2008年04月23日

18年前の北京虐殺

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。今回は著者の同志が命を奪われた天安門事件についてです。

引用開始
 1989年4月、北京を中心とする中国各地で大学生たちは政治の改革や、官僚腐敗の厳罰などを訴えて、嵐のごとく民主化運動をいっせいに起した。それにたいして、中国共産党政権は戦車や正規軍部隊を北京市内に派遣し、6月3日夜から4日の朝方にかけて、天安門広場周辺で抗議活動をしている大学生へ武力弾圧を始めた。 戦車が青年たちの体を踏み潰し、機関銃を持つ兵士が学生や市民に向けて乱射し、大勢の人々が無差別に殺された。・・・・当時、すでに日本に留学していた私は難を逃れることができたが、私と面識のある数名の同志たちは、まさにこの「北京虐殺」においてかけがえのない命を奪われた。・・・・
 天安門事件で殺された人々のなかに、袁力という若者がいた。年齢は私より一歳半上で、1960年7月7日の生まれである。当時、袁力は北方交通大学修士課程を卒業して、国家電子工業省所属の自動化研究所に勤めていた。・・・・
 この年の4月下旬に民主化運動が勃発した後も、仕事に没頭していた袁力は、デモなどの抗議行動にそれほど積極的に参加しなかった、だが、同時代に生きる多くの若者たちと同様、彼も当然運動の展開を熱心に支持し、行く末に多大な関心をもっていた。
 毎日の仕事から帰宅すると、彼はさっさと夕飯を済まし、自転車で近所の中国人民大学へ行き、そこで民主運動の新しい動向や関連ニュースを聞き出すのである。そして夜遅くにふたたび家に帰ると、両親や弟を起して、自分が聞いてきたことを報告しながら,運動の行く末や国の将来について自分の意見を熱っぽく語り、家族と論争することもあった。
 5月19日、中国政府はとうとう北京において戒厳令を敷く事態になった。その時から、学生運動にたいする軍の武力鎮圧が現実味を帯びてきたが、袁力は頑としてそれを信じなかった。彼は「人民解放軍は人民に銃口を向けるようなことは絶対ない」と断言したという。

 そして、6月3日の晩、悲劇のときがやってきた。その日、袁力は友達と一緒に一日中出かけた。人民解放軍の戒厳部隊がすでに北京市外に迫っていたので、袁力らは市内への入口の一つである「公主墳」という交差点へ行き、やってくる解放軍先頭部隊にたいして宣伝活動を行い、北京から撤退するよう説得しようとした。しかし日が暮れても先頭部隊がなかなか現れなかったので、夜の九時頃に袁力はいったん帰宅した。一晩休んでから、翌日に引き続き、人民解放軍を説得しにいくつもりであった。
 その時であった。夜11時半頃、袁力の家の近くにある木犀地という長安街の交差点付近で、爆竹のような銃声が炸裂するのが聞えた。袁力はまっすぐに家から飛び出し、玄関の外に置いてある自転車に乗ろうとした。彼の後ろについて飛び出してきた母親の李雪文さんは力いっぱい袁力の自転車を止めて、「やめなさい。解放軍はもう発砲しているのよ。危険だよ。止めなさい」と、彼の外出を阻もうとした。しかし袁力は、「こんな時に何を言っているんだ。家でじっとなんて、できるわけないだろう」と険しい表情で怒り出し、気でも狂ったかのように自転車を母親の手から奪おうとした。そして、母親の手が緩まった瞬間、彼の体はすでに自転車の上に跨り、あっという間に闇の中に消え去ったのである。
それは、母親の李雪文さんが袁力の姿を見た最後であった。・・・・
 両親は今度は、自転車に乗って天安門広場の方向へ向い、息子の姿を探しまわった。途中、両親が目撃したのは、まさに阿鼻叫喚の地獄絵図であった。彼らはその時に見た光景を、手記の中でこう記している。
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2008年04月22日

中共恒例祝日前殺人祭典

処刑者の頭数確保で発明された「悪攻罪」

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。今回は文化大革命時の凄惨な殺人の実態です。
写真はハルビン郊外で民衆の前での処刑。マオより
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引用開始
 文革中、共産党の創立記念日、国慶節、元旦などの「祝日」の直前には、全国各地の大小都市でかならず「公判大会」と称する公開処刑のための群衆大集会が開かれた。都市の規模で異なるが、一度の大会で十数名から三十数名の「反革命分子」が人民裁判で死刑を宣告され、即時銃殺となるのが慣例だった。
 中学生の時分から四川省の成都市に住む私も鮮明に記憶しているが、「祝日」の直前になると、市内の街角のあちこちに死刑宣告の「布告」が貼り出される。大きな貼り紙に数十名の受刑者の名前と罪状が順番に並べて書かれているが、一人ひとりの名前に、「死刑」を意味する赤い字で☓☓☓という符号が鮮明につけられていることは特に印象的であった。時には、中学校の生徒全員が「公判大会」に動員されることがあった。・・・・
 しかしこれが恒例化してくると、各都市の「革命委員会」は処刑を行うための「反革命分子」の人数の確保にずいぶん苦労したようである。・・・

 そこで、各地方の「革命委員会」が考え出した唯一の解決法は、「反革命分子」という罪名の適応する範囲の恣意的な拡大である。
 たとえば、当時、流行っていた「悪攻罪」は、すなわち「毛主席に対する悪辣な攻撃の罪」の拡大解釈によって発明された。・・・拡大解釈が進むと、毛沢東の政策や政治スタイルにほんの少し疑問や不信感を呈するだけでも、「悪攻罪」として認定される。・・・
毛沢東の肖像画や語録を不注意で汚したり破ったりすることも、毛沢東の顔写真が掲載された新聞紙を使って野菜を包んだり竈の火を点けることも、ことごとく「悪攻罪」にされた。

階級の敵根絶のための大虐殺
 文革中、毛沢東の手先の紅衛兵や地痞流氓たちは時々、「階級の敵=人民の敵」にたいして集団大虐殺を行うこともあった。
 中国上海出身の文革史研究者で、現在は米国カリフォルニア大学に勤める宋永毅氏は、文革中に起きた一連の「集団虐殺事件」にたいする綿密な現地調査に基いて、2002年7月に『文革大屠殺』を上梓して香港の開放雑誌社から刊行した。後に『毛沢東の文革大屠殺』というタイトルで原書房から邦訳されたこの著作は、大屠殺の実態に関する最も確実な研究書であるといえる。・・・・

広西賓陽虐殺事件
 1968年7月3日、中国共産党中央委員会、中国国務院、中央軍事委員会が連名で「7・3布告」を公表し、全国の党組織、政府機関、人民解放軍にたいして、「階級の敵をいっそう厳しく鎮圧せよ」と殺戮の大号令をかけた。それを受けて、広西自治区賓陽県革命委員会はさっそく全県内において組織的な虐殺を実施し、有名な「賓陽大虐殺」を引き起した。
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2008年04月21日

