2006年11月05日

中国人従業員が暴行

≪上海立ち退き対象日系企業≫
立ち退きを命じられた日本企業4社のうち愛知県の衣服加工業者の場合、従業員60人のうち約30人が仲間とともに退職金増額を要求して3日間にわたって工場で暴れ回っており、日本人管理者が殴る蹴るの暴行を受ける騒ぎになっている。現場の公安警察員は遠巻きに傍観しているだけだったという。

また産経だけですか?

http://www.sankei.co.jp/news/061105/kok000.htm
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2006年10月21日

中国市場の甘い罠

 続いてジェームズ・キング著『中国が世界をメチャクチャにする』の本文の一部を紹介して見ます。
 英国人ジェームズ・キング氏は、2005年まで英国の日刊紙『フィナンシャル・タイムズ』の北京市局長でした。

引用開始
※伝説の「10億人市場」の甘い罠
 ・・・・非凡な創業者である尹明善の偉業について、聞けば聞くほど、ケーススタディのように思えてきた。中国のメーカーはよく海外の競争相手の三分の一か、40パーセントか、もっと安くした価格を実現しているが、それはどうやっているのか。
・・・・・(自転車の)次に流行するとしたらオートバイだろう。日本で工業が飛躍しだした黎明期にそうだったように。1992年に本の倉庫を売却して得た一万五千ドルで<重慶轟達(ホンダ)(Hongda)車両部品研究所>を設立した。社員は妻と息子を含めて八人だった。

 社名の「Hongda」という言葉はスペルミスではなかった。意思の表明だった。尹は世界一の企業をめざしたのだ。<ホンダ>や<ヤマハ>といった日本の大企業を中国市場から追いはらうことで、その成功にあやかりたかった
・・・略・・・
<ホンダ>も<ヤマハ>も中国で売れに売れて、評判とステータスを得ていた。尹はこれしかないと思った道を選んだ。デザインをまねし、技術を盗んだのだ。

 このころ、<ヤマハ>と<建設工業>がライセンス契約を結んでいたから、この日本製エンジンが地元で手に入るようになっていた。・・・・
 ライセンス契約の一環として、地元で開業された修理店には<ヤマハ>の交換部品と欠陥修理のノウハウがそろっていた。尹はその店に行って部品を買い、そこで働く修理工からヒントを仕入れた。分解し模倣しての数カ月で、<ヤマハ>のエンジンの複製品ができた
・・・略・・・
 だが現実には、日本人にできることは少なかった。政府からの制約で、<ヤマハ>や<三菱>や<ホンダ>は自社工場を勝手に建てられなかっ
た。
 政府の選んだ国有企業とジョイントベンチャーを設立しなければならず、巨大な潜在マーケットへの参入料として、パートナーに技術を移管しなければならないと命じられた。かてて加えて、自社マーケティングや納入業者のネットワークに対し、ゆるい管理しか認められなかった。

 しかし、十億の中国人が自転車をオートバイに乗り替える魅力は、懸念にまさったようだ。<ヤマハ>は首までどっぷりつかった。<建設工業>と条件が五分五分のジョイントベンチャーを設立した。
・・・略・・・
 工場はテクノロジーの秘密をざるのように漏らした。慎重で忠実であるべき部品の下請け業者は、あいにく裏で偽造業者へどんどん部品を売っぱらっていた。<ヤマハ>はこの問題がいかに深刻かをしっかり把握しきれないままに、1995年、何年もの準備期間を経て、同社の最重要モデル、四サイクル100ccの「勁豹(ジンパオ)」を発売した。
 そこで恐ろしいことが明らかになった。発売から数カ月のうちに中国全土の36の工場で、そっくりの模造品が生産されたのだ。最悪だったのは、コピー製品がほとんど本物と変わらないのに、一台6000元程度で売られていたことだ。これに対し<建設ヤマハ>社は「勁豹」に18000元の値をつけていた。
・・・略・・・
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posted by 小楠 at 07:43| Comment(12) | TrackBack(4) | 書棚の中の中国

2006年10月20日

中国、世界の工場

 ジェームズ・キング著『中国が世界をメチャクチャにする』から、紹介して見ます。前書きは鳥居民氏によるものです。
 英国人ジェームズ・キング氏は、2005年まで英国の日刊紙『フィナンシャル・タイムズ』の北京市局長でした。
king.jpg

引用開始(ここは鳥居氏の前書き部分です)
 ・・・・毛沢東亡きあとの中国は「世界の工場」に変わってしまった。毛沢東思想は世界を征服することはできなかったが、中国の「世界の工場」はこの二十数年のあいだに世界に計り知れない大きな影響をひろげている。「世界の工場」の製品を世界にあふれさせ、「世界の工場」を稼動させていくために世界中から資源を買いあさり、それまでにあったそれぞれの国の社会、経済秩序を破壊し、「世界をメチャクチャ」にしてしまった。その作法と態度はそのまま国内に向けての態度、作法でもあったから、中国自体も「メチャクチャ」にしてしまっている。どのようにメチャクチャになったかを、われわれに明らかにしてくれるのが、ジェームズ・キング氏のこの著書である。
・・・略・・・

 町に中国からの輸入品が氾濫し、企業が中国に工場を移転し、地元の工場が閉鎖されたことはわれわれの誰もが承知している。だが、二百年にわたって操業を続けたドイツのルール地方にあった製鋼所の運命、かつて精密工作機械製造の一大拠点であったアメリカ中西部のロックフォードの運命について、キング氏が語るのを聞けば、われわれは改めて大きく嘆息し考えこむことになる。

