攻前夜

マイケル・ダナム著「中国はいかにチベットを侵略したか」から、抜粋引用してみます。
この中共の侵略手法をよく把握しておくことは、今の日本にとっても重要なことではないでしょうか。尖閣諸島などでの中国の行動と重ね合わせて、国民が危機感を持っていることも大切でしょう。
中共侵略前のチベット
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引用開始
「中共軍が侵略してくる前は、国民党軍とまあまあうまく付き合っていました。兵隊の数も取るに足らなかったしね。彼らと交渉している父親をずっと見てました。阿片を吸っている連中は大勢いたし、まったくの役立たずでした。役職についている連中は簡単に買収できたし、金さえ渡せば面倒はありません。ジェクンドは奴らの取引場所で、それ以外の町には住めなかったのです。ここでじゃこう、ヤク、羊皮、砂金を買い、私たちは中国茶を買っていました。何しろ我々チベット人は中国茶中毒でしたからね。
 もちろん、時々地方の部族と国民党との小競合はありましたよ。時には部族側が中国人兵器庫を襲って銃や弾薬を略奪することもありましたがね。なるたけ連中とは事を起こさないようにしていましたが、ちっとも奴らを怖がってなんかいませんでした」デァウポンはいった。・・・・
いつかはラサに巡礼しポタラ宮殿を見たい、というのが彼の最大の夢だった。

中共は宗教にまったく敬意を払わない。“人民の敵”と称して寺院を目の仇にしていると父はいっていました。毛沢東は我々が心から寺院を大切にし、僧院を守ってきているのが分からないのでしょうか? あの連中の考えていることはさっぱり分かりません。仏教がなくなるということはチベットも共になくなることなんです。男子の四分の一は僧侶なんですからね。国民党ですらこのことは理解していて、宗教問題には手をつけませんでした」デァウポンはいった。
 多分その噂は中共軍に追われている国民党が流したデマだろうと、多くのチベット人は思っていた。国民党のデマは今に限ったことでないのだ。
 あの軍事的天才の毛沢東が、チベット人は仏教と僧院によって生きてきたということに気づかないはずはないと人びとは思っていた。たとえ宗教的な人間でなかったとしても、チベット文化と社会の現実を理解できないほど愚かだとは信じ難かった。・・・・

 思えば中共軍の侵略以前は比較的平穏でした。国民党の兵隊共は文字通り負け犬で、装備は劣悪、騎兵隊といっても痩馬が何頭かいるくらいで、兵隊の多くは阿片吸引者、チベット人と戦おうなんていう気は初めからありません。そもそも彼らはチベットになんかいたくなかったのです。いなくてはならない理由は誰にもなかったんですから。ただ給料がもらえるというだけで、買収にも簡単に応じるし、チャンスがあれば故郷に逃げ帰ろうと隙を窺っていたのです。・・・・
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2006年11月09日

汚職大国ロシア

 今日はもう一つ、ロシアの汚職は国家予算に匹敵するらしい。中国と首位争いか!
アンナ・ポリトコフスカヤさんの本にもあったように官僚の腐敗は目を覆うばかりですね。共産主義体制に逆戻りしているかのようなロシアの汚職。
日本の反日、左翼が目指している体制の実態はこれでしょう。
また産経だけかな?
http://www.sankei.co.jp/news/061109/kok007.htm
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2006年11月02日

プーチンKGBの再来

 今回も、先日殺害されたと報道のあったロシア人ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ著の「プーチニズム」からご紹介します。
 この本の最終章になっている、プーチン再選の一部を紹介してみます。

引用開始
 私はなぜこれほどまでにプーチンに引っかかってしまったのだろう。プーチンについて本を書くほど彼のどこが気に入らないのか。私は彼の政敵でも宿敵でもない。ロシアに暮らすただの一女性だ。四十五歳になるモスクワ市民で、1970年代から80年代、旧ソ連の目を覆うばかりの共産主義体制の腐敗、凋落ぶりを見てきている。またあの時代に戻りたいとは露ほども思っていない。

 2004年5月6日、私はこの本の最終章を書こうとしている。明日ですべてが終わる。何の奇跡も起きなかった。3月14日に大統領選が行われたが、その結果に対して目立った異議申し立ては出ていない。野党はおとなしく引き下がった。したがって、明日はプーチンの二期目の始まりだ。
・・・略・・・

