2007年11月15日

東京裁判弁護資料13

ローガン弁護人 最終弁論・自衛戦論「日本は徴発挑戦され自衛に起った」その3

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
これは昭和23年3月10日のもので、この「自衛戦争論」は通俗の「東京裁判史観」に対する最も効率的且つ強力な反措定をなしていると解説されています。今回は最終弁論の最終部分です。
写真は起訴状朗読時の被告人席付近
kisojo.jpg

引用開始
136:日本が挑発されて、又事実自衛の為め昭和16年12月7日に行動を起したのだという主張を重要視するに当っては、被告等のかかる主張が後から考えた思案に依るものではないと云うことが留意されねばなりません。是までに述べて来た事柄は、要するに昭和13年(1938年)に始った日本に対する経済封鎖並に軍事的包囲に対して、日本の責任ある代表者により、其の都度記録された抗議に関して書かれた数多くの文書の内容に帰着するのであります。
 枚挙し得ない程の頁数に亙る証言が多くの証人に依て数多くの閣議や連絡会議や重臣会議や枢密院会議並に軍事会議に就いて為されております。而してこれ等は総て経済封鎖や軍事的脅威の及ぼしつつある結果、日本が事態を緩和すべき何等かの手段を採るにあらざれば将来も継続して生ずべき結果を中心として行われたものであります。
 しかも其の手段を日本は辛抱強く外交交渉に依て試みたのでありますが失敗に終ったのであります。輸入禁止は最初日本を憤激せしめたが、漸次苛烈き頻発及び範囲を増大するに従て苦慮の状態に陥らしめ、遂に日本は己の頸に架けられたこの締道具を外交交渉に依ては最早断ち切れる希望が断たれたと覚り、自尊心を持つ他の如何なる国民も採るに相異なかった行動に出でざるを得なかった様に仕向けられたのであります。其の発生の都度記録せられ、充分に立証されているこれ等の事実は、昭和16年12月8日に煥発された詔勅に要約され、日本が自衛のために採った行動なることが示されているのであります。
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2007年11月14日

東京裁判弁護資料12

ローガン弁護人 最終弁論・自衛戦論「日本は徴発挑戦され自衛に起った」その2

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
これは昭和23年3月10日のもので、この「自衛戦争論」は通俗の「東京裁判史観」に対する最も効率的且つ強力な反措定をなしていると解説されています。
写真は空母赤城から出撃する真珠湾攻撃隊
akagi.jpg

引用開始
8:検事側は連合国は日本に対して専ら軍用品供給の削減を目的とする経済封鎖を行ったと申立てて居りますが、証拠はこの経済封鎖が、日本民間のあらゆる種類の物品や貿易、更に追て明らかにします如く、食物にまで影響しいた事実を物語って居ります。

9:これは一国家を圧倒的優勢の船舶を以て包囲しその貿易の自由を奪う従来の封鎖の方法以上のものでありました。即それは経済的に有力、且つ非常に優越せる諸強国が、その存立並びに経済を世界貿易に依存する一箇の島国に対して採った行動であったのでありました。

10:メリカが採った行動は、起訴状に於て告訴せられております如く、日本の対中国侵略を抑制する手段であるとして正当化しようとする検事側の理論に対しまして、日本側は欧米諸国が東洋に於ける実状を理解することを拒んだのであるという声明を以て、断乎これに答えて居ります。
 一国の主張するところが正しかったか否かを論じますことは重要でなく且不必要であります。証拠としての実際の価値は次の事実にのみ存するのであります。即ち、日本と欧米諸国との間に正当な論争点が存立したという事――即国家主義的な考え方からでありましょうとも、そうでない考え方からでありましょうとも、何れにいたしましても日本が脅迫威圧せられて居ったという結論に到達せしめうる問題――が実際に存立した事を示すことに証拠の価値は存するのであります。もしこの敗戦国政府の指導者達が、日本は脅威せられて居るという概念を抱きました事に対し、その当時、正当な根拠があったのでありますならば、一国家が危殆に置かれた場合は、自衛の為の決定権を有するという諸国家一致せる国際的発言に従って、侵略という要素は消散するのであります。
 この点を念頭に置きまして、我々は一歩進んで聨合国の対日経済活動を指摘致し法廷の御参考に資したいと存じます。而して我々は独り彼等のこの経済活動に関して事実を明らかにしますばかりでなく、更に進んで同じく聨合国の対日提携軍事活動について明らかに致すでありましょう。
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2007年11月13日

東京裁判弁護資料11

ローガン弁護人 最終弁論・自衛戦論「日本は徴発挑戦され自衛に起った」その1

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
これは昭和23年3月10日のもので、この「自衛戦争論」は通俗の「東京裁判史観」に対する最も効率的且つ強力な反措定をなしていると解説されています。
写真は日米交渉時の野村、ハル、来栖
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引用開始
1:日本が真珠湾を攻撃し、太平洋に於ける公然の戦争行為の開始を告げた時より13年前、アメリカに於きましては著名なる政治家の一団が、今は有名なケロッグ・ブリアン平和条約に対しアメリカがこれを批准することの是非を議する為にワシントンの国会議事堂に集まって居ったのであります。そしてこの一団中には同文書共同草案者の一人たる時の国務長官フランクB・ケロッグその人が交って居りました。

2:その時に行われました審議は議事録に収められ居るのでありますが、その審議の進行中、ケロッグ長官は「国家が攻撃されるのではなくって―経済封鎖を受けるとしたら――?」という質問を受けました。ケロッグ長官は「戦争しないで封鎖などということはありません」と答えました。その時一上院議員が「そういう事は戦争行為です」と云いますと、ケロッグ長官は「断然戦争行為です」と云ってこれに同意しました。

3:同じ会議中、ケロッグ長官は上院議員一同に対して次の如く述べました。「先にご説明申上げました通り、私は今日、或る国家にとって回避することの出来ない問題である、[自衛]若しくは[侵略者]という語についてこれを論じ定義する事は、地上の何人と云えども恐らく出来ないであろうと思うのであります。そこで私は次の結論に達したのであります。即唯一の安全な方法は、どの国家も、自国が受けた攻撃は不当なりや否や、自国が自衛の権利を有するや否やを自国の主権に於て自ら判断することであって、ただこれに就いては、その国家は世界の輿論に答えなければならないという事であります」
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2007年11月12日

