深まりゆく日米の危機7
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
最終引用開始
平和的手段において国力の増進を計らんためには、これを産業の発展に求めなければならないのである。しかもこの産業化を継続して行くためには、各国共に原料の供給を広く世界に求めなければならぬ。又その原料によって精製された商品は、広く世界の市場にその販路を開拓しなければならぬ。ここに原料の争奪戦と市場の開拓戦が起って、国と国との間に新しき錯雑した関係が結ばれ、新しき競争の関係が生まれる。この競争が政治的勢力と結託する場合にしばしば平和の撹乱となり、戦争の誘因となるのである。
されば現代における著名な現象は各国民の産業化であると同時に、将来における戦争の禍根もまたこの産業化に胚胎していることは拒めない事実である。今後欧州諸国がその産業化によって国力の回復を図り、商圏の拡張によって戦争の創痍を癒さんとすれば、どの途英米二国の産業市場に衝突しなければならない。・・・・・
たとえ世界平和のために、いかなる科学的基礎に立つ計画として、多くの協約又は機関ができてもこの現実の情勢に直面しては、国家の対立と国民の欲望が消失せざる限りは、到底戦争の防止が生優しい条約の文面で確保され得るものではない。
英人ホーマー・リーの言によれば、欧米を通じて紀元前十五世紀以来現代に至るまで、三千四百年間における平和の年数は僅かに三百四十年に過ぎないということである。これを観ても人類の進化は戦争を原則とし、平和を変則とするかに考えられるのである。・・・・・
ウィルソン以下代々の大統領によって累次に提唱されたいわゆる科学的基礎に立つ平和手段の協約は、畢竟一時しのぎの気休め粉飾に過ぎないのであって、これを以て次代のベスト、エージ(Best age)を想像するのは、まだまだ前途遼遠であろうと思うのである。
然しただその現実の方法たる軍縮条約だけは、何と言っても力の制限であって、勢力の不均衡を釘着するものである。もし一度弱小国に不利な軍縮協約が成立すれば、その以後において両国間の葛藤には必ず強大国は、その強大の勢力を利用するに遅疑しないであろう。利用とは何ぞ、戦わざるも威嚇するであろう。威嚇して効力がなければ戦ってその目的を達するであろう。これ最小の経費を以て最大の利益を収得するのであって、世界の利得は強大国においてのみ享受する事が可能となるのである。かくのごときは生物界の原則に順応するものであろうか、また果して世界の平和を永続し得べき方法であろうか。否々、文化の普遍せる今日において国際的平和を保持せんとする無二の手段は、各国共に他より乗ぜられざるだけの軍備を整頓するに若くはないのである。これだけの準備さえあれば、他の強国に対しても相互の利益を交換し、ともに相当の体面を以て平和を保持することが出来るのである。・・・・・
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2008年01月31日
2008年01月30日
条約と国家の興廃
深まりゆく日米の危機6
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
引用開始
ロンドン海軍条約は、米国の日本攻勢作戦の完全なる輪郭をまんまと机上に勝ち得たものである。もしこの条約が効力を発生する時機に達すれば、米国各地の造船所では新鋭艦船の建造と東洋進攻の意気込みで勇ましい張切ったハンマーの音が響き渡るであろう。これに反して日本の工廠では廃棄艦船の解体にニューマチックの張合い抜けした悲しき響きが、そぞろに哀別の情をそそるであろう。
拵えあげると毀しに掛るとは一鋲を打込む職工の指の先にも少なからざる影響を及ぼすものである。ましてそのつもりで櫛風沐雨の猛訓練を積み幾度か生死の境を潜って国防の重責を自認している軍人にとっては、その志気に及ぼす影響も決して少ないものではあるまい。僅か三ヶ月ばかりの口先き外交で、みすみす唯一の恃みを誇った潜水艦二万六千トンを削られ、遥かに優勢のトップを切った巡洋艦に足踏み姿勢で他国の追い着くまで待たされてはいかに勇武な軍人でも悲憤の涙は乾く暇もあるまい。・・・・
これらの人々にスチムソン国務卿の言は何と響くであろう。『こういう風に日本の手を縛る協定に応じた日本当局の勇気に対しては、自分は只々脱帽して敬意を表するのみである』
身に沁み渡る皮肉ではないか。こんな得手勝手の条約が、国際親善とか負担軽減とかの空名の下に効力を発生すれば、国軍の志気に至大の影響をもたらすものと知らなければならない。・・・・
人種的偏見に強猛なアングロサクソン人は有色人種をどこまでも下等のごとくに見くびっている。ただ利益の伸張のために支那にお世辞を使っている米人の、その本国における支那移民の迫害は果して国際的良心のあるものと言い得られるであろうか。日本もお多分に洩れず、米国の海軍拡張案の可決ごとに日本移民に対する迫害は加わったのである。日本の武力を認識している米人は、どこまでもこれを弱めて自己の私欲をほしいままにせんと計画しているのである。
今や彼等は世界に恐るべき他の強国を持たない。内は充実して手足は健やかに発達しかけて来た。日本を壊滅しさえすれば、ここ一世紀や二世紀は東洋における彼等の仕事は充分あるのである。豚は取りたし番犬は怖いというのが米国人の心持である。・・・・
彼らが道義的責任呼ばわりして、中米に悪虐の手を広げているのも自らその行為を正義の仮面に掩わんとするからである。されば彼等の悪業の前には欺瞞の正義が先駆をなし、悪業の後には道義の詭弁が後衛をなすのである。・・・・
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
引用開始
ロンドン海軍条約は、米国の日本攻勢作戦の完全なる輪郭をまんまと机上に勝ち得たものである。もしこの条約が効力を発生する時機に達すれば、米国各地の造船所では新鋭艦船の建造と東洋進攻の意気込みで勇ましい張切ったハンマーの音が響き渡るであろう。これに反して日本の工廠では廃棄艦船の解体にニューマチックの張合い抜けした悲しき響きが、そぞろに哀別の情をそそるであろう。
拵えあげると毀しに掛るとは一鋲を打込む職工の指の先にも少なからざる影響を及ぼすものである。ましてそのつもりで櫛風沐雨の猛訓練を積み幾度か生死の境を潜って国防の重責を自認している軍人にとっては、その志気に及ぼす影響も決して少ないものではあるまい。僅か三ヶ月ばかりの口先き外交で、みすみす唯一の恃みを誇った潜水艦二万六千トンを削られ、遥かに優勢のトップを切った巡洋艦に足踏み姿勢で他国の追い着くまで待たされてはいかに勇武な軍人でも悲憤の涙は乾く暇もあるまい。・・・・
これらの人々にスチムソン国務卿の言は何と響くであろう。『こういう風に日本の手を縛る協定に応じた日本当局の勇気に対しては、自分は只々脱帽して敬意を表するのみである』
身に沁み渡る皮肉ではないか。こんな得手勝手の条約が、国際親善とか負担軽減とかの空名の下に効力を発生すれば、国軍の志気に至大の影響をもたらすものと知らなければならない。・・・・
人種的偏見に強猛なアングロサクソン人は有色人種をどこまでも下等のごとくに見くびっている。ただ利益の伸張のために支那にお世辞を使っている米人の、その本国における支那移民の迫害は果して国際的良心のあるものと言い得られるであろうか。日本もお多分に洩れず、米国の海軍拡張案の可決ごとに日本移民に対する迫害は加わったのである。日本の武力を認識している米人は、どこまでもこれを弱めて自己の私欲をほしいままにせんと計画しているのである。
今や彼等は世界に恐るべき他の強国を持たない。内は充実して手足は健やかに発達しかけて来た。日本を壊滅しさえすれば、ここ一世紀や二世紀は東洋における彼等の仕事は充分あるのである。豚は取りたし番犬は怖いというのが米国人の心持である。・・・・
彼らが道義的責任呼ばわりして、中米に悪虐の手を広げているのも自らその行為を正義の仮面に掩わんとするからである。されば彼等の悪業の前には欺瞞の正義が先駆をなし、悪業の後には道義の詭弁が後衛をなすのである。・・・・
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2008年01月29日
日米戦の準備進行中
深まりゆく日米の危機5
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はハワイ・ダッチハーバーを出港する太平洋艦隊

引用開始
卒直に言えば日米両海軍は、その相互的対象として米日海軍を目標に、拡張及び準備を進めているのである。一は防禦的に他は攻勢的に、こはいかなる遁辞や口実を以て誤魔化し去ろうとしても、最早抂くべからざる事実である。米国のカリビアン海政策の躍進と対中米政策の発展に伴うこれら小邦に対する武力干渉は、或は自由に大統領を交迭し、或は財政監督権を掌握し、或は港湾の租借、海関の管理等、その帝国主義的色彩の濃厚なるはまことに言語に絶したるありさまである。
1927年クーリッジ大統領が『中米諸国に対し米国は他のいずれの諸国におけるよりも一層道義的責任を感ずるものである』としたのも、明らかにニカラグアをして第二のパナマたらしめんがための干渉政策を進むることを語っているのである。これがため右の諸邦は猛烈なるアンチ・アメリカ党を以て充満され、英国援引の傾向を見せているのであるが、さりとてこれが原因となって英米衝突の危機をはらむものとは思われないのである。・・・・
フーバー大統領は七月二十二日ホワイトハウスにおいて、ロンドン条約の批准署名を行い後、左のごとく言明した。
『ロンドン条約は米国の完全なる国防を保護し、且世界の人心より我国が帝国主義的侵略を企図しつつあると云うがごとき観念を除き去るものと信ずる』
これは果して何の意味を以てかかる言明を敢えてしたのであろう。問うに落ちず語るに落ちるとはかかることをいうのである。彼は完全なる英米均勢を確保し、絶対的権力を以て中米政策を強行し、カリビアン海政策を敢行し、兼て東洋進出の邪魔者たる日本海軍を低率に膠着して、太平洋上に経済的帝国主義を布延せんとすることを語ったのである。これは必ずしも一箇の独断ではない。上来叙述して来た米国の極東政策及び軍縮会議の経緯において累次所見を述べたところを総合すれば当然この結論に帰納せざるを得ないのである。
そこで英米均勢の主張を二つに割って見れば、一方には世界第一絶対優勢、他の一方には日本制圧、攻撃作戦成就の文字が書かれているのである。
米国上院におけるロンドン条約批准の論戦を見れば、あたかも日米の危機に瀕して和戦何れかを決定する最後の兵力量検討をやっているかのごとき観を呈しているのである。・・・・
上院多数の穏健なる所論も同条約の保有量を以て西太平洋の攻勢作戦が可能なりや否やに結着しているのである。今一二の例を取上げて見よう。
先ずお馴染みのリード氏は上院本会議の演説において『今回の条約が日英両国より米国にとり好都合に出来ている』ことを言明し潜水艦の日米均等に関しても『潜水艦は水上艦を戦闘目的とするものである、日米均等にしてもこれによりて日本の保有量を減じ、且つ条約中潜水艦の使用方法制限の規定もあるから、その攻撃機能を削減している』と述べている。・・・・
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はハワイ・ダッチハーバーを出港する太平洋艦隊