 キング氏はまたプラートについても語る。プラートはイタリア北部にある七百年の歴史を持った織物生産の町であり、日本のアパレル業界の人には馴染みの深い町である。かつては七千の繊維工場があり、イタリア有数の繊維工業の中心地だった。
 人口は十八万、ところが、そのうちの九分の一の二万人は中国人なのである。ニューヨーク、ブタペスト、ウランバートル、世界じゅう、どこの町も同じこと、プラートの町に中国人があふれるようになったのは、このわずか二十年のあいだのことである。
 ほかの都市と同じように、プラートの中国人の多くも不法入国者である。人の嫌がる仕事をしていたかれらのなかから起業家が続出した。そしてプラートの企業は、中国浙江省の温州の工場を下請けに利用するようになった。続いてプラートは温州と姉妹都市ともなった。

 やがてプラートの製品とそっくりな温州の安価な製品が世界じゅうに売られるようになり、プラートの歴史ある繊維工場は次から次と閉鎖することになる。この過程をキング氏は詳細に描いている。
 さて、中国は「世界の工場」を稼動させていくために世界じゅうから資源を買いあさることになったのだが、その方法は粗っぽいの一語につきる。
 自分さえよければという態度だ。キング氏はスーダンの例を挙げる。大虐殺を繰り返し、アメリカをはじめ、世界じゅうから非難されているスーダンの専制政権に対し、中国は武器を与え、兵器工場を作ってやり、代わりに油田の採掘権を得ている。

このほか、人権抑圧を非難されているジンバブエ、ガボン、コンゴ、ルワンダといった独裁国の指導者に対しても、支持を与え、武器を供与することによって、石油、鉱物資源の採掘権を獲得している。
・・・略・・・
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2006年10月19日

靖国神社と胡錦濤

 最近出版された、元上海総領事の杉本信行氏著「大地の咆哮」の中に、胡錦濤の「靖国神社シンドローム」という節があります。
 先日の安倍訪中時に見せた胡錦濤の友好ムードと、徹底した反日政策で共産党支配を維持しようとした江沢民の上海一派の排除に動き出したことなどと関連して、上記の一節を、それを含む第四章の抜粋とともに引用して見ます。
kokinto.jpg

引用開始
【最高の親日派だった胡耀邦】
 胡耀邦総書記の親日ぶりは広く知られるところで、当時の日本大使が一週間に数度も胡耀邦総書記と会う機会を持ったのはその証左であり、日中の蜜月ぶりは、北京赴任直後の私の目にもしっかりと焼きついていた。
 胡耀邦総書記がいかに親日派であったかの象徴的な例をいくつか挙げてみる。まず、強烈に脳裏に焼きついているのは、胡耀邦が鹿取泰衛大使の招きを受けて大使公邸を訪ねてきたことで、これは前代未聞の出来事であった。その返礼として、中南海の胡耀邦総書記の執務室に大使館員全員が招かれた。バイキング形式の豪華な食事が用意されて、当時北京では食べられないような日本料理まで揃えてあった。

 当時は日本から政財界人の訪中が相次いだが、北京大使館側が面会を要請するたびに胡耀邦総書記は常に快諾した。中国共産党の事実上のナンバーワンがそうした対応を見せるのはまさしく例外中の例外で、他国大使館では考えられないことであった。・・・・略・・・・

【鶴の一声で日本人学校が誕生】
 胡耀邦総書記の日本贔屓は、山崎豊子の「大地の子」にも反映している。作品中、中国の田舎の様子がきわめてリアルなのは、胡耀邦が山崎の取材を特別に許可したからで、そうでなければ絶対に書けなかったであろう描写である。だが、あまりにもリアルすぎて、『大地の子』は中国では発禁本となり、テレビドラマも放映禁止となった。

 その山崎豊子には、胡耀邦の前で「カニの横ばい」の真似をしたという逸話がのこされている。
 日本企業の第一次中国進出ブームにより急速に駐在員が増加、それにつれて北京の日本人学校に通う子弟も増加し、手狭になった学校をどうするかが深刻な問題として浮上した。当時の中国は、国内での外国人学校の運営を認めなかったため、窮余の策として、「不可侵権」を認めた外交使節団の公館たる大使公邸の中の一棟に学校を開設していた。
 最初は15人ぐらいから始めた教室が150人まで膨れ上がり、教師は、生徒の机と背中の黒板の間をカニのように横ばいに歩かなければならなかった。実際にそんな大変な状況にあった日本人学校を見た山崎豊子が、胡耀邦の前でカニの横ばいを実演すると、「なんとかしよう」と本当に胡耀邦が動いてくれたのである。

 胡耀邦の「鶴の一声」で、地元小学校の校庭の真ん中にベルリンの壁のようなものがつくられ、その半分が日本人学校用に手配され、大使館外に初めて外国人学校が建てられることになった。おそらく、当時、北京で暮らす日本人で、そこまでしてくれた胡耀邦に好意を抱かない者はいなかったはずである。
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2006年07月04日

リリー大使と天安門事件2

 「チャイナハンズ」 ジェームズ・R・リリー著
 著者はCIA(米中央情報局)工作員を振り出しに、最後に駐中国大使として外交官のキャリアを登りつめるまで、日本、台湾、香港、フィリピン、カンボジア、ラオス、タイ、韓国、中国など十以上の国・地域を舞台に活躍した。