 プーチンはソビエトKGB中佐の典型だ。・・・・その彼があと数時間でロシアの玉座にふたたび上がる。
 彼の世界観は彼の階級に見合って偏狭だ。いかにも最後まで大佐にはなれなかった中佐らしい、好感の持てない個性の持ち主なのだ。たえず仲間を詮索するソビエト秘密警察の根性が骨の髄まで染み付いている。しかも執念深い。野党は一人も宣誓式に呼ばれなかった。ほんのわずかでも彼の機嫌を損ねたことのある政党も同様だ。
・・・略・・・

 ここで話は少々横道に逸れる。プーチンというより、私たちロシア国民の話をしよう。
 プーチンには支持者や後援者がいる。彼を二期目の大統領に祭り上げることで利益を得んとする者、大統領府に現在群がっている者たちだ。
 今この国を支配しているのはこの人たちだ
 大統領の決定を実行する政府でもなければ、彼が望む法律を闇雲に通過させる議会でもない。彼の配下は社会の反応を注意深く見守っている。彼らが国民など気にしないと思うのは見当違いだ。
 今起こっていることに対しての責任は私たち国民にある。まず私たちにであって、プーチンにではない。彼や彼のシニカルなロシア統治に対する私たちの反応はせいぜい台所の噂話に留まっている。そのために彼はこの四年間やりたい放題だった。社会のあきらめムード、これは底なしだ。これがプーチン再選の免罪符なのだ。
 私たちは彼の行動や発言に無気力な反応を見せたばかりではない。びくびくと怯えた。チェーカーが権力を握るにつれ、私たちはやつらに恐怖心を見せてしまった。そこでやつらはますます図に乗り、私たちを家畜のごとく扱う。KGBは強い者だけを認める。弱い者は食い殺す。私たちがそのことを一番よく知っているはずではないか。
・・・略・・・

 どうして私はこれほどプーチンが嫌いになったのか?それは年月が過ぎているからだ。プーチンが初めて大統領になるために始められた第二次チェチェン戦争はこの夏で五年になる。それなのに戦争はいまだに終わる気配がない。
 戦争が始まったとき、のちにシャヒードと宣言されることになる子供たちはまだ生を受けてもいなかった。しかし1999年以降、爆撃や掃討で命を落とした子供たちの殺人事件は未解決のままであり、法と秩序を司る機関による捜査も行われていない。嬰児殺しの犯人たちは本来立つべき被告人席に立たされていない。
 あの「すべての子供たちの親友」のプーチンは犯人たちを被告席に立たせたことは一度もない。軍部は開戦直後に許されたとおりチェチェンを跳梁跋扈している。まるで、彼らの作戦はまったく子供も大人もいない、無人の訓練場で行われているかのように。
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posted by 小楠 at 07:35| Comment(5) | TrackBack(0) | 共産主義の実態

2006年11月01日

ロシア軍兵士の悲惨

今回も、先日殺害されたと報道のあったロシア人ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ著の「プーチニズム」からご紹介します。
 彼女は2004年、北オセチアの学校占拠事件の際、現地へ向う機上で、毒を盛られ一時重態になったこともありました。

『はじめに』を見れば、この本が取り上げようとしている問題が明確に分かります。そこに書かれているのは、
「この本はウラジミール・プーチンの話だ。しかし、ここで語られるのは西側で一般に知られているプーチンではない。バラ色の眼鏡を通さずに見た素顔のプーチンだ。
 ロシアの現状を目の当たりにすると、西側の人のように好意的にプーチンを評価できなくなるのはなぜだろう。それはプーチンが、この国でももっとも嫌悪すべき旧ソ連の秘密警察、KGB(国家保安委員会)出身の者として、大統領に選ばれた後にも、その素性を忘れないし、この特務機関の中佐然とした振る舞いをやめもせず、やたらに自由を求める同胞の弾圧にいまだに血道を上げ、相も変わらず自由を蹂躙しつづけているからだ。