東京裁判弁護資料10

ローガン弁護人冒頭陳述「太平洋段階第二部・日本に対する聨合国の圧迫」

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
これは昭和22年8月4日のもので、結果は全文朗読です。
写真は日米交渉に政治生命をかけた近衛
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引用開始
 我々は法廷に対し次の如き供述を致し、これにより日本に対する聨合国側の圧迫に関する日本側の見解についての証拠を爾後我々が提出します時、これを法廷御一統が充分に御了解下さいます事を希望いたします。我々の第一の目的は、次の事実を証明することであります。即ち、先ず欧米諸国は、日本の権利を完全に無視して無謀な経済的立法を行う事、又、真珠湾に先立つ数年間、右の諸国は、故意に、計画的に、而して共謀的に、日本に対して経済的軍事的圧力を加え、しかも、その結果が戦争となることは充分に承知であり、そう言明しながら、彼等が右の行動をとったという事実であります。又肯定的弁護として次の事実が証明されるでありましょう。即ち、情勢はいよいよ切迫し、益々耐え難くなったので遂に日本は、欧米諸国の思う壷にはまり、日本から先ず手を出すようにと彼等が予期し、希望した通り、自己の生存そのもののために、戦争の決意をせざるを得なくなったのであるという事実であります。

 その結果から見て、かくの如き希望が果して正しかったか否かということは、将来の歴史のみが大局的に判定するでありましょう。今ここで我々が問題とするのは、日本を遮二無二戦争に駆り立てるために用いられた手段であります。・・・・・
 1911(明治44)年以来日米両国間に結ばれて来ました通商航海条約は1939(昭和14)年米国側の廃棄するところとなり、1940(昭和15)年一月を以て失効することとなりました。対日物資輸出禁止は米国の政策の一つとして採用されました。月を経る毎に益々多くの品目がこのリストに付加されました。かかる差別待遇に対して日本側からは厳重な抗議がなされました。米国軍部と国務省官辺とは日本に対する措置について屡々意見を異にしながらも協力して事に当りました。1941(昭和16)年7月26日の最後的対日経済制裁を米国大統領が真剣に検討していた時、彼はかかる措置の当否について軍部首脳の意見を求めました。これに対する軍部の答申は断然「対日貿易はこの際禁止すべからず、もし禁輸を行えば、恐らく極めて近い将来に於て日本はマレー及びオランダ領東インド諸島を攻撃するに至り、而して恐らく米国を近い将来に太平洋戦争の渦中に投ずることとなるであろうから」というのでありました。
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2007年11月10日

東京裁判弁護資料9

カニンガム弁護人冒頭陳述「太平洋段階第一部・三国同盟」

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
これは昭和22年6月12日のもので、結果は全文朗読です。
写真はヒトラーと握手する松岡
sujiku.jpg

引用開始
 1940年9月27日、日、独、伊間に三国同盟が締結されました。
 検察側では、これが1938年及39年に右の参加国間に試みられたいわゆる「防共協定の強化」のための交渉の延長或は復活であり、この盟約はその本質において世界分割といわゆる「新秩序」の建設をめざす侵略国の計画の最後的発展を包含していると主張しました。若し許されるならば我々は、以下の事実を証明したいと思います。
第一に日本政府は「防共協定強化」の交渉を完全に打切った事。
第二に、独ソ不可侵条約が1939年8月23日締結され、これが日本にとって大きな衝撃となり、ために平沼内閣が倒れた事実であります。
 その結果日独関係は完全に打切られたのであり、ドイツのこの背信に対する日本政府及び軍部の非常な憤激と焦慮がこの関係破裂の原因でありました。日本と独伊二カ国との関係には検察側の主張されるような連関性はありません。これは決定的に証明されるでありましょう。

 右の事実は平沼内閣に次いだ阿部、米内内閣が外交方策の根本目標を日米関係の向上においた事実を示す書類を提出することにより確証されるでありましょう。彼等はこの目的達成のため全力を尽したのであり、日独関係はその間非常に冷淡でありました。合衆国はこの日本の努力に報いず、日本に対する合衆国その他諸国の経済的圧迫は日米通商条約の期限満了と共に強化されました。・・・・
 検察側は、三国同盟の目的が、いわゆる「新秩序」の建設、即ち世界から民主主義を消滅せしめ、侵略国による世界諸国の征服にあったと主張されました。
 この罪状の反証として、次の事実が証明されるでありましょう。即ち日本政府は、三国同盟を世界平和維持のため、自衛的、平和的目的を以て締結したという事実であります。日本の終局の目的は、世界各国、殊にアメリカ合衆国と、平等及び相互的尊敬の基礎の上に立つ友好関係を促進することでありました。日本は、この目的達成の第一歩として、当時日本が直面していた国際的孤立から脱却して、その外交的位置の退化を防ぐことが必要であると考えました。日本がアングロ・サクソン系諸国に対する接近政策に失敗し、アメリカの圧力増大の結果、完全な国際的孤立に陥る危険をみてとり、日本は、終局の目的、即ち日米国交の調節は、先ず第一に日本の国際的位置を改善する事なくしては、不可能であるという結論に達せざるを得なかったのであります。
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2007年11月09日

東京裁判弁護資料8

ラザラス弁護人冒頭陳述「対ソ関係」

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
 ここでは、検察側証人に対する弁護側の反対訊問の機会が全く与えられないこと、従って偽証を追及することが不可能であったことなどが記録されています。
これは昭和22年5月16日のもので、結果は全文朗読です。
写真はノモハンでの現地停戦交渉
nomohan.jpg