引用開始
卒直に言えば日米両海軍は、その相互的対象として米日海軍を目標に、拡張及び準備を進めているのである。一は防禦的に他は攻勢的に、こはいかなる遁辞や口実を以て誤魔化し去ろうとしても、最早抂くべからざる事実である。米国のカリビアン海政策の躍進と対中米政策の発展に伴うこれら小邦に対する武力干渉は、或は自由に大統領を交迭し、或は財政監督権を掌握し、或は港湾の租借、海関の管理等、その帝国主義的色彩の濃厚なるはまことに言語に絶したるありさまである。
1927年クーリッジ大統領が『中米諸国に対し米国は他のいずれの諸国におけるよりも一層道義的責任を感ずるものである』としたのも、明らかにニカラグアをして第二のパナマたらしめんがための干渉政策を進むることを語っているのである。これがため右の諸邦は猛烈なるアンチ・アメリカ党を以て充満され、英国援引の傾向を見せているのであるが、さりとてこれが原因となって英米衝突の危機をはらむものとは思われないのである。・・・・
フーバー大統領は七月二十二日ホワイトハウスにおいて、ロンドン条約の批准署名を行い後、左のごとく言明した。
『ロンドン条約は米国の完全なる国防を保護し、且世界の人心より我国が帝国主義的侵略を企図しつつあると云うがごとき観念を除き去るものと信ずる』
これは果して何の意味を以てかかる言明を敢えてしたのであろう。問うに落ちず語るに落ちるとはかかることをいうのである。彼は完全なる英米均勢を確保し、絶対的権力を以て中米政策を強行し、カリビアン海政策を敢行し、兼て東洋進出の邪魔者たる日本海軍を低率に膠着して、太平洋上に経済的帝国主義を布延せんとすることを語ったのである。これは必ずしも一箇の独断ではない。上来叙述して来た米国の極東政策及び軍縮会議の経緯において累次所見を述べたところを総合すれば当然この結論に帰納せざるを得ないのである。
そこで英米均勢の主張を二つに割って見れば、一方には世界第一絶対優勢、他の一方には日本制圧、攻撃作戦成就の文字が書かれているのである。
米国上院におけるロンドン条約批准の論戦を見れば、あたかも日米の危機に瀕して和戦何れかを決定する最後の兵力量検討をやっているかのごとき観を呈しているのである。・・・・
上院多数の穏健なる所論も同条約の保有量を以て西太平洋の攻勢作戦が可能なりや否やに結着しているのである。今一二の例を取上げて見よう。
先ずお馴染みのリード氏は上院本会議の演説において『今回の条約が日英両国より米国にとり好都合に出来ている』ことを言明し潜水艦の日米均等に関しても『潜水艦は水上艦を戦闘目的とするものである、日米均等にしてもこれによりて日本の保有量を減じ、且つ条約中潜水艦の使用方法制限の規定もあるから、その攻撃機能を削減している』と述べている。・・・・
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2008年01月28日
米国海軍の発達
深まりゆく日米の危機4
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は日米戦前の空母レキシントン

引用開始
昔は軍艦旗のむかう所商権もこれに伴ったものである。英国には遂に太陽の没する時なしと豪語している。その・・・・・『米国は太平洋上に有力なる艦隊を必要とす』と叫ばしめた快漢ルーズベルト(セオドア)の希望は、今やその貿易の発展に連れて実現したのである。貿易と海軍はその何れを先とし、何れを後としても、要するに切っても切れない因果関係を持っていることは争われない事実である。
日本のフィリピン占領を真に受けて海軍拡張を疾呼する米人が有るかと思えば、支那の門戸開放には攻勢的海軍を必要とすると真剣に日本征服を企画する政治家もある。その何れにしても米国の東洋貿易の増進と発展を希望する声ならざるはないのである。今やロンドン条約によってその希望の第一段階を達成したのであるが、更に第二、第三といかなる鬼が出るか蛇が出るか、日本としては余ほど用心してかからないと取り返しの付かぬ運命を負うに至るであろう。・・・・・
思えば米国海軍の発達は最近の出来事である。
米国の近大海軍の歴史は1880年から始まると言われているのであって、南北戦争当時の軍艦中にも甲鉄艦等もないではなかったが、おおむね河用砲艦程度のもので何等統一されたものではなかった。然しその数は674隻の多きに達したのである。
1880年には米国の使用に堪える軍艦は41隻に減じ、中17隻が鉄もしくは鋼製で、然もその三隻のみが後装施條砲を搭載しておったに過ぎないのである。・・・・
1885年には二隻の装甲巡洋艦及び二隻の砲艦建造費が通過して直ちにこれが建造に着手した。この巡洋艦は航洋巡洋艦として6680トン及び6300トンの排水量を有するメイン及びテキサスの二艦であった。メインは英国海軍造船官によって設計せられたが、テキサスは米国海軍工廠によって設計せられた。然しテキサスはその大砲公試において船体の脆弱が災いして、大改造を施さなければならなかった。米西戦争後この船は標的艦となって重要なる射撃実験の犠牲となったのである。一方メインは当時における最良の成績を挙げて米海軍に新活気を与えたが、この艦は後年サンチャゴにおいて爆沈し米西戦争の口実を造ったのである。然しこれらの軍艦はその当時におけるヨーロッパの戦艦と比較すれば大きさにおいてその半ばにも達しない程のもので、議会は依然とし安価な海岸防禦用を賞揚しておったのである。・・・・
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は日米戦前の空母レキシントン

引用開始
昔は軍艦旗のむかう所商権もこれに伴ったものである。英国には遂に太陽の没する時なしと豪語している。その・・・・・『米国は太平洋上に有力なる艦隊を必要とす』と叫ばしめた快漢ルーズベルト(セオドア)の希望は、今やその貿易の発展に連れて実現したのである。貿易と海軍はその何れを先とし、何れを後としても、要するに切っても切れない因果関係を持っていることは争われない事実である。
日本のフィリピン占領を真に受けて海軍拡張を疾呼する米人が有るかと思えば、支那の門戸開放には攻勢的海軍を必要とすると真剣に日本征服を企画する政治家もある。その何れにしても米国の東洋貿易の増進と発展を希望する声ならざるはないのである。今やロンドン条約によってその希望の第一段階を達成したのであるが、更に第二、第三といかなる鬼が出るか蛇が出るか、日本としては余ほど用心してかからないと取り返しの付かぬ運命を負うに至るであろう。・・・・・
思えば米国海軍の発達は最近の出来事である。
米国の近大海軍の歴史は1880年から始まると言われているのであって、南北戦争当時の軍艦中にも甲鉄艦等もないではなかったが、おおむね河用砲艦程度のもので何等統一されたものではなかった。然しその数は674隻の多きに達したのである。
1880年には米国の使用に堪える軍艦は41隻に減じ、中17隻が鉄もしくは鋼製で、然もその三隻のみが後装施條砲を搭載しておったに過ぎないのである。・・・・
1885年には二隻の装甲巡洋艦及び二隻の砲艦建造費が通過して直ちにこれが建造に着手した。この巡洋艦は航洋巡洋艦として6680トン及び6300トンの排水量を有するメイン及びテキサスの二艦であった。メインは英国海軍造船官によって設計せられたが、テキサスは米国海軍工廠によって設計せられた。然しテキサスはその大砲公試において船体の脆弱が災いして、大改造を施さなければならなかった。米西戦争後この船は標的艦となって重要なる射撃実験の犠牲となったのである。一方メインは当時における最良の成績を挙げて米海軍に新活気を与えたが、この艦は後年サンチャゴにおいて爆沈し米西戦争の口実を造ったのである。然しこれらの軍艦はその当時におけるヨーロッパの戦艦と比較すれば大きさにおいてその半ばにも達しない程のもので、議会は依然とし安価な海岸防禦用を賞揚しておったのである。・・・・
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2008年01月26日
昭和初期我国の軍備
深まりゆく日米の危機3
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
引用開始
世界大戦(一次)以来、本家の英国は聊かその伝統の国策に動揺を来した形跡があるが、その血を別けた分家の米国は、その参戦振りと云い、講和会議の牛耳振りと云い、爾後の主要なる国際関係の容喙振りと云い、全くそのお株を譲り受けたかの観があるのである。果然アングロサクソンの海洋優越主義は完全に両国によって絶対の占有を永久?に許すこととなったのである。
この堅忍自彊にして、功利的なる民族性に育まれた英米二大海軍国に挟まれ、睨まれ、手を付けられた東洋は、まことに警鐘乱打の時機が近付いて来たのではないであろうか。もし少しく民族的歴史を研究し、即今の国際政局の動向を省察する人であるならば、側に厖大な無力な、不安定な、大国を控えて、これが支援に満身の勇気を喚起する日本の姿を眺めたら、さぞかし涙ぐましく感ぜられることであろう。
私は徒に日本の国際的地位を悲観するものではないが、また徒に他国の諛辞に楽観的自惚れをするものではない。然し事実はアングロサクソン民族によって、その剛腹なる極東政策が着々と計画され実施され、展開されつつ、われ等の足元に迫って来つつあるのである。もし我が国に自ら守るの力なく、自ら行くの方針なく、ただ漠然として徒に他の好意に自国の運命を依頼せんとするような情けない気分があったら、それこそ言うまでもなく国家的自殺を遂げるものと言わなければならない。・・・・
一国の国防は、その平時に在ってもよくその国の正当なる発展を擁護し、正義の主張を支持し、国権の伸張を確保するものでなければならないその有事の日に当っては、有効に軍事的能力を発揮して、交戦の目的を達成するものでなければならぬ。しかして我国に関する限りは、その地理的環境に顧みて生存権擁護に必要なる海面の制海権搉持が絶対的の緊要条件である。換言すれば我が国防の完成は平戦両時を問わず、わが生存と発展に必要なる海面を制御するに足るの海軍威力を厳存し、一朝有事に際しては、敵艦隊を撃滅して必要海面よりこれを掃討することを待って始めてその任を完うすることが出来るのである。・・・・・
今日においても武力のバックなくしてその国勢を増進せしめた国があろうか。日清日露戦役を経て我が国富の増進は世界人をして驚嘆の的とならしめた。満蒙における我が貿易の拡張、通商条約の有利なる改正、国際的地位の進展等皆帝国の武力によってかち得たものならざるは無いと言っても過言ではないのである。・・・・・
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
引用開始
世界大戦(一次)以来、本家の英国は聊かその伝統の国策に動揺を来した形跡があるが、その血を別けた分家の米国は、その参戦振りと云い、講和会議の牛耳振りと云い、爾後の主要なる国際関係の容喙振りと云い、全くそのお株を譲り受けたかの観があるのである。果然アングロサクソンの海洋優越主義は完全に両国によって絶対の占有を永久?に許すこととなったのである。
この堅忍自彊にして、功利的なる民族性に育まれた英米二大海軍国に挟まれ、睨まれ、手を付けられた東洋は、まことに警鐘乱打の時機が近付いて来たのではないであろうか。もし少しく民族的歴史を研究し、即今の国際政局の動向を省察する人であるならば、側に厖大な無力な、不安定な、大国を控えて、これが支援に満身の勇気を喚起する日本の姿を眺めたら、さぞかし涙ぐましく感ぜられることであろう。
私は徒に日本の国際的地位を悲観するものではないが、また徒に他国の諛辞に楽観的自惚れをするものではない。然し事実はアングロサクソン民族によって、その剛腹なる極東政策が着々と計画され実施され、展開されつつ、われ等の足元に迫って来つつあるのである。もし我が国に自ら守るの力なく、自ら行くの方針なく、ただ漠然として徒に他の好意に自国の運命を依頼せんとするような情けない気分があったら、それこそ言うまでもなく国家的自殺を遂げるものと言わなければならない。・・・・
一国の国防は、その平時に在ってもよくその国の正当なる発展を擁護し、正義の主張を支持し、国権の伸張を確保するものでなければならないその有事の日に当っては、有効に軍事的能力を発揮して、交戦の目的を達成するものでなければならぬ。しかして我国に関する限りは、その地理的環境に顧みて生存権擁護に必要なる海面の制海権搉持が絶対的の緊要条件である。換言すれば我が国防の完成は平戦両時を問わず、わが生存と発展に必要なる海面を制御するに足るの海軍威力を厳存し、一朝有事に際しては、敵艦隊を撃滅して必要海面よりこれを掃討することを待って始めてその任を完うすることが出来るのである。・・・・・
今日においても武力のバックなくしてその国勢を増進せしめた国があろうか。日清日露戦役を経て我が国富の増進は世界人をして驚嘆の的とならしめた。満蒙における我が貿易の拡張、通商条約の有利なる改正、国際的地位の進展等皆帝国の武力によってかち得たものならざるは無いと言っても過言ではないのである。・・・・・
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2008年01月25日
軍備均衡は平和の鍵
深まりゆく日米の危機2
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は第30代米国大統領カルヴィン・クーリッジ(wikiより)