 引用開始
 方励之の米国大使館への逃げ込み事件はスパイ小説を地で行く展開で、方自身にとっても危うい綱渡りだった。六月五日、方励之夫妻は米国大使館に出向き、庇護を求めた。彼は中国政府のブラックリストのトップに載っており、マッキニー・ラッセルと副大使代行のレイ・バーガートに安全が脅かされていると訴えた。二人の外交官は方夫妻と三時間にわたって協議する中で、差し迫った生命の危険がなければ、政治亡命は認められないので、亡命申請者は自主的に大使館から退去し、自分で他の手段を探さなければならない、とする国務省のガイドラインを説明した。方励之はそのとおりにした。
 方とその家族はとりあえず、米国人ジャーナリストが使っていた建国飯店の一室に身を隠した。ラッセルは部屋のナンバーを確認した後、ワシントンにそれまでの経緯を報告した。数時間後に国務省中国デスクの高官が緊急電文を打ち返してきた。その内容は「方とその家族を至急、大使館内に保護せよ」だった。
・・・略・・・
 天安門事件後の数週間、私たちが目にし、耳にしたものは、中国指導部とその巨大な宣伝機関による歴史の書き換え作業だった。記者会見や統制メディアで表明された政府の公式見解は、軍の方が民衆より多くの被害を受けたというものだった。それは、人民解放軍の火力、兵力、装甲車両が広場にいた無防備な人々を圧倒していた事実からしても怪しい主張だった。「反革命暴乱」を平定した軍の実力行使を賛美するため、市内のすべての学校で生徒たちが兵士たちを褒め称える手紙を書いて、送るように命じられた。当局は生徒の親たちに「英雄的な部隊」のために贈り物を買うように促した。
・・・略・・・
 北京を離れた中国人の大学教授が六月中旬に、元北京在住の米国人同僚に送った手紙に最も辛辣に反映されていた。「中国では、無知であれば、幸福に生きることができる。しかし、事実を知れば知るほど、痛みを感じる。私たちは息苦しい。この手紙を書きながら、私は涙を流している。虐殺事件後の北京の天気は曇りか雨の日ばかりだ。天も悲しんでいるようだ」
 中国全土で展開された反政府分子の摘発と、神経を麻痺させる容赦なき宣伝キャンペーンによって、中国の民衆は恐怖に支配されていた。途切れることのない宣伝は、天安門虐殺事件の記録を曖昧なものにする狙いがあったが、北京では特に、事件は市民の心に深く刻み込まれていた。中国人が外国メディアや北京在住の外国人とほとんど接触できなかった文革の混乱期とは異なり、一九八九年の北京市民は、事件を目撃した外国人に連帯感を抱いていた。「米国が煽るブルジョア自由主義」とか「米国が後押しする反革命分子」という中国当局の非難は、虚偽の観念を増幅させることにあった。しかし、天安門広場での体験を共有したことが、外国人と中国人のあいだに絆を生んだと私は信じている。
・・・略・・・
 中国市民と在留米国人の連帯感は、天安門事件の遺産である。 武力鎮圧を体験した者は、中国人であれ、外国人であれ、事件を簡単に忘れることはない。「六・四」事件が歴史の忘却の淵に沈んでしまうことはないだろう」
 ・・・略・・・
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2006年07月03日

リリー大使と天安門事件1

 「チャイナハンズ」 ジェームズ・R・リリー著
 著者はCIA(米中央情報局)工作員を振り出しに、最後に駐中国大使として外交官のキャリアを登りつめるまで、日本、台湾、香港、フィリピン、カンボジア、ラオス、タイ、韓国、中国など十以上の国・地域を舞台に活躍した。
 この本の中から、リリー氏が中国大使として赴任し、天安門事件に遭遇した時の部分を紹介してみましょう。
chainahands.jpg
引用開始
 ジム・ハスキーは、アジア研究で博士号を取り、中国語をマスターしたのち、三十九歳で外交畑に転じたという大使館員きっての変わり種だった。
・・・略・・・
 ハスキーは数週間前から天安門広場の常連となっていた。政治部員のドン・ヤマモトと組んで深夜零時から午前六時の警戒シフトを担当した。
・・・略・・・
 日付が六月三日から四日に切り替わる真夜中、長安街の西方を眺めていたハスキーは、立ち上る煙の中を、バリケードを突破して向かってくる戦車を目撃した。高まる銃声が響く方向をめざして民衆が突入する陰鬱なシーンが夜明けまで何度も繰り返された。まるで人々が自らの意志の力で銃と戦車を圧倒できると信じているかのようだった。あるいは彼らは、こみ上げる怒りで危険に盲目になっていたのかもしれない。
 戦車と装甲車の一隊がヘッドライトを闇に突き刺すように突っ込んできて、広場での路上に築き上げられたバリケードを次々と粉砕した。ハスキーは、近くにいた人々が倒れるのを見て、一瞬、なぜ彼らが路上の石につまずくのかと思ったが、彼らが再び立ち上がろうとしないので、弾丸に当たって倒れたのだと悟った。ハスキーは群集とともに広場の東側に避難した。
 ハスキーは隣の若者と、解放軍が実弾発砲をしていることについて言葉を交わした。さらに話そうとして彼のほうに向き直って見ると、若者の額にぽっかりと赤い穴が開き、弾丸が頭部を貫通して、彼は路面に倒れた。ハスキーは長安街の街路樹に身を隠し、呼吸を整えた。戦車と装甲車の隊列が広場の北西の端で停止するのが見えた。
・・・略・・・
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2006年07月01日

