2007年11月23日

GHQの日本洗脳工作5

米軍発表「太平洋戦争史」論、日米交渉2

江藤淳氏の著「忘れたことと忘れさせられたこと」の末尾付録1に、昭和20年12月8日大東亜戦争開始四周年を期して発表された、米軍司令部当局提供特別記事「太平洋戦争史」がいかに米国に都合よく、日本=悪の思想を日本国民に浸透しようとする意図のものであるかを批判する、総務局資料課の富枡嘱託の論が掲載されていますので、ご紹介しようと思います。なお、文中同文とあるのは米軍司令部当局発表の「太平洋戦争史」のことです。(旧漢字やカタカナの原文を読み易くしておきました)
写真は国務長官コーデル・ハル
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引用開始
12、米国政府の戦意決定
 同文は米国の対日最後要求を講評して、「十一月二十六日、日本側代表に手渡された回答には米国政府が将来の会談を通じて実現可能と思われる案の唯一の例であることも明示していた」となし、暗にむしろ明白に自己弁護を主張し且つ自発的ならびに継続的に日本が挑戦的なりしを指摘するに努めたれども、翻って委細に検討すれば事実は右発言と正反対なりしは次の三史実によりて例証せらるる所なり。即ち

1)十一月二十六日午後四時半「ハル」は野村、来栖両大使を招致し国務省に於いて該提案を交付したる直後、ホワイトハウスにて開催せられ大統領の参加せし重要会議に於いて「先刻米国通牒を日本大使に交付したるが、日本政府はこの提議を拒絶すべく、而して日本軍部はその伝説的開戦戦術により「パール・ハーバー」を奇襲すべきにより、陸海軍両長官(同席の「スティムソン」ならびに「ノックス」)は同地に於ける各自所轄司令官(ハワイ防備司令官「ショート」陸軍中将ならびに太平洋艦隊司令長官「キンメル」海軍中将)に右の旨通報警告せられたし。この警告は「戦時警告」なりと厳命せり。

2)その後十一月二十九日「ハル」は駐米英国大使「ハリファックス」と対日政策熟慮の際「日米関係中の外交的部面に関するものは事実終了を告げ、今後の事態は米国陸海軍官憲の掌中にて解決せらるるに至らん」と述べ、尚「太平洋情勢に関心を有する米国ならびに他の諸国に取り重大なる誤謬は日本が驚駭の有する要素を以て俄然出動し来るべきを予想せずしてこれを防御せん事を考量するに在り」と付言したり。
これ何たる日米危機洞察の至言ぞ。同時に戦争誘導外交家の胸中を吐露し得て寸毫の疑問を許さず。更に翌三十日「ハル」は米国新聞記者との会見談に於いて再び同様なる自己の確信を披瀝し居りたり。
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2007年11月22日

GHQの日本洗脳工作4

米軍発表「太平洋戦争史」論、日米交渉1

江藤淳氏の著「忘れたことと忘れさせられたこと」の末尾付録1に、昭和20年12月8日大東亜戦争開始四周年を期して発表された、米軍司令部当局提供特別記事「太平洋戦争史」がいかに米国に都合よく、日本=悪の思想を日本国民に浸透しようとする意図のものであるかを批判する、総務局資料課の富枡嘱託の論が掲載されていますので、ご紹介しようと思います。なお、文中同文とあるのは米軍司令部当局発表の「太平洋戦争史」のことです。(旧漢字やカタカナの原文を読み易くしておきました)
写真は大西洋憲章を発表するルーズベルトとチャーチル(プリンス・オブ・ウェールズ艦上)
taiseiyo.jpg

引用開始
10、日米交渉
 同文は「ハル――野村間日米交渉を論じて、「米国は東亜に於ける戦争回避に努力を続けた、三月ワシントンで開始された日米両国政府の会談は八月に入っても続けられた、然し日本が継続的侵略に依って獲得した領土を返還する事に就いては日本は何等の提案も行わなかった、而して侵略に対する米国の政策は、日本が1931年満州を略取した時以来常に明々白々であった。会談は何等の結論をも得ず又結論を得る見込みも無く永引いて行ったが、それにつれて米国の態度は次第に少しづつ強化して行った」。と表面頗る無難に述べ居るも、左記の事実に就いては何等言及せざりし所をここに指摘するの要ありとせん。

1、米国は四十年来歳と共に激甚となりつつありし太平洋上争覇戦の仮想敵なる日本をいわゆる「支那泥土中に雨足をつき込み困憊し居る」この際打倒すべしとする筆者のいわゆる「懲罰派」(「パネー」事件以来漸次顕著となり大統領付個人参謀総長「リーイー」海将を首領とせるが如し)が大統領「ルーズベルト」の周囲を取巻き暗中飛躍せる事。

2、圧倒的優勢物量を以て日本軍力を圧服せんとする米国戦略としては武器武装建造中「時」を得し事は必須条件なるを以て幸い日米会談を長期間に亙り継続せしめ以て其間所期目的の達成を企図したる事。

日米開戦前に於ける殊に三国同盟締結後、彼我国交破綻状態に入りて以来に於ける米国の対日態度は以上二個の観点より決定せられたるものとするを至当なりとせんか。右二点中後者は既に開戦後数次に亙る「ハル」声明「交渉遅延以てこの期間我方に必須なりし時を得るの利を得たり」に依って明白なり。
 尚1941年8月12日「ニューファウンドランド」沖に於て大西洋憲章作製中「チャーチル」は当時「タイ」国に於て日本が俄然優越権を確保するに及び、英国に取り極東政情が極度に危機に瀕したるを以て「米英は即時対日高圧宣言を発すべき」を以て渇望したり。其の際「ルーズベルト」は「米国戦争準備未だ完成せず、尚三ヶ月を要すべし」と言い更に「其の期間あたかも小児を操るが如く(「ベービー」)日本をあしらうべければ、暫時自分に任せ置くべし」と確信したり。更に付言すれば、かく一定方針の下に「ルーズベルト」は我国を(一字不詳)し来り、然も我方に対一歩も譲歩するの意志なかりしは12月7日深更陛下に奉りたる最後親電中に於ても(一字不詳)に11月26日、米国対日通牒に要求し置きたる「日本軍隊の仏印からの撤兵を要請し」続けたるにても明瞭なりとせん。
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2007年11月21日

GHQの日本洗脳工作3

米軍発表「太平洋戦争史」論、日支事変・三国同盟

江藤淳氏の著「忘れたことと忘れさせられたこと」の末尾付録1に、昭和20年12月8日大東亜戦争開始四周年を期して発表された、米軍司令部当局提供特別記事「太平洋戦争史」がいかに米国に都合よく、日本=悪の思想を日本国民に浸透しようとする意図のものであるかを批判する、総務局資料課の富枡嘱託の論が掲載されていますので、ご紹介しようと思います。なお、文中同文とあるのは米軍司令部当局発表の「太平洋戦争史」のことです。(旧漢字やカタカナの原文を読み易くしておきました)
写真は維新政府成立を祝う南京市民
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引用開始
7、日支事変
 次に米軍司令部発表同文は、1937年日支事変に論及したるも、数年に亙りて国民政府の(二字不詳)又は黙認の下に全支那に汪溢せし排日、抗日の極悪なる、遂には小学教材にも利用したる国民運動に言及する処皆無なり。然るに悪辣なる支那の排貨運動は我国対支貿易(二字不詳)を窮地に陥入れたるの結果、阪神地方の同業者は困憊の余り当局に対し対支積極的政策履行を哀訴するに至りたるとの噂ありたる程なり。
 従来、排日、親支を以て名声ある「コロンビア」大学国際政治教授「ナサエル・ベフアー」すら、昭和12年5月初旬上海に於て支那当局に警告して「目下支那人は(二字不詳)均衡を失いつつあり、今にしてこの誤謬を改めずんば、十年前満洲事変の(二字不詳)を再び繰返すの恐れあり。この際(一字不詳)るべきは果して日本なりや、支那なりやを(一字不詳)言する事難きも、余は敢えて後者なりと観ず」となしたり。