引用開始
私共はもとより戦争を好むものではない。兵は、国の大事、死生の地、存亡の道であることは万々承知しているものであるが、しかし世界の大勢とこの大勢の中に翻弄せられている日本の現実を直視して、いかに国防の必要なるかを痛感するものである。また世の人道論者が戦争行為の罪悪を説き、平和主義者が戦争嫌忌の思潮変遷を論じても、畢竟戦争は理知を超越して自然に激成される勢いから発生するものである限りは、永久平和の理想実現は前途なお遼遠なりと信ずるものである。1928年11月11日の休戦記念日に当り、米大統領クーリッジ氏は、対世界、並に対軍備の根本観念について一場の演説をした。即ちその中に
『もし欧州各国が、国防をゆるがせにしたらんか、戦争は一層速やかに来りしならん。人生総ての経験は適当なる軍備を有する一国は他より攻撃せらるる公算少なく、また遂に戦争となるべき利益の侵害を被ること、また一層少なきを示せり』云々
とある。実に軍備は決して平和論者の称するがごとき嫌忌すべき戦争誘因となるものでなくて、かえって戦争を防止し、戦禍を局限し、反戦争観念を最も強く発揮するものである。随って『米国の軍備を充実するは吾人自身の義務なると共に、文明のためにも、はた又国内に於て平和を保持するためにも、諸外国と秩序あり且つ合理的な関係を持続するためにも、適当なる陸海軍を維持することは必要なり』と叫んだのは、他の所論は別として流石は大統領の率直な言葉として推奨するところである。
まことに適当なる軍備の維持はクーリッジ氏を待つまでもなく、嘗てルーズベルト氏によって『最も廉価に平和の保障たる海軍』と叫ばしたごとくに、空漠なる平和論や、不真率なる国際協約よりも遥かに平和を永続し、戦争の災禍を減ずる実効的方法である。世界の平和を利害の調節にのみ考察して、利己的協約を結んで戦争を止めんとしたからとて、それで戦争が防止出来るものではない。・・・・・畢竟戦争の危険より遠ざかる唯一の途は、その有する軍備において互いに相理解し、相敬し相畏るるにあるのである。我々は米国に向って決して挑戦するものではない。然し今日の時勢においては挑戦せらるる国家も戦争に対する一半の責任を持たなければならない。何故なれば、そは侮らるるまでにその軍備を等閑に付したからである。換言すれば相当の戦争保険料を払わなかったからである。
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は第30代米国大統領カルヴィン・クーリッジ(wikiより)

引用開始
私共はもとより戦争を好むものではない。兵は、国の大事、死生の地、存亡の道であることは万々承知しているものであるが、しかし世界の大勢とこの大勢の中に翻弄せられている日本の現実を直視して、いかに国防の必要なるかを痛感するものである。また世の人道論者が戦争行為の罪悪を説き、平和主義者が戦争嫌忌の思潮変遷を論じても、畢竟戦争は理知を超越して自然に激成される勢いから発生するものである限りは、永久平和の理想実現は前途なお遼遠なりと信ずるものである。1928年11月11日の休戦記念日に当り、米大統領クーリッジ氏は、対世界、並に対軍備の根本観念について一場の演説をした。即ちその中に
『もし欧州各国が、国防をゆるがせにしたらんか、戦争は一層速やかに来りしならん。人生総ての経験は適当なる軍備を有する一国は他より攻撃せらるる公算少なく、また遂に戦争となるべき利益の侵害を被ること、また一層少なきを示せり』云々
とある。実に軍備は決して平和論者の称するがごとき嫌忌すべき戦争誘因となるものでなくて、かえって戦争を防止し、戦禍を局限し、反戦争観念を最も強く発揮するものである。随って『米国の軍備を充実するは吾人自身の義務なると共に、文明のためにも、はた又国内に於て平和を保持するためにも、諸外国と秩序あり且つ合理的な関係を持続するためにも、適当なる陸海軍を維持することは必要なり』と叫んだのは、他の所論は別として流石は大統領の率直な言葉として推奨するところである。
まことに適当なる軍備の維持はクーリッジ氏を待つまでもなく、嘗てルーズベルト氏によって『最も廉価に平和の保障たる海軍』と叫ばしたごとくに、空漠なる平和論や、不真率なる国際協約よりも遥かに平和を永続し、戦争の災禍を減ずる実効的方法である。世界の平和を利害の調節にのみ考察して、利己的協約を結んで戦争を止めんとしたからとて、それで戦争が防止出来るものではない。・・・・・畢竟戦争の危険より遠ざかる唯一の途は、その有する軍備において互いに相理解し、相敬し相畏るるにあるのである。我々は米国に向って決して挑戦するものではない。然し今日の時勢においては挑戦せらるる国家も戦争に対する一半の責任を持たなければならない。何故なれば、そは侮らるるまでにその軍備を等閑に付したからである。換言すれば相当の戦争保険料を払わなかったからである。
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2008年01月24日
日米衝突の不可避性
深まりゆく日米の危機1
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はこの本の題名となっているページの開始部分です。

引用開始
過去四半世紀に於ける日米抗争の史実並びに支那を舞台とする列強隆替の跡に鑑み、軍備制限の真相に着想すれば、如何に根強く、如何に計画的に米力西漸の歩取りが、除々ながらも圧倒的に押寄せて来るのを気付かずには居られないのである。・・・・
日本から米国を観て『お前の国は土地も広い資源も無尽蔵だ、生活も豊富で国力生産共に世界一だ、何を苦しんで他人の縄張りを荒らそうとするのか、少しは足ることを知って鷹揚に控えておればいいじゃないか』とかこったところで『俺は幾らでもドルが必要だ、働いて儲けて生活をどこまでも潤沢にするのが俺たちの望みだ。一切の科学も発明も文化もドルがあってこそ増長も受用も出来るのだ。儲けるためには他人の迷惑などは考えている暇はない。衝突は覚悟の前だ。膨脹欲、権勢欲は生活戦線を突破した俺達に当然の付き物ではないか』と啖呵を切らるればそれまでのことである。畢竟両国の国運発展上自然に持上った結果であるから根底が深いのである。
しかも両国には力の意識が強く働いて居るのである。米国にすれば、自己の抱負を大胆に支那に施すためには日本が当面の障碍物となってそつにの武力が一段の目障りとなるのである。日本にしても、日支共栄共存の経論を布こうと思っても、いつもこれに水をさす米国の態度が厄介千万の邪魔者である。随ってその背後の武力は関心の種とならざるを得ないのである。日本が朝鮮たり支那たりでありとすれば、日米の関係は円満に進んだであろう。然し日本はいつしか極東における最強国となって、その力を自覚するのみならず他をして等しくこれを認識せしめたのである。
かくて多年親交を続けた日米両国は極東における国際政局の分野に相対的地位を取った。手を執って引っ張り回した子供が何時しか一人前の男となって自己の野心の監視者となり競争相手に立った訳である。最近米国の主要なる外交企画はこの一人前の男子の生活資料を脅かさんとするのみに振り向けられているかのごとき観を呈するのは、また自然の勢いであろう。大人げない仕打ちと云えば云えないこともないのである。
日本は一度ロシアの南下に対して乾坤一擲の戦いを宣した。その結果は支那の領土を保全し分割の運命を救ったのであるが、その犠牲の大なりしに引換え支那より受けた代償は甚だ僅少なものであった。しかのみならずその時期よりして日本は自然に支那の番兵を買って出なければならなくなったのである。日本は自己のために支那を保全したのか、はた、支那のために支那を保全したのか、世界列強のために支那を保全したのか、そのいずれにあるかはここに明答する限りではないが、兎も角も支那は日本によって今日までの所は保全せられたのである。列国が支那分割に手を控えたのはその近傍に日本があるからである。然もこれに対する支那の感情は必ずしも日本を徳とせざるのみならず、却って日本を憎み、日本を疑い、日本を畏れ、且また日本を侮りつつあるのである。日本は支那のために尽して支那より最も不人望の対象とせられつつあるのである。その一半の責は日本自身の負う所であろうが、他の一半は支那の僻み根性とそれに油を注ぎ込む米国の指金でなくて何であろう。これは少しく独断に過ぐるの言かも知れないが、少なくとも排日の背後には常に米国の魔手が働いて居ることは隠れざる事実である。
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はこの本の題名となっているページの開始部分です。

引用開始
過去四半世紀に於ける日米抗争の史実並びに支那を舞台とする列強隆替の跡に鑑み、軍備制限の真相に着想すれば、如何に根強く、如何に計画的に米力西漸の歩取りが、除々ながらも圧倒的に押寄せて来るのを気付かずには居られないのである。・・・・
日本から米国を観て『お前の国は土地も広い資源も無尽蔵だ、生活も豊富で国力生産共に世界一だ、何を苦しんで他人の縄張りを荒らそうとするのか、少しは足ることを知って鷹揚に控えておればいいじゃないか』とかこったところで『俺は幾らでもドルが必要だ、働いて儲けて生活をどこまでも潤沢にするのが俺たちの望みだ。一切の科学も発明も文化もドルがあってこそ増長も受用も出来るのだ。儲けるためには他人の迷惑などは考えている暇はない。衝突は覚悟の前だ。膨脹欲、権勢欲は生活戦線を突破した俺達に当然の付き物ではないか』と啖呵を切らるればそれまでのことである。畢竟両国の国運発展上自然に持上った結果であるから根底が深いのである。
しかも両国には力の意識が強く働いて居るのである。米国にすれば、自己の抱負を大胆に支那に施すためには日本が当面の障碍物となってそつにの武力が一段の目障りとなるのである。日本にしても、日支共栄共存の経論を布こうと思っても、いつもこれに水をさす米国の態度が厄介千万の邪魔者である。随ってその背後の武力は関心の種とならざるを得ないのである。日本が朝鮮たり支那たりでありとすれば、日米の関係は円満に進んだであろう。然し日本はいつしか極東における最強国となって、その力を自覚するのみならず他をして等しくこれを認識せしめたのである。
かくて多年親交を続けた日米両国は極東における国際政局の分野に相対的地位を取った。手を執って引っ張り回した子供が何時しか一人前の男となって自己の野心の監視者となり競争相手に立った訳である。最近米国の主要なる外交企画はこの一人前の男子の生活資料を脅かさんとするのみに振り向けられているかのごとき観を呈するのは、また自然の勢いであろう。大人げない仕打ちと云えば云えないこともないのである。
日本は一度ロシアの南下に対して乾坤一擲の戦いを宣した。その結果は支那の領土を保全し分割の運命を救ったのであるが、その犠牲の大なりしに引換え支那より受けた代償は甚だ僅少なものであった。しかのみならずその時期よりして日本は自然に支那の番兵を買って出なければならなくなったのである。日本は自己のために支那を保全したのか、はた、支那のために支那を保全したのか、世界列強のために支那を保全したのか、そのいずれにあるかはここに明答する限りではないが、兎も角も支那は日本によって今日までの所は保全せられたのである。列国が支那分割に手を控えたのはその近傍に日本があるからである。然もこれに対する支那の感情は必ずしも日本を徳とせざるのみならず、却って日本を憎み、日本を疑い、日本を畏れ、且また日本を侮りつつあるのである。日本は支那のために尽して支那より最も不人望の対象とせられつつあるのである。その一半の責は日本自身の負う所であろうが、他の一半は支那の僻み根性とそれに油を注ぎ込む米国の指金でなくて何であろう。これは少しく独断に過ぐるの言かも知れないが、少なくとも排日の背後には常に米国の魔手が働いて居ることは隠れざる事実である。
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2008年01月23日
ロンドン海軍会議成果
軍備制限の真相8
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はこの本の引用部分です。