殺人者の楽園文化大革命

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。今回は朝日新聞などが絶賛していた文化大革命の記述です。
写真は批闘会に引出された前国防部長、彭特懐。マオより
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引用開始
 毛沢東が権威回復のために破落戸(ならず者)と無知層を利用し数千万人の餓死者を出した大飢饉の発生をもって、毛沢東が推進した「大躍進政策」は完全に失敗に終った。それで威信を失墜した毛沢東は、徐々に党務と政務の第一線から退き・・・・毛沢東自身は、党全体から敬して遠ざけられる「雲の上」の存在となった。
 まさにこの政治状況を打破して自らの政治権威を回復するために、毛沢東は文革の発動に踏み切ったのだ。彼がとった政治手法は、党と政府の幹部階層にたいする一般民衆の不満を利用して、「下からの造反」という形の民衆運動で党の組織を破壊し、党内実務派を一掃することであった。
 毛沢東は林彪将軍という野心家の軍人を手先に使って軍隊を掌握する一方、「地痞流氓」の文人版である「四人組」を党の中枢部に抜擢して身辺を固めた。その上で、毛沢東は天真爛漫にして無知な学生たちを煽り立てて紅衛兵として組織し、社会下層の破落戸たちを「造反派」に仕立てた。
 
彼らを突撃部隊として、狂瀾怒涛のごとく造反運動をいっきに展開したのである。
 いったん発動された造反運動の及ぼす範囲は、もはや各級の党組織や実務派幹部たちを対象とする限定的なものに止まらなかった。いつのまにか、大学の教授から小学校の先生まで、作家・芸術家から各分野の芸能人まで、旧家・素封家の出身者から地主や資本家たちの子孫まで、医師や技術者から一般の職人まで、要するに中国社会の中で多少の権威と財産と名声を持つ者、あるいは知識と技能を持つ者のほとんど全員が、この凄まじい造反運動に巻き込まれて、政治的迫害の格好のターゲットとなったのである。
 どうしてそうなったのかといえば、理由は簡単である。
 この「大革命」は中国社会の中の破落戸の階層と、無知な紅衛兵たちを主力部隊とする「地痞流氓の革命」である。したがって、普段なら地痞流氓と正反対の社会的立場にある人たち、あるいは社会下層の地痞流氓からすると嫉妬と恨みの対象となりえる人たちは当然、この「大革命」で打倒され迫害される羽目にならざるを得ない。そして、「理由なき反抗」に飢えている紅衛兵たちにしてみれば、なんらかの「権威」をもった煙たい存在、たとえば学校の先生などは、造反運動の格好の対象なのである。
 とにかく、紅軍時代に敢行した「一村一焼一殺」と同様、毛沢東のひきおこした革命はいつまでも、下品な「地痞流氓」の造反なのである。そして、無知な紅衛兵と人間性の欠如した地痞流氓を主力部隊とする史上空前の大造反運動は、やり方も、残忍極まりないものであった。・・・・
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2008年04月19日

中共政権後の大虐殺

200万人の命を奪った土地改革運動

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。今回は国民党との内戦に勝利し政権を樹立してから、思う存分大虐殺を断行した中国共産党です。
写真は大量公開処刑、地主や特務(スパイ)の字が見える。マオより
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引用開始
 政権樹立の翌1950年初頭から、中国共産党政権はさっそく全国規模の「土地改革」を実行した。それは、今まで「革命根拠地」で行ってきた、地主、素封家たちを対象とする「一村一焼一殺」を、全国的に展開していくことであった。全国の村々の農民を総動員して地主たちを吊るし上げ、土地その他の全財産を奪ったのである。
 地主たちから没収した土地以外の財産はすべて政権側の懐に入り、新しく成立した中華人民共和国の国家財政を支える重要な財源となった。土地はすべて農民に配分されたが、もちろん中国全土の農民は、共産党政権にたいし「公糧」と称する年貢を納める義務を負わされた。・・・
 それでも、全国で吊るし上げられた六百数十万人の地主のうち、200万人程度は確実に銃殺された。「革命根拠地」開拓時代から共産党軍の協力者だった「地痞流氓」(地域のならずもの)の多くが、出世して立派な「農村幹部」となっていた。彼らの多くは「土地改革のプロ」として、共産党政権が新しく支配した地域に派遣され、土地改革の指導に当っていた。
 指導に当った地域や村では、以前のような「一村一殺」がそのまま再現され、殺戮の嵐がふたたび吹き荒れた。結果、全国で約200万人の地主が命を落としたのである。
 これは、中国共産党政権が天下をとってから、自国民にたいし行った最初の大量虐殺である。


 翌1951年になると、毛沢東からの強制的な殺人命令により、全国規模の大虐殺がまたもや始まった。「反革命分子鎮圧運動」である。共産党政権はこの一年間で、71万人の「反革命分子」と称される人々を人民裁判にかけて銃殺してしまった。・・・・
 手法はこうである。まず、各地の共産党組織が動員大会を開き、反革命分子を告発するよう群衆に呼びかける。そして、群衆からの告発に基くという形をとって、共産党政権が事前に目をつけた反革命分子たちをいっせいに逮捕する。即座に人民裁判にかけ即座に銃殺する。
 1998年に中国本土で出版された『鎮反運動実録』という書物で、「反革命分子鎮圧運動」凄まじさを垣間見ることができる。
 首都北京の場合、動員大会がなんと626回も開かれ、参加人数は330万人以上に達したという。
「(1951年)3月24日、北京市は15000人以上参加する人民代表連合裁判大会を開催し、反革命分子による破壊活動の証拠を示し、被害者による血と涙の告発を行った。大会の模様は、ラジオを通じて全国に生中継された。翌日公安当局は、告発された399名の反革命主犯をことごとく逮捕して、彼らがかつて悪事を働いた各区域へと連行した。各区域の人民法廷はさっそく反革命主犯たちの罪状を公表した上で、その場で判決を言い渡し、直ちに処刑したのである
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2008年04月18日

中国共産党の殺人方針

「一村一焼一殺」の恐ろしい実態

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。今回は紅軍の元高級幹部が書き記した殺戮と略奪の実態です。

引用開始
 毛沢東が率いる紅軍は、革命根拠地を拡大する中で、「行動方針」を明文化した。「一村一焼一殺、外加全没収」である。
 「一つの村では、一人の土豪を殺し、一軒の家を焼き払い、加えて財産を全部没収する」という意味である。紅軍と配下の破落戸たちは喜んで、この行動方針を忠実に実行した。
 紅軍の元高級幹部だった龔楚が、殺戮と略奪の実態を書き記している。彼は紅軍から離脱して上海へ逃げ、『私と紅軍』という書物を出版した。「一村一焼一殺」の手順を紹介している。

