2007年10月29日

ソ連化は最悪米国化次悪

共産党の正体を知らず付和雷同

 今回は「徳富蘇峰終戦後日記2」をご紹介しています。以前にご紹介した「徳富蘇峰終戦後日記」の続編で、「頑蘇夢物語」続編として06年12月の発行となっています。今回で最終とします。
写真は皇居前広場のデモ1946年5月1日
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引用開始
(昭和21年5月24日午前〜6月1日午前)
 今日の日本は、あらゆる選択の自由を失墜している。最善を得ざれば次善を取れというが、次善どころではない。いやしくも善という名の付いたものなら三善でも四善でも我等の自由には任せない。ただ我等が択び得るものは最悪か次悪である。今日に於て、共産主義のソ連化は最悪化であって、民主主義の米国化は次悪である。語を換えていえば、一の毒薬を以て他の毒薬を制するゆえんである。
 米ソの関係が切迫すれば切迫する程、共産党はいよいよ日本に於て横暴を極めるに相違ない。さる場合に於ては、マッカーサー側も背に腹は代えられぬ。日本人を共産党防禦の第一線に使用する事になるかも知れぬ。これは彼等の慣用手段である。即ちイギリス人は、いつもインド兵を第一線に立て、アメリカ兵はフィリピン兵を第一線に立てていた。されば今度はフィリピン人の代わりに日本人を第一線に立つる時節の到来せずとも期し難い。然る場合に際して、日本人がまた再び世界戦争に巻き込まれて行くべきか。あるいは超然として傍観者の位地に立つべきか。それらの事は、今日から定め置いたとて、必ずしもその通りに行わるべしとは思われない。ただかかる場合の来た時の覚悟を今から銘々の肚の底に決めておく必要がある。

 今日日本の労働階級の如きは、共産党が何者であるかという事さえも考慮せず、ただ眼前の賃金を増加さえすればそれで満足というだけの事で、付和雷同している。今日の日本の状態は、あたかも第一回世界大戦後の、即ちファシストの崛起せざる以前のイタリアに髣髴たるものがある。何処も彼処も労働者の一揆騒動で、揚句の果ては、労働者が工場管理などという事にまで押しつけて行く状態だ。この勢いで行けば、日本は社会主義化するではなくして、共産主義化する事になる。そこでマッカーサーも、今は黙視する能わずとて例の示威運動に対する告示を出した訳である。・・・・

 マッカーサーはまた、前にもいうた通り、そのスポークスマンを通じて新聞にも警告している。この警告は当っている。今日の新聞は、ほとんど総てといっても差支えなき程に、共産党の提灯を持っている。これは何故かといえば、何れの新聞社も、今日はその新聞の株主でもなければ長老でもない。概して新聞の実権は工場に在る。即ち最も多くの従業員を擁する印刷工場に在る。昔は往々営業部が編集部に干渉したりというが、今日は決して然らず。工場が直接に編集に向って威嚇し、圧迫し、脅喝し、その結果として何れの新聞の紙面にも共産党の宣伝記事が掲載せられ、まるで共産党機関新聞、即ち院外赤旗の御用を勤めつつあるゆえんであろうと察せらるる。その急所を認めたから、その点に向って、マッカーサーのスポークスマンが新聞に向って、一度ならず繰返し、チクリと針を刺したのであろう。
 かかる状態であるから、次は次として、今日の所ではまず米国の毒を以てソ連の毒を退治するより外に日本を救う途はあるまい。しかし万一ソ連の毒を退治し去れば、日本は安心かというに、なかなか以て安心ではない。たといソ連の毒を退治し尽したとしても、歴として米国の毒が残っている。・・・・
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2007年10月27日

日本を狙うソ連の手口

二大勢力の交叉接触点日本

 今回は「徳富蘇峰終戦後日記2」をご紹介しています。以前にご紹介した「徳富蘇峰終戦後日記」の続編で、「頑蘇夢物語」続編として06年12月の発行となっています。
写真は労働者による生産管理を要求する炭鉱労働者
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引用開始
(昭和21年5月23日午前)
 米国の日本に対する意図は、概して忖度が出来る。しかしソ連の日本に対する意図に至っては、それが頗る困難。何故なれば、ソ連の心理的作用は、我等の常識判断では往々食い違いがあるからである。要するに米国も日本を恐れている。ソ連も怖れている。この点については間違いない。ただソ連は米国よりも深刻に且つ痛切に日本を恐れている。これは恐らくは、明治37、8年の役に於ける苦き経験に在るものと察せらるる。必ずしもそれのみとはいわぬが、それがソ連をして日本を恐怖せしむる重もなる動機となった事は疑いを容れない。
 日本から武器を取り上ぐるという点については、米国もソ連も同様である。ただ取り上げた後に、日本に対する態度に於いて、両者の間に相当の隔たりがあると思われる。一言すれば、米国はまず第一、日本を米国に対して無害ならしめ、次には有利ならしむる積りであろう。即ち日本を、東亜に於ける米国の市場たらしむる事もその一つであるが、それよりも米国の東洋全面に於ける通商貿易に於て、日本をその競争者ではなくして、その特定売捌人とか、予約請売所とか、もしくは支那の言葉でいえば、買弁たらしめんとするものであろう。それで日本から戦争の用具は勿論、戦争そのものに対する気持ちさえも取上げて、全く平和の国民となし、その上は日本を米国の手先に使用せんとする積りであろう。

 ところがソ連は全くそれに反している。
 ソ連は、日本は現状のままでは到底済度が出来ぬものと考えている。それでローマがカルタゴをやり付けた如く、日本を立つ事も、葡う事も出来ず、全く抜本的に日本をやり付けてしまう積りであろう。即ち米国は日本を利用せんと欲している。ソ連には恐らく今日の所、日本を利用するの意図はあるまい。今日では日本の復讐を懼れている事が精一杯であろうと思う。
 そこでソ連は、むしろ日本の内乱を希望している。むしろ日本人相互に殺戮し合って、日本を沙漠の如く、一木一草さえもなからしむる位に荒らしに荒らして、出来得べくんば大和民族の潰滅、然らざれば衰弱を期待しているものと思わるる。
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2007年10月26日

共産党の天皇会見運動

宮城へ押しかける共産党五代議士

 今回は「徳富蘇峰終戦後日記2」をご紹介しています。以前にご紹介した「徳富蘇峰終戦後日記」の続編で、「頑蘇夢物語」続編として06年12月の発行となっています。
写真は議事堂裏で徳田球一等の演説を聞く聴衆1946年5月
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引用開始
(昭和21年5月21日午前)
 吉田内閣に反動の烙印を押した共産党では、大命を降した天皇に責任があると、同党議員徳田球一、志賀義雄、野坂参三、高倉テル、柄沢とし子の五氏はうち揃って17日午前九時過宮内省を訪れた。まず坂下門で犬丸総務課長への面会申込みにからむ連絡上のことですったもんだ、やっと連絡がついて当番高等官室で総務課長と面接。
待ちかまえた徳田代議士、開口一番すでに殺気をおびて
「君は局長か」
「局長ではありません、課長ですが局長はありません」
「坂下門の受付では局長がおりますといっていたが、嘘をついとる。大体お客さんを玄関で待たすなぞは失礼だ
「宮内省は従来から面会を求められた者に、はっきり連絡がつくまで連絡上お待ち願うことになっていますから諒解願います」

