2008年04月15日

将軍の小姓の身の上話4

維新の将軍慶喜に仕えた小姓4

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。

引用開始
 戦闘の知らせは、たちまちひろがり、もちろん将軍の耳にも入った。この日、御前は、後になって官軍と知られる側に加わっていた主な一大名の家老に謁見を許した。この家老は、将軍に毅然とした態度を取るように促し、そうすれば、刀一本たりとも、将軍に向って抜かせないと保証した。
 突然、使者が駆け込んで来て、伏見の戦闘が始まったことを告げた、ただちに混乱状態が起った。
戦闘は三藩に有利だった。その最中に、極めて嘆かわしい裏切りが起った。伏見に布陣していた津藩が敵方に投じて、友軍に刃向かって来た。この大名の偉大な祖先は、家康の最も忠実な部下の一人だったし、誰も、こんな卑劣な戦場放棄が起ろうとは、考えても見なかった。
 養父が将軍に従って大坂に行った時、私も同行した。それで、私は事態の進展を目撃していた。

 戦闘と幕軍の敗退を聞くと、慶喜はただちに江戸への出発準備を命じた。そこで養父は急いで、心斎橋近くの舟小屋から小舟を手に入れ、将軍はこれに乗って、在港中の汽船へ急いだ。将軍と数人の御老中と役人は、無事に開陽丸に着いた。ただちに蒸気があげられ、進路を江戸に向けたそうだ。
 今や、あらゆる困難が始まった。私自身についていえば、どうやって逃げたのかわからない。養父は御前と同行し、私は一人城内に残された。大部分の兵士が恐怖にとらわれた。たくさんの千両箱を見たが、誰も最初は、それを持ち出そうとは思わなかった。みんな自分の命のことだけ考えていた。ついに、ほかの者よりも冷静だった一人の役人が全兵士に、全力を尽して、紀州へ向うように命じ、千両箱はその路銀にあてるために持ち出された。
 奥女中は、開戦の数日前に、海路から江戸へ行った者もあったので、そこは、すでに人気がなかった。
 三藩の兵士は素早く大坂に着き、徳川軍が放火していた城を占領した。そしてくまなく捜索した。その間にある者は外国公使館へ向った。ここでも人気はなかった。
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2008年04月14日

将軍の小姓の身の上話3

維新の将軍慶喜に仕えた小姓3
今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。

引用開始
 私は、丈夫な身体ではないが、幼い時から父に剣術を教えられていた。それで、剣術では、相手として人から軽蔑されることは決してなかった。また槍と弓術の使い手だったが、特に所望されないかぎり、殿中では自分の力量を見せたことはなかった。
 将軍の一番のお気に入りの競技で、また非常にすぐれていたのが打球(馬上ホッケー)で、小姓達に競技に加わるように命じるのが常だった。また時には、一緒に射撃をするように命じることもあったが、これは、めったになかった。私は馬術では上達していなかったが、少しは心得があり、これは将軍が教えて下さった。

 以上が殿中における表面の生活だったが、私どもはみな、主人の心に重荷がかかっていることを知っていた。この重荷に堪えるには、毅然とした人物が必要だった。私どもは始終、将軍の傍にいたが、幕府内部で起っている事柄を聞くことはなかった。
 将軍が普段よりも落ち着かなく見える時もあったが、概してもの静かで、無口だった。今となっては、将軍の生活が幸福だったというわけにはゆかなかったと思う。というのは、友人がいなかったからだ。
 大名でも、将軍とははかり知れないほど、身分の低い者と見なされていたので、彼らと交際することは不可能だった。将軍の前に出る大名は、床まで頭をすりつけて、会見の間中この姿勢でいなければならなかった。したがって、将軍との食事に招かれることはなかった。将軍が大名や他の人と会うのは、厳密に政治に限られていて、それも作法ずくめだった。
 大坂と兵庫を外国人に開港する時期が迫って来た頃の京都の興奮状態を、私はよく覚えている。当時十五歳にすぎなかったが、それでも、私の外国人に対する偏見が、他の日本人同様に、強かったことを十分覚えている。将軍が、外国人について何かいわれるのを聞いたことはなかった。しかし、大坂で仏国公使が将軍を訪れ、公使は、贈物として徳川家の紋入りの刀を授けられ、早速それを革帯にさして、城を辞去した時、私はお傍にいた。
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2008年04月12日

将軍の小姓の身の上話2

維新の将軍慶喜に仕えた小姓2

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。

引用開始
 私が立ち去ろうとした時、御前は私に、「大きな漢字で詩の一節を書いてみよ」と仰せられた。侍女の一人がしとやかに硯や筆などを持って来て、私に渡した。私は五、六節したためた。しかし、御前はすぐに私の帰宅を許さず、気晴らしのために使う小舟のある池へ、みずから連れて行って下さった。しばらくの間、御前は舟を漕いだ。また網で魚をとり、網の投げ方を教えてくれた。そのあとで彼は、一羽の鷹が空に美しい輪を描いているのを見て、短銃を取り、発砲して殺した。これを見て、私は、将軍が射撃に非凡な腕を持っているという噂が、本当であることを知った。その後将軍が射撃するのをしばしば見たが、滅多に的をはずしたことはなかった。
 将軍は非常に親切だったので、その善良を強調したいと思う。私が辞去する前に、将軍は私に外国のオルゴールと数枚の洋紙――当時日本人の間では比較的珍しかった――と鉄砲、射止めた鷹を下さった。文字どおり、私は将軍の恩を身に受けて帰宅した。これが私の慶喜様についての最初の体験だった。

 帰宅すると、養父は、私が非常に光栄に浴したことを知って、非常に喜び、のちのちまで長い間、語り草となった。その後しばしば御殿に出向き、いつも将軍から、同じように厚遇され、侍女や、その他御殿のすべての人からも厚遇を受けた。
 この頃は、私にとって平穏な日々だった。私は、すぐれた漢学者から教えを受け、上達と勤勉を賞められるのが好きだった。私はこの首都で、美しさと古さと、歴史的な由緒で有名なものはすべて見に行き、人生は全く晴天であるかのように見えた。特にその頃を振り返ってみる時、輝く広い光の道がこの時期を照らしていて、そのために、それ以前のものも、それ以後のものも、すべて一層暗い闇に投げ込んでしまう、と思われた。養父は限りなく愛してくれ、私の未来は、輝かしく、幸福な生涯となると、定まっているように思われたが、永久には続かず、これについては、説明する機会が別にあるであろう。
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2008年04月11日