「われわれは未明のうちに村に近づき、まず村全体を包囲し、夜が明けるのを待つ。朝になると、事前に味方につけていた村の地痞を案内人に使って、その村の地痞たち全員を呼びつけて集合させる。彼らから村の地主の詳細な情報を得て、彼らにこれから取るべき行動の手順を教えてやる。
 家族がみな揃って朝食をとる時間を見計らって、われわれは行動を開始する。まず地痞たちと一緒に地主の家に乱入し、家族全員を一ヵ所に監禁してから、すぐさま家全体の捜索を行う。
 金銀の塊、地契(土地の所有証書)、現金の三つがまず確保の対象となる。それらが見つからない場合、家の主を別室に連れ出し、訊問して、所在を聞き出すのである。吐かないときには当然、激しい拷問をする。それでも口を閉じている場合、『吐かなければお前の家族を殺すぞ』と脅しをかける。それでたいてい、目当てのものはすべて手に入る。金銀の塊と現金は、われわれ紅軍のものとなる。それ以外の家財道具は、協力してくれた地痞たちに呉れてやるのがしきたりである。
 地主の家屋だけは、われわれ紅軍もどこへ持っていくこともできない。分けて配分することもできないため、燃やしてしまう。
 あとは土地の処分である。村人全員を村の中心の広場に集めて、地主の家から持ち出した地契をすべて燃やしてしまう。それから、土地は全部お前たちただでやるから、あとはわれわれ紅軍にしっかりと地租(年貢)を納めるようにいう。棚からぼた餅の村人たちは、歓声を上げて大喜びするのがいつもの光景である。その際、もしわれわれ紅軍に兵員補給の必要があれば、土地を配分する代わりに、村民たちに壮丁を兵隊に出すよう要求する場合もある。
 最後に、盛大な祭りが残されている。監禁している地主を広場に引きずり出して、村人に裁判を開かせる。その際、事前の言い合わせにしたがって、地痞たちの何人かが前に出て、涙を流してこの地主の平素の罪状を一つひとつ憤りを込めて告訴する。大半はおそらくでまかせの作り話だろうが、主催者のわれわれ紅軍は当然、真偽を問いただすような余計な真似はしない。罪名と罪状が備わればそれでよいのである。
 そして、いよいよ『その時』がやってくる。
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2008年04月17日

大量殺人で成る中共

破落戸(ならずもの)達との共謀殺人

石平著「中国大虐殺史」から引用してみます。共産党と自国民の大量殺人は共産主義者のロシア革命以来の常識でしょう。中国共産党も大量殺人から身を起したと著者は書いています。
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引用開始
1921年7月、中国共産党は上海で第一回党大会を開き、コミンテルンの中国支部として発足した。・・・・
 運命の悪戯か、中国共産党の成長を手助けしたのは、温和な国民革命を目指す孫文の国民党であった。1924年、数々の革命に挫折してきた孫文は、目的達成のために悪魔と手を組む覚悟でコミンテルンと提携し、援助を受けた。コミンテルンからの交換条件として、国民党は生れたばかりの中国共産党を組織内部に受入れた。「第一次国共合作」の成立である。その後しばらくの間、国民党という母体に寄生しながら侵食するのが、共産党による党勢拡大の戦略となった。
1927年、孫文亡き後の国民党軍は蒋介石に率いられ、根拠地である中国南部の広東省から北方へ向けて軍を進めた。「北伐」が開始したのである。国民党軍は各地の軍閥たちを次々に打倒して全国政権の樹立を目指したが、その途上、共産党による新政権の乗っ取り計画が発覚した。・・・・激怒した蒋介石は断固とした行動をとった。国民党と国民党軍に潜り込んだ共産党員をいっせいに洗い出し、追い出したのである。

 「清党」と呼ばれる蒋介石の措置で行き場を失った中国共産党は、暴動を起して独自の勢力をつくる戦略を取った。まず1927年8月、周恩来を中心とする党の中央組織が国民党軍の一部を乗っ取って江西省の南昌で暴動を起し、中国共産党軍の樹立を宣言した。
 続いて米の収穫が終るころ、以前から湖南省の農村地帯で「農民運動」に取り組んでいた毛沢東が、農民軍を組織して有名な「秋収蜂起」を発動した。
 しかし、二つの暴動はともに失敗に終った。毛沢東が率いる農民軍の敗残兵は、食糧補給のための略奪と、兵力補給のための拉致行為を繰返し逃走した。そして、江西省南部の奥地にある井崗山にたどりついた。
 そこで毛沢東らは、以前から山を占領していた王佐と袁文才という二人の山賊のボスを取り込んで、彼らに頼って山中で生き延びた。しばらくすると王佐と袁文才ら幹部たちは次々殺され、600人あまりの下っ端の兵卒が毛沢東の部隊に吸収された。井崗山はこれで、まんまと毛沢東の手に落ちた。中国共産党の最初の「革命根拠地」はこうして作られた。
 年が明けた1928年4月、南昌で蜂起した朱徳率いる共産党軍は、一万人規模の大部隊で井崗山にやって来て、毛沢東の部隊に合流した。勢いを得た共産党軍は(この時から「紅軍」と称した)、この年の夏に山から降りて、周辺地域の町や農村地帯を次々に攻略して、革命根拠地を拡大していった。・・・・
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2007年07月25日

親日台湾人の中国観3

 今回ご紹介している著者は、ほとんどの日本人は、中国人の民族性を全く理解していないと嘆いています。日本国内、或は日本人同士では、日本人の
交際マナーはすばらしいものがあると思いますが、他民族を相手にする場合は、その民族性を十分把握した対応が必要でしょう。特に中国のような民族を相手の場合は、日本人の美徳がことごとく悪用、利用されているようです。
楊應吟氏の著「素晴らしかった日本の先生とその教育」という本の中から、氏の中国観が記されている部分を引用してみます。
写真は2005年9月知覧特攻平和会館にて
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引用開始
法の通用しない中国
 中国は今、「大国」になったと自負しているようですが、「大国」に相応しい内実かどうかはわかりません。賄賂の横行、貧富の差が激しいことなどで、人民の中には不満が渦巻いていると伝えられています。
 共産党の幹部は不正や汚職ばかりで、人民の信頼を失い。沿岸は金持ち、内陸は貧乏で、頻繁に地方では暴動のようなことが起き、内乱が起きかねない状態とも言われています。
 人民の不満は、当然、政府、中国共産党に向けられます。共産党は、そうした国内問題があって、その敵愾心をどこに持っていくかというと、「台湾と戦争をおこそう」と外に目を持っていきます。しかし、台湾と利害関係があって利益を得ている沿岸の人達が「起こすな」と反対します。 北朝鮮は仲が良いので攻撃する対象ではなく、韓国に対しては、最近は日本への攻撃で使える相手ですし、口を出し切りません。ロシアは強いから手を出しかねます。そうなると、日本は小さく、しかも日支事変をやった国で報復してやりたいという気持ちもある、そして日本は金持ちだから謝らせたら金を貰えると、これ程都合の良い標的はないわけです。