引用開始
 弁護団は今や本裁判の一部門たるソ連邦より提出された訴追に対する証拠を挙げようとします。その訴追は政治的並軍事的侵略に対するものでありまして、
 第一に政治的面としまして、防共協定締結が侵略であると訴えられて居ります。
 第二に軍事的面として1938年のハサン湖(又は張鼓峰)事件<1939年のハルヒン・ゴール(又はノモハン)事件及他の時期に於ける対ソ軍事侵略計画が挙げられて居ります。
 弁護は対極的に見て1928年より1945年までの日本の対ソ外交、軍事政策の流れは防御的であったと云うことであります。即ち国境不安に基づく軍事衝突は単なる偶発事件であり、計画的侵略の結果ではなく大流に反流する小波であるのであります。
 証拠の細部に入るに先立ち我々の立証すべき本件の非常に不満足ないわば無形な事件の性質を先ず指摘します。

 我々は自らでなく口供書によって証言して居る多くの証人の証言に直面して居ります。と申しますことは人類の虚偽に対する最も有力な武器である反対訊問の機会を全く与えられていないということであります。
 これ等証人の中の或るものは死亡したと言われるでありましょう。又他のものは証言をした時はソ連に対する「罪」を侵したと称せられて拘禁又は取調中であり、又他のものは通常の戦時俘虜であると言われて居ります。これ等俘虜は帰国させられて居れば反対訊問に付することが出来るのでありますが、終戦後二十一ヶ月経ったにも拘らず未だ日本へ帰国させられて居りません。一例に於ては証人を提出せよとの裁判所の直接命令に対し証人も回答も出ていない場合があります。・・・・
 唯の一回といえども裁判所は弁護団のためにソ連管理下の証人の出廷を求める呼出状を発しても成功したことは遂にありません。・・・・
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2007年11月08日

東京裁判弁護資料7

ラザラス弁護人冒頭陳述「支那段階」

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
これは昭和22年4月22日のもので、結果は部分却下(朗読禁止)です。
第一部門は盧溝橋に関するもので、これは以前に
当ブログでも詳細にしておりますので、裁判の焦点となるような部分だけにします。第二部門は共産党に関するものです。
写真は盧溝橋で凱歌を上げる日本軍
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引用開始
第一部門 盧溝橋事件及び日本の不拡大方針
 1937年7月7日午後11時40分、盧溝橋付近通称マルコ・ポーロ橋の地点にて演習中の日本軍一部隊は龍王廟に於て中国軍の射撃を受けました。当時日本軍及び現地中国地方官憲が事態を迅速に且つ局地的に解決せんと努めた事実は証拠により証明される筈であります。
 北支に於ける日本の駐兵は1900年の北清事変に関連する列国共同公文の第九条並に義和団事件議定書の第九条に基くものであります。而して日本軍がこの種の演習をなす権利は1902年の天津還付に関する日支間の数次の交換公文により認められております。これは大要次の如き趣旨のものであります。
「外国軍隊は教練、射撃又は演習をなすの自由を有す。但し、小銃又は大砲を発射する場合に於ては、事前通告を為す事を要す」。・・・・

 もし続いて7月25日に郎坊事件が起らなければ、事態はこれだけで解決したであろうと思われます。・・・・
 次いで7月26日いわゆる広安門事件なるものが起りました。・・・・
 証拠により明らかとなる如く、7月27日、日本駐屯群は事態の平和的解決にあらゆる方策を尽したが、ことここに至っては戦闘をなす以外に途がないという旨の声明をなしました。同日東京に於ても内閣書記官長が同様の声明を発しました。これら声明に於て、日本の敵とする所が中国軍のみであって、決して中国人民ではない旨が明らかにされました。
 更に、右声明は日本軍の意向が、迅速なる平和及び秩序の回復、第三国権益の尊重、及第三国国民の生命、財産の保護にあることを指摘しています。日本が北支に何ら領土的野心を有していなかったことも亦それによって明瞭であります。
 ここまでは、日本の行動は北京及び其の周辺の地域に限られて居ったのであります。7月2日に通州事件が勃発し二百名の邦人居留民が中国保安隊の手で虐殺されました。同日、塘沽及び天津所在の日本軍も亦、攻撃を受けましたことは証拠によって示さるる通りであります。右諸事件の結果、本事変は、はしなくも該地域にまで拡大されたのであります。七月を通じて、事変を局地的に止めんとする日本側の意向及び努力には何らの変りもありませんでした。7月11日の協定を再三蹂躙しましたのは実に中国側でありまして、日本側軍事行動は、追って立証されますように、さきに列挙せる何れの事件に於きましても、全て純自衛的性質のものでありました。
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2007年11月07日

東京裁判弁護資料6

米アボット記者の満洲視察記

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
今回は昭和22年4月8日、法廷への提出予定であった著名な米国新聞記者による公平かつ偏見のない満洲問題に関する見解を一部抜粋してみます。結果は未提出となっています。
写真は張作霖爆殺現場
explosion.jpg

引用開始
ウイリアム・J・アボット
クリスチャン・サイエンス・モニター編集主幹
(1931年12月5日)

 満洲に於ける軍事行動と外交活動の舞台から合衆国へ帰ると、殆ど米国人は極東情勢に関する正確な知識を所持していないという印象を持たざるを得ない。即ち、日本は国際聯盟構成国としての協調に違反し、九カ国条約下の責任を全く忘れ去り、パリ条約を故意に廃棄しようとしている、そして、友好国の領土を狙い、軍国主義的土地掠奪者の役割を演じている、といった漠然とした印象を抱いているようである。
 私はこれらの嫌疑のどれ一つとして成立しないと確信している。しかし、満州の支配をめぐって現在進行している論争の理非曲直については、若干の考察なしには理解できないであろう。

