2006年07月27日

終戦前夜

近現代史の復習・最終回
  今回で近現代史の復習の最終回とします。
 「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載してきました。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あったと思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【大東亜会議】
 「大東亜会議」が開催されたのは1943(昭和18)年11月5日で、ドイツの敗色はすでに濃くなっており、日本の劣勢も明らかになってきていました。
 参加者:日本首相東条英機、中華民国政府主席汪兆銘、満洲国国務総理張景恵、ビルマ(現ミャンマー)政府主席バー・モウ、フィリピン大統領ラウレル、タイ国首相ピプン名代ワンワイタヤコン殿下
 陪席者:自由インド仮政府主席チャンドラ・ボース
 日本は、戦争協力を得るという国益を優先させながらも、アジアの独立を支援しようという考えや動きがあったことも事実です。フィリピンやビルマは戦時中に独立を確定しました。
 日本に味方し、日本が敗れた場合には、民族独立運動そのものがつぶされるかも知れない。また個人的には抹殺されるかもしれないという危険があります。そうならないためには日本を批判しておいた方がよい、日本に抵抗しておいた方がよい、と考えるのは当然です。ビルマ・インドネシアは最終的にはそのように振舞いますが、それはお互いの立場を理解しあってのことです。
 日本の中にも、せっかく獲得したものを手放して独立させるのは損だという気持ちもあったでしょうが、やはり独立を助けるのが正しいという思いもあったはずです。そうでなければ、敗戦後2000人もの多くの日本人が現地に残り、インドネシア独立のため、再び植民地支配に戻ってきたオランダ軍と戦い400人が命を落とした説明がつかないでしょう
 1957(昭和三十二)年来日したインドネシアのブン・トモ情報・宣伝相は日本の政府要人に「ヨーロッパ人に対して何度となく独立戦争を試みたが、全部失敗した。・・・・日本軍が米・英・蘭・仏をわれわれの面前で徹底的に打ちのめしてくれた。・・・・独立は近いと思った。そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、われわれがやらねばならなかった。それなのに日本だけに担当させ、少ししかお手伝いできず、誠に申し訳なかった」と述べています。インドネシアやビルマの親日感情はこうしたところから生まれたのです。
 そして終戦後、日本に戦い方を教わった彼らが中心となって、次々と欧米の植民地から独立を勝ち取っていったことは厳然たる事実です。

 【カイロ会談】
 1943(昭和十八)年11月、ルーズベルト大統領・チャーチル首相・スターリン・蒋介石主席がカイロで会談し、日本に無条件降伏を要求し、降伏後の日本の領土決定、朝鮮の独立などを話しあったが同意に至らず流産になりました。
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2006年07月26日

日米開戦前夜

近現代史の復習18
 カテゴリー<近現代史の復習>で、反日、左翼、新聞、テレビから発する嘘、隠蔽、捏造での汚染を予防するため、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【大西洋憲章】
 1941(昭和十六)年8月14日、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は大西洋上で会談を行い、第二次世界大戦における両国の協力を約束した「大西洋憲章」を発表しました。
 アメリカの世論はヨーロッパの戦争に参加することに反対であったため、ルーズベルトは決して参戦しないという公約を掲げて大統領に三選しましたが、イギリスがドイツに負ければ、アメリカが直接ドイツと対決しなければならないと考えていたルーズベルトは、何とか参戦してイギリスを支援したいと考えていました。
 一方チャーチルもドイツには連戦連敗で、ドイツに勝つには何とかアメリカを戦争に引きずり込むしかないと考えていました。しかしアメリカの世論が参戦反対、不介入であったため、ドイツと同盟している日本とアメリカが戦争をすることになれば、必然的にアメリカはドイツとも戦うことになるとして、アジアで米蘭支と協力してABCD包囲陣を作り、日本を経済的に追い詰めていきます。結果的にアメリカは「裏口(太平洋)」からヨーロッパの戦争に参加することになりました。

 【東条内閣】
 陸軍を抑えられるのは東条英機陸相しかいないということ、そして東条は天皇の命に厳格に従う人物であるということから、東条が近衛の後継首相に選ばれます。東条は首相と陸相を兼務し、外相は和平主義者の東郷茂徳でした。そして10月上旬までに対米交渉解決の目処がつかない場合は対米宣戦に踏み切るという、9月6日の御前会議決定は破棄し、国策を決定するようにという天皇のお言葉が伝えられます。その後東条は「東条の変節」といわれるほどの非戦論者になります。

 【甲案・乙案】
 東郷外相が提示したのが、いわゆる甲案・乙案です。そして11月30日まで外交交渉を続けることが11月5日の御前会議で決定されます。甲案は、支那の門戸開放、支那・仏印からの撤兵についてアメリカに譲歩した案。乙案は、甲案不成立の場合、日本の南部仏印撤兵とアメリカの輸出解禁により戦争を回避するという暫定案です。
 甲案は11月7日にハル国務長官に提出されましたが、ハルは関心を示さず不成功。11月20日には乙案を提出しますが、すでに大西洋憲章で参戦を決意していたアメリカは、この提案に興味はなく黙殺されました。
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2006年07月25日

