2007年10月06日

支那事変前の米中日6

元中国駐在米国公使のメモランダム6

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。今回は張作霖親子や中国人についての記述の部分です。
写真は左 長学良、右 蒋介
mac07.jpg

引用開始
 長学良は、1928年に政権について以来、父の張作霖が長年やっていたことをまねて来たのだが、ソ連とのこの事件(ソ連を東支鉄道から追い出そうとした事件)においては、国際的な注視を引いただけ力の限界を越えてしまったようである。日本にとって死活的な利害関係のある満洲地域を私領として支配していた張老将軍は、頑固すぎて反感を買うと、いつでも表向きは抜け目なく善隣友好の政策を打ち出し、裏では譲った利益をそっと帳消しにするといったやり方をずっととっていた。
 張将軍の機略は抽象的もしくは理論的な性格のものではなく、極めて実践的なものであった。彼自身、北京から華北を支配していたころ、自分が馬賊の頭領時代に学んだずる賢さをむしろ機嫌よく自慢していたものだ。彼の部下たちは外国公使館の友人に、老元帥が日本人を手玉にとる利口さを、むしろあっけらかんと話していた。
 たとえば、鉱区使用料等について条件を定めた上で、日本のある企業に鉱山採掘権が与えられたとする。まもなく、既定の鉱区使用料以上の取引があるとわかると、使用料値上げの要求がなされる。そして日本側がこれを拒否すると、どこからとなく馬賊が近辺に出没して鉱山の運営を妨害し、操業停止に追い込まれる。そうなると日本企業も情勢を察知し、もっと高価な鉱区使用料を支払うと自発的に申し出る。双方が心底からの誠意を示し合って新しい契約が結ばれる。その後馬賊は姿を消すといった具合である。

 中国人自身の証言によると、満州における日本の企業は、事態を安定させておくという満足な保証すら得られず、次々と起こる問題に対応しなければならなかった。しかし日本人は、張作霖をよく理解し知恵を競い合った。そして西欧化した民族主義者タイプの指導者、例えば郭松齢のような人より、張将軍の方が日本の好みには合っていた。だから、1926年の郭松齢の反乱では、日本が張将軍の方を支援し、郭の反乱は鎮圧されてしまった。
 そこまでは理解可能である。分からないのは、なぜ日本人ガ、――軍人のグループであったにせよ、あるいは無責任な「支那浪人」の集団であったにせよ――、1928年に張作霖を爆殺したかということである。
(これは最近、ユン・チアンの著『マオ』によって、スターリンの仕業であるとされている。)
 なぜなら張作霖の当然の後継者は、息子の張学良であったからである。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係

2007年10月05日

支那事変前の米中日5

元中国駐在米国公使のメモランダム5

日清、日露の戦争以後、植民地獲得競争に遅れをとっていた米国は、アジアに残された地域、満洲の権益獲得に照準を合わせていました。その障碍となっていたのが日本です。このことを前提としてマクマリーのメモランダムをお読みになると、当時のアメリカの政策と、平和が失われていく因果関係がより理解できるでしょう。

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。今回は済南事件と、中国の日清条約廃棄宣言についての記述の部分です。
写真は済南の位置を示す地図
mac06.jpg

引用開始
 済南は当時日本の巨大な権益が集中していた所であり、重要な鉄道分岐点でもあった。この鉄道線路沿いに国民党の北伐軍が、北京ならびに華北の征服をめざして進軍していた。
 どれほど多くの口実や挑発があったにせよ、少なくともそこには、こうした予防措置を正当化するだけの有力な日本の利権が存在していた。日本政府は米英両国と異なり、国民党軍の進撃路から避難するようにと居留民に勧告はしなかった。日本は条約上の権利に固執し、米国にとっての上海・天津と同じように、日本にとって重要なこの地帯の居留民が攻撃されることは絶対許さないとの態度を決めていた。日本のこの姿勢は色々に解釈された。中国駐在の他の列強諸国の代表たちにとっては、自分たちができないことが日本にはできるという立場が羨ましい限りであった。また北伐中に外国の教会施設の財産を没収したり、外国人の生活を無視して理不尽な態度をあらわにしている得意満面の国民党軍を、日本軍が寄せつけないのも他の列強には羨望の的であった。・・・・

 最悪の事態がとうとう起きた。蒋介石軍の先遣部隊が日本軍と衝突し、小規模ながら激烈な戦闘が続いた。(1928年5月の第二次山東出兵となった「済南事件」)。このとき日本軍は、事態を局地戦にとどめて戦いを終結した。国民党もその戦略を変更し、済南を迂回して、北方への鉄道と連結している支線を使って北上した。中国側のこの作戦は成功して北京への進軍も軌道にのり、やがて国民党が華北の支配者となった。しかし中国はこの事態をきびしく受けとめ、日本軍の行動を敵対的干渉とみなして激烈な抗議の声を上げた。・・・・
 日本軍が、済南の居留民に適法な保護を与える過程で起こった事態は、神の恩寵がなければ、上海か天津で我々アメリカ国民に起こったかもしれないことと少しも変らないはずのものだった。・・・・
 この事件で最も現場の近くにいた外国代表団の人々は、米国の極めて有能な済南領事も含め、日本軍が自国居留民の生命・財産保護のために、その任務を達成するべく誠意をもって行動したものと信じていた。ところが、日本に対して新聞の報道はきびしく、特にアメリカではひどかった。・・・・アメリカ人は中国国民党を、自分の理想を具現する闘士のように、肩入れしていたのである。・・・・
続きを読む
posted by 小楠 at 07:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係

2007年10月04日

支那事変前の米中日4

元中国駐在米国公使のメモランダム4

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。今回は米国の国際協調放棄を記した部分です。
写真は昭和二年の南京日本領事館掠奪の跡
mac05.jpg

引用開始
 結局のところ、南京事件全体の処理の仕方は、当時の状況や中国人の心理を我々が理解しての現実主義よりも、我々の寛大さを裏書きすることとなった。それは“帝国主義列強”を威嚇しその尊厳を傷つけるような暴力が正当化されるという、国民党の思い上がりに迎合する結果となった。
 国民党は、他の諸党派との散発的な戦闘や騙し合いをくりかえしながら、揚子江流域でその勢力を固めつつあった。外国人やその権益に対する暴行もしばしば見られた。一方では、北方党派がいままで通り国家としての政府機能を有すると自称して、条約締結国の法的地位について、国民政府とあまり変らない恣意的なやり方で論争を続けていた。

 1926年の秋、“1865年のベルギー条約”に、十年期限の一区切りが到来し、ベルギー政府は、形式的には一方通告できる片務条項に従って、改正のための交渉を申し入れることになっていた。ところが、当時北京を支配していた北方党派は、この機会に、本条約を直ちに廃止する権利があると勝手に主張していた。・・・・
 そこでベルギー政府は、この問題をハーグ国際法廷の調停にゆだねるよう提案したが、中国はこれを拒否した。この係争問題は、中国が「不平等条約」からの自由を得るための政治的な権利であり、司法判断になじむ問題ではないと主張したのである。この件に関し米国の北京公使館は、次のような意見を本国へ電信(1926年11月12日付)した。