徳田代議士さらに語をつぎ
「14日の宮城デモの時、宮内省の役人が人民を蹴飛ばしたというじゃないか」
「そんなことは聞いておりません。想像も出来ないことです」
「直ぐ調べようではないか」

こんどは志賀代議士。
「調べるのは別として平素から躾けておくべきだ」

徳田代議士さらに
「元首に対する礼をつくせというが、主権在民じゃないか」

「新しい憲法草案では主権在民になっていますが、大統領の国でも元首はあると思います」
「・・・・・・・」
「天皇も礼をつくしてくれれば人民も礼をつくす。互いに礼をつくそう。平等な人間として天皇が礼をつくせば人民は尊敬をつくすようになる」

志賀代議士「昨日電話で天皇に会いたいと申込んである」
「昨日は天皇にお会いしたいということだったのでお断りしましたので、きょう私に面会のためお出でになることは知らなかった」

徳田代議士の声は例によって怒気をふくんでいる。
「ここは応接室か、当番高等官室じゃないか。応接室はないのか」

「大臣の応接室はありますが、私などが使用する応接室はありませんから、代議士が来られてもここでお会いしております」
「代議士は政治や行政監督する任務をもっている。このことは議会で公表する」
つぎからつぎへと序曲がつづいてなかなか本論に移らない。両腕を胸の前に組んで静かに瞑目していた野坂代議士、たまりかねて柔らかい語調で発言。
「本論にはいろう。とにかく天皇にお会いすることを取り次いで貰いたい」
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2007年10月25日

ソ連の手先・共産党

政局紛糾の責任とマッカーサー

 今回は「徳富蘇峰終戦後日記2」をご紹介しています。以前にご紹介した「徳富蘇峰終戦後日記」の続編で、「頑蘇夢物語」続編として06年12月の発行となっています。
写真は1946年5月のメーデー
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引用開始
(昭和21年5月19日午前〜20日午前)
 表向ではソ連も世界問題の処分に於ては、米英と歩調を揃えつつあるが如くであるが、裏に廻っては、全くその反対の行動をしている。近くは朝鮮に於てがその通りである。如何に米国が統一したる朝鮮の民主国を作り上げんとしても、38度線を限りとしてソ連は断固として独自の政策を朝鮮に実行している。即ち日本に於ても漸くその徴候が現れ来り、余りに露骨にソ連が日本の共産党を支持し、且つアメリカの統治方針に横車を押しつつある為に、流石のマッカーサーも今は業腹となって、その代表者をして、共産党は嫌いであると揚言せしむるに至った。しかもそれについて、また本国政府では、左の如くそれを支持している。

反共声明を支持
米国務次官【ワシントン17日発AP−共同】

 対日理事会米国代表ジョージ・アチソン氏が去る15日「米国は米国におけると日本におけるとを問わず共産主義を歓迎しない」と言明したことは米国朝野にも重大渦紋を投げかけているが、米国務次官アチソン氏は17日新聞記者団会見の席上、国務省はアチソン代表の声明を支持する、と言明した。
 かくの如く日本に於ても、事毎にマッカーサーの統治に横槍を入れつつありて、遂にその諍いが表に出て来るに至ったが、今後それが如何なる程度にまで発展するか、もしくはそれがいかなる程度まで調節せらるるか。いずれにしても、世界は全く二大陣営に分かれ、アングロサクソンに属せざる者はソ連に属し、ソ連に属せざる者はアングロサクソンに属し、あたかも応仁の乱に、山名方、細川方とある如く、何れにか属せざる者はなく、日本の如きは、その二大勢力のやがて角力を取る土俵となるかも知れぬ虞れが無しともいえない。日本に於ける共産党は小さき蛇であるが、それがあるいは雲を起し、雨を降らすの龍となるか否かは、これは未来の問題である。

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2007年10月24日

共産党の横車とその味方

共産党の横車と新聞の煽動

 今回は「徳富蘇峰終戦後日記2」をご紹介しています。以前にご紹介した「徳富蘇峰終戦後日記」の続編で、「頑蘇夢物語」続編として06年12月の発行となっています。
写真は官公労組員のデモ1946年8月
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引用開始
(昭和21年5月15日午前)
 普通選挙で、婦人までが参政権を得た今日では、日本の世論といえば総選挙の結果によって判定する外はあるまい。それによれば、共産党は物の数でもない。眇たる蒼海の一粟という程ではないが、ともかくも466人の議員中僅か5名である。即ち百分の一強というところだ。しかるに今日の政界は、ほとんどこの共産党によって撹き廻され、引き摺られ、勝手次第に振舞われている。もし世の中に不合理といえば、これ程不合理の事は無く、また不思議といえば、これ程不思議の事はない。しかもそれが現実である。而して誰もそれを当り前であるかの如く見ている。
 殊に国民の世論を代表すべき新聞そのものが、最もその通りである。我等はここに於て、二つの腑に落ちぬ事実を見出す。一は共産党の横車を押す事であり、二は共産党の横車を押す事を全国の新聞がほとんど我等の眼に入る限りに於ては、囃し立て、そそのかし掛け、煽ぎ立てつつある事である。

 今日の政界の混沌という事には二つの原因がある。一は幣原内閣の「勘」の悪い事である。他は共産党の横車を押す事である。幣原内閣の勘の悪い事はしばらくここに預りとして、共産党の横車について観察する。まず表面の事実をいえば、五名の共産党員は、それにほとんど二十倍する程の社会党を引き摺って勝手次第に操縦している。百名に近き社会党は、ほとんど独自一己の意思を失って、あたかも蛇に睨まれたる蛙同様、その運動の自由を全く封鎖されている。共産党の勢力は、社会党を通して、また自由党に及ぼしている。語を換えて言えば、社会党は共産党に致され、自由党は社会党に致され、進歩党は自由党に致されている。その他協同党とか無所属一派もご多分には洩れず、詮じ来れば衆議院における466名の議員は五人の共産党に勝手に振り回されている。今日で言えば、五名の共産党は一疋ではあるが、猫であり、爾餘の各党派、もしくは無党者は鼠である。而してこれが議会外の政治の局面にそのまま実現して、あらゆる事件となって、出来しつつある。即ち名を挙げて言えば、今日の我が政界は、徳田球一とか、野坂参三とかいう、昨日までは地上に光を見る能わざる国家の犯罪人共が、ほとんど思うように振り回している。・・・・
 さてかく条理を以て思議し難き事件がほとんど常識でもあるかの如く、出で来りたるは何の為であるかといえば、共産党には彼らにとって大なる味方がある。第一はマッカーサーにして、第二は幣原である。第三は食糧飢饉である。これは半ばは幣原内閣の賜といってもよかろう。
 マッカーサーは共産党を何やら秘蔵息子であるかの如く取扱っている。他の党派には随分辛く当り、つらく当った。現に進歩党と自由党がそれである。社会党さえも若干の風当りを受けた。しかるに共産党については、いかなる旧悪も敢えて問うところではない。過去は一切帳消しで、恰も彼等はマッカーサーによって蘇生復活せられたるものである。而して彼等が如何なる行動をなすも、マッカーサーでは、見て見ず、聞いて聞かず、知りて知らぬ振りをしている。
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2007年10月23日