大嘘の南京事件2

 陥落が迫った南京では、一般民衆保護のため、在留外国人たちにより安全区を設定し、非武装地帯とすることで日本軍の攻撃から一般人を守ることとしましたが、外国人委員たちとの約束に反して、中国軍兵は武装の撤去どころか、武器を隠し持った兵自身が軍服を脱ぎ捨てて、安全区に紛れ込むという非常に危険な状態としてしまいました。そのため日本軍にはまず便衣兵(便衣は日常服の意)と市民の選別が重要な仕事となったのです。
またこちらの「極東国際軍事裁判」のページもご覧下さい。

「南京事件」(国民党極秘文書から読み解く)東中野修道著より
 引用開始
 一九三七年(昭和十二年)十一月十二日、蒋介石は南京死守を決定したものの、十六日には南京放棄をひそかに決定し、全官庁の撤退を命じた。蒋介石はそれから南京に二十日間とどまったのち、ひそかに飛行機で逃亡した。それが南京陥落六日前の十二月七日であった。
 十一月十七日、南京放棄決定の翌日、非戦闘員のための安全地帯を作る目的で、南京にいた欧米人が国際委員会を結成した。・・・略・・・
 そのメンバーは時期によって多少の異同があるにせよ、アメリカ人六名、ドイツ人四名、イギリス人五名、デンマーク人一名であった。
 十一月二十二日、国際委員会の代表にジョン・ラーベ氏が推された。
・・・略・・・
 ラーベ委員長は日本に安全地帯を承認してもらうため、アメリカ大使館の無線を経由して上海の日本領事館に電報を打った。その内容をラーベ委員長の十一月二十二日の日記から引用する。
 「国際委員会は、次の点を国民政府に保証してもらうことを約束する。
 @軍事交通局を含むあらゆる軍事施設を安全地帯から撤退させ、非武装地帯とし、ピストルを装備した民団警官のみを置く。また、その場合、
 Aすべての兵士及びあらゆる身分階級の仕官の立ち入りが禁止される
。国際委員会は、これらが遵守され、滞りなく遂行されるよう配慮する。
・・・略・・・」
 国際委員会は、すぐにも安全地帯から兵士や軍事施設を撤去するよう中国軍に要求し、国民政府側も軍事施設などの撤去を約束している。ところが、その約束が実行されないばかりか、逆に軍事施設が拡充されるという憂うべき事態が進行していった。「ラーベ日記」から引用してみよう。
 「十二月三日。防衛軍の責任者である唐が、軍関係者や軍事施設をすべて撤退させると約束した。それなのに、安全地帯の三ヶ所に新たな塹壕や高射砲台を配置する場が設けられている
 「十二月四日。・・・・兵士たちは引き揚げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係の電話を引いている有様だ」・・・略・・・
 南京陥落直前の「ラーベ日記」を見てみよう。
 「十二月十一日、八時。・・・・いまだに武装した兵士たちが居すわっているのだから。いくら追い出そうとしても無駄だった。これでは、安全地帯は非武装だと日本軍に知らせたくともできないじゃないか」
 「十二月十二日。・・・・これでは安全地帯から軍隊を追い出すことなど、とうてい無理だ」
・・・略・・・
 この中国軍の非協力的態度を、すべての南京の欧米人が、ラーベ委員長と同じく気にしていたと思われるであろう。しかし、実はそうではなかった。
 国際委員会のメンバーだったジョージ・フィッチ師は、匿名で『戦争とは何か』に執筆した際、実際とは逆のことを書いていた。「唐将軍は首都防衛の任を帯び、安全地帯から軍隊と高射砲を一掃するという非常に困難な仕事に、概して非常によく協力してくれました。それで、十二日の日曜日に日本人が入城を開始する直前までは、称賛すべきほどの秩序が維持されていました」
 南京にいたダーディン記者も、十二月八日南京発の『ニューヨーク・タイムズ』に、「本日、高射砲一個中隊と多数の軍事機関が安全地帯から退去した。同地帯の非軍事化の約束を実行しょうという中国軍の意志を、一層はっきりと示すものであろう」と書いている。
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2006年06月30日

大嘘の南京事件1

 中国の大嘘、“南京大虐殺”が未だに教科書にまで記述されている日本。
本来は政府が真実を徹底調査してしかるべきことでありますが、政治家にも官僚にも全くそのような姿勢が見えてきません。そのような中で、多くの真摯な研究がなされていますが、今回は最近になって出版された
「南京事件」(国民党極秘文書から読み解く)東中野修道著より一部引用してみます。
またこちらの「極東国際軍事裁判」のページもご覧下さい。
nankin3.jpg

