2008年04月24日

知ってはならない歴史

だれが、何を知られては困るのか?

 若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介します。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。これは特にお薦めしたい本です、是非購読してみて下さい。
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先ずは序章の一部から引用します。
引用開始
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
 ずばり言えば、日本人のなかでは日本のメルトダウン(融けて倒れる・融倒)を期待する劣情を秘めている反日的日本人である。ならんで、中国・韓国・朝鮮・ロシア、ひいてはアメリカである。
 中華人民共和国を支配する中国共産党の正統性は、日本帝国主義の侵略から中国人民を解放したという「歴史」を土台にしている。朝鮮民主主義人民共和国についても、事情は同じである。「抗日・解放」が朝鮮労働党支配の正統性の根拠である。
 しかし、心ある歴史家なら、これらの抗日解放の「歴史」は史実に反する偽史であることを知っている。早い話が、抗日パルチザンで「英雄」だった金日成と、ソ連軍に担がれて北朝鮮の支配者になった「金日成」は、まったくの別人であることは公然の事実なのに、この事実は「知ってはならない」のである。これを知らない人が本当にいるのなら、その人は単に無知であるにすぎないか、あるいは「知ってはならない」政策の犠牲者にほかならない。金聖柱ソ連軍大尉が、突如、金日成となり本人を知る人々は仰天した。

 日本が中国を侵略したというが、日本と中国の戦争は日本が始めたものではない。盧溝橋事件だけのことを言っているのではない。今日では、同事件での日本軍への射撃は共産党の工作であることが明らかになっている。・・・
 私は単に共産党の工作のみを指摘しているのではない。現地解決の和平をぶち壊した「通州事件」の工作を言うだけでもない。昭和十二年の上海事変は蒋介石の主力十個師団余が二十万の兵力を集中し、五千余の日本海軍陸戦隊と十万余日本人(女性・子供を含む)を全滅させようと企図した事件である。蒋介石はドイツの元参謀総長ゼークト(第一次世界大戦の名参謀総長とうたわれた)と彼のスタッフを顧問団に招き、軍の編成、訓練ならびに実戦の指導を依頼していたが、これはソ連とドイツのラッパロ条約を背景にしている。
(ラッパロ条約・・1922年4月26日、ソ連とドイツの間で結ばれた秘密条約。ドイツ国防軍もソ連赤軍も密かにドイツ主導のもとで進められた。蒋介石はソ連の仲介でゼークトたちを受け入れていた。)
 第一次世界大戦の敗戦国ドイツは、この密約により、列強の包囲下にあったソ連軍建設の指導に当るとともに、密かにドイツ国防軍の再建の骨格を準備していた。空軍や機甲師団建設の準備はソ連国内で進められていたのであった。これも今では周知の事実である。
 国共合作により蒋介石軍の中にソ連の影響力が一気に広まっていった。
 上海事変はこのような国際的背景をもっている。・・・
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2008年03月26日

日本の戦争は自己防衛

日本は何故戦争に突入したか

今回の引用本はフィリピン人、ダニエル・H・ディソン氏著の「フィリピン少年が見たカミカゼ」からです。
 氏は1930年生まれで、少年時代に日本軍将兵と出会い、戦後特攻隊と日本の歴史研究に没頭。1974年に特攻隊が初めて発進した地、マバラカットにその記念碑を建立。自宅に開設した「カミカゼ博物館」で地元の子供達に特攻隊の精神と意義を説いているという方です。
写真はディソン氏宅の一角に設けられた「カミカゼ博物館」。中央五つの絵はディソン氏による特攻隊の先陣、敷島隊五名の肖像
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引用開始
 戦時中、日本軍とは侵略者であり、フィリピンを支配し、自分達の欲しいものを持っていくだけの国と教えられていました。
 しかし私には、日本がただ単に、人殺しをするためや、他国を侵略するため、日本が統治する領土を拡大するためだけに、戦争を始めたとは思えませんでした。
 そこで、それにはもっと深い意味があったのではないかと考え、日本が何故戦争に突入していったのかについて何年もかけて調べていきました。そして一つの結論に至りました。
 それは、欲深い白人達のせいだった、ということです。白人達というのは、正にアジアに対してテロ行為を行ったのでした。
 白人達が侵入してくる以前のアジアはとても平和な世界でした。当時すでにアジアの国同士の交流がありました。
 17世紀には、日本人はルソン島に大挙して来ていたし、マニラでも当時は戦争中とは違って友好的な交流をしていました。
 タイも、スペインがやってくる前にマニラと貿易関係がありました。また、カンボジアや中国もそうでした。これらは、皆とても平和な共存共栄関係でした。

 ところがそこに白人がやってくると事態は一変し、全ては混乱状態に陥り、破壊されていきました。
 そして、アジアの国々は互いに敵同士になってしまったのでした。
 白人の欲望にはきりがありませんでした。彼らはすでにあらゆるものを手にしていたにも拘わらず、より多くのものを欲し、決して満足することはないようでした。
 アジアの国々は皆、白人の侵略に対して身を守るようになり、日本もそうだったということです。
 これが、日本が戦争を始めざるを得なかった原因です。つまり、それは攻撃的で侵略的な目的のものだったのではなく、自己防衛的な目的のものだったのです。
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2008年03月25日