 本書はまた、ロシア国民のすべてがプーチンのやり方を黙って見過ごすわけではないことを示すものだ。たとえ、それが西側にとって都合が良いのだとしても、私たちはもう奴隷でいることには我慢できない。私たちは自由を要求する・・・・」。
 ということです。我々日本人には今時自由とか自分たちを奴隷などとは思いもしませんが、やっと共産主義の悪夢から覚めたと思っていたロシア国民が、未だにその後遺症に苛まれているということが事実であることを、この本が教えてくれます。

引用開始
※兵士の売り買い
 貧しい家庭の子弟は士官学校に入学を希望するものだが、彼らの目的は高等教育修了の資格を得ることにある。軍隊には入らない。大統領府が声高らかに次々と発表する報告書によると、軍の教育機関の入学試験は競争率が上がっているという。これはたしかに事実だ。しかし、この傾向は軍の威光が増したためというよりは、教育を受ける側の貧しさによるところが大きい。
 軍隊に下級将校が非常に少ないのも同じ理由で説明がつく。陸軍・海軍大学を卒業しても、下級将校はどうしたわけか配属された駐屯地に姿を見せない。突然重病になり、様々な予期せぬ障害に見舞われた旨の証明書を送りつけてくる。ロシアのように腐敗しきった国では、このような抜け道を用意するのも大して難しいことではない。
・・・略・・・
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posted by 小楠 at 07:30| Comment(4) | TrackBack(1) | 共産主義の実態

2006年10月31日

ロシアプーチン体制

 先日、殺害されたと報道のあったロシア人ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤ著の「プーチニズム」という本をご紹介します。
 訳者のあとがきの一部を引用すると。
「さて今回の作品は、腐敗しきったロシアの現状を、一介のKGBスパイから国家元首へと上りつめたプーチンというひとりの人間の存在をとおして解き明かす意欲作だ。著者は、今日のロシアにおける軍隊の堕落、マフィアの増長、法曹界・政界の根深い腐敗を指摘し、これらの問題の元凶は他ならぬプーチンだと主張する・・・・」という内容です。
putin.jpg

引用開始
※学校占拠事件
 2004年9月1日、身の毛もよだつような前代未聞のテロ事件がロシアを襲った。ベスラン――北オセチア・アラニア共和国のこの小さな町の名は、ハリウッド映画も顔負けの恐ろしい悪夢が起きた場所として永遠に人々の記憶に残るだろう。
 9月1日の朝、多国籍のテロリスト集団がベスランの第一学校を占拠した。彼らの要求は第二次チェチェン戦争の即時停止だった。
 犯人たちは新学期の始業式の時間を狙った。ロシアでは例年どの地域でも学年の始まりを祝う始業式が行われる。これには家族全員が集まるのがしきたりだ。祖父母、叔父叔母、わけても新一年生の家族は必ず駆けつける。千五百人もの人質が取られたのはこのためだ。・・・・・

 プーチン体制は常識と民意を犠牲にしてもひとりの人物の権力を尊ぶ。9月1日から3日のあいだ、さらにそれ以降ロシアで起きたことは、そんな体制が導いたものであり、当然の帰結であった。
 9月1日、特務機関と当局が矢継ぎ早に発表したところによると、学校に閉じ込められている人数はそれほど多くはなく、全員あわせても三百五十四人だという。・・・・・
 学校の周りに集まった親戚たちは当局が嘘をついていると主張した。「学校には千人以上が閉じ込められているわ」。だが誰も彼らの言い分を聞かなかった。耳を傾けようとしなかった。 親戚たちはベスランに集結したメディアを通じてこの事実を当局に伝えようとした。しかしジャーナリストたちはただ公式発表の人数を繰り返した。 この時点で一部の人質の親戚がジャーナリストを非難しはじめた。
 当局は9月1日と9月2日の前半を許しがたい動揺と混乱の内に過ごした。テロリストと交渉しようという試みはなかった。クレムリンの許しが出なかったからだ。
・・・略・・・
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posted by 小楠 at 07:54| Comment(4) | TrackBack(2) | 共産主義の実態

2006年09月07日

共産主義黒書アジア編終

 今回はチベットと北朝鮮についての部分を引用します。しかし共産主義者は闘争、戦争、暗殺など、絶えず悲劇を巻き起こす張本人です。最近は北朝鮮の収容所事情などが脱北者によって少しずつ知れるようになっていますね。
「共産主義黒書・アジア編」より引用します。