引用開始
世界的不戦条約を基調としてそのスタートを切ったロンドン海軍会議は、世界の平和と国民負担の軽減並びに国防の安固を目標としたのは言うまでもない。しかしその出来上った条約は果して以上の目標に到達し得る径路を辿ったであろうか。フーバー大統領やらマクドナルド首相は高く大成功の叫びを揚げて世界に呼びかけているが、世界の他の方面においては『狸の訛し合い』と嘲笑しているものもあるのである。
いずれが是かいずれが非か、各その立場の相違から観るところを異にするのであろうが、しかしこの会議の成果を公平に批判する者の眼には以上の目標に対して成功とは決して映じて来ないのである。ただ1936年までの暫定期間の気休め外交を糊塗したというに過ぎないのである。
何となれば、第一日英米は会議当初に不戦条約を基調とすることを厳粛に宣言した。然るに彼らは予備交渉の開始とともに何時の間にかこれを棚上に束ねて戦争を前提とする会議へと転進した。戦争を前提とする観念から生れる平和手段は兵力の均衡より外はないのである。たとえ大国が『俺は戦争を欲する考えは毛頭ないが、ただ世界の平和を維持するために大国なみにこれだけの兵力を常備して置くのだ』と真実その気持ちでいるにしたところで、それが何等権威ある安全保障の約束がない限りは、どうして小国の平和が脅威されないでいようか。殊に支那の門戸開放、機会均等を以て主要の国策としている米国が『モンロー主義には防禦海軍で足るが、ヘイ・ドクトリンの擁護は攻勢海軍を必要とする』という海軍政策を確立して着々これが実現のために大拡張をやって居りながら、軍縮会議であるから、いかにフーバーやギブソンが平和の宣伝に努めたところで、日本としてはこの現実に直面してそれをそのまま受入れられようはずがないのである。
仏伊両国また大小の相違はあろうが、大体日本と同じ関係にあるのである。されば不戦に出発した軍縮会議は、あいかわらず、比率、絶対的軍備、極端なる補助艦保有量の要求等が、実際主要の題目となって血眼の論争を沸き立たした。・・・・
これで果して世界の平和が増進し得られたであろうか。『俺はこの条約の終期には何時でもお前をやっつけられるのだぞ』なるほどこれでは戦争または圧迫を前提としては大成功である。然し『それでは俺が安心出来ないから、何とかやっつけられない工夫をしなくっちゃあ』という国があったとすれば、そこに世界の平和は常に脅威されていると云わなければならないではないか。
よく世間では兵力の均衡が戦争誘発の動因となると云うものがあるが、これは非常なる謬見である。また嘗て兵力の均衡状態から戦争が起った例は無いのである。戦争は例外なしに兵力の不均衡によってその優秀なるものから強いられて居るのである。・・・・常に優勢なるものが国策遂行のためその兵力を行使せんとするから戦争が起るのである。近代においてはお互いに始めから共倒れを予期して戦争する国はない。兵力の不均衡こそ人間の野心を煽動するものであって、これ程戦争の誘因となるものはないのである。
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はこの本の引用部分です。

引用開始
世界的不戦条約を基調としてそのスタートを切ったロンドン海軍会議は、世界の平和と国民負担の軽減並びに国防の安固を目標としたのは言うまでもない。しかしその出来上った条約は果して以上の目標に到達し得る径路を辿ったであろうか。フーバー大統領やらマクドナルド首相は高く大成功の叫びを揚げて世界に呼びかけているが、世界の他の方面においては『狸の訛し合い』と嘲笑しているものもあるのである。
いずれが是かいずれが非か、各その立場の相違から観るところを異にするのであろうが、しかしこの会議の成果を公平に批判する者の眼には以上の目標に対して成功とは決して映じて来ないのである。ただ1936年までの暫定期間の気休め外交を糊塗したというに過ぎないのである。
何となれば、第一日英米は会議当初に不戦条約を基調とすることを厳粛に宣言した。然るに彼らは予備交渉の開始とともに何時の間にかこれを棚上に束ねて戦争を前提とする会議へと転進した。戦争を前提とする観念から生れる平和手段は兵力の均衡より外はないのである。たとえ大国が『俺は戦争を欲する考えは毛頭ないが、ただ世界の平和を維持するために大国なみにこれだけの兵力を常備して置くのだ』と真実その気持ちでいるにしたところで、それが何等権威ある安全保障の約束がない限りは、どうして小国の平和が脅威されないでいようか。殊に支那の門戸開放、機会均等を以て主要の国策としている米国が『モンロー主義には防禦海軍で足るが、ヘイ・ドクトリンの擁護は攻勢海軍を必要とする』という海軍政策を確立して着々これが実現のために大拡張をやって居りながら、軍縮会議であるから、いかにフーバーやギブソンが平和の宣伝に努めたところで、日本としてはこの現実に直面してそれをそのまま受入れられようはずがないのである。
仏伊両国また大小の相違はあろうが、大体日本と同じ関係にあるのである。されば不戦に出発した軍縮会議は、あいかわらず、比率、絶対的軍備、極端なる補助艦保有量の要求等が、実際主要の題目となって血眼の論争を沸き立たした。・・・・
これで果して世界の平和が増進し得られたであろうか。『俺はこの条約の終期には何時でもお前をやっつけられるのだぞ』なるほどこれでは戦争または圧迫を前提としては大成功である。然し『それでは俺が安心出来ないから、何とかやっつけられない工夫をしなくっちゃあ』という国があったとすれば、そこに世界の平和は常に脅威されていると云わなければならないではないか。
よく世間では兵力の均衡が戦争誘発の動因となると云うものがあるが、これは非常なる謬見である。また嘗て兵力の均衡状態から戦争が起った例は無いのである。戦争は例外なしに兵力の不均衡によってその優秀なるものから強いられて居るのである。・・・・常に優勢なるものが国策遂行のためその兵力を行使せんとするから戦争が起るのである。近代においてはお互いに始めから共倒れを予期して戦争する国はない。兵力の不均衡こそ人間の野心を煽動するものであって、これ程戦争の誘因となるものはないのである。
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2008年01月22日
ロンドン海軍条約調印
軍備制限の真相7
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は本書引用ページの部分です。

引用開始
窮すれば通ずとでも言うか、五国会議のこの難局に直面して抽象的ではあるが一道の光明が点ぜられた。それの一つは仏国外相ブリアン氏の仏国上院における軍縮演説と、他の一つは米国全権団の安全保障協約に関する声明である。・・・・・
米国声明の真意に関してロンドンで行われた二つの解釈を照会すれば、
一、日本牽制策
三国協定本位で行くとすれば日本の強硬な態度を押えることが困難だから、五国協定失敗の責任を日本に負わせようとする。そこで従来の三国協定本位から五国標準に還元するために仏国に秋波を送ったものだ。
二、仏国牽制策
英、米が協議条約を受諾することは形の上で英、米二国が仏国に譲歩したことになるからその点仏国の頑強な態度を軟らげようとしたものだ。
と云うのである。何はともあれ、この米国の重大なる転向はロンドン会議に一脈の精気を注入したので各国全権の往来が一と仕切り頻繁となり安全保障問題は今や会議の中心点であるかのごとき観を呈した。・・・・
米国全権は十日朝一提案を各国全権に示した。この案は過去三ヶ月間の会議の成果をまとめて五国条約となすもので、
一、主力艦海軍休日の延長並びに廃棄(一次不明)上に関するもの
二、航空母艦に付いての規定
三、海軍制限方式
四、潜水艦の艦型制限
五、潜水艦の使用に関する制限
六、制限外艦艇に関する規定
七、廃棄すべき艦艇に関する規定
を含みこれに加うるに日、英、米三国間に成立した保有量に関する協定を包括せしめる案で、これを一括して五国条約となし、三国協定に関する部分は後に至り、仏伊問題がまとまれば両国とも参加し得ることとし、然も三国に関する限り三国が批准を終了した時を以て効力を発生せしめる案である。・・・・・
かくて軍縮会議の大綱は定まり、英仏、仏伊関係は不調のままに折合い、五国条約の起草も完了したので四月二十二日いよいよ最終総会を開いて晴れの調印式を行うこととなった。・・・・
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は本書引用ページの部分です。

引用開始
窮すれば通ずとでも言うか、五国会議のこの難局に直面して抽象的ではあるが一道の光明が点ぜられた。それの一つは仏国外相ブリアン氏の仏国上院における軍縮演説と、他の一つは米国全権団の安全保障協約に関する声明である。・・・・・
米国声明の真意に関してロンドンで行われた二つの解釈を照会すれば、
一、日本牽制策
三国協定本位で行くとすれば日本の強硬な態度を押えることが困難だから、五国協定失敗の責任を日本に負わせようとする。そこで従来の三国協定本位から五国標準に還元するために仏国に秋波を送ったものだ。
二、仏国牽制策
英、米が協議条約を受諾することは形の上で英、米二国が仏国に譲歩したことになるからその点仏国の頑強な態度を軟らげようとしたものだ。
と云うのである。何はともあれ、この米国の重大なる転向はロンドン会議に一脈の精気を注入したので各国全権の往来が一と仕切り頻繁となり安全保障問題は今や会議の中心点であるかのごとき観を呈した。・・・・
米国全権は十日朝一提案を各国全権に示した。この案は過去三ヶ月間の会議の成果をまとめて五国条約となすもので、
一、主力艦海軍休日の延長並びに廃棄(一次不明)上に関するもの
二、航空母艦に付いての規定
三、海軍制限方式
四、潜水艦の艦型制限
五、潜水艦の使用に関する制限
六、制限外艦艇に関する規定
七、廃棄すべき艦艇に関する規定
を含みこれに加うるに日、英、米三国間に成立した保有量に関する協定を包括せしめる案で、これを一括して五国条約となし、三国協定に関する部分は後に至り、仏伊問題がまとまれば両国とも参加し得ることとし、然も三国に関する限り三国が批准を終了した時を以て効力を発生せしめる案である。・・・・・
かくて軍縮会議の大綱は定まり、英仏、仏伊関係は不調のままに折合い、五国条約の起草も完了したので四月二十二日いよいよ最終総会を開いて晴れの調印式を行うこととなった。・・・・
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2008年01月21日
決裂に瀕すロンドン会議
軍備制限の真相6
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は若槻礼次郎日本全権(wikiより)

引用開始
ロンドン海軍会議(1930年1月〜4月)における帝国全権の態度に関する声明書
日本全権はロンドン海軍会議は永久平和の確立に対する人類一般の切望に基き招請せられたるものと信ず、帝国は人類の幸福を増進しかつ諸国民の財政的負担を軽減するため海軍軍備の全般的縮少の実現に対し全幅の協力をなさんとするの決意を有す。然れども海軍力の相対性に鑑み日本は国の安全を確保するに足る海軍即ち極東方面海洋の安寧は日本の最も重きを置くところなるにより同方面におけるその国防に必要なる勢力を保持せんことを欲す。・・・・・
またこれと同時に米国全権に対し提出した詳細な補助艦の数字は左のごとくである。
一、アメリカが大型巡洋艦十八万トンを持つ場合は次の釣り合いたるを要す。
米国:大型巡洋艦十八万トン、軽巡洋艦十四万七千トン、駆逐艦十五万トン、潜水艦八万二千トン、合計五十五万九千トン
日本:大型巡洋艦十二万六千トン、軽巡洋艦十万トン、駆逐艦九万トン、潜水艦七万八千五百トン、合計三十九万四千五百トン
二、アメリカが大型巡洋艦十五万トンを持つ場合は次の釣り合いたるを要す。
米国:大型巡洋艦十五万トン、軽巡洋艦十八万九千トン、駆逐艦十五万トン、潜水艦八万二千トン、合計五十七万一千トン
日本:大型巡洋艦十万八千四百トン、軽巡洋艦十二万トン、駆逐艦九万トン、潜水艦七万八千五百トン、合計三十九万六千九百トン
かくて我が七割案なるものがいよいよ具体的にその姿を現して来た。
これに続いて仏国も声明書を発表した、その骨子は
『・・・・仏国海軍力は純然たる防禦政策に立脚するものであるから英米が両国の協定を実現するため双方の海軍力を縮少したり増加したりするようにヤキモキしてはいない。前掲の数字(省略)はその国家的必要の単なる表現として認めたものであるから仏国の対英米態度と同一の相互的信頼の精神をもって見てもらいたい』と皮肉や注文を並べた後最後に『政治的解決を促すため五国会議開会式でタルヂュ氏が述べた通り相互安全保障の新たなる案について各国の絶対的所要を相対的所要に下がらせることの出来るものを審議することにはいつでも賛成だ』と声明した。
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は若槻礼次郎日本全権(wikiより)