中国のベルギー条約の廃棄通告は、中国の条約履行義務拒否に対して、条約関係諸国が、どこまでこれを許容するかを測るための計算された試みである。・・・・この行為で我々は、重大な転機に立たされている。・・・・中国の対外関係を取り仕切っていると自称する人々は、義務拒否の政策の採用が自分たちの個人的利益につながっていると思っている。
 我々がいま直面している事実はこうである。中国を国際的に代表すると主張してきた組織は、実際には外国の認知を受けていた旧体制の残りかすに過ぎないのに、今回のベルギー条約の場合における行為によって、条約の拘束力を無視すると条約加盟諸国に通知してきた。
 我々は、公正な取り扱いと理解に基く中国の国際的発展を我々の利益であると考え、この点に真の共感を覚えるものである。こうした見地から、我が政府は機会をとらえて、中国の国際的無責任主義には同意できないと非公式に示唆するべきである。この国際的無責任は、我が国がロシア政府を承認していない理由と同じ性質のものである。このような趣旨の非公式示唆を国務長官自らがなさるなら、中国の暴走の抑制に大いに影響力を発揮すると、謹んで提案する次第である。中国の現在のような行動は、それほど遠くない将来に極東に新しい戦争を招くであろうと、私はそれを深く憂慮している
続きを読む
posted by 小楠 at 07:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係

2007年10月03日

支那事変前の米中日3

元中国駐在米国公使のメモランダム3

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。今回は中国の傲慢非妥協的な敵意についての部分。
写真は蒋介石(右)
mac04.jpg

引用開始
 当時、国民党は極端に暴力的となっており、それは内部の抗争によって一層激しくなっていた。この内部抗争は、すぐ後に、ロシア人政治顧問団に対する不信任とその追放劇となり(国共分離)、また蒋介石将軍が実質的な独裁者となるに及んで、党内の抗争は最高潮に達した。この時の紛糾した抗争の歴史は、それ自体大きな問題であるが、ここでは、外国人の生命や権利に影響したり、あるいは脅威を与える場合に限って述べることとしよう。
 蒋介石は、妥協したり、巧みに説得したり策略を巡らしたりする中国人の伝統的能力はすべて持っていた。しかし、自分が欲するものを見分け、決断を下し、断固として行動する力においては、現代中国政治家の中ではユニークな存在であった。
 そのような彼の統率の下に、国民党政府軍は広東から揚子江流域へ向って進撃した。・・・
 この行軍に際し最も注目すべき点は、この軍隊には、政治局員もしくは宣伝部員がかなり前を先行し、進軍の行路に沿って農民の説得にあたっていたことである。北伐軍は、中国人の生計の道を奪ってきた外国人の桎梏から農民を解放し、自由にするためにやって来たのだと宣伝していたのである。孫文の論文が引用されて、中国の対外貿易は輸入、輸出とも、帝国主義者への貢ぎ物であり、中国人の長期にわたる貧困と苦難は、中国の意思に反して強制されてきた対外貿易の結果であるとされた。その底流には、中国民衆の外国人嫌いの心情が限りなく存在し、宣撫の効果は十分であった。
 今まで北伐軍に抵抗してきた地方がつぎつぎと制圧され、蒋介石軍は快進撃を続けて国民的救世主として歓迎された。
 1926年の暮れ、揚子江流域中部の漢口を首都とする政府が成立した頃(武漢政府の成立)、彼らは自らの成功に有頂天になっていたので、列強諸国の代表達を遇するのに常に厳しい態度で接していた。それはかつて、ロシアの共産党政府が最も頑迷だったころに似ていたが、民衆の暴発力を、外国人とその権益に向ってけしかける力を持っているのだぞと、公然と誇示する有様であった。
 このような傲慢にして非妥協的な敵意を前にすると、関係各国政府も状況判断に当り、どうしても「希望的観測」に陥りがちであった。関係各国の外交団は、“愚者の楽園”の日常からでてくるものは幻滅でしかないことを、自分たちの母国政府に理解させることの空しさに悩んでいた。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係

2007年10月02日

支那事変前の米中日2

元中国駐在米国公使のメモランダム2

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。その中のアメリカの親中国感情を記した部分です。
写真は張作霖
mac03.jpg

引用開始
 中国の関税会議への参加が不可能となり、列強諸国が、中国との関係改善の手段として折角利用しようとしていた意図が挫折してしまった事態は、中国の国内政治の新しい展開に伴ったものである。 数多くの小規模な権力妄執者の集団による全く無意味で混乱した闘争から、二つの主な集団が次第に形を現してきた。・・・
 中国北方では、粗暴で反動的な軍事独裁者――張作霖が権力を掌握していた。彼は元匪賊であり、粗野で無節操ではあるが抜け目のない有力な指導者であった。・・・・
 中国南方では、孫文の革命党内における仲の悪い諸派が、ロシア人政治顧問の働きかけもあって歩み寄り、その結果国民党がやっとまとまった政治勢力となって、統一された政治目標を中国全体にわたってアピールできるようになった。・・・
 北方派は、古い首都北京を引きつづき支配し、関税や塩税、郵便行政を管理していたが、それにもかかわらず外交的承認は与えられていなかった。これに対して南方派は、一般大衆の支持をうけて時流にのってはいたが、外国人とその特権に対する憎悪感を激しく煽って広く民衆の支持を得るというやり方をとっていた。・・・・

 しかしながら関係諸国の中でも、特に米国と英国では、中国と中国の要求への大衆的な同情が高まり、その主唱者である南方派あるいは国民党グループにその同情が向けられることとなった。イギリスでは、共産主義者の宣伝が運動の背景にあるのではないかと考える向きもあったようだが、アメリカでは、そんな懸念は見られなかった。アメリカ人は、中国が置かれている諸条件に関して、いくらかナイーブでロマンチックな想定に立っていたかも知れない。・・・・
 このような運動の高まりの背景には、中国に対する米国民の広範な親近感があった。この親近感は、米国政府が、利己的な国々から中国を守ってきてやったのだと信ずる若干恩きせがましい自負の念と、我国の教会組織が、中国での布教活動に支えられて、数世代にわたり中国との好ましい関係を育ててきた実績に負うところが大きかった。この時点で布教活動指導者たちは、自分たちの仕事は、中国の政治的要求を支持する政策によってもっと発展すると確信していた。だから米国政府が、条約上の特別の権利、――特に治外法権・関税制限および教会組織に関する特権――のすべてを放棄するよう、独自に主導権をとってほしいと期待していた。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係

2007年10月01日

支那事変前の米中日1

元中国駐在米国公使のメモランダム1
mac01.jpg

「平和はいかに失われたか」という本からの掲載ですが、「はじめに」の部分を要約しておきます。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。
 マクマリーは若い頃中国に勤務し、ワシントン会議(1921〜22年)にも参加して、1920年代前半のアメリカでは、中国問題の最高権威の一人と考えられていた。ところが、1925年に中国駐在公使として着任以来、ワシントンの本省としばしば衝突し、1929年に辞職し、その六年後に書かれたのがこのメモランダムです。
写真はジョン・アントワープ・マクマリー
mac02.jpg

引用開始
中国激動の期間
 ワシントン関税条約の諸規定を実施するため北京で開催された「特別関税会議」当時(1925年の秋)、中国人の気分は、ワシントン会議の精神に対してはかなり敵対的なものになっていた。中国における全政党各派に実際に浸透していた感情は、中国の急進的な代弁者ともいうべき陳有仁の最も辛辣な発言に代表されていたとしてもあながち間違いではないだろう。すなわち(彼の言葉を引けば)、列強諸国が中国の門戸開放と領土保全の原則を述べるのは、かつての偉大さで知られ、そしてふたたび新しい力を意識し始めた中国人民を、かえって侮辱するものであると公言したのである。