引用開始
【チベット:世界の屋根でのジェノサイドか?】
 1950〜1951年の中国共産党人民解放軍の到着以来、チベット人が悲劇のうちに生活してきたことは異論の余地がない。しかしその悲劇は、地方によって不可避的に差はあるものの、たいていの場合、高原のこの「遅れた野蛮人」にたいする中国人の、言い換えれば、人民中国の住民総体の軽蔑によって、一層深刻になったといえるのではなかろうか。
 たとえば、反体制派によれば、七万人のチベット人が1959年と1962〜1963年のあいだに飢えで死んだといわれる。七万人といえば人口の2〜3%にあたり、国全体がこうむった損失より、人口比でいうと、むしろ少ない損失であった。とはいえ、ベッカーの最近の研究はこれよりずっと高い数字をあげており、青海省のダライラマが生まれた地区では、死者は住民の50%にまでのぼるという
・・・略・・・
 チベットは文化大革命でも無傷ではすまなかった。1966年7月以降、紅衛兵は、私的な住居を家宅捜索し、仏壇の仏陀を毛沢東の写真に置き換えた。僧侶は度重なる「闘争会」で吊るし上げられ、そこから生きて帰れない者も出るほどだった。
・・・略・・・
 現代チベットの最大の悲劇は、50年代と60年代における数十万にのぼる被拘禁者――合計してチベット人十人に一人にあたるだろう――の悲劇である。調査された166か所の収容所の大部分はチベットと近隣諸省にあるが、そこから生きて出られた人はごくわずか(2%という数字があげられることがある)しかないように思われる。
 1984年にダライラマの亡命政府側は、拘留中の死者の数を173000人と発表した。多くの僧院共同体がまるごと炭鉱に送られた。寒さ、飢餓、酷暑など、拘留条件は全体として恐るべきものだったように思われる。 チベット独立の思想を放棄することを拒否した被拘禁者の処刑については、大躍進期の飢餓の折の囚人同士の人肉食のケースと同じように今も語りぐさになっている。
・・・略・・・
 死者の数から言っても、残虐行為が規則的に繰り返されたことから言っても、ここで起こっているのはジェノサイド的殺戮だと言ってよいだろう。公式の数字によれば、チベット自治区の人口は1953年には280万人だった住民が、1964年には250万人に減少した。亡命者や出生率を考慮すると、80万人にのぼる「過剰な死者」を出したことになるだろうが、この人口損失率はクメール・ルージュのカンボジアを思わせるものがある。
・・・略・・・

【北朝鮮における犯罪、テロル、秘密】
 朝鮮民主主義人民共和国(RPDC)は、1948年9月9日、朝鮮のうち北緯38度線の北にひろがる部分に建国された。1945年8月に米軍とのあいだで調印された協定により、合衆国が同じ38度線以南の南朝鮮を管理するあいだ、ソ連がこの地帯を「暫定的に」管理することを引き受けていたのである。
 じきに北朝鮮は、世界で最も閉鎖的な共産主義国家であることが明らかになった。実際、まもなくソビエト当局は、国際社会のいかなる代表者も北に入るのを禁止したのだった。
 最後に、1950年6月25日に北が起こし、今なお形式的には終了していない朝鮮戦争――なぜなら1953年7月27日、国連軍とのあいだで休戦協定が調印されただけであるから――によって、国家機密におおわれた分野が拡大するとともに、うそと情報の歪曲とプロパガンダの重圧がのしかかることになったのであった。
・・・略・・・
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posted by 小楠 at 07:13| Comment(4) | TrackBack(0) | 共産主義の実態

2006年09月06日

共産主義黒書アジア編2

 この後半に引用する文化大革命は、朝日新聞が褒め称え、連日のように紙面を賑わせました。今では例のごとく全くそ知らぬふりです。本当に恥知らずな、全く信用できない新聞です。
同じく「共産主義黒書・アジア編」より引用します。