引用開始
ロンドン海軍会議(1930年1月〜4月)における帝国全権の態度に関する声明書
日本全権はロンドン海軍会議は永久平和の確立に対する人類一般の切望に基き招請せられたるものと信ず、帝国は人類の幸福を増進しかつ諸国民の財政的負担を軽減するため海軍軍備の全般的縮少の実現に対し全幅の協力をなさんとするの決意を有す。然れども海軍力の相対性に鑑み日本は国の安全を確保するに足る海軍即ち極東方面海洋の安寧は日本の最も重きを置くところなるにより同方面におけるその国防に必要なる勢力を保持せんことを欲す。・・・・・
またこれと同時に米国全権に対し提出した詳細な補助艦の数字は左のごとくである。
一、アメリカが大型巡洋艦十八万トンを持つ場合は次の釣り合いたるを要す。
米国:大型巡洋艦十八万トン、軽巡洋艦十四万七千トン、駆逐艦十五万トン、潜水艦八万二千トン、合計五十五万九千トン
日本:大型巡洋艦十二万六千トン、軽巡洋艦十万トン、駆逐艦九万トン、潜水艦七万八千五百トン、合計三十九万四千五百トン
二、アメリカが大型巡洋艦十五万トンを持つ場合は次の釣り合いたるを要す。
米国:大型巡洋艦十五万トン、軽巡洋艦十八万九千トン、駆逐艦十五万トン、潜水艦八万二千トン、合計五十七万一千トン
日本:大型巡洋艦十万八千四百トン、軽巡洋艦十二万トン、駆逐艦九万トン、潜水艦七万八千五百トン、合計三十九万六千九百トン
かくて我が七割案なるものがいよいよ具体的にその姿を現して来た。
これに続いて仏国も声明書を発表した、その骨子は
『・・・・仏国海軍力は純然たる防禦政策に立脚するものであるから英米が両国の協定を実現するため双方の海軍力を縮少したり増加したりするようにヤキモキしてはいない。前掲の数字(省略)はその国家的必要の単なる表現として認めたものであるから仏国の対英米態度と同一の相互的信頼の精神をもって見てもらいたい』と皮肉や注文を並べた後最後に『政治的解決を促すため五国会議開会式でタルヂュ氏が述べた通り相互安全保障の新たなる案について各国の絶対的所要を相対的所要に下がらせることの出来るものを審議することにはいつでも賛成だ』と声明した。
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2008年01月19日
ロンドン会議の論争
軍備制限の真相5
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はマクドナルド英全権・首相(wikiより)

引用開始
五国海軍会議は全世界の異常なる視聴を集めつついよいよ1930年1月21日午前11時、英京ロンドンの上院ローヤル・ギャラリにおいて英国皇帝陛下御親臨の下に開会式を挙行した。
かくして1930年の世界外交はこの意味深い国際会議をもって序幕とし永く歴史の上にその大きな足跡を印した。
当日各国首席全権の演説要旨を摘録すればその対軍縮の意図の一端が窺われるのである。
日本全権 若槻礼次郎 現実の縮少
『日本の平和政策はワシントン会議及びジュネーヴ会議において端的に宣明せられまた我国が国際聯盟各般の事業に対し熱心に参与せる事実に徴しても明らかなるところである。彼の不戦条約の精神及び目的に対し我国が喜んで賛同せるゆえんもまたこの平和政策に則れるに外ならない。吾人は今やこの不戦条約を出発点として本会議の審議を進めんとしている。されば参加各国が相互にその態度及び政策を十分に了解し同情を以て相接するものなるを確信する。
日本は参加諸国と相携えて海軍軍備を極度まで縮少するの用意あるを宣明する。日本は単に海軍力の制限に止まることなくこれが現実の縮少を行わんと欲するものである。ただこの縮少につき日本の関心する所は攻撃的作戦には不十分なるも帝国を防衛するには足る程度の勢力を保有し以て国民の安全感を動揺せしめざるの点である』云々
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はマクドナルド英全権・首相(wikiより)

引用開始
五国海軍会議は全世界の異常なる視聴を集めつついよいよ1930年1月21日午前11時、英京ロンドンの上院ローヤル・ギャラリにおいて英国皇帝陛下御親臨の下に開会式を挙行した。
かくして1930年の世界外交はこの意味深い国際会議をもって序幕とし永く歴史の上にその大きな足跡を印した。
当日各国首席全権の演説要旨を摘録すればその対軍縮の意図の一端が窺われるのである。
日本全権 若槻礼次郎 現実の縮少
『日本の平和政策はワシントン会議及びジュネーヴ会議において端的に宣明せられまた我国が国際聯盟各般の事業に対し熱心に参与せる事実に徴しても明らかなるところである。彼の不戦条約の精神及び目的に対し我国が喜んで賛同せるゆえんもまたこの平和政策に則れるに外ならない。吾人は今やこの不戦条約を出発点として本会議の審議を進めんとしている。されば参加各国が相互にその態度及び政策を十分に了解し同情を以て相接するものなるを確信する。
日本は参加諸国と相携えて海軍軍備を極度まで縮少するの用意あるを宣明する。日本は単に海軍力の制限に止まることなくこれが現実の縮少を行わんと欲するものである。ただこの縮少につき日本の関心する所は攻撃的作戦には不十分なるも帝国を防衛するには足る程度の勢力を保有し以て国民の安全感を動揺せしめざるの点である』云々
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2008年01月16日
ロンドン会議前の形勢
軍備制限の真相4
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は米全権スティムソン(wikiより)

引用開始
英国の招請に対し日本の回答は十月十六日(1929年)松平大使の手から英外相に手交されたもので、軍縮会議のとかく名実相反する過去の経緯に急所の一針を与えて頗る要領を得たものであった。・・・・この回答中・・・・先ずもって予備的会談において日英の協定を進めること。英米二国のそれのごとくに遂げたいという要望を言明している。次は不戦条約を討議の出発点とすることは今回の軍縮の基礎観念であるから他を脅威するような攻勢的軍備はよろしく率先して縮少すべきであると、一本痛い所に釘を刺したものである。
第三には各国民の希求は軍備の制限に止らず実に軍備の縮少である、これはフーバー大統領の数次宣言を裏書するもりであって、日本はこの宣言を信じて真の軍縮を期待して応召するものであるから、軍拡に流れるような英米協定案には不賛成であるということを暗示しているのである。以上の三点は会議に臨む日本の立場を自由にし、会議の指導原理を明示し、英米二国の反省を促したいかにも肯綮にあたった適切な回答であったと思うのである。また同時公表された幣原外相のステートメントもまた該公文の補説として国民の意志を適確に表示したものであった。
『何れの国に取っても脅威とならざる底の海軍協定、しかも兼て各国民の負担軽減をももたらすべき協定』これが帝国政府の眼目とするところであると表示したのである。
かくて我政府は全権の携行すべき帝国政府の訓令案に付き、外務海軍両当局において国家的立場、国際的立場並に戦略的立場の三方面の観点に立脚した原案作成に着手したが、漸くその成案を得たので十一月二十六日の閣議に付議し首相より上奏御裁可を仰いで若槻首席全権に手交することになった。・・・・・この訓令はまた対英回答と共に軍縮精神に合致し兼て不戦条約を基調とした最も合理的な、しかも最も謙抑な方針であって、いかなるごうつく張りのアングロ・サクソンでも、これには納得するものと思われた。・・・・
かくて我全権は十二月十一日(ロンドンへの途上)北米シャトルに着き同国記者団に対して『他を脅威せず他より脅威せられざる最小限度の軍備』を基準として真の軍縮を達成せんことを強調せる重要なる声明書を発した。同じく十六日ワシントン着、即日大統領と会見し翌十七日国務卿スチムソンの私邸に会合し第一回日米全権の予備交渉を行った。その後若槻、財部両全権はスチムソン、モロー両全権との二回の会談の結果につき十九日ニューヨークに向う列車中で左のごとく非公式に発表したのである。
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は米全権スティムソン(wikiより)

引用開始
英国の招請に対し日本の回答は十月十六日(1929年)松平大使の手から英外相に手交されたもので、軍縮会議のとかく名実相反する過去の経緯に急所の一針を与えて頗る要領を得たものであった。・・・・この回答中・・・・先ずもって予備的会談において日英の協定を進めること。英米二国のそれのごとくに遂げたいという要望を言明している。次は不戦条約を討議の出発点とすることは今回の軍縮の基礎観念であるから他を脅威するような攻勢的軍備はよろしく率先して縮少すべきであると、一本痛い所に釘を刺したものである。
第三には各国民の希求は軍備の制限に止らず実に軍備の縮少である、これはフーバー大統領の数次宣言を裏書するもりであって、日本はこの宣言を信じて真の軍縮を期待して応召するものであるから、軍拡に流れるような英米協定案には不賛成であるということを暗示しているのである。以上の三点は会議に臨む日本の立場を自由にし、会議の指導原理を明示し、英米二国の反省を促したいかにも肯綮にあたった適切な回答であったと思うのである。また同時公表された幣原外相のステートメントもまた該公文の補説として国民の意志を適確に表示したものであった。
『何れの国に取っても脅威とならざる底の海軍協定、しかも兼て各国民の負担軽減をももたらすべき協定』これが帝国政府の眼目とするところであると表示したのである。
かくて我政府は全権の携行すべき帝国政府の訓令案に付き、外務海軍両当局において国家的立場、国際的立場並に戦略的立場の三方面の観点に立脚した原案作成に着手したが、漸くその成案を得たので十一月二十六日の閣議に付議し首相より上奏御裁可を仰いで若槻首席全権に手交することになった。・・・・・この訓令はまた対英回答と共に軍縮精神に合致し兼て不戦条約を基調とした最も合理的な、しかも最も謙抑な方針であって、いかなるごうつく張りのアングロ・サクソンでも、これには納得するものと思われた。・・・・
かくて我全権は十二月十一日(ロンドンへの途上)北米シャトルに着き同国記者団に対して『他を脅威せず他より脅威せられざる最小限度の軍備』を基準として真の軍縮を達成せんことを強調せる重要なる声明書を発した。同じく十六日ワシントン着、即日大統領と会見し翌十七日国務卿スチムソンの私邸に会合し第一回日米全権の予備交渉を行った。その後若槻、財部両全権はスチムソン、モロー両全権との二回の会談の結果につき十九日ニューヨークに向う列車中で左のごとく非公式に発表したのである。
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2008年01月15日
米国軍縮提案の欺瞞
軍備制限の真相3
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はフーヴァー31代米大統領(wikiより)

引用開始
米仏の間にケロッグとブリアンとによって戦争拒否問題に関する交渉が始まり、それがいよいよ具体化して不戦条約なる形となって表面に現れてきた。これは軍縮の前途に対して一道の光明――適用の如何によって――を与えたのである。この条約は至極簡単なるものであるが、もしこれが適用に関して何等か別の強制力を持つものが出来たら、国際関係は今日より遥かに改善されることであろう。
第一条、
締盟国は国際紛争解決のため戦争に訴うることを非として且その相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各人民の名において厳粛に宣言す。
第二条、
締約国は相互間に起ることあるべき一切の紛争または紛議はその性質または起因の如何を問わず平和的手段によるの外これが処理または解決を求めざることを約す。
と云うので一読理義瞭然たる戦争否認の国際条約である。この約束が将来完全に履行せらるれば各国の軍備は真に自衛の最小限度に低下させ得ることとなるのであるから、この条約は少なくとも各国民間の平和意識を増進するの一階梯となるのは言うまでもない。
かくの如く英米では次に来るべき軍縮問題に関し相当の地ならし工事を試みていたが、英米二国においても政治的転換があり、米のクーリッジ大統領はハーバート・フーバーに代り、英のボールドウィン保守党内閣はマクドナルド労働党内閣によってその後を継がれた。フーバーはその選挙中にも軍縮上の新活動を誓約しており、マクドナルドは統一党以上に軍備制限の味方として知られているのであるが、この両氏は共にその就任の当初において海軍軍縮を高唱し、その言う所も軍備の制限に止めず進んで縮少を行うべきであると同一所見を発表したのである。
またワシントン条約第二十一条によると、同条約実施から八年目即ち1931年にはワシントン条約の改訂会議を開くこととなっていたから、フーバー大統領は早晩第三次軍縮会議を開くべき責任の位置に立たなければならなくなっていたのである。
こういう情勢は英米二国に軍縮会議開催の気運を醸成し、いよいよ米国大統領フーバーによってその第一声を駐白(ベルギー)米大使ギブソンに託して、ジュネーブ国際聯盟委員会に厳粛に宣言せしめた。
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はフーヴァー31代米大統領(wikiより)