封建的から反動的へ

何に対して反動的なのか

 今回は「徳富蘇峰終戦後日記2」をご紹介しています。以前にご紹介した「徳富蘇峰終戦後日記」の続編で、「頑蘇夢物語」続編として06年12月の発行となっています。
写真は三越デパートでのマッカーサー胸像の除幕式1945年11月
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引用開始
(昭和21年4月16日午前)
 ここまで世間で、自分たちの気に入らぬことを、「封建的」という言葉で排斥し去ったが、この頃はまた新たに「反動的」なる言葉を加えて、しきりにそれを振り廻している。ラジオとか、新聞とかでは、耳が痛くなる程それが聞えもし、且つ見えもする。
 例えば今回の選挙は反動的である。何故かといえば、進歩党とか自由党とかいうものが多数を占めているからである。この観察は、外国から見れば一応の理由あるかも知れぬ。何故なれば、米国では日本の議会を米国流の民主主義たらしめんと期待し、ソ連ではソ連流の共産主義の議会たらしめんと期待したが、それが案に相違して、自由党といい、進歩党といい、日本流の民主主義で、天皇護持の下に国運を振興せしめんとするものであるから、彼等の注文通りに行かないことも明白である。それを目して、彼等が反動的という事も、彼等の立場からすればあながちいわんと欲すれば、いい得られない事もあるまい。しかしながら日本人がその尻馬に乗り、否なそれにシンニュウをかけて、反動的議会などという事を、議会の召集もなき前から叫び立てているのは、如何にも奇怪千万の事といわねばならぬ。

 斉しく民主主義というも、銘々の国情に相応すべき者がある。同じ足に履く物でも、同じ頭に冠る物でも、同じ三度の食事でも、皆その国の仕来り、情勢によって、それぞれ特殊のものがある。我等が毎度いう通り、英米の二国は本店と新店の如き関係あっても、米国は米国、英国は英国、チャンとそれぞれ自国特殊の物がある。いわんや日本の国が民主主義を採用すればとて、米国流まる写しという事も出来ず。ソ連流丸呑みという事も出来ず。日本には日本特殊の民主政体を樹立すべきは、別に研究も議論もなく、誰しも承認すべき常識である。ところがそれを目して、反動という事は果して何を以てかくいうのであるか。反動といえば、前に行く者が後ろに行くという事である。左に行く者が右に行くという事である。しかるに今日の進歩党でも自由党でも、共産主義者などから見れば、徐行とか、漸進とかいう事は出来ようが、反動という事は全く事実を誣いたるものである。
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2007年10月22日

日本歴史の破壊煽動

昨日の鬼畜、今日の米国崇拝

 今回は「徳富蘇峰終戦後日記2」をご紹介しています。以前にご紹介した「徳富蘇峰終戦後日記」の続編で、「頑蘇夢物語」続編として06年12月の発行となっています。
写真は皇居前を埋め尽くす占領軍
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引用開始
(昭和21年4月5日〜7日)
 維新以来七十余年、ほとんど勝利より勝利に、たとい中間に若干の蹉跌があったとしても、躍進したる幸運児日本は、大東亜戦争によって、初めて敗戦の苦杯を満喫した。この敗北は、歴史上極めて比類稀なる敗北にして、例えば世界第一次戦争に於けるドイツの敗北などとは比例にならない。強いて比例を求むれば、カルタゴがローマから叩き付けられた当時を連想せざるを得ない程の惨めさである。今日の日本は、只だ地理上の名目に於ての日本で、政治的には何らの自主権などというものは爪の垢程もない。・・・・

 正直の所が、我等は日本人に対して、ほとんど幻滅を感ぜざるを得ない。もしそれが証拠を出せといわば、遠く求むるに及ばない。昭和二十年八月十五日以前の新聞と、以後の新聞とを比較せよ。それで沢山である。同じ日本でありながら、その言うこと為す事、かくまでも相違するか。あたかも一日の差は、百年を隔てても、かくまではあるまいと思わるる程の変化がある。さればアメリカ人が、この劇変を見て、これは眉唾と考え、油断をすればアメリカ人をだますために、かく化けたのではないかと、且つ疑い、且つ驚き、且つ怪しみ、且つためろうているゆえんは、彼らの立場としては、あながち不思議ではあるまいと思う。・・・・
 今日我が国民に真骨頭の無き証拠を挙げよといわば、彼等が国そのものに対する気持ちを見ればわかる。即ちその気持ちは、戦前戦後に於て、恰も寒帯から熱帯に急転し、もしくは熱帯から寒帯に急転したるが如く、実に想像もつかない程の変化を来たしている。・・・・
 今我等の手許に在る新聞を拾い読みしている内に気付きたる一、二の例を揚げんに、国旗の日の丸は面白くないから、これを改正して欲しいという論もあり、君が代も国歌としては不相応であるから、改めてもらいたいといい、また紀元節、神武天皇祭日などの事にも、相当異存をいう者があり、甚だしきは教育勅語が時世に不相応であるから、これを改正して欲しいという者があれば、否な改正などは真っ平御免、時候後れの勅語はむしろ全廃してしまえば沢山だという者もある。続きを読む
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2007年10月20日

満州に居直るソ連

米英が持て余すソ連の横車

 今回は「徳富蘇峰終戦後日記2」をご紹介しています。以前にご紹介した「徳富蘇峰終戦後日記」の続編で、「頑蘇夢物語」続編として06年12月の発行となっています。
最後の解説には、「・・・蘇峰が神経質に反発したのが黄禍論だった。彼が警戒したのは、「亜細亜的」という「概括的名称」によって、日本が中国などのアジア諸国と同一視されることだった。・・・日本が朝鮮や中国と同じカテゴリーで理解されることは、日本の国際的地位にとって決定的なマイナスになる。この認識は福沢諭吉の「脱亜論」以来のものである。・・・この考え方をもっとも忠実に継承したのが蘇峰だった」とあります。
写真は瓦礫の中に建つ国会議事堂
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引用開始
(昭和21年2月26日午後)
 本日の新聞を見れば、左の如き記事がある。マッカーサー元帥がソ連大使館に赴き、赤軍第二十八回創立記念祝賀会に出席し、盃を挙げて、米ソ両軍間の親交は、アメリカ独立以来のものであると強調したと書いてある。
・・・・これを見ても、いかに米国が、ソ連の機嫌気褄を取りつつあることの片鱗が窺われる。我等の眼中から見れば、米国は望月の欠くることなき世界第一の覇主であると思わるるが、その米国の上に、また一の苦手があるは、まことに不思議の運命といわねばならぬ。
 今日世界に於て横車を押し通すものは、何といってもソ連である。ソ連には支那はもとより、英国も否な米国もほとほと持て余している。さりとて思い切って、ソ連の鼻を挫く程の手を打つ事を敢えてせず、いわば腫れ物を扱う如く、驕児を賺すが如く、手段の限りを尽くしている状態は、笑止千万であるが、我等にとっては、些か痛快の感なきあたわずである。
 ギリシャ問題、ポーランド問題、トルコ及びイランの問題など、矢継ぎ早に出て来ったが、それらはともかく、けりがついたといわぬまでも、今は中止の姿である。しかし即今最も重大な問題は、何といっても原子爆弾の秘密暴露問題と、満洲不撤兵問題である。この両者はたしかに第三回目の世界戦争を起すに余りある程の申し分がある。
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2007年10月19日

