2006年09月19日

リンドバーグ日記1

 チャールズ・リンドバーグをご存知の方は多いでしょう。あの偉大な大西洋横断単独飛行をなしとげた方で、第二次大戦への米国の参戦には反対の立場でしたが、参戦の決定後は勇敢に従軍しています。
 彼は1937年11月から日記を書き始めましたが、この本は上巻の1938年3月12日から始まり、下巻の1945年6月11日までが掲載されています。
 この日記は結果として、第二次大戦史を日単位で、時系列で示すことになっている点でも興味があります。
 初回引用にあたり、リンドバーグがおよそどのような考えの持ち主であったかを端的にあらわしている、まえがきの部分から始めたいと思います。
チャールズ・リンドバーグ著「孤高の鷲」上から引用します。
lidbergha.jpg
引用開始
【まえがき】
 私が第二次大戦日記を公刊するのに25年間も待たねばならなかった理由ですが、まず第一に、この日記をしたためていた頃、自分にはこれを公にする気がまったくなかった。内容もプライベートな記録であったからです。第二に、書いてあるデータの一部があまりにも微妙であり過ぎるため、時間的な経過がその鎮静効果を発揮しないうちに公開するのが憚れた。第三の要因としては歳月と共に訪れる客観性や、新しい世代の物の見方に関連するものです。現在に立ち至っても、第二次大戦の苦渋とプロパガンダとはいまだに完全に消え失せていません。
・・・略・・・
 私はイギリスで1937年の年末ごろから、この日記を書き始めた。その主たる理由は、私が世界史上の大きな危機の一つにかかわりあいを持ちつつあるという自覚でした。ヨーロッパは戦争の前夜にあった。われわれの文明にとって破局的なものになりかねないが、しかし今ならばまだ阻止できると私が感じていた戦争です。
・・・略・・・
 私はゲーリング元帥の招待を受けてドイツ空軍を視察し、その結果はヒトラーの途方もない意図に穏やかならぬ不安感を抱いたのでした。
・・・略・・・
 私の結論はどうかというお尋ねですが、われわれは確かに軍事的な意味での勝利を得た。しかしもっと広い意味から考えれば、われわれは戦争に敗北したように思われてならぬなぜなら、われわれの西欧文化はもはや昔日のように尊敬されてもいなければ、確固としたものでもなくなっているからです。
 ドイツと日本とを敗北させるために、われわれはそれよりも脅威の大きいロシアと中国とを支援した――両国はいまや、核兵器の時代にあってわれわれと対決する関係にあります。われわれはおかげで、多くの人間が生きてきた悠久を通じて形成される根源的な遺産を失ってしまった。その間、ソヴィエトは鉄のカーテンを引いて東ヨーロッパを覆い隠し、何事にも反対する中国政府はアジアでわれわれを脅かしつつある。
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2006年09月16日

マッカーシーの告発終

ジョセフ・マッカーシー著「共産中国はアメリカがつくった」より。
マッカーシー(1908〜1957)はアメリカ共和党の上院議員です。
1950年に国務省に潜む共産党員の名簿を入手したと発言し、一躍世界の注目を浴び、彼の反共産主義運動は“マッカーシズム”と呼ばれました。
1995年に公開された「べノナ」文書(米軍諜報部が解読した旧ソ連情報部の秘密文書)により、マッカーシーの告発の正当性が証明されました。

引用開始
【周恩来に篭絡された国務長官】
 ジョージ・マーシャル国務長官の南京到着は全党派から歓迎された。蒋介石は、マーシャルが現実を直視さえすれば、米国の国益が何であるかすぐにわかるはずだと期待した。フリーダ・ウトレー女史が著書『中国物語』に書いているように、共産党は「マーシャル将軍を諸手を上げて歓迎した」
 ウトレー女史はこう続ける。中国共産党にとって幸運だったのは、重慶における彼らの代表が、ハンサムで、知性にあふれ、魅力的な周恩来だったことだ。周恩来は長年にわたり類まれな能力を発揮して、中国共産党は蒋介石の専制反動政府に反対するリベラルな農地改革者の党なのだから米国の支援を受けて当然である、という信仰を米国のジャーナリストたちに吹き込んでいた。再びウトレー女史の『中国物語』から引用する。
 ≪しばしばマーシャル将軍の住居に招かれた当時の重慶居住者には、周恩来がマーシャルを篭絡したことがすぐにはっきりした。「進歩的な共産主義者」と「反動的な国家主義者」という国務省の言い方に対してマーシャル将軍が当初抱いていた疑念は完全に氷解していた。魅力的な周恩来は、中国人が「根っからの」共産主義者ではないこと、もし米国が中国に「民主主義」を導入する手助けをしてくれればロシアとの連携を断ち切るということをマーシャルの頭に徹底的にたたき込んだ。
 マーシャルは旧友スティルウェル将軍の影響をずっと受けており、スティルウェルは中国共産主義者のリベラル路線を信奉していた。周恩来は彼の宗旨替えを完成させたにすぎない≫・・・略・・・
 マーシャルは「両陣営に満足のいくかたちで」内戦の政治的解決を果たそうと務めた。唯一の解決策は共産主義者や少数派の代表も入れた新政府だった。議会や法廷などをうまく機能させることができる、ふたつの軍隊を持つ政府である。
 共産主義者に国軍の一部を任せて、共産主義者の政治支配力が強い地域に駐留させることにする。結局検討のあげく、もちろん実践には至らなかったが、中華民国は五十個師団、延安の人民共和軍は十個師団もつことになった。
・・・略・・・
 マーシャルの任務はすべて延安に対する追従のひとつといえた。7月に周恩来の要請にしたがってウェデマイヤー将軍の中国大使任命を拒否したときこそ、彼が追従の姿勢をもっともはっきり表明したと言えよう。
・・・中華民国への米国大使が延安の共産軍によって選ばれたのだ。