将軍の小姓の身の上話1

維新の将軍慶喜に仕えた小姓1

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は徳川慶喜young14.jpg

引用開始
 殿中における一橋(徳川慶喜)の日常生活を一瞥することは、すべての読者に、特に興味のあることであろう。以下は、将軍の就任時から大坂退去に至るまでの間、小姓として勤めた一紳士が、私に書いてくれた一文だ。これは数年前、雑誌『ファー・イースト』にも載せたが、もう一度掲載する価値が十分あろう。

彼の登城、家茂の親切
 私は1853年(嘉永六年)越前の国の福井市の近くの村に生れた。父は同藩のサムライ、剣術の指南役として有名であり、この道では、私も幼少から、かなり上達していた。十歳で、私はある人の養子となり、京都に連れていかれた。その人は将軍家に勤めていた。
 家茂が京都に来た時、私の養父に、時折私を遊びに、城内に連れて来るように命じた。これが私の城中へのお目見えでした。私は将軍の小姓役を命じられたことはなかったが、しばらくの間、その役を勤めた。家茂の死去から幕府の崩壊までの期間に、私は外国人読者にとって、多分興味深いと思われる多くのことを見聞した。

 家茂が、1858年(安政五年)に前将軍の死後、将軍職に任ぜられた時、まだほんの青年だった。前将軍は、ペリー提督のもたらした米国大統領の親書を受け取ったのち、間もなく死去した。
 家茂は御三家の一つ、紀州候の子息であった。御三家とは、水戸、尾張、紀伊という将軍家の一族で、この三家だけから、将軍が選ばれる。家茂は、ミカドの妹で、非常に可愛らしい和宮(年は彼とほぼ同じ)と結婚した。
 私が始めて将軍にお目にかかったのは、1866年(慶応二年)だった。私の養父は御側御用人、すなわち、小姓の頭であった。これは、城内の全部署を監督すると同時に、将軍の身のまわりの世話や御老中の文書をすべて将軍に伝える役を含んだ職務であって、重要な仕事だった。当時はまた、全大名が毎年一定期間江戸居住を強制されていて、彼らが江戸に着くと、登城して将軍に祝賀の言葉を述べ、例外なく国許から持参した贈物を献上することになっていた。この身分の高い来客の案内をするのが、養父の仕事であって、もちろん非常に重く見られていた。
 私は江戸には行ったことはない。私が始めて京都の城――有名な二条城――に連れて行かれたのは、将軍が上京した時だった。

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2008年04月10日

ヘボン博士のローマ字

ヘボンの『和英語林集成』

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真はヘボン博士
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引用開始
 「宣教師は外国交際の害毒となっている」と、常にある人々は強調してきたし、たぶん今後もそう主張し続けるだろう。その主張とはこうだ、「中国人と日本人とが外国人に示している憎しみは、すべては宣教師に対する嫌悪に由来している。したがって外国人と日本人の間に友情を拡める最善策は、宣教師を一人残らず、どんな名目でもよいから、船に乗せて送り帰してしまい、日本人の宗教に干渉しないことだ」と。幸に、これはすべての人の意見ではないし、多数の意見でもないと思う。これは、極めて誤った意見だ、と私は確信する。

 宣教師が有益であるか、どうかという一般問題に立ち入るつもりはない。教団内の個人個人の宣教師が、日本人の間で果した善事については、多くの実例が挙げられやすい。だが、若干の宣教師の労苦が、中国と日本の双方において、信者以外の同胞に与えた恩恵まで、疑う人はあるまい。
 神奈川が開港すると、真っ先に日本に来た人々の中に、家族連れの二人の宣教師がいた。S・R・ブラウン氏とヘボン博士だ。二人は神奈川で、アメリカ領事館からほど遠からぬ寺を住居とし、数年間ずっと住んでいた。二人とも長い間中国で主(キリスト)の教えのために働いていた。ブラウン氏は、その間弟子を持ったが、そのうちの数人は今、中国を西洋文明の方向へ進ませるのに、非常に熱心な働き手となっている。
 ヘボン博士は医者で宣教師だった。その奉仕は、特に価値のある部類のものだ。というのは、その医術はすぐれており、苦しんでいる多くの長い病気の患者を救うことが出来るという理由から、他の者には出来ないことまで許されていたからだ。
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2008年04月09日

将軍と外国人との交際

将軍自身が日本人と外国人の楽しい交際を始めた人

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
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写真はハリー・パークス

引用開始
 5月2日(1867)、パークス卿とその随員は、将軍との私的な会見を許された。会見の終わりに、騎馬護衛隊は将軍の前で、分列式を行い、アプリン大尉の指揮で、演習を見せた、これは将軍を大層喜ばせたようだ。
 ついで英国公使と随員は、大晩餐の用意された部屋に案内された。晩餐はフランス風の料理で提供され、皿やグラスはすべて最高のヨーロッパ製品であった。将軍自身が主人役をつとめた。彼が上座につき、右手にパークス卿が坐った。
 食事の後、デザートがテーブルに出され、将軍は英国の女王と、ついで公使の健康のために乾杯を提案した。この二つの乾杯に対して、パークス卿が答礼の乾杯をした。一行が席を立つと、別棟に会場を移し、コーヒーが供された。将軍の役人が、将軍の贈物を持って来た。

