2007年12月30日

石井ランシング協商

 いつも拙ブログをお読み頂いて有難うございます。本日で平成19年最後のアップとさせて頂きます。
新年が皆様にとってよき年となりますよう、陰ながらお祈り致します。

日米抗争の史実6

 今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は昭和七年に発行された引用本です
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引用開始
 日本政府は石井大使を特派使節として米国に派遣し、我が国に対する米国民の不信疑惑の感情を一掃し且つ独支方面よりする反間運動を阻止せしめんことを欲して、米国政府と会商させたのである。
 会商の結果両国政府に比較的好都合な覚書が交換されることになった。先ず国務卿ランシングから石井大使に宛てたものは
『支那共和国に関して貴我両国政府の共に利益を感ずる諸問題につき、本官は最近閣下との会談中、意見の一致したるものと了解する所をここに閣下に通報するの光栄を有する』と冒頭して下のように述べた。
『合衆国及び日本国政府は、領土相接近する国家の間には特殊の関係を生ずることを承認す。従って合衆国政府は日本国が支那に於て特殊の利益を有することを承認す。日本の所領に接壌せる地方に於て殊に然りとす』
『尤も支那の領土主権は完全に存在するものにして、合衆国政府は日本国が其の地理的地位の結果、右特殊の利益を有するも、他国の通商に不利なる偏頗の待遇を与え、又は条約上支那の従来他国に許与せる商業上の権利を無視することを欲するものにあらざる旨の日本政府累次の保障に全然信頼す』
合衆国及び日本国政府は毫も支那の独立又は領土保全を侵害するの目的を有するものにあらざることを声明す。且つ右両国政府は常に支那に於ていわゆる門戸開放又は商工業に対する機会均等の主義を支持することを声明す』
『将またおよそ特殊の権利又は特典にして支那の独立又は領土保全を侵害し、若しくは列国臣民又は人民が商業上及び工業上に於ける均等の機会を完全に享有するを妨害するものについては、両国政府は何国政府たるを問わず、これを獲得するに反対なることを互いに声明す』

 これは1917年11月2日の日付であるが、これに対して石井大使からも同意義の回答を発した。これが11月7日を以て発表されたいわゆる石井ランシング日米新協商である。・・・・
 支那が聨合国の勧説によって、1917年、聨合国の一員として参戦(第一次大戦)した動機には、種々魂胆があったことは勿論であるが、支那自身としては戦後の平和会議に発言権を得て、支那問題に対する列国の自由処分を妨げ、同時に戦利権の分配に与り国権恢復運動の機会を掴まんとしたのは当然であるが、其の背後に於てこれを操る主要人物は駐米公使ラインシュであったことは争われない事実である。彼は支那当路者に説くに支那は参戦の結果日本の圧迫より逃れ、同時に多くの利権を恢復し得るであろうと勧告して居ったのである。・・・・

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2007年12月29日

日本移民の排斥(下)

日米抗争の史実5

 今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は日比谷公園のポーツマス講和反対集会
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引用開始
 明治三十八年五月サンフランシスコに於て、市長シュミッツが公然日本人排斥協会を組織してから、米国に於ける排日思想は当初西部の一地方的労働問題に過ぎなかったのであるが、日本の満洲経営と米国の東洋政策とが交錯して、漸次全国的に瀰漫し、爾来四半世紀に亘って幾たびか日米外交の危機をもたらした。その間流言蜚語は絶えず流布し、『日本は台湾と一衣帯水のフィリピン群島を奪おうとする意志がある』とか『満州の戦場から引揚げた日本の装丁が争って渡米し、白人労働者の職業を蚕食しつつあり、今に於て何とかせなければ加州否ロッキー山脈以西は忽ちにして日本に併合される』などと狂気じみた怒号を始めたこともある。或は『ハワイは有事の日に於て米人のものではない、多数の日本移民は軍隊教養の済んだものである』『日米戦争が起れば歴戦の日本軍隊は忽ち無防御の米国太平洋岸地方を占領すること容易である』等の一種恐日的宣伝が盛んに流布され、東洋知識に比較的暗愚なる米人に異常のセンセーションを与えた。
 
 ホーマー・リーの『盲蛇』ヘクトル・バイウォターの『日米戦争』等の著書は更に薪に油を注ぎ米人対日憎悪の感情を煽った。然し是等は単に思想的方面に過ぎないが、其の真の利害関係に立って考えれば、米国の東洋貿易の増進、資本団の支那投資企業、支那に於ける米国政治的地歩の推進等は、門戸開放、機会均等主義と相俟って、日本の発展並びに対支政策と競争衝突の必然的経路に向かい合ったのであるから、そこに疑懼、憎悪の念を生じせしめたのもまた自然の勢いであった。かくの如く感情の変化が現れて行く際に、生憎支那人の日本に対する感情もまた漸く一変したのである。
 元来日本は北清事変以来清国のために尽したことは少なくないのである。殊に日露戦争の如きは、日本が支那に代わってその領土保全のために戦ったものであって、支那が今日尚満洲を保有し、且つ該戦役後に於て著しく列強の圧迫を免れ得たのは、全く同戦役の賜物であったにも拘らず、彼らは却って日本の行動を非難し、日本の野心を訴え、新米制日の政策を採って努めて日本を不利の地位に置かんとするようになった。
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2007年12月28日

日本移民の排斥(上)

日米抗争の史実4

 今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はポーツマス講和成立で満洲ロシア軍代表との会見
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引用開始
 元来日本移民に対する米国人の輿論特に太平洋岸に於ける輿論の反対は、半ば人種的反感からではあるが、他の一半は白人労働者が、有り余る東洋人との労働市場に於ける競争を恐れるためであった。・・・・
 当初日露戦争に対する米人の同情が、連戦連勝の結果漸次疑惧猜忌の感情と変って行って、日本人排斥熱も自然高潮し、明治三十九年(1906年)十月サンフランシスコ市学務局では、日本人学童を市内各学校より排斥し、一の隔離学校を設置して、すべてこれに通学せしむるようにしたのである。
 当時サンフランシスコは大地震のため市の大半を焼失したが、この隔離学校というのは、元支那人の子弟のために建てられたもので、焼失地域の中心に近い支那街に在って、附近は光景惨憺たるばかりでなく、市の秩序が乱れて兇賊出没して昼夜の別なく通行人を悩ますと云う有様であったから、遠隔の地に住む日本学童は到底通学することができない実状であった。・・・・