【対中禁輸措置】
 マーシャルの中国への最初の干渉は共産軍のごまかしに乗って共産主義者に二つの都市を与えたことだ。その第二は長春における国民党軍の勝利を阻止したことだ。彼らの進軍を止めて共産軍に再編、再訓練、決定的反攻を準備する機会を与えた。そして第三の干渉は1946年8月に実行された。その長期にわたる効果は悲惨をきわめた。中国におけるロシア帝国主義の勝利を決定づける最大の要因であるといっても過言ではないだろう。
 マーシャルが、米国から中国に向けた武器の売買や輸送を禁じる措置をとったことに触れたい。この措置と国民党の武器入手を制限する細かな規制によって、マーシャルは中国の内紛で米国が中立的立場をとることを表明した。その結果はロシアのなすがままである。
引用終わり。
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2006年09月15日

マッカーシーの告発5

ジョセフ・マッカーシー著「共産中国はアメリカがつくった」より。
マッカーシー(1908〜1957)はアメリカ共和党の上院議員です。
1950年に国務省に潜む共産党員の名簿を入手したと発言し、一躍世界の注目を浴び、彼の反共産主義運動は“マッカーシズム”と呼ばれました。
1995年に公開された「べノナ」文書(米軍諜報部が解読した旧ソ連情報部の秘密文書)により、マッカーシーの告発の正当性が証明されました。

引用開始
【道具でしかなかったトルーマン大統領】
・・略・・・戦争が終結し、ヤルタでマーシャルが奔走した結果、満洲と中国北部でロシア軍が確固たる地歩を築いた。しかし重慶にウェデマイヤーがいるかぎり、たとえひとりでも、その状況から何かを救い出すことができたはずだ。
 中国国民は、西太后の落日以来、国土を引き裂いた大混乱の苦しみからやっと解放されると期待していたかもしれない。しかし現実はそうではなかった。クレムリンの支援を受けて中国全土の掌握を虎視眈々と狙っていた延安の共産軍はゲリラ戦を仕掛けてきた。
 10月になると、戦いは内乱の様相を呈した。蒋介石は状況を収拾する立場にいた。彼は米軍に訓練された39個師団を擁し、装備を整え、軍の士気は高かった。けれども戦争省が彼に約束した空軍力が配備されず、手薄だった。状況はさほどむずかしくはなかった。
 3月に戻ってみれば、パット・ハーリーとウェデマイヤー将軍は海軍のマイルズ提督とともに、戦争の終結から派生するトラブルを見越して、統合参謀本部に対して「中国の反乱は蒋介石の中央政府にわずかな支援を与えれば沈静化できる」と具申した。引用部はレーヒー大将の誠実な記録からである。
 ≪重慶政府は私たちの同盟者だった。私たちは長く辛い戦争をともに戦った。蒋介石に対して、アジアの兵力を結集して太平洋や極東の米軍をたたくために中国は戦争をやめるべきだという日本の申し出に抗い、無視せよと勧めたのは私たちだ。私たちは蒋介石に大きな借りがある。≫
 ルーズヴェルトは死んだ。死に際までマーシャルに振りまわされた。
 現在後を継いでいるトルーマンは、こうした問題では、マーシャルやアチソンの言いなりに動く道具に成り下がった。
・・・略・・・
【クレムリンへの貢ぎ物にされた中国】
 誰が実際に中国政策をつくったのか、極東に掲げた米国旗を引き降ろして、中国をクレムリンに譲り渡すように一貫して務めた政策を?
 1945年11月10日に任務を完了してワシントンに戻る際にアルバート・C・ウェデマイヤー将軍が蒋介石に提出した報告書の中に重要な手がかりがある。この報告書はいまだ公表されたことがないはずだ。
・・・略・・・
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2006年09月14日

マッカーシーの告発4

ジョセフ・マッカーシー著「共産中国はアメリカがつくった」より。
 マッカーシー(1908〜1957)はアメリカ共和党の上院議員です。
1950年に国務省に潜む共産党員の名簿を入手したと発言し、一躍世界の注目を浴び、彼の反共産主義運動は“マッカーシズム”と呼ばれました。
1995年に公開された「べノナ」文書(米軍諜報部が解読した旧ソ連情報部の秘密文書)により、マッカーシーの告発の正当性が証明されました。
 ここでは、国民党の軍事顧問にも拘わらず、スティルウェルは蒋介石に非協力的で、アメリカから蒋介石への援助武器などを蒋介石に渡さなかったことが書かれている本もあります。
引用開始
【日本共産党・野坂参三への好感】
 1945年3月13日付の、これもジョン・スチュアート・サービスの署名がある報告書十号にはこう書かれている。
 「中国共産党は、いってみれば中国人小作農の党である。地代や利子の減額、進歩的な課税、生産支援、共同組合の推進、底辺からの民主化教育といったこの党の計画は小作農の問題を民主的に解決するために考案されている。こうした方針にしたがって、国民のあらゆるグループが結束して自由な資本主義事業を展開する必要性を認める共産党は、中国に民主主義と健全な工業化をもたらす手段となるはずである。これこそが平和と安定にとって唯一の保証である」。
 