 尚米軍司令部当局の同文は、日支事変発端当初の状勢を述べ「其間一度二度妥協の機会はあったが、7月28日日本軍が北(一字不詳)に対して大規模攻撃を開始するに当りて解決の希望は遂に失われた」と書き流し盧溝橋事件突発後三週間に亙り我国が事変の「不拡大主義」を(二字不詳)し以て如何に局地解決に腐心したるかを(一字不詳)過し居れり。
 我方妥協政策は一(一字不詳)7月18日功を奏したるも、翌日北平地域第二十九軍(一字不詳)事王旅団長は国民政府軍の大挙北上援助を頼みて停戦取極を破棄するの暴挙に出で、遂に局面収拾の途なきに至りたり。
 ここに於て我政府は止む無く動乱解決のため出兵となりたるも依然として軍事的局地主義を取りたる結果帝国議会は臨時軍事予算僅か二億円を計上したるに過ぎざりしなり。尚伝えらるる所に依れば、当時御前会議に於て杉山陸相は御下問に対し事変は一ヶ月以内に終了すべきを以て御奏答申上たりと云うに於ても当初我方政策の如何に消極的なりやを覗い得べきなり。
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2007年11月20日

GHQの日本洗脳工作2

米軍発表「太平洋戦争史」論、排日移民法・満州国

江藤淳氏の著「忘れたことと忘れさせられたこと」の末尾付録1に、昭和20年12月8日大東亜戦争開始四周年を期して発表された、米軍司令部当局提供特別記事「太平洋戦争史」がいかに米国に都合よく、日本=悪の思想を日本国民に浸透しようとする意図のものであるかを批判する、総務局資料課の富枡嘱託の論が掲載されていますので、ご紹介しようと思います。なお、文中同文とあるのは米軍司令部当局発表の「太平洋戦争史」のことです。(旧漢字やカタカナの原文を読み易くしておきました)
写真は満洲皇帝即位のため龍袍を着用した溥儀
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引用開始
3、排日移民法
 次に同文は、近代世界政局に於て、日米両国間相互離隔又は離反の契機として重大意義を有するに至りたる1924年7月1日排日移民法を全然黙殺せり。同法規定特に「重大なる結果」(「最後通牒」用語にして出先官憲に依る使用厳禁を犯したる埴原大使の明白なる過失)用語を口実として同案通過(筆者は三日前に用語の危険性を指摘し且つ爆発後善後策に関し大使の相談を受けたり)に関連したる米国上院の横暴は、痛く我国朝野の識者を刺戟したり。然も我が政府が隠忍、自重ただ善処せんとの努力も遂に水泡に帰するに至りたるを以て、爾来我国政府当局は勿論国内一般識者は移民問題、支那問題、比率問題其の他を網羅する広義の「太平洋問題」に於て日本は遺憾ながら一切の重要争議事件を米国と商議、談合の下に善処するの到底不可能たるを(一字不詳)得し、一度時期到来し国力充実するに至らんか、米国の好むと好まざるとに拘らず単独行動を以て解決せんと決意するの止む無きに至りたり。是を以て日米外交史上一大回転契機となす。今ここに太平洋戦争覇史を通観し、日露戦争以来歳と共に漸次加速度的に深刻の度を増加したる米国の対日圧迫政策が事ごとに我国の進路を阻害し其の進展を阻止するに在りたる事、益々明瞭たりしを想起すれば、這般(しゃはん)日本の決意は当然たりしというを得んか。・・・・
 要するに今日米軍司令部当局が「太平洋戦争史」を叙述するに当り「日本大陸政策の原動力」としての米国排日移民法に関し何等言及する所なかりしは、同文が所論の公正を欠き且つ如何に我田引水に終始せるかを例証するものとなすべし。

4、満州国
 満州国建国に関する一連の日本政策は、少なくとも従来米英両国が各々自国発展の過程として世界政局史上に印跡し置きたる国際慣例に準拠したるものというべし。即ち米国の「テキサス」国独立ならびにハワイ合併は其の先例に外ならず。但し右慣用手段に表われたる国際道義面に於ては筆者が米国に於てよく弁証、弁護し得たる所なるも、然も我国軍部に取りここに銘記すべかりし点は其の国際実行面に於ては米英両国が相互協力の下に、日独両国の如く「持たざる」後進国をして自己と同一なる国際道義を以てしても既に今日となりては発展、膨張するを許容せざる決意と武力とを有するという重大事実なりしなり。
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2007年11月19日

GHQの日本洗脳工作1

米軍発表「太平洋戦争史」論、奉天事件・比率建艦

江藤淳氏の著「忘れたことと忘れさせられたこと」の末尾付録1に、昭和20年12月8日大東亜戦争開始四周年を期して発表された、米軍司令部当局提供特別記事「太平洋戦争史」がいかに米国に都合よく、日本=悪の思想を日本国民に浸透しようとする意図のものであるかを批判する、総務局資料課の富枡嘱託の論が掲載されていますので、ご紹介しようと思います。なお、文中同文とあるのは米軍司令部当局発表の「太平洋戦争史」のことです。(旧漢字やカタカナの原文を読み易くしておきました)
写真は奉天事件、今ではスターリンの命令と言われる張作霖爆殺現場
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引用開始
 昭和20年12月8日大東亜戦争開始四周年を期し在東京米軍司令部当局は都下各新聞紙に其著述せる「太平洋戦争史」なる長文の記事を発表し[「パールハーバー」奇襲より「ミズリー」艦上無条件降伏に至るまで]の太平洋外交関係、特に日米支三国関係に関する外交を論評したり。
 其の目的とする所は「日本国民は是に依って如何にして敗れたか、又何故に軍国主義に依ってかかる悲惨な目に遭わねばならぬかを理解」せしめ、更に「是に依ってのみ日本国民は軍国主義的行為に反抗し国際平和社会の一員としての国家を再建する為の知識と気力とを持ち」得せしめんというにあり。

 然るに同文はワシントン会議以来過去ニ十余年に亙るいわゆる「極東問題」に関係する日米外交、日支状勢ならびに戦争突発の推移を叙述するに委細を極め従来唱導せられたる米国観点に準拠し、一応前掲目的達成に努めたる形跡歴然たるものあれども、然も精読検討すれば、第一次大戦終了より第二次大戦開始に至る日米支三角関係を基調とする一連の「原因結果」順環を正視せず、国際政局上に現出する不断の連鎖中に於て、専ら自己に有利なる観点に従い特殊事件のみを断片的に論過し去りたるの弊あり。即ち米支両国が「能動的」に執りたる政策に関し日本が対応策として「受動的」に執りたる所を「単独的」又は「孤立的」に指摘、特記し居れり。且つかくの如く日本の「結果的」政策を米支の「原因的」政策より分離せしめたるのみならず、是を誇称して一に日本の「自発的」なる「侵略政策」なりとする誤謬に陥れる所少なからず。
 是を要するに、高所に立ちて国際政局の全面的運行を鳥瞰眼的に洞察するの公示を欠き、前掲の如く従来米国に於ける極東問題観察の通弊たりし「原因結果」なる一連不離の連鎖を無視し、徒に日本誹謗を目的とする独善的過失を繰返したるの非難を免れざるなり。
 今同文中主要なる適例を列挙考察すれば、左の如し。
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2007年04月26日