ABCD包囲陣

近現代史の復習17
 カテゴリー<近現代史の復習>で、反日、左翼、新聞、テレビから発する嘘、隠蔽、捏造での汚染を予防するため、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【東亜新秩序】
 1938(昭和十三)年11月、近衛内閣が「東亜新秩序」建設の声明を発表。
 世界列強がブロック経済体制を確立している中、日満支の経済ブロック建設は、日本にとっては自存自衛の策でした。しかしアメリカは門戸開放主義に反するとして反論し、蒋介石支援のため対支クレジット2500万ドル供与を発表しました。日本に対しては1939(昭和十四)年1月には航空機・部品の道義的禁輸を実施し、7月には「日米通商航海条約」の廃棄を通告してきています。
 こうした中で9月にドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発しました。

 【北部仏印進駐】
 翌1940(昭和四十)年3月アメリカは蒋介石政府にさらに2000万ドルの借款を供与。日本に対しては7月工作機械や石油・屑鉄を輸出許可制とし、日本に大きな打撃を与えます。
 6月にフランスがドイツに降伏すると、直ちに日本政府は仏印(フランス領インドシナ、現在のベトナム)当局に「援蒋ルート」(蒋介石政権を援助するための物資輸送ルート)による援助物資輸送の中止を要求しました。そして2ヶ月に及ぶ外交交渉の末、「仏印の領土保全とフランスの主権を尊重する、軍隊は6000人以下、4カ所の飛行場周辺に限定、支那事変解決までの臨時措置であること」を明文化して(松岡・アンリ協定)9月「北部仏印進駐」を開始しました。これはフランスのビシー新政府との合法的協定でしたが、アメリカはこの協定を認めず10月、屑鉄・屑鋼の対日輸出を禁止しました。

 【日独伊三国同盟】
 1939(昭和十四)年8月23日ドイツは突如「独ソ不可侵条約」を締結します。日本は「日独防共協定」違反としてこれに抗議しました。
 9月1日、ドイツはポーランドに侵攻し、9月3日イギリス・フランスはドイツに宣戦布告。ドイツの戦略は、日本を利用して極東におけるイギリスの立場を弱め、イタリアの地中海における勢力拡大によりイギリスを牽制しようとすることでした。一方日本の戦略はあくまでも「防共」で、敵はコミンテルン・ソ連であり、英仏を敵としない方針でした。
 ところが、ヨーロッパでのドイツの電撃的勝利で、1940(昭和十五)年6月にフランスが降伏すると、9月には簡単に「日独伊三国同盟」が締結されることになりました。ドイツの狙いは、極東で日本にアメリカを牽制させ、アメリカのヨーロッパ参戦を抑止することです。日本もドイツと組むことにより、強い立場での対米交渉を意図しますが、その結果「防共」が目的であった日独防共協定が、「対米」軍事同盟になってしまうのです。
 翌1941(昭和十六)年4月には「日ソ中立条約」が締結され、松岡洋右外相は、これによって実質的には日独伊ソの「四カ国同盟」により対米英交渉における日本の立場を強化し、支那事変を解決しようと考えました。しかしその2ヶ月後の6月に「独ソ戦」が勃発したため、この意図はあえなく崩壊します。一方ソ連は日本と米英の対立を望み、日本はドイツ・ソ連の思惑に翻弄される結果となります。
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2006年07月24日

日独防共協定

近現代史の復習16
 富田メモ問題で中断しましたが、再び近現代史の復習を続けます。
 カテゴリー<近現代史の復習>で、反日、左翼、新聞、テレビから発する嘘、隠蔽、捏造での汚染を予防するため、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【戦線の泥沼化】
 南京陥落後も「第二次トラウトマン工作」による和平交渉の努力を続けましたが、成功せず、近衛内閣はついに1938(昭和十三)年1月15日「国民政府を相手とせず」という声明を出し、蒋介石との和平交渉を諦めました。そして徐州・広東・武漢三鎮を占領し、蒋介石は重慶に逃亡して首都とします。こうして日本軍の戦線は際限なく拡大し、首都南京を陥とせば終結すると考えていた支那事変は、解決の見通しが立たない泥沼と化してしまいます。
 こうした中で、11月3日「東亜新秩序」建設の近衛声明が出され、これは日本・満洲・支那3国が一つの経済圏を作ろうというもので、後に「大東亜共栄圏」に発展しました。
 これに対し、従来より支那の「門戸開放・機会均等」を主張してきたアメリカは反発し、蒋介石政権を公然と支援するようになります。

 【汪兆銘・南京政府】
 蒋介石に共産党と協調するよう働きかけてきた国民党左派の汪兆銘は、
「国民党を内部から破壊せよ」というコミンテルンの秘密訓令を見て共産主義の実態を知り、反共に転じました。
そして汪兆銘は蒋介石に、共産党と手を切り日本と和平を結ぶことを主張します。しかし蒋介石は、西安事件(1936年12月)以後、共産党を受け入れ、対日抗戦に向かっていたため、汪兆銘の説得に応じません。共産党も、蒋介石が日本と和平を結ぶことは、その後に国民党が共産党掃討作戦を再開することを意味するため、必死で抗日戦に向かわせました。
 日本政府はこの汪兆銘たち和平派と接触していました。汪兆銘は蒋介石と絶縁し、1938(昭和十三)年12月18日重慶を脱出、1940(昭和十五)年3月30日に南京に新政府を樹立します。日本はこの政権を支持しましたが、汪兆銘も日本政府も、蒋介石を主席として迎える余地を残すため汪兆銘を主席代理として、重慶の国民政府との和平工作の努力を続けます。しかし交渉は成功せず、11月30日「日華基本条約」を調印して南京の汪兆銘政権を正式に承認しました。
 アメリカはもちろんこれを不承認、重慶の蒋介石政権を認める声明を発表しました。
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2006年07月21日