 アジアにおける親共産主義路線は日本の共産主義者の間にも広がった。しかし幸運にも、日本にはマッカーサー将軍がいた。国務省の助言は日本まで及ばなかった。しかし、「Q524」と記されたジョン・サービスの文書S187を引用させてもらいたい。
 「日本共産党はまだ規模が小さい。岡野氏(訳注:野坂参三。当時、「岡野進」の変名で延安の日本人民解放連盟などで活動していた)自身数千人以上の党員を望んでいないが、強力な組織力と忠実で政治経験を積んだ党員を抱えているという利点をもつ。もし主張どおりその方針が民主的かつ非軍事的な日本という私たちの希望を達成する方向を目指すならば、私たちは日本に対して惜しみない支援態勢をとりたい

 スティルウェル――デービス一派は1942年、中国を抱き込んだ。その直後、ホワイトハウスのロッキン・カリー、国務省のジョン・カーター・ビンセント、アルジャー・ヒスは、重慶からの偽情報を運ぶ伝達ベルトの終点ワシントンで影響力を行使していた。重大な背信行為におけるカリーの役割の全容を明かす必要がある。それが重要かつ本質的な役割だったと私は確信しているからだ。
・・・略・・・
 以下の宣誓証言は米国陸軍航空隊の勇猛なクレア・リー・シェノールト退役少将の目撃証言である。
 彼は米義勇戦闘部隊を率いて不滅の名声を勝ち得た軍人だ。私は中国における彼の体験をつづった『戦闘機乗りの戦法』を参照しているが、このなかで彼はスティルウェルの行動を細大漏らさず吟味している。シェノールトは、1944年春にスティルウェルが延安の友人たちに使者を送った様子を述べている。
 「延安への使者が決まったのは、スティルウェルの重慶スタッフが、重慶政府よりも共産党のほうが優れていると声高に言いだしてからのことだった。延安の使者から届いた秘密報告書の内容をスティルウェルのスタッフたちは夕食の席でおおっぴらに議論した。共産主義者に対する賞賛はあけすけだった。彼らに言わせれば、共産主義者は『農地改革者』であって共産主義者というよりはニューディール政策の実行者にすぎなかった。総司令官(蒋介石)は共産主義と戦う『与えられた武器をためこんだ軍隊』だと非難する抗議の声が湧き上がり、同時に、中国最高の軍が日本と戦う代わりに共産党を阻止するために使われているという非難も上がった」
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2006年09月13日

マッカーシーの告発3

ジョセフ・マッカーシー著「共産中国はアメリカがつくった」より。
 マッカーシー(1908〜1957)はアメリカ共和党の上院議員です。
1950年に国務省に潜む共産党員の名簿を入手したと発言し、一躍世界の注目を浴び、彼の反共産主義運動は“マッカーシズム”と呼ばれました。
1995年に公開された「べノナ」文書(米軍諜報部が解読した旧ソ連情報部の秘密文書)により、マッカーシーの告発の正当性が証明されました。

引用開始
【なぜ38度線が朝鮮半島分割線か】
 38度線であの不幸な半島を分割して、ロシアがその上を、米国がその下を、日本軍から割譲すると決めたのは誰か?当時最も不思議だったことのひとつはこれだ。
 ヤルタ会談でスターリンは、米中露英の四強で朝鮮を信託統治することをルーズヴェルトと合意した。1945年の晩春にハリー・ホプキンスがモスクワを訪れたとき、スターリン自身が認めた合意である。信託統治には、半島全土を統治できる公正な選挙に基く朝鮮人政府をはじめとする全土を統一した機構が必要だった。それでは信託統治はどうなったのか?
 日本軍撤退に際して、投降する日本兵を受け入れるという問題が生じた。ウェルズはその状況を著書『歴史を形成した七大決定』に記載している。
 「国防総省の下級仕官の中に、朝鮮の38度線の北側でロシア軍が、南側で米軍が日本人捕虜を受取ることにしようと早々と唱える者がいた」
 便利だから、ただこれだけの理由でこの境界線が選ばれたと私は教わった。
・・・略・・・
 この問題は、メイン州選出のブルースター上院議員が「38度線には歴史的意義がある」という指摘をもちだすまで関心が払われなかった。なぜ1945年8月に戦争省は、巷間言われているように、日本人捕虜を受取る目的のために38度線で朝鮮を分割することに決めたのか、私には不思議だった。・・・・ほぼ一世紀前にロシアが分割線として38度線を決めていたことを発見した。ロシア帝国は朝鮮を二分する交渉を日本帝国とおこなっていた。そしてロシア皇帝の外交家たちは日本帝国に、両国の境界を38度線にしようと提案していたのだ。
拙ブログ「日露談判」参照)