 関税会議は、中国の政治指導者たちがリードして討議が始まった。この指導者たち(例外的には高潔ではあるが無力な人もいる)は、拝金思想をおさえるほどの熱烈な理想主義者でもなかったけれど、おしなべて自国の国際的な義務を極端に無視し、激しい挑戦的な態度をとった(もっとも賄賂を峻拒するほどの熱烈な理想主義は欠けていたが)。
 この人々にとってこの会議は、外国人とその権利に対する侮蔑の念を派手に演出してみせて、自らの個人的な政治的運命を向上させる絶好の機会にすぎなかった。会議の議題そのものも、中国人議長の裁量によって会議招集の根拠となった条約を無視して進められる始末だった。ワシントン会議が、この北京会議に決定を委ねていた「調査委員会」設置の問題を、議題にのせることも拒否してしまった。それでいて中国は一方で「関税自主権」(これによって、当然のことながら列強諸国は関税率並びに通関管理に関する特権を完全に放棄することになる)を主張していた。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:10| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係

2007年09月25日

治安無視の冬柴国交相

治安を無視し中国人にサービス満点の政策

 今回の総裁選結果としての福田氏+自民党4役、中国共産党も韓国にも大変評判がいいようで、日本人としては寒くなってしまいます。これからは益々我々の税金がこれらの国に吸い取られるような政策が、簡単に通ってしまうでしょうね。

 日本の領土を虎視眈々と狙い、日本国内ではスパイ活動、日本人に対する凶悪犯罪を頻発させているこのような国に対して、我々日本国民の血税が使われることは、どんな名目であれ絶対に許すことが出来ません。
 自民は早急に公明との連立を解消する決断をして欲しいものです。そして民主党内の右派と自民党内の非媚中派による政界再編を最も期待しています。日本の安全を確保するため、今後は国民無視、国益無視の媚中派は、何党の人間であれ、絶対に国政に参与させてはならないでしょう。
青木直人著「中国の黒いワナ」(別冊宝島)から引用してみます。
写真のキャプションは「中国の国益にかなった政策を推進!?」
nitchu04.jpg

引用開始
 六年半ぶりに日本を訪問した温家宝首相を歓迎した面々を見ると、日本におけるチャイナロビーの顔はほぼわかる。衆議院議長の河野洋平ら政治家たち、経団連の首脳、民間友好団体などがそうだが、異色なのは、温家宝との会見で「庶民の帝王」と自ら口にしたという、創価学会の池田大作名誉会長である。
 公明党は、言うなれば「創価学会政治部」の立場を運命づけられている。だから学会の意向、つまり中国の教育機関から100に迫る数の名誉学術称号を得ている池田名誉会長の意向抜きに、対中国政策は考えられない。
 昔、フランクな酒の席で、同席した中日友好協会のある幹部に公明党の話を振ったところ、「あそこは池田名誉会長だけ押えておけばOK、問題ない。何かあれば、池田先生に言うから」と話すのを聞き、みもふたもない話だなと思ったことがある。
 中国との関係では、公明党議員が、池田名誉会長以上に内外から評価されてはいけない。かつて日中国交正常化の下準備に、田中角栄の信書を持って周恩来と会見した竹入義勝公明党委員長(当時)は、マスコミから「和製キッシンジャー」と持てはやされた。それが池田名誉会長の逆鱗に触れ、やがて失脚に追い込まれた。

 その公明党で、近年、実力をつけてきたのが、冬柴鐡三国土交通大臣である。彼は政界において、公明党の対中政策のキーマンになりつつある。ただし、あくまでも池田名誉会長の手足としてだ。
 冬柴が中国要人との間に強い人脈を作るきっかけとなったのは、2000年に野中広務元自民党幹事長や二階俊博保守党幹事長(当時)らと、「与党三党訪中団」の一員として中国を訪問したことだった。
 また02年に、北京で開催された日中国交正常化30周年の記念イベントにも、日本から60人の国会議員と各界の12000人が駆けつけたが、この時冬柴は、橋本龍太郎元首相や二階、野田毅ら保守党幹部らとともに、与党連立政権の重鎮として中国政府要人と会見している。冬柴はこうして中国最高首脳とのパイプを築いてきた。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係

2007年09月22日

真の江の傭兵は誰か?

江沢民記念碑建設未遂事件

日本の首相はマスコミが作る??
今の総裁選について、国会議員多数にメール致しました。その中で返事を下さった方の中から、現職議員の偽らざる思いは、

『麻生さんはとても魅力のある人です。そして人気もあった。みんな次期総理と思っていたのに、数日であっという間に落とされてしまった。そして何より、なんで、あっという間に福田さん、という流れができてしまたのか。気持ちの悪い現象です。』
と言うものでした。

 日本の政治に関心を持つと思われる人々の自主的な投票行動は以下のアンケートに表われています。ここでは圧倒的に麻生支持です。
演説会でも麻生支持が圧倒的だったようですが、そのような報道は全くなされていません。
 ちなみに昨日9月21日の日テレの番組「緊急閣議『どうなる日本の総理』では、リアルタイムで集計していたものと見えて、麻生氏73%、福田氏27%で、やはり圧倒的に国民は麻生氏支持です。
 同じテレビという媒体でありながら、数字の違いどころか、支持が逆転してしまうとは、それまでの福田優勢を伝えたマスコミがいかに情報を操作しているかが分かります
 日本の首相はマスコミの偏向報道、そして勝ち馬に乗ることだけで、政策信条皆無の各派閥の議員によって作られてしまうのでしょう。国民の中の真の保守勢力は、このような卑劣な自民党議員を見放すでしょうし、新たな受け皿となる政策集団・新しい党を待望する人々が増えているようです。

【タイトル】
ポスト安倍決選投票!【麻生VS福田】

【質問文】
あなたは、麻生太郎幹事長と、福田康夫元官房長官のどちらを支持しますか?

【結果】  -2007年09月22日 07:08:36現在
・麻生太郎 2343票(86.94%)

・福田康夫 172票(6.38%)

・どちらも支持しない 133票(4.94%)

・白紙票 47票(1.74%)

■結果画面へはこちらからもどうぞ
http://www.yoronchousa.net/result/2854

----------------------------
Powered by リアヨロ!
http://www.yoronchousa.net

では本題へ
 現在まで、中国の「友好」も「反日」もすべての政策が、ジャパンマネーを狙ったものであることは自明の理です。また日本国内にも、その利権に群る輩が、様々な名目で中国への支援を作り出そうと暗躍しています。これは北朝鮮との国交正常化推進についても、同じ構図が見られることでしょう。
「中国の黒いワナ」(別冊宝島)から第二章、青木直人氏の「国民の敵」から引用します。
写真は大好きな江沢民との会見
nitchu03.jpg

引用開始
いつの頃からか,河野洋平を「江(沢民)の傭兵」と呼び変えて、中国の“ポチ”ぶりを揶揄することが、ネット上で目立つようになった。
 河野の中国迎合ぶりは徹底しているし、年季が入っている。しかし、本当の意味で「江の傭兵」なのは、むしろ二階俊博ではなかろうか、というのが私の感想である。二階は売国奴、媚中派とののしられても、ひたすら江沢民前国家主席個人に忠誠を励み、文字どおり「江の傭兵」となった政治家だからである。
 忠誠ぶりは露骨なものだった。
 まず、江沢民の石碑建設事件である。場所は和歌山県田辺市。黒潮に面したこの町に、江沢民国家主席の石碑を建設したいと、「和歌山県日中友好交流推進協議会」から市当局に要請があったのは、02年8月のことである。中国山東省の石を使って、高さ4メートルもの「日中国交正常化三十周年記念碑」を建設し、そこに江沢民の書いた「登高望遠睦隣友好」の文字と重要講和を刻もうというものだった。
 このことが明らかになると、市民の間から不満と反対の声が噴出。「反日政治家江の記念碑など、なぜ作る必要があるのか」といった声に押されて、結局、建設は中止になった。この計画の裏にいたのが地元選出の二階俊博だった。

