2007年07月14日

年金問題の責任

 民主、社民、マスコミは年金問題の真の原因をほとんど言わず、現政権批判をしていますが、民主、社民こそ、この真の原因である自治労の組員が支援する政党です(他に日教組の組員も支持母体)。彼らに、他を批判する資格など全くありません。我々の税金がこのような国賊公務員共に好き勝手に使われているのです。
 年金関係だけでなく、隠しておきたいのか知りませんが、国民に知れ渡っていない民主党の政策は、日本人にとって危険極まりないものです。
 民主党に信念があるなら、現政権との違いが明確なこれらの政策こそ、大々的にアピールするべきです。それとも何か都合が悪い?
以下に加賀もんのブログ様からお借りして例を挙げます。
a)「永住外国人の地方選挙権」
b)「旧日本軍による『慰安婦』問題の解決を図るための『戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法案』
c)「選択的夫婦別姓の導入」
d)「人権侵害救済機関の創設」
e)「教科書検定および採択について」には、「教科書採択にあたっては、保護者や教員の意見が確実に反映されるよう」
f)沖縄で「地域主権のパイロットケースとして『一国二制度』を推進」

またこれについては、アジアの真実様でも掲載されています。

さて、年金問題について、
以下は屋山太郎氏が雑誌「WiLL」に書かれた内容の抜粋です。
以下抜粋引用
社会保険庁の年金問題はキャリア官僚のことなかれ行動原理と官公労働者の組合運動の本質を象徴する事件だ。・・・・
 責任があるのは実務を担当する役割の歴代、社保庁長官、それをとり巻く厚労省(旧厚生省)官僚及び職員だ。
 社保庁の職員が今年四月まで加入していた組合を「自治労国費評議会」という。自治労(全日本自治体労働組合)というのは、大阪市の職員への背広現物支給や何十もの特殊手当てをつけさせた組合などを含む地方自治体の職員組合の連合体をいう。八日勤めただけで五年分の給与をぶん取った奈良市の職員も自治労の組合員だ。・・・・
 社保庁は全国十三ヶ所に「グリーンピア」という大規模保養基地を作った。・・・・轟々たる非難の中で全部売払った。グリーンピアは1953億円かけて建設したのに、損失ばかり。国の売却命令で売り払った金額はわずか48億円だった。厚労省キャリア、社保庁職員の乱脈、無責任さには声をのむばかりだ。
 当時先進国ではとっくの昔に導入されたオンライン化が遅れたのは、まさに自治労国費評議会のせいだ。今頃、残業代なしで問い合わせを受けるという偽善をやっているが、格好をつけるなといいたい。まともな勤務をやっていれば五年も前に照合は終っているはずだ。・・・・
 民間が必死に合理化に励んでいる時になぜ反合理化なのか。73年末、国労の富塚三夫書記長にインタビューして「国鉄解体論」を書いたことがあるが、そのさい富塚氏はこう答えたものだ。
「国鉄が円滑に運営されないことが、国力を弱め資本主義解体のために役立つ」
 この倒錯した論理に社保庁の組合員も染まっていたのだろう。・・・
 国労は座敷で乱暴狼藉を働いたから目だったが、自治労は床下に時限爆弾を仕掛ける趣きだ。いずれにしろ反国民的労働運動であることは間違いない。
引用ここまで
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posted by 小楠 at 09:47| Comment(7) | TrackBack(4) | 日本人の独り言

2007年06月23日

年金問題と民主党

年金問題の原因は民主党の支持団体自治労の腐敗
職員の横領まで発覚!!

こんな輩から票をもらう政党を支持しますか?

 年金管理の実際の作業を行ってきたのは、社会保険庁の職員。そしてその労働組合は、全日本自治団体労働組合(自治労)。自治労は民主党や社民党の有力支持団体です。このことがあまり大きく報じられていません。
 参院選を控えた最近の世論では、民主がかなり優勢のように報じられていますが、自治労が有力な民主党の支持団体であることを、どれくらいの国民が知った上での世論でしょうか、疑問に思います。
 社保庁労使のなあなあ体質が、年金加入者無視につながり、今の大問題となって顕在化したものでしょう。
 民主党は、このような団体から票を得てきたことを国民の前にはっきりさせた上で、これまでこの団体に適切な指導もできなかったことを反省し、今回の参院選に臨むべきです。
 また国民も、年金問題で政府批判をしている民主党が、この自治労の支持を得ているということを知っておかねばなりません。
政府与党への批判と歴代長官の責任論が浮上していますが、社保庁と自治労が、労働条件向上を優先する覚書などを何度も交わしていたことも明らかになっています。

土光臨調メンバーで「国鉄民営化」などを提言した評論家の屋山太郎氏は、
社保庁労組は自分たちの労働環境や条件が最優先で、年金加入者へのサービスは二の次だった。かつて国鉄労使がヤミ協定を結び、労働密度をスカスカにしていたのとそっくりだ。これだから国民の大切な年金記録をいい加減に扱っていたのだろう」
「社保庁改革法は非公務員型の「日本年金機構」を作って、6分割する主旨だ。国鉄の7分割・民営化をなぞった解決法だ。民主党の国税庁と一緒にして「歳入庁」を作れというのは米国式の発想だが、現実問題として大学に中学生を入学させるようなもので無理だ。民主党がやるべきことはまず支持母体の自治労に世間一般の常識を教育してやることだ。小沢一郎氏はこの自治労を選挙の手足にしているが、これではさながら「小沢自治労」だ」。
と憤っています。

 下記の覚書などを見れば、税金を支払っている側の人たちが日夜必死で仕事に取り組んでいるにも拘わらず、その税金から所得を頂いている自治労の公務員が、いかに仕事をしないように日夜取り組んでいるかが浮き彫りになってくるでしょう。
このような団体の支持を受けているのが民主党であることを、多くの国民は知るべきです。
 なお、民主党のなかには、自民党の媚中議員とは正反対の憂国の議員が頑張っていますので、正確には民主党左派や社民系の党員ということになります。
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posted by 小楠 at 07:44| Comment(24) | TrackBack(2) | 日本人の独り言