 私は、1951年6月8日の軍備外交問題委員会での宣誓証言を参考にしている。このときアチソン国務長官はブルースター議員からこの件を質問された。アチソンは、「何人かの下級仕官」ではなくて戦争省長官が決定し、統合参謀本部、州軍・陸軍・海軍。空軍調整委員会、大統領によって承認されたということを明らかにした。これは戦争省が主導した高度な決定だった。
 スティムソン長官の任期末期に戦争省長官だったのは実際誰か?国防総省と隣接したオフィスで業務に携わり、故国防長官の率直な回顧録を読んだことがあり、二人の関係をよく知る誰もが、こうした問題ではマーシャルが決定し、スティムソンが承認したという以外思いつかない。
 マーシャルこそ、約50年前にロシア外務省と参謀幕僚が選んだ朝鮮の分割を認めた張本人だ。
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2006年09月12日

マッカーシーの告発2

ジョセフ・マッカーシー著「共産中国はアメリカがつくった」より。
 マッカーシー(1908〜1957)はアメリカ共和党の上院議員です。
1950年に国務省に潜む共産党員の名簿を入手したと発言し、一躍世界の注目を浴び、彼の反共産主義運動は“マッカーシズム”と呼ばれました。
1995年に公開された「べノナ」文書(米軍諜報部が解読した旧ソ連情報部の秘密文書)により、マッカーシーの告発の正当性が証明されました。
 ここでは、ヤルタでの合意は多くのアメリカ人の正論が隠蔽されて、あのような内容になったことを指摘しています。

引用開始
【ヤルタ会談での背信行為】
 ラッセル委員会での宣誓証言によると、蒋介石はヤルタ会談に招かれもせず、中国の権益を割譲する合意条項が彼に極秘裡に進められた。しかしカイロ会談では、満洲における中国の利権は存分に尊重され守られるという約束が正式に彼と交わされていたのだ。
 ラッセル委員会に現れたウェデマイヤーの宣誓証言によると、ハーリー大使が中華民国の運命を決める合意を伝えると、蒋介石はショックで打ちのめされ、「信じられないのでもう一度言ってほしい」と頼んだという。
 その計画は隠しだてされなかった。ひれ伏す中国に仕掛けたあからさまな帝国主義的仕打ちだった。
 ルーズヴェルトがスターリンとわずか十一分間の秘密協議で合意した議定書に調印して定めたこと――しかもその後何ヶ月もホワイトハウスで厳重に秘匿されてきたこと――は歴史的に見て、中国侵略に必須である大連や旅順の港、東清鉄道および南満洲鉄道だった。こうした港や鉄道をつうじて、さらに電信を含むあらゆる通信手段を軍の管轄下におさめて、まずロシア、次いで日本、そして衛星国を引き連れたソ連が再び満洲を支配した。
・・略・・・
 他の条項もあった。ロシアによる外モンゴルの長期保護領化が承認され、ロシアはポーツマス講和条約で割譲した南樺太を取り戻し、おまけに千島列島を手に入れた。千島列島はずっと日本に領有権があり、ロシアのものではなかった。

【情報を意のままに操作するクレムリンの手先たち】
・・・・こうしたあさましい取引全般が、ルーズヴェルトの助言者たち、多種多彩なリベラル派、共産主義者、共産主義シンパ、クレムリンの手先――アチソン家、ラティモア家、フィリップ・ジェサップ家、太平洋問題研究所――といった、アジアにおける帝国主義と人権を唱えながら、実は長年大衆を惑わしてきた人びとについて教えてくれるものは何か?
 なぜ、彼らが考える西洋帝国主義だけがヨーロッパの進展を阻む道具であり、よこしまなものとして反対されねばならないのか?
 ロシアの帝国主義は立派であり、外交努力や戦争を手段にして推進される対象であり、米国はいかなる犠牲も惜しまない。これが帝国主義に対するリベラル左派の原則である。
・・・略・・・
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2006年09月11日