蘇峰の百年計画

失われた大我に殉ずる精神

 今回は「徳富蘇峰終戦後日記2」をご紹介しています。以前にご紹介した「徳富蘇峰終戦後日記」の続編で、「頑蘇夢物語」続編として06年12月の発行となっています。
最後の解説には、「・・・蘇峰が神経質に反発したのが黄禍論だった。彼が警戒したのは、「亜細亜的」という「概括的名称」によって、日本が中国などのアジア諸国と同一視されることだった。・・・日本が朝鮮や中国と同じカテゴリーで理解されることは、日本の国際的地位にとって決定的なマイナスになる。この認識は福沢諭吉の「脱亜論」以来のものである。・・・この考え方をもっとも忠実に継承したのが蘇峰だった」とあります。
 先ず前日の百年計画と題した部分から。
写真は宮中防空壕で開かれた御前会議(昭和20年8月9日)
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引用開始
(昭和21年2月21日午後)
 スターリンは、今後更に五年計画を発表したが,予は我が同胞に向って、百年計画を予告する。百年といえば、余りに長いではないかと、疑う人もあろうが、百年でもむしろ短かきに失していると思う。それは日本が再造なすには、いの一番よりやり直さねばならぬ必要があるからだ。それで、とても現代は勿論、次代も手が届かず、漸く三代ないし四代の後に、再び日本らしき日本を見ることが出来よう。しかしそれも、油断をすれば、到底未来永劫その時節は、到来しまいと思う。
 兎角世人は、物事を甘く見過ぎている。例えば、進駐軍も、三年か五年も経てば、引揚ぐるであろう。そうすれば、五、六年の後には、日本もまた一人前の国となり得るであろう。否な、やがてはソ連とアングロサクソンの衝突が爆発し、その機会が即ち日本再興の好時期である、などと、まるで昼飯を抜きにした者が、夕飯のきたるを待っているかの如き話をする者がある。しかしかかる料簡では、到底再造の見込みはないものとせねばならぬ。何故なれば、日本は五年や十年では、到底立ちあがるべき力は持ち得ないからである。・・・・

 日清戦争から日露戦争までの間、いわゆる臥薪嘗胆時代が、十年を経過した。満洲事変から支那事変までが、かれこれ六年を経過した。支那事変から大東亜戦争に至るまで、四年半を経過した。これらの間で、真に一定の方針を定め、準備をしたのは臥薪嘗胆時代の十ヵ年であろう。その他はむしろ自然の惰性によって、ここに到りたるものであって、人が勢いを制したのでなくして、むしろ勢いが人を制したものといわねばならぬ。予の如きも、今日となっては、自ら遺憾とする点少なからず。例えば昭和十二年七月七日の支那事変の勃発の如きは、予としては極めて面白からぬ出来事であったが、しかも火既に原野を焼く時に於いては、むしろこれを怪我の功名として善用せんことを期し、それが一転二転三転して遂に今日に到ったものである。いわゆる下司の知恵は後とからというがこの事である。・・・
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2007年10月18日

満洲をめぐるソ連の野望

ソ連軍満洲撤兵問題

 今回は「徳富蘇峰終戦後日記2」をご紹介しています。以前にご紹介した「徳富蘇峰終戦後日記」の続編で、「頑蘇夢物語」続編として06年12月の発行となっています。
最後の解説には、「・・・蘇峰が神経質に反発したのが黄禍論だった。彼が警戒したのは、「亜細亜的」という「概括的名称」によって、日本が中国などのアジア諸国と同一視されることだった。・・・日本が朝鮮や中国と同じカテゴリーで理解されることは、日本の国際的地位にとって決定的なマイナスになる。この認識は福沢諭吉の「脱亜論」以来のものである。・・・この考え方をもっとも忠実に継承したのが蘇峰だった」とあります。
写真は日ソ中立条約に署名のスターリンと松岡外相
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引用開始
(昭和21年2月18日午後)
 満州の形勢は、その前途決して容易ではない。支那は他力本願で、手に唾して、日本から満州を、そっくりそのまま土蔵付きで頂戴する積りでいたが、あにはからんや支那の回復したるは、今の所唯だ空名のみで、実権は全くソ連に存し、実益もまたソ連が、恐らくはほとんど独占する所とならんとしつつある。

 ソ連は満州の平和を維持するために、兵を駐在せしめているが、去年12月3日までには、全部引揚ぐるという事であった。ところがこの頃盛んに兵営を満洲要地に新築しつつありといえば、言葉通りに引揚ぐる積りではあるまい。
 支那ではむしろ当初の心配は、共産軍が国民軍に、お先を失敬して、満洲を占領する事が心配であったが、今日ではそれどころではない。ソ連そのものが、道に横たわる大蛇となって来た。されば支那側でも、この事は頗る肚に据えかねたと見えて、いろいろ議論をしている。されば重慶側では、国際連合安全保障理事会に訴えて、その力によって、ソ連を撤兵せしむべしといい、またソ連側では、かえって居直り強盗の姿で、新たなる要求を、提出したともいっている。
 何れにせよ、満洲に関する限り、支那とソ連との間に、葛藤が起るべき心配があるばかりでなく、現に起っている。しかしてそれが一転して、ソ連対米国とならないとは誰か敢えてこれを保証するものぞ。・・・・・
 我等の見る所によれば、これは明治36年、日露戦争開始の前年、露国が満州撤兵に関して、我が日本を欺きたる慣用手段を、今回また支那に向って用いたるもので、今更決して新しき事ではない。今後もまた追々奥の手を出し来るであろう。それにしても、スターリンが、日本が背信国であるとか、侵略国であるとか、平気で日本の咎め立てをなすのは、実に盗人猛々しいといわねばならぬ。
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2007年10月17日