大戦直前日本の世情4

日米戦はソ連ひとり太る

 大東亜戦争直前、昭和十六年頃の世界情勢の渦中に生きた日本人が、どのようなことを考え、どのような意見を持っていたのかを、その頃に発行された書籍を紐解くことによって、その時代の日本人と同化し、なぜ大戦へと進んでいったのかを探って見たいと思います。
 当時多くのベストセラーを出した、武藤貞一の著
「日米十年戦争」(昭和十六年発行)
から少し引用していますが、下段のコミンテルンの部分は、まさに今の日本、男女共同参画の美名のもとに行われている家族の崩壊政策が、どこに源を発しているかが的確にわかるでしょう。そしてこれに与えられた予算がなんと10兆円! 家族崩壊に我々の税金10兆円が使われるなんて、全く許せません。政治家よ、貴方達は馬鹿の集まりですか。
写真:キャプションでは独裁者ルーズベルトとなっています
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引用開始
 アメリカはその無限に膨張しつつある資本主義生産力の消化市場として支那を目指し、一方必需原料の吸収地として南洋を目指す。しかもこの二つの目標のいずれもが日本の存在を最大障害なりとして、ここに対日攻勢の理由を置いているのである。
 つまり、日本という東洋に残った唯一のトーチカを取払わなければ、東洋へ向かっての西漸政策を完遂し、かつ南洋資源地の確保に満足な成果を収め難しとするのである。
 このため、折あらば日本勢力を粉砕せんものとし、むしろ今がその絶好機会るを思う。しかるに、実際はこのくらいアメリカにとって悲しむべき謬想はないのだ。もしかりに、彼の思うがごとく、今日、日本が支那事変に疲労しつつある様会を狙って日米戦争の段階に入ったとすれば、かれの目指す最大の目標たる支那大陸はどうなるかを考えるがよい。

 もちろん、日本は逆にアメリカの対日攻勢を粉砕するだけの実力を持っている。特に日米戦争となったら、現在のごとく日本がアメリカの経済封鎖下に喘ぐという状態は一変して、日本の一挙に伸ばし得るであろうところの駿足の下に、アメリカこそ南洋資源を喪失することになるは火を見るよりも明らかな事実である。ただそれ、実際問題として、日本が強敵アメリカに立向うの日は、ここに全力を傾注せざるを得ぬという一事は、恐らくいかなる鈍感なアメリカ人といえども知らねばならぬ事柄であろう。

 かく日本が全力を対米戦争に集結することあるべき場合、支那大陸は、何者によって剽掠せられ、何者によって覇権を握られるかを、アメリカ人よ、君らは知っているか。
 それはいうも愚かなり。ソ連邦ではないか。

 蒋介石が無謀な抗日戦争に血道を上げている間に、支那大陸の奥地には、抜くべからざるソ連勢力――すなわち共産軍の地盤を築かせてしまったのだ。
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2007年04月25日

大戦直前日本の世情3

蒋介石目覚めよ

 大東亜戦争直前、昭和十六年頃の世界情勢の渦中に生きた日本人が、どのようなことを考え、どのような意見を持っていたのかを、その頃に発行された書籍を紐解くことによって、その時代の日本人と同化し、なぜ大戦へと進んでいったのかを探って見たいと思います。
当時多くのベストセラーを出した、武藤貞一の著
「日米十年戦争」(昭和十六年発行)
から少し引用しています。
 またこのくだりは、当時の日本の敵はソ連と支那の共産党であって、決して蒋介石の国民政府だとは思っていなかったこともうかがわれますが、西安事件以来、蒋介石は共産党と共に抗日を余儀なくされていたこともあり、日本のいらだたしい思いが表れています。
写真は米国女性の長槍部隊
nagayari.jpg

引用開始
 ソ連は日本がこのまま支那大陸の戦争を継続すればするほど、また日本が資源不足で南進政策を積極化すればするほど、おのずから魚夫の利を占め、懐手空腕、よく支那大陸を総舐めにすることができるとずるく考えている。
 蒋介石の勢力減退に反比例して、支那大陸の奥地に隆々たる勢力を培養し、かつ君臨しつつあるものは共産党および共産軍だ。いな、逞しき赤色勢力だ。蒋介石は日本に叩かれて、再起不能に陥っても、あとの支那大陸奥地には赤色勢力の氾濫を如何ともすべかせざるに至ろう。
 
 日本はだれが何と言っても防共のトーチカであり、日本と言うトーチカがその機能を発揮し得ざるに至れば、支那大陸は、アジア大陸は、もはや堰の取れた河原である。
 蒋介石は不当に支那民衆を駆り立て、抗日戦争に専念することによって、彼はソ連の為にマンマと日本を疲労させる道具にされてしまい、身自らも今日では部内の赤色勢力に押され、中共側の攻勢にややもすればたじろいでいる形である。
 蒋介石は、最近だれかに、日支が共倒れになってしまえばあとはアジア全体の壊滅だという意味のことを語ったとのことだが、かれにして既にその認識ある限り、何故一足飛びに従来の方針の大誤謬を訂正する勇気を出さぬのか。
 今や日華条約の締結によって、支那事変は、汪政権との間には終結を告げ、なお残る蒋政権に対しては更にこれからというところだが、戦争は何時まで経っても『これから』であってはならない。
 大軍は永く用うべからず、大軍を永く広野に晒せばその国乱るとは古書の金言だ。支那のため、アジア全国の福祉のため、敢えて蒋介石の猛省を促さざるを得ない。記せよ、闘いの勝負は既に決しているのである。面目などに囚われて、国乱れ、国亡ぶるを何とするや。
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2007年04月24日

大戦直前日本の世情2

アメリカの日本圧迫の歴史

 大東亜戦争直前、昭和十六年頃の世界情勢の渦中に生きた日本人が、どのようなことを考え、どのような意見を持っていたのかを、その頃に発行された書籍を紐解くことによって、その時代の日本人と同化し、なぜ大戦へと進んでいったのかを探って見たいと思います。
当時多くのベストセラーを出した、武藤貞一の著
「日米十年戦争」(昭和十六年発行)
から引用しています。
写真は空母レキシントン
lekishinton.jpg

引用開始
 二十世紀初頭よりの米国の極東政策は一に日本圧迫の四字に尽きる。勿論日本という東亜の要塞が潰れれば支那の如きは垂涎せずとも手に唾して取れるだろうからだ。

1,ジョン・ヘイの門戸開放 
 1899年(明治三十二年)9月6日、国務卿ジョン・ヘイは支那門戸開放に関する通牒を列国に発した、曰く「支那全領土に亘り何れの国民にも平等に通商上の自由と機会の均等が与えられるべきだ」と
更に翌1900年7月12日列強に対し無条件門戸開放の要求をしたが、何れも之を峻拒した。
同年米国は我国に対し福建省沿岸に一貯炭所を設置せんとして意向を質して来たが拒絶された。