引用開始
米仏の間にケロッグとブリアンとによって戦争拒否問題に関する交渉が始まり、それがいよいよ具体化して不戦条約なる形となって表面に現れてきた。これは軍縮の前途に対して一道の光明――適用の如何によって――を与えたのである。この条約は至極簡単なるものであるが、もしこれが適用に関して何等か別の強制力を持つものが出来たら、国際関係は今日より遥かに改善されることであろう。
第一条、
締盟国は国際紛争解決のため戦争に訴うることを非として且その相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することをその各人民の名において厳粛に宣言す。
第二条、
締約国は相互間に起ることあるべき一切の紛争または紛議はその性質または起因の如何を問わず平和的手段によるの外これが処理または解決を求めざることを約す。
と云うので一読理義瞭然たる戦争否認の国際条約である。この約束が将来完全に履行せらるれば各国の軍備は真に自衛の最小限度に低下させ得ることとなるのであるから、この条約は少なくとも各国民間の平和意識を増進するの一階梯となるのは言うまでもない。
かくの如く英米では次に来るべき軍縮問題に関し相当の地ならし工事を試みていたが、英米二国においても政治的転換があり、米のクーリッジ大統領はハーバート・フーバーに代り、英のボールドウィン保守党内閣はマクドナルド労働党内閣によってその後を継がれた。フーバーはその選挙中にも軍縮上の新活動を誓約しており、マクドナルドは統一党以上に軍備制限の味方として知られているのであるが、この両氏は共にその就任の当初において海軍軍縮を高唱し、その言う所も軍備の制限に止めず進んで縮少を行うべきであると同一所見を発表したのである。
またワシントン条約第二十一条によると、同条約実施から八年目即ち1931年にはワシントン条約の改訂会議を開くこととなっていたから、フーバー大統領は早晩第三次軍縮会議を開くべき責任の位置に立たなければならなくなっていたのである。
こういう情勢は英米二国に軍縮会議開催の気運を醸成し、いよいよ米国大統領フーバーによってその第一声を駐白(ベルギー)米大使ギブソンに託して、ジュネーブ国際聯盟委員会に厳粛に宣言せしめた。
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2008年01月14日
米国軍縮提唱の意図
軍備制限の真相2
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はこの本の三章冒頭部分です

引用開始
ジュネーブ会議(1927年)においていかに軍縮会議の協定の困難なるか、名は軍縮であっても実は強国優越権の確保を目的としている拡張会議であったという事が、まざまざと観取されるのである。首唱国の米国は何等の犠牲を払わずして他国の優越を制止し、その期間において自己の拡張を遂行し、新式有力なる艦船を建造してその劣弱を補い、かくて出来上がった優秀艦隊を以て世界に君臨せんとの企図である。
これほど虫のいい話があろうか。自分は競争に負けたから、暫く俺の準備が出来るまで先に行くのを待ってくれ、どうせ俺は一番になるのであるからと云うのである。もしこの思想を国際的に推し進めれば、独立国家の自衛権を折伏して強国優越の前に跪座せしむることになるのである。またそれが世界平和の最捷径であると云うのならば議論は別になるが、いやしくも海軍軍備に関する限り各自国、国情の上に立ってその周囲の状況を観察し、国策上他の脅威を受けざる程度にその計画を立つべきである。
もし一国にして侵略の企図を以てその軍備を拡張すれば、その対象となるべき一国は国家擁護のため自衛権の発動を見るのは当然である。この自衛を怠った国はその際滅亡の外はないのである。日本の海軍拡張は皆他国の脅威に促されて止むを得ず苦しい中から生まれた自衛の産物である。その結果は自然に西太平洋の優位を占めることになったが、これを以て戦争を誘発する動因と見るのは、世界の現状を破壊して強国君臨の覇業を樹立せんとする強国の口実に過ぎぬ。強秦の六国に臨んだ時と何の相違もないのである。されば米国が真実世界の平和を庶幾するならば、先ず以て他の脅威を受けざる国柄に顧みてその海軍を縮小すべきである。
米国全権ギブソンの常に口にせる『軍備は相対的である』という理論は覿面に実現されること請合である。何を好んで日本が米国を進攻する海軍を造ろう。いわんやまた英国にしても米国と戦うの愚を学ぶであろう、畢竟今日海軍拡張の趨勢を促す主要の原因は唯々米国自身の海軍拡張熱であるのである。彼らが強いてワシントン会議の延長を楯に取って、有りもしない無形の勢力を以て優勢なる日本の現実勢力を五・五・三の比率に押し付けようとするのは実に言われなき強秦の振舞いである。
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はこの本の三章冒頭部分です

引用開始
ジュネーブ会議(1927年)においていかに軍縮会議の協定の困難なるか、名は軍縮であっても実は強国優越権の確保を目的としている拡張会議であったという事が、まざまざと観取されるのである。首唱国の米国は何等の犠牲を払わずして他国の優越を制止し、その期間において自己の拡張を遂行し、新式有力なる艦船を建造してその劣弱を補い、かくて出来上がった優秀艦隊を以て世界に君臨せんとの企図である。
これほど虫のいい話があろうか。自分は競争に負けたから、暫く俺の準備が出来るまで先に行くのを待ってくれ、どうせ俺は一番になるのであるからと云うのである。もしこの思想を国際的に推し進めれば、独立国家の自衛権を折伏して強国優越の前に跪座せしむることになるのである。またそれが世界平和の最捷径であると云うのならば議論は別になるが、いやしくも海軍軍備に関する限り各自国、国情の上に立ってその周囲の状況を観察し、国策上他の脅威を受けざる程度にその計画を立つべきである。
もし一国にして侵略の企図を以てその軍備を拡張すれば、その対象となるべき一国は国家擁護のため自衛権の発動を見るのは当然である。この自衛を怠った国はその際滅亡の外はないのである。日本の海軍拡張は皆他国の脅威に促されて止むを得ず苦しい中から生まれた自衛の産物である。その結果は自然に西太平洋の優位を占めることになったが、これを以て戦争を誘発する動因と見るのは、世界の現状を破壊して強国君臨の覇業を樹立せんとする強国の口実に過ぎぬ。強秦の六国に臨んだ時と何の相違もないのである。されば米国が真実世界の平和を庶幾するならば、先ず以て他の脅威を受けざる国柄に顧みてその海軍を縮小すべきである。
米国全権ギブソンの常に口にせる『軍備は相対的である』という理論は覿面に実現されること請合である。何を好んで日本が米国を進攻する海軍を造ろう。いわんやまた英国にしても米国と戦うの愚を学ぶであろう、畢竟今日海軍拡張の趨勢を促す主要の原因は唯々米国自身の海軍拡張熱であるのである。彼らが強いてワシントン会議の延長を楯に取って、有りもしない無形の勢力を以て優勢なる日本の現実勢力を五・五・三の比率に押し付けようとするのは実に言われなき強秦の振舞いである。
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2008年01月12日
軍備制限と軍備競争
軍備制限の真相1
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はウイルソン28代米大統領(wikiより)

引用開始
所詮、抽象的正義の観念は、国際間の一致、世界の平和、国家的の親善関係を保つ上に、どれだけ寄与するであろうか。・・・・
かかる情勢の間にあって、すでに三回も軍備制限会議が開かれ、いわゆる人類の福祉と世界の平和に貢献する一大工作が実施されたのである。然しこの工作は果して崇高なる道義的目的に適ったものであったであろうか。名は実の賓とか、これ程道義的観念から見て名実相沿わざるものはない。・・・
当時露国は、極東において頻りに平和を撹乱し、その野心を逞しゅうせる折柄であったので、その回章は正に鬼の念仏に等しき感想を与えたのであるが、それでも英国の提議によって問題を海陸軍の膨脹制限に止めることとして、第一回平和会議は1899年五月十八日オランダ首都ヘーグで開かれるこことなった。
当時欧米の各国は、その国土の状勢に応じて、何れも軍備拡張に鋭意し、露独墺のごときは、主として陸軍に主力を注ぎ、英米のごときは海軍に主力を注ぎ、仏西伊のごときは陸海両軍に平均せる力を傾注するというていたらくで、欧米各国を始め全世界は何れも軍備拡張のため苦しんでいたのであるから、鬼の念仏も一種の興味を以て迎えられた。開会後軍備縮小問題については、種々異論が続出したので、委員付託となり漸く六月二十三日に至って、第一委員総会を開き、露国陸海軍委員より軍備拡張制限案を提出した。・・・・
まことに不徹底な案であったが、それでもドイツ委員の猛烈なる反対に会い、露国委員また大いに反駁を加えたが、大勢は軍備制限に反対の傾向を呈して露国側の主張は豪も容るる所とならなかった。或る者のごときは、露国の提議を称して『露国が平和を説かんとするのは、強盗が警察費の過大を理由として、巡査の数を減ぜんとするに等しいものである』と冷笑した。かくして、平和会議の主要目的は全然失敗に終ったが、国際紛争平和処理条約にて、周旋、居中調停、仲裁裁判の手続きを一定したことは副次の収穫であった。その後1907年六月、時の米国大統領ルーズヴェルトの発企にて、第二回平和会議をヘーグに開き、強制仲裁裁判所設置のことを可決し、海戦法規を確定した。これら二回の会議は国際聯盟創設に対して有形無形に相当の寄与をなしたのである。
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はウイルソン28代米大統領(wikiより)

引用開始
所詮、抽象的正義の観念は、国際間の一致、世界の平和、国家的の親善関係を保つ上に、どれだけ寄与するであろうか。・・・・
かかる情勢の間にあって、すでに三回も軍備制限会議が開かれ、いわゆる人類の福祉と世界の平和に貢献する一大工作が実施されたのである。然しこの工作は果して崇高なる道義的目的に適ったものであったであろうか。名は実の賓とか、これ程道義的観念から見て名実相沿わざるものはない。・・・
当時露国は、極東において頻りに平和を撹乱し、その野心を逞しゅうせる折柄であったので、その回章は正に鬼の念仏に等しき感想を与えたのであるが、それでも英国の提議によって問題を海陸軍の膨脹制限に止めることとして、第一回平和会議は1899年五月十八日オランダ首都ヘーグで開かれるこことなった。
当時欧米の各国は、その国土の状勢に応じて、何れも軍備拡張に鋭意し、露独墺のごときは、主として陸軍に主力を注ぎ、英米のごときは海軍に主力を注ぎ、仏西伊のごときは陸海両軍に平均せる力を傾注するというていたらくで、欧米各国を始め全世界は何れも軍備拡張のため苦しんでいたのであるから、鬼の念仏も一種の興味を以て迎えられた。開会後軍備縮小問題については、種々異論が続出したので、委員付託となり漸く六月二十三日に至って、第一委員総会を開き、露国陸海軍委員より軍備拡張制限案を提出した。・・・・
まことに不徹底な案であったが、それでもドイツ委員の猛烈なる反対に会い、露国委員また大いに反駁を加えたが、大勢は軍備制限に反対の傾向を呈して露国側の主張は豪も容るる所とならなかった。或る者のごときは、露国の提議を称して『露国が平和を説かんとするのは、強盗が警察費の過大を理由として、巡査の数を減ぜんとするに等しいものである』と冷笑した。かくして、平和会議の主要目的は全然失敗に終ったが、国際紛争平和処理条約にて、周旋、居中調停、仲裁裁判の手続きを一定したことは副次の収穫であった。その後1907年六月、時の米国大統領ルーズヴェルトの発企にて、第二回平和会議をヘーグに開き、強制仲裁裁判所設置のことを可決し、海戦法規を確定した。これら二回の会議は国際聯盟創設に対して有形無形に相当の寄与をなしたのである。
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2008年01月11日
英支関係の推移
支那をめぐる日英米4
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は昭和二年の南京事件の本です