 記念碑建設の計画は、そもそも2000年に、二階が運輸大臣(当時保守党所属)として、5000人もの訪問団を結成して中国を訪れ、その後に決まったものだった。
「江沢民はちやほやされることが大好きで、彼の生まれ故郷の揚州にも、自分の記念館を建設させている」
 件の訪問団も、江沢のご機嫌とりだけが目的だったと、ある政界関係者は見ている。
「98年の江沢民の来日は、悪評ふんぷんで、日本人のアンチ中国感情を刺激するだけに終わってしまった。面子を潰された江沢民に、『日中文化観光交流使節団』と称して5000人もの日本人を訪中させて、会見させることで、自分の売り込みを狙ったんですよ」
 参加者には二階の後援会関係者も少なくなく、渡航費用も、ほとんどの人が自腹を切っていたらしい。なにしろ5000人である。数が数だけに、宿泊先も中心街から離れた不便な場所のホテルを利用せざるをえず、クレーム続出のツアーだったようだ。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:55| Comment(0) | TrackBack(2) | 書棚の中の日中関係

2007年09月21日

最大の媚中派河野洋平

国貿促(日本国際貿易促進協会)会長さま

総裁候補に突然福田氏の名が現れ、福田氏の政策が何なのか国民に広く知らされる前に、世論では福田氏優勢だという報道??
それなら何故ネットではこんな結果になるんだ!
【タイトル】
ポスト安倍決選投票!【麻生VS福田】

【質問文】
あなたは、麻生太郎幹事長と、福田康夫元官房長官のどちらを支持しますか?

【参考URL】
http://news.google.co.jp/news?q=%E9%BA%BB%E7%94%9F%E5%A4%AA%E9%83%8E&hl=ja&rls=GGLD,GGLD:2004-04,GGLD:ja&um=1&ie=UTF-8&sa=X&oi=news_result&resnum=1&ct=title
http://news.google.co.jp/news?q=%E7%A6%8F%E7%94%B0%E5%BA%B7%E5%A4%AB&hl=ja&rls=GGLD,GGLD:2004-04,GGLD:ja&um=1&ie=UTF-8&sa=X&oi=news_result&resnum=1&ct=title


【結果】  -2007年09月21日 10:11:58現在
・麻生太郎 2061票(86.05%)

・福田康夫 162票(6.76%)

・どちらも支持しない 128票(5.34%)

・白紙票 44票(1.84%)


■結果画面へはこちらからもどうぞ
http://www.yoronchousa.net/result/2854

----------------------------
Powered by リアヨロ!
http://www.yoronchousa.net

衆議院議員戸井田とおる氏のブログにも現場の様子が書かれていますが、おかしいと思いませんか? 自民もマスコミも、国民をばかにしたようなこの騒ぎは、確実に意図して作られたものとしか判断できません。下記のような政策がやり易くなるのは目に見えていますがね。
今、こんな記事もありました。家族が一番さん北朝鮮の走狗、福田康夫は議員辞職せよ

では今日の本題を
 現在まで、中国の「友好」も「反日」もすべての政策が、ジャパンマネーを狙ったものであることは自明の理です。また日本国内にも、その利権に群る輩が、様々な名目で中国への支援を作り出そうと暗躍しています。これは北朝鮮との国交正常化推進についても、同じ構図が見られることでしょう。
「中国の黒いワナ」(別冊宝島)から第二章、青木直人氏の「国民の敵」から引用します。
写真は来日した温家宝と
nitchu02.jpg

引用開始
 目下、最大の媚中派政治家と揶揄されるのが、衆議院議長の河野洋平である。河野は昨年12月に中国を訪問し、最高指導者である胡錦濤国家主席と会見した。
 中国共産党の機関紙『人民日報』は、第一面の右肩を使って、この会見の模様をカラー写真付きで紹介している。このスペースは普通、前日に中国首脳と会見した海外の賓客が紹介される「指定席」であり、中国の対日外交にとって、今も河野が有力なキーマンであることを暗示していた。もっともこの記事では、河野のことを「日本の衆議院議長」としてだけでなく、「日本国際貿易促進協会」(国貿促)会長としても紹介していた。
 国貿促とは、1954年、中国を中心とした当時の社会主義国との貿易を目的にして、日本共産党の指導の下に誕生した経済団体である。当時、主要幹部はいずれも共産党員であり、日中貿易に関係する、中小のいわゆる「友好商社」を傘下に収めていた。
 国貿促の隠れた設立目的は,友党である日本共産党に、中国共産党から合法的に資金援助を行うことだった。貿易を通じて得た利益やコミッション料などが、同協会に恒常的に流れる仕組みになっていたのである。
 しかし、やがて中国で文化大革命が起こり、中国共産党と日本共産党の間で対立が始まると、それにともなって国貿促も、日本共産党から日本共産党の分派・中国派勢力の影響下に入り、そのまま72年の日中国交正常化を迎えたのである。
 その後、中国が改革開放経済にシフトすると、日本財界のトップ企業も参入しはじめて、近年では、会長に橋本龍太郎元首相が就任するなどして変貌を遂げてきた。とはいえ、中国政府に忠実な点では一貫しており、現在でも「日中友好七団体」のうちのひとつに入っている。チャイナロビー団体としてのカラーに変化はない。
 橋本元首相が昨年七月に物故し、その後を継いだのが、現役の衆議院議長である河野洋平である。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:15| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係

2007年09月20日

日中利権トライアングル

ODA大復活に向けて暗躍開始

 突然出てきた福田氏総裁への担ぎ出し。そして急に国民の支持が福田氏に優勢との報道。演説会では圧倒的に麻生氏支持にもかかわらず、この報道はいったいなんなのだという思いをしている方も多いようです。
 マスコミの異常な安倍叩きに続いて、突然の福田氏の持ち上げからは、マスコミによる世論の誘導が明白です。このまま行けば、国会は媚中議員の巣窟。いよいよ自民の崩壊が近づいているように見えますが、みなさんはどんな思いでしょうか。

 現在まで、中国の「友好」も「反日」もすべての政策が、ジャパンマネーを狙ったものであることは自明の理です。また日本国内にも、その利権に群る輩が、様々な名目で中国への支援を作り出そうと暗躍しています。これは北朝鮮との国交正常化推進についても、同じ構図が見られることでしょう。
 日本の領土を虎視眈々と狙い、日本国内ではスパイ活動、日本人に対する凶悪犯罪を頻発させているこのような国に対して、我々日本国民の血税が使われることは、どんな名目であれ絶対に許すことが出来ません。
「中国の黒いワナ」(別冊宝島)の巻頭にある、青木直人氏の序文から、今後我々の税金がどのように日中間の利権に流れようとしているかを見てみましょう。
nitchu01.jpg