 翌日は、オランダ公使が、将軍と私的会見を行った。あらゆる点で、英国公使の場合と同様だった。数日後、米国公使が到着すると、彼も同じように招かれた。最後にレオン・ロッシュ閣下が将軍の歓待を受けた――その際には、ゲリエール号の軍楽隊が参列した。
 私的会見の数日後に、同じ順序で、公式の会見が行われた。
 公式会見では、日本側役人は殿中の正装で出席した――床の上に長く、後方に引きずる長袴、上衣には、着用者自身と将軍の紋が前側に刺繍してあった。頭には、奇妙な小さい黒い帽子をかぶっていた。
 公使団が城に着くと、外国事務総裁に迎えられ、将軍の前に導かれた。一行は将軍にうやうやしく頭を下げて、一言、二言挨拶した。これに対して、将軍は起立して挨拶を受け、適切な言葉で答礼した。
 ついで一行は、老中筆頭の板倉伊賀守によって別室へ案内され、将軍家の紋を縫い取りした豪華な殿中用装束を贈られた。将軍は、前側に朱色で紋を縫い取りした袖のついている非常に豪華な白絹の召物を着けていた――そして幅の広い袴をはき、小さい黒帽子をかぶり、腰にはみごとな刀を差し、もう一本は脇の刀架にかけてあった。
 私的会見の際には、部屋はすべてヨーロッパの一流のぜいたく品で飾ってあった。床には、豪華なブラッセル絨毯を敷き、壁には、花鳥の描かれている金箔紙が張ってあった。

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2008年04月08日

将軍職を固辞した一橋

一橋(慶喜)は将軍職を受けたがらなかった

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は薩摩藩の武士たちF・ベアト写真集より
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引用開始
 一橋は主権を握ることを固辞した。誰も、彼以上に、はっきりと自分が遭遇しなければならない難局を見通してはいなかった。そこで彼はミカドに対して、「将軍職を免じるか、さもなければ、全面的な信頼を与える、いつでも自由に会見する、さらに内政同様、外国人との条約維持についても自分を支持する、また職務に忠実でなかったり、無視したりするという馬鹿げた報告がミカドのもとに届くかもしれないが、それに耳を貸さない」ことなどを懇請した。
 彼はさらに、「征長戦は、有利な結果にはならないようだし、おそらくは同様の政策へ他の大名の心をかりたてる傾向にあるから、これを中止すべきだ」と提議した。ミカドは、「すべて一橋の望むままにし、彼を全面的に支持しよう」と約束した。

 しかし諸大名からの猛反対が懸念された。最近まで、一橋と薩摩は非常に仲が良く、ともにこの国で改革を行いたいと望んでいる、という話だった。こういう二人の人物が、この目的のために一緒に働けば、かならず良い方に大影響があるというのが、一般の意見だった。ところが、しばらく後で、一橋は、薩摩が目指しているのは、単に政治改革ばかりでなく、将軍家の交替であることに気がついた。かくて、両者の間は冷たくなった。
 しかし、薩摩はまだ数ある大名のうちの一人にすぎなかった。一橋は、数人の大名が最近の数年間取って来たやり方を続けたのでは、政治をうまく運ぶことが出来ないことを、よく知っていた。そこで大名会議が大坂で開かれた。この会議には、最も重要で、有力な大名の多数が出席した。島津三郎も含まれていて(松平大隈守という新しい称号で)、薩摩代表として出席した。新将軍も出席し、自ら議事を始めた。
 将軍は始めに「自分が選ばれ、信任された職を受諾するのはいやだ」と素直に述べた。また、「この地位は諸侯の積極的な協力がなければ、守ることが出来ない。公然とした敵意と不満の徴候が現れたならば、ただちにこの職を捨てるに躊躇しない」と。同時に、自分を支持するために、どんな手段を諸侯に求めているか、ということを知らせるために、彼は次のことを明らかにした。すなわち、「将軍として、自分は、正統であり、また責任のある幕府の統治者としての自分に対し、諸侯の助力と忠誠を期待する、さらにその意見を自分に聞かせたい時にはいつでも、ミカドに次いで国家の元首であり、徳川家創設者の権現様の正統に選ばれ、承認された後継者に対するものとして、尊重出来る、礼儀にかなった手続きをふんで、知らせてもらいたい」と。
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2008年04月07日

維新前の宇和島訪問

維新前の宇和島から富士登山

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は横浜の茶屋F・ベアト写真集より
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引用開始
 「1866年8月2日(木曜日)薩摩藩主の二番目の弟が乗艦してきて、写真を撮ってもらった。午後には、プリンセス・ローヤル号は、十五発の礼砲を受けて、鹿児島を去った。
 ついで航路を宇和島にとった。提督は、その港で、ハリー・パークス卿と落ち合うつもりであった。(伊達)遠江守が特に彼らを招待していた。
 宇和島は、海図では間違ってクガマと記入されていたが、ここには、速くて愉快な航海の後到着した。二人の利口な日本人水先案内が、すぐわれわれを港内へ向う水路に案内してくれた。
 この土地については、乗艦者はみんな、大きな興味を見せていた。この予期は失望に終らなかった。長崎の美しい港を見て喜んだ者ならば、宇和島もある程度想像がつくというものだ。というのは、四方八方にそそり立つ険しい緑の丘と、港内に碇を下ろす船が安全だという点で、この二つの港は非常に似ている。
 しかし宇和島の方が、ところどころ、小川があったり、入江になっていて、長崎よりも変化に富んでいる。蒸気をたいて入りながら、われわれはみな、この美しさを喜んだ。町と居城が高い連山の下に見え隠れしている側では、特にそうであった。

 8月4日(土曜日)、午後五時、われわれは碇を下ろした。伊達遠江守の家臣が乗艦して来た。翌日には、藩主とその兄が六人ほどの家来を連れて、公式訪問ではなく、おしのびで来た。この兄は前の藩主だったが、将軍に反対した結果、弟のために辞職するように命ぜられたことを説明しておく必要がある。しかしながら彼が実権を握る人物で、弟の同意を得ていることは明らかだ。
 この日彼らは艦上で七時間ばかり過ごした、彼らは大変興味を持ち、帰るのを残念がるほどだった。この人達が、単に日本の学問に通暁しているばかりでなく外国の学問にも通じていると知って、われわれはいくぶん驚いた。例えば、ウォーターローの戦いといった話題で、話が出来たのである。
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2008年04月05日