引用開始
新しきロシヤの出現は、支那国民思想に非常な変化をもたらした。1919年、カラハンの名を以て、モスクワの人民委員会から発表された長文の宣言は、支那民衆に偉大な感銘を与えた。彼は言った。ソヴィエト・ロシアは、帝政露国が、支那を搾取するために、欧米及び日本の帝国主義者たちと取り定めたあらゆる条約を廃棄する。ロシヤは満洲及び支那各地において昔得たあらゆる土地を支那に還付する。団匪賠償金も還付する。治外法権も還付する。支那はパリ会議において第二の朝鮮とされようとしたではないか。支那は聨合国に欺かるることなく、ソヴィエト・ロシヤを理解し、これと正式に手を握るべきであると。
かくて1920年以降、ユーリンを先頭にバイケス、ヨツフェ、と入れ代わり国交回復の使節がやって来たが、支那政府は蒙古問題に対する疑惑と、赤化宣伝の恐怖とで、交渉なかなかはかどらなかった。その後カラハンがヨツフェの後任として着京し、顧維鈞との間に、1924年五月、全然白紙平等の立場に立った露支協定が成立して、両国は完全なる国交関係に這入った。これは支那政府も以外であったであろうが、支那民衆には久振りで青天白日を仰いだような感想を与えた。
ロシヤは外蒙古、東支鉄道は依然としてその手中に掌握して放さないのであるが、支那の民衆の目にはあらゆるものを棄てたように映じたのである。ロシヤはこの一挙で支那の全国民の心中を掴んで、爾来縦横無尽に活動し出した。特に広東国民党と共産党との提携以来、国民革命の指導方針は、ほとんどロシヤがその論理と戦術を与えた。
打倒帝国主義打倒軍閥、これ等の鉾先は直に日英両国と張作霖に向けられた。しかして彼らは先ず英国を倒せ、英国倒るれば日本は自然倒れるというのであった。これらは甚だしく南支那における排英熱煽揚の機会を造って、空前の反英的海員罷業が香港に起り、次いで広東の租界でいわゆる沙面事件を惹起して、英国軍と支那の大衆とが睨み合った。またロシヤは北京大学以下北方青年に宣伝を進めて、相応の収穫を収め、非帝国主義の声を強めて、支那において最優勢を保持する英国への反対熱を助長したのは誰も知る通りである。1923年の北京大学を中心とする反キリスト教運動、京漢線鉄道従業員大罷業、1925年上海租界警官支那学生射殺事件等、つぎつぎに起る排英運動は、たちまち全国的に瀰漫したのである。・・・・
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は昭和二年の南京事件の本です

引用開始
新しきロシヤの出現は、支那国民思想に非常な変化をもたらした。1919年、カラハンの名を以て、モスクワの人民委員会から発表された長文の宣言は、支那民衆に偉大な感銘を与えた。彼は言った。ソヴィエト・ロシアは、帝政露国が、支那を搾取するために、欧米及び日本の帝国主義者たちと取り定めたあらゆる条約を廃棄する。ロシヤは満洲及び支那各地において昔得たあらゆる土地を支那に還付する。団匪賠償金も還付する。治外法権も還付する。支那はパリ会議において第二の朝鮮とされようとしたではないか。支那は聨合国に欺かるることなく、ソヴィエト・ロシヤを理解し、これと正式に手を握るべきであると。
かくて1920年以降、ユーリンを先頭にバイケス、ヨツフェ、と入れ代わり国交回復の使節がやって来たが、支那政府は蒙古問題に対する疑惑と、赤化宣伝の恐怖とで、交渉なかなかはかどらなかった。その後カラハンがヨツフェの後任として着京し、顧維鈞との間に、1924年五月、全然白紙平等の立場に立った露支協定が成立して、両国は完全なる国交関係に這入った。これは支那政府も以外であったであろうが、支那民衆には久振りで青天白日を仰いだような感想を与えた。
ロシヤは外蒙古、東支鉄道は依然としてその手中に掌握して放さないのであるが、支那の民衆の目にはあらゆるものを棄てたように映じたのである。ロシヤはこの一挙で支那の全国民の心中を掴んで、爾来縦横無尽に活動し出した。特に広東国民党と共産党との提携以来、国民革命の指導方針は、ほとんどロシヤがその論理と戦術を与えた。
打倒帝国主義打倒軍閥、これ等の鉾先は直に日英両国と張作霖に向けられた。しかして彼らは先ず英国を倒せ、英国倒るれば日本は自然倒れるというのであった。これらは甚だしく南支那における排英熱煽揚の機会を造って、空前の反英的海員罷業が香港に起り、次いで広東の租界でいわゆる沙面事件を惹起して、英国軍と支那の大衆とが睨み合った。またロシヤは北京大学以下北方青年に宣伝を進めて、相応の収穫を収め、非帝国主義の声を強めて、支那において最優勢を保持する英国への反対熱を助長したのは誰も知る通りである。1923年の北京大学を中心とする反キリスト教運動、京漢線鉄道従業員大罷業、1925年上海租界警官支那学生射殺事件等、つぎつぎに起る排英運動は、たちまち全国的に瀰漫したのである。・・・・
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2008年01月10日
米支関係の進展
支那をめぐる日英米3
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は本書今回の引用部分です

引用開始
米国の富は世界戦争によって驚くべく増大した。パリ会議に失望した支那国民は、米国を将来の救世主の如く思ったであろう。米国からみても、支那大陸は開け過ぎた欧州から比べて恰好の資本の捌け口である。列強の協調によって支那の現状を改善して行くことは、米国にとって最も必要なことである。これには列強の特殊権益を無視して自由に且つ実質的に機会均等を振り廻すことでなければならぬ。それは米国の希望でもあり、支那の希望でもある。そこに1921年のワシントン会議が召集されて、表面的には特殊地位の消滅を達成し、山東問題によって支那に対する好意斡旋を示したゆえんである。
支那はワシントン会議において七年越の山東問題も片付き、不平等条約撤廃も原則的に承認を得、また英国は威海衛を仏国は広州湾を還付する声明を発したから、米国を徳として悦んだであろうが、其の実余り収穫はなかったのである。現に英仏両国の声明の如きも今もって実現されないし、関税自主も僅かに日本だけに協定が成立したばかりである。蓋しこれらのぬか喜びも、根本的に支那自身の状態が、列国からみて支那の要求を容れるには、あまりに事実において不安心であるからである。然らばワシントン会議において丸儲けした米国はどうなるかと云えば、支那における特殊地位なる邪魔物排除の宿望は達せられ、競争相手の日本を孤立せしめ、支那に対する善意の列国の協調をもってその統一を援助し、日本の頭を抑えて、その代りに米国が牛耳るということになった。だから一面においては真実支那の主権を尊重して米支関係に一生面を拓いたというよりも、米国中心に支那を監視し指導するということになるのである。この米国の真意はたちまち臨城事件によって暴露された。
臨城事件というのは、1923年の夏、津浦線の江蘇と山東の境の臨城駅付近で、支那の土匪が一列車を襲い、乗客中の外支人等を拉致し、支那と列国との間に問題を起したのである。当時米国は英国と一処になって支那鉄道を列国の共同管理にすべしと主張したのであったが、日本がワシントン条約を盾にとって、頑として動かなかったので、遂に物にならなかった。この事件は簡単のものであったが、その善後処分に対する米国の態度は果たして支那人にどんな印象を与えたであろう。
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は本書今回の引用部分です

引用開始
米国の富は世界戦争によって驚くべく増大した。パリ会議に失望した支那国民は、米国を将来の救世主の如く思ったであろう。米国からみても、支那大陸は開け過ぎた欧州から比べて恰好の資本の捌け口である。列強の協調によって支那の現状を改善して行くことは、米国にとって最も必要なことである。これには列強の特殊権益を無視して自由に且つ実質的に機会均等を振り廻すことでなければならぬ。それは米国の希望でもあり、支那の希望でもある。そこに1921年のワシントン会議が召集されて、表面的には特殊地位の消滅を達成し、山東問題によって支那に対する好意斡旋を示したゆえんである。
支那はワシントン会議において七年越の山東問題も片付き、不平等条約撤廃も原則的に承認を得、また英国は威海衛を仏国は広州湾を還付する声明を発したから、米国を徳として悦んだであろうが、其の実余り収穫はなかったのである。現に英仏両国の声明の如きも今もって実現されないし、関税自主も僅かに日本だけに協定が成立したばかりである。蓋しこれらのぬか喜びも、根本的に支那自身の状態が、列国からみて支那の要求を容れるには、あまりに事実において不安心であるからである。然らばワシントン会議において丸儲けした米国はどうなるかと云えば、支那における特殊地位なる邪魔物排除の宿望は達せられ、競争相手の日本を孤立せしめ、支那に対する善意の列国の協調をもってその統一を援助し、日本の頭を抑えて、その代りに米国が牛耳るということになった。だから一面においては真実支那の主権を尊重して米支関係に一生面を拓いたというよりも、米国中心に支那を監視し指導するということになるのである。この米国の真意はたちまち臨城事件によって暴露された。
臨城事件というのは、1923年の夏、津浦線の江蘇と山東の境の臨城駅付近で、支那の土匪が一列車を襲い、乗客中の外支人等を拉致し、支那と列国との間に問題を起したのである。当時米国は英国と一処になって支那鉄道を列国の共同管理にすべしと主張したのであったが、日本がワシントン条約を盾にとって、頑として動かなかったので、遂に物にならなかった。この事件は簡単のものであったが、その善後処分に対する米国の態度は果たして支那人にどんな印象を与えたであろう。
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2008年01月09日
日支関係の変遷
支那をめぐる日英米2
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は本書第二節日支関係の変遷の部分です

引用開始
日清戦争は朝鮮を中心とした日本と支那との争覇戦であった。この戦争の結果『眠れる獅子』の正体が暴露されて、欧州列国は獅子の分け前に群り立って支那に押寄せた。然し日本の厳然たる存立は兎も角も支那の分割を食止めて、支那自身に自国改造の覚醒を促したのである。
その後日露戦争から第一革命が起るまで十四、五年の間は、日本は日英同盟を基幹として支那の保全に努力し、支那は日本の顧問や教師を招聘して専ら日本の先進振りに学ばんとして、日支両国は善隣輯睦の状態を続けたのである。
然るに清朝の末年から革命の勃発当時に於て悪辣なる袁世凱の外交方策により、日支国交に越ゆべからざる溝渠が穿たれた。彼は日本の満洲経営に対する列国の猜忌に投じて、巧みに遠交近攻の術策を弄して、自己の地位を固めんと図った。これがためには努めて親日分子を排除して、代えるに親米分子の登用を以てした。
当時革命党の勢力次第に勃興し、その主力中には日本留学生出身と共に、米国系の人物も少なからずあったのである。殊に米国系統の新進が外交部の要部を占むるに至って、排日親米の気運を助長することになった。それに何と言っても支那は国権を維持するだけの実力を持っていないのであるから、兎角、以夷制夷の策略を以て当面を糊塗する慣習を捨てないのである。ここに欧州戦によって日本が一時的ながらも未曾有の成金国となって、他の列強が支那を顧みるにいとまなき間に、参戦借款を始め種々の政治借款を一手に引受けることとなったのであるから、支那からいわすれば、日本はその財力を以てどこまで支那を圧迫し来るかも知れない恐るべき国だと思っても無理はなかったのである。そこに持って来て、1915年の日支二十一か条の交渉が始まり、さなきだに日本の禍心に疑惧の念を抱いていた支那側には、一層恐るべき侵略主義と映じて極力これが否認に努めたのである。
元来日本の要求は、日本としては山東問題の善後処分を図り、兼ねて従来の日支懸案を一掃し、日支両国の親善関係を増進し、東洋永遠の平和を根本的に保持せんとする、已むを得ぬ要求であったが、既に其の以前に於て青島税関に対して慣例を顧みず、日本の意向を無視し、ほしいままに税関官吏を任命したばかりでなく、その交渉中またまた交戦区域の撤廃を声明し、日本の即時撤兵を要求するなど、頗る不穏当なる態度を示して居ったので、已むを得ざる行きがかりもあって同年一月十八日駐支公使日置益をして支那政府に要求せしめたのである。・・・・
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は本書第二節日支関係の変遷の部分です