マッカーシーの告発1

ジョセフ・マッカーシー著「共産中国はアメリカがつくった」より。
 マッカーシー(1908〜1957)はアメリカ共和党の上院議員です。
第二次世界大戦で海兵隊に従軍後、1946年上院議員に初当選し、1950年に国務省に潜む共産党員の名簿を入手したと発言し、一躍世界の注目を浴び、彼の反共産主義運動は“マッカーシズム”と呼ばれました。
 聴聞会での中傷発言が世論の反感を呼び上院議会から譴責処分を受けますが、1995年に公開された「べノナ」文書(米軍諜報部が解読した旧ソ連情報部の秘密文書)により、マッカーシーの告発の正当性が証明されました。
mccerthy.jpg
引用開始
【誰も描いたことのない歴史】
・・・略・・・私の平穏な生活が脅かされていた大戦直後、一億五千二百万の米国民が政権党の政策としてマーシャル参謀総長の世界戦略を受け入れざるを得なかったという事実を考えれば、彼の行動の完全な記録が国民の鋭い目にさらされて当然であろう。
 私が上院議会でマーシャルのキャリアを追及した背景には、第二次大戦以降、自由世界が年間一億の人びとを国際共産主義に譲り渡しているという凄惨な現実がある。
・・・略・・・
 私たちが、つねに勝利に背を向けていて、米国に大失敗を、ソ連に大成功をもたらす場面に決まって登場する人びとがいるというおなじみの構図を思い浮かべると、この時期の異様な歴史に関心を持つ誰もが、過去十年以上にわたって世界の歴史を形成してきた行為について真相を知らずにはいられないはずだ。だからこそ、1951年5月に始まった「マッカーサー聴聞会」が直接の引き金となって、私は、上院とこの国にマーシャルの歴史を残そうと決心したのである。
・・・略・・・
 なぜ彼はヤルタ会談で正確かつ完璧な諜報報告書をルーズヴェルトに上申しなかったのか?ルーズヴェルトの軍事顧問でありながら、なぜマーシャルは、アルジャー・ヒス、グロムイコ、ジェイコブ・ジェブの草案したヤルタ協定を認めたのか?自分の部下、それも大佐以上の高官50人が作製した諜報報告書を無視せよとルーズヴェルトにささやいたのは誰なのか――この報告書は、ヤルタ協定の内容やポツダムでの確認事項と正反対の路線を具申していたのに。・・・略・・・1945年4月12日付のこの報告書には次のように書いてある。
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2006年08月28日

従軍看護婦の記録

 東京裁判では、当時の国際法上では被告になり得ない人たちを、無理やり被告にするために、マッカーサーは東京裁判のためだけの条例(チャーター)を作りました。しかし明らかに国際法違反の連合国側の犯罪には全て蓋をしています。ここに掲載するのはそのほんの一例です。
 もちろん日本本土の都市爆撃や極めつけは原爆投下、これらが先の戦争での戦争犯罪の最たるものですが、東京裁判では一切不問でした。

「従軍看護婦たちの大東亜戦争」より
kangofu.jpg

引用開始
【ぶえのすあいれす丸の沈没】
原田初枝(主婦・元大津赤十字病院婦長)

{爆撃を受けた病院船}
 昭和18年9月、私は三度目の招集令状を受取り、宇品港より『ぶえのすあいれす丸』に乗船して出発、10月2日ラバウルに上陸した。
 ニューブリテン島のラバウル赤根岬にある第94兵站病院に勤務していたが、やがて日増しに戦が激しくなり、毎日爆撃があって、最早女性の勤務するところではなくなり、ニューアイルランド島への転属命令が下された。再び懐かしい『ぶえのすあいれす丸』に乗船した。
・・・略・・・
 部屋では食後のひとときをそれぞれ思いのままに楽しんでいた。私は一人でトランプ占いをしていたが、今日は少しもついていないと言いながらトランプをめくっていた。その瞬間ピンピンピンと、船が何かに突き当たったような、また地震のような揺れを感じた。「やられた!」と誰かがいった。エンジンの音が止まり、隣の将校病室からどやどやと患者が出てきた。襲撃された瞬間に全員の荷物が放り出され、足の踏み場もない有様となった。爆音が遠く聞こえる中、思わず救命胴衣に手が届く。
・・・略・・・
 その時兵士に「看護婦さん、早く!何しているのだ」とせき立てられて慌てて左舷の中甲板に出た。見ればすでにボートは全部降ろされ、海上はボートと人で一杯だ。通路には、これまた多くの将校患者がいる。我先にと船の手すりにつかまりながら昇ってくる。幾本もの縄梯子がおろされた。見るも恐ろしい。
 私は「さあ、早くしっかり縄をつかんで降りなさいね」と言いきかせつつ、患者の帯を後ろより持って一人ひとり降ろしていった。覗き見ると、大きなギプスや飛行機材で作った副木をつけた人が無事に海面に浮いていた。
・・・略・・・
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2006年08月04日