ヤルタ秘密協定全文

千島はソ連に、ヤルタ協定で既に確定

 今回は「徳富蘇峰終戦後日記2」をご紹介します。以前にご紹介した「徳富蘇峰終戦後日記」の続編で、「頑蘇夢物語」続編として06年12月の発行となっています。
 後の解説には、「・・・蘇峰が神経質に反発したのが黄禍論だった。彼が警戒したのは、「亜細亜的」という「概括的名称」によって、日本が中国などのアジア諸国と同一視されることだった。・・・日本が朝鮮や中国と同じカテゴリーで理解されることは、日本の国際的地位にとって決定的なマイナスになる。この認識は福沢諭吉の「脱亜論」以来のものである。・・・この考え方をもっとも忠実に継承したのが蘇峰だった」とあります。
写真はソ満国境を突破して侵攻するソ連軍戦車部隊
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引用開始
(昭和21年2月13日午前、晩晴草堂にて)
 ヤルタ会議の秘密協定全文なるものが発表せられた。これは昨年―1945―2月7日ヤルタに於て、ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンの間に締結された秘密協定である。

【ワシントン11日発UP=共同】
米、英、ソ三国政府は1945年2月7日ヤルタにおいてルーズヴェルト、チャーチル、スターリン三巨頭間に締結された全文を11日同時に発表した。要旨左の通り。

米英ソ三大国首脳はここに左の事項を協定する。
ドイツが降伏し欧州戦の終結を見て2、3ヶ月後ソ連は左の条件の下に連合国側に立って対日戦に参加する。
1,外蒙古(蒙古人民共和国)における現状を維持する。
1,1904年、日本の背信的攻撃により奪われたロシヤの所有せる諸権利を回復する。
A,南樺太及び附属島嶼をソ連に還付する。
B,商業港大連を国際港とし、ソ連権益の特殊的地位を保障する、旅順港のソ連海軍基地としての租借を復活する。
C,大連への連絡路たる東支鉄道及び南満洲鉄道はソ支合弁会社により運営、但しこれら鉄道にソ連が有する権益の特殊的地位は保障され、一方中国は満洲における完全な主権を保持する。
1,千島列島はソ連に引渡す。上述の外蒙古、港湾鉄道に関する協定については蒋介石氏の同意を必要とすることとする。トルーマン大統領はスターリン首相の勧告に従い蒋主席の同意を得るための必要な措置を講ずる。
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2007年10月16日

共産国の訪問者の監視

日本におけるソビエト、赤い訪問者

当時のようにスパイ活動を緊張感をもって監視していても十分ではないのに、スパイ防止法もない今の日本政府と日本人の神経を疑いたくなります。

今回ご紹介している本「孤独な帝国 日本の1920年代」は、1921(大正10)年から27(昭和2)年まで駐日フランス大使を勤めたポール・クローデルの書簡を抜粋したものです。
 ワシントン会議以降の日本人の困惑とフランスから見る世界情勢の中の日本がよく分かる内容です。
写真は流行の先端を行く「モガ」
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引用開始
 私は、東京であらたな同僚となったソ連大使、ヴィクトール・コップ氏と知り合いになりました。人の目をまともに見ようとしない脂ぎった肥満漢です。ロシア人というよりはドイツ人的で、ドイツ人というよりはユダヤ人的な人物です。ライプツィヒの見本市にいくらでもいるようなタイプです。彼は当地で目立たない生活を送っており、自分のことが話題にならないようつとめているのですが、それでもまずいところで目立ってしまうことがなきにしもあらずで、ドイツ大使を除けば少数の人としかつきあっていません。ドイツ大使にはおおっぴらに後ろ盾を求めています(しかし、このことをドイツ大使のゾルフ博士は喜ばしく思っているようには見えません)。
 数カ月前まで帝政ロシアのメランコリックな残骸をとどめていた、うらぶれた古い大使館は、塗装をやりなおして若返り、皇居から間近の場所に、ハンマーと半月鎌の国旗を誇らしげに掲げています。コップ氏は大勢の人々を引き連れてきました。書記官、担当官、学生などおよそ四十人、妻子まで入れると総勢七十人になるでしょう。
 商務担当官のヤンソン氏は、ソビエトの新体制にもとづき原則として日本との貿易全般を担当し、十人ほどの部下に囲まれて堂々と執務しています。当然のことながら、これらの人たちは全員が大使館のなかに住むことはできません。職員の多くは社会主義のシンパと見られる日本人の家に下宿しています。大使館員には、当地の政治的デモに参加することは差し控えよとモスクワから指示が出ているようではありますが、こうした厄介な客を監視する東京の警察は、緊張しピリピリしています。

 東京以外では、神戸、函館、小樽、敦賀に大勢の職員を擁する領事館が設置されました。
 ソビエト政府としては、こうした公式の職員を自国のプロパガンダのために使うようなことはできず、いくつかの使節団を送ってはみたのですが、さほど歓迎さりませんでした。〈労働者〉使節団は警察の手で拘束され、日本人の訪問者は面会することができませんでした。〈作家〉のピルニアクも同じように要注意人物の扱いを受け、警察の監視から逃れるためにある書記官の家に身を寄せざるをえませんでした。日本政府は、こうした措置をとったのはソビエトから赤い訪問者が来ないようにするためだったと言っています。
 それにもかかわらず、政治のプロパガンダがこっそりと流されていることは、疑う余地がありません。
・・・・
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2007年10月15日

排日移民法は人種差別

排日移民法の日本とアメリカ合衆国

 今回ご紹介している本「孤独な帝国 日本の1920年代」は、1921(大正10)年から27(昭和2)年まで駐日フランス大使を勤めたポール・クローデルの書簡を抜粋したものです。
 ワシントン会議以降の日本人の困惑とフランスから見る世界情勢の中の日本がよく分かる内容です。
写真は1925年3月、日本初のラジオ放送、大阪放送局での阿波踊りの放送風景
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引用開始
1924年6月4日
 予想できなかったことではありませんが、アメリカの大統領カルヴァン・クーリッジは、なにかともったいをつけ、他国民に対する尊敬、友好、共感を口先では表明しながら、議会が可決した、日本にとって侮辱的な投票結果を無条件に承認しました。その結果、今後日本人は、この広大な共和国からとくに名指しで排除されることになりました。
 今朝私は、アメリカ大使ウッド氏に会いました。彼はこの挑発的な法案の成立に加担していると思われたくないと言って辞表を提出しました。彼は、今回の議会決定は世論の大半とアメリカ国民の賛同を得ておらず、実際は議会の陰謀なのであって、ロッジ氏が親日派の国務長官を陥れるために掘った落とし穴なのだと語っています。じつのところ、ぜんぜんそうではありません。地球上いたるところで、アングロサクソンの人々が抱いている根強い感情があるとすれば、それは皮膚の色に対する偏見なのです。大西洋岸では、それが太平洋岸ほど顕著ではないとしても、たんに、大西洋岸にはアジア人があまりいないため、偏見が生まれる機会が少なかったというだけのことなのです。