責任ある政府の不在
 有効かつ責任ある支那政府は、今日存在していないという率直な断言に、支那に好意を持つ友人達がショック受けるだろうことは判っている。それでも私は、この断言が文字通りに正しいと信じている。
 南京政府の権威は、支那の領土と国民のほんの一部にしか及んでいない。それは未だかつて一度も満州に及んだことはなく、その領域は、盗賊としての手腕で獲得した権利を父親から相続したところの「若き元帥」張学良によって支配されていた。
 南方に於ては、南京政府の権威は、広東政府として知られているものによって、実質的に存立を危うくされている。・・・・
 中華民国の真の創立者である孫逸仙の未亡人は、現在の政府は彼女の夫が発表した基本理念に合致していないと非難した。彼女の否認は、彼女の弟の宋子文がその政府の財政部長をしているという事実によって、更に印象深いものになっている。広東側は、蒋介石が南京政府を率いている限り合同を拒否した。それなのに日本は、この指導者とのみ取引すると主張している。
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2007年11月06日

東京裁判弁護資料5

ワーレン弁護人・岡本(敏)弁護人冒頭陳述

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
今回は昭和22年3月18〜19日のワーレン弁護人「満洲部門」冒頭陳述の一部からで、全文朗読となりますが、陳述で予告された後日の書証提出の多くが却下となっています。
 ここでは柳条湖事件前の状態が如何なるものであったのかを説明しています。
写真は柳条湖現場を検証するリットン調査団
lytton.jpg

引用開始
 満洲部門に関する証拠を提出するに当たりまして、1931年9月18日のいわゆる奉天事件を中心とする問題は既に終了せるものと見なされて居り、且つポツダム宣言もかかる古き事件を追及しようとは考えていなかったという事を最初に謹んで申し上げます。

第一節 奉天(柳条湖)事件前の諸問題
 露仏独のいわゆる三国干渉は遼東半島に対する日本の正当なる主権獲得を阻害し、日本軍が撤退するや否や、右三国及び英国は中国をして其の領土の移譲を強制せしめ又露国は中国と秘密条約を締結し、全満を占領し、朝鮮にも侵入せんと企てました。日本は其の隣国と同様の運命に陥るを欲せず、1904〜5年露国と戦いこの失地を恢復するに至ったことは証拠の示す通りであります。爾来日露は1907年乃至1916年に締結せられた協約により満蒙に於て勢力範囲に付て諒解に到達しましたが、過去の経験は日本をして権益の確保に細心ならしめたのであります。従ってその目的のため1905年乃至1915年に於て日本と中国との間に幾多の条約及び協定が調印せられました。
 併しながら1921〜22年のワシントン会議前後に於て、日本はドイツより獲得せる山東半島の権益を中国に還付し中国に対する借款及び顧問に関する優先権を放棄し、且つ日本の極東に於ける優越的地位を認めた石井・ランシング協定及び日英同盟を破棄致しました。これらの事実は日本がその隣国殊に中国に対し日本居留民が該地に於て迫害せられて居るにも拘らず友好関係を維持せんと努力した誠意を示すものに外ならないのであります。
 1911年の中国革命、1917年の露国革命は極東を徹底的な混乱に陥れたことを立証致します。至る所に排外運動殊に排日ボイコット及びテロが行われました。弁護側は奉天事件前に於て蒙った日本人生命及び財産の損害に付き証拠を提出致します。中国内乱の悪化が日本権益に及ぼした影響、殊に一方に於て満州の張作霖が北支に侵入し北京に於て元帥と称すれば、他方に於て国民党は北伐の師を起し、南京政権を樹立したことによる影響を説明します。・・・・
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2007年11月05日

東京裁判弁護資料4

ウィリアム・ローガン弁護人冒頭陳述

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
これは昭和22年2月25日のローガン弁護人冒頭陳述の一部からですが、これも部分却下となり、陳述で予告された後日の書証提出の多くが却下となっています。
写真はローガン弁護人
lowgan.jpg

引用開始
第一 降服、本裁判所の創設、諸条約、並びに日本の憲法その他諸法規に関する基本的証拠書類の最終部分から。
(書証提出却下部分)
 日本の諸国策の樹立されたのは、軍事的諸事件発生後のことにして、その前にあらざることを立証致します。かくて、その後の諸政府は、当時の状況をそのまま受け容れざるを得ざりしものであって、これら諸事件の局地的解決のために・・・の企てが為されたのであります。

第二 国際法を創設するものとしての諸条約に関し他の諸国家の為せる行動及び声明、個人的責任の存せざること、外交上の責任免除、並びに訴追され居る犯罪の性質、に関する証拠より
 検察側諸国家中には自己の行動並びに権限によって、自ら、各種条約の規定約定を犯し、且つこれを無視したるが故に、これを日本に強要せんとすることは禁反言の原則により為し得ざるものなることが立証せられます。例えば特に、ロシアのフィンランド侵略、ロシアの国際聯盟よりの追放、ロシアのバルト諸国侵略、ロシアの満洲侵略及び、イギリスとロシアのイラン占領に関する証拠を提出致します。

 諸国家代表の公式声明、及び諸委員会の議事録を証拠として提出致します。これはある種の条約の効力並びに解釈に対する諸国家の意義並びに意図に関する疑念を一掃するものであります。
 何故に或る種の条項が国際法に照して、一部は採択され、一部は拒否せられたかの理由及び決定を明らかにするものであります。更に条約違反に対する個人的責任を創定したり、或はそれに対し個人的処罰を規定したりするような意図乃至は協定は、諸列強に絶対に存せざりしことが検察側諸国の代表の行動及び声明中より立証せられます。これは周到なる準備がなされたるにも拘らず、遂に採択せられざりし、ブカレスト約款によって立証せられます。
 同様の禁止例は1922年の潜水艦戦闘条約、ヴェルサイユ条約に伴って持たれた会議及び委員会会合並びにハーグ条約第二章、第三条の四項中に証明されております。更に、太古より、外交官に対しては責任免除の権限を与えんと諸国家が常に企図せることは、エ・ラ・シャベル条約、ウィーン条約、及びウェストファリア条約の立証する通りであることが示されます。
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2007年11月03日

東京裁判弁護資料3

高柳賢三弁護人結語

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
今日も高柳賢三弁護人冒頭陳述で、その結語の一部からですが、第一回は昭和22年2月24日で、全文却下(全面朗読禁止)で、昭和23年3月の最終弁論でようやく全文朗読されたものです。
判決文朗読に聞き入る弁護団
defence2.jpg