通州事件・支那事変

 近現代史の復習15
 カテゴリー<近現代史の復習>で、反日、左翼、新聞、テレビから発する嘘、隠蔽、捏造での汚染を予防するため、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【支那側の挑発】
 1937(昭和十二)年
7月25日 「廊坊事件」:電線修理に派遣された電信隊が支那軍に攻撃される。

26日 「廣安門事件」:北平・廣安門を通過中の天津駐屯の大隊が支那軍より乱射を浴びる。

27日 陸軍中央は、11日・22日と2回にわたり見合わせていた内地3個師団の動員をついに下命。
28日 天津軍、支那第29軍に全面攻撃を開始。
29日 「通州事件」:日本人居留民惨殺される。

 【通洲事件】
 盧溝橋の近くの「通州」という町で起こった日本人虐殺事件
 これは、「盧溝橋で支那軍が日本軍に大勝し、通州を襲う」というデマ放送が流され、これに動揺した通州の親日派である冀東保安隊が寝返って、通州の日本人居留民約260人を殺戮した残虐な事件です。
 旅順口事件・済南事件・通州事件など、みな支那伝統の虐殺事件です。眼球を抉り出したり、腹を割って内臓を引き出したり、陰部を切り取るなど、猟奇的な殺し方で、日本にはこのような習慣はありません。なお、直前に通州の支那軍に関東軍が爆撃した際、誤爆により冀東保安隊に死者が出る事件がありましたが、関東軍は冀東政府の長官に謝罪し、犠牲者の遺族に弔意を示し、この件は解決しています。
 「通州事件」はその余りの残虐さに、日本の世論は沸騰し、南京攻略動機の一つになっていますが、なぜかこの事件は日本の歴史書や年表に載っていません。

 【通州事件の残虐性の証言】
 以下は東京裁判で受理された「通州事件」の現場目撃証言の抜書きです。
「陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱していた。男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。子供は手の指を揃えて切断されていた。主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」
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posted by 小楠 at 07:20| Comment(4) | TrackBack(2) | 近現代史の復習

2006年07月20日

盧溝橋事件

 近現代史の復習14
 カテゴリー<近現代史の復習>で、反日、左翼、新聞、テレビから発する嘘、隠蔽、捏造での汚染を予防するため、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【満洲事変の終結】
 1932(昭和七)年の満洲建国後も張学良は満洲内の熱河省に留まり、反満抗日を続けていたため、これを万里の長城以南(関内)へ追った。これが「熱河作戦」です。
 その後、国民党政府は中央軍を北上させ、日本軍が関内に踏み込まないと知って長城から攻撃したため、ついに関内まで進撃します。これが「関内作戦」で、1933(昭和八)年5月31日「塘沽停戦協定」が締結され、長城の南部に非武装地帯が設定されます。
 この後、日中間には目立った戦闘はなく、満洲事変は終結します。
 最近15年戦争などという向きもあるが、適当な表現ではありません。それは、日中間の戦争が満洲事変からずっと継続していたかのように、また大東亜戦争が「満洲事変」から始まったかのように誤って理解されるからです。

 【満洲事変終結から盧溝橋事件まで】
1,蒋介石の国民党政府は、日本との争いが一段落し、共産党掃討作戦に注力することができた。そして第5次掃共作戦の結果、1934(昭和九)年、中共軍はついに瑞金を捨てて一年に及ぶ逃避行、いわゆる「大西遷」(長征とも)を余儀なくされました。

2,1935(昭和十)年には広田弘毅外相の「不侵略演説」などもあり、日中関係は比較的平穏でした。

3,延安にたどり着いた中国共産党を救ったのは、1935年のコミンテルンによる第7回反ファシズム人民統一戦線の宣言です。これに基づき「抗日救国」を全国に呼びかけた、いわゆる「八・一宣言」です。従来の労働者中心を変更し、小ブルジョア・労働者・農民・学生など各階層を味方にし、かつ国民党政府陣営に深く浸透する作戦でした。

4,1935年終盤、万里の長城南部に「冀東防共自治政府」が誕生、これは南京政府の支配を受けたくない華北人による親日政権です。これに対応して、国民党の南京政府もこれに隣接する北支那に、河北省とその北方のチャハル省を管轄する「冀察政務委員会」を発足させました。

 【西安事件】
 1936(昭和十一)年12月、蒋介石は、兵力が激減し壊滅寸前であった共産軍の根拠地延安に総攻撃をかけるため、張学良軍などを西安に集結させていました。ところが西安にやって来た蒋介石が、突如張学良に逮捕・監禁されるという事件が起きました。そして張学良は中国共産党との内戦の停止と抗日を要求する宣言を発表します。コミンテルンより蒋介石を殺さないよう指示を受けた中国共産党は、周恩来を西安に派遣し、蒋介石に共産党との協力を条件に張学良に蒋介石を釈放するよう説得し、こうして第二次国共合作が実現して、蒋介石は掃共を中止して抗日に向かうことになります。
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2006年07月19日

満洲国

 近現代史の復習13
 カテゴリー<近現代史の復習>で、反日、左翼、新聞、テレビから発する嘘、隠蔽、捏造での汚染を予防するため、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【アメリカとの比較】
1,アメリカは、1934(昭和九)年、「フィリピン」に自治を、そして10年後の独立を約束。日本は当初から「満洲国」の独立・主権を認めている。

