「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。今回は張作霖親子や中国人についての記述の部分です。
写真は左 長学良、右 蒋介

引用開始
長学良は、1928年に政権について以来、父の張作霖が長年やっていたことをまねて来たのだが、ソ連とのこの事件(ソ連を東支鉄道から追い出そうとした事件)においては、国際的な注視を引いただけ力の限界を越えてしまったようである。日本にとって死活的な利害関係のある満洲地域を私領として支配していた張老将軍は、頑固すぎて反感を買うと、いつでも表向きは抜け目なく善隣友好の政策を打ち出し、裏では譲った利益をそっと帳消しにするといったやり方をずっととっていた。
張将軍の機略は抽象的もしくは理論的な性格のものではなく、極めて実践的なものであった。彼自身、北京から華北を支配していたころ、自分が馬賊の頭領時代に学んだずる賢さをむしろ機嫌よく自慢していたものだ。彼の部下たちは外国公使館の友人に、老元帥が日本人を手玉にとる利口さを、むしろあっけらかんと話していた。
たとえば、鉱区使用料等について条件を定めた上で、日本のある企業に鉱山採掘権が与えられたとする。まもなく、既定の鉱区使用料以上の取引があるとわかると、使用料値上げの要求がなされる。そして日本側がこれを拒否すると、どこからとなく馬賊が近辺に出没して鉱山の運営を妨害し、操業停止に追い込まれる。そうなると日本企業も情勢を察知し、もっと高価な鉱区使用料を支払うと自発的に申し出る。双方が心底からの誠意を示し合って新しい契約が結ばれる。その後馬賊は姿を消すといった具合である。
中国人自身の証言によると、満州における日本の企業は、事態を安定させておくという満足な保証すら得られず、次々と起こる問題に対応しなければならなかった。しかし日本人は、張作霖をよく理解し知恵を競い合った。そして西欧化した民族主義者タイプの指導者、例えば郭松齢のような人より、張将軍の方が日本の好みには合っていた。だから、1926年の郭松齢の反乱では、日本が張将軍の方を支援し、郭の反乱は鎮圧されてしまった。
そこまでは理解可能である。分からないのは、なぜ日本人ガ、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な「支那浪人」の集団であったにせよ――、1928年に張作霖を爆殺したかということである。
(これは最近、ユン・チアンの著『マオ』によって、スターリンの仕業であるとされている。)
なぜなら張作霖の当然の後継者は、息子の張学良であったからである。
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