1,日露講和斡旋
 極東に飛揚せんと企む米国がロシアの東亜席巻的南下勢力の伸長に無関心たり得ぬのは言う迄もない、即ち日露戦争に際しては援日抑露の態度となって現れたものである、1905年(明治三十八年)3月10日奉天陥落し、同じく5月27日露国最後の遠征隊バルチック艦隊が日本海に全滅するやセオドア・ルーズベルトは平和斡旋を提議してポーツマス条約を成立せしめた、このイニシアティヴに対する米国の魂胆は両者何れが決定的勝利を得るも米国に取って利益ではないという結論が生み出していたようだ。

1,桂・タフト協定 
 日露戦争で示された日本の実力に驚倒した米国は将来を懸念して同年夏陸軍卿タフトを訪日せしめ、桂首相をして日本が絶対にフィリピンを攻撃せざることを約せしめると共に日本が朝鮮を保護国とする事を承認した、之を世に桂・タフト協定と言う。

1,満鉄買収計画 
 明治三十八年十一月十二日米国鉄道王ハリマンと桂首相の間に一億円で満鉄を譲渡すると言う約束が成立し、ハリマンは即日覚書を携えて桑港(サンフランシスコ)に帰った、然るに入れ違いにポーツマスより帰朝した小村寿太郎外相は満鉄絶対に手放すべからずと主張し、閣議を一変せしめて右予備契約は取消された、偉なる哉炯眼、同時に米国においても、日本は愈々容易ならざる真敵なる事を認識したものの如くである、爾来対日親善、媚態の一時的笑顔政策は全面的に改変され、機会あれば日本の大陸政策に横槍を入れるに至った。
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2007年04月23日

大戦直前日本の世情1

アメリカの対日前哨戦

大東亜戦争直前、昭和十六年頃の世界情勢の渦中に生きた日本人が、どのようなことを考え、どのような意見を持っていたのかを、その頃に発行された書籍を紐解くことによって、その時代の日本人と同化し、なぜ大戦へと進んでいったのかを探って見たいと思います。
当時多くのベストセラーを出した、武藤貞一の著
「日米十年戦争」(昭和十六年発行)
から少し引用してみます。
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引用開始
 どのみち、アメリカが資本攻勢のやむにやまれぬ必然的要求から支那大陸の市場を欲し、同時に太平洋西岸の資源を欲する限りは、日本というアジアにただ一つ残れる有色人種のトーチカを爆砕しなければならぬことは覚悟前だ。日本の宿命的相克はいつ始まったかは今更いうも愚かである。
 アメリカが大陸を南漸して太平洋岸に出て来たとき、延いてはペリーが浦賀湾頭に砲声を轟かしたとき、今日の成行きは約束されていたのである。更に下っては、ノックスの東清鉄道中立提案をして来たとき、日本は覚悟すべきであったのだ。満洲事変の際、いわゆるスチムソン・ドクトリンで、対日恫喝が試みられたとき、既にアメリカは戦意を露骨にしていた。・・・

 爾来、アメリカは猛然と準備を急ぎ出した。驚異的大軍拡、対日制圧戦に十分なりと信ずる準備を!
 支那事変となって、アメリカはイギリスと協力し、あらん限りの援助を蒋政権に与えた。これ、蒋介石を利用して、有色人種国唯一のトーチカたる日本帝国の国力消耗を図らんがために外ならない。支那事変こそ、英ソにそうであったごとく、なかんづくアメリカに取ってはもっけの幸いであった。
 1940年1月26日は、アメリカが対日経済封鎖の第一宣告ともいうべき記念日である。当日日米通商条約の一方的廃棄がアメリカによって敢行されてしまったのだ。爾来、アメリカは経済封鎖という対日前哨戦についた。
 固より未だ日本と実力の戦争をする準備が整っていないから、武力戦はアメリカにおいて回避せざるを得ない。そこで、日本に致命的打撃を与えることによって、捨身の反発を起させない程度を加減しながら、ジワジワと経済封鎖を強化するに至った。・・・・・

 かくて、ここ数年来、特に支那事変勃発後のアメリカは、極めて彼に好都合な情勢のもとに、その企図は十二分に発揮できたと見るべきである。いま仮にこれを二つの方式に分けるとすれば、
1,日本の国力を対蒋戦争によって消耗させてきた。
2,日本にその消耗を補充し能わざるよう、日本への原料物資の注入を阻害してきた。

 日本がその主要資源を英米領域に依存し来ったのみならず、経済動力を英米に仰ぎ来ったことは、アメリカに取っての何たる好条件であろうか。およそ世の中に、仮想敵国の使う原料を自分の手で握っていて、その相手と戦う潮合を待つというくらい恵まれた態勢というものはそうザラにあるものではあるまい。同時に、その逆の立場に立つ『仮想敵国』なるものの惨めさは正に言語に絶するものがある。
 しかも日本人は、かかる最悪の関係に立ちながら、一向平気で長年月を経過し来ったところに、日本人独特の呑気千万さがある。否、呑気千万を通り越して、むしろ痴呆症かと疑わるるくらいである。
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2007年01月09日

ハルの予防戦争

民主主義国の根本的な弱み

日本では「ハル・ノート」で有名なコーデル・ハルの考え方と、ドイツ、ソ連、日本等の情勢把握の模様を「ハル回顧録」の中に見てみましょう。
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引用開始
 当時(1930頃)英仏の力ははるかに勝り、ドイツははるかに劣っていたのであるが、どうしてドイツが優越の地位を占め、ひいては英仏の存在までもおびやかすようになったのだろうか。
 これは世人がいつまでも疑問とする問題の一つであるが、その理由は、英国もフランスもわざわいを事前に防ぐための戦争をしようとしなかったことにある。
 英国における孤立主義的な気分の強さは米国に劣らなかった。フランスが1923年にルールに侵入したのは予防手段をとろうとしたものであったが、これは英国のはげしい反対を招き、ポアンカレー内閣はこのためにつぶれてしまった。その後フランス政府は予防戦争に乗り出す勇気を失ってしまった。

 ここに民主主義国ないし人民が重要な発言権をもつ政府の根本的な弱みがある。こういう国はいろいろの面ですぐれた面を持ってはいるが、不幸なことに外からの危険が目の前にせまった場合、ゆっくりと、あまりにもゆっくりと行動するという伝統をもっている。純粋な民主主義は、アテネの市民が文明への貢献としてつくり出したものであるが、この小さな国の国民は、外からの危険がせまった時に、戦うべきかどうかを人民投票に問おうとした。この指導性の不足、政府当局の指導ということに考えの足りなかったことが、アテネ人をとらえて奴隷にしようとした侵略者の乗ずるところとなったのである。・・・・

※日ソ不可侵条約締結
 ヒトラーがソ連を攻撃するだろうということは半年も前からわれわれは有力な証拠を持っていた。だから六月二十二日の知らせ(ヒトラーのソ連侵入)にもわれわれは驚かなかった。
 1941年1月、ベルリン駐在商務間のサム・ウッズから私に極秘の報告が届いた。ウッズは一人のドイツ人の友人を持っていた。この友人はナチスの反対者だったが、ドイツ政府の各省、中央銀行、党の高級幹部などに深く食い入っていた。この友人が、ヒトラーの司令部で、対ソ戦の準備についての会議が開かれているということをウッズに知らせたのは1940年8月のことであった。・・・・