2007年01月01日

本年もよろしく

新年おめでとうございます。

旧年中は拙ブログをご訪問頂き有難うございました。

本年も書棚の中からできるだけ多くの書籍をご紹介して

何らかでも皆様のお役に立てればと考えております。

新年が皆様にとって良き年となりますようお祈り申し上げます。

本年もまた、よろしくお願い申し上げます。

小楠
posted by 小楠 at 10:13| Comment(10) | TrackBack(1) | 日本人の独り言

2006年11月30日

逆転太平洋戦争史2

占領政策をアメリカに適用してみると

 前回1からの続きです。日本とアメリカの立場を全く逆にした太平洋戦争史を想定すると、どんな感じを受けられるでしょうか。
 今回はアメリカの占領政策と同種の政策をアメリカに対して行った場合を想定しています。
写真は皇居前通りを行進する占領軍です。
shinchu01.jpg

引用開始
※米本土進駐と精神的武装解除
 アメリカ人が試みた最後の抵抗の凄まじさに驚いた日・清・朝を中心とした連合軍は、米国が再び立ち上がることができないようにしなければならないと考えた。そのために占領後、アメリカ精神の巧妙なる解体作業にかかる。
 まず事後検閲の方法で、言論統制し、真珠湾や南米に対する侵略的奇襲を大きく印象づける。さらにラジオや新聞を通じて、米軍の悪虐非道ぶりを連日のように報道させる。

 さらに教科書の軍国主義的内容に対してはスミを塗らせ、フロンティア精神は軍国主義に通ずるとして、西部劇を禁じ、ワシントン、リンカーンらを美化して教えることを禁止する。
 さらに「キリスト教指令」を出して、キリスト教のゴッドのみを特別扱いすることを禁止する。そのために大統領の演説の中にゴッドを入れることを認めず、
 アーリントン墓地内の「野外教会堂」を破壊し、「無名戦士の碑」に刻まれている「ゴッド(キリスト教の神)のみぞ知る栄光ここに眠る」という文字もけずらせる。そして米国内にある回教も仏教も、キリスト教と同等の宗教法人にしてしまう。

 それとともに「大米州戦争」という呼称を公文書に使うことを禁じ、「太平洋戦争」に変えさせる。
 また「フロンティア精神」は現地インディアンを圧迫し、ひいては侵略主義に発展したものなので、公文書で使うことを禁ずる。そして将校や戦争に協力した人たちを公職追放し、戦争指導者を「文明と正義の名」において裁き、戦犯をABC級に分けて絞首や銃殺などの方法で処刑する。
 当初アメリカは、「固くアメリカ精神の不滅」を信じ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで矛を納めた。しかし、日本の巧妙な占領政策によってキバを抜かれ、いわば「中性国家」の道を歩みはじめるのである。
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posted by 小楠 at 07:43| Comment(4) | TrackBack(0) | 日本人の独り言

2006年11月29日

逆転太平洋戦争史1

日本とアメリカの立場を逆にしてみたら

「昭和の戦争記念館」第二巻 大東亜戦争と被占領時代という本の最後に、歴史のフィルムを逆回転し東風が西風を圧したと想定して、列強と日本、清国の立場を入れ替えて、アメリカのやったことを日本のやったことと想定して記述してみようという試みがあります。どんな感じを持たれるでしょうか。日本が開戦に至った事情がよく判るのではないでしょうか。写真は真珠湾です。
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引用開始
 われわれがもっと発想力を鍛えるために、一つの方法を提示してみたい。それは、占領軍の作った『太平洋戦争史』を逆転してみることである。
 もし、15、6世紀頃にヨーロッパから起こった地理上の発見(大航海時代)が、東洋から起ったと仮定してみられよ。当時の日本や清国や李氏朝鮮などがアジアの大国として、ヨーロッパからアメリカ大陸に進出した場合、すなわち、「東風が西風を圧する世紀」の想定である。

 19XX年、その時すでに日本はハワイやグァムを併合し、そこには太平洋に睨みをきかす日本の聨合艦隊が駐留している。さらにパナマも、中南米も、カナダまでも東洋勢力の植民地になっている。東洋勢力に包囲された時、アメリカはどうするか。
 フロンティア精神を失わないアメリカなら、自衛のために武力を使ってメキシコを独立させ、生命線にするであろう。東洋勢力が主導権を握っている国際連盟は、アメリカが提出した独立国メキシコの承認案を否決してしまう。アメリカは体面を汚されたとして連盟を脱退し、孤立化の道を歩む。

 その頃ヨーロッパで現状打破を狙っている英・仏は、米との間に三国軍事同盟を結ぶ。米国には軍人大統領が登場し、「高度国防国家」の建設に走り着々と軍備を増強する。国内世論は沸騰し、新聞は「日・清撃つべし」の主張を掲げる。
 やがて米軍は日本が支配しているパナマ運河にまで迫る。パナマは東洋勢力にとっても「逆鱗」である。日本はJ(日)C(清)K(朝)ラインを呼びかけ、アメリカに対して経済封鎖を迫る。
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posted by 小楠 at 07:36| Comment(0) | TrackBack(1) | 日本人の独り言

2006年11月27日

昭和殉難者のミサ

ヴァチカン宮に祀られた昭和の殉難者

「昭和の戦争記念館」第3巻 大東亜戦争の秘話という本の中に、昭和の殉難者のために荘厳なミサがヴァチカン・サンピエトロ寺院で行われたこと(1980年5月21日)が載っていますので、ご紹介します。
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これらと他の拡大写真はこちらでご覧下さい。