維新前の薩摩訪問

パークス卿とキング提督の薩摩候訪問

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は下関前田砲台を占拠したイギリス軍F・ベアト写真集より
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引用開始
 この訪問に関係の記事は、プリンセス・ローヤル号に乗艦していた一士官が、横浜に到着した際に、私によこしたものだ。
「1866年7月27日、太陽は晴れた空に輝き、海は穏やかで美しかった。この日、英艦プリンセス・ローヤル号は、サーペント号とサラミス号を率い、蒸気をたてて、鹿児島港に入っていった。海は荒れ、風は激しく、左右の厳然たる砲台から砲弾の雨が降ったあの時(鹿児島戦争)に、この湾にいた者もいく人かいた。今ではその砲台は静まっていた、ただ一基の砲台を除いて。この砲台の砲手は提督旗に礼砲を発する準備をしていた。鹿児島戦争の時の戦闘のための訪問と、今回の友好訪問とを、われわれは比較せざるをえなかった。今回の訪問は、薩摩候松平修理大夫が長崎にいる出向役人を通して、ハリー・パークス卿に伝えた招待によるものだった。

 正午少し過ぎ、堂々たる順序で、三隻の軍艦は、蒸気をたてて港に入った。碇が下ろされると、町近くの砲台が、十五発の礼砲をゆっくりと、しかしみごとに間をおいて発した。プリンセス・ローヤル号も礼砲を返した。サラミス号に乗艦していたのは、パークス卿夫妻、ウィリス博士、アプリン大尉であった。プリンセス・ローヤル号には、シーボルト、ローダー、T・B・グラバー氏、堀という日本人通訳が乗っていた。
 薩摩の首席家老や、その他の役人が乗艦して来て、日本の紳士に特有の、上品で丁寧な物腰で敬意を表した。彼らに、これからの行動の意味を説明したあとで、日本側の旗に対して、二十一発の礼砲が発射された。また砲台から礼砲が答えた。
 この日には、公式訪問はないことになっていたが、上陸して見物したいと望む士官には、午後には護衛がつくという準備がされた。午後四時、ハリー・パークス卿、提督と、多数の士官が上陸して、町を歩いた。これまで一人のヨーロッパ人も見たことのない当地の人々が、数千人も道の両側に並んだ、道の中央は役人によって、まったく整然と、あけられていた。
 非常に清潔で、所によっては、全く絵のように美しい町の中を通ってから、一行はあるお寺に着いた。
そこには果物、菓子、シャンパン、酒、ビールなどのもてなしの品が用意してあり、口のかわいた客達に丁重にすすめられた。

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2008年04月04日

日本人の国民性

維新当時に見た日本の国民性

今回ご紹介している「ヤング ジャパン2」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
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引用開始
 日本人は、他の性質にもまして、常に一つの特性――せんさく好きで有名だ。彼らは静かに外国人の家の中に入って来て、「部屋を見せてもらいたい」と頼む。これは必ずしも気持のいいことではないが、断る人はめったにいない。確かに、こんな機会にめぐまれた人々は、見たこと――部屋の大きさ、優美な家具、輝いた鏡、高価な皿、デラックスな寝室、すべてにゆきわたっている清潔と心地よさなど――をなんでも報告した。

 このようにして、次第に日本の紳士は自宅の中に一室は西洋式に設備する習慣を作り始めた――立派な畳の上の真ん中に、みごとな正方形の絨毯や毛布を敷いたり、絨毯の真ん中に豪華な織物をかけたテーブルをおき、そのまわりを椅子で囲んだり、障子一枚には少なくともガラス窓をはめ、時には部屋の壁に絵や鏡をかける。
 肉を食べ始め、好きだという者が多くなった。誰でも、いくらでも、シャンパンを飲み、このようにして、すっかりお気に召したところを見せた。
 だが、まだ公然と洋服を着て、歩く者はなかった。そんなことをするものは、確かにこっぴどく、やっつけられたろう。たが間もなく、彼らは心配なく洋服を着た。なるほど、種々さまざまではあったが、大なり小なり、前向きの動きが現れた。
 もう一つ目に付いたことを話そう。ヨーロッパの子供がよい肉屋の肉で育っている年になるまで、日本の子供は、まだ母親の乳を飲んでいるが、日本の大人は最近まで(現在でも多くの者は)、牛乳を嫌った。これは度し難い。外国人がこの国に出現して以来、いく年もたった後になって、やっとよい牛乳が外国人の日常の需要をみたすようになったにすぎない。手に入るわずかな牛乳も、ほとんどみなヨーロッパ人の肉屋の好意で売ってもらうわけで、その肉屋も、日本のよい牛を数頭飼っていて、おとくいに供給するために骨を折ったのである。

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2008年04月03日

明治日本のお正月

維新期と大変違った新年の祝い方

今回ご紹介している「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は横浜の出初式モース100年前の日本より
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引用開始
 日本の一年のうちで一番、陽気な季節の一つ――正月、すなわち新年について、私はまだ話していない。
 今では、1864年の正月とは、祝い方が大変違っている。それは想像出来る限り、一番楽しく祝う祭日の一つだった。数日前から、たいへんな準備を行った。金持ちの家、役人の邸宅、商店、最もみじめな貧乏人の家でも、すっかり掃除して、清められた。たたみ替えがされ、毎日使うすりへった古い品物――お鉢、米びつ、種々の台所用具、そのほかたくさんの家庭用品――を修理し、新しいものと取り替える。
 餅という、特別な米菓子を用意する。すべてのものが「新しいピンのように」きれいにされた。最上等の着物を用意し、家庭の守り神を掃除して、礼拝し、親友とか、世話になっている人へ贈物を届けた。家の外側は、クリスマスの時のキリスト教国の風習とまったく同じように、飾り立てる。