 元来この学童問題は単に教育問題でなく、実に日本人全体に対する排斥が主眼で、学童問題は単に其の口実に過ぎなかったのである。
 最初サンフランシスコ官憲は小学校が日本児童で溢れるほどであるなどと大声疾呼したが、実は市の小学校全部で日本児童は僅かに93名居ただけであった。また彼らは成年の日本人が小学校に入ってきて不都合であると唱えたのであるが、これとて九十三名のうちの十名ないし十二、三名の生徒が交じっていたのみで、然もこれらは自分から小学校を退学することを承諾したから、サンフランシスコ官憲の云うところは少しも正当な根拠がなかったのである。・・・・
 かくて問題はますます紛糾を重ねて行く中にサンフランシスコの排日連中はいよいよ本音を吐くようになった。それは翌1907年(明治四十年)一月になって、日本労働者排斥法案が上院に提議された。サンフランシスコ市長シュミットも二月、大統領と会見して、日本人を排斥しなければならぬ理由を述べたのである。そして彼らの理由は、日本労働者が米国の文明に同化せず且その労働賃金低廉なるを以て、白人労働者の職業を奪うものであると云うのである。シュミットも日本学童隔離はむしろ枝葉の問題で、もし今後日本人の移住が禁止されるならば、日本児童を公立小学校に入れても差支えないと唱えるに至ったのである。即ち何時の間にか学童問題は日本移民排斥法と変形してその本音を暴露した。・・・・

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2007年12月27日

日米対支政策の衝突

日米抗争の史実3

 今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は満洲を疾走するアジア号
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引用開始
 ハリマンは最初の計画に一頓挫を来したが、中々その大望を捨てるような男ではない。彼が清韓旅行中、京城副領事の微官にあった二十七歳の白面の一英才ストレートを見出して、一見肝胆相照の仲となった。彼は帰米後ストレートを国務省に推薦し、一躍奉天総領事に栄転せしめて、自己の目的達成の参画者としたのである。
 ストレートは南満鉄道に平行して北端ハルビンに達する鉄道利権を得て、日露両国の満州に於ける地位を覆し、両国をして南満及び東清鉄道を放棄せしめて、ハリマンの目的を成就せしめようと企てたのである。たまたま英国ホーリング会社のロード・フレンチが奉天に来り、京奉線の延長線として、新民屯から法庫門に達し更に後日チチハルに延長せらるべき鉄道利権を得たのを聴いたストレートは、たちまちロード・フレンチと握手して、その獲得した鉄道を利用し英米二国の力を以て日本を動かそうと図った。しかし該鉄道は南満鉄道と平行する幹線となるから、日支密約中の条項に抵触するので、日本の抗議によってその契約は取消されたのであるが、ストレートは少しも屈することなく素志貫徹の妙案を考えていたのである。

 当時袁世凱は支那の要路に居って、先輩李鴻章が露を以て日を制した故智に倣い、米を以て日を制するため、腹心の徐世昌を東三省総督に、唐紹儀を奉天巡撫に任命し、ストレートと種々商議せしめた。彼等は米支共同で二千万ドルの満洲銀行を設立し、該銀行をして満州に於ける鉱山森林農業の開発及び鉄道の建設に従事せしめチチハルから愛琿に達する鉄道を造ることを協定した。・・・・
 米支提携の機縁正に熟せんとする頃、光緒帝及び西大后相次いで崩御し、袁世凱と仲の悪い醇親王が摂政となったので、袁世凱はたちまち排斥せられ、・・・ここに於て満洲銀行借款問題もまた立ち消えとなったのである。・・・米支親善を以て日本を制せんとする術策外交の種子もこの頃に於て深く播かれたのである。・・・・
 ハリマン死してその遺業を成就せしむべき後継者が無かったので、彼の一世の雄図もここに終焉を告げたのであるが、ストレートは尚もその遺業を大成せんと奮闘し、米国政府もまたこれを援助したので、爾後日米の衝突は種々の形において続出したのである。
 その最初に現れたのが,国務郷ノックスの満洲鉄道中立の提議である。これはハリマンの死後二ヶ月目の1909年11月、先ず英国に対しその意向を質したのであるが、英国政府は主義に於て該案に賛成するが、先ず関係諸国の意向を質さざるべからずと回答した。ノックスはこの回答により大いにその前途を楽観し、同年12月18日英独に送致したと同一の公文を、日露両国に送付しその同意を求めて来た。・・・・
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2007年12月26日

日露講和斡旋の意図

日米抗争の史実2

今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は日露講和交渉の模様
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引用開始
 日露戦争が始まって、我が国の連戦連勝に驚異の眼をみはったルーズベルト(セオドア)は、初めて日本の底力を意識し、日本海海戦後の七日目、即ち明治三十八年六月二日に、駐米露国大使カシ二―伯と駐米日本公使高平小五郎とに戦争調停の意を伝え、超えて六月八日正式に両国政府に向って一の照会文を送ったのである。その文意は、『今や人類一般の利益のために、目下の惨憺たる痛嘆すべき戦争をせしむることが出来るか出来ぬかを見るために努力すべきときが来た。合衆国は久しく日露両国と友好関係を保って来た。合衆国は両国の繁栄福祉を祈ると共に、この二大国民間の戦争により世界の進歩が阻害せられることを切に感ずる。故に予は両国政府に於て両国自己のためのみならず、また文明世界全体の利益のために相互に直接の講和談判を開始されんことを切望する』と云うのであった。
 これはルーズベルトの炯眼であって、よく日露両国の極東に於ける将来の関係を洞察し、米国の東洋政策遂行上の障碍を最小限に喰い止めんとした働きと観られるのである。

 当時米国の立場から云えば、日本にせよ、露国にせよ、一方が起つ能わざるまでに傷つくことは、とりもなおさず他の一方が非常に優勢になると云うことになるので、これは極東に於て恐るべき米国の敵を造るゆえんである。なかんずく日本が大局に於て疲れ果てて露国が極東にその羽翼を伸ばすようなことがあっては愈々以て米国の邪魔となる。だから米国はなるべく両方が余り負けない程度に、そして相当に疲れた機会に調停を試みなければならない理由があったのである。その活機を掴んだのがルーズベルトである。・・・・
 この講和会議に於て注意すべき事は、米国人の対日感情の変化である。ハリス以来常に我国に対して友好の感情を続け、むしろ欧州列強の横暴なる申出を掣肘してくれたくらいの米国であったが、日清戦争に於て日本の国際的勢力を認め、国務郷ヘイの宣明と、ハワイ、フィリピンの併合によって一層極東に関心を持った米人には、この日本の戦勝を単なる日露間の問題と考えるには余りにその権勢欲、膨脹欲が強かったのである。プライスの云った通り、米国の生活に於ては群集精神がその主力をなすものである。その交通網の拡張と資源開発の増進と商工業の発達と国富急進の趨勢に置かれた米国人に、どうしてこの東洋の大市場を閑過させよう。殊に上に立ってこの大勢を指導し、煽動するに最良の勇者ルーズベルトを得たのであるから、彼等こそ積水の堰を切ったような心持を以て、極東方面を観察していたに違いない。
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2007年12月25日