引用開始
 本裁判の開始以前に、わが法曹界では、いわゆる裁判所条例なるものは、裁判所に対し敵国の指導者を処罰する権限を与え且つこれを命ずるために現行国際法の法則にお構いなく包括的用語を以て規定せられた専断的な裁判指針にすぎないとか、いわゆる裁判所なるものは、司法的機関ではなく刑罰をふり当てる行政的機関にすぎぬとか、条例に表現された聨合国政府の政策と抵触する場合には国際法は当然無視されるであろうから今更むきになって国際法の議論をしてもはじまらない、といったような意見がしばしばささやかれたのであった。

 しかし1946年5月3日、本裁判の開廷に当って裁判長が述べられた「本日ここに会合するに先立ち、各裁判官は、法に従って恐れることなく,偏頗の心をもつことなく、裁判を行う旨の合同誓約に署名した」、「われわれの大きな任務にたいして、われわれは事実についても法についても虚心坦懐にこれを考慮する」、「検察側は合理的な疑の存せぬ程度に有罪を証明すべき立証責任を負う」との言葉によって右のような迷想はほとんど解消したのである。
 法に優越する何者をも認めない英米の法伝統を知る者にとっては、裁判長のこれらの言葉の意味は明々白々であった。懐疑主義者はたしかにこれは面喰ったが、しかしなお「法に従って」とは「国際法に従って」という意味に用いられたのではなく、「条例に規定せられた法に従って」という意味にすぎないのだと言い張った。
 しかしさらに主席検察官がその劈頭陳述において、被告人達は国際法に関する行政府の決定によってではなく、現行の国際法そのものによって断罪せらるべきであり、本条例はかかる現行国際法を宣明せんとするものに過ぎないゆえんを明白にされた。これによってこの疑は完全に解消した。
 主席検察官自ら、コモン・ロオに育まれた著名な法律家である。私人に対する政府の特権を何ら認むることなく、行政府の法解釈も公正な裁判所によって排斥されることを認めるという英米司法裁判の特徴をなすフェア・プレイの精神を体得しておられるのである。そして政府の代表者も判決に於て自らの主張が全部排斥された場合にも、欣然としてこれに服するのである。

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2007年11月02日

東京裁判弁護資料2

高柳賢三弁護人冒頭陳述

 戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回も小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。
今日は高柳賢三弁護人の冒頭陳述のごく一部ですが、第一回は昭和22年2月24日で、全文却下(全面朗読禁止)で、昭和23年3月の最終弁論でようやく全文朗読されたものです。
写真は法廷内の弁護団
defence.jpg

引用開始
 さてわれわれは、右の如き一般に認められた解釈の準則に従って当時の責任ある政治家のなした声明を顧ることとしよう。
(イ)アメリカ合衆国
 ケロッグ国務長官は、1928年4月28日の演説において次の如く述べる。
「アメリカの作成した不戦条約案中には、自衛権を制限乃至毀損するが如き点は少しも存しない。自衛権はすべての独立国に固有のものであり、又あらゆる条約に内在している。各国家はいかなる場合においても、又条約の規定いかんにかかわらず、攻撃もしくは侵略から自国の領土を防衛する自由をもち、自衛のために戦争に訴える必要があるかどうかは、その国のみがこれを決定し得るのである。正当な理由ある場合には、世界はむしろこれを賞讃し、これを非難しないであろう」。

 次でケロッグ国務長官は、右条約調印を勧告せられた各国政府にあてた1928年6月23日の覚書において、フランスの強調した六項目の重大な「考慮事項」に関連して条約に対する彼自身の「解釈」を明らかにした後次の如く述べたのである。
「かかる事情の下に、余はここに貴政府の考慮をわずらわすため、上述した変更を含む戦争放棄に関する多辺的相互条約の草案を伝達するの光栄を有するものである」。
 合衆国においては、周知の如く、本条約のモンロー主義に及ぼす効果につき大きな懸念が抱かれたのであったが、ケロッグ氏は1928年12月7日上院外交委員会に対して、モンロー主義の保障は、本条約が自衛行為を排除せず、且つ自衛行為であるか否かは合衆国のみがこれを判定する権利をもつことのうちに含まれているから大丈夫だといった。氏はさらに、アメリカ政府は国家の防衛又は国家に危険を及ぼすべきおそれある事態を防止するために必要と信ずる処置をとる権利を有すると述べ、この法則は全て他の国家にも均しく適用せられることを認めた。国務長官は又、アメリカ政府は自衛の問題の決定をいかなる裁判所に委ねることをも承認しないであろう、又他国政府もこの点については同様承認しないであろうと述べた。
 ボラー上院議員は、1929年1月3日の上院における演説及び討論について、何が攻撃となるか又何が防衛の正当性を理由づけるかを自ら決定する権利を放棄する国はないであろうと述べ、又合衆国は、他国の行動が合衆国自身に対する攻撃の性質を帯びないかぎり、これに関して自衛問題を決定することには関与しないであろうと明言した。・・・・・
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2007年11月01日

東京裁判弁護資料1

清瀬一郎弁護人冒頭陳述

戦後レジームの根元と考えています東京裁判の内容が如何なるものであったかを実際の弁護記録から知っておくのも大切なことだと考えます。
 今回からは小堀桂一郎氏編「東京裁判日本の弁明[却下未提出弁護側資料]」から抜粋して、東京裁判が茶番と言われる所以が判りやすい部分を記述してみます。先ずは清瀬一郎弁護人の一部から。
昭和22年2月24日、部分却下、一部朗読禁止
写真はキーナン検事とやりあう清瀬一郎弁護人

kiyose.jpg

次は朗読禁止された部分です。
引用開始
(以下は朗読禁止部分)
 日本は1945年7月26日聨合国より申入れたポツダム宣言を受諾し其後降服をしたのであります。本裁判所は此の降服文書の条項に基いて創設せられました。聨合国申出のポツダム宣言を全体的に受諾したりという意味に於て無条件に降服したりということは誤りではありませんが我々はポツダム宣言それ自身が一の条件であるという事を忘れてはなりませぬ。
 ポツダム宣言はその第五条に「以下が我々(聨合国)の条件である。我々は断じてこれを変更することなかるべし」と明言して居ります。無条件降服という文字はポツダム宣言ポツダム宣言第十三条と降服文書第二項に使用せられて居ります。これはいずれも日本の軍隊に関することでありまして我軍隊は聨合国に無条件に降服すべきことを命じて居るのであります。ここに無条件降服という文字を使用したるがためにポツダム宣言の他の条項が当事者を拘束する効力を喪うのであると解すべきではありませぬ。