【労改――隠された<グラーグ>】
 中国共産主義の納戸は疑いもなく死体に満ちあふれているが、何よりも異例なのは、それをかくも長いあいだ、世界の目から隠しおおせてきたということだろう。
・・・略・・・たしかに抑圧機関はおのれを隠すすべを心得ていた。たとえば「拘禁刑」とか「懲役刑」が言い渡されることはなく、労働による「改造」や「再教育」を言い渡されるのだ。このことからかなり論理的に帰結することだが、主要な拘禁場所は公共企業の外観をまとうことになるわけだ。たとえば、「荊州染色工場」(門にはこの名前しか書かれていない)が湖北省第三刑務所にほかならず、「英特茶農場」が広東省第七労働改造単位にあたることは、知らないかぎり誰にも分からない。
・・・略・・・
【労改における略式処刑】
 彼ら全員の真ん中に、鉄の鎖でつながれた理髪師が立っていた。首に回したロープがきつくベルトに結ばれているため、頭はうなだれていた。彼の両手は背中でしばられていた。看守が彼を舞台の突端、われわれのすぐ目の前に直接押し出した。彼は黙って立っており、しばられた改悛者のように見えたが、その足元からは細長い湯気が立ちのぼっていた。イェンは演説の用意をしてきていた。
 「私は皆さんに恐ろしいことを言わなければならない。これは私にとって嬉しいことでもないし、また全然誇りにも思えぬことだ。これは私の義務であり、あなた方の教訓になるにちがいない。あなた方の前にいるこの腐った野郎は、性犯罪で刑務所に入れられた。少年と度重なる同性愛の関係をもったからだ。その罪による刑はたった七年だった。その後、製紙工場で働いていた時、いつも素行が悪く、何度も盗みを働いたので、刑は倍になった。今回われわれは、彼がここにいる間に、十九歳の若い囚人――知的に遅れた囚人だが――を誘惑した証拠をつかんだ。これが社会の枠内で起こったことなら、彼は厳しく罰せられるだろう。しかし、その行為をここで犯したことにより、彼は道徳的な罪を犯しただけでなく、当刑務所の評判と、労働による改造という偉大な方針とを汚したのだ。それゆえ、また再犯であることをも考慮して、最高人民法廷代表は今ここに刑の宣告を読みあげる」
 青い制服の男は前に進み出て、黒っぽい書類を読みあげた。罪状の要約のあと、締めくくりとして人民裁判所の決定が告げられた。死刑と刑の即時執行だった。
 すべてがあまりにも突然起こったので、私はショックを受ける暇も、恐怖を覚える暇もなかった。青い制服の男が最後の言葉を言い終えるよりも早く、理髪師は死んでいた。彼の後ろに立っていた看守が大きなピストルを取り出し、彼の脳みそをふっとばしたのだ。血の雨と脳みそのかけらが飛び散り、最前列にいたわれわれの上に落ちてきた。私は床の上で痙攣するそのおぞましい姿から目をそむけ、そして嘔吐した。イェンが再び登場して、また語った。
 「これが皆さんへの警告になるように。この収容所では、今後二度と寛大な処置がとられることはないとあなた方に知らせる権限を私は与えられた。今日からは、道徳的次元のすべての罪は同じように処罰される。さあ、監房に戻り、今起こったことについて皆で討議するように」
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posted by 小楠 at 07:31| Comment(6) | TrackBack(0) | 共産主義の実態