2,アメリカはスペインから「キューバ」を解放し保護国化したが、日本は張学良政権から「満洲」を解放し独立させた。

3,アメリカは、アメリカ人居留民を保護するとして、1915(大正四)年、ハイチに侵略して19年間「占領」し続けた。日本は満洲の独立を支援した。戦後1994(平成六)年、アメリカはハイチに侵攻してセドラ司令官を追放して親米のアリスティド大統領を復帰させている。これは明らかに傀儡政権

4,アメリカはスペインとの戦争でフィリピンを奪い、独立させたのは45年後の戦後になってから。日本は即座に「満洲」の独立を認めている。

5,戦後のケースでは、1989年、アメリカ軍は「パナマ」に侵攻し、ノリエガ将軍を逮捕、エンダラ氏が大統領に就任し親米政権を樹立。

 【満洲国を承認した国々】
 満洲国は、世界中から認められなかったように思われているが、18カ国から承認されています。
 日本に続いて承認したのは、南米のエルサルバドル、続いてローマ教皇庁が承認します。1937年から1938年にかけて、イタリア・スペイン・ドイツ・ポーランドが、1939年にはハンガリー・スロバキア・ルーマニア・ブルガリア・フィンランド・クロアチア・デンマーク等の東欧・北欧諸国が承認しました。ドミニカ・エストニア・リトニアは正式承認はしなかったが国書を交換しました。大東亜戦争が始まると、タイ・ビルマ・フィリピン・自由インドも承認しました。
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posted by 小楠 at 09:02| Comment(6) | TrackBack(1) | 近現代史の復習

2006年07月18日

満洲事変

 近現代史の復習12
 カテゴリー<近現代史の復習>で、反日、左翼、新聞、テレビから発する嘘、隠蔽、捏造での汚染を予防するため、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【張作霖爆死事件】
 蒋介石の率いる国民党軍(北伐軍)に敗れ、北京から満洲の奉天に引き上げる列車に乗っていた張作霖は、1928(昭和三)年、日本の関東軍によって爆殺されました。[★最近出版されたユン・チアン著の『マオ』によれば、張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいて、ナウム・エイティンゴン(後にトロッキー暗殺に関与した人物) が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという]。
 日本の田中義一首相は、支那は国民党の蒋介石にまかせ、満洲は張作霖に支配させて、張作霖を通して満洲における日本の権益を守ろうと考えていました。
 以後満洲は張作霖の息子の張学良が支配するようになり、国民党と手を組み、満洲に国民党の「晴天白日旗」を掲げます。

 【柳条溝事件】
 1931(昭和六)年9月18日、奉天郊外の柳条溝で満洲鉄道が爆破されました。これは関東軍の石原莞爾中佐と板垣征四郎大佐が中心となって計画された事件で、関東軍はこの満鉄爆破事件を張学良の仕業であるとして、その本拠地を攻撃し、翌19日には満鉄沿線の諸都市を占領し、張学良はほとんど無抵抗で退却。わずか二ヶ月で全満洲を占領しました。
 日本政府は不拡大方針を掲げていましたが、現地の軍部を抑えることはできず戦線は拡大し、結局既成事実として事後承認となります。これを柳条溝事件又は柳条湖事件といいます。
簡単に満洲が占領された原因は
 関東軍の一万数千人に対して張学良軍は30万人とも45万人とも言われましたが、彼らは馬賊(騎馬の群盗)・匪賊(盗賊)の寄せ集めであり、張作霖、張学良時代、当時3000万といわれた満洲の民衆の支持を得ていなかったことで、満洲の民衆は悪政に苦しめられ、国家予算の85%が軍事費で、税金は数年先まで前払いさせるような有様でした。
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2006年07月17日

世界恐慌・ブロック経済

 引き続き近現代史の復習です。
 近現代史の復習11
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 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【ホーリー・ストーム法】
 ヨーロッパに遅れをとっていたアメリカは、輸入品に高率関税をかけようとしました。輸入品に高率関税をかければ、国内製品は相対的に安くなって売れるようになります。
 実業家でもあるホーリー議員とストーム議員は、従来を上回る高率関税法を議会に提出、対象は1000品目以上で、100〜200%中には800%という高率もありました。
 そして、この法案が通るかどうかという微妙な時期に、「暗黒の木曜日」が訪れました。1929(昭和四)年10月24日の木曜日、ニューヨーク証券取引所の株価が大暴落、これが「世界恐慌」の幕開けです。その翌年に「ホーリー・ストーム法」が可決されます。ニューヨークの株価大暴落は「世界大恐慌」の原因ではなく、「保護貿易思想」に基づく関税障壁合戦の結果です。
 アメリカは支那には「門戸開放」を唱えながら、自らの市場は「門戸閉鎖」したのです。
 これに対し世界中の国が報復措置として対米輸入関税率を引き上げ、そのためアメリカの貿易量は一年半で半分以下に落ち込み、世界全体の貿易も落ち込んで、世界中が不況に苦しむことになりました。
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2006年07月15日

済南事件と第二次北伐

 近現代史の復習10
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 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。
 
 【第二次北伐と山東出兵】
 蒋介石は1928(昭和三)年4月、国民革命軍総司令に返り咲き、「第二次北伐」を宣言しました。
 日本政府は、第一次北伐の際の「南京事件」の経験から、日本人保護のため4月下旬再度山東省に出兵しました。