米国の極東進出

日米抗争の史実1

 今回引用する書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもって状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はポーツマス講和会議時のルーズベルトと日本側全権小村
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引用開始
 既に1898年ハワイを併合し、フィリピンを割取して、極東進出の前哨線と足溜まりを獲得した米国は・・・・
 大統領マッキンレーはフィリピン獲得に対する内外の非難を緩和するため、政治、商業、人道上の三個の理由と二千万ドルの支払金とを以て、天下の耳目を掩いまんまとその目的を達した。
 その政治上の理由というのは『合衆国はもはや西半球内にその勢力を制限することが出来ぬような発展の舞台に到着したのである。近世交通機関の発達に伴い距離が縮小せられて合衆国は漸次フィリピンに近くなってきた。従ってアジア方面に於て優勢なる権力を獲得するのは合衆国にとって当然であるのみならず、その将来の繁栄のために必要欠くべからざる事件となった』と云うのである。が、この『必要欠くべからざる』など云うことは、米国建国の精神と従来採り来たれるモンロー主義とに決して一致するものではなく、即ち米国が帝国主義になったということを意味するのである。

 また商業上の理由というのは『米国の生産品と輸出貿易とに於ける莫大なる増進は、新たなる販路の大拡張を必要とする。商業上活動の根拠地を得ると云う欧州人の常套手段に倣わずしては、到底欧州諸国と競争することが不可能である。合衆国の政策は門戸開放であるが、この主義は先ず米国の政治上の勢力を確立しなくては維持することが出来ぬ。殊に最大市場を有する東亜の方面に於て米国の勢力を確立するの必要がある所以である』と云うのである。この議論は剣とドルの併進を慫慂するものであって、第一の政治的見地に基くものと同一なる、否もっと露骨に帝国主義的意味を表明していることは明らかである。
 最後に道徳上の論拠はスペインの植民政治の残酷をとなえ群島の無秩序状態を叙し、米国政治の根底をなす自由、平等、自治の精神を群島に普及せしむるは単にフィリピン人の利益なるのみならず、また人類一般の利益である。従ってかかる手段を採ることは合衆国が世界人類のために尽す義務であると云うのである。かかる道徳的理由は古往今来の外交的常套語で、別段大した意義をなすものではない。もし衷心よりかかる義務を感じているとすれば、世界至る所その手を貸すべき場所がある筈である。また自己の便宜からこれを言うも、ともすればこれまた無恥の広言となるに過ぎぬ。

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2007年03月30日

侵略の頭目イギリス

当時のイギリス人の常識

 今回引用している本のタイトルは大東亜戦争前の昭和十二年に発行された武藤貞一著「英国を撃つ」でした。そのタイトル通り、この本は当時の世界で、不自然なイギリスの繁栄を、その酷烈な覇業によるものとして、日支事変中もその真の敵はイギリスであると説いているのです。この本からの掲載の最後として、その「序」から引用します。当時のベストセラーだったようで、大戦前の日本の風潮をよく現しているのではないでしょうか。
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引用開始
・・・・イギリスは印度を奪い、印度の黄金を吸収し、それによって更に他の領土をかすめ取る資本とした。イギリスの肥満と繁栄は何を措いても第一に印度の恩恵によるものであって、イギリスが肥満し繁栄した分だけ印度は痩せ細り、困苦に陥って来た勘定である。
 恐らくイギリス人の常識を以ってすれば、印度はイギリスの富源吸収用としてつくられた国土としか考えられないだろう。三億五千万の印度人は、何のために、縁もゆかりもないイギリスに対して忠誠な奴隷をもって甘んじなければならないかに就いては、恐らく如何なる国際法学者を拉し来っても解釈し得ないであろう。

 印度人はヨーロッパ大戦に引出され、イギリスのために独墺軍と善闘した。だがそれによって何を得たか。自治の空名は得たかも知れぬが、現に印度大衆は衣食住の『衣』の大宗たる綿布を筆頭に、多くの日用品種目にわたって、わざわざ廉価の日本品を避け、高価なイギリス品を押しつけられている。直接生活に対する圧迫、これより大なるはないのだ。これとて、印度人は、なぜ遠く離れたヨーロッパの島国人のためその生活を封鎖されねばならぬか。なぜ生活苦甘受を厳命されて服従しなければならぬかという理由を説明し得るものはないはずだ。しかもこれはひとりイギリス対印度関係に止まらず、千三百二十万方里のイギリス帝国全版図にわたる共通の現象なのだ。

 現世界は、この驚くべき矛盾、途方もない不自然が平然と看過されているところから、百の酷烈なる不幸を生じつつある。イギリスは、目覚めかかった印度を空軍の爆弾によって抑えつけ、この現状を維持するに内心必死の姿であるが、表面は何食わぬ顔をして、なおその侵略の毒牙に支那を引かきまわっているのである。
 侵略世界の凄惨は、むろんイギリスひとりによって来るものでないことはわかっている。ただイギリスがその頭目であるという事実を如何ともし難いのである。この意味で、われわれはまずイギリス帝国を以て世界の禍因と断言するに憚らない。
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2007年03月29日

抗日の拠点香港

対日作戦拠点としての香港
 大東亜戦争前の昭和十二年に武藤貞一著「英国を撃つ」という本が出でいます。これは先日、西尾幹二氏がチャンネル桜のGHQ発禁図書関係の番組でご紹介されていたものです。当時のベストセラーだったようで、大戦前の日本の風潮をよく現しているのではないでしょうか。
ここでは真の侵略国がイギリスであることを強調しています。
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引用開始
 日支事変をもってイギリスは日本を侵略国と誣い、アメリカその他の国を駆って盛んに反日行動を続けている。国際連盟を動かしたが効目がないので、次に九カ国条約会議をベルギーで開かせ、ここで日本制裁の段取りに取りかかった。いま直ちに日本を共同の力で叩こうといっても、随いて来る国が少ないのを見越して、しばらく毒針を嚢の中に収め、先ず日本を侵略者とする国々の勢揃いを終わったというところである。・・・・
 事を一挙に決することなく、都合がわるければ何度でも休み、いつまでも待ち、粘り強く目的を達成するのが老獪極まるイギリスの常套手段だから、こういう国に狙われた日本は、それだけの覚悟をしてかからねばならぬ。日本人の一徹短慮を見抜いて居れば居るほど、イギリスはその得意の手口でやって来るのだ。