 私はこの報告の内容をソ連大使ウマンスキーに伝えさせることにした。私はそうすることが、米国がソ連に対してとるべき正しい態度だと確信した。私はそのころ私の要請に応じて米ソ両国の意見の食い違いを調整するために、何回もウマンスキーと会談していたウェルズに、この情報をソ連大使に伝えるように頼んだ。ウェルズはその通りにした。・・・・

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2006年12月02日

紫禁城の黄昏の却下

満洲問題の本質

 私も少し以前に「紫禁城の黄昏」を読みましたが、東京裁判がこれを証拠として採用しなかったことにも、あの裁判に最初から意図があったことを示すものなのでしょう。
 アメリカは帝国主義の歴史で、最後に遅れて登場し、アジアにその侵略の目を向けた頃には、残っていたのは満州だけでした。ここに日本との対立があったことは、日露戦争以後の歴史に明白でしょう。
 清水氏は「大東亜戦争の正体」の中でこれを取り上げていました。写真は大元帥服の溥儀です。
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引用開始
※『紫禁城の黄昏』が明らかにした真実
 結局大東亜戦争の直接の発端となったのは、満洲における日米の権益争いであった。では、満洲とは何か。当時世界が日本を非難し、孤立した日本が国際連盟を脱退する破目になった原因が満州国の建国であった。満州国は果たして日本の傀儡政権だったのか、その満洲問題の本質、真実を知れば、どちらに正義があったか自ずから解明されるはずだ。それを知るかっこうの書物が『紫禁城の黄昏』である。

 この魅力的な題名の書は、清朝最後の皇帝・溥儀の家庭教師として、皇帝の人となり、紫禁城の内幕、満洲問題と日本との関係を内側からつぶさに観察した、イギリス人による貴重この上ない歴史の証言である。原著は1934年刊行であるが、近年、中山理氏によって完訳され、渡部昇一氏の監修で出版された。
 渡部氏の監修の言葉に「『紫禁城の黄昏』が、極東軍事裁判に証拠書類として採用されていたら、あのような裁判は成立しなかったであろう。こう言うだけで、本書の価値を知るには充分である。もちろん、何が何でも日本を悪者に仕立て上げたかった東京裁判所は、本書を証拠資料として採用せず、却下した」と。

 この本を書いたレジナルド・ジョンストンは、当代一流のシナ学者で、宣統帝溥儀の家庭教師となった人である。この本は、満洲事変後のアメリカ・イギリスの対日政策が根本から間違っているということを、動かしがたい証拠を以って言及していねのである。
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2006年12月01日

米国による侵略戦争

アメリカこそ侵略戦争連続の歴史

 「大東亜戦争の正体」清水馨八郎著からの引用です。氏はこの本で、大東亜戦争はアメリカの侵略戦争だったという主張をされています。
 大東亜戦争の原因を語る場合には、西欧列強による新大陸発見の大航海時代や、植民地獲得競争のあたりの歴史を考慮に入れなければ、正しい判断ができないことは確かだと考えます。
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引用開始
※アメリカによる侵略戦争の常套手段
 アメリカが1776年7月4日に独立を宣言してから今日まで、わずか230年足らずの間に、世界に突出した超覇権国に躍り出られたのは、原住民や他民族への侵略に次ぐ侵略の歴史があったからである。星条旗の星の数が当初の13からあっという間に50に増えたことでも明らかだ。日本に仕掛けた大東亜戦争もその一つにすぎない。・・・・・

 米の侵略史の第一ページは先住民の殺戮・征服である。アメリカ・インディアンはアメリカ大陸に一万年以上の歴史を持つ東洋出身モンゴロイド系の先住民族で、当時約200万人から500万人と推定されたが、新来のアングロサクソン移民によって森の木を伐るごとく、殺戮されてしまった。白人は彼らを人間と見ず、バッファローと同じ自然の一部として、奸計を以って悪逆無道の殺戮を繰り返し、1890年(明治二十三年)には、先住民の人口は20万人にまで減少した。この残虐な行為をアメリカ史では、アメリカ人の勇敢な開拓者精神、パイオニア精神の発揮と誇っている。

 この西部侵略が東から西へと向かい太平洋岸に達した時、今度はその矛先を太平洋に向け、ハワイ、グァム、フィリピンと進み、ついに日本列島に達したのが大東亜戦争であった。したがって、この戦争もアメリカの一貫した西部へ西部への侵略戦争の延長とみることができる。

 アメリカはわずか半世紀の間に、先住民を亡ぼし、大陸の覇権を確立していった。今度は侵略の矛先を西から南に転じ、メキシコと戦端を開くにあたって、有名な「アラモの砦を忘れるな」の合言葉を以って戦意高揚を図った。これは後の「真珠湾を忘れるな」に通ずる、アメリカ侵略戦争開始の常套手段となっていった。
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2006年09月28日

真珠湾の真実

ロバート・B・スティネット著
「真珠湾の真実」ルーズベルト欺瞞の日々より。

 ここでは、前回記載の、マッカラムの戦争挑発八項目実行により、日本がどのように反応してきたかを引用してみます。

引用開始
 日本の戦争準備は、ルーズベルト大統領が1941年7月に、マッカラムの戦争挑発行動八項目の最後の手段をとってから明確な展開を見せた。最後の手段 H 項目とは、英帝国が押しつける通商禁止と歩調を合わせた、アメリカの同様な日本に対する全面的な貿易禁止であった。
 7月初旬から夏の終わりまでに傍受された日本の外交暗号電報により、ルーズベルトには日本の反応が明らかとなった。すぐに手応えがあり、戦闘行為が遠くないことを示唆する、次の三つの思い切った新しい措置がとられた。すなわち、

(1)日本人青年50万人が徴兵された。これは1937年の盧溝橋事件以来最大規模であった。
(2)日本の商船が世界中の海域から呼び返された。
(3)日本の艦艇と航空隊が中国の占領地から呼び返された。
 
 松岡洋右外相が1941年1月に初めて提示した和解案は「最悪の政策」と酷評されているが、これが採用される可能性はまだ残っていた。松岡は、和解を日本の第一希望とし、アメリカ及び連合国との戦争は最後の手段とし、万一の場合にのみ用いる手段としたい考えを示した。しかし、外交的解決をはかることは、ルーズベルトの戦略には含まれていなかった。外交的解決をはかる代わりに、ルーズベルトは経済制裁を強化し、「最悪の政策」を促進させることになる。1941年7月、日本船舶のパナマ運河通過を禁止し、日本の在米資産を凍結し、石油製品、鉄鋼、金属類の日本への輸出を完全に禁止した。これらの諸制裁が、日本の軍事政権を激怒させることは間違いなかった。
・・・略・・・
 ルーズベルトはマッカラムの覚書の H 項目どおり、日本との貿易をいっさい禁止したのである。無線監視局HYPOの局長ジョセフ・ロシュフォートは、今回の全面的禁輸措置を最後通牒とみた。日本には戦争しか選択肢が残されていなかった。
「われわれは彼らの資金も燃料も貿易も断ち、日本をどんどん締めあげている。彼らには、この苦境から抜け出すには、もう戦争しか道は残されていないのが、わかるだろう

 1941年、日本は平時の使用量として年間350万トンの石油が必要で、その内訳は海軍に200万トン、陸軍に50万トン、民間に100万トンが割り当てられた。・・・1941年7月の時点で、日本は平和時であれば二年分に相当する700万トンの石油を保有していた。
 それはアメリカが考えだした(対日戦実施の)時刻表であった。1943年、日本の石油備蓄量が底をつく時、アメリカの軍需生産は本格的に稼動しており、アメリカは攻撃作戦をとることができるという計算である。