引用開始
  ・・・・略・・・東京裁判から四半世紀あまりのちの昭和四十七年(1972)、日中国交回復の年に、本多勝一『中国の旅』が出版されたことである。これは朝日新聞記者の本多氏が前年に中国に行って取材し、「中国の旅」と題して同紙に連載した記事をまとめたもので、ベストセラーとなって大きな反響を呼んだ。・・・略・・・
 それから一年後の昭和四十八年(1973)に、大虐殺はあったのだと主張する人々によって英語版の『戦争とは何か、中国における日本軍の暴虐』が発掘され、大虐殺の根拠として提示される。
 この本は上海にいた英国の『マンチェスター・ガーディアン』紙中国特派員ハロルド・ティンパーリ記者が南京在住の欧米人(匿名)の原稿を編集して、昭和十三年(1938)七月にニューヨークやロンドンで出版したものであった。戦争の悲惨さを訴えるとした趣旨のもと、日中戦争、とりわけ南京の日本軍の暴行を取り上げたという構成になっていた。まさに第三者的立場の欧米人が、独自に出版した本と読者の目には映った。
  ・・・略・・・この『戦争とは何か』の評価が一躍高まったのは、その後になって匿名の執筆者がマイナー・ベイツ教授と宣教師のジョージ・フィッチ師であると判明したことからであった。・・・略・・・
 戦後出版された『曽虚白自伝』には、中央宣伝部がティンパーリ記者に「お金を使って頼んで、本を書いてもらい、それを印刷して出版」したという曽虚白(南京大学教授、のちに中央宣伝部国際宣伝処処長)の証言が記されている。
 さらに次のことも判明した。『戦争とは何か』に執筆し、東京裁判でも証言していたベイツ教授は、実は中華民国政府の「顧問」であった。もう一人の執筆者ジョージ・フィッチ師も、『チャイナ・マンスリー』一九四〇年一月号の『編集者ノート』によれば、彼の妻が蒋介石夫人の宋美齢と「親友」の間柄であった。彼らはいずれも国民党政府と何らかの関係にあり、『戦争とは何か』は第三者的立場の人たちが独自に出版した本ではなかった。
 ここでいよいよ、『戦争とは何か』は中央宣伝部の「宣伝本」ではなかったのかという疑惑が浮上してきたのである。・・・略・・・
 探し求めていた中央宣伝部の史料は、台北の国民党党史館に眠っていた。
・・・略・・・
 それは極秘文書中の「対敵課工作概況」のなかの「(一)対敵宣伝本の編集製作」の「1,単行本」によってついに判明した。
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2006年06月29日

昭和二年の南京事件

「もうひとつの南京事件」(日本人遭難者の記録)田中秀雄著
nankin2.jpg
 最後にある解題と解説によれば、
 以下引用
 この本は、昭和二年八月に刊行された『南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記』の内容をそのまま翻刻したものである。
 読んでいただければお分かりのように、『南京漢口事件真相』は昭和二年の三月から四月にかけて、中国の南京、漢口を中心とした揚子江流域各地で起きた、中国軍兵及び中国民間人による日本人襲撃事件の実相を証言や公文書を用いて臨場感鮮やかに再現したものである。普通これを「南京事件」と呼んでいる。
解題と解説の引用終わり。
 この時には日本人だけでなく、欧米の現地居留民も同じく残虐な被害を被っています。(例として本書にある南京須藤医院長須藤理助氏の講演内容に、「フランス学校男教師二名が殺害された上、その一名は陰毛を焼かれ、かつ右大腿部を切断された」とあります)これにつきましては以前に掲載しました、ラルフ・タウンゼント著の「暗黒大陸中国の真実」の「本当にあった1926年の南京虐殺」もご参照下さい。

本文より一部引用してみます。
引用開始
 ・・・略・・・三月二十三日には城内は一層の混乱に陥り、総司令以下支那官憲の全部は逃亡し、城の内外にあった軍隊も、午後から夜にかけて下関浦口方面に潰走し、銃砲のとどろき、兵馬の波は満街を埋め、難を避けて逃げまどう市民の叫喚も混じりて、凄愴の気は全城を包んだ。
 南京在留の邦人側においては、連合軍敗北の際における掠奪暴行を予想し、二十二日城内にある邦人婦女子だけを領事館に避難せしめたが、混乱いよいよ甚だしきに及び、市中に散在していた人々も続々避難し来り、二十三日午後八時頃までには、下関方面の在住者と市内の二十三名を除く外全部の引揚げを了し、領事官舎十五名、本館三十八名、警察官舎二十名、書記生室十九名、署長官舎十名という振当てでそれぞれ収容した。・・・略・・・
 邦人一同は、二十四日の黎明を迎えて救われたような思いに充たされた。不思議にも連合軍の退却は思いの外に平穏に過ぎた。・・・略・・・
 無心の子供は嬉々として床を出でた。婦女子たちはかいがいしく朝餉の支度に取掛かった。やがて六時過ぎとも思ぼしき頃、はるか遠くに嚠喨たるラッパの声が聞え、間もなく晴天白日旗を先頭にした一隊が、領事館前の鼓楼近くを前進するのが見えた。・・・略・・・
 館内の一同は、かねがね革命軍の規律正しいことを聞かされていたので、むしろ歓迎の目を以って領事館のベランダから眺めていたが、門口の土嚢の取除かれると前後して、いつの間に入り込んだか二三名の支那人がうろうろしていて、何かの合図でもしているようすですこぶる気味悪く感じられたが、或いはこれが言う所の革命軍特有の便衣隊なるものであったかもしれない。・・・略・・・
 それから半時間も経たと思う頃、約一個中隊の歩兵が将校指揮の下に正門から闖入し来り、折柄歩哨に立っていた西原丹等兵曹に向かってイキナリ銃剣を突きつけ、外套越しに突きまくった上、散々に打ちのめした。急を聞いて駆けつけた数名の水兵もたちどころに包囲せられ、これまた銃剣を突きつけて時計や財布など残らずもぎ取られてしまった。・・・略・・・
 その時露台に身をかわした根本少佐は横腹に一撃を見舞われ飛び降りようと身構えた所を無残にも銃剣を以って臀部を突き刺され露台から突き落とされた。鮮血に染まって下の貯水タンクの上に落ちた少佐は人事不省に陥った。
 その時室内にいた人たちには、領事夫妻、根元少佐、木村署長の外に、板阪民会長、山本訓導、綾野茂氏らがあったが、続けざまに十数発を乱射し、一同を威嚇した暴兵らは、「金を出せ」「金庫をあけろ」「出さねば皆殺すぞ」と口々に罵りつつ各人を捉えて所持品を奪い取り、衣服を剥がし、はては領事夫人にまで及んだ。
・・・略・・・
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2006年06月28日