 日本の対支行動を侵略呼ばわりするイギリス自身はどうかというと現在の世界の千三百二十万方マイルをその領土としている。あたかもそれはソ連が八百二十万方マイルの大領土を持ちながら、日本などを侵略主義の国家と罵っているのと同様、自分のやっていることを全然棚に上げている。
 もし万一にも日本がソ連の首都モスコーを二、三時間で空襲できる地点まで領土を拡張したら、その時初めてソ連は日本を侵略国と言うがよい。現にソ連はわが東京へ二、三時間で、空襲できるところまで領土を押進めて来ているではないか。

 イギリスの場合もそれと同じで、香港は英本国から一万何千キロか離れ、しかもここに莫大な金を投じて武装を施しつつあるのである。これを逆にして日本がイギリス本国の直ぐ目の先にかかる軍事的根拠地を獲得したら果して何というだろうか。関係は同じことであって、イギリスの苦痛はやっぱり日本に取っても苦痛である。
 今や日本は目と鼻の間に武装せるイギリス海空軍の一大根拠地を控えているわけで、その脅威感は甚だしいものがあるのだが、図々しいイギリスは、まるであべこべに日本の行動を侵略なりとして世界的弾圧を食わせようとしている。世の中にこんな間違った話が二つとあるわけのものではない。
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2007年03月28日

いわれなき侵略国

最大の侵略国イギリス

 大東亜戦争前の昭和十二年に武藤貞一著「英国を撃つ」という本が出でいます。これは先日、西尾幹二氏がチャンネル桜のGHQ発禁図書関係の番組でご紹介されていたものです。当時のベストセラーだったようで、大戦前の日本の風潮をよく現しているのではないでしょうか。
ここでは日本が侵略国と呼ばれる言われは全くないことを述べています。
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引用開始
 日本は四海の窓を閉じて鎖国の檻の中に逼塞していたが、浦賀湾頭の砲声、鎖国まかりならぬというので余儀なく国を開いた。そして、やっと白人先進国の国家体制を学んで一本立ちの国家になりかかると、もう移民の閉め出しだ。アメリカやカナダやオーストラリアや、不思議に人の足りない土地ほど日本移民を入れない。日本はそれを甘受した。一方大陸からは強露の重圧を受けこれと血闘半世紀間に及ぶ。日露戦争は朝鮮防護のために戦った。

 朝鮮の南端までロシアの勢力が延び、釜山に露兵が駐在するようになっては、日本は安全だとは言い難い。切羽詰っての日露戦争だったのである。その結果、天佑にも日本軍が勝って、満洲の北端まで露国勢力を押遣ることが出来たのだが、この満洲の粛清地区へ、爾後の三十年間、日本が二十万の人口を送る間に、支那はその百五十倍の三千万の移民を送った。そしてその満洲で抗日排日をはじめ、日本人の居住権まで剥奪しそうになったので、日本はたまらなくなった。そこで満州事変が起ったのだ。

 さてこの事変が起って見ると、蒋介石の中央政府は、日本を唯一の仮想的として全支武装に着手し出した。対日戦備の完成にまっしぐらの進軍だ。満洲が独立したのを、日本の侵略行為と称し、日本を大陸から駆逐する世論で世界を動かそうとした。一方外蒙古も、新彊もソ連に奪られてしまったことはおくびにも口に出さない。チベットは既に全くイギリスの領土と化しているが、そのイギリスをソ連と同じく絶大な援護者と頼んで、対日制圧に死に物狂いの状態を続けて来た。・・・・・
 日貨ボイコットは政府の命令で公々然と行われる。日本人は頻々として殺される。ここまで押詰められて、とうとう勃発したのが今度の支那事変なのである。・・・・

 支那事変は、測らざるに勃発し、想わざるに発展した。つい今春、ソ満国境の風雲慌だしきものがあったとき、日ソ戦争こそ日本として覚悟せねばならぬものと考えられ、危機を目睫の間に控えた観があったのであるが、日支戦争の如きは全く予想外のことだったのである。・・・・
 さて、蒋介石は、以上のように日本国民(軍当局を除く)がとかく軽信していた以上の対日戦備を整えて、だしぬけに日本に戦いを挑んで来た。それが盧溝橋不法射撃の第一弾であり、日本の出先当局が時の冀察政権を相手にして成るべく局地的に解決を図ったが、これを一図に日本の弱腰と見て取った蒋介石の政府は、今こそ日本に一撃を加える好機到るとなし、続々大兵を北上集中させ始めた。一方和平の交渉も無誠意を極め、蒋介石の戦意は既に牢乎たるものがあったのである。・・・・・
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2007年03月27日

支那に先行される外交

軍事行動と外交工作の跛行(バラバラなこと)

 大東亜戦争前の昭和十二年に武藤貞一著「英国を撃つ」という本が出でいます。これは先日、西尾幹二氏がチャンネル桜のGHQ発禁図書関係の番組でご紹介されていたものです。当時のベストセラーだったようで、大戦前の日本の風潮をよく現しているのではないでしょうか。
 ここは、丁度現在アメリカで行われている日本非難の宣伝戦を意識して、支那事変当時も同じように外交宣伝下手な日本であったことを見てみます。
支那は昔から、嘘、捏造宣伝で世界の同情を煽ってきたことがよく判ります。
(旧仮名使いや漢字は現代風にして引用します)
参考記事

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引用開始
 日本はこれまで色々の形態のもとに対外行動を経過して来たが、それに付随する欠陥というものは決まって同じものだった。即ち軍の行動は国民によって全幅の支持が払われ、神速機敏を極めるにも拘わらず、そのあとを承る政治工作、それを掩護する外交工作は萎微として振わない。そこへ、よろずの集中射撃を蒙って、測らざる煮え湯を飲まされる結果となる。
 今度の支那事変こそ、政府が進んで挙国一致の体制を整え、十分の覚悟を定めてかかったから、国家行動の二人三脚にチグハグの欠陥を暴露することはないと思われた。然るにやっぱりこれが色々の形で現れたのは遺憾である。

 第一には宣伝不足という形で現れた。主として外交方面の手抜かりであるが、事変の当初、支那の勢いなお未だ盛んな際、第三国が比較的静かに事態の推移を眺めているのに安心してか、能動的に事変の真相を世界に宣伝することを怠ったといえないならば生ぬるかった。
 初めに支那側の宣伝が前の満洲・上海事変のときほど猛烈でなかったのは、大体この事変は支那側がイニシアティヴを取って起った事件だけに、たとえば上海の盲目爆撃といい、非戦闘員攻撃といい、彼よりも吾れに宣伝材料が多く、受身の立場に最初立ったものは支那側でなかったことに原因を発しているのだ。