米国東亜侵略史4

 今回で最終にしますが、大川周明の1941年12月、開戦直後のラジオ放送の速記録「米英東亜侵略史」から、日本を追いつめて、日米開戦に至るアメリカの対日政策の実態を見てみましょう。
引用は「日米開戦の真実」佐藤優著からです。
 英国東亜侵略史については考察NIPPON さんのページに詳しく掲載されています。
引用開始
 【日本が屈服した日】
 ワシントン会議は、太平洋における日本の力を劣勢ならしめることにおいて、並びに東亜における日本の行動を掣肘拘束することにおいて、アメリカをしてその対東洋外交史上未曾有の成功を収めさせたのであります。
 米国が東洋に向かって試みた幾度かの猪突的進出は、その都度失敗に終わりましたが、ワシントン会議においては、かつて欲して得ざりしことを、一応は成し遂げたのであります。当時アメリカ人が上下を挙げて喜んだのも当然であります。
 しかもアメリカはこれをもつて満足しなかったのであります。アメリカはワシントン会議によって日本の戦闘㈼を制限し得たのでありますが、それだけではまだ枕を高くして眠ることができない。アメリカと日本のように、きわめて遠隔な距離を隔てて相対している間では、大きい巡洋艦が時として戦闘艦以上の効力を発揮することがあります。こうしてアメリカが主動者となって、今度は主力艦以外の軍艦制限の目的をもって召集されたのが、ジュネーブ会議及びロンドン会議であります。
 そしてこの二つの会議においても、日本はワシントン会議におけると同じく、アメリカの前に屈服したのであります。ただしアメリカに屈服したのは日本だけではありません。実にイギリスまでがアメリカの前に頭を下げ、アメリカよりも劣勢なる海軍をもって甘んずることになったのであります。これは世界史における非常の出来事と申さねばなりません。大ブリテンは海洋を支配すと高嘯して、世界第一の海軍を国家の神聖なる誇りとしてきたイギリスが、今やその王座をアメリカに譲ったのであります。
 ここで我らは心静かにアメリカの国際的行動を観察してみたいと存じます。
 自ら国際連盟を提唱しながら、その成るに及んでこれに加わることをしない。
不戦条約を締結して、戦争を国策遂行の道具に用いないということを列強に約束させておきながら、東洋に対する攻撃的作戦を目的とする世界第一の海軍を保有せんとする。
大西洋においては英米海軍の十対十比率が、何ら平和を破ることないと称しながら、太平洋においては日米海軍の七対十比率さえなおかつ平和を脅威すると力説する。
ラテン・アメリカに対しては門戸閉鎖主義を固執しながら、東アジアに対しては門戸開放主義を強要する。
例えば往年邦人漁業者が、メキシコのマグダレナ湾頭に土地を租借しようとした時、これをもってアメリカのモンロー主義に反するものとする決議案が、アメリカ上院を通過しております。それにもかかわらず、東亜においては、日本の占め来れる地位は、アメリカがメキシコまたはニカラグアにおいて占める勢力の十分の一にも及ばざるにかかわらず、門戸開放主義の名においてこれをも否定し去らんとするのであります。総じて、これ無反省にして、しかも飽くなき利己主義より来る矛盾撞着の行動であります。
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2006年08月03日

米国東亜侵略史3

 欧州も含んでですが、アメリカもずっと人種的、文明的優越感情があったことは否定できないと思います。小さな島国で白人でもない日本人を意のままにするのは当然のように考えていなければ、ここにあるような横柄な外交にはならなかったのではないでしょうか。
 今日も続けます。大川周明の1941年12月、開戦直後のラジオ放送の速記録「米英東亜侵略史」から、日本を追いつめて、日米開戦に至るアメリカの対日政策の実態を見てみましょう。
引用は「日米開戦の真実」佐藤優著からです。
 英国東亜侵略史については考察NIPPON さんのページに詳しく掲載されています。
引用開始
【米国務長官の驚くべき提案】
 アメリカは日支両国の間に満鉄に並行する鉄道を敷かぬという約束があることを知っていたにもかかわらず、またボーリング商会と合作して企てた法庫門鉄道計画が失敗したのにも懲りず、1909年、またもや極秘の間に支那政府と交渉を進め、渤海湾頭の錦州から斉々哈爾(チチハル)を経て、黒竜江省愛琿に至る非常に長距離の鉄道敷設権を得たのであります
 この錦愛鉄道は、この前の法庫門鉄道よりも満鉄にとっていっそう致命的なる並行線であります。この並行線の敷設権を支那から得たのは、1909年10月のことでありますが、11月に至りて国務長官ノックスは、まず英国外相グレーに向かって、二つの驚くべき提案を行ったのであります。第一は英米一体となって満洲の全鉄道を完全に中立化させること、第二は鉄道中立化が不可能の場合は、英米提携して錦愛鉄道計画を支持し、満洲の完全なる中立化のために、関係諸国を友好的に誘引しようというのであります。
 英国外相はこの提案に対して体よき拒絶を与えたにかかわらず、ノックスは12月4日、このうえ二案を日・支・仏・独・露の各政府に示し、かつ英国政府の原則的賛成を得たと通告し、これらの諸国に対して「同様に好意ある考慮」を求めたのであります。この突飛なる提案に対して、日露両国はもとより強硬に反対し、ドイツ・フランス・イギリスもアメリカを支持しなかったので、この計画もまたまた失敗したのであります。
・・・略・・・
 このように手を変え品を変えても成功しないので、アメリカは今度は列強の力を借りて目的を遂げようというので、その前年に成立した英米独仏の四国借款団を利用することとし、その借款団から支那に向かって英貨一千万ポンドを貸し付け、これによって支那の貨幣改革及び満洲の産業開発を行う相談を始めたのであります。これは取りも直さず、アメリカ一国では従来やり損なったから、列強と共同して日本を掣肘しようという計画であります。ところがこれまた日本にとって幸いであったことは、あたかもこの頃に武漢に革命の火の手が上がり、清朝は脆くも倒潰して支那は民国となったので、この交渉も中絶の姿となったのであります。
 それにもかかわらず、新たに出来た民国政府は、この四国財団に政費の借款を申し込んだのであります。この申込みを受けた四国財団は、日露両国を無視しては支那とのいかなる交渉も無益なることを知っていたので、結局日露両国を加えた六国借款団を作ることにしたのであります。
・・・略・・・
 列国政府がこの声明を承認したので、1913年6月22日正式に六国借款団の成立を見るに至りました。ところで、日露両国がこのような条件の下に参加してきたのでは、思うように満洲進出が出来なくなったので、アメリカは翌1914年に至り、六国借款団は支那の行政的独立を危うくするという口実の下に、勝手にこれを脱退したのであります。
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posted by 小楠 at 07:47| Comment(3) | TrackBack(0) | 書棚の中のアメリカ