 中国はアメリカに反感を持っていますが、アメリカを相手にはしません。なぜなら強いですから、下手をして、あまり強く言うと自分の立場が悪くなります。だから言えないのです。
 しかし、日本に対しては、潜水艦で領域を侵して、日本が「謝れ」といっても謝らず。日本も黙ってしまったので、「これは大丈夫」と見縊ったと思います。日本は戦争をしないと宣言し、憲法でも謳っているから、絶対安全だと思って吼えるのです。「吼える犬は噛まない」と言いますから、吼えても別に何ともないので放っておけば良いものの、日本は真に受けて、大人しくしています。こうして中国は益々図に乗ってきます。中国の増長は、日本自身にも責任があることです。
 また、中国は人に謝ってはいけないという観念が非常に強い国です。今まで謝ったことは恐らく一回もないでしょう。そして主張することだけは主張する、こじつけの理由を作って、絶対に謝ることはありません。それを日本人は知りません。
 先だっての「反日デモ」が良い例です。あのような大きな反日運動をやって、日本の領事館のガラス窓を割り、日本企業の看板は全部破壊し、傷害事件はそんなになかったかも知れませんが、駐在している日本人は、大っぴらに日本人であるということを言えなくなりました。・・・・・
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2007年07月24日

親日台湾人の中国観2

 今回ご紹介する著者は、ほとんどの日本人は、中国人の民族性を全く理解していないと嘆いています。日本国内、或は日本人同士では、日本人の交際マナーはすばらしいものがあると思いますが、他民族を相手にする場合は、その民族性を十分把握した対応が必要でしょう。特に中国のような民族を相手の場合は、日本人の美徳がことごとく悪用、利用されているようです。
楊應吟氏の著「素晴らしかった日本の先生とその教育」という本の中から、氏の中国観が記されている部分を引用してみます。
写真は著者(左)の高雄工業学校時代
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引用開始
日本の戦争は自衛のため
 そもそも日本が明治維新を起こし、近代国家への変貌を急いだのは、西欧列強のアジアへの植民地化から自国を防衛する必要があったからでした。当時のアジアを見ると、インド、ビルマはイギリスの植民地に、インドシナ半島はフランスに、インドネシアはオランダの植民地とされておりました。更に日本にとって衝撃的だったのは、アヘン戦争でアジアの大国、清国がイギリスの手に落ちたことでした。日本はいつ自国が列強に呑み込まれるかという強い危機感を抱き、考えたことは清国と朝鮮と共に列強に対して防衛を張ることだったのです。
 日本は両国に散々この危機を訴えて近代化を促しましたが、両国はかたや中華思想かたや事大主義に囚われ、新興の小国、日本に対して逆に敵意を表す始末でした。その間に列強の魔手は東アジアに伸び、中国、朝鮮がその手に落ちれば、次は日本という結果は免れず、そして終に日本は朝鮮の独立を求めて、清国に宣戦布告をしたのでした。これが日清戦争であり、結果は清の大敗となりました。
 漸く清国は近代国家の意義を認識しはじめ、一方日本は専門機関まで設けて大量の清国留学生を受け入れ、日本からも清国の要請を受けて多くの日本人が教師や軍事顧問として赴き、清国の近代化に協力しました。

 しかし、新国家が成立するや、中国は内戦状態に陥り、その隙間に欧米が日本を仮想敵国とし日本を締め出すという構図が出来上がり、更にソ連が共産化という手段で東アジアを制覇しようとして動きだし、内戦状態に一層拍車をかけることとなりました。その中で中国は反日政策を取り始め、故に日本は満州国の樹立と華北の防共のために親日諸政権を支え、中国の平和安定に乗り出したという経緯がありました。
 日本にとって絶対に列強に支配されてはならない地域は朝鮮半島でした。ハルフォード・マッキンダーというイギリスの地政学者は、日本のような島国が独立を守っていくには、その周辺の大陸に近い半島部分を、大陸の勢力によって支配されないことが重要だと主張しています。朝鮮戦争を戦ったマッカーサーも、マッキンダーや当時の日本人と全く同じ判断をしました。
 マッカーサーは東京に司令部を置き、そこから朝鮮戦争を指揮し、北から来る敵に対さなければならない立場にありました。皮肉にも彼は日本の大本営と完全に同じ立場に立たされた時に、初めて日本の立場が理解できたと言います。・・・・・
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2007年07月23日

親日台湾人の中国観1

 今回ご紹介する著者は、ほとんどの日本人は、中国人の民族性を全く理解していないと嘆いています。日本国内、或は日本人同士では、日本人の交際マナーはすばらしいものがあると思いますが、他民族を相手にする場合は、その民族性を十分把握した対応が必要でしょう。特に中国のような民族を相手の場合は、日本人の美徳がことごとく悪用、利用されているようです。
楊應吟氏の著「素晴らしかった日本の先生とその教育」という本の中から、氏の中国観が記されている部分を引用してみます。
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引用開始
中国の「軟土深堀」根性
 日本人は、あまりにも中国人の本質を知らなさ過ぎます。我々台湾人は半世紀にも亘る間、中国人と生活をしてきました。そして今日に至るまで対立し続け、彼らの根性を知り尽くしています。中国人は「軟土深掘」という根性を持っています。字義から見ても分かるように、「土軟らかずんば、更に深く掘れ」、つまり相手が弱いと見れば更に付け込んで噛み付いていけ、という汚い根性を持っているのです。・・・・
 今の日本の政治家は、一部を除きあまりにも中国に対する認識が無さ過ぎます。中国に対して遠慮し、大人しくしていれば全てがうまく行くならば問題は無いのですが、現実はそうではありません。中国への遠慮が、やがては日本を更に追い込むことになりかねません。

眠れるブタ、中国
 過去においては、1886年に、大清帝国は日本を威圧するために、北洋艦隊の四艘の新鋭戦艦を、予告も無く修理の為と称して長崎港に乗り入れました。上陸した数百名の清国水兵は、暴挙、強奪などさんざんに暴れ狂い、この長崎事件は当時の日本全土に一大ショックを与えました。そこから日本人の中に、支那に対する敵愾心が烈火の如く燃え上がりました。
 ただ、日本の外交手段の稚拙さには定評があり、なかでも史上「侵略国日本」の悪名を残したのは、「対華二十一カ条の要求」でした。しかし二十一カ条の中には山東問題など、日支交渉だけで解決出来ず、第一次大戦後のパリ講和会議やワシントン会議にまで持ち込まれたものもありました。結局、二十一カ条のうち、消滅したものを除き、中国側が承諾したのは四カ条に過ぎなかったのです。それにもかかわらず、中国は二十一カ条全部を呑まされたように世界に伝えました。・・・・