 殊に上海の如きは、日本側に全然戦意なく、その戦意のないところをつけ目にして、彼は計画的に邦人皆殺しと居留地域占領を目指して事を構えたものであることは、上海に在る第三国人全部の内心認めているところであり、寡兵の陸戦隊がよくこれを支え得るかどうかを気遣わないものは一人もなかったといえよう。
 かかる日本側の苦戦状態に際し、支那側の宣伝が珍重されるはずがない。即ちこの時機において日本側が大いに宣伝して、機先を制し世界の世論を確立して置くべきだった。

 アメリカ人は比較的単純な国民性だけに、最初から日本側に理解を持っていた。故に早期において、このアメリカだけでも味方に引き入れて置くだけの外交工作が日本として是非必要だったのである。
 何といっても、いざという場合、日本にぶつかり得る実力を持つ国家はソ連とアメリカがあるだけで、爾餘の国々は少しも恐れるに及ばない。ただソ連がアメリカを誘い入れる策動だけが警戒されるのであって、それを除いては、他の国々が騒ぐとも蛙鳴蝉噪の類としていいのである。
 そのアメリカが日本に好意ある態度に出ていたのであるから、このくらい日本に取って好調子はなかったのだ。

 イギリスが自国の支那における利権に火がついたかの如く騒ぎ、ヒューゲッセン事件で強硬抗議を突きつけた頃、日本はアメリカの公正な態度に対して謝礼使節を送るか、国民的デモンストレーションの一つも催して大いにそれに答えるゼスチュアを為すべきだった。所詮両立すべからざるイギリスに向って大いに諒解を求めるの愚を演じ、せっかく好意を持ってくれるアメリカの方はいいことにして放って置くという拙劣極まる外交工作が、その後に来るものをどのくらい不利にしたか知れないのである。
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2007年03月26日

支那の大嘘を許すな

通州事件もデマから起った大惨劇

 大東亜戦争前の昭和十二年に武藤貞一著「英国を撃つ」という本が出でいます。これは先日、西尾幹二氏がチャンネル桜のGHQ発禁図書関係の番組でご紹介されていたものです。当時のベストセラーだったようで、大戦前の日本の風潮をよく現しているのではないでしょうか。
 ここは、丁度現在アメリカで行われている日本非難の宣伝戦を意識して、支那がいかに昔から世界に向けて嘘、捏造の宣伝謀略を使ってきたかがよく判ります。
 現状、日本と日本人の名誉のためにも、支那人の嘘をいつまでも許しておく訳には行かないでしょう。
(旧仮名使いや漢字は現代風にして引用します)
参考記事

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引用開始
 そこで支那のデマ戦術についてだが、武力戦において勝目のない支那が、宣伝の方に全力をあげるは少しも不思議でない。日本はそれに憤激するよりも、当然支那の手口がそこへ及んで来ることを予期して、これに備えていなければならぬところだ。要するに、宣伝上手の支那を制圧するに足るだけの宣伝機関を整備するのが事変に際しての用意であるべきだった。・・・・

 通州事件は議論でなく現実に支那側のデマから起った大惨劇である。これを未然に防ぎ得なかったことはいかにも残念であるが、それはしばらく措き、すでにかかる残虐行為が続出された以上は、日本側でもっとこの実情を世界に知悉させるべきではなかったか。 実を言えば、この事件一つを世界に宣伝しただけでも、支那の鬼畜にも劣る、非人道的振舞は徹底するわけであり、かてて加えて、上海支那空軍のめくら爆撃という絶好の材料が揃ったにも拘らず、何故か当局のなすところは因循不徹底を極め、日頃やれ国民外交の、官僚独裁のといっている文化人・学者・ジャーナリストの一団が、かかる機会を捉えてこそ大いに世界に呼びかけるべきであるにも拘らず、低声微温にして何者にも怖れ恥ずるがごとく動かなかった。この卑屈な態度がわが一部の知識層にあるということは、その後の時局の移り変わりに、目に見えざる悪影響を及ぼしたことは実に測り知るべからざるものがあるのである。・・・・・

 支那軍は現にダムダム弾を使用し、上海戦線では毒ガスを用いた形跡さえあるのだ。立場をかえて、これが日本軍だったらどうであろうか。日本海軍は南京軍事施設爆撃に際しあらかじめ余沫の外人と市民に及ぶなきやを恐れて、その避難を勧告した。決して退去命令を発したわけでも何でもない。全く武士道精神による思い遣りからであったが、本来空襲は敵の虚を衝くこそ常則であって、あらかじめ時日を指示して空襲を警告するなどいうことはあり得ないことなのだ。そのあり得ないことを忍んでしたのは、わが海軍としてよくよくのことである。

 然るに外国人はこんな日本人特有の武士道は到底理解し得ないところから、この勧告は南京市街地に潰滅的爆撃を加える前触れのごとく曲解した。即ちそうでなければこんな親切な勧告をわざわざ発する筈がないと彼らは彼らの心性を持って判断した。・・・・
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2006年12月25日

特攻宿舎勤務婦人の便り

特攻隊員の父母の許へ知らされた消息

田形竹尾著「日本への遺書」より
 田形氏は、陸軍戦闘機隊のパイロットとして、支那事変、大東亜戦争と作戦出撃200回、航空特攻要員の教官、そして特攻待機の訓示を受け特攻命令を待つ時に終戦を向かえた方です。
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引用開始
 この日は突入に成功し、辻少尉、今野少尉、白石少尉、稲葉少尉らは、ついに帰ってこなかった。親しくつきあった、基地の特攻隊宿舎勤務の婦人より、辻少尉の消息が父母の許に知らされた。

「若葉茂る新緑の候となりました。
 皆々様には、お元気にておくらしの御事と推察致します。
 私は、ふとした御縁により、ご子息俊作様とお知り合いとなり、今度、俊作様、特攻隊として出撃遊ばされる時、最後の事を頼まれたのでございます。
 俊作様が、特攻隊として屏東から当地花連港に前進していらっしゃって、お泊りになるところに、私は勤めております。兵站宿舎でございます。
 その時は、辻少尉殿って、どういうお方なのか、名簿のみで存じ上げませんでしたけれど、第一回出撃をなさって、二、三日過ぎたある日、事務所にお見えになり、色々とお話などして居るとき、沖縄へ航進中、航空帽の上からしめている、日の丸の鉢巻を海に落した、とおっしゃりますので、では私が作って差し上げましょうと、心をこめて作って差し上げたのが、ご懇意にしていただく初めでございました。