 山本提督は東南アジアにある米英蘭三国の植民地を占領する計画を立てていた。日本はこの広大な地域の膨大な天然資源を手に入れたかった。日本の占領計画では、東経100度線を北はシャム(現在のタイ)からマレー半島に沿って南下、蘭領東インドまでを支配し、そこから東方に転じ、経度180度の日付変更線付近までの中部太平洋地域を、支配下におさめようと考えていた。
 この大規模な作戦を実施するため、山本は連合艦隊を八つの部隊に分けた。
・・・略・・・
 山本提督は、これらの艦隊で日本の東南アジア侵攻に対するアメリカの干渉を阻止する計画を立てていた。フィリピンが侵略された場合、アメリカは軍艦、航空隊、増援部隊を英蘭両政府に派遣して対抗してくるだろうと、山本は確信していた。山本の計画の一部にはグアム島とウェーク島の侵略占領が含まれていた。この二島は、中部太平洋にある小規模で防衛力の弱い米軍基地であった。彼はアメリカの脅威に対処するための四個艦隊を組織し、真珠湾を奇襲することでアメリカ太平洋艦隊を移動不能とするべく、前衛部隊を組織した。
・・・略・・・
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2006年09月27日

米国の戦争挑発覚書

ロバート・B・スティネット著
「真珠湾の真実」ルーズベルト欺瞞の日々より。

スティネットは、ジョージ・ブッシュ前アメリカ大統領の下でアメリカ海軍の軍人として戦い、十度も戦闘功労勲章を受けて大統領特別感状にも輝いた第二次大戦の英雄であり、1986年に『オークランド・トリビューン』紙の記者をやめたあと、ひたすら「真珠湾の真実」を求めてその研究に従事してきた人物であり、またその間、日米戦争についてBBCなどの主要メディアでアドバイザーを務めてきた大戦史の権威の一人である。
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引用開始
【米国・海軍作戦本部・1940年10月7日】
 海軍情報部(ONI)極東課長アーサー・H・マッカラム海軍少佐は、1898(明治三十一)年、宣教師の両親の間に長崎で生まれ、少年時代を日本の諸都市で過ごし、英語よりも先に日本語が喋れた。父の死後帰国するが22歳で駐日アメリカ大使館付海軍武官として来日。
 彼が作成した覚書は、米国の衝撃的な新しい外交政策で、それは日本を挑発して米国に対し、明らかな戦争行為をとるよう企図されていた。
 著者は1995年1月24日、第二公文書館の軍事関係部門の記録グループ38(RG38)の特別米軍収納箱6号で、アーサー・マッカラム少佐作成の、日本を挑発して米国に対し明白な戦争行為に訴えさせるための、八項目の行動提案を発見した

【マッカラムの戦争挑発行動八項目覚書】
・・・・米国と対立している日本の現状を分析すると、次のことが言える。

 有利な点
(1)日本列島は地理的に強力な優位性を持っている。
(2)きわめて中央集権化された強力な政府である。
(3)厳格に管理された戦時経済体制をとっている。
(4)国民は苦労と戦争慣れている。
(5)強力な陸軍を有する。
(6)米海軍の約三分の二の兵力からなる熟練した海軍を有する。
(7)ある程度の天然資源の備蓄がある。
(8)四月までは天候により、日本近海での作戦行動が困難である。

 不利な点
(1)アジア大陸での消耗戦に百五十万人が投入されている。
(2)国内経済と食糧配給が厳しく制限されている。
(3)戦争に必要な天然資源が大幅に不足している。特に石油、鉄及び綿花が不足している。
(4)欧州から資源を入手することが不可能になっている。
(5)必需物資を遠い海上交通に依存している。
(6)合衆国と欧州の市場に頼ることなく、軍事機材の生産と補給を増加させることができない。
(7)主要都市と工業地域は空襲を受けやすい立地条件にある。
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2006年09月26日

リンドバーグ日記最終

チャールズ・リンドバーグ著「孤高の鷲」下から最後の引用をします。
引用開始
【1944年】
7月22日土曜日

 今朝、爆撃された地域に関する報告が入ってくる。爆撃、砲撃に続いて歩兵部隊が出動した。彼らは「一弾も撃たずに」同地域を占領した。――ある洞窟では日本兵の死体が約四十個も発見され、「それよりかなり多数の身体の一部分」が散乱していた。
 わずかな生存者は茫然自失の状態で坐るか横になっているかして、アメリカ兵を目にしても身じろぎさえしなかった。第一報では一名だけ捕虜にしたとあったが、後刻、歩兵部隊の佐官将校が私に語ったところによれば、「一名も捕虜にとらなかった」という。「うちの兵隊ときたら全然、捕虜をとりたがらないのだ

7月24日月曜日
・・・・ 丘の斜面を降りて行くと、峠に差しかかる。そこには一人の日本軍将校と、十人か十二人の日本軍兵士の死体が、切り刻まれた人体だけが見せるような身の毛のよだつ姿勢で四肢を伸ばしたまま、横たわっていた
 彼らは峠の防衛線で倒れ、死体は埋めずに放っておかれたのである。・・・・そして同行の将校が言ったように、「歩兵はお得意の商売にとりかかったようだ」。つまり、戦利品として金歯をことごとくもぎとったというのである
・・・・・山道の片側にある爆弾でできた穴の縁を通り過ぎる。穴の底には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で半ば埋もれていた。同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。敵を殺す、これは理解できる。戦争の欠くべからざる要素だ。敵を殺戮する最も効果的ないかなる方法も正当化されるだろう。しかし、わが同胞が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾で出来た穴に投げ込んだ上、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸くそが悪くなる。

(南太平洋からの帰国後、チャールズ・リンドバーグは激務に追われ、日記は再び中断される。記入が再開されるのは1945年5月になってからで、リンドバーグはドイツ降伏の直後、海軍技術調査団の一員として渡欧の途に就く。旅行の目的はユナイテッド・エアクラフト社を代表して、ドイツの戦時中における航空機、誘導兵器等の開発状況を研究するためであった)

【1945年】
5月17日木曜日

 フランス軍が占領した数日後のシュツットガルトにいたアメリカ人技術者によると、フランス軍は略戒、強姦、殺戮をほしいままにしたという。が、フランス陸軍の一部をなす黒人部隊のそれは信じ難いまでに悪質だった。
 件の技術者は病院で十七回も凌辱された婦人患者を見ている。「シュツットガルトの女性は六歳から六十歳まで一人残らず凌辱されたと言って差支えない」。
 技術者の証言は後刻、アメリカ陸軍将校の話により一部が確認された。シュツットガルトでは六千件の強姦が報告され、市民はアメリカ軍がフランス軍と入れ代わるように懇願しているとのことだ。
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2006年09月25日

リンドバーグ日記6

 ここでは、リンドバーグがルーズベルトの政策に反対していたために、開戦後も、リンドバーグの真摯な戦争貢献の姿勢がことごとくホワイト・ハウスによって封じられていたことを訴えています。開戦までは自由に意見を述べるのが民主主義であり、いざ開戦となったら、祖国のために戦いたいというのがリンドバーグの姿勢でした。ルーズベルトが執念深いといったのは、こういうことでしょう。
 そして、この戦争は結局ソヴィエトの勝利となり、ソヴィエト支配下のヨーロッパは、ドイツ支配下になるよりも更に惨めな状態になると見抜いています。
チャールズ・リンドバーグ著「孤高の鷲」下から引用します。