2006年08月02日

米国東亜侵略史2

 日露戦以後、日米開戦に至るまで、アメリカが日本に対してやってきた横暴の数々、そしてそれに対して日本が最後まで譲歩を重ねてきたことを知っておかないと、日米開戦の真の経緯はわからないでしょう。
 前回に続いて大川周明の1941年12月、開戦直後のラジオ放送の速記録「米英東亜侵略史」から、日本を追いつめて、日米開戦に至るアメリカの対日政策の実態を見てみましょう。
こちらの考察NIPPON さんもこの本の紹介をされています。
引用は「日米開戦の真実」佐藤優著からです。
引用開始
【ハリマンの満鉄買収策】
・・・略・・・アメリカにとっては、太平洋を支配するということは、東亜を支配するという意味であります。東亜を支配するということは、支那満蒙における資源の開発、その広大なる市場の獲得、その高率なる投資利益において、他国よりも優越した地歩を確立するという意味であります。
・・・略・・・そしてアメリカの太平洋進出、従って東亜進出は、日露戦争直後から初めて大胆無遠慮となってきたのであります。・・・略・・・
 多年にわたる東亜進出計画をいよいよ実行に移すに当たって、どこを最小抵抗と睨んだか。それが満蒙であります。日露戦争によって国力を弱めていた日本の勢力圏満蒙が、実にアメリカ進出の目標となったのであります。
 ルーズベルトの調停によって行われた日露両国の講和談判が、なおポーツマスにおいて進行中のことであります。アメリカの鉄道王と呼ばれたハリマンが、条約によって日本のものとなるべき南満洲鉄道を買収するために、1905年8月下旬、秘かに日本に来朝したのでありますが、極力彼に奨めてこの来朝を促したのは、時の東京駐在米国公使グリスカムであります。
 ハリマンがいかなる弁舌をふるって日本政府を籠絡したかは詳しく存じませんが、日本は遂に彼の提議を容れて、驚くべき内容を有する覚書が、10月20日付をもって桂首相とハリマンとの間に成立したのであります。・・・略・・・ハリマンは、この覚書を手に入れたその日の午後に、すぐさま横浜から船に乗って帰国の途に上がりました。
 そのちょうど三日後に、ポーツマス条約を携えて帰朝した小村全権が、その覚書を見て驚き、かつ憤り、極力反対を唱えて遂に政府を動かし、これを取り消させたのであります。・・・略・・・

【日本が東亜進出の障碍に】
・・・略・・・アメリカは大体において常に日本に好意を示してきたのであります。しかしハリマンの計画ひとたび失敗するに及んで、日本に対するアメリカの態度は、次第に従前とは違ってきたのであります。それはアメリカが、日本をもってアメリカの東洋進出を遮る大いなる障碍であると考えはじめたからであります。ここにアメリカの甚だしき無反省と横暴とがあります。
 東亜発展は日本にとって死活存亡の問題であります。さればこそ国運を賭してロシアと戦ったのであります。ところがアメリカの東洋進出は、持てるが上にも持たんとする贅沢の沙汰であります。アメリカはその贅沢なる欲望を満たさんがために、日露戦争によって日本が東亜に占め得たる地位を、無理矢理奪い去らんとしたのであります。実にこの時より以来、アメリカは日本の必要止むなき事情を無視し、傍若無人の横車を押しはじめたのであります。
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posted by 小楠 at 07:39| Comment(0) | TrackBack(1) | 書棚の中のアメリカ

2006年08月01日

米国東亜侵略史1

 東京裁判で日本を、当時戦争犯罪として国際法にもなかった「平和に対する罪」で裁いた米英ソこそ、「平和に対する罪」の犯罪者です。1945年8月8日、日ソ中立条約を侵犯して日本を侵略したのはソ連であり、そのソ連に日本侵略を教唆したのはアメリカ、イギリスです。
 イギリスはご存知の通りアジア侵略の主人公、アメリカは列強によってほぼ分割の終わっていたアジア、特に中国に割り込んできた帝国主義国です。
 アジア諸国や日本侵略の主人公たちが、裁く側に座って日本を断罪したのですから、これだけでも、東京裁判が茶番劇としか言いようがないことは明白でしょう。