2006年09月05日

共産主義黒書アジア編1

 レーニンは共産主義の世界革命を企図しますが、ヨーロッパではことごとく失敗に終わりました。そこでコミンテルンは当時内乱に明け暮れていた中国へと焦点を振り向けていきます。
「共産主義黒書・アジア編」より引用します。
asia.jpg
引用開始
【コミンテルン】
 レーニンは革命を全世界に及ぼしうるような国際組織をつくるイニシアティヴをとった。共産主義インターナショナル――またの名をコミンテルン、あるいはまた第三インターナショナルとも呼ぶ――は1919年3月モスクワで設立され、ただちに社会主義労働者インターナショナル(1889年に創設された第二インターナショナル)のライバル組織を自任することになった。
・・・略・・・
 最初からコミンテルンは、レーニンが国際的な秩序を転覆させる道具のひとつとして構想したものであり――その他の道具には、赤軍、外交、スパイ活動などがあるが――したがってコミンテルンの政治的教説はボリシェヴィキのそれを忠実に下敷きにしたものだった
・・・略・・・
【中国への浸透】
 ヨーロッパにおいてこれら手痛い失敗を嘗めたのち、コミンテルンはスターリンに突き動かされて、新しい戦場を発見することになった。それは中国であり、コミンテルンはその努力を東方に向けることになる。無秩序のただ中にあり、内戦と社会紛争に引き裂かれていたが、巨大な民族主義的飛躍につき動かされたこの大国は、「反帝国主義」革命の機が熟しているように思われた。
・・・略・・・
 コミンテルンの責任者たちとソビエト(党)各部局によって、然るべく指導されていた中国共産党は、まだ毛沢東の指導を受けていず、1925,26年には、民族主義党=国民党とそのリーダー、若き蒋介石将軍との緊密な同盟関係へ向っていた。共産党の選んだ戦術は、国民党を包囲して、それを一種の革命のトロイの馬に仕立てあげることにあった
 コミンテルンの密使、ミハイル・ボロジンは、国民党顧問の役割を占めるまでになった。ソ連との協力政策を完全に支持していた国民党左派は、1925年に党指導部を掌握することに成功した。すると、共産主義者はプロパガンダを強化し、社会的興奮状態を促し、その影響力を強めて、国民党第二回大会を支配するまでにいたった。
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2006年08月23日

共産主義の犯罪最終

 最後に、ソ連共産党内での文書が掲載されていましたので、それを引用しておきます。頻繁に行われる処刑の罪状たるや、裏切り者、地主、工場主、反革命分子、ソビエト権力の敵など、どうにでも言える罪を挙げて、都合の悪い人間を大量に処刑していたことを暗示しています。勿論この例のような曲がりなりにも裁判らしい手続き無しに処刑された人々の方が圧倒的多数でしょう。
同じく共産主黒書(ソ連編)より引用します
引用開始
 大テロルの犠牲となった者の大多数は無名の人たちだった。以下は1938年の「通常」文書からの抜粋である。
文書第24260番
1.姓:シードロフ。
2.名:ワシリー・クレメンチェヴィチ。
3.出生地と生年:スィチェヴォ(村)、モスクワ州、1893年。
4.住所:スィチェヴォ、コロメンスキー地区、モスクワ州。
5.職業:協同組合職員
6.所属組合:協同組合職組。
7.逮捕時の資産(詳しく):木造家屋1軒、8m×8m、鉄板屋根と一部屋根のついた7m×20mの中庭、雌牛1頭、雌ヒツジ4匹、ブタ2頭、家禽。
8.1929年当時の資産:同上プラス馬一頭。
9.1917年当時の資産:木造家屋1軒、8m×8m、一部屋根のついた30m×20mの中庭、納屋2,倉庫2,馬2頭、雌牛2頭、雌ヒツジ7匹。
10.逮捕時の社会的地位:職員。
11.帝政軍隊における軍役:1915〜1916年トルケスタン第六建設部隊歩兵一等兵。
12.白衛軍における軍役:無し。
13.赤衛軍における軍役:無し。
14.社会的出自:私は自分が中農の息子だと思っています。
15.政治的過去:無党派。
16.国籍:市民権/ロシア人、ソビエト市民。
17.ロシア共産党(ボリシェヴィキ)所属歴:無し。
18.教育程度:初頭教育。
19.現在の兵役:補充兵。
20.前科:無し。
21.健康状態:ヘルニア。
22.家庭状況:既婚、妻:アナスターシア・フョードロヴナ、43歳、コルホーズ員、娘:ニーナ、24歳。
地区NKVD(内務人民委員会)の指令により1938年2月14日逮捕。
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2006年08月22日

共産主義の犯罪3

 今回も共産主黒書(ソ連編)序より引用します。
 共産党は労働者、農民の味方などではありません。これも嘘の宣伝により植えつけられた妄想です。共産党は共産主義を信奉する労働者、農民、その他の庶民にのみ味方のように思えるだけですが、これも内部では絶え間ない権力闘争で、毎日が密告などにより抹殺される危険と隣り合わせでしょう。
引用開始