 なかんずく主な勘定を集金したり、支払ったりして、始末をつけた。こうして人々は新年を十分に楽しもうと、準備した。
 去り行く年の最後の三、四日間は、毎晩この正月用の各種の商品を売る出店――たとえば装飾用の常緑樹や、お飾り、小さなお宮、すなわち木製の小さな神殿、エビやしだ類、その他いろいろな物を売る店――で、ごった返していた街路は、正月となると、つい今しがたの活気にみちた場面とは思えないほど、新年の昼間は、シーンとして人気がなくなる。家の戸は閉められ、正月前数日間の骨折りと騒ぎのうずにまかれて来た人々は、これから先の仕事と娯楽に入る前に、ゆっくりと休んでいる。
 私が、こんなふうに、ひと通り述べて来たことを知るためには、日本人町を散歩する価値はある。飾りは、見た目に美しいというばかりでなく、ある明白な意味――ありふれた興味以上のもの――を持っている。われわれのクリスマスの飾りは、かつては特殊な意味を持っていたとしても、今では、特別の祭の季節を表す常緑樹の飾りに過ぎないが、日本の飾りはそんなものではない。
 昔もそうであり、今でもそうだが、家の表玄関の両側には、松の木と竹を立て、奇妙により合わせたわらなわでそれを結ぶ。このわらなわにはシメカザリというものが下げてある。これは主として茹でエビとみかん、干柿、しだの枝、柏の葉、海草(コブ)で出来ており――そのぜんぶの上に、紙に包んだ炭がのせてある。

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2008年04月02日

外人を見た日本人の反応

江戸湾横断旅行

今回ご紹介している「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は長火鉢を囲む女性たち F・ベアト写真集より
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引用開始
 われわれは甲板のないボートで、江戸湾を横切って、房州地方のある村に上陸した。一行は三人だった。二人は、獲物をたくさん見つけたがっている熱心なスポーツマンで、三人目の男は、『九十九谷』という名前から、読者にも想像のつきそうな眺望を見おろせるという岡にたどりつこうと一所懸命だった。・・・・残念なことに望みの地点近くの場所に上陸しなかったので、われわれが話しかけた人々は、そんな所のことは何も知らなかった――実際にわれわれのひどい横浜なまりのわかるものは、ほとんどいなかった。・・・・

外国人を見た日本人の最初の反応
 まずボートが岸に着いた時、その土地の人はみんな、われわれと言葉をかわすのに、気乗りがしないらしかった。彼らは明らかにおびえていた。だが好奇心から、逃げ出すのを押さえてはいたが。われわれの間で集められる限りの最上の日本語で、われわれは『茶店に案内してくれ』と頼んだ。ところが誰一人答えようとしない。もし汚い顔をした腕白小僧がいなかったら、われわれは打ち解けるのは、相当に難しかったと思われる。
この子供は大胆にも、銃にさわってみて、無作法を叱られなかったとなると、一層大胆になって、銃の持主のまん前に立って、顔中を口にして、ニタニタと笑った。そんな次第でこの腕白小僧は、次に好奇心にまかせて、一行の一人が腕にかけていた防水マントの布地を、行儀もわきまえずに、さすってみた。それでマントの持主は、この子供の肩にマントをかけてやり、旅行カバンを運んで行くうに、と差し出した。そして『村で一番立派な家に案内せよ』と話しかけ、『この仕事をすれば駄賃がもらえる』ということをわからせた。これで十分だった。子供は小走りした、われわれは彼について行った。これまで外国人が足を踏み入れたことのなかった土地に、三人の外国人がいる珍しい光景を見に集った人達も、そろって、彼について行った。・・・・
 しばらく歩いて行くと、ほかの家から、少し離れていて、他の家よりは小奇麗に見える家を通りかかったので、われわれは立ち止まり、戸口のところへ行った。たちまち中にいた者はみな、奥へ逃げ込み、一人の老女だけが障子を閉めようとして、残っていた。だが、われわれがこの家に着くまでに、閉めることが出来ず、中途でやめて、やはり逃げ込んでしまった。もうほとんど夕方だった。
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2008年04月01日

維新当時の日本の魅力

日本の魅力

今回ご紹介している「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は当時の長崎寺町F・ベアト写真集より
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引用開始
 この国の美しさと一般に健康な気候と、日本人の気持のよい誠実さとは(公然と敵意を示す者は別として)、強い誘因となっていた。すべてが珍しく、他国で見るものとは全く違っていて、強い好奇心を呼び起した。訪問者たちは、読んだり聞いたりした知識があって、どんなに大きな期待をかけていた場合でも、決して失望しなかった。現在でさえ、遠くから来る外国人は、この国土と人間とが気に入っている。
 この国土は、少なくともその一般的な特徴には、大した変化はないようだが、人間は、外国人と十分接触するようになったところではどこでも、特に開港場では、その身だしなみや態度が大変変って来た。

 一民族として、日本人はみな柔和で、礼儀正しく、かなりの独立心を持っている。この独立心は、外国人の無愛想で、ぞんざいな振舞いに触れ、刺戟されると、すぐに表面にあらわれた。彼らが外国人から親しみ――これは日本人同士の間の習慣とは全く違っていた――をもって扱われると、この独立心は一層強められた。私は日本に上陸した最初の夜、一つの光景を見て、驚いたことを忘れられない。長崎のことだった。独身の友人達の家で食事をした後、テーブルが片づけられ、みんなは夕方涼むために広いベランダに席を移した。しばらく坐って、しゃべっていたので、若い仲間には、拳闘をするか、木刀で一勝負するのが、時間つぶしには一番よかった。やがて給仕をした「ボーイ」達が来て、見物した。明らかにその楽しみに加わりたいようだった――この望みはすぐにみたされた。彼らの見せた技から判断して、すでに初心者でないことは明らかだった。最初彼らは主人に真向から立ち向かい、ついでお互いに取り組んだ。このような影響下にあっては確かにすべての身分的差別がすぐに消え失せた。

 しかし、いたるところで、外国人との交際の結果は、日本人の行状に害をおよぼしていた。始めて会った時、日本人の挨拶には明らかにへつらいがあったとしても、すぐに消えた。彼らの無邪気、素直な親切、むきだしだが不快でない好奇心、自分で楽しんだり、人を楽しませようとする愉快な意志は、われわれを気持よくした。一方婦人の美しい作法や陽気さには魅力があった。さらに通りがかりに休もうとする外国人はほとんど例外なく歓待され「おはよう」という気持ちのよい挨拶を受けた。この挨拶は、道で会う人、野良で働く人、あるいは村民からたえず受けるものだった。なぜなら、こういう人達は、外国人になんら敵意を示さないし、粗暴な振舞いや侮辱を加えて、怒らせることも、しなかった。
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2008年03月31日