引用開始
 ローマ法王庁・ヴァチカンには、昭和の殉難者1068柱の霊が祀られている。連合国の手で「戦犯」として裁かれたABC級すべての日本人「法務死」者の霊が、世界のキリスト教カトリックの総本山ヴァチカンに、他ならぬローマ法王によって祀られたのである。
 その多くはキリスト教信者であった連合国側にとって、これほどの皮肉はない。皮肉というよりは、勝者の驕りに対する「神の戒め」であるとも言えよう。

 時のローマ法王・パウロ六世に、日本人殉難者のためにミサを、と訴えたのは仏教徒の仲田順和師であった。
 昭和五十(1975)年にヴァチカンを訪れた折に、かねてより心を痛めていた「戦犯とされた人々」の鎮魂と慰霊のために、宗教の違いを超えて願い出たのである。

 順和師の父であり先代座主でもあった順海大僧正は、学徒兵や殉難者の法要を欠かさず、「七戦犯の鐘」など慰霊の鐘も護持している。
 先代座主の遺志をついだ真言宗醍醐寺派別格本山品川寺(ほんせんじ)の仲田順和師の願いを、パウロ六世は快く承諾した。しかし、喜んで帰国した順和師にその後届けられたのは、法王の訃報であった。その後を襲ったパウロ一世も急逝し、異教徒の願いは空しく閉ざされたと思われた。

 その順和師のもとに、ヨハネ・パウロ二世から親書が届けられたのは五年後の昭和五十五年四月、内容は「五年前の約束を果たしたい」との思いもかけぬものであった。
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posted by 小楠 at 08:12| Comment(12) | TrackBack(4) | 日本人の独り言

2006年11月25日

パラオの天皇観

パラオでの御在位奉祝パレードと皇居参賀

「昭和の戦争記念館」第4巻 大東亜戦争その後の中に、パラオで昭和天皇の御在位60年の奉祝パレードがあったことが載っていましたので、紹介してみます。
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他に、このお話も有名ですね。
http://www.asyura2.com/0406/idletalk10/msg/583.html

引用開始
 パラオ共和国では、昭和六十一(1986)年十一月二十三日に、「天皇陛下御在位六十年」の奉祝式典を行い、提灯行列に移った。
 その話を最初に聞いた時には信じられなかった。その写真を貰っても、何だか半信半疑の気持ちが残った。私が現地に出かけて尋ねたら「私たちがやりました」と、写真にうつっている人々が名乗り出てきた。そして紹介されたのが、日本名で、沖山豊美(父が日本人)という人であった。

 彼女は戦前の日本の高等女学校を卒業した唯一人のパラオ人である。女学校をトップで卒業し、五カ国語に通じ、アメリカでは「バロン・オキヤマ」と呼ばれて尊敬されている、と聞く。私の質問に対して彼女は、「天皇陛下は世界で最も尊い方」と前置きしてゆっくり、しかし正確な戦前の日本語で答える。彼女が挙げた、御在位六十年を祝う理由は、次のようなものであった。

@ 世界で一番古い家柄の方である。他のどの王室も遠く及ばない。

A 日本の軍人はペリリューやアンガウルだけでなく、他の戦場でもあれだけ立派に戦った。それは天皇の力であって、アメリカ人もペリリュー島を「天皇の島」と呼ぶようになった。

B 日本人があれだけ真剣に戦った戦争だが、それを一ぺんにやめさせられたのも、天皇の力だった。天皇の命がけの決断で我々も救われた。

C 日本は戦争に負けたのに天皇は相変わらず天皇であられる。こんな例は世界史上例がない。

D その天皇が六十年も在位された。順風の時代に在位されたのではなく、興隆と敗戦の激動を通じてずっと天皇であられた。この僥倖を思うと日本人でなくてもお祝いしたい気持ちになる。
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posted by 小楠 at 07:16| Comment(19) | TrackBack(3) | 日本人の独り言

2006年11月24日

戦艦三笠の運命

東郷元帥とニミッツ元帥
「世界に生きる日本の心」という本に、日露戦争、日本海海戦で旗艦として東郷元帥が指揮をとった戦艦三笠が記念館三笠となる経緯が書かれていましたので、紹介して見ます。写真は東郷元帥とニミッツ元帥です。
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引用開始
 大東亜戦敗戦と共に、我が国は連合国の占領下に置かれました。米、英、ソ、中国等で結成された極東委員会で、三笠の保存をめぐって激論がかわされたことがありました。ソ連代表テレビヤンコ中将は、「ロシアを負かした三笠を保存するとは何事か。スクラップにして直ちに海中に投棄せよ」と主張しました。
 それに対して米・参謀部長・ウイロビー少将は・・・日本国民の記念物を破壊して反感を買うことは避けるべきだと、主張しました。・・・・

 その後三笠は米軍監視下におかれ、心ない米兵によって艦内の目ぼしい記念品は持ち去られました。・・・・・
 横須賀市は民間に払い下げて、文化的に経営することを考え、かねてから申請していた湘南振興会社に、マスト等の撤去作業を請け負わせました。湘南振興では撤去作業が終わると、艦内で米軍相手のキャバレー的な風俗営業を始めました。東郷長官室はキャバレー・トーゴーとなり、加藤友三郎や秋山真之参謀等のいた参謀長室は、カフェになったといいます。
 やがて昭和25年、朝鮮動乱が始まると、艦内の鉄、銅、真鍮等、目ぼしいものき殆ど売却して暴利をむさぼったと聞きます。・・・

※中村虎緒氏と英人ルービン氏
 日本人で最初に三笠復元にたちあがったのは中村虎緒氏(元海軍大佐)でした。氏は昭和三十年五月、復元を公約して市会議員に当選。湘南振興会社の駆逐を申し入れ、政府にも働きかけ、地元の日刊「南神新聞」にも記事を連載する努力を重ねました。