 その日、私の家の方に遊びにいらしていただきました。私にも丁度、俊作様と同い年頃の弟がやはり、航空兵として入隊して居ますので、実の弟のような気が致し、及ばずながら母上様に代わって、できるだけのお世話をさせていただきました。
 特攻隊の皆様方は、魂の純粋な方ばかりで、今日、明日死んで行かれる人とは思われない、朗らかな方ばかりで、暗い顔の表情をした特攻隊員の方には、一人もお目にかかった事はありません。

 どうして同じ人間が、しかも若い青年の方が、あのようにニコニコの笑顔で、聖人も及ばない、偉大な心境で死んで行けるのか、不思議に思うくらいでした。
 本当に、男らしい、ほれぼれするような方ばかりでありました。
 皆さん方は、心のやさしい、親思い、兄弟姉妹思いの方ばかりでありました。
『魂がきれいで、心が温かい』から『祖国』のためにと、大切な生命を捧げ、特攻隊に志願して、ニッコリ笑って出撃され、勇敢に死んでゆかれたのだという事をわからせていただきました。」
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2006年12月23日

航空特攻作戦の終幕

教え子たちの遺言

田形竹尾著「日本への遺書」より
 田形氏は、陸軍戦闘機隊のパイロットとして、支那事変、大東亜戦争と作戦出撃200回、航空特攻要員の教官、そして特攻待機の訓示を受け特攻命令を待つ時に終戦を向かえた方です。
こちらに神風特別攻撃隊のニュース映像が掲載されています。

引用開始
 四月二十七日午後十一時三十六分、胴体に300キロの爆弾を抱いて、九七戦の操縦桿を握り、特攻三機編隊が暗黒の沖縄の空に向って、宮古島を離陸した。
 敵戦闘機の攻撃を受け、一機不時着、一機敵弾を受け、宮古島に不時着、大橋伍長は単機で進攻、二十八日午前一時過ぎ、熾烈な対空砲火を巧みにぬって、慶良間列島付近の輸送船に体当たり、瞬間、大爆発を起こした。十八歳の若い生命を散らした。

 屏東、北港での訓練、初の特攻命令、嘉義駅での別れと、過ぎ去った思い出が脳裏をよぎって、自爆のニュースで胸が張り裂ける思いであった。

★最後の便り(台湾より)
「謹啓、初春の候と相成り、その後、御両親様には、お変りなくお暮しのことと思います。
お父さん、お母さん、喜んで下さい。祖国日本興亡のとき、茂も待望の大命を拝しました。
 心身ともに健康で、任務につく日を楽しみに、日本男児と、大橋家に、父と母の子供と生まれた喜びを胸に抱いて、後に続く生き残った青年が、戦争のない平和で、豊かな、世界から尊敬される、立派な、文化国家を再建してくれる事を信じて、茂は、たくましく死んで行きます。
 男に生まれた以上は、立派な死に場所を得て大空の御盾となり、好きな飛行機を、我が墓標と散る覚悟であります。
 親より先に死んで、親孝行出来ない事をお許し下さい。
 お父さん、お母さん、長生きして下さい。
 お世話になった皆様方に、宜敷お伝え下さい。
 この便りが最後になります。
 昭和二十年三月二十四日
 遠き台湾の特攻基地より
 茂  父上様 母上様
 身はたとえ南の空で果つるとも とどめおかまし神鷲の道
 大命を拝して十八歳 茂」
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2006年12月22日

「特攻突入す」の無電

「決死隊」と「特攻隊」の死生観
田形竹尾著「日本への遺書」より
 田形氏は、陸軍戦闘機隊のパイロットとして、支那事変、大東亜戦争と作戦出撃200回、航空特攻要員の教官、そして特攻待機の訓示を受け特攻命令を待つ時に終戦を向かえた方です。
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引用開始
 まず、決死隊の死生観について述べてみる。
 作戦任務を命ぜられて第一線に出征する軍人は、みんな死を覚悟して出征した。その覚悟「悟り」の土台は――
第一は、愛する親兄弟姉妹妻子を守るため、軍人は死を覚悟して第一線に出征した。

第二は、生まれ育った懐かしい我が家と故郷を守るため、死を覚悟して出征した。

第三は、わが祖国日本の平和を願い、お国のためにと死を覚悟して出征し戦った。

第四は、「死」を覚悟して第一線に出征しているが、「死にたくない」「怖い」という戦場心理が誰にも働く。そして、自分は助かるかも知れないと思う。しかし、怖い、死にたくない、という不安と恐怖心をもちつつも、自分がいつどのように死を迎えるか、誰にもわからない。

第五は、だから軍人は「愛国心」と「使命感」と「誇り」によって、死の恐怖を克服する。そして勇敢に戦い、多くの人が戦死した。

 だから「通常作戦」に参加する殆どの軍人の写真には、厳しさと殺気が感じられた。

 では「特攻隊」の死生観はどうか。
第一、特攻隊員は、特攻命令を受けて、長い人は半年、短い人は即時出撃、戦死して任務を達成するので、死は確実であり、時間の問題であった。特攻隊員は,自分がどのようにして死ぬかを納得していた。

第二、特攻出撃命令を受け、出撃すると、
1、運よく敵艦に体当り成功して死ぬか
2、運悪く敵戦闘機に撃墜されて死ぬか
3、敵の対空砲火器に撃墜されて死ぬか

 このことを特攻隊員は最初から承知しているから、出撃までの時間を大切に生きていた。
 これで「助かるかも知れない決死隊」と、「死んで任務を達成する特攻隊」の悟りの次元が全く異なることを理解出来ると思う。
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2006年11月21日

電文誤訳とハルの誤解

 大戦の勃発の陰に、日米の言葉の違いと傍受電文の誤訳や先入観による判断の誤導があったことも大きな要素なのかも知れません。
 ジョン・トーランド著「大日本帝国の興亡@」から、その部分を引用してみましょう。
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引用開始
 ルーズベルトは、当時、彼がスティムソンに語ったように「もっと時間を稼ぐ」ための手段を模索していた。しかし、そうしているうちにも、入手する情報は危機が避けがたいものであることを物語っていた。その情報とは、東郷(外相)から野村(駐米)大使にあてた長い訓電を傍受したもので、甲乙両案の内容と極秘指令から成っていた。傍受した内容は解読され、翻訳されたうえ刻々にハルの手もとへ急ぎ届けられた。

 訓電の冒頭は、日本が交渉を放棄したという印象を与えた。
 「サテ 日米関係ハスデニ破滅ノ淵ニ達シ ワレワレハソノ関係調整ノ可能性ニツイテ確信ヲ失イツツアル。」

 こんな悲劇的なものの見方は、実は原文にはなかった
 東郷が実際に打電したのはこうであった。
 「破滅ノ淵ニアル日米関係ヲ調整スルタメ 日夜タユマヌ努力ヲナシツツアリ。」