 当時、北京、上海、南京には外国の租界がありました。上海には、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、オランダ、スペイン、ポルトガルの八カ国、北京にも、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアの五カ国がありました。
 東南アジアでは大東亜戦争が終わってから、ベトナム、ミャンマー、インドネシア、マレーシアが独立し、それまで植民地で搾取し続けていた宗主国のイギリス、オランダ、フランスは撤退して行きました。そして、今までの「眠れるブタ」は「目覚めた龍」に変身してしまったのです。
 日本は眠れる大国を刺激する名人だと言われてきました。・・・・・
 あの眠れるブタにもし支那事変という刺激がなければ、今日の中国は出来ていなかったことは誰もが認識できることです。ですから、中国は日本に感謝こそすれ、「反日」はもっての外のはずなのです。今日中国が近隣諸国に行っている数々の横暴を考えると、日本が「眠れるブタ」を起こしてしまったことは大きな間違いであったと言いたくなります。・・・・
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2007年04月12日

支那人の特質を知る5

弄策、虚偽、猜疑、忘恩

 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されている幅広の手帳サイズの本です。
今回はその上巻の最後の方にある中野江漢の「支那の話」という部分から、支那について、昭和十三年(1938年)当時の人々の支那人に対する見方が書かれているところ、最後の部分を引用してみます。
今回で支那人の特質の引用は最終回になりますが、対中外交交渉は、このような支那人の特質を熟知した専門家にやって欲しいものです。
画像は当時の国際都市上海
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引用開始
 戦乱に次ぐ戦乱を以てする支那は、その間に誇大な宣伝や、反間苦肉[仲間割れをさせるため、自分の身を痛めつける]の計が行われ、あらゆる「術策」が行われた。術策は「欺瞞」の第一歩で、知らず識らずの間に「嘘つき」となり「誤魔化す」ことに興味をもつようになり、果ては「盗み」が茶飯事となった。
 支那の政治家や軍人は、内に於ては売国的行為を敢えてなし、民を誤魔化して財を得、外に向っては友邦を欺き、誤魔化し、外交の不信を招き、国交を害する
 
 下級な僕婢の総ては、嘘をつき、誤魔化し、盗みをする。権謀詐術を用いて、欺瞞し、虚構をこととする結果は、人の言動に対し、常に「猜疑」の眼を以て接することとなる。猜疑を常性とするから「誠意」を欠き、人を「信用」せぬ。互に信用せるように見ゆるのは、互いにこれを「利用」して居るので信用ではない。利用し尽した暁には棄てて顧みない、恰も相識らざるもののようである。若し利用し尽した後にも、なお多大の好意を継続するものがあるとすれば、それは世間体を繕う方便か、さもなくば従来の関係上已むなく情実的好意を標榜するに過ぎないのである。

 こんな風で支那では、真実の信用は皆無といってよい。そこで血縁、地縁、職業団体の信用が必要となり、義兄弟の盟約が重視されるのである。これ等の特殊関係の信用に至っては驚くべきまでに徹底不動である。
 利に結び、害に離るる者に、恩を知り、徳を解するはずがない。支那人が人に恩を施すは、利用の手段に外ならぬから「偽恩」である。
 例えば支那人が、乞食に物を与うるは、乞食そのものを憐んで与うるのではなく、自分の不徳をその喜捨によって補わんとするだけである。若しそうでなくとも、その施恩によってその人は必ず善果があると信じて居る。
 そこで支那の乞食は物を貰うまでは哀願するが、貰ってしまえばケロリとする。彼等にいわすると「人に善をなさしめた」というそうすると、乞食に与えた者は、乞食によって「善をなし」与えられた乞食は、自分[乞食]ありしがために、人をして「善をなさしめた」ことになるから、結局は五分五分である。「恩」のあるべき筈がないのである。

 斯ういう考は、支那では是認されて居る。支那人に「報恩の観念」がないのは、斯ういう風に観て置けば間違いはない。生一本の日本人が、よく「支那人は我の親切を親切と思わぬ」とか、支那人は恩を仇で返す」と、しばしばいうが、支那人に言わしむれば、恩を受けた時に感謝の意を表して居る。恩を受けつつある間は、恩人として敬意を表して居る。それで「報恩」は勘定済みである。報恩は永続的のものではない。若しこれを永遠に求めんと欲するは「恩の押売」である「報恩を強ゆる」ことになる。
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2007年04月11日

支那人の特質を知る4

宣伝、無主義、妥協、雷同

昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されている幅広の手帳サイズの本です。
今回はその上巻の最後の方にある中野江漢の「支那の話」という部分から、支那について、昭和十三年(1938年)当時の人々の支那人に対する見方が書かれているところを引用してみます。
対中外交交渉は、このような支那人の特質を熟知した専門家にやって欲しいものです。
画像は日本軍を歓迎する支那人たち(保定にて)
hotei.jpg

引用開始
 文弱に流れ、腕力の争闘を好まぬかわりに、「口先の喧嘩」は達者である。支那人の「口論」を側で聞いていると、今にも火花を散らす大格闘が行われるかと思われるが、口先ばかりで手出しをせぬ。支那では人の群集する場所には、必ず「禁止喧嘩」の掲示があるのを見ても、如何に喧嘩が多いかがわかる。
 その喧嘩の時には、相手方に向っていうことを周囲近傍に聞えよがしに叫ぶ、夫婦喧嘩でも内密ではやらぬ、庭の中央に出て大声で叫ぶのである。お互いに背中合となって叫び合って居ると、必ず仲裁にはいる者がある。そこで直ぐ「妥協」してケリがつくのである。

 怯懦、文弱となった支那人は、口先ばかり達者となり「宣伝」が巧くなった。支那の外交でも、戦争でも、先ず「宣伝戦」で勝を占めようとする。
 支那人は、口先や文章で堂々と主義を唱うる者があっても、腹の底には確固たる主義を有する者は殆ど無いとみて差支えない。勢い窮すれば、その主義を変じ、勢いに付せんがためにも亦、其の主義を改むる。一身の利害のためには、主義や節操を放擲して「苟合妥協」を濫用して恥ずるところを知らぬ。支那に「両面」と「詭随」という言葉がある。何れも旗色のよき方に妥協屈服して反覆常なきをいうのである。支那人は、その個人たると国体たるとを問わず、自己保全の方法として、好んでこの「両面詭随」を平気で慣用するのであるから、油断ができぬ。

 腹の底に確固たる主義がなく、口元ばかりで主義を標榜するだけでも、なお支那人としては上々の方である。国民一般は「無主義」で、ただ勢いに付して喧噪し、運よくば其の間に利益を占めようとする者ばかりである。一人これを唱うると万人忽ち之に和し、宛然主義に合し、団結を造るような現象を呈するが、これは「雷同」であって、その裏面には何等の実質がない。その輿論や団結は、国家本位でなく、自己本位の雷同であるから不利の時には忽ち変じ、目的を達し得ると思えば益々その雷同性を増加するのである。
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2007年04月10日

支那人の特質を知る3

支那の国民性

 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されている幅広の手帳サイズの本です。
今回はその上巻の最後の方にある中野江漢の「支那の話」という部分から、支那について、昭和十三年(1938年)当時の人々の支那に対する見方が書かれているところを引用してみます。
対中外交交渉は、このような支那人の特質を熟知した専門家にやって欲しいものです。
画像は天津の日本租界
tenshin.jpg