 三笠保存の声は外国人の間からも挙がりました。最初に口火を切ったのは、昭和三十年春、日本を訪れたジョン・S・ルービン氏でした。氏はイギリスの貿易商で、三笠がイギリスのバーロー・イン・ファーネス造船所で建造されていた時、現地で宝石商、時計商を営んでいた人でした。三笠の乗組員が、この人の店を訪れてから親しくなり、ルービン氏もまた自分の住む町で三笠が造られたことに愛着と誇りを持つようになりました。

 三笠が完成しバーロー港を出てから五十七年目の昭和三十年の夏、氏は商用があって、七十五歳の老体にもかかわらず、元気に来日しました。その時彼が再開の喜びに胸をおどらせながら、まづ第一に訪れたのが、横須賀の三笠でした。しかしそこで見た三笠は前述の通りの無残な姿に荒れはてていたのでした。
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2006年11月22日

メーソンの神道解説

 今回も「世界に生きる日本の心」から、日本に留魂した外国人たちの一人を紹介してみます。

引用開始
 アメリカ人で、神道をみごとな英文で書き著したジャーナリストがいました。J・W・T・メーソン(1879〜1941)という人です。
 メーソンの墓碑は東京・多磨霊園にあります。彼がアメリカで亡くなる時、「遺骨を日本に葬れ」と遺言していました。日米開戦中にも拘わらず、東京都のはからいで多磨霊園に埋葬されたのでした。碑の題字には、メーソンのフルネームと生没年、そして「ジャーナリストにして神道主義者」と書かれています。
 以下はメーソンの著書「神ながらの道」の一部です。

序(抄)
 神道は外面はなはだ単純であるけれども、深遠なる内面的意義を蔵する。日本人はいまだかつて客観的分析的方法によって神道を自己表現的なものにしたことなく、常に神道の内面的精神(日本人として欠くことを得ざる必須要素)によって指導されることに満足している。
 もし我々と違った消化器官を持っている別世界の者が、この地球を訪れ、どうして、口中に摂取された食物が生命を維持するエネルギーになるかと質問したとすれば、何人も答えることは出来ないだろう。しかし事実は厳として存在する。
 同様に、違った霊性観を有する西洋人が日本人に神道の意義を問うたのに対して、日本人がその意義を知らぬと答えたとしても神道は無意義なものであるということにはならぬ。日本人は神道を分析していないというだけのことである。
 創造的原動力、詳言すれば、日本人に対する神霊的・心意的エネルギーの刺激としての神道の力は、言説的解釈の欠如に関係なく、常に存在しているのである。(中略)
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2006年09月17日

現代版「葉隠(はがくれ)」

「葉隠」は、佐賀鍋島藩士・山本常朝(つねとも、1659〜1719年)の七年間にわたる談話を同藩の後輩・田代陣基(1678〜1748年)が筆録し、編集したものです。
 「葉隠」といえば、【聞書第一 教訓】の「武士道というは死ぬ事と見付けたり」を真っ先に思い浮かべられるでしょうが、これは当時の武士の価値観に同化しないと理解できないと思います。何かと批判の対象にされることが多いですが、今の考えでこれを批評することはできないでしょう。
 「葉隠」はこの項以外は、ほとんどが処世術、それも主君に仕える武士としての物の考え方が、日常の出来事などを引用して丁寧に述べられており、およそ「武士道というは死ぬ事と見付けたり」だけから連想するような内容ではありません。
 今回引用する「序章 夜陰の閑談」は、「聞書第一」から「聞書第十一」までの現実的な処世訓の前提となる文章と考えられます。

【序章 夜陰の閑談】より
 この内容を現代に当てはめて記述し直したら、どんなことになるのかと、ふと思いついて試してみることにしました。
「藩」を「日本国」にあてはめて見たものです。

 ≪およそ日本の政治家、官僚であるからには、国学、すなわち日本国の伝統、精神をしっかりと心得ておかなければならない。戦後はこのことがおろそかにされている。
 国学の根本は、まず日本国の成立の歴史を理解し、ご先祖、諸先輩方のご苦労とお慈悲によって、国が長く栄えてきたのだということを、心に刻み込んでおくことにある。
・・・略・・・
 近頃の人々は、このようなことをすっかり忘れはててしまい、他国のことばかりを有難がっているのが我々にはどうにも納得がいかない。
 釈迦、孔子、キリスト、ソクラテスも、たとえどれほど立派であろうとも、日本の建国からの歴史に貢献したことは一度もないのであるから、その教えをそのまま持ってきても、日本の国柄とは合致できない。
 わが国においては、戦時にも平時にも、日本の伝統精神をあがめ、その教えに従うことによって、各人の立場にかかわらず、十分に足りるのである。 さまざまな宗教、学問、技芸にあっては、それぞれの本尊、本家を尊ぶことは当然であろう。しかし日本国民としての生き方の道にあっては国学以外の学問は無用である。国学をよく身につけた上でならば、慰みとして他の道を学ぶのもよいだろうが、よくよく考えてみれば国学だけでは不足ということは何一つとしてないのである。
 いまかりに、他国の人から、日本国の成立、国土の由来などを問われたときに、国学をわきまえぬ者は一言も答えられないであろう。
・・・略・・・
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2006年07月23日

靖国神社と富田メモ

 昨日のエントリー「富田メモの政治利用」の後半部分に靖国神社の歴史について掲載しておきましたが、ここでは戦後の靖国神社について、「近現代史の必須知識」から、今回の富田メモを考える上で参考になる点を掲載して見ます。

【戦犯の靖国合祀】
○ 1951(昭和26)年9月8日サンフランシスコ講和条約が調印され、これと共に神道令等占領軍の行政指令は事実上効力を失いました。
 吉田首相は10月18日講和条約調印を英霊に報告するため、靖国神社を参拝しました。