白人のフィリピン蹂躙

スペイン植民地統治と革命

今日の引用本はフィリピン人、ダニエル・H・ディソン氏著の「フィリピン少年が見たカミカゼ」からです。
氏は1930年生まれで、少年時代に日本軍将兵と出会い、戦後特攻隊と日本の歴史研究に没頭。1974年に特攻隊が初めて発進した地、マバラカットにその記念碑を建立。自宅に開設した「カミカゼ博物館」で地元の子供達に特攻隊の精神と意義を説いているという方です。
写真は2006年10月25日新しいカミカゼ記念碑とカミカゼ飛行士像の前で行われた慰霊祭
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コラムから引用します。
16世紀半ば、フィリピン全土の人口は60万人程度で国家という意識もまだ発達していない状態だった。そこにスペインが侵略し、マニラを拠点にして各地を次々と武力によって制圧。さらにキリスト教の布教を行い、植民地体制を確立。以後300年以上もフィリピンを支配した。
マニラとメキシコ間を船で往復する「ガレオン貿易」が始まり、資本家たちは莫大な利益を上げ、19世紀初頭まで続いた。しかしフィリピンはこの貿易の通過地点に過ぎず、支配者達はフィリピンの発展には目もくれず、近代化の基礎となる家内工業などの発展は全く見られなかった。

植民地支配の柱である教会は、広大な土地を所有し、聖俗両者において絶対的な力をふるった。
フィリピン人は負担しきれない税を課せられて奴隷化し、さらに、強制労働に駆り出された。このため、かつては肥沃で作物が豊富だったフィリピンで飢餓が生じるようになった。このような中で16世紀末から抵抗運動が起るようになり、19世紀末までに反乱の数は100回以上もあったと言われるが、多くは10日以内に鎮圧されている。
18世紀後半から、たばこなどの輸出が増加し、中国系メスティーソ(混血)が中産階級として台頭、そこから民族主義に目覚める者が出てきた。
1880年代終わりに民族主義的運動が起り、1892年に革命集団「カティプナン」が成立、1896年8月に最初の革命の蜂起が起り、各地でスペイン軍と衝突。スペインは本国の力が衰えていたこともあり、フィリピン側と和平交渉を持ち、その結果スペイン側が賠償金を支払い、革命の指導者アギナルドは国外追放となった。
そこにキューバを巡ってスペインと戦争中のアメリカが、フィリピンを狙い、革命軍に協力すると持ちかけた。アギナルドは米艦に乗って帰還、1898年6月12日に独立宣言を行った。
しかし同年8月にアメリカがマニラを占領した際、革命軍はマニラから閉め出された。


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2007年11月24日

中国遺棄兵器処理問題

蒋介石秘録に見る日本軍兵器の行方

11月30日、防衛研究所で「化学兵器中国で遺棄」覆す文書見つかる の記事が出ましたねー

 我々国民の一兆円とも言われる莫大な税金が捨てられようとして今問題になっているにも拘わらず、マスコミがほとんど取上げない遺棄兵器処理問題について、蒋介石秘録に出てくる関連部分を引用して見ます。
 日本軍の降伏と同時に当然武装解除された日本軍の武器を最も欲しがったのが中国共産党であることがはっきり示されています。日本の政治家、官僚は、日本国民を食い物にしていると言っても言いすぎではないようです。
写真は武装解除でソ連兵に武器を引き渡す日本兵
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引用開始
 崩壊寸前となった日本に、ソ連が”分け前“を求めて参戦を急ぐことは確実であった。中国にとっての最大の問題は東北(満洲)であった。東北を軍事占領したあとのソ連は、必ず中国に難問を吹っかけてくることが予想されたからである。
 8月7日、モスクワで中ソ友好同盟条約の交渉にあたっている宋子文に次のように指示した。
『東北にある各種の工業施設および機器類は、すべてわが国の所有に帰し、倭寇(日本)のわが国に対する戦債償還の一部分とすべきものである。この点を(ソ連との)条約締結の際によく協議するか、あるいは声明するように』
 予想した通り、ソ連は8日夜日本に宣戦、ソ連は東北になだれこんだ。
『ソ連の対日宣戦は、投機と狡猾をきわめた行動』であった・・・・
『モスクワでの交渉で、我々は次のように国家権益に関して重大な譲歩をせざるをえなかった。

1、外蒙の独立自治を承認する
2、東北長春鉄路の共同経営
3、大連を自由港とし、長春鉄路によるソ連の輸出入物資は関税を免除する
4、旅順口を両国共同使用の海軍根拠地とする』

同時にソ連は、
a、国民政府に対する軍需品その他の援助、
b、中国の東北における領土と主権の完全性の承認、
c、日本投降後三ヶ月以内の完全撤去
を約束した。しかしスターリンは、これらの約束を一切守らなかった。・・・
 中国戦区の受降典礼は、9月9日午前9時、南京の旧中央軍校におかれた陸軍総部の大礼堂で行われ、日本の支那派遣軍総司令官・岡村寧次が降伏文書に署名、中国陸軍総司令・何応欽に提出した。・・・・
 長年の苦闘を経て、ようやく勝利を手にした中華民国にとって、ソ連と共産党は、“新たな国恥”の根源であった。
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2007年11月17日