 而して本件に於ては同宣言第十条に於て使用せられた「戦争犯罪」という文字の意味が重要な問題となって居ります。そこで弁護側は日本側、換言すればポツダム宣言を受諾するに決定した時の日本の責任者が宣言受諾の時この問題たる字句をいかなる意味に解したかを証明するでありましょう。又1945年の7月末又は8月初に於て日本並に世界の文明国に於てこの文字を一般にいかに解して居ったかということを立証する証拠も提出せられます。これにより国際法に於て用いられる右語句は「平和に対する罪」及「人道に対する罪」を包含しない事が明かとなります。
 以上は当裁判所がこれを設定したる基礎たる憲章中の第五条のA及Cの犯罪につき管轄を有せずとの主張を支持するが為に必要であります。
 ポツダム宣言受諾により日本は当時現に戦われつつあった太平洋戦争に降服したのであります。降服のときに満洲事件、張鼓峰事件、ノモハン事件について降服する考えはなかったのであります。
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2007年10月31日

降伏文書の確認

降伏文書の内容

 いつもお読み頂いて有難うございます。明日からは東京裁判で却下または未提出の破目となった弁護側の資料を掲載する予定ですが、その前に、是非前知識として「ポツダム宣言」と「降伏文書」の内容を再度確認しておく必要があると考えますので、ご存知の方には不必要かも知れませんが、念のため昨日のポツダム宣言に続いて今日は降伏文書を掲載しておこうと思います。

下記が重光葵、梅津美治郎が署名した降伏文書の内容です。一部現代漢字にして読みやすくしておきました。
写真はミズリー艦上で降伏文書に調印する重光全権
sign.jpg

以下が降伏文書です。

下名はここに合衆国、中華民国及「グレート・ブリテン」国の政府の首班が1945年7月26日「ポツダム」に於て発し後に「ソヴィエト」社会主義共和国聯邦が参加したる宣言の条項を日本国天皇、日本国政府及日本帝国大本営の命に依り且これに代り受諾す、右四国は以下これを聨合国と称す。

下名はここに日本帝国大本営ならびに何れの位置に在るを問わず一切の日本国軍隊及日本国の支配下に在る一切の軍隊の聨合国に対する無条件降伏を布告す。

下名はここに何れの位置に在るを問わず一切の日本国軍隊及日本国臣民に対し敵対行為を直ちに終止すること、一切の船舶、航空機ならびに軍用及非軍用財産を保存しこれが毀損を防止すること及聨合国最高司令官又は其の指示に基き日本国政府の諸機関の課すべき一切の要求に応ずることを命ず。

下名はここに日本帝国大本営が何れの位置に在るを問わず一切の日本国軍隊及日本国の支配下にある一切の軍隊の指揮官に対し自身及其の支配下に在る一切の軍隊が無条件に降伏すべき旨の命令を直ちに発することを命ず。
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posted by 小楠 at 07:27| Comment(4) | TrackBack(1) | 書棚の中の東京裁判

2007年10月30日

ポツダム宣言の確認

ポツダム宣言の内容

 いつもお読み頂いて有難うございます。今週の木曜日からは東京裁判で却下または未提出の破目となった弁護側の資料を掲載する予定ですが、その前に、是非前知識として「ポツダム宣言」と「降伏文書」の内容を再度確認しておく必要があると考えますので、ご存知の方には不必要かも知れませんが、念のため今日、明日でこの二つの文書を掲載しておこうと思います。その理由は、戦後レジームの原因と考えているものに、ポツダム宣言の誤釈があるように思うからです。最大の原因と思われる東京裁判、GHQの政策にも密に関わるこの二つの文書を、少し読みやすくして掲載しておきますので、脱却すべき事項が何であるかを検討される場合に、お役立て頂ければ幸です。先ずはポツダム宣言から。
尚、最も重要と考える第五項だけは、和文、英文の両方を示しておきます。
写真はポツダムのチャーチル、トルーマン、スターリン。この時スターリンはまだ宣言には参加していません。
potsdam.jpg

米、英、華三国宣言(1945年7月26日「ポツダム」に於て)

1、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及び「グレート・ブリテン」国総理大臣は吾等の数億の国民を代表し協議の上日本国に対し今次の戦争を終結するの機会を与うることに意見一致せり

2、合衆国、英帝国及び中華民国の巨大なる陸、海、空軍は西方より自国の陸軍及び空軍に依る数倍の増強を受け日本国に対し最後的打撃を加うるの態勢を整えたり、右軍事力は日本国が抵抗を終止するに至るまで同国に対し戦争を遂行するの一切の聨合国の決意に依り支持せられ且鼓舞せられ居るものなり

3、蹶起せる世界の自由なる人民の力に対する「ドイツ」国の無益且無意義なる抵抗の結果は日本国民に対する先例を極めて明白に示すものなり、現在日本国に対し集結しつつある力は抵抗する「ナチス」に対し適用せられたる場合に於て、全「ドイツ」国人民の土地、産業及び生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し測り知れざる程度に強大なるものなり、吾等の決意に支持せらるる吾等の軍事力の最高度の使用は日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし

4、無分別なる打算に依り日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的助言者に依り日本国が引続き統御せらるべきか又は理性の経路を日本国が履むべきかを日本国が決定すべき時期は到来せり

5、吾等の条件は左の如し
吾等は右条件より離脱することなかるべし、右に代わる条件存在せず、吾等は遅延を認むるを得ず

5、(英文)Following are our terms.
We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.
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2006年12月30日