日本の特色は清潔さ

清潔な日本人の生活

今回ご紹介している「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は当時の床屋。F・ベアト写真集より
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引用開始
 多分、住民の身体の清潔なことが、伝染病を防いでいたのだろう。というのは、毎日熱い湯に入浴をしない人はほとんどなかったし、少なくとも一日おきに入浴しない人はめったになかった。
 開港初期の日本における体験談を出版した人々は、江戸で目にとまった婦人の、人前でする行水の話をしている。・・・・さらに本書を書いている現在(1874年)から五年とさかのぼらない頃でも、こんな光景を居留地のすぐ近所で、毎晩通行人は見たし、見ている。私はこの光景を本村から山手へ通じる道の一つでも、また周りの村でも何度も見た。・・・

 1862年頃までの、またもっと後までの日本人町の一つの特徴は、公衆浴場(銭湯)がたくさんあったことだ。ここでは、男女が一緒に入浴していた。当時、ここに住んでいた数人の外国人が示したような世論の力によって、ようやく次第に改められた。横浜でなくなった後でも、江戸では数年続いた。しかし現在では、男女が多くの場合に、今なお一つの浴場を使用してはいるが、概して仕切りで分けられるようになった。中には何軒かは、男女の別が一層完全なものとなっている。
 ところが今日でも、ほとんどの浴場では、男が女の仕切りの中にまで入り、女客の求めに応じて、水をかけたり、あるいは身体を洗う手伝いを仕事としている(三助のこと――訳者)そんなことをしない浴場は、実際あったとしても、一軒位だ。・・・
 日本の農村生活の素朴さは、他国に見られるものと全く同じようだ。ヨーロッパと同様に、日本でも、多くは自給自足の生活である。村はたくさんあるが、村民たちはほとんど、分業をいとなむ程度には発達していない。というのは、仕事の規模が、大変小さいからだ。各村には、一種の雑貨屋があって、ごく普通の簡単な、安い必需品を買うことが出来るが、この店とて、少しばかりの土地を自分で耕している家がしばしば経営しており、供給する品物の多くは、この屋敷で用意する。
 村人のすることは、すべて極めて原始的だ。彼らは太陽とともに起きるか、時には日の出前に起き、すぐに労働を始める。大ざっぱではあるが、都合のつく時には、身づくろいをする。ある時は起きると、すぐするし、昼休みにも、ちょいちょいするが、夕方仕事の終った時も、よくする。どの農家にも風呂おけがあって、一日の仕事が終ると、その中で半ゆでになって、身体を洗い、生気を取り戻す。浴場の温度は、非常に高く、風呂から上がった者は、ほとんどアメリカ・インディアンのような赤色をしている。1872年(明治五年)に東京で布告が出された、それは銭湯は適温、すなわち血液の温度(白人の習慣では、入浴の温度は非常に低い――訳者)よりちょっと低目以上に、熱くしてはならない、というものだ。
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2008年03月29日

日本の法律無視の来航

威嚇による条約締結

今回ご紹介している「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は横浜の外国人居留地
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引用開始
 英艦フューリアス号は、エルギン卿を乗せて、(以下オリファント氏の描写)「海岸から約三マイル、この帝国の首都から約五マイルの距離にあって、日本艦隊からほど遠からぬ」江戸沖の碇泊地へ、首尾よく来ていた。もちろんただちに一団の役人が訪ねて来て「『神奈川へ帰れ』という文句を繰り返した」。
 エルギン卿は応じないで、同日午後首席老中あてに陸路手紙を送り、訪問の目的を詳述した。すなわち「条約を結び、帝王にヨットを贈呈したい」と。さらに「陸上に適当な住居を提供してもらいたい」と要求した。日本艦隊は、「オランダ政府から購入した二隻の大型横帆船と、かなり小型の外輪船一隻と、三本マストのスクーナー船一隻からなっている」といわれていた。・・・翌々日、陸上の住居に関する申し出に対して高位のる回答が来て、一行は八月十七日上陸した。

 オリファント氏は書いている。――「当日の朝、儀式を盛大に行うために、大準備がされた。数名の日本の役人が来て、使節に従って上陸する手筈をととのえた。われわれが日本側のボートで上陸する、と彼らは明らかに思っていたらしい。だから、自分達が、大勢の正装した艦隊員とともに、リー号に乗せられ、またスマートな乗組員を乗せて、軍艦旗をはためかせて、整然として、陽気に見える十三隻のボートをひきいていった時、彼らは少なからず驚いた。レトリビューション号、フューリアス号、そしてヨットはみな飾り立てられた。砲台を通過する時、小さなリー号が荒々しく蒸気をたて、かなたのジャンクの間をぬって走った時、われわれが浅瀬や砂州を全く無視しているのを見て、日本人達は呆然としていた」。「ついに水深測量が七フィートに達すると、リー号でさえも船底が砂地についたことを知り、われわれは錨をおろしてボートに移った。そうしている時、各艦は礼砲をとどろかせ、レトリビューション号の軍楽隊は外輪船の中で、『英国国歌』を奏し始めた。他のボートは、船首に真鍮製の大砲をつけた四隻の外輪船の間に、エルギン卿の長官艇を中心にして船列をつくった。この隊列で、われわれは岸に沿って三マイルばかり進んだ。

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2008年03月28日

天津条約で恐怖を煽る

中国の悲惨さで恐怖を煽る

今回ご紹介している「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
写真は著者のジョン・レディ・ブラック
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引用開始
 日本人は生来社交好きだ、だから彼らと仲良くしようと思えば、難しいことではない。それに二十一年前のこの国民の生活は、現代のヨーロッパに知られている以上に違っていたし、しかもヨーロッパの過去の時代(つまりヨーロッパの物語時代、「古き良き時代」とわれわれが特徴付けている時代)のものとして、知悉されているものをたくさん持っていたから、これを学ぶことは、珍しくもあり、また本当に楽しかった。
今日まで、日本滞在中、日本人の中で暮らすことに満足している外国人が非常にたくさんいる。彼らには「隠とん者の生活」とか、孤立しようという考えは全然起らない。そしてこの国の人々の友情と信頼を得ようと努めたハリス氏のやり方からみると、彼がこうした生活に気をくさらせていなかったことが、納得出来る。