明治初年の家庭生活

ブスケ 日本見聞記2

「ブスケ 日本見聞記(フランス人の見た明治初年の日本)」の中からご紹介しています。ブスケは1872年[明治五年]に日本政府の法律顧問として四年間滞在しました。

引用開始
 日本の家には召使いが大勢いる。そうだからといって、ひとがよくかしずかれているわけではない。「モン・バン」(門番)は道路に面した「ヤスキ」(邸)の門を守っている。男女の「コスカイ」(小使)が家内の仕事を労を惜しまずつとめている。「ベット」(別当)すなわち馬丁が馬の世話を一人一頭の割で行い、乗り手の前を全速力で息も切らずに走る。これらの者はいずれも妻子をもち主人と同じ屋根の下に住んでいる、従って最低のサムライでも自分の家の付属家屋のなかで増えてゆく人々を養っているのである。
 奉公人であることは権威を失墜することではない。奉公人は家に属するものとして扱われ、また自分もそうだと考えている。奉公人は主人に、特に子供に親密に結びついている。彼は臆せず意見を述べ、それを求められるのを待たずにすら意見を言う。彼は膝ずりして茶を進め、額を地につけて命をうける。しかし一瞬後には、荒っぽい冗談をとばし、その上それが見事に受けとめられる。あるいは陽気な会話に加わるが、静粛を命ぜられることはない。全階層別のなかで小物はその割当てられた領域では大物よりも一層気楽に動いているように見える、だから彼らはそこから抜けだそうなどとは夢にも思わないのだ。
 皆が彼らを重んずる。またそうしなければならないのだ。上の者は下の者次第だからである。密告が一般的である国では、主人の評判、秘密、生活は常にその配下の意のままとなる。柔和であることは一つの必要なのである。これはさらに一つの習慣化した上品さなのである。

 「日本は子供の天国である」と英国の旅行者サー・ラザフォード・オルコックが巧みにも言った。子供たちを見ると最もしかめ面をした顔もほころび、子供たちに対しては最もいかめしい顔もゆるむのである。子供たちに人生の初期の苦さを味わわせないように、すべてが計算されている。離乳ということは知られていない。子供たちは、彼らが走り回り、とび回り、他の食物を一層欲しがるようになる年齢まで、乳を吸うがままにされている。母親はいつでも子供たちの渇きと同時にその泣声を鎮める用意をしており、稀には乳母に助けを求める。しかし、多くの子供が、賢明な心配りが欠けているために、死んでゆく。だが献身が欠けているからではない。彼らは、生まれたその日からすでに一生涯彼らが着ることになる着物を着るので産衣の責苦を知らず、その小さい寝床の上で気楽に足をばたつかせている。  人々は子供に対しお菓子を与えないようにするすべを知らず、両親は幼いときからしてすでに将来のきつい試練に馴らそうなどという心づかいはほとんどしない。
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2007年10月07日

支那事変前の米中日7

元中国駐在米国公使のメモランダム7

 マクマリーの見解の正しさは、日米戦争後に描かれた世界の勢力図にそのまま現れています。おまけに欧米が守ろうとした植民地権益は全て無となり、英米は新たに、より強大な共産国をのさばらせる結果となり、防共の砦であった日本を無力にした結果、多大な犠牲を伴った朝鮮戦争が勃発する事態を自ら招くことになります。
 結局アメリカは戦闘に勝利しましたが、戦争目的では敗れたことになったため、「あの戦争は何だったのか」というようなことになったのでしょう。

「平和はいかに失われたか」という本から掲載しています。
この本はアメリカの外交官ジョン・マクマリーが1935年に書いたメモランダムで、「ワシントン会議」以来の極東状勢と、アメリカのとるべき政策を論じ、特にワシントン体制の崩壊を論じた部分が中心となっています。最終回は対日戦の愚かさについての記述の部分です。
写真はパリで日本の満洲撤兵勧告可決の連盟理事会
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引用開始
 日本の徹底的敗北は、極東にも世界にも何の恩恵にはならないだろう。それは単に、一連の新しい緊張を生むだけであり、ロシア帝国の後継者たるソ連が、日本に代わって極東支配のための敵対者として現れることを促すにすぎないだろう。・・・・こんな戦争でアメリカが勝ったとしても、その成果は恐らくソ連が独占してしまうことになる。
 日本に対する米国の勝利は、極東での障害要素であった日本が排除されて、リベラルな路線での米中間の緊密なる理解と協力に役立つ機会が大いに開けていくと予測する平和主義者や理想主義者がいるかも知れない。しかしそれは思い違いである。中国人は、過去も現在も未来も、外国を野蛮な敵と常に見なしており、外国を競り合わせて利を得ようとしてきた。外国のうちで一番成功している国が尊敬されるが、その次にはたちまち引きずり落とされてしまうという始末である。最近における中国国内の政治の紛争と混乱の歴史に集約されるように、ある特定の指導者と組んで権力を握った連合勢力は、そのリーダーに忠実な少数派とそうでない多数派に分裂する。多数派は新しい勢力を結成して、指導者が力を持ち過ぎる前に彼を失脚させ、他の誰かと入れ替えるのである。・・・