 そしてこの訓電の二つ目のパラグラフの翻訳文は、もっとハルの頭を誤導することになってしまっていた。
 「モハヤ一刻ノ遅延モ許サヌホド 帝国内外ノ諸状況ハ緊迫シテイル。シカシナガラ 帝国ト合衆国トノ間ニ友好的関係ヲ維持セムトスル真摯サカラ慎重熟慮ノ結果 帝国政府ハ交渉ノ継続ニイマ一度賭ケテミルコトニスル。シカシ コレハ最後ノ努力デアル。」

 原文は調子から見て道理にかなったものであった。
 「国内外ノ情勢ハ極メテ切迫シテオリ グズグズシテイル余裕ハナイ。合衆国トノ平和的ナ関係ヲ維持シヨウトノ真剣ナ意図カラ 帝国政府ハ慎重熟慮ノ結果 交渉ヲ継続スルコトニシタ。コノ交渉ハ ワレワレノ最後ノ努力デアル・・・。」

 傍受電報の翻訳によると、このあと日本外務省は、提案が受け入れられない場合は、両国間の関係は決裂するだろうと述べている。
 「事実ワレワレハ ワガ国土ノ運命ヲ コノサイコロノヒトフリニ賭ケテイル。」

 原文によると、このくだりを東郷は、次のように打電している。
 「・・・ソシテ帝国ノ安否ハコノ交渉ニカカッテイル。」

ハルが次のように読んだ部分――
 「・・・コノタビハ ワレワレハ友情ノギリギリマデヲ見セル。コノタビハ 最後ノ取引キヲ行ナウノデアル。私ハ コノコトデ合衆国トワレワレトノ難問ガ平和裏ニ解決スルコトヲ望ム。」

は、実際には東郷の手によると、次のようなものであった。
 「・・・イマヤ ワレワレハ 完全ナ友情カラ平和解決ノタメニ最大限ノ譲歩ヲ行ナウモノデアル。交渉ノ最終段階ニ臨ムニアタッテ合衆国ガ事態ヲ再考慮シ 日米関係ヲ維持スルトイウ精神ヲモッテ事ニ処スルコトヲ衷心カラ希望スル。」
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2006年06月17日

大東亜戦争と共産主義5

「大東亜戦争とスターリンの謀略」三田村武夫著より。
 ここではアルジャー・ヒスのことが出てきますが、この本が書かれた後にもまだまだ沢山のスターリンの手下が、アメリカの政策に関与していたことが暴かれています。
 アメリカにおける秘密活動
 引用開始
 1948年2月号の『カソリック・ダイジェスト』(日本版)に「アメリカを蝕むもの」「モスクワの指令下に米国上層部に喰入るソ連秘密警察」と題する注目すべき記事がある。この記事の筆者はエドナ・ロニガンと言う女の人で1933年から35年まで農業金融局に、35年から40年まで財務省に勤務し、・・・略・・・
 この記事の内容は、アメリカ連邦政府内における共産主義者の活動を極めて大胆に述べたもので、ロニガンは先ずアメリカの国会委員会がこの問題を取り上げた意義を述べ、
 「国会は今、ソ連秘密警察のアメリカにおける目的と活動は何か?という実際問題を検討している・・・事実はこうである。ソ連秘密警察は、米国の政策をして自ら墓穴を掘らしめるため、その手先の者をアメリカの重要な地位につける仕事にたずさわらせているのだ
 「ソ連秘密警察は1933年以来、連邦政府に浸透しようと努力してきた。その最初の細胞は明らかに農務省に設立されたのである。要員は大学の細胞から出た。
 スターリンは、1929年という遥か以前から、即ち不景気が危篤期に入ったと気づいたとき、彼は党員に命じてアメリカの大学にもぐりこませたのである。このことはニューヨーク州議会のラブ・コーダート委員会報告に証明されている。各々の細胞は分裂して、他の細胞を生み出した。ソ連秘密警察の指導者たちは、連邦政府内部の『機構図表』を持っており、党員を次から次と重要な地位に移したのである」「網状組織によって地位につけられた人々のうち、ある者は『純真』な人々であり、ある者は、夢想的な革命論者であった。しかし、大抵は、網状組織に好意を持たれれば速やかに昇進できることに気づいている小利口な、悪がしこい人々であった
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2006年06月16日

大東亜戦争と共産主義4

「大東亜戦争とスターリンの謀略」三田村武夫著より。
 こちらでは、中国共産党が、コミンテルンの指示通り、国民党に潜り込み、いかにして日本と蒋介石の闘いの長期化をはかろうとしてきたかを述べています。
中国の抗日人民戦線と日華事変
 引用開始
 昭和五年(1930)八月十四日付の「中国共産党当面の任務に関する宣言」の一節に、「今や帝国主義諸国家相互の矛盾は尖鋭化し、各国は各々戦争を準備し、植民地を強奪せんとする空気が充満している。かかる国際的政治情勢は既に明らかに資本主義の暫定的安定を破壊し、正に新たなる帝国主義世界戦争と、新たなる全世界の革命闘争を促進すると共に、一切の帝国主義制度の死滅を促進しつつある。かかる状勢の下にあって、中国革命は全世界革命の中において頗る重要な地位を占めている。中国の広大な勤労大衆の反帝国主義闘争は必ずや世界革命の普遍的爆発を促進し、各国無産階級の武装暴動を誘起するであろう。吾らは、ソヴィエト連邦擁護、帝国主義戦争反対、植民地革命完成のスローガンの下に、中国革命を世界革命と合体せしめ、共同して帝国主義に対する戦勝を闘い取らねばならぬ
と言っているが、この主張は言うまでもなく、コミンテルンの基本的立場であって、今次の大戦を経て中共政権確立へと貫かれてきたものである。しかして、この基本的立場は、日華事変を通じ中共政権確立への過程において如何なる戦略戦術となって現れたであろうか。・・・略・・・
 コミンテルン第七回大会で中国当面の敵は日本であると決定し、この日本に対抗するために中国共産党及び中共軍に対する援助を決議し、更に「中共」に対し、日本帝国主義打倒のために、民族革命闘争をスローガンとして抗日人民戦線運動を巻き起こすべしと指令したのである
 そこで「中共」はこの新方針に従い、抗日人民戦線運動の具体的方策を決定し、昭和十一年(1936)八月一日付けで「抗日救国宣言」を発表し、全中国に亘って「統一国民防府及抗日連合軍の創設」を呼びかけたのである。
・・・略・・・
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2006年06月15日