 アメリカ議会のとったじつにばかげた行動は、民衆を煽動して人種差別をするものであるとしか説明できません。〈紳士協定〉が成立して以来、日本はそれを文字通り守ってきましたし、それを守りつづけていくことだけを考えてきたのですから、カリフォルニアにはあらたなアジア人の移民は入っていないのです。議会の場で公式にしかも意図的に侮辱をせずに、この紳士協定の取決めを維持することはできなかったのでしょうか。アメリカが日本に対して行使している途方もない影響力を目にして、すなわちこの強大な共和国の製品やあるいはその思想が、あたかも洪水のごとく太平洋のかなたの隣国を覆いつくすほど影響力が大であるのを目にしていますから、私には、このあからさまな嫌がらせは、育ちの悪い学生が自分より弱い友達を容赦なくいじめるのに似ているとしか説明することができません。
 日本人の性格の根底にある自尊心、過度の感受性、根に持つ傾向を知っている者にとっては、一般国民や新聞がこの件についてさほど意見を表明することなく、手ひどい仕打ちを受け入れていることは驚くにあたりません。とりわけ怨念が深いのは軍隊です。戦争という言葉が多くの人々の口の端にのぼっています。誰しもが心中、それを考えているのは言うまでもありません。一人の男性はアメリカ大使館の前で、古いしきたりにしたがって切腹しました。しかし、同盟国もなく他国を頼りにできない日本は、ひじょうに無力だと感じているのです。それに誰が絹を買ってくれるのでしょうか。
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2007年10月13日

フランスから見た満州

満州とフランスの国益

今回ご紹介している本「孤独な帝国 日本の1920年代」は、1921(大正10)年から27(昭和2)年まで駐日フランス大使を勤めたポール・クローデルの書簡を抜粋したものです。
 ワシントン会議以降の日本人の困惑とフランスから見る世界情勢の中の日本がよく分かる内容です。
写真は日仏会館の開館式、前列左がクローデル、閑院宮
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引用開始
1924年5月6日
クローデルからレジェ(外務事務総長)宛ての私信
 私は数日前、いくつかの方面から、満洲関係の一連のニュースを受取り、ひじょうに驚き、なおかつ不安になりました。第一に、バトリーヌが合衆国に満鉄の株を大量に売ろうとしているのではないかというニュースです。第二に、フランス人が満鉄の路線に関しイギリスの管理を受け入れたということです。最後に第三のニュースとして、北京にあるわが国の公使館は満州で、抗日ならびに反張作霖をめざすソビエトと接近政策をとっているらしいということです。
 とりわけこの最後のニュースは不愉快です。というのも、以下のことは明らかだからです。
第一に、私たちが赤軍やロシアから期待できることはなにもありません。他の地域でもそうですが、赤軍やロシアは、かの地満州においてもフランスをだましており、ほかのだまされやすい人たちをだますために、フランスを利用しているにすぎないのです。
第二に、満州における真の実力者は張作霖であり、この人物は表面上はどうあれ、日本に相当依存していますから、日本の意向を無視することは絶対にないのです。我々は中国北部において物質的な力はまったくありませんから、日本と協調しなければ、主として財政面でわが国の利益が守られないであろうことは、明々白々なのです。ロシア人と中国人は暴力や略奪に明け暮れています。であるなら、どうしてフランスは日本と協調しないのでしょうか。

 日本人は、満鉄の管理を強引にわがものにしようとは考えていません。しかし、明らかなのは、日本は、いかなる国の口出しも認めることはできないということです。イギリスであれ、アメリカ、赤色ロシアであれ、中国であれ(張作霖以外は)。満州は日本にとってきわめて重要な案件です。日本はこの地方に、商業、工業、安全保障、国の将来といった点で深い関わりがあります。
 フランスの国益にとっては、つぎの三つの理由から、日本が同地で強い立場をとっているほうがいいのです。(1)、ロシア・中国と英米ブロックの間にあって、日本は今後、この地域のことで手いっぱいの状態になりますから、我々の管理する南部の地域をそっとしておいてくれるでしょう。(2)、このすばらしい満州が日本の間接的指導のもとで繁栄することは、私たちの利益となります。私たちが望めば、その開発に大いに参画することができるのです。(3)、フランスの支援でポーランドが建国されましたから、今後も我々がどう出ようと、ロシアはフランスの敵でありドイツの友人でありつづけるでしょう。この点で幻想を抱くことはできません。それゆえ、ロシアが今後ともシベリア方面の問題に忙殺されていてくれるほうが、都合がいいのです。
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2007年10月12日

仏大使と排日移民法

フランス大使から見た米国の排日移民法

 これも戦後GHQが日本国民に発表した「太平洋戦争史」では隠された部分です。
 話は代わりますが、Google で「アサヒる」は今70万件を越える検索結果になっていますが、「朝日 捏造」では150万件もあるんですねー。相当な数の人が朝日を信用していないということですか。やはり物事は多面的に見る習慣をつけないとだめということでしょう。

今回ご紹介する本「孤独な帝国 日本の1920年代」は、1921(大正10)年から27(昭和2)年まで駐日フランス大使を勤めたポール・クローデルの書簡を抜粋したものです。
 ワシントン会議以降の日本人の困惑とフランスから見る世界情勢の中の日本がよく分かる内容です。
写真は1924年5月の米国排日移民法の抗議デモ
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引用開始
1924年4月23日
 日本にとってアメリカは太平洋を挟んだ隣国であり、渡航しやすく、土地も肥沃ですから、日本人は大挙してカリフォルニアに移住しました。やがて彼らはアメリカ経済にとって重要な地位を占めるにいたり、それがかの地の政治家たちの憂慮するところとなりました。
・・・・日本人は畑仕事に専念しました。野菜を集約栽培するには根気が必要で、島国の帝国のなかでは、農作業はすべてたんねんに行われていますから、農業の分野では日本人は他の追随を許さないのです。・・・・
 この成功がアメリカの農家に嫉妬を呼び起こしました。アメリカ農民にもいいところはありますが、だいたいが節約家であるとか働き者であるとは言いがたいのです。・・・・・
 まもなく、州のなかで中国人に対してとられていた措置が、日本人にも適用されるようになりました。それだけでは不充分とみえ、この問題は国会に諮られました。こうした状況の下で、ルーズヴェルト大統領がこの問題に関心をもち、1907(明治40)年にルート国務長官と高平氏のあいだで覚書が交わされたのです。今日まで秘密裏に保たれてきた紳士協定ですが・・・・日本が自国に強いられた義務を立派に果たし、この協定の調印後カリフォルニアへの肉体労働者の移民がほとんどなくなったことには、疑問の余地がありません。・・・・

 それでもカリフォルニアの煽動家たちは攻撃をゆるめず、ハースト系の新聞が煽りたて合衆国全土で猛威を振っている反日感情を利用して、アジアの移民に対する一連の措置をとらせることに成功しました。その措置の影響がさまざまなところにまで及んでいます。日本人の子供たちが公立の学校から締め出されました。1920年11月2日の住民投票の結果、日本人はアメリカで土地の所有者となることができなくなりました。ついには最高裁判所までが、憲法に照らして、アジア人はアメリカ人になることはできず、優遇措置の適用は白人と黒人に限られるとの判断を下したのです。・・・・・
以上が現在の情勢です。
・・・・日本に対してアメリカ人が感ずる友好的な感情は、軽蔑の混ざった寛容さなのであり、これとはまったく逆に、すべてのアングロサクソンの心のなかに、機会さえあれば爆発しかねない激しい感情があるとすれば、それは皮膚の色に対する偏見なのです。・・・・・
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2007年10月11日