 ワシントン会議、北京関税会議および米中関税条約に関する我々の経験からすると、中国が、日本の拘束から解放されることについて米国に恩義を感じるとは考えられない。中国人は我々に何も感謝しないだろうし、我々の意図が利己的でないとは信じないだろう。そして、我々が果たすべき責任については、きっちりと我々に迫ってくるに違いない。
 よく見ても、日本との戦争は何の利益も得られないし、どう転んでも巨大な犠牲と危険を必ず伴う。したがってこのような戦争の回避自体が、我々の最も重要な目標であることを認識しなければならない。それは、我々が極東で行動するについて、単に付随的に考慮すべきことなどではない。・・・・
 日本は極東において我々とずば抜けた利害関係のある国の一つとなってきた。日本は我々の信頼を裏切り、中国の舞台から我々を追い出してしまったとこちらでは思っているのだから、これはあまり気持ちのよい関係ではない。我々が、そう感じるのにもはっきりした理由があるが、日本がそうなった状況を酌量して考えれば、もう少し寛大であってよいかもしれない。
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2007年09月06日

南京攻略特派員特電4

無錫全市街掠奪狼藉の跡

以前に昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本をご紹介しましたが、今回からはその後編のご紹介をします。こちらは昭和十三年十二月七日発行で、前編と同じく約750ページにもなる分厚い本です。昭和十二年十一月の杭州湾敵前上陸から南京戦そして十月末の広東入城ころまでの特電を集めたものです。
今回も例の浅海特派員の特電を引用してみます。
写真は上海から無錫、南京への地図
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引用開始
無錫にて十一月二十七日、東日・大毎、
【浅海、光本特派員】

 敵が頑強に抵抗した無錫はついに二十六日正午わが○○部隊の猛攻によって完全に陥落、○○部隊の入城を見た。同日午前八時われ等(浅海、光本両特派員)は無錫東北方一里の東亭鎮のトーチカを破って無錫一番乗りを敢行した野田部隊とともに無錫に入った。
 勇士の鉄兜と軍馬のたてがみを真白にした朝の霜も拭われて午前八時半最後の砲撃を加える。わが軍の気球が蒼空に浮び上った、忽ち砲声は地軸をゆるがしてわが軍は一斉に前進する、常熟、無錫の自動車路は殺到するわが部隊で一杯だ、怒涛の如く無錫東北方よりなだれ込む、街に入るとまだ生々しい敵の遺棄死体が至るところに転がっている、機関銃も自動小銃も手榴弾も街道に放り出されたままだ。街の交差点には全部両側にトーチカが築かれて市街戦に準備したらしいがこのトーチカの中にはどれもこれも敵兵の死体が一杯投げ込まれてある、死体を収容する遑もなく潰走した狼狽ぶりが想像される。

 街は一軒として完全な姿を残していない。わが空軍の爆撃と砲弾に射ち砕かれた上、どの家も支那兵が荒して丁度大震災の跡のようだ、住民は殆ど逃げてしまっている。街の主要街路の家は軒並に敵兵の軍服や銃弾が残っている、平服に着替えて敗走した兵が多いらしい。午前十一時、城内はまだ逃げ遅れた敵が街角で捕らわれている。無錫駅の転轍室には日本語の巧な敵将校が助川部隊に捕われた。○○部隊の専田中佐が取調べると彼は日本の士官学校を出た王張明(二十九)で、彼の語るところでは二十四日まで三万近い軍が蘇州、常熟からここに逃げ込んでいたが何れも常州に落ちのびた。支那軍は毎日逃亡兵が続出している一方負傷兵が多く、どの部隊もその半数以上を占めており、将兵に戦意なく夥しい兵が隊を離れている。無錫には市民の暴動が起りこれに続いて逃げ込んだ支那軍の大掠奪が行われるなど大変な騒ぎだったとのことで、街には最早一物も残さず死の街と化している。
ただ街の辻々には敗走の幹部が四散せんとする兵に伝える「○○部隊兵士の落伍者は常州○○に集れ、給料を渡す」というビラが貼られている。常州に給料の餌で集めているのだろう。
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2007年07月21日