大東亜戦争と共産主義3

「大東亜戦争とスターリンの謀略」三田村武夫著より。
 ここでは近衛公の上奏文に出てくる当時の共産主義者や同調者が、どのように政府上層部に巣食っていたかを述べています。
日本における謀略活動
引用開始
 近衛公が上奏文で言う、到達した結論とは具体的にどんなことか。
 先ず第一に挙げねばならない事件は、尾崎秀実とリヒアルト・ゾルゲ(表面の身分はドイツ大使館員であったが実はコミンテルン本部員で、日本に派遣された秘密機関の責任者)によって構成されたコミンテルン直属の秘密謀略機関である。・・・
 尾崎秀実は世上伝えられている如き単純なスパイではない。彼は自ら告白している通り、大正十四年(1925)東大在学当時既に共産主義を信奉し、昭和三年(1928)から七年まで上海在勤中に中国共産党上部組織及びコミンテルン本部機関に加わり爾来引き続いてコミンテルンの秘密活動に従事してきた真実の、最も実践的な共産主義者であったが、彼はその共産主義者たる正体をあくまでも秘密にし、十数年間連れ添った最愛の妻にすら知らしめず、「進歩的愛国者」「支那問題の権威者」「優れた政治評論家」として政界、言論界に重きをなし、第一次近衛内閣以来、近衛陣営の最高政治幕僚として軍部首脳部とも密接な関係を持ち、日華事変処理の方向、国内政治経済体制の動向に殆ど決定的な発言と指導的な役割を演じて来たのである
 世界共産主義革命の達成を唯一絶対の信条とし、命をかけて活躍してきたこの尾崎の正体を知ったとき、近衛公が青くなって驚いたのは当然で、「全く不明の致すところにして何とも申訳無之深く責任を感ずる次第に御座候」と陛下にお詫びせざるを得なかったのだ。

 第二にとりあげられるのは、いわゆる「企画院事件」の真相である。・・・
 この事件も戦後世上に喧伝された「軍閥政府弾圧の犠牲」として簡単に片付けることは大変な間違いである。
 戦時中企画院のいわゆる革新官僚が経済統制の実権を握り、戦時国策の名において「資本主義的自由経済思想は反戦思想だ」「営利主義は利敵行為だ」と主張し、統制法規を濫発して、全経済機構を半身不随の動脈硬化症に追い込んできたことは誰でも知っているが、その革新官僚の思想的背景が何であったかは、殆ど世間に知られていない。ところが、この企画院事件は、昭和十年(1935)にコミンテルン第七回大会で決定された人民戦線戦術にもとづき、国家機構の内部に喰い入った共産主義者のフラクションで、表面の主張は、当時国家の至上命令とされていた「戦争に勝つために」を最高のスローガンとし、国際資本主義体制・・即ち現状維持的世界秩序の打倒を目的とした日華事変の歴史的意義とその進歩性を認め、東亜新秩序建設のための諸国策を強力に推進してきたが、その内面的意図即ち思想目的は、資本主義制度を根本的に改変し、社会主義革命完成のための客観的、社会的条件を成熟前進せしめる「上からの革命」を意図したものであった。

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2006年06月14日

大東亜戦争と共産主義2

「大東亜戦争とスターリンの謀略」三田村武夫著より。
レーニンの敗戦革命論
資本主義国家の共産主義者がとるべき態度

共産主義者が革命実現のためには、どのような手段を用いるのか。ここではレーニンの指令がよく実態を表しています。
 これを今の日本における反日に照らすと、教育界、マスゴミ、政界、官界に巣食う反日の輩の言動がそのまま当てはまります。
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 引用開始
 第一次大戦勃発直後の1914、5年頃レーニンは頻りに敗戦主義を説き、同じボルシェビキ(ロシア共産党)の同志をすら驚かせたが、彼の最も軽蔑したのは、いい加減で、戦争を終わらせ、革命の有望な前途をブチ壊す平和論者と良心的な反戦主義者であった。
 「われわれ革命的マルクス主義者にとってはどちらが勝とうが大した違いはないのだ。いたる所で帝国主義戦争を内乱に転化するよう努力することが、われわれの仕事なのだ」
 「現代の戦争は、帝国主義国家相互間の戦争、ソ連及革命国家に対する帝国主義国家の反革命戦争、プロレタリア革命軍の帝国主義国家に対する革命戦争の三つに分類し得るが、各々の戦争の実質をマルクス主義的に解剖することはプロレタリアートのその戦争に対する態度決定に重要なことである。 上の分類による第二の戦争は一方的反動戦争なるがゆえに勿論断固反対しなければならない。また第三の戦争は世界革命の一環としてその正当性を支持し帝国主義国家の武力行使に反対しなければならないが、第一の帝国主義国家相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョア的内乱戦たらしめることを活動の主要目的としなければならない
 帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1)自国政府の敗北を助成すること。
(2)帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること。
(3)民主的な方法による正義の平和は到底不可能なるが故に、
   戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
である。
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2006年06月13日

大東亜戦争と共産主義1

「大東亜戦争とスターリンの謀略」三田村武夫著より。
 本書の旧題は「戦争と共産主義」でまえがきの日付は1950年3月となっています。
 この本の著者、三田村氏は、昭和三年(1928)から七年まで、内務省警保局に勤務、社会主義運動取締の立場から、共産主義の理論と実践活動を精密に調査研究する事務に携わった。同七年から十年(1935)まで、拓務省管理局に勤務し、国際共産党の活動に関する研究に没頭。十一年(1936)には衆議院議員選挙に立候補、爾来十年間、こんどは逆に反政府、反軍部的政治闘争に専念し、遂には巣鴨までいった方です。

引用開始
ロボットにされた近衛
 昭和十八年(1943)四月のある日、筆者が荻外荘に近衛公を訪ね、戦局、政局の諸問題につき率直な意見を述べて懇談した際、
「この戦争は必ず負ける。そして敗戦の次に来るものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた公爵の責任は重大だ!」と言ったところ、彼はめずらしくしみじみとした調子で、第一次、第二次近衛内閣当時のことを回想して、
「なにもかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに至って静かに考えてみると、何者か眼に見えない力にあやつられていたような気がする・・・」と述懐したことがある。彼はこの経験と反省を昭和二十年(1945)二月十四日天皇に提出した上奏文の中で、「軍部、官僚の共産主義的革新論とこれを背後よりあやつった左翼分子の暗躍によって、日本はいまや共産革命に向かって急速度に進行しつつあり、この軍部、官僚の革新論の背後に潜める共産主義革命への意図を十分看取することの出来なかったのは、自分の不明の致すところだ」と言うのである。言いかえれば、自分はこれら革命主義者のロボットとして踊らされたのだと告白しているのだ。
・・・略・・・
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