引用開始
 支那の国体、風土、政情、社会、種族を知ると共に、是非研究して置かねばならぬことは、その組織の根本である国民の特性である。・・・・
 では「支那の根本思想」とはどんなことかというに、天を敬う思想である。これを「敬天思想」とか「拝天思想」とかいう。天を敬うとは、「いろいろに解釈されているが、ごく簡単にいうと、天は万物の創造主、万物の産みの親である。人間も亦天が造ったものであり、天の恵みによって生存しているのである。そこで天には絶対の感謝と敬虔とをもって服従しなければならぬ。これは子として親に対する当然の義務である」というのである。敬天思想は、ここにもとづいて起ったものである。

 子としての人間は、生みの親である天に対して絶対に服従するが、親である天はどういう方法を以て、子たる人間に対して親の義務を果たすかというに、天は、子である人間の生存に必要なるものを与え、これを愛護して、その発達成長を計るのである。しかし、天は「無形の神」である、「無形の父母」であるから、「有形の人間」に対し、自ら己の手をもってこれを支配し、これを教え導き、帰趣標準を与えて、その成長進歩をはかることができない。そこで、天は万民の中から「天の代表者」を見出し、この代表者をして、万民を支配せしむることになる。この天の代表者が、支那の「君」である「皇帝」である。君は天に代わって万民に対し、親たる義務を尽すのである。

 然らば、どういう方法で、天はその代表者である君を見出すのかというと、「符瑞」といって瑞祥を現したり、「感生」といって、天の感じを受けて生れるというような、いろいろの方法がある。これは支那の歴史を読むと明らかである。そうすると、天の代表者である「君の資格」はどうかというに、「天の道は正しいものである。そこで天の代表者となるには、正しい天の道、天の徳と合体した人間の中で、最上の有徳者でなければならぬ」のである。これに適った者が君となり、「君は天の父母に代わって、人間界に於て、父母たるの道を行う」ことになるのである。
 そこで、君主の政事は即ち天帝の政事となり、君主の言は即ち天の言であり、天の訓となるので君主一家の私の言ではないことになる。そこで人民は、当然「君主の命は天の命として服従し、これに順行」していかねばならぬこととなる。要するに、君命に服従するは天命に服従することになるのである。
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2007年04月09日

支那人の特質を知る2

支那は国家ではない

 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されている幅広の手帳サイズの本です。
今回はその上巻の最後の方にある中野江漢の「支那の話」という部分から、支那について、昭和十三年(1938年)当時の人々の支那に対する見方が書かれているところを引用してみます。
 対中外交交渉は、このような支那人の特質を熟知した専門家にやって欲しいものです。
画像は当時の北京大通り
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引用開始
 支那は現在[昭和十三年]でも依然、真の統治者がないことになる。統治者がないとすれば、被統治者があるべき筈がなく、真の国民がないことになる。そこでよく「支那は国家であろうか?」といったような疑問が飛び出して来るのだ。斯うした疑いは、支那の実情から見れば、当然起るべきことである。
「凡そ国家というものは、統治権の主体である統治者と、統治権の客体である国民との二大原素の統治した国体をいうのである。」という原則に従えば、支那と称する地面には、ただ四億に余る夥しい人類が、ザワザワと棲息するに止まって、統治団体たる国家を組織したものではないことになる。
 そこで、近代的な国家観念から観ると、「支那は国家ではない」とはっきりいえるのである。若し一時、主権者が出来たとしても、統治者と人民との関係が、頗る乱雑不統一の支那のことであるから、整然たる国家組織を見ることは至難のことである。

 元来、日本はじめ近代文明国の常識としては、「国とは土地を意味する」のであるから、たとえば「この島は何の国に属するか」というのであるが、支那人はこれに反して「国とは人を意味する」と解釈しているから「この島は誰に属するか」という。どうして、支那だけがこんな現代に容れられぬ説を固持するのかというに、支那の古聖は政治を「王道」と「覇道」とに分かち、
「王道を以て、理想的な政治とし、徳を以て仁を行うものを王者としている。これに反し土地を重ずるを覇道として之を斥ける。王道より観れば土地は国家の要素ではない。国家は人であって、土地はこれを養う手段に過ぎない。」
として居る。支那人の国家観念はこれを以て知ることができる。

 支那人は古くから、前に述べたような考えを有っていたので、支那の政治とか制度とか、文化とか、或は礼楽典章等の総てが、国家というものを超越して居る。支那の文化や政治は、読書人の文化や政治で、社会民衆の実際生活とは没交渉であって、国家として必要な、国民教育というものが起っていない。
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posted by 小楠 at 07:43| Comment(4) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国

2007年04月08日

支那人の特質を知る1

政府に頼らぬ支那民衆

 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されている幅広の手帳サイズの本です。
 今回はその上巻の最後の方にある中野江漢の「支那の話」という部分から、支那について、昭和十三年(1938年)当時の人々の支那に対する見方が書かれているところを引用してみます。
 対中外交交渉は、このような支那人の特質を熟知した専門家にやって欲しいものです。
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引用開始
 支那という国は、斯うした「天下思想」のもとに、四千年という永い間、他の国には見られぬ、世界無類の特異な政治が行われて来た。それは、天下は一人の天子[為政者]が支配するというのであるが、その天子なるものは定まっておらぬ。誰でも「天子」になることができる。実力があれば天下を征服し、徳政を施せば天下は統一されるのである。
 そこで、支那では、英雄、豪傑を初めとして、盗賊、游侠、無頼漢に至るまで、志を有する者が、天下国家を争うた。そういうわけで、支那では「革命」が是認され、天下争奪のために戦争の絶えたことがなく、二十幾回も朝廷が代わっている。

 そうして居る内に、いつとはなく、朝廷[為政者]と、人民とは分離して、全然別個のものになってしまった。支那の民衆は、朝廷の興亡には何等の関心を有たない。為政者は誰であってもよいのだ。種族からいっても、必ずしも漢人でなくてもよい。遼、金、元、清の如きは、漢民族が野蛮扱いにして来た夷狄であるが、これに対しても、反対もせねば、不満も言わぬ。
 ただ民衆の求むるところは「安居楽業」である。世の中が平和で、自分の仕事を楽しみ、生活が安全であればよい。自分のことは自分で処理してゆけばよい。政府の保護を受けるなどということは毛頭考えて居らぬ。政府からは何もやって貰わなくともよい。どちらかといえば、なるだけ干渉して貰いたくないと望むのである。

 そこで支那の為政者は、為政者として全民族の上に君臨しては居るが、他の国家のように、一から十まで国民の生活に干渉するようなことはしない。人民には、なるだけ手を触れぬようにする。自己の存続の外には何事も考えなくともよいことになっている。だが、自己を保持するためには費用が要る。人民は、その費用を負担すればよい。税金さえ納むればそれでよいのである。支那の為政者と人民とは、恰度(ちょうど)、家主と借家人というような関係と見て置けばよい。その借家[国]に住んで居るから、家賃[租税]を払うのは当然のことである。為政者は「家主」に当る。官吏は家主の代理をする。「差配」のようなものだ。
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2007年04月07日