親日インドネシア人2

インドネシア人の証言2

 朝日やNHKをはじめ、反日マスコミや政党が言う「日本はアジアの国々で悪いことを・・」がいかに事実を隠蔽しているかが分かる調査が、2006年2月3日付けの米メリーランド大学の発表にありました。世界の約四万人を対象にした英BBC放送との共同世論調査で、世界に最も「良い影響」を与えている国は日本であるという結果がでました。
 調査を実施した三十三カ国中三十一カ国で、日本か世界に「好影響」を与えているとの回答が出ましたが、三十一カ国以外の二カ国は、勿論彼の特殊アジアの二国です。その中でも、肯定派が一番多かったインドネシアの人々の証言が書かれた、「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実」という本から、大東亜戦争が侵略戦争ではなかったことを、彼らの言葉から見てみましょう。
1927年生まれ、プロボ・S・スウォンド氏の体験
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引用開始
 私のオランダの友人である将校の息子たちは、みな日本軍など来ない(インドネシアへ)だろうと話していました。また、来たとしても自分たちが反撃すれば必ず勝つと息巻いていました。彼らはみなオランダのプロパガンダを信じ切っていたのです。
 しかし、戦争が始まると、日本がどんどん進撃していき、事実はオランダの話とは全く違っていました。
 これは後に軍事について学んで知ったことですが、ジャワ島の上陸に先立って行われた、スラバヤ沖海戦における日本軍の戦いは素晴らしいものでした。日本海軍は非常に高度な技術を持っていました。ジャワ海はオランダやアメリカ、イギリス、オーストラリアの連合軍艦艇で一杯でしたが、その中で日本海軍は連合軍艦隊を打ち破ったのです。艦から艦への攻撃は難しいものです。日本の攻撃は傑出していました。・・・
 日本はたったの九日間でインドネシアのオランダ軍を撃退しました。そのことを知って、私は軍隊の訓練などを受けるにはまだ小さかったので、戦争の戦術とか戦略といったものは全く分かりませんでしたが、どうも話が違うと思いました。・・・

 1942年に日本軍がインドネシアの学校を再開し、私はその学校へ通い始めました。先生はみなインドネシア人でした。
 そこで、私は真の民族主義者となっていきました。それは一つには、私たちはその学校に通わなければいけないとされ、そして、そこでインドネシア語を習ったからです。それで、私は初めて自分がインドネシア人だと実感したのです。それまで、私は一度もインドネシア語を習ったことがなく、日本の占領下で初めてインドネシア語を勉強したのでした。・・・
 私がPETA(郷土防衛義勇軍)に入ったのは、インドネシアの高校を卒業してすぐのことで、PETAの試験を受けた者の中でも年齢が一番下でした。・・・

 私はPETAの将校になるために、ほぼ一年間、郷土防衛義勇軍幹部教育隊で訓練を受けました。その時の私たちの中隊長のことを、生徒全員が尊敬していました。私も非常に尊敬していました。それは進藤一馬中尉殿のことでした。その中隊の指導者たちはみな実際に中国戦線で戦った歴戦の勇士たちで、・・・・また、中尉殿は私たちに対して一度も罵声を浴びせることもしませんでした。生徒たちと一緒に苦しみを分かつという教え方で、指導中は自ら率先して見本を示していました。・・・
私たちは彼のことを父と感じていました。彼は、私たちが良い将校になることを願っていました。・・・
日本が敗戦した後、私はインドネシア国軍に参加しました。そして、最後には中将にまでなることができました。・・・・
 インドネシア軍は、日本軍が持っていた武器を何とか手に入れようとし、地域によっては日本軍から略奪するところもありました。
 マランでは、大変うまくことが運び、私たちは武器を日本軍から譲り受けることができました。もちろん、公式にはそのようなことは出来ません。私たちは日本軍の司令官と密かに交渉したのです。日本軍は武器庫の鍵をどこかに置き忘れてしまい、私たちがそれを拾ったのでした。

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2007年07月20日

親日インドネシア人1

インドネシア人の証言1

 朝日やNHKをはじめ、反日マスコミや政党が言う「日本はアジアの国々で悪いことを・・」がいかに事実を隠蔽しているかが分かる調査が、2006年2月3日付けの米メリーランド大学の発表にありました。
 世界の約四万人を対象にした英BBC放送との共同世論調査で、世界に最も「良い影響」を与えている国は日本であるという結果がでました。
 調査を実施した三十三カ国中三十一カ国で、日本が世界に「好影響」を与えているとの回答が出ましたが、三十一カ国以外の二カ国は、勿論彼の特殊アジアの二国です。その中でも、肯定派が一番多かったインドネシアの人々の証言が書かれた、「インドネシアの人々が証言する日本軍政の真実」という本から、大東亜戦争が侵略戦争ではなかったことを、彼らの言葉から見てみましょう。

1919年生まれのM・ユスフ・ロノディプロ氏の体験
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引用開始
 オランダによってインドネシアは十七世紀以来、三百五十年も占領されていました。オランダの統治時代の生活は酷いものでした。というのは、オランダがこの地に来たのは、この国で生産されたものをヨーロッパに持っていくためだったからです。それが、植民地主義の始まりでした。・・・今私が住んでいるのはジャカルタ市の中心地ですが、オランダ時代は、インドネシア人は住むことが出来ない地区でした。・・・
 殆どの人々には教育の機会がなく、読み書きが出来ない子供たちも沢山いました。・・・それはインドネシア人を無知蒙昧のままにしておくというオランダ政策の一つだったのでした。オランダ人は原住民であるインドネシア人に対して、はっきりと下等階級という扱いをしていました。・・・・小さい頃の私をもっと傷つけたのは、町の中心地にあったスイミング・プールでした。プールの入り口には大きな看板があり、「犬とインドネシア人の立ち入り禁止」と書かれていました。・・・