引用開始
【1942年】
2月25日水曜日

 ・・・・この戦争に参加しようとして試みる自分のあらゆる努力がことごとく封じられるのではないかといぶかり始める。
 自分は常に、祖国の最高利益になると考えたことのために戦ってきた。そして、祖国が戦いに入った今、自分なりの貢献をしたいと願っているのである。たとえ戦争がどのような愚挙であり、破滅的なものかと証明されるようになったとしても、だ。・・・・
 自分は常に信じて来た。アメリカ市民ならば、平時には自分の意見を述べ、戦時には戦う権利と義務があると。しかしながら、ルーズベルト政権はそのように考えていないように思われる。

3月2日月曜日
 ・・・一方われわれがドイツを叩くのに成功しているのであれば、われわれは自動的にソヴィエトの勝利を作り出すことになるソヴィエト支配下のヨーロッパはドイツ支配下のヨーロッパより遥かに悪いことになるだろうと思う。
 イギリスもアメリカも、勝利を収めた場合には結局、敗北したことになる戦争にまんまと引き込まれたのだ。もしわれわれが勝利を得れば、参戦反対の人々がもたらしたよりなおいっそう悪い情況を生み出す羽目になるであろう。

3月21日土曜日
 デトロイトのハリー・ベネットから電話あり。ヘンリー・フォードが、爆撃機製造工場で助力を受けたいので話し合いたいという。

3月24日火曜日
・・・・ 爆撃機製造工場を出ると、車でルージュの自動車工場へ。途中、フォードとソレンセンは私にデトロイトへ来て同社の航空計画を手伝ってくれないかと訊く。大いにそうしたいのだが、あなた方にも自分にとっても、最終的な決定を下す前に陸軍省の了解を取った方がよいのではないかと答える。
 フォードは最初、その件で陸軍省に相談することを反対した。しかし、将来とも陸軍とは大いに接触を保たねばならないし、滑り出しがよければ後々まで何かと好都合だと念を押す。フォードも結局、同意してくれた。
 自分の工場で思った通りのことをやるのにいちいち他人に断わらねばならないのは心外なのだ(実をいえば、民間会社と関係を持つのにいちいち政府の許可を求めねばならないのは自分にとっても心外なのだ。これではソヴィエト・ロシアとそっくりではないか!)。

3月26日木曜日
 二時十五分にロベット次官補と会う約束になっていたので、歩いて軍需ビルへ。フォードと関係を持つのは実に素晴らしいアイディアだと思うと言う!
 ロベットはすこぶる友好的で、愛想がよかった。航空業界への復帰を妨げる障害は、陸軍省にすべての責任があったのではないという確信を得るに至った。妨害工作はもっぱらホワイト・ハウスからのようである(国内の混乱と国外の軍事的失態で、ルーズベルトの復讐心は減ずるどころか、どうやらいま少し芸が細かくなったようだ)。・・・・

3月30日月曜日
 インドが今こそイギリスに協力すれば「戦争後」自治権を与えると提案される。
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2006年09月23日

リンドバーグ日記5

 今回からは、いよいよ日米開戦時期の日記になってきます。当時のアメリカ国内の事情を知っている者は、日本が戦争に訴えるのが当たり前であるとの認識をしていたことが伺えます。それも「ハルノート」の存在を知らなくてもです
「ハルノート」は外交解決が不可能であることのダメ押し、アメリカが外交解決を望んでいなかった証拠でしょう。
チャールズ・リンドバーグ著「孤高の鷲」下から引用します。
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引用開始
【1941年】
9月12日金曜日

 ルーズベルト、海軍に対して「アメリカの利益に必要な防衛水域に侵入する独伊艦船を発見次第、発砲せよ」と命じる。

11月29日土曜日
 対日関係、重大局面に達す。両国の新聞とも戦争を論ず。ケソン大統領、フィリピンの戦争準備は未しと語り、合衆国を非難す。

12月1日月曜日
 日米関係、ますます重大化す。ルーズベルト、休暇を打切ってワシントンに帰る。・・・

12月7日日曜日
 ラジオ放送の発表によれば、日本がフィリピンとハワイ諸島を攻撃し、また真珠湾が爆撃されたという!フィリピンに対する攻撃は予想されたが、これほどかなり早い時期に行われるとは思いもよらず、それにしても、真珠湾に至っては!日本軍はどのようにして接近したのか。

12月8日月曜日
 日本、米英両国に対して宣戦布告。ハワイ、フィリピン共に、日本の攻撃を受く。グアム島、爆撃される。
・・・略・・・
 わが空軍、わが海軍はどのようにして日本軍にやすやすとハワイ諸島へ接近させたのか。日本軍の損害は幾らか。それからわれわれの損害は?
 日本の奇襲攻撃は別に驚くには当たらぬ。われわれは何週間にもわたり、彼らを戦争に駆り立てていたのだから。
 彼らはただ単にわれわれの横っ面を張り飛ばしただけに過ぎぬ。しかし、ラジオ放送によればハワイ攻撃は激烈を極めたものだったと言う。日本軍に真珠湾をわけもなく攻撃し、やすやすと脱出できると思わせたほど、われわれは多くの軍用機と艦艇とを大西洋に回してしまったのか。
 シカゴのボッブ・スチュアートに電話を掛け、ボストン集会は中止すべきだと告げる。ボストンのウッド将軍にも電話。開口一番、将軍は言ってのけた。「やつに裏口からしてやられたよ・・・・

12月9日火曜日
 合衆国、日本に対して宣戦を布告す。日本軍、フィリピンに上陸中と伝えられる。海軍省の報告によれば真珠湾の損害は甚大だ。ハワイで1500人が死亡したという。タイが降伏。イギリス、日本に対して宣戦を布告。

12月11日木曜日
 イギリス、戦艦プリンス・オブ・ウェールズ号、レパレス号の轟沈を認める。日本軍マレー半島に侵入す。・・・・
 独伊両国とも合衆国に宣戦布告する。今や、自分の懸念していた事態がことごとく現実のものとなった。・・・
 当面の戦争目的を遂行したければおそらく史上最高の血なまぐさい、破滅的な戦争を展開することになる。
 その後にいったい何が来るのか。また何を得るために闘おうとしているのか、われわれは明確な考えすら持っておらぬ。われわれは民主主義と自由とを世界に広めることを口にしているが、それはわれわれにとり条件というよりも単なる合言葉に過ぎぬ。民主主義も自由も、このアメリカにおいてすら実現されておらぬし、まして戦争に深く介入すればするほど、それだけわれわれは民主主義と自由から遠ざかることになるのだ。・・・・
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2006年09月22日

リンドバーグ日記4

チャールズ・リンドバーグをご存知の方は多いでしょう。あの偉大な大西洋横断単独飛行をなしとげた方で、第二次大戦への米国の参戦には反対の立場でしたが、参戦の決定後は勇敢に従軍しています。
今日は前回最終の続きから引用します。1940年末のアメリカの日本に対する考え方が記述されているためです。
上巻最後の引用です。チャールズ・リンドバーグ著「孤高の鷲」上から引用します。