引用開始
2006年8月、北京で外交政策に関する最重要会議「中央外事工作会議」が開催された。最高指導部9名の政治局常務委員全員が出席し、胡錦濤共産党総書記と温家宝首相が演説した。この会議では、それまでの反日外交を転換し、靖国神社参拝などの「歴史問題」では譲歩しないが、今後は「国内の経済建設安定のため」に、日本との関係改善を進めていくことが決議された。
 国力の増強を通じ、東アジアで覇権を確立しようという中国の戦略に変りはないが、中国経済が必要とするモノとカネの多くは、今後も日本から手に入れるしかない。ゆえに、日本との不必要な摩擦は避けて、「友好」を再演出していく――これが会議の結論だった。
 それまで中国は、「歴史問題(日本の戦争責任)を始終強調し、(日本とは)永遠に話していかなければならない」(江沢民前国家主席)と言いつつ、同時に厖大なジャパンマネー(ODA=政府開発援助)を「改革開放経済」の起爆剤として利用し続けてきた。しかし、小泉前首相の靖国神社参拝と、それに反発した中国の反日デモを契機に、中国の“タカリ外交”の実態が広く日本人の間で知られることとなり、日本国民の間に「なぜ中国支援を続けなければならないのか?」という根本的な疑問と不審が広がった。その結果、ODA(円借款分)の中止(08年度以降)が決定したのである。
 中国は焦った。日本からのODAは、政府の予算計画にまで組み込まれているのである。従来のように、歴史問題を楯に恫喝すれば、日本が膝を屈し、自動的に援助額が引き上げられることなど、もう期待できない。加えて、反日デモの影響から、日本企業の対中投資はガタ減りし、中国の実務担当者が熱心に押していた日本企業の「北京――上海新幹線」工事受注も、国内の反日感情ゆえに暗礁に乗り上げてしまった。このままでは、経済に致命的な影響を与えかねない・・・。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:29| Comment(4) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係

2007年04月05日

対中ODA中止の抜け穴

アジア開発銀行の対中融資は増加

 青木直人氏の著「中国に喰い潰される日本(チャイナリスク)」から少しご紹介します。青木氏は常に報道では隠されている日中の重要な部分を分りやすく発表され、聞くたびに政治家、官僚、マスコミがいかに日本人を裏切っているかに憤りを感じずにはおれません。

引用開始
 いまや中国に対する援助中止や削減が世界的な流れである。だが、これに逆らうかのように中国向け融資を増やし続けている唯一の国際援助機関がある。日本が最大の出資国であるアジア開発銀行(ADB)で、その対中融資はさらに増加の一途をたどっているのである。
 ADBは日本が米国と並ぶ最大の出資国(16%)で、世界銀行が米国の支配下にあるように、同行は日本政府、なかでも財務省の影響力が圧倒的な国際団体だ。創設も日本政府の主導だったし、人事にしても歴代の総裁はすべて日本人で占められている。現八代目総裁の黒田東彦氏も元財務省の国際金融キャリアである。・・・・・

 だがそうなると素朴な疑問が浮かんでくる。日本の外務省がかかわる中国ODAは廃止と縮小の方向が確定しているのに、なぜ同じ日本の役所である財務省が資金と人事を握るADBの中国援助は増えているのだろうか、ということである。誰が考えても面妖な話である。
 これでは日本政府の一貫した整合性のある対中国援助戦略はどこからも浮かんでこない。ODAはやめるが、ADBの融資は増やしましょうというのでは、両足を一緒に前に出して歩きましょうというようなものだ。援助額だけではない。融資の中身を見ても、ODAとの統一性や連動性が感じられないのだ。

 具体的に説明したい。円借款ではすでに中国国内の交通インフラ整備は援助対象にはなっていない。2001年度を最後に、以後、援助案件から姿を消した。・・・・
 だが逆にADBの中国支援の中身を見ると金額だけでなく、円借款が中止したこの道路や鉄道建設分野への支援がうなぎのぼりなのであるそれもODAで政府の自助努力が謳われているはずの商業ベースに乗らない内陸地域のものが圧倒的なのだ。・・・・・

東アジア共同体志向のADB歴代総裁

参考記事
 ADBの中国融資のめり込みの理由は、まず歴代ADBの総裁たちの中国認識があげられる。具体的に言えばその「東アジア共同体」志向が問題なのである。この点は、近年、急速に中国との金融協力を本格化しつつある財務省自体の姿勢も大きな影響をもっている。
 ADBの現総裁は黒田東彦氏だが、彼は2005年4月にフィリピンで開かれた総会の際に、取材につめかけた記者に中国観を聞かれて「中国は覇権主義的ではない」と言い切り、メディア関係者の話題になった人物だ。・・・・
続きを読む
posted by 小楠 at 07:43| Comment(4) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係

2007年04月04日

日中友好のリスク

日中友好に踊らされた森ビルの悲劇

 青木直人氏の著「中国に喰い潰される日本(チャイナリスク)」から少しご紹介します。青木氏は常に報道では隠されている日中の重要な部分を分りやすく発表され、聞くたびに政治家、官僚、マスコミがいかに日本人を裏切っているかに憤りを感じずにはおれません。
aoki.jpg

引用開始
 森ビルは現在、上海・浦東に「上海環球金融センター」を建設中だが、このビルの工事は長年中断したままにされていた。その再工事がようやく着工されたと聞き、私は上海の建設現場へと向った。
 森ビルなど日本の大手企業三十五社と国際協力銀行の出資で、世界一の高層ビルを建設する計画が公表されたのは1994年。躍進・上海の象徴として企画されたこのビルは、同時に日中友好の象徴としての意味もあり、建設に予定される資金約750億円(後に1050億円)は日本側だけで負担し、中国側は一銭も出さないという事実上の「日の丸プロジェクト」だった。

 1997年8月27日に定礎式が行われ、約一年間、地下部分の基礎工事を行ったが、その後、森ビルは「アジア金融危機によるテナント確保の困難さ」を理由に工事を中断していたのである。
 だが工事の中止期間中に、次々に明らかにされたのは、計画のずさんさだった。そもそもこの建設予定地は年間六センチを超えるほど上海一、深刻な地盤沈下に見舞われている場所であったことが判明したのである。
 この事実はほかならぬ2001年に地元上海の新聞がすっぱ抜いて、森ビル関係者を驚愕させた。
 報じたのは英字紙『シャンハイ・デイリー』だった。
「上海市は急激に超高層ビルが建設されたため、その重みで再び地盤沈下しつつある」
「市内の沈下は一年で約一センチにも上るが、その原因は度を越えた地下水のくみあげとビル建設にある」と指摘したうえで、
「なかでも市内でもっとも地盤沈下がひどいのが浦東地域の陸家嘴金融地域である。十年前までは畑にすぎなかったこの場所に多くのビルが建設された結果、2000年にはこの地域では平均38ミリも地盤沈下がおこっている」さらに続けて、「高さ420メートルの金茂大厦週辺はなんと63ミリも陥没している」と報じたのである。・・・・・

 森ビルが建設中の「上海環球金融センター」はこの金茂大厦から10メートル道路をはさんだ真向かいにある。そればかりか建設が予定されているのは420メートルの金茂大厦(88階)をさらに上回る、地上101階、地下三階、高さは492メートルもの地域最大の超高層ビルである。・・・・
続きを読む
posted by 小楠 at 07:20| Comment(5) | TrackBack(1) | 書棚の中の日中関係

2007年04月03日

媚中日本企業のトップ

靖国で譲歩を迫った日本企業のトップ

 青木直人氏の著「中国に喰い潰される日本(チャイナリスク)」から少しご紹介します。青木氏は常に報道では隠されている日中の重要な部分を分りやすく発表され、聞くたびに政治家、官僚、マスコミがいかに日本人を裏切っているかに憤りを感じずにはおれません。
 大企業のトップも本末転倒し、恥じもなく国家の存亡や国の名誉よりも自社の利益を優先した発言を平気でしています。