 第二次世界大戦前、アジアのほとんどの国は白人たちの植民地となっていました。それを、日本が白人たちと戦うことによって解放したということは間違いのない真実です。
 それは始まりからそうだったのです。つまり、それは1904年の日露戦争からでした。私は第二次世界大戦前から、日本がロシアに勝ったことを知っていました。そして、日本の発展していく様を見てきました。
 当時私は、日本はアジアを代表する国だと思いました。日本のお陰で、白人だけが強いのではない、私たちもまた強くなれるのだと思うことが出来たのです。日本の日露戦争の勝利は私たちを非常に勇気付けたのです。
 日本は、当時アジアで唯一白人と対等だった国でした。私たちインドネシア人はきちんとした教育も受けられず、何の権利もなく、白人に対して自分たちは劣っていると考えていました。自分たちが白人と対等になれるとは思っていませんでした。
 そしてまた、日本以外の一体誰がアメリカを攻撃しようなどと思ったでしょうか。それを実行したのは唯一日本でした。日本だけが、アジアを支配し続ける白人に立ち向かっていったのです。・・・・
 日本がインドネシア人に行った訓練は非常に重要なものでした。それは肉体的に鍛えただけではなく、インドネシア人を精神的にも鍛えたのです。そして私たちは大きな成長を遂げました。・・・
 もし日本がいなければインドネシアの独立までには、さらに百年かかっていたかも知れません。それを、日本はたったの三年半に縮めたのです。
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2007年06月21日

国旗と国土

日の丸採用の経緯

追記:今朝書き忘れましたが、日の丸の簡素で美しい旗は、明治の文明開花期に各国大使の目を引き、なかでもフランスの大使は、すっかりほれこみ、正式に政府の代表を立てて「日の丸を500万円でわが国に売って欲しい」と頼みこんできました。新政府は財政難の時だっただけに、ノドから手が出るほどこの金がほしかったのですが、「国旗を売ることは、国家を売ることだ」と、きっぱりこの申し出を断ったということです。

 「日本のこころの教育」という本があります。著者の境野勝悟氏が高校生を前に講演された内容を記したものです。
 その中から、日の丸と国土についての部分を引用してみます。大変解りやすい内容なので、是非子供たちへの説明に応用されたらいかがでしょうか。
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引用開始
 国旗というのはわたしたちが住んでいる国土のマークです。日本の大地・自然のマークです。そのことをよく頭に置いて下さい。この日本の大地・自然のマークに、わたしたちの民族は太陽のマークを使ったのですね。実はわたしたちの国旗の日の丸は、太陽の丸です。日の丸は、国旗である前に、実はわたしたちみんなの命の原因のマークだったのです。「日」とは太陽のことです。
 では、日本の国旗は、いつ、だれに要請されてつくらなければならなくなったのでしょうか。そしてまた、国旗は初めから「日の丸」だったのでしょうか。

 アメリカのペリー一行が三浦半島の浦賀沖に現れたのは、嘉永六(1853)年六月三日のことでした。このとき、停泊していたアメリカの大型の蒸気軍艦四隻には、アメリカ合衆国の国旗・星条旗が堂々と舞っていたのです。当時の日本人は、あの星条旗が何であるか、まったくわかりませんでした。
 そのアメリカのペリー艦長が、鎖国をやめて通商・交易の開国をするよう、幕府に強く求めてきました。幕府は困惑しましたが、とりあえずその交渉を来春まで延ばしてほしいと切望してやっとのことで退去してもらいました。そのときペリーは、幕府の役人たちに、つぎのことを忠告しました。
「アメリカの黒船のまわりに、たくさんの小さい日本の船がやってくるが、旗をつけていない。日本には、ナショナル・フラッグ(国旗)というものがないのか。ナショナル・フラッグをつけていない船は、どこの国の船ともわからないから、大砲を撃ち込んで沈めてしまってもいいことになっている。来年来るときまでに日本の船には日本の国旗をつけて走るように・・・。もしナショナル・フラッグをつけていない船が近づいて来たら沈めます」

 薩摩藩主、島津斉彬は日本の旗をつくるように、幕府に願い出ました。そして、日本の将来は古代から日本人がいのちの恩として愛してきたかがやく太陽のようでなければならぬ。と考え、「日の丸」を日本全体の総船印とすることを幕府に提案しました。
ところが幕府では、大半の重役が「日の丸」に反対でした。彼らは中黒(白地の中央に黒の横一文字)にするほうがよいと強硬に論じました。
 この両論に対して、水戸の徳川斉昭は、最終意見を求められ、日本の総旗印は日の丸にすると断固決定したのです。
1854(安政元)年七月九日、江戸老中の阿部正弘から大小の目付へ「達」が渡され、七月十一日付で「日の丸」をナショナル・フラッグにするとの決定が天下に布告されることになったのです。
「日本総旗印は、白地に日の丸幟相用い候う様」(日本全体の旗印は、白地に日の丸の旗を使用する)という布告でした。
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posted by 小楠 at 07:34| Comment(10) | TrackBack(2) | 書棚から真実を