レーリンクの東京裁判5

連合国の忌むべき戦争法規違反

「レーリンク判事の東京裁判」、この本は、東京裁判で判事を務めたオランダの国際法学者レーリンクを、イタリアの国際法学者のカッセーゼが1977年にインタビューした記録です。
ここでの引用文中、Cはカッセーゼ、Rはレーリンクの発言となっています。
写真は日本人弁護団
bengo.jpg

引用開始
C:東京裁判が非常に多くの批判を浴びたことはもちろんご存知でしょう。・・・
R:東京に滞在している間、私はウィロビー将軍とテニスをしました。彼はG2のトップでマッカーサーの献身的な崇拝者でした。オランダに帰国する直前、お別れを言うために彼を訪ねた時のことを覚えています。彼は私におごそかにいいました。「この裁判は史上最悪の偽善です」。彼は私に、こういう種類の裁判が開かれたことで、自分は息子に軍に入隊することを禁じるだろうともいいました。私は、彼にその理由を尋ねました。彼は、日本が置かれたような状況下では、日本が戦ったようにアメリカも戦うだろうと述べました。
 そしてまさに近年このことが証明されたのです。アラブ諸国が石油の供給をストップすると威嚇したとき、アメリカは彼らを武力で威嚇しました。アメリカの国防長官シュレジンガーは1974年1月の演説の中で、石油供給の保安は<軍事的>な義務であり、武力がそれを保護するために用いられるかもしれないと述べました。石油輸出禁止の時期の日本の石油状況を思えば、日本には二つの選択しかありませんでした。戦争をせずに、石油備蓄が底をつくのを黙認し、他国の情にすがるだけの身分に甘んじているか、あるいは戦うかです。それがウィロビーの理由でした。そんなふうに生存のための利権が脅かされれば、どんな国でも戦うだろうと彼はいいました。

C:東京裁判のどこが違っていれば、適切かつ公正な裁判になったのでしょうか? まず、法廷には中立国の人々が含まれるべきであったと思いますか?
R:はい、法廷には中立国ばかりではなく日本人も含まれるべきであったと思います。彼らはつねに少数派で、そのため問題を決定することができなかったでしょう。しかしとくに判事間の討議において、いろいろなことが噂されたりバイアスのかかった見解が出されたりしましたが、日本人判事がいれば他を納得させるようにそれらを批判できたはずです。たとえば日本の政府は、欧米の民主的ないし権威的システムとは非常に異なっていました。それは宮廷政治のシステムでした。この点について、日本人判事が出席すれば多くの誤りを避けることができたはずです。
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2006年12月29日

レーリンクの東京裁判4

本当に興味をもっていたのは真珠湾の復讐

「レーリンク判事の東京裁判」、この本は、東京裁判で判事を務めたオランダの国際法学者レーリンクを、イタリアの国際法学者のカッセーゼが1977年にインタビューした記録です。
ここでの引用文中、Cはカッセーゼ、Rはレーリンクの発言となっています。
写真は演説するルーズベルト
sensen.jpg

引用開始
C:東京裁判の政治的側面に話を移したいと思います。当時、裁判の遂行にあたって主たる目的の一つとして報じられたものに、「日本人に『犯罪はわりにあわない』ことを確信させること、二番目に・・・かつての東洋の敵と固い友情を結ぶこと」がありました。しかし、あなたは、裁判を行ううえでアメリカ人が本当に興味をもっていたのは真珠湾攻撃の復讐であった、という個人的な見解を述べました。
R:真珠湾攻撃はアメリカにたいへん強い印象を与えました。何千もの生命を犠牲にし、戦艦に多大な被害をもたらしました。調査委員会がアメリカで設置され、ショート将軍とキンメル提督に被害の責任があるかどうかが問題とされました。
 1941年11月にワシントンで交渉が行われたことを覚えていらっしゃると思います。日本の行動は、アメリカ、イギリス、中国、オランダの強い反発をさらに増幅しました。日本側にしてみれば、もっとも重要な問題は石油の輸出禁止です。日本はこの禁輸措置が棚上げにされることをもっとも望んでいました。11月26日、ワシントンの見解が鮮明になりました。インドシナ及び中国からの撤退が、経済的特権の代価となるであろうというものです。しかし、日本政府はそのような代価を支払おうとしなかったでしょうし、支払うことはできなかったでしょう。ハルの条件は戦争を意味し、彼もそれを承知していました。「事態は今やあなたがたの手にある」と彼はスチムソンとノックス(陸軍長官と海軍長官)に言いました。アメリカ政府は戦争が起こることを確信していましたが、日本によって開始されるように望んでいました。「日本が最初に戦端を開き、しかもわれわれがあまり甚大な被害を被らないように運ぶ必要がある」とハルは言ったのだと思います。
 それが1941年12月はじめの支配的な意見でした。野村、鈴木(来栖三郎の誤り、以下も同じ)両大使に対する日本政府の電文は解読されていたのです。
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2006年12月28日

レーリンクの東京裁判3

東京裁判の誤解による処刑
広田の処刑はいやな体験だった。


「レーリンク判事の東京裁判」、この本は、東京裁判で判事を務めたオランダの国際法学者レーリンクを、イタリアの国際法学者のカッセーゼが1977年にインタビューした記録です。
ここでの引用文中、Cはカッセーゼ、Rはレーリンクの発言となっています。
写真は起訴状朗読
kiso.jpg

引用開始
C:あなたの「反対意見」における広田の無罪と多数派決定おける死刑判決の相違は、広田の「外交政策」の新しさの解釈にあり、それは裁判においては大部分の人に理解されなかったというわけですね?
R:そうです。それは大部分の人にとっては非常になじみのない考え方だったのです。つまり非常に新しい戦略であり、理解を得てはいませんでした。1936年の「国策の基準」の中にある「我が外交政策はもっぱら円滑かつ友好的方法で国家計画を遂行し」という項目は便宜的なものとして考えられていました。しかし、そのような解釈はこの政府文書が極秘であり、ひとり政府部門の指針とされていたという事実を見逃しています。・・・