 【済南事件】
 山東省の済南城には、北軍が撤兵すると5月1日蒋介石の北伐軍が入城してきました。2日、北伐軍の蒋介石より、治安は北伐軍が確保するから済南城内の日本軍の防御を撤去するよう要請がありました。
 日本軍は衝突を避けようと、徹夜で防御を撤去します。すると防御撤去直後の5月3日朝、北伐軍がいきなり居留民家を襲撃し略奪を行いました。日本の救援部隊が駆けつけ交戦状態に入りますが、済南城内のいたるところで日本人居留民が北伐軍により惨殺され、略奪なども含めると被害者は400人にのぼりました。虐殺の仕方は支那伝統の言語に絶する残虐なもので、「腹部内臓全部露出せるもの」「両眼球全くなし」といった、外務省公電や病院の検視結果があり、この結果日本国民の憤激は極度に沸騰しました。
 7日、日本の山東省派遣軍は12時間の期限付きで北伐軍の撤兵などを要求しましたが拒否され、砲撃を決意します。砲撃は敵司令部と城壁に限定し、安全地帯と避難路を指定したため、北伐軍は城外へ逃げ、11日には済南城を簡単に占拠しました。
 中共では、この事件を反日運動に利用しているが、それなら以下の事実はどう説明するのか。
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2006年07月14日

南京事件と第一次北伐

 近現代史の復習9
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 【混迷続く支那】
 ソ連はワシントン会議に参加することもなく、九カ国条約にも制約されず、従って自由にアジアを侵略することができました。
 支那には統一された近代国家は生まれず、軍閥・匪賊が跋扈する状態が続き、いくつもの政府が分立していました。満洲の馬賊から身を起した張作霖率いる「奉天政府」、袁世凱の後を継ぐ軍閥勢力による「北京政府」、そして南方に孫文の「広東政府」が分立することになります。この前年(1921年)には、中国共産党が成立しています。
 他の軍閥に敗れ満洲の奉天に逃れた張作霖は、その後巻き返しを図り、北京の実権を握ります。このように九カ国条約により、支那の領土保全・独立尊重などが列国の間で決定されたにもかかわらず、支那は混沌とした複数政府状態が続きます。
 1924(大正十三)年、ソ連は「北京政府」と「東支鉄道暫行管理協定」を結び、東支鉄道をソ連と支那と共同運営することを決めます。こうしておきながら同年、ソ連は張作霖の「奉天政府」とも同一の協定を結んでいます。このことは、ソ連がすでに満洲を支那から独立した自治地域であると認めていたことを物語っています。これは満洲事変後の『リットン報告書』に記載されています。

 【第一次北伐】
 孫文が死ぬと(1925年)、蒋介石が台頭し国民革命軍総司令となります。蒋介石は1926(大正十五)年、北方の軍閥政府を打倒するため北伐軍動員令を布告し、広東を発した蒋介石の北伐軍(国民革命軍)は、武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽)を陥落させました。蒋介石はさらに南昌に軍を進めますが、共産党と国民党左派はこれに従わず、武漢に国民党政府の移転を宣言しました。これに喜んだコミンテルンは、彼らに国民党右派と徹底的に戦うよう指示します。

 【南京事件】 1927(昭和二)年、蒋介石は「武漢政府」より国民革命軍総司令の地位を剥奪されましたが、蒋介石はそれを無視して北伐を続行、強大な軍隊で上海近郊・南京を占領しました。ここに
「南京事件」
が起こります。
 南京に押し寄せた北伐軍は各国の領事館を襲撃し略奪を働き、日本の領事館にも兵士が乱入・略奪しましたが、そのうち一般市民まで略奪に加わりました。
領事館の警備を担当していた荒木海軍大尉は、革命軍を刺激しないようにとの居留民たちの依頼で無抵抗主義を貫いたのですが、事件後、領事館警備の任務を全うできなかったとして、軍艦利根艦上で引責自決しました。
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2006年07月13日

共産主義の脅威

 近現代史の復習8
 カテゴリー<近現代史の復習>で、反日、左翼、新聞、テレビから発する嘘、隠蔽、捏造での汚染を予防するため、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。 
 
 【辛亥革命】
 日露戦争中の1905(明治三十八)年、孫文は東京で「中国革命同盟会」を結成、1911(明治四十四)年、武昌で革命軍が挙兵し、辛亥革命が起こると、急ぎアメリカから帰国し、翌年1月1日、中華民国の臨時大総統に就任しました。
 清朝皇帝を退位させることを条件に、孫文は袁世凱に大総統の地位を譲りますが、皇帝の座を狙う袁世凱は武力で孫文の国民党を弾圧し、孫文は日本に亡命します。袁世凱の死後、1917(大正六)年、孫文は大元帥となって広東政府を樹立しましたが、諸外国の承認は得られませんでした。諸外国は依然として北京政府と国交を持っていましたが、北京政府も全国を統治していたわけではなく、軍閥、匪賊らが跋扈する複数政府の状態でした。