 当時の政府はこの戦争の目的と開戦に至った経緯を国民に対して論理的かつ実証的に説明しようと試みました。
 ここでは大川周明の1941年12月、開戦直後のラジオ放送の速記録「米英東亜侵略史」から、日本を追いつめて、日米開戦に至るアメリカの対日政策の実態を見てみましょう。
 英国東亜侵略史については考察NIPPON さんのページに詳しく掲載されています。
 本文はペリー来朝から始まっているのですが、ここでは日清戦争頃からのものを掲載してみます。
引用は「日米開戦の真実」佐藤優著からです。
ookawa.jpg
引用開始
【「門戸開放」提唱の経緯】
 ・・・略・・・この太平洋制覇の理想は、1880年代から次第にアメリカに浸潤しはじめてきた帝国主義と相結んで、アメリカの東亜政策もようやく積極性を帯びるようになりました。そして、この新しき帝国主義の最も勇敢なる実行者は、今日の大統領フランクリン・ルーズベルトの伯父セオドア・ルーズベルトであり、その最初の断行が、1898年の米西戦争を好機として、フィリピン群島及びグァム島を獲得したことであります。
 戦争の当初において、時の大統領マッキンリーは「アメリカはフィリピン群島の強制的併合を行わんとするものに非ず、予の道徳的規範によれば、かくのごときは犯罪的侵略なり」と声明したにもかかわらず、後には「神意」と称してフィリピン統治をアメリカに委任することを要求したのであります。その一切の献立を行ったのが、取りも直さず海軍長官であったルーズベルトであります。
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2006年06月20日

米民主が招いた失敗外交

「リベラルたちの背信」(アメリカを誤らせた民主党の60年)アン・コールター著
 

 思うにアメリカ民主党が戦争すると、共産党独裁政権の国家が増えるようです。第二次大戦での東欧諸国、その後の中狂、ヴェトナムなど。引き換え共和党の場合には共産国家が崩壊しています。

引用開始
「外交政策の失敗はすべて民主党が招いた」
 リベラルたちがヴェトナムやイラン人質事件やソマリア紛争をいつまでも追想しながら当時の大統領に極力触れまいとしているのが、なんともおもしろい。・・・略・・・
 リベラルたちはヴェトナム戦争をケネディが開始し、ジョンソンが敗北し、ニクソンが共和党の戦争として名誉ある終結にもちこんだものとは考えない。ここで、アメリカ史の研究をきわめた学者も知らない、ささやかな秘密を教えよう。ニクソンは1972年に49の州で再選された。もし有権者がヴェトナムでの彼の手腕をお粗末だと考えていたら、こうはならなかったはずだ。

 ヴェトナムを忘れるなかれ。忘れてはならない教訓とは・・・民主党が軍事問題に首をつっこむと、アメリカは惨憺たる敗北を味わわされ、大陸ごと共産主義の手に落ち、アメリカは戦争に負け、侵攻に失敗し、アメリカ人が人質にとられ、アメリカ兵が市街を引きずりまわされ、国民の士気は落ち、屈辱をなめさせられる、ということだ。第二次世界大戦以降の外交政策の大失敗は、すべて民主党がまねいた・・・これは厳然たる事実である。

「ハト派的アプローチが北朝鮮の脅威を生んだ」
 民主党の国家安全保障へのアプローチは、ひとしきり支離滅裂な愚弄がなされた末に、まるっきり矛盾した説明に行きつく。保守派はすばらしく明快で一貫していて論理的なのに、リベラル派は踊り狂うイスラム神秘主義の修行者さながら立場をくるくると変えていく。左派の過去十年にわたる北朝鮮との交渉ほどおもしろい例には、なかなかお目にかかれない。
 ブッシュが北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しすると、リベラルたちは、彼はバカなのだと釈明した。
・・・略・・・
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posted by 小楠 at 07:32| Comment(5) | TrackBack(1) | 書棚の中のアメリカ

2006年06月19日

アメリカ民主党の60年

「リベラルたちの背信」(アメリカを誤らせた民主党の60年)アン・コールター著
 この本は、太平洋戦争から続く共産主義者または容共の巣窟、アメリカ民主党、リベラル、マスコミ等の言説をふんだんに取り上げ、彼らがいかに反アメリカ的であったかを述べています。
 これらリベラルの所業を現日本の反日、媚中の輩に置き換えて見ると、そのまま日本の問題になってしまうところが興味深い本です。
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本文中の最初の方の部分から、ランダムに何節かを取り出してみます。

引用開始
 この国(アメリカ)が内外の攻撃にさらされるたび、彼等は敵側につく。それが連中の正体だ。左翼が「西側の犯罪」にこだわり、第三世界にルソー的な自然人への敬意を捧げるのも、この破壊的な目的に発している。

 リベラルたちときたら、祖国を愛する同胞のことはカウボーイだの戦争屋だの、狂信者、対外強硬派などと揶揄するくせに、アメリカの敵のことは「アンクル・ジョー」(スターリン)やら「フィデル」(カストロ)やら「農地改革者(延安時代の共産党を共産主義者ではないと言い張った)やら「平和の宗教」の実践者と親しげに呼び、あろうことか、共産主義者やテロリストまで「平和」擁護者にしてしまう。

 リベラルたちは国旗をけなし、忠誠の誓いを禁じ、アメリカの敵のためにカクテル・パーティーを開きながら、自分たちの愛国心への誹謗はいっさい許さない。

 ソ連邦の繁栄が続くかぎり、歴史的「必然」を主張することも愛国的行動の範囲内だった。ソ連の支配がほんとうに必然なら、リベラルたちは本音まるだしのメッセンジャーに過ぎなかった。ところが、レーガンが冷戦に勝利した。共産主義の勝利は必然などではなかった。左派による共産主義支配の目的論的証明は大嘘だったのだ。この二十世紀最大の戦いで、リベラルたちはただのまぬけか裏切り者であった
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posted by 小楠 at 07:44| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中のアメリカ