C:当時、日本の世論は広田の場合を<除き>、東京裁判判決を大筋において受け入れていたと報道されています。『ニューヨーク・タイムズ』には「明らかに日本人は、広田は軍の支配のもとで道具としての役目を果たしたにすぎないと依然として考えている」とあります。そのような誤解にもとづいて絞首刑が執行されるのを見るのはおぞましい体験だったでしょうね。
R:はい。まったくいやな体験でした。しかし、後に事態はもっと劇的に推移しました。ご存知のように国連憲章の基本的な意図は人権の推進にあります。1966年の二つの人権に関する条約には自決権に対する人民の権利について同趣旨の条項があります。国連憲章の意図する万国共通の人権の認識、とくに民族自決の権利は植民地主義と相容れないものです。
 ですから、早急に植民地制度が廃止されたことは理にかなったことでした。1960年の植民地独立付与宣言において植民地関係は違法とされ、後に総会で犯罪とさえ決議されたのです。これによって、総会は民族自決のための闘争を促進することになりました。それは「自由の戦士」を適法と認め、国連加盟国に自由の戦士を支持するように求めたのです。要するに、国連は民族自決の推進のための「破壊活動」それ自体を承認したわけです。四半世紀も経たないうちに、国連は広田が死刑になったと同じ政策を採択することになったわけです。
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2006年12月27日

レーリンクの東京裁判2

被告と日本人弁護団の態度

「レーリンク判事の東京裁判」、この本は、東京裁判で判事を務めたオランダの国際法学者レーリンクを、イタリアの国際法学者のカッセーゼが1977年にインタビューした記録です。
ここでの引用文中、Cはカッセーゼ、Rはレーリンクの発言となっています。
写真は東京裁判法廷全景
zenkei.jpg

引用開始
C:東京裁判の被告の態度はニュルンベルグとはずいぶん違いますね。ニュルンベルグの被告は国家ではなく、自分の生命、自分自身の立場を守ろうとしたのですから
R:そうです。・・・ドイツでは、人々はなるべくヒトラーから距離をとり、彼の行為は忌むべきものだといっていました。ヒトラーを守ろうとするものは誰もいませんでした。・・・・
日本人は、アジアと世界で、アジアを解放し、世界を変えるためにとられた日本の行動を擁護しました。そして、こうした観点から彼らは行動を起こしたのです。

C:日本人被告は、いわば一種の宿命論者だったのでしょうか。あえて有罪となることを覚悟していたのですか。自分が絞首刑になろうとなるまいと大きな問題ではなかったのですか。
R:ある人が日本人弁護団の態度を称して、「被告の墓に優雅に花を手向ける」人々と言いました。ある意味でこれは事実です。彼らは諦めているようでした。彼らは戦争に負けたのだから、自分たちの行動が非難されることがわかっていたのです。彼らはただ、ある観点からは自分たちの行動が理解され、おそらくは正当化されることを世界に示したかったのです。

C:被告たちは自分たちの威厳や名誉を保とうとしていると感じましたか。つまり、彼らは臆病ではありませんでしたか。
R:臆病? いいえ、そういう人はひとりもいなかったと思います。彼らには威厳がありました。二年以上、彼らの正面にすわっていて、言葉はかわさずとも、彼らの動きやしゃべっている様子はわかりました。彼らには信条がありました。・・・・あなたが日本人の内側に身をおいてみれば、彼らの多くが大衆に尊敬されていたことが理解できるでしょう。
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2006年12月26日

レーリンクの東京裁判1

レーリンク判事の東京裁判人物像

「レーリンク判事の東京裁判」、この本は、東京裁判で判事を務めたオランダの国際法学者レーリンクを、イタリアの国際法学者のカッセーゼが1977年にインタビューした記録です。
ここでの引用文中、Cはカッセーゼ、Rはレーリンクの発言となっています。
roling2.jpg

引用開始
※判事
C:東京裁判の実施に話を戻しましょう。判事団はどのように構成されたのですか。
R:最初、判事は九人しかいませんでした。後で二人加わったのです。ひとりはフィリピンから、ひとりはインドからです。・・・インドからパルが加わりました。彼は真にアジアの態度を代表する判事でした。フィリピン判事は完全にアメリカナイズされていました。アメリカと協力するフィリピンの支配階級に属し、アジア的なところはまったくありませんでした。

C:判事のなかに他に優秀な法律家はいましたか。
R:実際にわれわれの間には大きな年齢差がありました。東京に着いたとき、私は39歳でしたが、大部分の判事は若い中国の判事を除いて、おおむね60歳前後でした。彼らは自国では裁判所の判事をしていました。したがって彼らは国際法廷が国内法廷とは違うということ、国際共同体は一国の共同体とは異なるので、国際法は国内法とは違うということを理解するには年を取りすぎていました。国際法はそれぞれ異なる制度の間で機能するものです。それは、立法者のいない、判事のいない、主権者のいない法的共同体であり、垂直的ではなく水平的な社会関係なのです。したがって、国内法では有効なことが国際法では必ずしもそうとは限らないのです。

C:外交官あるいは軍のエキスパートが加わっていましたか。
R:オーストラリア人の裁判長、ウイリアム・ウェッブ卿[クインズランド高等法院判事]は政治的な力をもった人物でした。ニュージーランドのエリマ・ハ―ベイ・ノースクロフト氏は[最高法院]判事でした。ロシアのI・M・ザリャーノフ[陸大法学部長]氏は軍事裁判所の将軍でした。最初のアメリカ人判事のジョン・P・ヒギンズは、おそらく自国で判事をしていたのでしょうが、政治家でもありました。アメリカでは判事は政治的理由で任命されるのです。しかし裁判が始まるとすぐに辞任してクレイマー氏に引き継ぎました。彼は軍の司法組織の責任者をしていた人物で、それほどの権威ではない、そう思います。
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posted by 小楠 at 07:24| Comment(0) | TrackBack(1) | 書棚の中の東京裁判