○ 1952(昭和27)年4月28日講和条約が発効し、日本の独立が実現すると、戦犯の早期釈放を求める一大国民運動が起こりました。当時引き続き服役しなければならない戦犯が1200人余りいましたが、釈放を求める署名は4000万人も集まりました。このような世論を背景に「遺族救護法」「恩給法」の改正が図られることになり、その中心になったのが、社会党(右派)の堤ツルヨ衆議院議員です

○ 1953(昭和28)年には「戦犯の赦免に関する決議」が衆参両院で圧倒的多数で可決。「戦傷病者戦没者遺族等救護法」の一部改正で、戦犯裁判で死刑・獄死した人の遺族にも「遺族救護法」が適用されることになり、弔慰金・遺族年金が受給できるようになります。刑死・獄死は「法務死(公務死)」とみなされ、受刑期間は公務従事と認定されます。さらに停止されていた軍人恩給が復活しました。
 「法務死」と認定されたことにより刑死者・獄死者は靖国神社への合祀の認定基準に達したことになります。

○ 1958(昭和33)年5月末日までにすべての戦犯が釈放されました。
 
 要は「戦犯」は国内法上「犯罪者」ではなくなったということです。つまり「戦犯」と呼ぶのは旧敵国であって、我々日本人は「罪人」とは見做さないのです。それは決して一部の日本人の考えではなく、日本の国会で国民の総意で決議したことです。

≪戦犯合祀≫
○ 1959(昭和34)年厚生省通達に、戦犯裁判での法務死亡者も合祀対象となることを明記、この年以降1973年までにB・C級戦犯が合祀されました。

○ 1966(昭和41)年、最後にA級戦犯の合祀が認められましたが、「靖国神社国家護持法案」(前回記事参照)促進運動との絡みで合祀は遅れます

○ 1978(昭和53)年松平宮司がA級戦犯14柱が未合祀であることを発見し、10月の例大祭前日に合祀祭を行いました。

○ 1979(昭和54)年4月、新聞に報道され一般に知られることとなります。

 このように、B・C級はもちろん、いわゆるA級と言われる「戦犯」は「国事殉難者」と位置づけられたのです。靖国神社では「幕末殉難者」「維新殉難者」という表現に倣って「昭和殉難者」と呼ばれています。
 なお毎年8月15日に日本武道館で、天皇皇后両陛下も首相も参列して営まれる「全国戦没者追悼式」の「戦没者の霊」には、いわゆる「戦犯」はA・B・C級を問わず含まれています。その証拠に「戦犯」の遺族にも厚生労働省から招待状が送られています。

★ 国内では「戦犯」と呼ばれる人は1958年以降「昭和殉難者」として、犯罪人ではありません。これを犯罪人と見るのは旧敵国側に立った見方ということになります。但し、戦時中、早期の和平も可能であったかも知れないところ、あの惨めな敗戦に至った点について、国内的に敗戦の責任者が、国内法で裁かれるのであれば正当であったと思いますが、ここで大切なことは、戦時中からルーズベルト・チャーチルなどがドイツに対したと同じく、敵国に無条件降伏させるという方針であったことも、彼の戦争を長期化した原因の一つであると考えています。
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2006年07月22日

富田メモの政治利用

 今回日経が経済紙であるにも拘わらず、「冨田メモ」なる、意図も見え透いた煽動記事を、わざわざトップにデカデカと掲載しました。
 朝日新聞も2月02日の社説「寛仁さま発言は政治的に利用される恐れがある。発言を控えては」と言っておきながら、7月21日の社説では「A級戦犯合祀 昭和天皇の重い言葉」と言うように、天皇の言葉は大変重く受取るべきだと言い出しました。これこそ調子のいい、天皇や皇族の政治利用そのものです
 公式の発言ではないものをメモして、死後に発表するなど全く卑劣としか言いようがありません。これなら昭和天皇を利用してどんな内容でも捏造することが可能になってしまいます。又、朝日などは以前に天皇の政治利用を手厳しく騒ぎ立てたことがありますが、今回、日経をはじめ朝日やNHKのやっていることは、まさしく天皇の政治利用です。
 この日経記事の「冨田メモ」に関して、当時の側近、徳川義寛氏の証言とも言える「侍従長の遺言」(昭和天皇との50年)と、寺崎英成氏の「昭和天皇独白録」を引用して、日経記事の内容との関連を見てみたいと思います。
 また、富田朝彦氏の昭和50年12月9日の内閣委員会での答弁を紹介されている東亜の葉っぱさんもご参照下さい。
 徳川義寛氏は、1936(昭和11)年に侍従、1985(昭和60)年から侍従長、1987(昭和62)年からは侍従職参与を勤められ、1988(昭和63)年4月まで側近として仕えられました
 「侍従長の遺言」は、朝日新聞編集委員だった岩井克己氏が、徳川義寛氏から取材した内容を本にしたものです。
 寺崎英成氏は、日米開戦まで在ワシントン日本大使館詰めの一等書記官で、昭和21年から昭和天皇の通訳官を務め、昭和21年の3月から4月にかけて、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総裁、木下道男侍従次長、稲田周一内記部長と共に、張作霖爆死事件から終戦に至るまでの経緯を四日間計五回にわたって昭和天皇から直々に聞き、まとめたものが「昭和天皇独白録」です。では、この両書から、今回の「冨田メモ」に関連する部分を引用してみます。
 まず「侍従長の遺言」(1997年出版)より引用します。ここでは著者の解説ではなく、徳川氏本人が発言したとされている部分のみ、そのまま引用します。
tokugawa.jpg
引用開始
 「松岡洋右さんはエキセントリックな人でしたね。昭和十五年の夏には、大使二人を除く外務省の幹部をほとんど替えちゃった。『外交官はいままでのようじゃだめだ』などと言ってね。そして翌年の日ソ不可侵条約」
 「スターリンと条約を結んでから帰国した松岡さんはスターリンのことを『さん』づけで呼ぶんですから。ご陪食の後のお茶の席で、盛んに『スターリンさん』なんて呼んで、語り草になっていたものです。
・・・略・・・
 「A級戦犯はその十年くらい前に厚生省から『戦争による公務死亡者』として名前が靖国神社に届き、神社では昭和四十六年六月三十日の総代会で合祀する方針を一応決めたのですが、『合祀の時期は宮司に任せる』ということで、宮司の筑波藤麿さんがずっと延ばしてきていたのです。ところが宮司さんが筑波さんから松平永芳さんに代わって、間もなく実施に踏み切られることになった」。
・・・略・・・
 「私は、東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったんです。永野修身さんも死刑になっていないけれど、まあ永野さんは軍人だから」。
 「でも当時、『そちらの勉強不足だ』みたいな感じで言われ、押し切られた。私は松岡さんの例を出して『おかしい』と言ったのだが、東条さんのことで答えられ、すり替えられたと感じた。靖国神社には軍人でなくても、消防など戦時下で働いていて亡くなった人は祀っている。しかし松岡さんはおかしい。松岡さんは病院で亡くなったんですから」
・・・略・・・
 「筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったんですよ。それで中曽根首相が参拝して、ワッと言われたんです」。
引用終わり