支那の話その2

世界の謎、支那の見方

 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されている幅広の手帳サイズの本です。
今回はその上巻の最後の方にある中野江漢の「支那の話」という部分から、支那について、昭和十三年(1938年)当時の人々の支那に対する見方が書かれているところを引用してみます。現在にも参考になるのではないでしょうか。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)

速報
何だか中国で新しい人種が発見されたようです。その名は血奴

引用開始
 先年ワイントン会議の時に、フランスの代表ブリアン氏は「支那とは何ぞや?」という突飛な質問を発した。当時「今頃、支那とは何ぞやもあるまい」と、世界的冷笑の的となったが、さてこれに対して明確なる解答をなし得た者は一人もなかった。
 さすがに雄弁を以て誇る支那代表すらも、一言も答えることができなかった。それは他国の代表は勿論のこと、支那人自身が「支那を識らぬ」からであった。

 そればかりでない。この質問は、次にジュネーヴで開かれた国際連盟会議に於ても亦繰返されて、世界各国の支那に対する認識の不足が暴露された。この「謎」を解かんがために、世界の人々は、いろいろな方法を以て、支那研究に没頭して居るが、研究すればするほど,解らなくなるのが支那であるといわれている。・・・・・
 然らば「どうすれば解るのか」「如何にせば謎がとけるのか?」というに、それはわけもないことである。一言に尽せば「支那を正しく観ればよい」のである。正しく観るということは、いろいろな方法があるが、要するに次の二項を心得ておけばよい。

一、支那を計るには、「支那の尺度」を以てすればよい。[全然異っている他国の尺度を以て、支那に当嵌てみても、寸法が合わぬ。どうしても正しい答えが出て来ないのである。」

二、支那を観るには「支那式の眼鏡」を以てすればよい。[天体を覗くには望遠鏡を以てし、黴菌を見るには顕微鏡を以てしなければならぬ。これを反対に用いては皆目わからぬ。如何に精巧なる写真機でも、そのピントが合わねば撮れるものではない。」
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2007年04月06日

支那の話

日本と支那の関係

 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本です。
 今回はその上巻の最後の方にある中野江漢の「支那の話」という部分から、今と同じように、当時の日本と支那の疎隔の原因についてのところを引用してみます。現在にも参考になるのではないでしょうか。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
nakano.jpg

引用開始
【日支疎隔の責は何れにあるか】
 然らば、日支の疎隔は、支那側の主張するが如く、其の責、日本にのみあるかというとそうではない。私をして忌憚なく言わしむれば、その最大原因は、日本側よりも寧ろ支那側に存すると思う。即ち、

[一]日本に対する嫉妬心に因づく。
 支那人は、日本の国運隆興に対して、常に嫉妬心を懐いて居る。彼等は日本の国力発展を呪詛せぬまでも、断じて歓迎せぬ。一体支那人は、個人としても甚だ嫉妬心が深く、猜疑心が強い。これが一つの国民性となって、男女、君臣、父子の間柄でも、常に嫉妬と猜疑に終始して居る。そこで、過去数千年間、東洋の盟主国として、先進国として国際間に重きを置かれた支那が後進国である日本のために凌駕せられて、その後塵を拝せなければならぬような境遇に立ったので、自負心と嫉妬心の強い彼らが、日本に対し好意を持たぬのは当然である。
 それが領土が接近し、同文同種というのが返って悪い結果を生んだ。猜疑や嫉妬は、多く近親の間に生じて疎遠の裡には起らぬ。個人の場合でも、零落して行く本家は、分家の繁栄を嫉妬し、分家の忠言には兎角耳を貸さず、却って他人の勧告に従い、その伝来の家宝を手放す際にも、之を熱望する分家よりも却って他人に売払うのが人情である。この理から推して考うれば、支那人の心裡がよくわかる。

[二]日本に対する猜疑心に因づく。
前項で述べたように、日本の支那に対する行為を総て侵略的と猜疑する。甚だしい誤解である。この誤解より「排日」運動が起った。

[三]「以夷制夷」政策に因づく。
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2007年01月04日

百人斬りも大嘘

中国側の「上訴申弁書」

当時の朝日新聞の報道も見て下さい。

 多くの方がご存知の「百人斬り事件」についても、鈴木明著「新『南京大虐殺のまぼろし』」から引用してみます。
画像は陥落後の南京での治療活動 kanraku.jpg

引用開始
 ティンパーレーが書いた『戦争とは何か』の最後の部分には「南京での殺人競争」という項目があった。東京にいたアメリカ側検事官が、このことを見逃すはずはない。・・・
 この記事に関連した東京日日新聞の記者は、検事側事務官に呼ばれて事情聴取を受けたが、日本人記者は、「これは当時の“戦争において読者の戦意高揚をはかるため”に書いた記事で、私は当人から話はきいたが、その現場を見たわけではないし、すべて伝聞である」と答えた。・・・
 その上、「南京地方法院首席検察官」の陳光虞から送られてきた供述書にも、「百人斬り」の話は出ていなかった。

 どちらにしても、アメリカ当局はこの「百人斬り」については、「東京裁判」の本裁判では無論のこと、個人の犯罪を裁く「戦時法規を無視したC級裁判」としても、このことを立証し、有罪に持ち込むことは不可能であると判断し、起訴はしないことにした。
 これから数ヶ月経って、向井、野田両名に対して、中国側から「容疑者引渡し」の要求がきたのである。・・・・

 ただ、僕は「前作」の中で、奇蹟とも思える中国側の資料を、向井、野田両名の遺品の一つとして紹介した。・・・・これは内容からいっても文章からいっても、明らかに、弁護人崔培均が書いたものであり、「陳某」が日本語に翻訳したものである。・・・・
 以下は「上訴申弁書」本文を「現代日本語」に訳したものであり、カッコ内は鈴木の註である。

 「被告向井敏明と野田毅は、民国三十六年十二月十八日に、国防部審判軍事法廷で、死刑を即決されました。しかし、この判決に不服がございますので、左の通り上訴申弁書を提出致しますので、再審をお願い申し上げます。
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posted by 小楠 at 10:02| Comment(8) | TrackBack(1) | 書棚の中の中国

2007年01月03日

ティンパーレーの正体

ティンパーレーは国民党中央宣伝部の顧問だった

 最近アメリカでいわゆる「南京大虐殺」の映画が製作されるというニュースがあり、未だに中国の大嘘を世界に蔓延させるという事態に、日本としても徹底して抗議をする必要を感じます。
当時の朝日新聞の報道も見て下さい。
鈴木明著「新『南京大虐殺のまぼろし』」から引用してみます。
写真は大虐殺真っ最中の南京の様子です。拡大可
kanraku01.jpg