 【コミンテルンの狙い】
 1917(大正六)年にロシア革命が起こり、ソ連邦が出現し、多数の国に共産党が結成され、1919(大正八)年、世界の共産党の国際組織であるコミンテルンができますが、ヨーロッパでの革命は失敗し、レーニンは革命の場をアジアに求めます。
 ソ連軍は1921(大正十)年、蒙古西方に侵入し、「トワ人民共和国」を樹立。1924(大正十三)年には「蒙古人民共和国」を樹立しました。
 清朝滅亡後軍閥が割拠し混乱が続く支那は格好の標的でしたが、そこには打倒すべきブルジョアジーもいなければ革命の担い手たるプロレタリアートもいませんでした。マルクスによれば資本主義が成熟したとき、プロレタリアートがブルジョアジーを暴力で倒すのが共産主義革命です。
 そこでコミンテルンは、清朝滅亡後十年近く経っても統一国家が成立せず、軍閥や匪賊に苦しめられている一般大衆に目をつけます。打倒する相手は軍閥・匪賊そして諸外国とし、排外運動に結びつけました。つまり排外運動を支援することにより共産主義を輸出し、それによって世界を支配しようと考えました。そしてこれは見事に成功します。

 【中国共産党と国民党】
 コミンテルンは、1921(大正十)年、上海で中国共産党を組織、これを支援すると同時に、国民党を利用しようとしました。1924(大正十三)年、国民党第一次全国代表大会が開かれ、この決議には国共合作が含まれています。翌1925(大正十四)年、中国共産党は「国民党内工作決議案」という秘密決議案を全党員に指令しています。その後国民党と中国共産党は離合集散を繰り返しますが、国民党内には共産主義分子が深く浸透していきました。
 孫文の命令でモスクワに派遣された蒋介石は、共産主義の危険性を嗅ぎ取り、国民党から共産主義分子を排斥しようとしました。
 国民党と中国共産党は、孫文を中国革命の父とし、それぞれの後継者を任じています。
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2006年07月12日

ワシントン会議

 近現代史の復習7
 カテゴリー<近現代史の復習>で、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【ワシントン会議】
 「ワシントン会議」の重要性は、アメリカが日本の躍進を抑えたことにあります。
 19世紀欧州列強が、アジアを植民地化し、アヘン戦争を経て植民地化が支那にまで及んだその頃、アメリカのフロンティアは西海岸に達し、さらに太平洋を経て支那大陸に到達したときには、列強による清国分割は終わっていました。
 そこで、遅れてきたアメリカは、支那における「門戸開放・機会均等」を唱え(ジョン・ヘイの「門戸開放宣言」1899)、清国における諸権益の分け前にあずかろうとします。
 日露戦争で日本がロシアに勝利すると、アメリカは次第に日本を警戒するようになり、支那大陸に勢力を伸張する日本が邪魔になってきました。
 第一次世界大戦でヨーロッパ諸国が疲弊しているとき、力をつけてきたのがアメリカと日本です。つまりアメリカは日本をライバルと考え、日本の力を削ごうとしたのです。そして1921(大正十)年提唱されたのが「ワシントン会議」です。
 ワシントン会議では、海軍の軍縮条約が締結されましたが、それ以上に重要だったのは、日英双方が継続を望んでいた「日英同盟」が解消されたこと、「九カ国条約」でアメリカの主張する支那の「門戸開放・機会均等」が欧州列強の支持のもと成文化されたことです。
 これにより日本は孤立化し、次第にアメリカに追い詰められていきます。
 
 【海軍の軍縮】
 1922(大正十一)年、ワシントン海軍軍縮条約で、主力戦艦の保有比率を(米:英:日)5:5:3に確定し、太平洋前進基地も現状維持することになりましたが、アメリカのハワイ、イギリスのシンガポールは除かれ、それぞれの防備が強化されます。この海軍軍縮は、関係国の財政負担軽減もありましたが、太平洋における日本の進出を抑えることが目的でした。
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2006年07月11日

二十一カ条の要求

 近現代史の復習6
 カテゴリー<近現代史の復習>で、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【要求の背景】
 ロシアの脅威は、日露講和条約を結んだとはいえ依然として消えていません。また1909(明治四十二)年、ノックス米国務長官は「全満洲鉄道の中立化提案」などにより日本の満洲における権益を脅かしました。
 1911(明治四十四)年、辛亥革命により清朝は滅亡し、袁世凱が中華民国の大総統となります。
 日本はこの袁世凱政府に、14カ条の「要求」と7カ条の「希望」、合計21カ条の承諾を迫っていました。袁世凱が英米等にこれを知らせ日本に圧力をかけさせるため、交渉の引き延ばし図りましたが、日本は4ヶ月、25回の交渉の末、「希望」であった第5号以下を削除した上、修正した「16カ条」を最後通牒として袁世凱政府に受諾させ、1915(大正四)年「日華条約」として調印成立しました。
*他の資料によれば、「最後通牒」として欲しいと言ったのは袁世凱の方からで、そのほうが国民の納得を得やすいからと言う理由からでした。
 これについては、K・カール・カワカミ著「シナ大陸の真相」もご覧下さい。

 【要求内容の実態】
 第1号は、既にドイツに与えていた山東省の権益を日本が引き継ぐもの。
第2号の「旅順・大連租借と満鉄等の租借期限延長」は既存の権益の期限延長であり、99年間という期間は、香港等他の西欧列強の租借期限と同じで、当時の租借期限としては他国と同一内容です。「満洲・蒙古での日本人の居住営業・土地所有」については、既に支那は外蒙で同様の特権をロシアに与えています
 第3号の「漢冶萍公司」は、八幡製鉄所と鉄鉱石輸出・石炭輸入の契約を結んでいました。同社は鉱山を担保として日本からの借り入れしており、さらに辛亥革命で革命軍に没収されそうになったため、日本から資金調達し没収を免れようとし、その条件として、日支合弁の仮契約が結ばれていました。
 第4号は支那沿岸を他国に割譲しないことを求めるもの。これに関しては、1900(明治三十三)年、アメリカが福建省沿岸・三沙澳の租借を企てたとき、日本から「アメリカ自身が主張する支那の領土保全に反する」とクレームされ断念した経緯があります。
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2006年07月10日