 ★この著者が朝日新聞関係ということもありますが、最後の中曽根首相の参拝をワッと騒いだのは誰だったでしょうか?また南京大虐殺も本当にあったように書かれていますから、全ての内容が信用できるようにも思えませんが・・・
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posted by 小楠 at 07:49| Comment(7) | TrackBack(9) | 日本人の独り言

2006年07月16日

ハワイ国王来日秘話

 今日は近現代史の復習をお休みして、蒸し暑い雨の日曜日を楽しい日にするため、仰天するような本当のお話を一つご紹介しましょう。
 「カラカウア王のニッポン仰天旅行記」
karakaua.jpg
 ハワイのデイヴィッド・カラカウア王は、あのカメハメハ大王によるハワイ諸島統一によって生まれたハワイ王国の最後の王である。この王が1881年(明治十四)年に世界一周旅行に出かけます。
 先ずアメリカに渡ってから次に日本に上陸し、お忍び旅行のつもりが、ハワイの日本領事館からの連絡で、結局国賓待遇で盛大な歓迎を受け、本人も随員もびっくりと言う来日の様子。従者で、この本の著者である国務大臣は幼馴染なので、国王のことも遠慮なくこきおろしているところが面白いですよ。まあ、あまりにもこき下ろしの部分が多いということで、この本は、カラカウア王の没後に出版されました。
 この本を執筆したのは、随員としてともに旅をしたアメリカ国籍のウイリアム・N・アームストロングで、彼は当時ハワイ王国の国務大臣です。
 なんとも楽しい「カラカウア王のニッポン仰天旅行記」より一部だけ引用して見ましょう。

 引用開始
 【奇想天外な結婚ばなし】
 まさに驚天動地、ロマンチックきわまりないできごとが起きてしまった。われわれ随員はあわてふためき、どうしたらいいのかわからなくて、右往左往してしまった。
 なんと、われわれにはこっそりと、天皇(明治)の侍従をつれて、どこかに行方をくらましてしまったのだ、わが国王陛下は。言語道断なエチケット違反だ。王にすっかり信頼されているつもりだったわれわれは、この裏切り行為にかんかんに腹を立てた。
 しばしののち帰ってきた王がやっと白状したところによると、なんと、天皇に個人的会見を申し込んだのだと言う。しかも用件を絶対内密にしてくれるよう頼んだとのこと。だが天皇は、「国家的理由により」、外務卿のイノウエ(井上馨)には会見内容を話したそうだし、天皇の侍従がやってきて、「やはり何も知らせないのはまずいから」というわけで、われわれにもおおよそのことを伝えてくれた。しかし詳しい内容というのがわかったのは、結局、旅行を終えてハワイに戻ってからだった。それによると、真相はこうだ。
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posted by 小楠 at 08:16| Comment(2) | TrackBack(0) | 日本人の独り言

2006年07月09日

世界の国歌の歌詞

 蒸し暑い日曜日です。近現代史の復習をちょっと一休みして、今日は「君が代」と世界の国歌について、見てみましょう。
 反日や左翼、日教組がいかに馬鹿げた反対をしているか、その歌詞の内容を世界の国歌の歌詞と比べてみて下さい。

【君が代の起源】
 10世紀初頭平安初期の『古今和歌集』に「詠み人知らず」として採録されています。ただし、ここでは「我が君は・・・」となっています。これが平安中期の『和漢朗詠集』に写されたとき「君が代は・・・」となります。なお、国歌の歌詞としては、「君が代」が世界最古です。(国歌で最も古いのは16世紀後半のオランダ国歌「ウィルヘルム」です。)
 なんと、君が代の歌詞は、世界最古のオランダ国歌より600年も前からあるのです。
 1869(明治二)年、大山巌が、天皇が臨席する儀式用の歌としてこれを選びました。当初イギリス人の軍楽隊教師が曲をつけましたが定着せず、その後1880(明治十三)年、宮中の雅楽の楽人がメロディーをつけ、ドイツ人が編曲し、天長節に初めて演奏されました。1893(明治二十六)年には、文部省により小学校の儀式用唱歌とされます。

 では日本以外の国歌の歌詞の意味は?
 [アメリカ
 危険きわまりない戦闘の最中にも 我らが死守する砦の上 星条旗は雄雄しくひるがえっていただろうか? 赤き閃光を引く砲弾の降りそそぐ夜を徹して おお我らの星条旗は ゆるぐことなく いまだ そこにはためいていた

 [フランス]
 圧制に抗する我らのもとに 血まみれの旗ひるがえり 聞け 戦場にあふれるおびえた敵兵の叫びを・・・子供たちや妻の喉を掻ききろうとしている 市民たちよ 武器をとれ!