引用開始
 ティンパーレー(田伯烈)の『外国人の見た日本軍の暴行』、この史料は「南京大虐殺」を語る上で、戦前から、特に中国では有名になった本といわれ、「東京裁判」でも、「南京難民区」の実状を語る証人に選ばれたのは、この本でティンパーレーに手紙を送った人たちであった。
 しかし何故か「東京裁判」にティンパーレーが呼ばれることはなかった。そればかりではなく、ティンパーレーがどのような人であるかは「マンチェスター・ガーディアンの記者である」という以外は全くわからず、僕はイギリス、アメリカ、オーストラリアの人名辞典を頼りに、ティンパーレーなる人物を探しまくったが、どの人名辞典にも「Timperley」の名はなかった。

 僕が、ティンパーレーの原著作と思われる『What war means : The Japanese terror in China 』と、その最初の中国語訳と思われる『外国人目睹中之日軍暴行』を初めて発見したのは、全くの偶然であった。・・・・
 何回目の中国旅行のときであったか、A君(中年のガイド役)はある日、七百頁ぐらいの『近代来華外国人名辞典』(中国社会科学出版社、1981年12月出版)の奥付がある本を持って来て、「多分、これじゃないか」と、なにげなくこの、やや手あかによごれた一冊の本を渡してくれた。彼の友人が以前買って、結構便利に使っている、という人名辞典であった。そして、そこに「田伯烈(ティンパーレー)」の名前が出ていたのである。

 たまたまコピーもなかったので、これはそっくり手書きで書き写した。
・・・「(訳文)ティエンパレー、ハロルド・ジョン・ティエンパレー、1898年生まれ。オーストラリア人、第一次大戦後中国に来る。ロイター通信の北京記者となる。その後マンチェスター・ガーディアンとAPの北京駐在記者を兼ねる。1937年盧溝橋事件後、国民党政府は彼を英米に向けて派遣し、宣伝工作に当らせ、次いで国民党中央宣伝部の顧問に任命した。編著に『中国に於ける日本人の恐怖』(1938年)一書がある」
 ついでに同じ本の中でエドガー・スノーの箇所も参考に見て、その内容の正確さを比べてみたが、スノーの部分は完璧といってもいい正確さであった。・・・・
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2006年12月21日

中国人石平氏の天皇観

「天長地久」の皇室と日本民族の幸福
  
 石平著「私は毛主席の小戦士だった」から引用してみます。
 石平氏は「中国民主化運動の世代」といわれている1980年代最初の80年に大学一年生となった方で、1988年に来日、以後日本で評論活動をされています。
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引用開始
 かつて、よく京都を散策したから、京都御所へは何度も行った。・・・
 ヨーロッパやロシア、あるいは中国などの大陸国家から来た見物客であれば、おそらく、誰もが、「エンペラーの宮殿」である、この御所の質素さと無防備さに、驚かずにいられないであろう。
 同じアジアの、広い溝と威圧的な城壁で囲まれている、北京の紫禁城の勇姿を前にしては、この御所というのはせいぜい、どこかのご隠居様が、余生を楽しむために造った、茶室付き別邸程度のものであろう。

 しかし、京都御所は、それらの金城鉄壁の居城や、壮大華麗な宮殿よりも、はるかに勝っている点が一つある。
 それはすなわち、御所のかつての主である天皇家は、今でも、この日本国の万世一系の皇室として、最高の地位にとどまっているということである。

 ヴェルサイユ宮殿に君臨して、「朕は国家なり」と豪語したフランスのルイ14世の死去から七十数年後の1792年に、ブルボン朝の王政が革命の嵐の中で崩壊し、その翌年には不運のルイ16世が王様の身でありながら、ギロチンで命を落とした。ロシアでは、クレムリン宮の主人である、ロマノフ朝も1917年の革命において滅亡し、ニコライ2世一家の惨殺によって、その血統まで絶たれたのである。
 そして、わが中国の歴史において、北京の紫禁城を皇居に使ったのは、明と清という二つの王朝であったが、言うまでもなく、今は、そのいずれも存続していない。・・・・

 天皇家は、京都の一角にある、あの「みすぼらしい」御所に悠然と鎮座して、多くの激動の時代を乗り越え、東京遷都を通して現在に至るまで、その最高の地位と最高の品位を保ち続けてきたわけである。
 イギリスの王室やタイの王室など、日本の天皇家と類似するような存在は他にもあるが、しかしそのいずれもが、歴史の悠久さにかけては、日本の皇室の比ではない。
 言ってみれば、世界中でもっとも「貧相」な「宮殿」に住んでいた日本の天皇家こそ、この世界史上における生命力のもっとも強い王家なのである。
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2006年12月20日

中国に見た反日の嵐

理由なき憎悪の理由探し

石平著「私は毛主席の小戦士だった」から引用してみます。
 石平氏は「中国民主化運動の世代」といわれている1980年代最初の80年に大学一年生となった方で、1988年に来日、以後日本で評論活動をされています。
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引用開始
 中国へ頻繁に帰るようになったのは、1997年以後である。・・・・
 国内で会った中国人たちが、日本のことを口にする時、誰もが憎しみの感情をむき出しにし、軽蔑と敵視の態度を露にしていることに、私はただただ、驚くばかりだった。・・・・
 食事会とかの社交の場や友人同士の集まりなどで、私という「日本帰り」が同席していると、必ず一度は話題が「小日本」のことに移っていく。
 たいていの場合、私に対する質問から話が始まる。「日本での生活はどうですか、たいへんでしょう」「日本人によく虐められているのでしょうか」「留学生は皆、小日本のことを憎んでいるのでしょうね」といった質問が、まず飛んでくる。

 答えに窮した私の顔を見て、皆は物わかりのよい微笑を浮かべながら視線をそらして、「質問攻め」を打ち切る。が、今度は彼らの間で、日本への罵倒合戦が炸裂するのである。

「あんな国、絶対許せないわ。昔から悪いことばかりやっている」と、Aさんは憤懣を言う。

「そうだよね。侵略戦争で、どれほどの中国人を殺したか」と、Bさんが相槌を打つ。

「だから俺が前から言っているさぁ。原子爆弾でも何発か使って、日本を地球上から抹殺すべきだ」と、C君は興奮して言い放つ。

「原子爆弾だけではダメだ。恨みを晴らすには、やはり一人ずつ殺した方がいい。今度、東京大虐殺をする時、俺の腕前を見せてやるぜ」と言いながら、D君は片手で人の首を切る仕草をしている。

「しかしね、日本人というのはそもそも進化が遅れている人種じゃないかしら。半分は人間で半分は豚なのね。やはり人類進化の不良品だわ」と、Eさんが皮肉たっぷりの「珍説」を展開する。

「そうしたらさ、今度日本に攻め込んで全員殺した後に、日本をそのまま、中国人のための養豚場にしようじゃないか」と、D君がわざと真面目な顔をして「提案」する。・・・・
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posted by 小楠 at 09:16| Comment(6) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国