【赤色テロル】
 ・・・1918年夏にはおよそ140の大規模な反乱が起きた。その主な原因となったのは、食糧徴発隊によって乱暴に取り上げられることを農民共同体が拒絶したこと、個人的商取引が制限されたこと、新たに赤軍に徴兵されることであった。怒った農民は群れをなして手近な町へ行き、ソビエトを包囲し、ときには火をつけようとした。多くの場合、事態は悪化していった。軍隊や、治安維持を任務とする民兵隊や、ついで次第にチェーカー(ソ連秘密警察)の部隊が、ためらわずデモに発砲するようになった。
・・・略・・・
 1918年8月10日、レーニンはペンザのソビエト執行委員会に電報を打った。
 「同志諸君! 君たちの五つの郷におけるクラーク(富農)の蜂起は、容赦なしに粉砕しなければならない。全革命の利害がそれを要求している。なぜなら今後いたるところで、クラークとの『最終的戦い』が始められるからだ。先例を示す必要があるのだ。
(1)世間に知られたクラーク、大金持ち、吸血鬼どもを、少なくとも100人以上、絞首刑にすること(私は人々に見えるようなやり方で絞首刑にしろと言っているのだ)。
(2)彼らの名前を公表すること。
(3)彼らの穀物を全部没収すること。
(4)昨日電報で指示した人質の身元確認をおこなうこと。これらのことを周囲何百ペルスタ(一ペルスタは約一キロ)もの人々が見て、震えながら、我々が血に飢えたクラークどもを殺しているのだ、これからも殺し続けるだろう、と言うようなやり方で実行するのだ

諸君が確かにこの指令を受取り、実行したと返電されたし。草々。レーニン。
追伸。もっとタフな人間をみつけたまえ。」

【赤色テロル最初の大波】
 「抹殺」は実際に1918年8月31日から開始された。9月3日の『イズヴェスチア』は、ペトログラードで500人以上の人質が、その数日前に地方チェーカーによって処刑されたと報じた。
 チェーカーの資料では1918年9月一ヶ月間で、800人がペトログラードで処刑されただろうとされる。しかしこれは実際よりはるかに少ない人数である。事件のある証人は次のように詳細を語っている。「ペトログラードに関しては、ざっとの概算で1300の処刑が見積もられている。・・・ボリシェビキは彼らの『統計』の中に、クロンシュタット地方当局の命令で銃殺された、何百という仕官や市民を含めていない。クロンシュタットだけでもたった一夜で400人が銃殺された。中庭に三つの大きな壕が掘られ、その前に400人が据えられて、次から次へと処刑された。」・・・・・
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2006年08月21日

共産主義の犯罪2

 続いて今日も共産主黒書(ソ連編)序より引用します。
この犯罪の隠蔽にあるように、共産主義者が行う様々な隠蔽、言葉の歪曲、行為の正当化などは、現在の日本の反日マスコミ、や左翼、反日団体がそっくり同じようなことをやっているのが面白いところです。共産主義の伝統をしっかり守っているのでしょう。

【ナチズムと共産主義の類似】
 ・・・常に攻撃の対象にされたのは個人よりもグループであった。テロルが目的にしたのは敵と決めたあるグループを殲滅することだったが、それは社会の一部にすぎなかったとはいえ、ジェノサイドの論理によってグループとして攻撃されたのだった。かくて階級的全体主義」の差別と排除のメカニズムは、「人種的全体主義」のメカニズムに酷似したものとなった
 将来のナチスの社会が、「純粋な人種」を基礎につくられなければならないように、未来の共産主義社会は、あらゆるブルジョワ的汚物から拭われたプロレタリア的民衆の上に打ち建てられるべきだとされた。排除の基準は違っていても、これら二つの社会の建設は同じように構想された。したがって共産主義がユニヴァーサリズム(普遍主義)だと主張するのはまちがっている。たとえそれが世界的使命を計画に持っているとしても、ナチズム同様、共産主義は人類の一部を生存に値しないと宣言しているからだ。相違があるとすれば、それはナチスが人種的、地域的に区分するのに対して共産主義は階層・階級によって区分している点である。・・略・・
 敵対する個人またはグループとしてではなく、政治的・イデオロギー的理由から、大規模な形で社会の一部を根絶しようとするこの犯罪は、何と名付けたらよいのだろうか。何人かのアングロ・サクソンの研究者は「ポリティサイド」(政治的殺人)という言葉を提案している。