義和団事件時の日記3

「ベルギー公使夫人の明治日記」エリアノーラ・メアリー・ダヌタン著
 最後に少し遡って、1893年[明治二十六年]10月2日から始まるこの日記の中から、1900年の義和団事件の頃の彼女の日記を見てみます。今回は事件の終結の頃を記しています。

 引用開始
 1900年[明治三十三年]7月31日
 次に記すのは北京駐在日本公使西徳ニ郎男爵の七月十九日付の報告書のコピーである。それは何か不思議な手段で送られ、二十五日に天津に到着した。
 「清国兵の絶え間ない攻撃に対して、我々は依然として防御を続けている。それは決してたやすい仕事ではないが、今月末に援軍が到着するまで、おそらく持ちこたえることができるだろう。清国軍は十七日以来発砲をやめている。清国の当局は交渉を開始しようと思っているらしい」・・・・

 1900年[明治三十三年]8月5日
 昼食のとき大きな地震があった。北京から再び悪いニュースがくる。北京駐在のアメリカ公使コンガー氏が七月三十一日付のメッセージを寄越して、弾薬がほとんど尽きかけているという。天津にあれだけの軍隊がいると思うと本当に腹立たしい。いまだに前進の可能性がないのだ。ベルツ氏が当地にきた。彼の話によると、サー・アーネスト・サトウが賜暇を切り上げて大至急帰ってくるという。

 1900年[明治三十三年]8月8日
 外交団が清国兵に護衛されて北京を離れることを断ったというニュースが届いた。

 1900年[明治三十三年]8月十日
 北京駐在日本公使の西男爵から八月四日付のメッセージが届いた。それによると事態は変わっていないが、天津へ護送するという清国の申し出を受けないとの決定に全員が賛成し、救援を待っているところだという。救援隊はやっと出発したが、途中で既に大きな戦闘があった。聞くところでは連合軍の千人の兵士が殺されたという。これは恐るべき割合である。

 1900年[明治三十三年]8月13日
 三宮夫妻と昼食をする。グラヴァー氏が中禅寺の渓流で釣った立派な鱒を三匹届けてくれたので、その中の二匹をティール家に分けてあげた。

 1900年[明治三十三年]8月15日
 連合軍は北京へ近づきつつある。私たちの不安はますますひどくなり、一体西洋人は生きて発見されるのか、既に虐殺されているのか、疑問に思っている。清国筋からくる色々な情報は全く信用できないので、私たちはみんな強い疑惑を抱いている。この事件のこと以外に何も話すことができず、考えることすらできない。
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2006年06月27日

義和団事件時の日記2

 「ベルギー公使夫人の明治日記」エリアノーラ・メアリー・ダヌタン著
 最後に少し遡って、1893年[明治二十六年]10月2日から始まるこの日記の中から、1900年の義和団事件の頃の彼女の日記を見てみましょう。

 引用開始
 1900年[明治三十三年]6月23日
 新任のロシア公使イズヴォルスキー氏とその夫人が来訪した。夫人は可愛い洒落た感じの人で、とても快活だった。天津が全焼し、外国人居留地の全員百五十人の西洋人が虐殺されたというニュースが届いた。この恐ろしいニュースは一体本当なのだろうか。

 1900年[明治三十三年]6月28日
 清国筋を通じて、外交団が二十四時間以内に北京から退去を命ぜられたというニュースを受け取る。どこへ行くのかは誰も知らないらしい。夜になって送られてきた他の電報によると、彼らは二十五日現在ではまだ無事で北京にいるという。どちらを信じたらよいのか?これらの電報は日本の外務省から直接アルベールに送られたものであるから、私たちはすぐにニュースを知ることができた。

 1900年[明治三十三年]7月2日
 恐ろしいニュースがもたらされた。ドイツ公使フォン・ケテラー男爵が先月十三日に総理衙門へ行く途中、清国兵によって殺されたというのだ。ある報道によると彼の遺体は総理衙門へ運びこまれたが、総理衙門も焼打ちに遭い、そのあと遺体は北京市中を引き回されたという。可哀そうな彼の若い妻!彼女のことを思うと心が痛む。夫を失った驚愕と悲劇を乗り切るのは彼女にとってどれほど辛いことだろうかと私は心の中で思った。

 1900年[明治三十三年]7月4日
 ドイツ皇帝が非常に好戦的な演説をした。彼はフォン・ケテラーの死に復讐することを誓い、ドイツの国旗が他の国の国旗と共に、北京の丘の上に翻る日までは決して気を休めないと言明している。・・・