引用開始
日清戦争は朝鮮を中心とした日本と支那との争覇戦であった。この戦争の結果『眠れる獅子』の正体が暴露されて、欧州列国は獅子の分け前に群り立って支那に押寄せた。然し日本の厳然たる存立は兎も角も支那の分割を食止めて、支那自身に自国改造の覚醒を促したのである。
その後日露戦争から第一革命が起るまで十四、五年の間は、日本は日英同盟を基幹として支那の保全に努力し、支那は日本の顧問や教師を招聘して専ら日本の先進振りに学ばんとして、日支両国は善隣輯睦の状態を続けたのである。
然るに清朝の末年から革命の勃発当時に於て悪辣なる袁世凱の外交方策により、日支国交に越ゆべからざる溝渠が穿たれた。彼は日本の満洲経営に対する列国の猜忌に投じて、巧みに遠交近攻の術策を弄して、自己の地位を固めんと図った。これがためには努めて親日分子を排除して、代えるに親米分子の登用を以てした。
当時革命党の勢力次第に勃興し、その主力中には日本留学生出身と共に、米国系の人物も少なからずあったのである。殊に米国系統の新進が外交部の要部を占むるに至って、排日親米の気運を助長することになった。それに何と言っても支那は国権を維持するだけの実力を持っていないのであるから、兎角、以夷制夷の策略を以て当面を糊塗する慣習を捨てないのである。ここに欧州戦によって日本が一時的ながらも未曾有の成金国となって、他の列強が支那を顧みるにいとまなき間に、参戦借款を始め種々の政治借款を一手に引受けることとなったのであるから、支那からいわすれば、日本はその財力を以てどこまで支那を圧迫し来るかも知れない恐るべき国だと思っても無理はなかったのである。そこに持って来て、1915年の日支二十一か条の交渉が始まり、さなきだに日本の禍心に疑惧の念を抱いていた支那側には、一層恐るべき侵略主義と映じて極力これが否認に努めたのである。
元来日本の要求は、日本としては山東問題の善後処分を図り、兼ねて従来の日支懸案を一掃し、日支両国の親善関係を増進し、東洋永遠の平和を根本的に保持せんとする、已むを得ぬ要求であったが、既に其の以前に於て青島税関に対して慣例を顧みず、日本の意向を無視し、ほしいままに税関官吏を任命したばかりでなく、その交渉中またまた交戦区域の撤廃を声明し、日本の即時撤兵を要求するなど、頗る不穏当なる態度を示して居ったので、已むを得ざる行きがかりもあって同年一月十八日駐支公使日置益をして支那政府に要求せしめたのである。・・・・
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2008年01月08日
支那外交上の四期
支那をめぐる日英米1
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は義和団事件で北京大使館に篭城した日本人

引用開始
日清戦争後義和団事件が支那に発生して、北京(北平)に於ける公使館区域は団匪の襲撃に会った。・・・然し列国聯合軍が北京を占領してから、支那との間にいわゆる団匪事件議定書なるものを作成して、ここに支那の国際関係の上に、一つの紀元を作った。その後日露戦争により東洋の気運も漸く一変することとなり野郎自大の支那人もまた漸く覚醒して、泰西文化の輸入が国内の大勢となり、或は憲政の準備、法典の編纂等、範を我が国の学者識者の招聘されるものが少なからずあった。実際支那人の国際観念はこの時節から涵養されたものといってもいいのである。
先年パリ講和会議に於て支那全権たちが・・・・その引用せる国際法論には我儘勝手の我田引水論が多かったに拘らず、・・・・これと同時に支那は欧米外交界の悪流行たるプロパガンダを多分に見習い、山東問題をかって、極力排日宣伝に努め、無実無根の事柄を捏造して日本の信用を毀損せんと計った。
たとえ其の行動が露骨劣悪なるものであっても、当時排日の気勢熾烈なる米国内では、この支那人の 排日宣伝、朝鮮亡命者の独立宣伝、在東洋米官吏伝道師商人の排日運動が二重三重に重なり合って放送されたのであるから、日本の真意は根底より誤解せられて、爾後の国交に頗る迷惑を与えたのである。
支那が完全な独立と、確固たる統制と着実なる発達をすることは、善隣の日本として最も希望する所であるが、徒に以夷制夷、遠交近攻等の弱国的術数を以て他国の排擠に努め、これを以て自国の向上手段かの如く考えて居る間は、何時までたっても東洋のバルガンたるの地位を免れることができないのである。・・・・濫りに旧来の陋習に囚われ、露国の事例に倣って、国際条約を勝手に破壊し国際間の信義を無視するを以て能事とするような態度は、中華民国として甚だ採らざる所である。・・・・・私は支那外交史の変遷を四期に分けて考えて見たいと思うのである。
第一は阿片戦争以後、第二は日清戦争以後、第三は日露戦争以後、第四は世界戦争以後である。・・・・
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今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は義和団事件で北京大使館に篭城した日本人

引用開始
日清戦争後義和団事件が支那に発生して、北京(北平)に於ける公使館区域は団匪の襲撃に会った。・・・然し列国聯合軍が北京を占領してから、支那との間にいわゆる団匪事件議定書なるものを作成して、ここに支那の国際関係の上に、一つの紀元を作った。その後日露戦争により東洋の気運も漸く一変することとなり野郎自大の支那人もまた漸く覚醒して、泰西文化の輸入が国内の大勢となり、或は憲政の準備、法典の編纂等、範を我が国の学者識者の招聘されるものが少なからずあった。実際支那人の国際観念はこの時節から涵養されたものといってもいいのである。
先年パリ講和会議に於て支那全権たちが・・・・その引用せる国際法論には我儘勝手の我田引水論が多かったに拘らず、・・・・これと同時に支那は欧米外交界の悪流行たるプロパガンダを多分に見習い、山東問題をかって、極力排日宣伝に努め、無実無根の事柄を捏造して日本の信用を毀損せんと計った。
たとえ其の行動が露骨劣悪なるものであっても、当時排日の気勢熾烈なる米国内では、この支那人の 排日宣伝、朝鮮亡命者の独立宣伝、在東洋米官吏伝道師商人の排日運動が二重三重に重なり合って放送されたのであるから、日本の真意は根底より誤解せられて、爾後の国交に頗る迷惑を与えたのである。
支那が完全な独立と、確固たる統制と着実なる発達をすることは、善隣の日本として最も希望する所であるが、徒に以夷制夷、遠交近攻等の弱国的術数を以て他国の排擠に努め、これを以て自国の向上手段かの如く考えて居る間は、何時までたっても東洋のバルガンたるの地位を免れることができないのである。・・・・濫りに旧来の陋習に囚われ、露国の事例に倣って、国際条約を勝手に破壊し国際間の信義を無視するを以て能事とするような態度は、中華民国として甚だ採らざる所である。・・・・・私は支那外交史の変遷を四期に分けて考えて見たいと思うのである。
第一は阿片戦争以後、第二は日清戦争以後、第三は日露戦争以後、第四は世界戦争以後である。・・・・
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2008年01月07日
シベリア出兵
新年おめでとうございます。旧年中はコメント等により色々ご教示頂き有難うございました。
本年もどうぞよろしくお願い致します。
日米抗争の史実7
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はこの本の中表紙です

引用開始
彼等米人の鉄道政策は、鉄道そのものの利益ばかりではなく、その延長区域の富源を吸収することであることは勿論である。この意味に於て彼らが支那に眼を付けるのは無論であるが、またシベリアの富源に多くの関心を払うのも自然の数でなければならぬ。・・・
1917年(大正六年)聨合国側の露国に革命が起ったが、何分にも資金と物資の欠乏で戦争の継続もむつかしくなってきたので、露国は大戦のために、さなきだに不完全なるシベリア鉄道を、根本より破滅せんとするまでに酷使したのである。・・・・
この時期こそ米国にとっては、多年の宿望を達すべき最好の機会であるから、同国政府は早速前国務卿ルートを特使として、ケレンスキー政府を訪問せしめ、革命政府と親交を結ぶと同時にシベリア鉄道修理問題を交渉させた。これが1918年の春のことである。ルートは十二分の成功を収めて帰国し、直ちに多量の鉄道材料をシベリアに送り、別に鉄道技師スチーブンスに率いられた三百名の鉄道技術団員を派遣したが、不幸にも彼らが我が長崎に到着した頃には、折角鉄道修理を約したケレンスキー政府は倒れて、露国の天下は過激派の横行闊歩する所となり、米国の一大特権は、ここに頓挫の止むなきに至った。・・・・
この時我が国ではシベリア出兵の白熱的議論が行われて、今にも日本軍のシベリア上陸が実現せられんとする形勢を呈した。スチーブンスは遂に擾乱のシベリアに突進して、従業員を東清線の各要所に散布したのである。これ実に米国の技術上に於ける同線の占領を意味し、聨合出兵後に於ける共同管理の主人公たる運命を定めたものである。・・・・
最近に於ては、ほとんど攻守同盟に近き日露協商まで出来上がった。米国が水を注せば注すほど日露は親しくなって行った。さすがの米国も手の下しようがなかった時に、露国の革命が突発して反政府方の天下となったのである。どうして米国はこの機会を逃そう、先ず同情を売り成功を祝してその感情を和らげ、一億ドルの貸与を約して実物の援助を示し、かくして米露親善の端緒を開いて、日本を孤立に陥れ、露支両国に於て自分に都合よき政策を行わんとするの方便とした。さればこそ、ロシヤがレーニンの手に落ちシベリアが乱れると、必然の順序として米国のシベリア干渉が始まって来たのである。
而もシベリア出兵は我が国のいわゆる自主的出兵説に端緒を発したのであるが、これが実行に先立ち我が政府はこれを英米仏に提議した。英仏はこれに賛成したが、米国は日本から来るの故を以てこの提議を刎ね付けた。当時米国はケレンスキー政府時代に於て、シベリア鉄道の経営を約し、既にその従業員まで派遣していた時である。且一面に於ては露国の民主政体となることに同情を表し、あまつさえ過激派との了解の下にシベリア鉄道の経営に着手せんとした時である。故にこの際日本のシベリア出兵は米国の企画に大なる齟齬を来さしむるものであるから、日本の提議に対し『出兵は露国内政の干渉である』と称してこれに賛同しなかった。・・・・
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本年もどうぞよろしくお願い致します。
日米抗争の史実7
今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はこの本の中表紙です

引用開始
彼等米人の鉄道政策は、鉄道そのものの利益ばかりではなく、その延長区域の富源を吸収することであることは勿論である。この意味に於て彼らが支那に眼を付けるのは無論であるが、またシベリアの富源に多くの関心を払うのも自然の数でなければならぬ。・・・
1917年(大正六年)聨合国側の露国に革命が起ったが、何分にも資金と物資の欠乏で戦争の継続もむつかしくなってきたので、露国は大戦のために、さなきだに不完全なるシベリア鉄道を、根本より破滅せんとするまでに酷使したのである。・・・・
この時期こそ米国にとっては、多年の宿望を達すべき最好の機会であるから、同国政府は早速前国務卿ルートを特使として、ケレンスキー政府を訪問せしめ、革命政府と親交を結ぶと同時にシベリア鉄道修理問題を交渉させた。これが1918年の春のことである。ルートは十二分の成功を収めて帰国し、直ちに多量の鉄道材料をシベリアに送り、別に鉄道技師スチーブンスに率いられた三百名の鉄道技術団員を派遣したが、不幸にも彼らが我が長崎に到着した頃には、折角鉄道修理を約したケレンスキー政府は倒れて、露国の天下は過激派の横行闊歩する所となり、米国の一大特権は、ここに頓挫の止むなきに至った。・・・・
この時我が国ではシベリア出兵の白熱的議論が行われて、今にも日本軍のシベリア上陸が実現せられんとする形勢を呈した。スチーブンスは遂に擾乱のシベリアに突進して、従業員を東清線の各要所に散布したのである。これ実に米国の技術上に於ける同線の占領を意味し、聨合出兵後に於ける共同管理の主人公たる運命を定めたものである。・・・・
最近に於ては、ほとんど攻守同盟に近き日露協商まで出来上がった。米国が水を注せば注すほど日露は親しくなって行った。さすがの米国も手の下しようがなかった時に、露国の革命が突発して反政府方の天下となったのである。どうして米国はこの機会を逃そう、先ず同情を売り成功を祝してその感情を和らげ、一億ドルの貸与を約して実物の援助を示し、かくして米露親善の端緒を開いて、日本を孤立に陥れ、露支両国に於て自分に都合よき政策を行わんとするの方便とした。さればこそ、ロシヤがレーニンの手に落ちシベリアが乱れると、必然の順序として米国のシベリア干渉が始まって来たのである。
而もシベリア出兵は我が国のいわゆる自主的出兵説に端緒を発したのであるが、これが実行に先立ち我が政府はこれを英米仏に提議した。英仏はこれに賛成したが、米国は日本から来るの故を以てこの提議を刎ね付けた。当時米国はケレンスキー政府時代に於て、シベリア鉄道の経営を約し、既にその従業員まで派遣していた時である。且一面に於ては露国の民主政体となることに同情を表し、あまつさえ過激派との了解の下にシベリア鉄道の経営に着手せんとした時である。故にこの際日本のシベリア出兵は米国の企画に大なる齟齬を来さしむるものであるから、日本の提議に対し『出兵は露国内政の干渉である』と称してこれに賛同しなかった。・・・・
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