 当時はまだ、後になって外交団を緊張させたような事件は起らなかったからだ。ハリス氏には、取り決めねばならない多少重要な事柄があるにはあった――例えば、貿易のために米国人が下田に居住する権利――。しかしこれらは空気のように微々たるもので、ほとんど苦労させなかった。
 天津条約(注)をもたらした英仏軍の成功は、ハリスが条約を結ぶのに、事実助けとなった。彼は、中国で横暴なやり方をしているこの二国の使節が、同じ行動を日本でも必ず取る、と主張して、幕府の恐怖をあおりたてた。こうして、二つの強国と日本との間における調停者として、必要ならば、出来るだけ尽力しようと約束をして、彼は執拗に求めていたものを獲得した。もちろんその必要はなかった。

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2008年03月27日

ペリー提督の米国条約

ペリーの威嚇による開国要求

今回ご紹介する「ヤング ジャパン1」の著者ジョン・レディ・ブラックは1827年スコットランドに生まれ、海軍士官となった後、植民地のオーストラリアに移って商業を営んだが、友人から聞かされていた美しい景色と人情の国日本訪問を考えていた。事業の失敗後、本国へ帰る途次に観光程度の気持で立ち寄った日本に結局十年以上も滞在し、日刊の『ジャパン・ガゼット』を発行しました。本書「ヤング・ジャパン」は1880年(明治十三年)に出版されています。
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引用開始
 日米間の最初の条約は、1854年に結ばれた。この時、米海軍提督ペリーがアメリカ合衆国の全権使節であった。横浜が交渉の行われた場所であって、このことだけで、横浜は日本歴史において、いつも有名になるに違いない。ペリー遠征隊は、三隻の蒸気船と六隻の帆船、計九隻から成っていた。この艦隊は横浜沖に戦列をしいて錨をおろした。
日本側は提督をむかえ、会談をひらく準備をした。広い木造の建物が大急ぎで建てられ、あらゆる点で、外国人に心地よいように用意されていた。ペリーは前年浦賀沖へ始めて到着して以来、あらゆる機会に、高飛車で尊大な態度を取っていたが、今度も条約を譲歩ではなく、権利として要求した。多くの反対意見が出たが、ペリーはこれになんの考慮も払わないと、きっぱり拒絶して、目的を達した。協定は調印された、それによると、日本人は、沿岸で難破したアメリカ国民に好意と援助の手を差しのべ、アメリカ船が要求した時には、食糧薪水を供給し、さらにアメリカとの貿易のために、下田、箱館、琉球の那覇を開港せねばならなくなった。ペリー提督が立ち去って数カ月すると、かわって英国東インドシナ艦隊司令長官スターリングがあらわれ、イギリスを代表して同様の条約を締結した。

 ドンケル・クルチウス氏は、長崎におけるオランダ人の状態を改良する協定を取り決めた。1857年(安政四年)に、プチャーチン伯爵はロシアのための条約を結んだ。しかしこれらの条約は、すべて前奏曲にすぎなかった。一層完全な通商条約が1858年に米国全権ハリス氏と、大君(徳川将軍)との間に結ばれた。続いてただちに日英間に同様の条約が結ばれ、すこし後にフランス,オランダ、ロシアが続いた。これらの条約によると、神奈川、長崎、箱館が1859年(安政六年)七月一日に、また江戸、大阪、兵庫、新潟が1863年(文久三年)一月一日に開港されることになっていた。

平和裡ではあるが、威嚇によって結ばれた条約
 ペリー提督は、目的達成のために取った方法と、日本と結んだ条約とで、非常に称賛された。しかし、もし理論家と人道主義者の原理が正しいとすれば、ペリーが1853年(嘉永六年)に条約申し入れのために到着した時から、1854年(安政元年)に条約をたずさえて退去した時までに取った「威張る」というやり方が、全然まちがっていたことは、まったく確かだ。
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2007年04月21日

日本初の捕虜収容所

松山捕虜収容所

 ご存知の方も多いかと思いますが、日露戦争の時、「マツヤマ!」と叫んで投降するロシア兵もいたと言われる、四国松山のロシア人捕虜収容所の記録が松山大学編「マツヤマの記憶」として出版されています。
 この記録の一部を掲載してみます。そこには当時の日本がいかにハーグ条約の遵守に気を遣っていたかが分かります。
画像はロシア兵捕虜を接待する婦人たち
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引用開始
 日露開戦の五年前(1899年)にオランダのハーグで締結された「陸戦の法規慣例に関する条約」があった。その附属書「陸戦の法規慣例に関する規則」は、捕虜の待遇に関して次のように規定している。
第四条第二項 俘虜は人道を以て取扱わるべし。
第七条第一項 政府は、其の権内に在る俘虜を給養すべき義務を有す。
第七条第二項 交戦者間に特別の協定なき場合に於ては、俘虜は、糧食
寝具及被服に関し之を捕えたる政府の軍隊と対等の取扱を受くべし。

・・・そして当時の日本政府が、彼ら(ロシア兵捕虜)を大いに「優遇」
したことは、今日でもよく知られている。食事ひとつをとってみても、将校には毎日六十銭、下士卒には三十銭を費しており、これは自国の兵卒の食費が、一日あたり十六銭前後だったのと較べて、破格の厚遇といえる。
・・・・日露戦争の時に開設された収容所は全国で二十九ヵ所にのぼり、その収容施設は、総数で二百二十一といわれる。そのなかで、初めて収容所が開設され、初めて捕虜がきたのが松山であった。・・・・