引用開始
【1940年】
12月7日土曜日つづき。

 (前記国際会議の)論議の一つに、合衆国は日本と戦端を開くことで大英帝国を一段と助ける結果になるか、それとも太平洋で戦争を回避した方が大英帝国のためになるかという問題が出た。
 意見は分裂した。あるグループの主張によれば、もし日本と戦う羽目になると、勢い軍備を急がねばならないので対英援助が激減すること、また合衆国の艦隊は太平洋方面に無期限に釘付けとなり、全般的に見れば結局は大英帝国の不利益となるだろうというのであった(合衆国にとり何が利益となるかは論ぜられなかった。イギリスにとり最高の利益はアメリカにとっても最高の利益だという態度であった!)。
 もう一つのグループによれば、合衆国の民衆はまだ戦争への関心が充分とはいえず、いざ参戦するまでは国力を最大限に発揮できないだろう、従って日本に対し宣戦布告することで国力と生産力を急速に高め、合衆国も自ら戦争を遂行することに加えて対英援助も増加できるだろうというのであった。 彼らの見解によると、とにかく合衆国艦隊の大半は太平洋にとどまらざるを得ないのだし、そこで日本と戦った方がよいのだというのである。・・・・誰も彼も礼儀正しく、友好的な態度で接してくれたものの、常に場違いの感が拭いきれなかった。われわれは今アメリカにいるのであってイギリスにいるのではない――われわれの主たる関心はアメリカの将来であって大英帝国の将来ではないのだと、そう注意したくて仕方がなかった。・・・・・

【1941年】
1月6日月曜日

 国民の態度は前後に揺れている。最初のうち、反戦勢力が勢いを得ていたかと思うと、いまではそれとは正反対の方向に振り子が動いている――国民の現実の態度と新聞の大見出しとは常に区別して見分けるように努めねばならぬ。が、全般的に言えば、アメリカの戦争介入に反対するわれわれの勢力は、少なくとも相対的に見た場合はじりじりと敗退しつつあるように思われる。
 われわれにとり最大の希望は、合衆国の85%が戦争介入に反対しているという事実だ(最新の世論調査に拠る)。

1月11日土曜日
 ルーズベルトにほとんど無制限の軍事大権を付与する決議案が下院に上呈された。

1月15日水曜日
 下院議員ハミルトン・フィッシュ(共和党)から電話があり、下院外交委員会に出席し、武器貸与法案に関して意見を述べてほしいという。

1月22日水曜日
 ルーマニアで暴動発生が伝えられる。合衆国、航空機の対ソ禁輸措置を解除する。
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2006年09月21日

リンドバーグ日記3

チャールズ・リンドバーグをご存知の方は多いでしょう。あの偉大な大西洋横断単独飛行をなしとげた方で、第二次大戦への米国の参戦には反対の立場でしたが、参戦の決定後は勇敢に従軍しています。
 ここでは米国のヨーロッパへの参戦反対の姿勢を明確に打ち出したことが記されており、ルーズベルトが国民に対する言葉とは反対に参戦を望んでいたことがわかります。
引き続きチャールズ・リンドバーグ著「孤高の鷲」上から引用します。

引用開始
【1939年】
9月14日木曜日

 ・・・・アーノルド将軍にあすの晩ラジオ放送をするつもりだと話した。この計画を彼に打ち明けるのはいまが初めてのことだ。もっとも、彼は私がどのような時局観を抱いているのか百も承知しているのである。・・・・
 私はアーノルドに演説草稿を喜んでお見せしたい、機密に属する軍事情報は一つも含まれておらぬから安心してほしいと付け加えた。・・・・
 アーノルドは一読後、演説がどう見ても航空隊との関連において職業的倫理に反すると解釈される要素はまったく含まれておらぬ、君の行動はアメリカ市民としての諸権利から少しも逸脱してはおらぬと言ってくれた。
 ただ陸軍長官のウッドリングに草稿を見せるべきかどうかという問題が生じた。自分としては陸軍長官に信頼をおけぬし、彼もその一員であるルーズベルト政権の政策も信頼できぬから見せたくないと言った。
・・・略・・・
 アーノルド将軍は陸軍長官に会い、・・・・リンドバーグが明晩ラジオで合衆国のヨーロッパ戦争介入に反対する演説を行うと伝えたところ、ウッドリングはそのラジオ放送を思い止まらせる手はないものかと尋ねたそうである。・・・・

9月21日木曜日
・・・・(前共和党大統領フーヴァー)と四十分間、戦争や合衆国の政策を語りあった。彼は合衆国の参戦に絶対反対だが、・・・・ルーズベルトは何としても国家を戦争に引きずり込みたがっているとフーヴァーは見る。・・・・

【1940年】
3月27日水曜日

・・・ハリー・バード上院議員は私に劣らず、ルーズベルトに信頼感を持っておらぬ。ぬけぬけと三選を狙うだろうという。
 バードの話によれば、ルーズベルトはファーリーに三選を狙わぬと約束したそうである。後刻、選挙参謀のファーリーは言ったという。ルーズベルトはぬけぬけと前言を翻すからね、と。大統領を親しく知る人たちは、大統領の行った公約なるものをさほど高く評価していないようだ。
・・・
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2006年09月20日

リンドバーグ日記2

チャールズ・リンドバーグをご存知の方は多いでしょう。あの偉大な大西洋横断単独飛行をなしとげた方で、第二次大戦への米国の参戦には反対の立場でしたが、参戦の決定後は勇敢に従軍しています。
ここでは第二次大戦前のズデーデン問題なども出てきて、大戦史としての価値もあるでしょう。
今回も、チャールズ・リンドバーグ著「孤高の鷲」上から引用します。

引用開始
【1938年】
9月21日水曜日
 ヒトラーはどう見てもチェコ侵略の用意が出来ており、すでに兵力を国境地帯に配置ずみ。ケネディ大使の話によれば、ヒトラーはチェンバレン首相に向かい、必要ならば世界大戦も辞さぬと啖呵を切ったそうである。
 よしんば準備体制が出来ていなくとも、イギリスは戦う覚悟だとケネディは指摘する。この際、ドイツと戦端を開けば破滅的な影響をもたらすので、チェンバレンは何とかそのような大戦を回避したいと必死に努力している。 ケネディによれば、イギリスの世論はチェンバレンを戦争に追い詰めようとしているのだという。・・・チェンバレンはチェコとズデーデン問題でヒトラーに譲歩し過ぎたと、以前から批判の声が高かった。

【1939年】
1月7日土曜日
 
 各紙の朝刊がヨーロッパの航空事情に関して私がアメリカ本国に書き送った手紙の一部をとりあげ、記事にしている。ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙のパリ版に掲げられた記事の見出しは『リンドバーグ、米国に独空軍の資料を提供か』と。
 新聞記事がそうであるように、これまた不正確な記事ではあるが、誤った記述の中に、記事が自分の手紙に基づいて書かれたと確信させるに足る正しい内容が充分に盛ってある。・・・
 しかし、極秘情報が一様にワシントンの官辺筋から報道機関の手に渡るのは驚くべきことであり、迷惑この上ない。・・・・また政府の機密情報を明るみに出せばさまざまな困難が発生するにもかかわらず、それをあえて公表できる言論の自由があるとは何とも奇妙な話だ。・・・・

1月16日月曜日
 ・・・・新聞はあらゆる種類の不必要なトラブルをひき起す。責任のない、完全に自制心のない新聞は民主主義にとり最大の危険の一つと考えざるを得ぬ。完全に統制された新聞が、これまた危険であるのと同じことだ。
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