災害時他国の友情と国益

各国の同情を信頼する危険

今回ご紹介している本は「孤独な帝国 日本の1920年代」は、1921(大正10)年から27(昭和2)年まで駐日フランス大使を勤めたポール・クローデルの書簡を抜粋したものです。
 ワシントン会議以降の日本人の困惑とフランスから見る世界情勢の中の日本がよく分かる内容です。
今回は関東大震災後の世界の慈善活動についての書簡です。
写真は著者のクローデル
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引用開始
1923年11月7日
 指導層の心中の思惑がいかなるものであれ、日本の国民は、東京と横浜を襲った災害に対して全世界で起こった崇高な慈善活動に、感動しないではいられませんでした。このうえない華々しさをもって、美徳を誇示しつつ慈善活動を行ったのは、なんといってもアメリカです。・・・
 東京の川や運河にはアメリカの駆逐艦や哨戒艇が入りこみ、首都の通りにはUSAと書かれた救急車やトラックが走りまわりました。帝国ホテルは、ワイシャツ姿の陽気な救助隊員でにぎわっていました。まるで1918年、19年の大戦後のバリにいるかのようでした。15日間、小柄な日本人は、いたるところに侵入してきたこの騒々しい巨人たちのなかにあって、心安らかではなかったでしょう。
 その後、アメリカ人たちは、自分たちの豪華な救急車が空っぽのまま、コンビーフやアスパラガスの缶詰は店に山積みになったまま、持ってきた衣服は希望者に売られ、結局なにもかもが自分たちとは無関係に、この国の庶民は日々を過ごしていることに気づきました。アメリカ人たちは、海軍大将アンダーソンが言ったとされる「私たちはふたつよいことをしました。すぐに駆けつけました。そしてすぐに立ち去りました」というユーモラスな別れの言葉を残して早々に引きあげました。

日本人がいちばん感謝しているのは、ふたつ目のほうです。・・・・・
 日本の無言の呼びかけに応えたフランスおよびフランス植民地の寛大さは、ここでは強い印象を残しました。この点に関しては、ふだんはあまりフランスに対して友好的でない『日々新聞』につぎの記載が見られます。
「アメリカの援助が最も早く、かつ最も大規模なものだった。この事実は、アメリカ人の特長である迅速さという優れた資質が発揮された結果であるのみならず、国が豊かで距離が近かったためでもある。しかし、私たちは物質的な援助の規模のみに感謝しているのではない。かつては裕福だったが、四年間に及ぶ莫大な費用のかかる戦争の試練を経たフランス人にとって、現在は一フランでも貴重なはずである。彼らが被った損害にくらべれば地震の被害はとるに足らない。世界のなかの最強の軍隊に対抗して、すさまじい状況下で戦い、フランスは血を流し疲れはて、しかし汚れなき名誉と光り輝く栄光とともに戦闘を終えたのである。このような国民からはいかなる同情の証しも期待することはできなかった。フランス人が悲惨な苦悩のさなかにあって、損なわれた資源の一部を割き、彼らから見れば地の果ての日本へ災害救助にやってくるとは、夢想だにしていなかった。
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2007年10月10日

英米ブロックによる不安

極東での英米ブロック構築による日本の不安

 軍事占領下でGHQが日本国民に発表報道した「太平洋戦争史」では、このフランス大使の見方のように、英米による日本への圧迫などは全く国民に知らされませんでした。

今回ご紹介する本「孤独な帝国 日本の1920年代」は、1921(大正10)年から27(昭和2)年まで駐日フランス大使を勤めたポール・クローデルの書簡を抜粋したものです。
 ワシントン会議以降の日本人の困惑とフランスから見る世界情勢の中の日本がよく分かる内容です。
1923年(大正12)9月1日は関東大震災の日です。
写真は1923年9月1日の関東大震災
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引用開始
1923(大正12)年10月25日
クローデルからレジェ(仏外務事務総長)宛ての私信
 古い日英同盟がイギリス側から廃棄されたこと、極東である種の英米ブロックが構築されていること、これについてはシンガポール軍港化計画が提案されたことで様相がはっきりしたのですが、こうしたことが日本を大いに困惑させ、大きな不安に陥らせています。
 日本は、極東における政策全体を見直し変更しなければなりませんでした。私たちはその様子をこの二年のあいだ見守ってきました。中国で直接行動政策がとれなくなりましたから、一見したところ日本は、その橋頭堡や当初配置した軍隊を引きあげているように見えます。山東、漢口、満洲北部、シベリアからです。その一方で、周囲が敵ばかりでは困りますから、日本はロシアとの関係改善につとめています。躊躇しつつ慎重に。現内閣には後藤がいますから、〈一時的和解〉には到達するであろうと思われます。それは必要なことですから。

 しかし、ロシアと和解するだけでは充分ではありません。日本は、恐ろしく孤立し、あるいは仲間はずれになっていると感じており、偉大な盟友イギリスと手を切っては、世界情勢の中心軸からはずれてしまい、立場を失うと感じています。現在の世界情勢は広大な東半球全体に影響を及ぼしており、そのなかにあって日本は追放され、いわばロビンソン・クルーソーと化しているのです。
 日本をとり巻く英米の世界が疑惑を深め、中国ではできるかぎり小さな分け前しか日本に与えまいと決めているだけに、日本の孤立はいっそう危険なものとなっています。どうすればこの孤立から抜け出られるか。日本には二つの選択肢があります。
 ひとつはロシアやドイツとの協調です。後藤子爵が温めているといわれる考え方で、軍人やインテリ層の有力なグループに共有されているものです。しかし、ロシアとドイツの崩壊は、ますます顕著な傾向になってきていますから、この種の三国協調は現実にはうまみのないものとなっているのです。
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2007年10月09日