 [中華人民共和国]
 奴隷となりたくない人々よ! 我らの血と肉をもって築こう 我らの新しき長城を 中華民族 最大の危機に際し ひとりひとりが最後の鬨(とき)の声をあげるときだ 起て! 起て! 起て! 我ら万人心を一つにして 敵の砲火をついて前進しよう!

 [ベトナム]
 遠く轟く銃声も 我らの行軍の歌にかき消され 栄光への道のりを 敵の屍を踏み越えて進む すべての困難を克服し 抵抗の基盤を築くのだ 民族の切なる願いが有るかぎり 我ら戦場に赴き 闘おう!

 [デンマーク]
 ふたたび敵を追いつめんと進軍した 彼らの屍は 今はこの地に眠る 石柱と塚の下に
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posted by 小楠 at 10:07| Comment(18) | TrackBack(0) | 日本人の独り言

2006年05月12日

わだつみ、反日の手口

 戦後のベストセラー、「きけわだつみのこえ」が共産党編者などによりいかに戦没学徒の遺書の内容を削除、書換えし、ついには彼らも戦争犯罪人であるかのような方向に向け、政治利用の道具にして行ったかが書かれています。
嘘も捏造も平気でやることが、反日左翼や共産主義者の伝統ですね。
『きけわだつみのこえ』の戦後史:保坂正康著より
wadatsumi.jpg
悪意を感じる削除の一例

引用開始
 原文ではまず三好中尉が死んだという記述があり、つづいて
 「そのあくる日は告別式でした。三好中尉と、やっぱりその隊員で丁度中尉が死んだ日に告別するはずだった矢崎という練習生と一緒でした。その夜、指揮官以下みんなお酒を飲んでいました」とある。
 新版では青字の部分が削除されている上に、「・・・」も施されていない。これでは読者は三好中尉が殉職した日の夜に、全員で酒を飲んでいたと思ってしまう。こんな無神経なことはしない。こういう操作は、回天隊員の人間性に対する侮辱であり、単なる編集上のミスなどということではない。・・・
わだつみ遺族の会の結成
 1998年2月、・・・・『きけわだつみのこえ』に遺稿が収められている戦没学徒の遺族たち17人が集まった。彼らはすでに第四次わだつみ会とは無縁であった。・・・ここで「わだつみ遺族の会」が結成された。結成の言葉を引用しておく。

「きけわだつみのこえ」が1949年(昭和二十四年)10月に刊行されてから、足掛け五十年になります。この時期に、この本に収められた戦没学徒の遺族が、今新たに集うことに、大きな意義を感じております。
・・・略・・・
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posted by 小楠 at 07:47| Comment(5) | TrackBack(0) | 日本人の独り言

2006年04月09日

二階のEPA推進を阻止

二階経済産業相の媚中は許せない!!

絶対に阻止するべき東アジアEPA
 二階俊博経済産業相(和歌山)は4日、域内で包括的な経済協力関係を築く「東アジアEPA(経済連携協定)」構想を表明した。日本、中国、韓国、インド、東南アジア諸国連合、豪州、ニュージーランドの計16カ国で08年から交渉を始め、10年に締結する方針。10年までの政府の通商戦略、「グローバル経済戦略」に盛り込む。
 二階は地元の公園に江沢民の像を作ろうとして顰蹙をかった過去があります。

中川昭一農相は7日の閣議後の記者会見で、二階俊博経済産業相が打ち出した「東アジアEPA(経済連携協定)」構想について「何となく唐突だ。その前にやることがいっぱいある」と異論を唱えた。

 発展段階において多分に同質な国家の集合体であるEUと東アジアは決定的に違いがあります。
 民主主義国の集合であるEUと共産党独裁の中国、北朝鮮に阿る韓国が存在する東アジアとは、全く異質です。しかもこの二国は長期の反日教育で洗脳されてきています。
 この東アジアEPAの影の主役は中国であり、中国の覇権拡張主義の陰謀が隠されているのは明白であり、現在の日本には、これを抑止する力はありません。
 中国は近い将来のアメリカとの石油戦争を想定して、台湾統合を目し、シーレーンの確保を目指すため、最も障害となる日本とアメリカの離間を企むのが現中国の戦略です。
 これらのことから、この東アジアEPAの推進は、今までの日本の針路を根本的に破壊する行為といえます。
 こんな重要な、中国の属領化の推進とも言える協議を進めようとしているのが二階です。
 われわれは絶対に二階の行為を許せるものではありません。総意を結集してこれを阻止しましょう。

詳しくは、当記事のタイトル下にリンクしていますので、是非お読み下さい。
posted by 小楠 at 08:11| Comment(1) | TrackBack(3) | 日本人の独り言

2006年03月30日

トルコ大使の思い

 以下はトルコ大使から柏崎市長への書簡です。二度も無視されたにも拘わらず、怒りを最小限にとどめて、丁寧に書かれています。
 世界有数の親日国の大使に、このような仕打ちをしている柏崎市長は、日本とトルコの友好関係を台無しにしかねません。
この問題については、もののふのこころさん
たいげろの日記さんも取り上げておられます。

引用開始
トルコ大使館
  東京
                   2006年1月31日 東京
柏崎市長
会田洋様
  (市長様)
 2005年4月6日付けの私の書簡に関して、在日トルコ商工会議所によるトルコ文化村の活動継続の要望と提案についてのお返事または暫定的な回答を、今日までいただいておりませんことにご配慮頂きたく存じます。