 1900年[明治三十三年]7月7日
・・・・・日本は遂に二万人の軍隊を送るという話である。現在何も手のつけようがないし、もし彼らが既に虐殺されていないとしても、それは日にちの問題、あるいは時間の問題だということは誰もが思っている。清国軍は大砲を据え付けて英国公使館を砲撃している。ある電報によれば、公使館で火事が発生しているという。・・・・・
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2006年06月26日

義和団事件時の日記1

「ベルギー公使夫人の明治日記」エリアノーラ・メアリー・ダヌタン著
 最後に少し遡って、1893年[明治二十六年]10月2日から始まるこの日記の中から、1900年の義和団事件の頃の彼女の日記を見てみましょう。
 (注:「外国の悪魔を打倒せよ」という貼り紙が既に北京中に貼られていた。北京政府は近年急速にその勢力を増してきた排外的集団「義和団」と手を結び、外国人保護を主張する劉坤一、張之洞、李鴻章らの主張を抑えて西太后を動かし、1900年6月21日に列強に宣戦を布告させて、官軍と義和団は北京、天津を攻撃した。このため北京では、英米仏独その他各国の外交団と外国人居留者が五十五日間の籠城を余儀なくされたが、日本をはじめ各国の連合軍が、官軍と義和団を破り、8月14日に北京に入城し、各国の公使館員その他を救出した。北清事変ともいう。)
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 引用開始
 1900年[明治三十三年]5月25日
 公使館の書記官メイ氏が北京から戻ってきた。彼の話によると現地は非常に不穏な状態にあるという。

 1900年[明治三十三年]6月14日
 清国における事態はますます深刻になってきた。英国軍、ロシア軍およびフランス軍は、英国の提督サー・エドワード・シーモアの指揮の下に海兵隊を上陸させ、北京の公使館保護のため進軍している。技術者の一行が義和団によって殺害されたという噂があり、死者の中に四人のベルギー人がいるという。今や清国政府が暴徒に味方しているのは間違いないようだ。

 1900年[明治三十三年]6月16日
 北京の外交団の運命について重大な懸念がある。サー・E・シーモアの1400名から成る小部隊は、北京と天津の中間で、連絡を遮断されている。義和団が片側に、正規軍がもう一方の側にいて、十日以来北京から何のニュースもない。公使館が焼け落ちて、住人は命からがら逃げ出したというような、あらゆる種類の無責任な噂が飛び交っているが、信頼すべきニュースは入手できない。・・・・

 1900年[明治三十三年]6月17日
 ミサに行って、北京に閉じ込められている可哀そうな人たちのために、心を籠めてお祈りをした。北京は包囲状態で、いまだに何のニュースもない。各国の戦艦が救援に向かっているが、河を遡れるのは、喫水の浅い小型砲艦だけである。北京でドイツ公使が殺されたという電報が届いたが、それは信用できないし、他の恐ろしい色々な噂、例えば公使館が焼かれたという噂や、北京にいる外国の居住者が殺されたという噂も同様に信用ができない。
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2006年06月10日

毛沢東の最後

「毛沢東の私生活」(上下)李志綏(リ チスイ)著
李志綏は1920年生まれ。1954年より76年9月まで毛沢東の侍医兼医療班長をつとめ、毛沢東の最後を看取った方です。
この本は、最近出版されたユン・チアンの「マオ」より十年くらい前に邦訳されていますが、「マオ」の内容と非常に通じるものがあります。
 共産党の歴史は、昨日の同志は明日の敵、それも殺害の対象です。
 勿論、北京政府では発禁の書です。著者は「もし私が殺されてもこの本は生き続ける」の言葉を残し、本書発売の三ヵ月後、シカゴの自宅浴室で遺体となって発見されました。
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引用開始
 「李先生、張玉鳳が言うには、主席が先生に会いたがっておられるそうです」。私は主席の枕頭にかけつけた。
 張玉鳳はかつて毛沢東が国内の巡察旅行に使っていた特別専用列車の服務員だったが、いまは主席付き機密秘書になりおおせていた。毛が長沙でダンス・パーティーを催した際、はじめて主席の目にとまった。まだ無邪気そうな十八歳の娘で、目を大きく見開き、すばらしく白い肌をしていた。彼女は主席にダンスを申し込んだ。毛は衆人環視のなかで彼女を宿舎に連れて行き、一夜をともにすごした。
 ふたりの仲は時として険悪なものになった。毛沢東が他に多くの女を引き込んでいたからである。いまわの際でも、かつて毛とベッドをともにした二人の若い踊り子が非公式に臨時の看護婦として勤務し、毛の体をスポンジでふいたり、食事を口元に運んだりしていた。しかし毛との関係は張玉鳳が一番長く、その間に品性も粗野になって・・・略・・・
 1974年彼女は党中央弁公庁主任の汪東興から正式に主席付機密秘書に任命されたのだった。
 主治医として私はいつでも自由に主席と面会を許されたが、私を除く人達は張玉鳳を通さなければならなかった。毛夫人の江青はじめ政治局のお歴々でさえ張を介さなければならなかったし、彼女は相手が党の最高首脳だろうと尊大に扱った。・・・略・・・
 その毛沢東もいまは83歳、肉体は数え切れないほどの疾患でぼろぼろになっていた。・・・略・・・
 たまさかの緊急事態が発生したりすると、私たちはニクソンの大統領補佐官ヘンリー・キッシンジャーが最初の隠密訪中後に送ってくれたアメリカ製の人工呼吸装置にたよらなければならなかった。
・・・略・・・
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posted by 小楠 at 07:26| Comment(2) | TrackBack(1) | 書棚の中の中国