孤独な帝国日本

アングロサクソン国連合下の日本

 今回ご紹介する本「孤独な帝国 日本の1920年代」は、1921(大正10)年から27(昭和2)年まで駐日フランス大使を勤めたポール・クローデルの書簡を抜粋したものです。
解説によりますと、クローデルの日本への出発を前に雑誌『エクセルシオール』につぎのインタビュー記事が掲載され、
「日本は大戦(第一次)の間も友邦かつ連合国として非常に重要な役割を果たしてくれましたが、だからといって極東最大の陸海軍をもつ強国ということにとどまるものではありません。非常に古い文明をもちながら、それを見事に近代文明に適応させた国、偉大な過去と偉大な未来をあわせもつ国でもあるのです」・・・・
また、「今度新しいポストに任命されてうれしくてなりません。フランス共和国の代表としてミカドの国に赴任するというのは、このうえない名誉と感じています」とも語っている。
では興味深い部分を抜粋引用してみます。
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引用開始
1923年6月21日
 ワシントン会議において〈太平洋に関する四カ国条約〉が締結されたことで、イギリスは必要のなくなった日英同盟を優雅に終結させることができたのですが、このとき私の任地のここ日本の新聞は、この決定の重大さを和らげようとつとめ、まるで合言葉のように、当事国双方に共通の意思表示であると述べてこれを紹介したのです。イギリス皇太子がその何ヶ月かのちに訪日し、国民のあらゆる階層からこれ以上は望めないほどの歓迎を受けました。人々は表面上は微笑みながら、しかし内心のひじょうな不安、なんとも苦々しい気持ちを抑えていたのです。
 アングロサクソンの国々が、あらゆる機会を利用して極東での連携を強めるのを目の当たりにし、日本は、直接的な脅威を感じているとは言わないまでも、危険なまでに孤立していると感じていました。さらにふたつの事情から、太平洋を支配しているふたつのグループの利害の対立が明らかになりました。そして両者のあいだには敵意といってもよいほどの不信が増大しつつあるのです。

 第一の事情とは、取り返しのつかない様相を呈している現在の中国の分裂状態です。それが最も顕著に表われたのが臨城の略奪事件です。この事件は、日本がパリとワシントンで主張してきた説を正当化するものでした。その説とは、隣の共和国で実行された改革は見かけだけのものであって、この国は、どの地域をとってみても、住民を効果的に服従させうる権威をもつ国家として他国に認めてもらうことができないというものです。私たちが中国と呼んでいるのは、幾人かのごろつきの親分たちの野望がぶつかりあっている戦場にすぎないということは、認めなければなりません。続きを読む
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2007年03月17日

独立国台湾は自明の理

李登輝単独インタビュー

阮銘著「共産中国にしてやられるアメリカ」という本からご紹介しています。
阮銘氏は1946年十五歳で共産党に入党し、党中央宣伝部にまわされるが、文化大革命で辛酸をなめた。文革後胡耀邦に招かれたが、天安門事件を機に台湾に亡命、帰化し、台湾の民主化に情熱を燃やし続けています。
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引用開始
 クリントンと江沢民が密室で交わした会話のなかには、未公開の約束があった。クリントンの1995年8月の密書のなかにある「三つの不支持」を重ねて話し合ったことだ。
 自由の大国の元首が、奴役制度の独裁者とのあいだで、自由と民主の国、台湾の主権を犠牲にする取引を行うことは、チェンバレンとヒトラーがミュンヘンにおいてチェコを犠牲にした取引と、どう違うというのか。
 しかしながら、クリントンと江沢民は、台湾はチェコではなく、李登輝はチェコの大統領エドゥアルド・ベネシュでないとは予想だにしていなかった。
 李登輝がアメリカ在台湾協会主席理事のリチャード・ブッシュから、クリントン・江沢民の会談内容の簡単な報告を受けたその日(1997年11月6日)とその翌日、『ワシントン・ポスト』と『ロンドン・タイムズ』がつづけて李登輝に単独インタビューを行い、二つの特別記事はたちまち世界に報道された。そのなかで李登輝はこう述べている。

「われわれ台湾人民は、台湾が中国の一省であることに同意しない。台湾は台湾であり、われわれは一つの独立した主権国家です」(『ワシントン・ポスト』)

「台湾は北京を離れて自立しており、イギリスやフランスと同じように、一つの独立国家です」(『ロンドン・タイムズ』)

 これらを李登輝の「独立宣言」というなら、かぎ括弧をつけなくてはならない。というのは、李登輝は新たに独立の主張のたぐいを宣言しているのではなく、すでに自明の事実を述べただけだからである。これらの言葉は台湾に対する国際社会の無知を改めさせ、共産中国の歪曲を正し、共産中国の民主台湾に対する併呑を防止するものであり、不可欠かつ時宜にかなうものであった。・・・・・・・

 江沢民は李登輝から台湾を奪えないと見るや、クリントンに食い込み、クリントンを通じて李登輝を無理やり黙らせた。江はクリントンが「モニカ・ルインスキ・スキャンダル」に見舞われている機に乗じて、クリントンを中国に招待した(1998年10月の予定を6月に早めた)
 クリントンの訪中は九日間に及び、・・・しかもわざわざ中国一国だけを訪問し、同盟国である日本と韓国の訪問を断った・・・・
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2007年03月16日

クリントンの三不支持

 クリントンと江沢民の蜜月

阮銘著「共産中国にしてやられるアメリカ」という本からご紹介しています。
 阮銘氏は1946年十五歳で共産党に入党し、党中央宣伝部にまわされるが、文化大革命で辛酸をなめた。文革後胡耀邦に招かれたが、天安門事件を機に台湾に亡命、帰化し、台湾の民主化に情熱を燃やし続けています。
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引用開
 銭(外交部長)の回顧録によると、李登輝訪米後しばらくして、クリストファー国務長官が銭に一つのメッセージを送った。1995年8月、ブルネイで行われるASEAN地域フォーラムの期間中に、双方の外交部長の会合を手配する、そのさいにクリントンから江沢民に宛てた重要な書簡を手渡したいというのである。
1995年8月1日、中国軍が台湾海峡で第一波のミサイル発射演習を終えた三日後、クリストファーと銭其琛はブルネイで会った。・・・・・

1,クリストファーはまず、クリントンから江沢民宛の書簡を手渡した。書簡には次のように書かれていた。
アメリカは一つの中国政策を続けます。三つのコミュニケを遵守し、『二つの中国』と『一つの中国、一つの台湾』の主張に反対し、台湾の独立に反対し、台湾の国連加盟に反対します」と述べている。(この書簡の内容は銭の回顧録『外交十記』からの引用である。これがクリントンの台湾に対する「三つの不支持」を示す最も初期の文献と思われるが、銭は中国の伝統的な手法で「不支持」を「反対」と訳したようだ。クリントンの回顧録『わが人生』では、ここの部分は避けており、記述はない)

2, クリストファーは銭に「アメリカは中国と体等のパートナーシップを結ぶことを切望している」と言った。

3,クリントンはクリストファーに権限を授け、中国側に「遠くない将来に江沢民主席をワシントンに招待したい」旨を告げた。

 このときアメリカは、天安門事件の対中制裁が終了しておらず、国家元首の訪問に扉を開くことは、中国の重大な人権侵害に青信号をともしたに等しい。・・・・

(国務副長官の)タルノフが八月二十五日、北京に到着したとき、中国軍は第二波のミサイルと火砲の実弾演習をもって彼に対する「歓迎礼」とした。
 タルノフは先例に従ってこれを恭しく受け、実弾演習にかんしては一言も発言しなかった。彼は江沢民宛の書簡のなかでクリントンが表明した対台湾「三つの不支持」を重ねて述べ、クリントン大統領から権限を授けられているとして、「台湾当局の指導者の訪問にかんするアメリカ側の制限措置」を知らせたのである。
 その内容は、
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