【世論の沈黙】
 人は共産主義の犯罪について何を 知っていただろうか?それを知ってどうだったというのだろうか? このテーマが学問の対象となるために、どうして今世紀の終わりまで待たなければならなかったのか? ナチスの犯罪の研究とくらべて、スターリンと共産主義のテロルの研究がはるかに遅れていたのは確かだ。
 ここにおいて一つの明瞭なコントラストに驚かざるをえない。1945年の勝利者は犯罪、とくにユダヤ人のジェノサイドを、合法的にナチスを弾劾する中心に置いた。世界中の数知れぬ学者が過去何十年来、この問題に取り組んできた。何千もの本がこの問題に割かれ、何十もの映画が――そのいくつかは大成功を博したが――様々な違った調子で作られた。『夜と霧』あるいは『ショアー』、『ソフィーの選択』、『シンドラーのリスト』などである。・・・略・・・
 ところで共産主義の犯罪の問題については、このようなタイプの研究は存在しない。ヒムラ―やアイヒマンの名前は現代の蛮行の象徴として世界中に知られているのに、ジェルジンスキーやヤゴーダやエジョフ〖三人はいずれもソ連秘密警察の長官〗の名は大部分の人にとって未知である
・・・略・・・
 共産主義の分析の中心に、本質的な問題として人類に対する集団的・体系的犯罪を据えないのは、いったいなぜなのだろうか?
・・・略・・・
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2006年08月19日

共産主義の犯罪1

 共産主義者(あるいはこれから派生又は影響されたと思われる現在日本の左翼、反日)の思考そして行動の根底にあるものを、過去の共産主義者及びその国家が実際に行ってきた事実から解き明かすのも、大切な一つの方法でしょう。
 今回引用する「共産主義黒書」は、1997年にフランスで出版された六人の著者の共著『共産主義黒書』の中のステファヌ・クルトワの序と、ニコラ・ヴェルトの執筆したソ連に関する第一部の全訳となっています。
まず「共産主黒書」(ソ連編)序より引用します。
kokusho.jpg
引用開始
【共産主義の犯罪】
 個人的な犯罪や局部的あるいは場当たり的な虐殺を越えて、共産主義体制は自分たちの権力を確立するために、大量殺人を真の統治システムにまで高めた。・・・略・・・・
 共産主義の犯罪は、歴史的見地からも倫理的見地からも、正当で当然な評価を受けていない
・・・略・・・山をなす古文書と証言は、そもそもの初めから、テロルが近代共産主義の基本的側面の一つだったということを示している。人質の銃殺、反乱を起した労働者の虐殺、飢えた農民の大量死、こういったものはある国、ある時代にだけ固有の状況から生まれた「偶発的事件」にすぎなかったという考えは、きっぱりと捨て去ろう。我々のアプローチの仕方は、特定の地域を越えて、共産主義の犯罪的側面を、共産主義体制の全存在期間を通じて、共産主義システム全体に固有のものと見なすものである。 
 それでは何について、どんな犯罪について語ろうというのか? 共産主義の犯した犯罪は数えきれない。まず精神に対する犯罪がある。これは世界の文化、民族の文化に対する犯罪でもある。・・・略・・・しかしこれらの破壊が関係諸国民や人類全体にとって長期的にみてどんなに重大だったにせよ、それは男・女・子供といった人間の大量虐殺に比して、どれほどの重みがあると言えるだろうか。
・・・略・・・
 死刑は様々な手段で行われた――銃殺、絞首、溺死、撲殺、そしてある場合は毒ガス、毒殺、自動車事故や飢餓による皆殺しもあった。人為的に作られて救出されることのない餓死や、強制収容所送りや、強制移住(徒歩または家畜列車による)の際の死や、抵抗したときの死、強制労働(衰弱、病気、飢え、寒さ)による死もある。「内戦」と呼ばれる時期の場合は、より複雑である。権力側と反乱側との抗争から生じたものと、一般市民の大量虐殺を区別するのは容易ではないからだ。
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