2007年05月20日

江戸中期の日本評4

 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。日本についての外国人ならではの面白い表現を抜き出して掲載していきます。
 ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
「江戸参府随行記」にある今から230年前にツュンベリーが見た「日本及び日本人」の章から。
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引用開始
宗 教
 宗教に関しては、すべてが異教徒である。日本の宗教は、宗派の数が多く、かつそれぞれ異なっているが、互いに反目や論争もなく、大きくまとまり調和しつつ共存している。宗教上の皇帝である天皇は、ローマ教皇のように寺社の長であり、最高位の宗教職を任命する。
 各宗派には各々の寺社と偶像がある。だが多くの場合、その像は不恰好である。一般には、古代ギリシャ人やローマ人のように、ほとんど職業の数ほどに多くの偶像を創りだした結果、有名無名の神々ができてしまった。日本人はすべての神々のなかで最も偉大なる、永遠にして全能の神の存在を知らないことはないのであろうが、それについての知識は非常に少なく、すっかり迷信にとらわれている。・・・・
 どの寺も外国人を締め出すといったことはなく、オランダ人でも訪ねることができる。また小さな町だと、宿屋がいっぱいであるような場合には外国人でも宿泊させる。私は、参府の旅でそのようなことが一度あった。・・・・

 キリスト教の素早い布教によって、ポルトガル人は思いあがってしまった。そして彼らの貪欲さや高慢さによってみずからを転落させてしまうまでに、そう時間はかからなかった。・・・・もしポルトガル人が慎重に、かつ温和に振舞えば、おそらく彼らに対して始められていた迫害は打ち切られたであろう。だが反対に、彼らの高慢さと日本人に対する支配欲は増加したのである。・・・・・・
 その上に、なんとポルトガル人が将軍をその王位から追いやるために企てた反逆行為が発見されたのである。その当時、オランダ人がポルトガル人と戦って奪い取った一隻の船に、「モロ」という名前の日本人船長からポルトガル国王に宛てた手紙があった。そこには、将軍の生命と王位に抗する陰謀がしたためられていた。そしてこの反逆行為は、その後このモロがマカオに宛てて書いた他の手紙により、一層確かなこととされたのであった。(これらの詳細は不明であるが、当時は豊臣秀吉の治世であり、記述には矛盾がある。また事件の概要は異なるが、1596年にはその後のキリシタン弾圧を強化させることになるサン・フェリペ号事件が起きている。)・・・・・

 それからはキリスト教が国内へ再びもたらされることのないよう、最も強力なる措置を講じ、ポルトガル人全員に日本沿岸への寄航を厳禁した。そして、日本人キリスト教徒が国のどこかにまだ潜んでいないかを、念には念を入れて探し出すためにいくつかの対策を講じた。その一つである絵踏みが、今日でも毎年初頭に長崎やその近隣地域において、その名残を留めているのである。
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posted by 小楠 at 10:29| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚から真実を

2007年03月11日

従軍慰安婦の正体

小野田寛郎 「私が見た従軍慰安婦の正体」

今騒がれているこの問題ですが、本来問題があるのではなく、ない事を問題に作り上げているということです。以下に小野田寛郎氏が「正論」に寄稿された体験に基づく記述を引用してみましょう。
浅卑新聞が捏造した従軍慰安婦についてはこちらも見て下さい。そして古森義久氏報告トルコも怒っています。

引用開始
 首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。・・・・略・・・・
 外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。
 大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。

漢口の「慰安所」を見学
 商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。・・・略・・・
 ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。
 彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。

 そこには内地人も鮮人も中国人もいた(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。・・・略・・・

 半島出身者に「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」、「精神決めてトットと上がれネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。

どこにもいなかった「性的奴隷」
 ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。・・・略・・・
 特に朝鮮人の女たちは特色があった。というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。彼女たちは実に明るく楽しそうだった。その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。・・・略・・・
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2007年03月06日

公使夫人と明治日本3

明治日本の子供たちのしつけを見て

 1889年(明治二十二年)四月に来日した駐日英国全権公使ヒュー・フレイザー夫人、メアリー・クロフォード・フレイザーの著「英国公使夫人の見た明治日本」という本から、日本の子供たちについて、クリスマス・パーティーに招待した時に見た「しつけ」についての記述のひとつを引用してみます。
写真は当時の英国公使館
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引用開始
1891年(明治二十四年)1月・東京
 前年のクリスマスに招待した公使館内の子供たちと同様、今度集まった日本の小さな子供たちもこの飾りに目を見張り、ずいぶん喜びました。
 館の大広間の奥に、大きな階段が三回折れ曲がって四角い空間をつくっているところがあり、いつもはそこに鉢植えや安楽椅子が置いてあるのですが、それらをのけて、ツリーを据えたのです。・・・・・
 