捕虜と市民との国際交流
 捕虜が市内の中学校に来校したり、運動会を見学したりしたのは捕虜と市民との国際交流といってよい。松山中学校を訪問した雄群収容所の捕虜将校で裁判官であったザゴロフスキーは、校長による日本の学校制度の説明に興味をもち、ことごとく筆記したという。また一番長収容所の将校は、師範学校附属小学校を訪問し、図画の授業を参観して大いに感服し、児童が廊下を清掃しているのをみて「毎日斯くするや」と質問し、毎日の日課を教師不在のときでも行う児童に感心した。ロシアでは、よほど高等の学校にしかないような、動物や鉱物の標本が学校にあることをみて彼等は真に敬服したという。
 松山高等女学校では隣の正宗寺が収容所の一つとなったため、将校やその夫人の来校は五回に及んだ。
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2007年03月31日

日本文化の紹介

西欧植物園の半分くらいは日本の植物

 いよいよ3月も終わり、たいていの会社では新年度を迎え、期末、期首で大変忙しい時期でしょう。今日はちょっと息抜きの記事を・・・
 1922年アメリカ生まれのドナルド・キーン著「果てしなく美しい日本」という本の中から、第二部の平成四年七月二十日、夏季講座富山会場における彼の講演「世界の中の日本文化」の部分を引用してみます。
写真は1890年の亀戸天神
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引用開始
 いちばん有名な医者、ドイツのシーボルト(1796〜1866)の話です。シーボルトは1823〜1829まで、いちばん長く出島に滞在した医者です。彼は特別に優れた医者で、幕府もいやいやそれを認めて長崎の町に出てもいいという特別許可を与えました。長崎の町に彼の病院ができ、彼はそこで日本人に医学を教えたのです。日本の洋式医学の伝統はここから始まったのです。

 シーボルトは、あらゆることに関心を持つ男でした。三、四年前、東京上野の博物館でシーボルトの展覧会があったのですが、それを見た私は驚きました。すごい人だというほかありません。彼の関心はすべてのものにわたっていて、日本にいて外国にはいない狼などの動物の剥製を作らせました。植物もそうです。植物の場合は絵を描かせるだけでなく種もヨーロッパへ持っていきました。現在ヨーロッパにある植木のかなりの数は、実はシーボルトの持っていった種から成長したものなのです。

 あじさい、あやめ、つつじ、ゆり、さくらなど、こういう植物はそのころまで、ヨーロッパでは知られていなかったものなのです。今でもヨーロッパの大きな植物園、例えばロンドンの植物園などに行くと、その半分くらいは日本の植物で、シーボルトが種を持っていったものなのです。
 また、日本の建築は外国に知られていなかったので、そのさまざまの模型を作らせました。百ほどにもなります。美術もヨーロッパに知られていなかったため、ある画家にオランダの紙を渡して絵を描かせました。その画家は葛飾北斎(1760〜1849)です。まさに先見の明があったというほかありません。

 北斎が描いた絵は、現在オランダやフランスに保存されています。とにかく、シーボルトはあらゆるものに興味を抱き、そのときはまだ知られていなかった日本を外国に紹介し、日本の文化がどれだけ優れているかを説明したのです。
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2007年03月24日

世界の中の日本文化

ヨーロッパより高い文化

 1922年アメリカ生まれのドナルド・キーン著「果てしなく美しい日本」という本の中から、第二部の平成四年七月二十日、夏季講座富山会場における彼の講演「世界の中の日本文化」の部分を引用してみます。
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引用開始
 ポルトガル人の中には、相当優秀な人がいました。いちばんよく知られている人は、後で聖人にもなったザビエル(1506〜1552)です。彼はこう書いています。「日本人は我々によく似ている国民である。同じ程度の文化を有する国民である」と。
 「よく似ている」という言葉はとてもおもしろいと思います。私たちの常識ではヨーロッパ人が日本に着いた場合は人種が違うと思ったはずですが、私が読んだかぎり人種が違うということが、どこにも書いてありません。それらしい表現は全然ないんです。それどころかヨーロッパ人によく似ているというふうに書いてあります。

 もう一つ印象的な表現は「同じ程度の文化を持っている」と。それはヨーロッパ人として、あまり言いたくない表現です。つまり、ヨーロッパ人の文化の中心は宗教で、日本にキリスト教がなかったのに「同じ程度の文化がある」というのは、ヨーロッパ人として言えそうもない表現のはずなのです。
 しかし、実際に日本文化の水準は、ヨーロッパ文化の水準よりも高かったと思います。高かったけれども、大きな欠点が一つあった。その大きな欠点はキリスト教がなかったということです。それで、「文化の程度がヨーロッパより非常に高い」、「文化のかなめとしてのキリスト教がない」の二つを合わせると、ヨーロッパと同じ程度になるとザビエルは思ったんじゃないか。このように私は解釈したいと思います。

 ヨーロッパの文化よりも水準が高かったという証拠はほかにもあります。
 日常生活から考えてもそうです。当時、ヨーロッパでは王様でも手で食べていました。食堂にはナイフがあったのですが、フォークはありませんでした。ザビエルの時代は十六世紀ですが、十八世紀の始めごろもまだ同じことでした。
 ヨーロッパの王様の中で自分は神だ、太陽と同じような存在だと思い込んでいたフランスのルイ十四世(1638〜1715)は、手でさいて食べていました。彼の食堂にフォークはちゃんとありましたけれども、彼は手で食べるのが紳士のやり方だと思っていたのです。手でフランス料理を食べることはあまり気持のいいものではないと思います。また、王様が食べて食べかすをそこに捨てる。食堂の中には犬がいて、犬がその残り物を喜んで食べたんでしょうね。私たちの常識ではきわめて非衛生的です。

 ルイ十四世はベルサイユの宮殿を完成し、文芸を保護しました。ベルサイユの宮殿は建築として最高にすばらしいものです。今私たちはベルサイユ宮殿を見て「フランス人はよくもこんなすばらしいものを十七世紀に作れたものだ」と思います。しかし、あまりきれいではありませんでした。具体的な話は避けますけれども、きわめて非衛生的なところだったと思っています。
 それと比較してみますと、日本のほうは衛生的なだけでなくて、一般の生活水準が高かったと思います。「同じ程度の文化」というのはザビエルの言葉ですが、私たちからみるときっと日本のほうがより生活しやすかったはずです。
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