引用開始
 中国となると、広告を拒否したり、正確な広報も行わず、ごまかしに終始するだけでなく、その内政干渉に同調して、小泉前首相の靖国参拝にまでクレームをつけ始めた財界人も登場してきた。その代表人物が日本IBMの北城恪太郎会長で、彼は財界四団体のひとつ経済同友会の代表幹事も務める。
 メディアからもさんざん批判を浴びた彼の発言をもう一度紹介しておきたい。

「靖国問題は日本の国内問題であると同時に、中国には、日本の首相がA級戦犯を合祀している靖国神社に参拝することを快く思っていないという国民感情がある」
「小泉首相が靖国神社に参拝することで、日本に対する否定的な見方、ひいては日系企業の活動にも悪い影響がでるということが懸念される」
「経済界の意見の大勢だと思うが、小泉総理にいまのような形で靖国神社に参拝することは控えていただいたほうがいい」(2004年11月24日)

 次がこの二週間後の発言だ。
「(日中両国)首脳が相互に相手国を訪問できる関係が望ましい。その制約になること(靖国参拝)はできるだけ避ける、あるいは解決策を考える必要がある」
「(中国には)今まで小泉総理が行われてきた靖国神社への参拝、特に内閣総理大臣としての公式参拝への反感があるのだと思う」

 一読してわかるのは発言のスタンスが徹頭徹尾中国政府のクレームに添ったものだということだ。北城氏は日中両国の首脳の相互訪問のために、ひたすら日本側にのみ譲歩を迫るのである。・・・・
北城会長の口から出るのは、日本IBMが中国で商売するのに差しさわりがあるから総理の靖国参拝に反対だ、中国が反発するからだ、という企業エゴばかりである。
 それでいて、中国側の延々と続く反日教育やアジア杯における反日ブーイング騒動、また中国潜水艦の日本領海侵犯については言及もしなければ抗議もしないのである。その無国籍意識にはあきれかえるばかりである。
 日本IBMはIBMの日本の子会社だが、そもそも本社自体が極めて中国政府との政治的関係の深い企業なのである。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:42| Comment(4) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係

2007年04月02日

狙われる中国駐在員

盗聴に無警戒な日本の大使館

 青木直人氏の著「中国に喰い潰される日本(チャイナリスク)」から少しご紹介します。青木氏は常に報道では隠されている日中の重要な部分を分りやすく発表され、聞くたびに政治家、官僚、マスコミがいかに日本人を裏切っているかに憤りを感じずにはおれません。
aoki.jpg

引用開始
 大使館の警戒感のなさはすでに骨絡みだ。一例を挙げれば、第八代中国大使だった國廣道彦氏のケースが典型的である。彼は盗聴が確実に行われていることが明らかな病院内の電話を使って、日本国内に公的連絡を行っていた。
 彼が入院した日中友好病院は日本の援助で1984年に建設され、現在まで技術協力などの日本の援助が実行されている高級病院である。
 日本の援助団体は友好病院を「成功例」として持ち上げるが、この病院の最大の特徴は医療費が普通の民間病院の三倍近くもすることだ。もちろん医療水準の高さも一因なのだが、そのため共産党の高級幹部専用医院との陰口がささやかれ、事実、一般病棟とは別に「外人高幹専用」の病棟がある。
 私も何回か取材で訪れたことがあるが、院内はともかく敷地内も警戒が厳重で、うかつに写真一つ撮れない。撮影済みフィルムを抜かれそうになったこともある。いずれも共産党の実力者が通院しているためだ。そうした病院内には間違いなく盗聴器がついている。だがそのことに日本の大使は無警戒だった。

 中国の公安情報機関が日本に限らず、国内にある各種の外国機関に対して日常的に盗聴を行っているのは常識である。大使館、領事館、JETRO(日本貿易振興機構)など準政府機関、テレビ、新聞などの駐在マスコミ支局、大手進出企業のオフィス、もちろん個人の自宅も当然のように盗聴されている。対象は電話、ファックス、Eメール、郵便物など通信全般にわたる。また雇用している中国人の運転手やメイドも情報関係者とつながりをもち、定期的に報告の義務をもつ。・・・・

中国の代弁をする元日本大使

 2006年1月9日、北京で開催された日中政府間協議の席でも中国外務省の崔天凱アジア局長は、「日本のマスコミは中国のマイナス面ばかりを書いている。日本政府はもっとマスコミを指導すべきだ」と発言、日本側に対して中国報道の規制を要求した。
 日本の外務省は直ちにそれは無理と反論し、日本の世論もあきれかえったが、実はかつて、中国政府のこういう期待に応えて、日本の報道を叱りつけた元大使がいる。外務省のチャイナスクールの代表的人物でもあった第五代大使の中江要介氏である。

 彼の発言は2002年6月8日付の『朝日新聞』の「私の視点」に掲載された。(「瀋陽事件 独断と偏見目立つ報道も」)。
「人権を守るという目的のために、外国公館の目と鼻の先で公館出入り者を盗み撮りするという手段は目的のためには手段を選ばず、との謗りを免れ得まい」・・・・・
 中江元中国大使が批判したのは北朝鮮の残酷さや無法ぶりではなく、記者の「盗撮」行為だった。「これは目的のためには手段を選ばない」ものだと。日本だけではない。国際的にも注目され関心を集めたスクープ映像に反発する中国政府の本音を、日本の元大使が代弁したのである。
 だが誰でも知っているように、中国で自由な報道は許されていない。子供でも知っている事実である。だから記者はこうした手段をとるしかなかったのだ。・・・・・
 彼はあの天安門事件の際も、中国政府の暴力的な鎮圧に抗議した国際世論に対して、「日本は日中戦争のころを省みて、いまの中国を非難する資格のあるくらい人権を尊重した国であったのか」とひたすら中国政府を弁護し続けた外交官でもある。・・・・
続きを読む
posted by 小楠 at 08:00| Comment(4) | TrackBack(2) | 書棚の中の日中関係

2006年12月08日

尾崎秀実の南方誘導

尾崎の支那事変長期化活動

 コミンテルンのスパイ尾崎秀実は、近衛の「蒋介石を相手にせず」声明に我が意を得て、猛烈に言論活動を開始します。これに対立するのが、外務省東亜局長の石射猪太郎で、新任の宇垣一成外相に意見書を出し、宇垣もこの方針で和平を進めようとしましたが、結局辞任してしまいます。
 尾崎と石射の違いをそれぞれの論文から見てみましょう。
鈴木正男著「支那事変は日本の侵略戦争ではない」から引用してみます。写真は尾崎秀実
ozaki.jpg

引用開始
 さて、尾崎は昭和十二年十二月、朝日新聞特派記者として上海でも活躍し、三月帰国した。この間にトラウトマン和平工作は失敗し、一月十六日、蒋介石を対手とせずとの声明が出ていた。

 尾崎は自分の欲するままに時局は進んでいるとほくそ笑み、この上に立って猛烈な言論活動を開始した。支那事変を長期化する活動である。申すまでもなく尾崎は朝日の一流の支那事変担当記者であり、近衛首相の政策ブレーン昭和研究会の支那問題担当のキャップであり、当時のマスメディアの寵児であった彼は、縦横無尽にその健筆を揮った。次はその一端である。

「我々は事変の初期に於ては、この事件の持つ重大性を予知して、両国のために速なる解決と和平の手段を発見すべきことをひそかに希うたのであるが、その後事件が現在の如き決定的な、完全なる規模に展開を見た以上、もはや中途半端な解決法というものが断じて許されないのであって、唯一の道は支那に勝つという以外には無いのである。面をふることなき全精力的な支那との闘争、これ以外に血路は断じてないのである。
 同じく東洋民族の立場から、又人道的な立場から支那との提携が絶対に必要だとする主張は正しいかもしれない。しかしながら現在の瞬間に於てこれを考え、これを説くことは意味をなさないのである。敵対勢力として立ち向かうものの存在する限り、これを完全に打倒し了せて後、初めてかかる方式を考うべきであろう」
続きを読む
posted by 小楠 at 07:16| Comment(6) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係