オレンジ計画

 近現代史の復習5
 引き続き、カテゴリー<近現代史の復習>で、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【日露戦の勝利】
 日露戦争の勝利は、白人の帝国主義支配に苦しむアジアの植民地に希望と勇気を与えた反面、欧米列強の警戒心を誘うことになりました。
 とりわけ、出遅れた支那に割り込もうと「門戸開放・機会均等」を唱えるアメリカにおいて顕著でした。
 ルーズベルト(セオドア)大統領は、新渡戸稲造の『武士道』を呼んで周囲に配ったほどの親日家でしたが、日露戦争で日本が勝利を得ると、その親日感は微妙に変化し始めます。

 【ハリマン計画】
 アメリカの鉄道王ハリマンは、ポーツマス条約で日本が獲得するであろう「南満洲鉄道」の共同経営を日本に持ちかけてきました。日本の大方の賛同を得て桂太郎首相と予備協定まで結びますが、小村寿太郎外相は、日露戦争で十万同胞の尊い命と二十億円の国費を犠牲にして得た満洲の権益を、アメリカ人ハリマンと共有するなど到底許されない、と猛烈に反対しました。
 結局この予備協定は破棄されます。アメリカは、支那大陸に進出したいと考えていましたが、日本がこれを独占してしまうのではないかと恐れ、次第に日本が邪魔な存在になっていきました。

 【排日移民法と人種差別】
 20世紀に入り、ハワイから米本土(主としてカリフォルニア)に移住する日本人が増えたため、米国人との間に軋轢を生じ、排日運動が激化します。そして日露戦争で日本が勝利すると、排日感情は一気に燃え上がります。
 1906(明治三十九)年、サンフランシスコでは日本人学童の隔離を決議し、これは撤回されますが、1908(明治四十一)年、日本は自主的に新規の米国移民を禁止しました。これが「日米紳士協定」です。
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2006年07月08日

韓国併合

 近現代史の復習4
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 【韓国併合に至る経緯】
 日露戦争が急迫したとき、韓国は世界に向けて密かに「局外中立」を発表しました。
 日露戦争開戦と同時に日本が先勝すると、韓国は親日に一変し、日韓議定書が結ばれ、その後1905(明治三十八)年「(第二次)日韓協約(韓国保護条約)」が締結され、日本は韓国の外交権を預かり、韓国を「保護国」としました。
 ポーツマス条約後、ルーズベルト米大統領は「将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみ。それが韓国の安寧と東洋平和のため最良の策なるべし」と言っています。
 韓国政府は必ずしも日本の勝利を確信できず、その後も日本に協力的ではなかった。しかし韓国の一般国民の中には日本に理解を示す人々も多く、日露戦争中に親日的な団体として「一進会」が結成されました。会員数は100万といわれます。
 1907(明治四十)年、韓国皇帝・高宗はハーグの万国平和会議に密使を送り、日本との保護条約の無効を訴えようとしましたが失敗し、高宗は退位することになりました。
 韓国併合に反対だった伊藤博文が安重根に暗殺され、ついに1910(明治四十三)年、日韓併合条約(韓国併合に関する条約)を締結して、日本は韓国を併合しました。
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posted by 小楠 at 08:22| Comment(2) | TrackBack(0) | 近現代史の復習

2006年07月07日

満洲と日露戦争

 近現代史の復習3
 カテゴリー<近現代史の復習>で、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。 
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【「満洲」は民族の名】
 「満洲は現在では地名となっていますが、本来は「民族名」でした。
 満洲には「ジュルチン」という民族が住んでおり、漢字では「女真」「女直」と書きます。ジュルチン族は仏教を信仰し「マンジュ菩薩」(文殊菩薩とも書く)を崇拝し、「ジュルチン」を「マンジュ」と変えました。これに満洲の字をあてて新しい民族名としたのです。

 【「東北」「東三省」「関外」「関東州」】
 現在、中華人民共和国は満洲を「東北」と呼びますが、中華民国時代は「東三省」と呼び、それ以前は「関外」と呼んでいました。「関外」とは万里の長城の東端にある「山海関」の外という意味です。「山海関の東」すなわち遼東半島の大連一帯を「関東州」といい、ここに置かれた日本軍が関東軍と言われたのです。
漢民族にとって、万里の長城より北は歴史的に異民族の土地であり支那固有の領土ではなかったのです。

 【日清戦争後のロシアの動き】
 三国干渉後、1896年「露清密約」により、清国はロシアの「東支(東清)鉄道」建設を許しました。また、1885年には、韓国はロシアの軍事顧問を受け入れ、港湾の使用を許可するとした「露韓密約事件」も起きています。もちろんロシアは、日本が三国干渉の結果清国に返還した遼東半島も横から何の苦もなく1898年に租借していました。