本件に関しては日本人らしからぬ注意力と几帳面さを欠いた行為であると思わざるをえません。
 私の前回の書簡ですでに強調しましたように、トルコ文化村は、1996年の設立以来、トルコと日本の国家間の伝統的、友好的かつ温かな関係を反映する象徴的かつ意義ある施設でありました。
 一方では、2006年1月9日から12日に、日本の内閣総理大臣、小泉純一郎閣下のトルコ公式訪問中、様々な報道媒体で日本の方々がご覧になったように、両国の関係当局と財界人たちは、経済、産業と文化を含めて、より幅広い分野での新しいプロジェクトに取り組んでいます。
 我々は日本におけるトルコ文化の促進と文化の交流を通じての両国民間の相互理解を促進させるという初期のコンセプトに沿って、このトルコ文化村が将来ともお互いのよりよい関係を高める施設として機能することが望ましいと信じています。
 トルコ日本両国間の関係をより強固なものにするために、もし貴市が文化村の活動を一時休止する、及び第三者機関へ経営を譲渡する意図をお持ちでしたら、在日トルコ商工会議所が運営責任を引き受けるという申し出を再考されることは、非常に賢明で現実的な手段になるものと私は確信しています。
 前述の事実を踏まえて、この115年間、私たちの国の間に存在するすばらしい二国間関係の名のもとに、私たちの正当な要望への前向きなご回答、少なくとも真剣な考慮に値する、迅速なご回答を期待しております。
 市長様、私の最高の心遣いを信用して下さいますようお願いいたします。
                  ソルマズ ウナイドン 大使
引用終わり
 柏崎市長は何の権限でトルコとの友好関係を壊そうとするのか、日本人としての礼儀、信用をこんな市長のためにトルコ当局、トルコ国民から疑われるようなことになるのは、許すことができません。
posted by 小楠 at 09:44| Comment(9) | TrackBack(3) | 日本人の独り言

2006年03月28日

柏崎市長へ抗議を!!

緊急提案!!
 柏崎市には「トルコ村」なるものがあります。現在は閉鎖状態で、柏崎市は展示物などを売却しようとしています、が、トルコ大使から「その運営をさせて欲しい」と言う提案がありました。それも一回目は無視、その結果トルコ大使は再度提案の書面を送付しましたが、これも無視。たまりかねたトルコ大使は、丁寧ではありますが、市長の対応に対して怒りの文面を送付されました。
 ご存知のようにトルコは世界有数の親日国。エルトゥールル号遭難事件での日本人による救助活動の恩を忘れず、イラン、イラク戦争では、日本人旅行者などをトルコ航空が救出してくれたことなど。このような国に対しての柏崎市長の対応は許されるものではありません。これは単に一市の問題ではなく、日本人としての礼儀にかかわる問題です。
皆さんどんどん柏崎反日市長及び議会に徹底的に抗議しましょう。。反日市長へのメールはこちら
柏崎市議会のメンバーを見て下さい。これじゃーまともな議員は大変だ。
posted by 小楠 at 22:06| Comment(22) | TrackBack(5) | 日本人の独り言

2006年03月20日

反日はGHQ実験の成功例

現在の日本の反日左翼の輩は、戦後のアメリカの政策を忠実に実施したGHQによる日本国民の洗脳実験がみごとに成功し、それを継承している実例でしょう。反日や左翼の連中は現在声高に「反米」を唱えていますが、何のことはない彼ら自身が戦後のアメリカの対日本政策の申し子なのです。以下のアメリカの対日本政策を見れば、現在の反日左翼の動静がすっかりこの政策に汚染されており、いまだに彼らは当時のアメリカの政策に忠実に従っていることが判ります。
 以下に対して注意しておくことは、大戦前の国内情勢は、政府以上に、マスコミや大多数の国民が揃って、アメリカとの戦争を鼓舞していたという事実です。特に朝日などの新聞は大いに戦争を煽っていたのです。 これは民主主義の怖いところです。

アメリカの占領政策 
アメリカは1945年、日本の占領と同時に、あらゆる新聞、ラジオ、通信、出版に加えて、個人的な書簡にまで極秘の検閲を実施しました。これはGHQがアメリカ政府の方針、指示の下に行ったものです。この時の言葉の書き換えのなかで、「大東亜戦争」の呼称が禁止され、「太平洋戦争」と書き換えられたことは、日本の戦争目的を完全に隠蔽し、以後の国民にアメリカ=正義、日本=悪の思想を擦り込む長期的な計画であったといえます。
 さらに彼らは次のような勧告をしていました。
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posted by 小楠 at 09:37| Comment(6) | TrackBack(1) | 日本人の独り言

2006年03月10日

マッカーサー証言

 東京裁判の最高責任者、マッカーサーが明確に、今回の日本の戦争目的は自衛のためであったと証言しています。
 つまり、平和(侵略)に対する罪などは無く従って東京裁判自体が無効。
A級戦犯は一人もいないと言うことになります。

worldwalkerさんのパール判事も見て下さい

      米国上院軍事外交合同委員会に於ける
           マッカーサー証言
              May 3, 1951

   STRATEGY AGAINST JAPAN IN WORLD WAR U

Senator Hickenlooper, Question No. 5 :
 Isn’t your proposal for sea and air blockade of Red China the same strategy by which Americans achieved victory over the Japanese in the Pacific ?
General MacArthur.
 Yes, sir. In the Pacific we bypassed them. We closed in. You must understand that Japan had an enormous population of nearly 80 million people, crowded into 4 islands. It was about half a farm population. The other half was engaged in industry.
 Potentially the labor pool in Japan, both in quantity and quality, is as good as anything that I have ever known. Some place down the line they have discovered what you might call the dignity of labor, that men are happier when they are working and constructing than when they are idling.
 This enormous capacity for work meant that they had to have something to work on. They built the factories, they had the labor, but they didn’t have the basic materials.
 There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack cotton, they lack wool, they lack petroleum products, they lack tin, they lack rubber, they lack a great many other things, all of which was in the Asiatic basin.
 They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan.
  Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.


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posted by 小楠 at 08:01| Comment(7) | TrackBack(0) | 日本人の独り言