2006年12月07日

上海事変の勃発

日本を戦争へ引きずり込む中共とコミンテルン

 石原莞爾少将は事件の背景にはソ連、更には満州国の成立を認めない米英の勢力があると睨み、一つ間違えば日支全面戦争になることを恐れました。
しかし、支那側は挑発に次ぐ挑発を重ねます。
鈴木正男著「支那事変は日本の侵略戦争ではない」から引用してみます。
ooyama.jpg

引用開始
※船津和平工作
 昭和十二年七月二十九日、天皇陛下は近衛首相を召され外交交渉による平和解決を熱望遊ばされた。この聖旨を体し、通州事件に動ずることなく外務省及び陸海軍首脳は根本的全面的対支国交調整案を作成した。参謀本部次長多田駿中将、同第一部長石原莞爾少将もこれに深く参画した。この案は実に寛大無比な驚くべき日本軍の譲歩を示すものであった。・・・・

 折柄滞京中の在華紡績同業界理事長・船津辰一郎を通して南京政府に接触し、平和交渉の糸口を開かんとした。船津は上海総領事を勤めた支那通で、その温厚な人柄で日支双方の信用を得ていた。・・・・

 それではその日支和平提案はどのような物であったか。骨子は凡そ次の通りである。

(一) 塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定その他、華北に存する従来の軍事協定一切を解消する。

(二) 特定範囲の非武装地帯を設ける。

(三) 冀東・冀察両政府を解消する。

(四) 日本駐屯軍の兵力を事変前に戻す。

国交調整案
(一) 支那は満州国を承認あるいは黙認すること。

(二) 日支防共協定を締結する。

(三) 排日取締りを徹底させる。

(四) 上海停戦協定を解消する。

(五) 日本機の自由飛行を廃止する。

(六) 冀東特殊貿易(低関税貿易)を廃止し、非武装地帯海面での支那側密輸取締りの自由を回復する。

 この案は要するに、満洲事変以後、我国が獲得した前述の既成権益の殆ど一切を放棄しようとする寛大極まるものであった。・・・・

 日本の近衛首相以下軍をも含めての最高指導者は、これならば必ず平和が到来すると感じていたであろう。・・・・
 この日支交渉の妥結を最も恐れたのは中共である。あわてて中共の毛沢東と周恩来が八月九日に南京にかけつけた。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:54| Comment(4) | TrackBack(1) | 書棚の中の日中関係

2006年12月06日

広安門と通州事件

今回も、鈴木正男著「支那事変は日本の侵略戦争ではない」からの引用です。ここは残虐で有名な通州事件とその前の廊坊事件、広安門事件が記述されています。いずれも支那軍からの攻撃や襲撃事件です。特に通州事件は、当時の世論を激昂させた重大な事件ですが、どうも日本では隠そうとされてきたようですね。
suzuki.jpg

引用開始
 支那軍の猛射を受け応戦した日本軍は忽ちに盧溝橋を占領し、支那軍を永定河の対岸に追払い落し宛平県城、龍王廟を占領してしまった。そこで現地で次の停戦協定が苦心の上で結ばれた。

@ 第二十九軍は遺憾の意を表し、責任者を処分し、事件再発防止を声明すること。

A 宛平県城及び龍王廟に駐兵せず、保安隊を以て治安を維持すること。

B 抗日団体を徹底的に取締ること。

の三項目で交渉がまとまり、七月十一日夕刻、我が松井久太郎中佐(天津特務機関長)と張自忠将軍(第二十九軍最長老師団長)との間で調印が行われた。
 しかし、これは上部での交渉妥結に過ぎず、支那軍の抗日青年将校はこれを守ろうとはしなかった。この二十九軍というのは昭和十年の梅津・何応欽協定で中央軍が北支を撤退した後に入ってきた宋哲元の軍で、この二十九軍の中には張学良の東北軍(満洲軍)や中共軍の息のかかった抗日に燃える青年将校が沢山いたので、これらの抗日勢力は決して黙っている筈はなかった。
 これに油を注いだのが、既に中共の薬籠中の人となった蒋介石の声明であった。この声明は七月十九日に出された。その要旨は、

 「もし盧溝橋の武力占拠を容認するならば、中国四百年の旧都北京は敵の手中に落ちるのだ。かくて北京は第二の奉天となり、北支は第二の満洲となるであろう。北京が第二の奉天となるならば、南京が第二の北京と化することを如何にして防止することが出来ようか。故に盧溝橋を保全するか否かは、全国民存亡の懸かる所であって、吾々は如何なる犠牲を払うとも、断乎として抗争せねばならぬのである」

という激烈きわまるもので、まるでこれは宣戦の布告と申してもよい。
・・・

 この声明に呼応するかの如く、その六日後の七月二十五日に廊坊と広安門という二つの事件が起きた。廊坊というのは北京・天津間の小さい駅であるが、そこで日本の軍用電話線が切断された。天津軍の修理隊は北京政権の承諾を得て出動、夜半休憩中、支那軍に急襲されて損害を受け、翌二十六日早朝、援護部隊を急派して敵を退けたのであった。

 同日、北京の広安門では更に挑戦的な事件が起きた。この時、北京城内には支那軍二個師団が駐屯し、日本軍は僅か百名しかいなかった。そこで牟田口連隊長は盧溝橋方面から一個大隊を帰還させることにし、北京政権の諒解を得てこれを実行した。我が部隊が広安門を通過中、その半数が通った時に急に城門が閉鎖され、城外に残された部隊に向けて、突如城壁の上から急射撃を受けたのであった。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:09| Comment(7) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係

2006年12月05日

盧溝橋事件の詳細

中国の言う侵略は虚偽

 続いて、鈴木正男著「支那事変は日本の侵略戦争ではない」からの引用です。ここでは盧溝橋事件の詳しい実況が伝わってきます。この内容を見て、どうしてこれが日本の侵略などと言えるのか、マッカーサー証言も広く世間に報せて、日本の教科書をはじめ、言論界、マスコミは、もういい加減にきっぱりと、日本は侵略戦争などしていないことを発言するべきでしょう。
この記事に対しておばりん様から教えて頂いたHP一文字山の星空では、その当事の盧溝橋事件に遭遇された元軍人の方が事件のことを書かれています。
写真は蒋介石(右)と張学良(左)です。
gakuryo.jpg

引用開始
 昭和十二年七月七日夜、天津軍の歩兵第一連隊第三大隊第八中隊百三十五名(中隊長清水節郎中尉)が北京西南方十二キロ盧溝橋北側の永定河左岸の荒蕪地夜間演習を終了直後、突如三発の機関銃空砲音が永定河堤防上の龍王廟付近より起った。時に七日午後十時半過ぎであった。
 続いて今度はピューンと云う音とともに三発の実弾が飛来した。盧溝橋事件の発端である。これが支那事変に拡大し、大東亜戦争に立ち到る歴史的瞬間であった。・・・・・

 支那軍から思いもかけず実弾を撃ち込まれた指揮官清水中隊長は、ただちにラッパ手に全員集合の吹奏を命じた。この時に部下の曹長が龍王廟と鉄道橋の中間で懐中電灯による支那軍の発光信号を認め、これを中隊長に報告しようと二三歩進んだところ、またもや連続十数発の実弾が頭上をかすめた。
 中隊長は、ただちに全員に伏せを命じ、この旨を大隊長に急報すべく、二名の伝令を騎馬で大隊本部の豊台へ走らせた。この時、清水中隊が携行していたのは演習用の空砲のみで実弾は持っていなく鉄兜も携行していなかった。