 【義和団事変・北清事変】
 (義和団事変については義和団事件時の日記もご覧下さい)
 1900(明治三十三)年、宗教的秘密結社である義和団が「扶清滅洋」(清朝を助け、外国を滅ぼす)を唱えて北京の諸外国公使館区域を包囲しました。すると清帝は義和団を義民とみなし、列国に宣戦布告したのです。
 列国は日本に出兵を要請しますが、日本は他国の疑惑を考慮して出兵には慎重な態度をとっていました。ロシアは、満洲占領の口実を得るため公使館区域の籠城者が殲滅されることを望み、欧米の日本に対する救援要請の妨害をしています。しかし、イギリスからの四回の要請を受けた日本は遂に派兵し、八カ国連合軍(約二万のうち半数が日本)が外交官や居留民を救出し、西太后・光緒帝は西安に逃れました。
 この結果締結された議定書により、日本は諸外国と共に支那駐屯軍を置くことになります。
 義和団事変で日本軍の軍紀の厳正さは各国の称賛を浴びます。最もひどかったのがロシア軍で、「江東六十四屯虐殺事件」と呼ばれる大虐殺を行っています
 事変後の北京城内管理で日本地区が最も治安が安定し、ロシア地区が最もひどかったため、北京市長は英国公使に、ロシア担当地区を日本軍が受け持つよう要請したほどです
 義和団事変で最も功績のあったのは日本でしたが、賠償金については多くを要求していません。以下主要国の賠償金要求割合は
ロシア・・・・29% ロシアは日本の四割の出兵。当初は欧米の
           日本軍出兵要請の妨害までしていた。
ドイツ・・・・20% 一兵も出兵せず。
フランス・・・16%
イギリス・・・11%
日本・・・・・7.7%
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2006年07月06日

朝鮮開国と日清戦争

 近現代史の復習2
 カテゴリー<近現代史の復習>で、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
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【明治日本と朝鮮】
 当時の日本にとって最大の脅威はロシアでした。ロシアは1860年には清国に沿海州を割譲させてウラジオストックに港を開いていました。このロシアが南下し、朝鮮を植民地化すれば、次は日本が標的となることは自明の理です。そこで明治政府が期待したのが朝鮮の開国・近代化でした。またこれは日本にとっての死活問題でもあります。
 明治元年、維新政府は朝鮮と修好回復を希望する国書を提出しましたが、その文中に清の皇帝と対等であることを表す「皇」の文字などがあるという理由で朝鮮は国書の受理を拒否しました。日本は、朝鮮が華夷秩序の中で、かたくなに国交樹立を拒否するため、先に清国との「日清修好条規」を締結します。

 ≪華夷秩序・小中華思想≫
 華夷秩序とは、世界の中心に天子のいる中華があり、その周辺の蛮族がみなその属国となって朝貢する関係のことで、この宗主国と属国の関係を「宗属関係」といいます。朝鮮は支那が親で、日本は下位の弟分と考えており、これを「小中華思想」といいます。現在でも韓国は日本の天皇を「日王」と呼んでいます。
 日本はすでに、聖徳太子が隋の煬帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という手紙を送り、華夷秩序を脱しています。
 ≪朝鮮の国名と年号≫
 14世紀末、李成桂が「李氏朝鮮」を建てたとき、明の朱元璋(太祖)より国号を報告するよう要請がありました。そこで李成桂は「朝鮮」と「和寧」を提示し、いずれとすべきか選んで欲しいと頼み、「朝鮮」と決めてもらいました。年号も明国の年号を使用しています。

【江華島事件(雲揚号事件)】
 1875(明治8)年、測量目的で江華島の沖合に停泊していた軍艦雲揚号の井上艦長が、飲料水を求め自らボートで陸地を目指していたところ、突如朝鮮側が発砲してきた。ボートで陸地に近づいたのは無害通行で、これに発砲するのは万国公法違反です。この武力衝突の結果翌年、江華島条約(日朝修好条規)が締結されました。この条約は「朝鮮国は自主の邦として日本と平等の権利を有せり」という、清国との宗属関係を否定した、朝鮮にとっては画期的な条約でした。
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2006年07月05日

列強のアジア進出

 近現代史の復習1
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 【外国の開国要求】
 ペリー来航(1853)よりかなり前から、日本近海には開港を求める外国船が頻繁にやって来ています。
 1779年にはロシア船が蝦夷に来て、松前藩に通商を要求。
 1792年にはロシア使節ラクスマンが根室に来航して通商を請いますが、幕府は拒絶。
 1796年にはイギリス船が室蘭に来航。1811年には国後に来たロシア軍艦長ゴローニンが捕らえられ、逆に翌年には高田屋嘉兵衛がロシアに捕らえられました。
 1837年にはアメリカ船モリソン号が漂流民を伴って浦賀に入港しましたが、1825年に発布された「異国船打払令」によって撃退されました。

 【アヘン戦争】
 イギリスは清国から茶を輸入していましたが、その支払いに大量の銀が流出するため、その防御策として、インドで作らせたアヘンを清国に輸出していました
 清国がこのアヘンの輸入を禁止したため、イギリスが軍艦を派遣して始まったのが1840〜42年のアヘン戦争です。清は南京条約により香港の割譲、広東の開港などを余儀なくされ、半植民地化されていきます。
 このアヘン戦争の結果は日本にとって大きな衝撃でした。時の老中水野忠邦が「アヘン戦争は外国の話しだが日本の戒めにしなければならない。そのためには改革を厳格に行い、国内政治を立て直さなければならない」として取り組んだ天保の改革(1841〜43)にはこの戦争の影響があらわれています。
 アヘン戦争で清国が敗れたことは日本の対外認識を大きく改めさせました。その13年後(1853)にペリーが来航、その15年後(1868)に明治維新が断行されました。
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posted by 小楠 at 07:14| Comment(3) | TrackBack(0) | 近現代史の復習