2006年05月15日

中国の取材規制

 中国共産党はその統治の暗部を隠すため、必然的に海外メディアによる取材を徹底して規制しています。我々に届く中国情報は、共産党に都合のよいものだけであり、それも歪曲、捏造は当たり前、中国の本質を知るための情報は全く闇の中でしょう。

中国の外国メディア規制
「中国の嘘」恐るべきメディアコントロールの実態 何清漣著より
引用開始
 1990年に国務院が「外国記者、外国常駐報道機関管理条例」を発布し、これによって外国人ジャーナリストの取材活動を制限した。この条例は次のように規定している。
 外国人ジャーナリストは「事実を歪曲し、デマをでっち上げ、あるいは不正な手段を使って取材・報道してはならず、その身分にそぐわない、あるいは中国の国家の安全と統一、社会の公共的利益を損なう活動を行ってはならない」。違反者には期限付きの退去処分が下される。この規定のキーポイントは、何が事実で何がデマかを決める権利が中国政府の手に握られていることだ。・・・略・・・
 この第三条の規定は、外国人ジャーナリストのすべての活動を中国政府のコントロールのもとに抑え、中国政府の主管部門の許可なしでは一歩も動けぬよう制限するものである。
 第四条は、中国政府は記者の取材活動を規制するだけでなく、政府の法令でニュースの提供者も当局になるよう制限していることを表明している。
 第五条は外国人ジャーナリストの日常活動と生活が実質的にすべて中国政府の監視下にあることを物語っている
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posted by 小楠 at 08:09| Comment(2) | TrackBack(1) | 書棚の中の中国

2006年05月14日

中国の偽情報作り

 これを読んでいると、中国報道の第一の目的が、共産党の自己礼賛であり、あらゆるニュース・ソースはそのための材料としての扱いのようです。
「南京毒物混入事件」・・真実を一部まじえた偽情報作り。
「中国の嘘」恐るべきメディアコントロールの実態 何清漣著より。
引用開始
 2002年9月14日の早朝、南京市郊外の湯山鎮で約400〜500人の学生と出稼ぎ農民らが、この鎮の中心市場の路地にある飲食店「和盛園」が作った焼きパン、油条、ゴマ団子、豆乳を食べて次々と中毒症状を発症した。
 江蘇省の模範中学である作廠中学校の寄宿生たちは一分も経たずに集団で倒れ、死者が続出した。6時20分までに鎮では食物による中毒事件の情報がすぐに伝わり、6時30分から7時30分まで、パトカーと救急車のサイレンが鎮にこだました。8時20分に政府の役人がようやく現場に到着し、午後3時に武装警察隊が秩序維持のためにやってきた。この秩序維持の主要任務のひとつはすべての記者の取材を禁止することだった。
 この事件の情報は、中国ではまるまる36時間も封鎖された。海外の華人が実家に安否確認の電話をし始めた頃に、国内のネット上に小さなニュースが報道され始めた。北京の新華社は14日に写真のキャプションとして41人死亡と伝えたが、この情報はすぐに削除された。
 ここでは救命作業における政府のさまざまな失態や、学校・病院の一部関係者が貧乏人に示した許しがたい態度については議論せず、中国政府が情報封鎖のためにとった各種の行動を分析するにとどめる。・・・略・・・

報道を封鎖する当局の「政治的知恵」
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posted by 小楠 at 10:11| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国

2006年05月13日

中共の報道規制

 中国に限らずですが、共産党独裁国家は、笑えるような内容の報道規制をしています。また、怖いことには、規制をクリアしたとしても、報道の結果としての現象に対しても処罰が待っているということです。
 これほどまでに馬鹿げた報道規制をしないと、中国共産党政権が持ちこたえられないと言うことですね。妻はこれを読んで大笑いしていました。
「中国の嘘」恐るべきメディアコントロールの実態 何清漣著より。
何清漣は1956年、医師の娘で、中国湖南省生まれです。
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引用開始
中国メディアの報道原則の例
 90年代後期に共産党が表明した「メディアの報道原則」はだいたい次のようにまとめることができるだろう。

@報道関係者が海外(香港、マカオ、台湾を含む)の出版物に無断で原稿を提供することを禁止する。特にニュース原稿は厳禁。発覚した場合は厳罰に処され、刑事処分は免れない。

A社会と経済の重要な題材に関する報道については、事前に関係部門の審査が必要である。中央の経済政策にマイナス評価を下すような記事を発表してはならない。

B汚職・腐敗事件の報道を一時期に集中させてはならない。大衆が「共産党政府の汚職と腐敗は深刻な問題である」と錯覚しないためである。汚職・腐敗事件を報道する際は、党と政府が「腐敗を処罰すると固く決意した」ことに重点を置いて集中的に報道し、汚職や腐敗がこんなにも深刻だと報道してはならない。

C公安局が悪人を逮捕する報道を多くし、殺人事件の報道は少なくする。事件を借りて党と政府が攻撃されることがないよう、事件の詳細を報道することは控える。とりわけ金融犯罪事件については、模倣犯が学習するのを避けるため、詳細を報道してはならない。
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posted by 小楠 at 10:03| Comment(4) | TrackBack(1) | 書棚の中の中国