 報告を受けた一木大隊長(後にガダルカナルで戦死)は直ちに非常呼集を命じ、北京の牟田口連隊長に電話で報告した(この時、河辺旅団長は第二連隊の中隊検閲のため出張不在)。
 連隊長は「大隊主力を以て現地に急行、夜明けを待って支那軍と交渉せよ」と命じた。一木大隊長以下が現地に到着したのは翌七月八日午前三時二十分であった。その直後の二十五分、同大隊に向けて盧溝橋方面より第三回の射撃を受けた。

 大隊長は通信班によって開通した現地と連隊本部との電話で第三回目の射撃を受けたことを報告、指示を求めた。連隊長は熟考のすえ「攻撃してよろしい」との命令を下した。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:47| Comment(15) | TrackBack(1) | 書棚の中の日中関係

2006年12月04日

支那事変侵略の嘘

盧溝橋事件を拡大させた中国

参考サイト考察NIPPONさんもご覧下さい。
 昭和六(1931)年の満洲事変は、リットン調査団の報告書にも明らかな通り、日本の侵略行動とは一言も書いていません。しかし、昭和十二(1937)年から四カ年に及んだ支那事変は、中国側は日本の侵略戦争だとうるさく言い、日本でもまた東京裁判史観の影響で、日本軍の侵略行動だとの認識が一般的になってしまっているようです。
 またユン・チアン著の「マオ」では、『張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいて、ナウム・エイティンゴン(後にトロッキー暗殺に関与した人物) が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。』と言うことも書かれています。
 今回の鈴木正男著「支那事変は日本の侵略戦争ではない」では、支那事変が侵略ではないことを詳しく説明していましたので、紹介してみます。
写真は事件一か月後の盧溝橋。
1m-rokoukyo.jpg

引用開始
 盧溝橋は北京(北平)の郊外にある。ここに日本以下諸外国の軍隊が駐屯することになったのは明治三十三年に起きた義和団事件の結果であった。ここに日英仏等諸外国の軍隊が久しく駐屯していたことは、中国が国家として近代国家でなかったことを物語るもので、日中悲劇の遠因はここにあった。このことは事件発生の大前提として銘記されなければならない。
 筆者は事件発生の直接の原因は西安事件であるとする。西安事件により第二次国共合作が成立、その上にたって中共軍が綿密な計画と準備の上で盧溝橋事件を起したのであると断定する。

 それでは西安事件とは一体何であったか。第一次国共合作が破れて以来蒋介石の国民党軍と毛沢東の中共軍とは戦闘状態にあった。蒋介石は剿匪総司令官に就任して中共軍の絶滅を期し、張学良副指令に命じてこれを西安の奥地に追いつめたが、なぜか張学良には戦意がない。蒋介石が督戦のためその総司令部のある西安に乗り込んだところ、張学良が反乱を起し蒋を逮捕監禁してしまった。昭和十一年十二月十二日のことであった。

 延安の毛沢東は狂喜し、多年の恨みを晴らすべく、これを死刑にしようとした。ところがモスクワのスターリンから蒋介石は絶対に殺してはならぬ。これを抗日統一戦線に最大に利用せよ、若し、この命令に反するならば中国共産党とソ連とは無関係になるという有無を言わさぬ電報であった。毛沢東は真赤になって怒ったが、どうしようもない。周恩来が延安より西安に飛び、ここで第二次国共合作の秘密協定が蒋介石、周恩来、張学良の三者の間に於て結ばれ、蒋介石は釈放され、中共軍は国民党軍に編入され、ここに抗日戦線は名実ともに整ったのであった。当時、日本の情報機関はこのことに全く気づかなかった。迂闊という以外にない。・・・・
続きを読む
posted by 小楠 at 07:51| Comment(2) | TrackBack(4) | 書棚の中の日中関係

2006年10月14日

外務省のバカさ!

 これはどうしても多くの国民に知ってもらいたいので、臨時掲載します。どんどん拡散して頂ければと思っています。

 やっぱりなーと言う思いです。外交能力欠如の外務省官僚に税金を払う必要無し。どこの国のために仕事をしているのでしょうか。自国の首相に中国側の要求通りするように迫るとは、スパイもどきの行為でしょう。こんな奴は外交官といえません。茶坊主は辞めさせるべきです。こんな奴が居るほうが害になります。
 他のマスコミも、このように安倍首相の姿勢を明確に表す出来事を何故大きくとりあげないのか?
 あっ、そうでした、朝日のようなマスごみが取り上げるのは、マイナス点だけでした。

想定問答無視

聞き役に回らず 文書破棄も覚悟、譲歩引き出す

 首相として5年ぶりの訪中を果たした安倍晋三首相。日本との関係修復を急ぐ中国は国賓級で首相を迎え入れ、8日の北京は歓迎ムード一色に染まったが、水面下ではギリギリの駆け引きが続いていた。北朝鮮問題などをめぐり、東アジア各国が外交戦略の転換を迫られる中、外務省が主導してきた「予定調和」の日本外交が終焉(しゅうえん)したことは間違いない。(石橋文登)
 
 幻のあいさつ
 8日夕、温家宝首相主催の晩餐(ばんさん)会の直前。胡錦濤国家主席らとの一連の会談を終え、人民大会堂内の一室でひと息ついていた首相の表情がサッと険しくなった。
 
 外務省高官が「中国側の意向」として、あいさつの修正を求めてきたのだ。
 「なぜ私のあいさつの内容を中国側が知っているんだ?」。首相の問いに高官は押し黙った
 「こちらは温首相のあいさつを把握しているのか?」。答えはなかった。
相手の機嫌を損なわないことを最重視してきた外務省の「外交術」がかいま見えた瞬間だった。

 「それではあいさつはできないな…」。首相の一言に高官らは狼狽(ろうばい)したが、首相は頑として譲らず、あいさつはキャンセルとなった。この夜、安倍、温両首相らが和やかに談笑する晩餐会の様子が世界に報じられたが、両国高官にとっては居心地の悪い席だったようだ。
 
 会談の心得
 
 首相の訪中を2日後に控えた6日、麻生太郎外相は衆院予算委員会の最中、首相にそっと手書きのメモを差し入れた。「首脳会談の心得」。要点は(1)両手で握手をしない(2)お辞儀をしない(3)政府専用機のタラップは夫人と並んで降りる−の3つ。首相はニヤリと笑って軽く会釈し、メモを胸ポケットにしまった。
 
 首相と麻生氏がもっとも懸念したのは、歴代政権のように「日中友好」の甘言につられ、中国側に「朝貢外交」を演出されることだった。首相は握手の際、笑顔を見せたものの、視線は相手から一瞬も離さなかった。
 
 さらに首相は一計を案じた。相手より長く話すこと。中国は古来官僚国家であり、文書をもっとも重視する。聞き役に回れば、書面上は「負け」ということになるからだ。
 
 温首相は会談の冒頭から漢詩などを引用し、とうとうと話し始めた。首相はそれ以上に長い時間をかけて話を続け、特に歴史認識や靖国神社参拝に対する中国側の婉曲(えんきょく)な批判への反論にはたっぷりと時間をかけた。
続きを読む
posted by 小楠 at 10:48| Comment(6) | TrackBack(0) | 書棚の中の日中関係