 このような準備は、お客様全員が到着し、私たちの東京の仲間が勢ぞろいするまでは、カーテンで玄関のホールからいっさい見えないようにしてありました。そして、合図とともに、陰に隠れていた合唱隊が古いクリスマス・キャロルを歌い始めてから、カーテンが開かれ、光のピラミッドが煌々と輝きわたったのです。この世のものではないかのような眺めに、広間の隅から隅まで歓声が響きわたりました。それを耳にして、私も、またこの厄介で疲れる準備を快く助けてくれた多くの友人も、すっかり報われた気がしました。

 その後は私たちのささやかなプレゼントを配る仕事でした。――何しろ親たちのほかに子供だけで少なくとも二百人はおりましたから、気を遣いました。それから後の光景はツリーにも負けないくらい美しく思われました。
 私たちの家はこのような集まりをするには少々せまく、一階の使える部屋はすべて大人のお客様用の食堂にあてられました。そこで、子供用の食事は、一階大広間の端から端までを見おろす三階の回廊に並べることになりました。回廊は緑葉の輪飾りと数々のランタンで装いをこらし、そこに各国の子供が並んで坐り,ボンボン(球糖菓)やクラッカーを食べながら仲良しになったのです。・・・・

 子供の美しい大部隊の周りにたいへんな数の大人が群がっていましたので、ほとんど給仕が行き来できないほどでした。けれども、ヨーロッパの子供はしっかり自分たちで食べ物にありついていましたし、日本の上流階級の子供たちの方は人前では物を食べないのです。彼らは礼儀上、ボンボンをつまむことはあっても、知らない人の前で食べ物に執着したり食べたりすることは、作法に反するのです。

 ついさきごろまで彼らは、自分たちの宴席のご馳走というものは、美しい折り詰めにして馬車に運ばれたり、引き揚げた後、自宅へ届けられたりするものと考えていました。その習慣のなごりのおかげで、私は宮中の盃をかなり収集することができました。主人のヒューが天皇陛下の昼食や晩餐にあずかる時は、かならず盃のひとつが御料紙に包まれて馬車のなかまで運ばれるのです。それぞれわずかなデザインの違いはありますが、いずれも、金の菊花をあしらった透き通るほど薄い白磁でできています。・・・・
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2007年01月05日

南京維新政府

顧澄の「維新政府一周年に思う」から

 南京陥落翌年の1938年10月、南京に維新政府ができて約一周年をまとめた『維新政府初周年紀念冊』という本に掲載された顧澄という人の「維新政府一周年に思う」という興味深い小文が掲載されていましたので、鈴木明著「新『南京大虐殺のまぼろし』」から引用してみます。
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引用開始
 高冠吾が南京市長に就任した十月からの統計表が残っている。
 それによると「南京事件」の翌年に当る1938年10月末の南京市の人口は、329,488人、その他、日本人、3,950人(軍人を除く)、開いている商店、2,441戸、南京駅の乗降客数は、25,414名である。
 しかし、職を持たない「難民」の数はまだ5,751名にも上り、維新政府委員会の規定によって、大人一人、一日米四合、子供二合の配給をしているが、維新政府は経済的に非常に苦しいことを訴えている。何しろ税収が少なく、日本からの援助額も、限られたものだったからである。・・・

 教育部部長代理顧澄の文章は、その中でひときわ異彩を放っていて、心から僕を驚かせた。全文では長いので、その中心になっている部分を、ここでご紹介する。

 「蒋介石が政権を握ってから中国は一党独裁になり、親戚縁者を中心に集め、国民には酷税を課し、個人の道徳は低下した。その結果“西安事件”が起り、かつて、“反共”を掲げて天下をとった者が、一夜にして“容共”となったのである。そして戦争が起り、8・13(上海戦)の災いを呼ぶことになってしまった。
 考えてみれば、彼(蒋介石を指す、以下同じ)は中国と日本を比較して、その強弱の違いを知らないわけではなかった。ただ、いたずらに首領としての地位に未練を残し、西欧列強の助けを求めて、万一の勝ちに望みを託したのである。その結果、若き者は前線で命を落し、老幼弱者は荒野にさまよい、地に倒れた。
 これら若者、老幼弱者に何の罪があるというのだろうか。戦争というものは、はじめることは容易だが、収拾することは極めて困難である。
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2006年12月19日

中国共産党の虚偽指導

欺瞞と虚偽の世界で育った私たち

石平著「私は毛主席の小戦士だった」から引用してみます。
 石平氏は「中国民主化運動の世代」といわれている1980年代最初の80年に大学一年生となった方で、1988年に来日、以後日本で評論活動をされています。
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引用開始
 物心がついた子供の時代から、私たちが国家と大人から受けた教育はこうであった。
 曰く、偉大なる共産党の指導をいただくわれわれの社会主義中国こそは、この世界中でもっとも繁栄した先進国であり、もっとも優れた平等社会であり、人民の権利がもっとも保障されている真の民主国家である。この素晴らしい社会主義国家に住むわれら中国人民は、どこの国の国民よりも幸せに暮らしていて、どの時代の中国人よりも人間らしく生きている国民なのだ――。

 それとは対照的に、西側資本主義国家では、偽者の「民主」や「自由」を標榜しながらも、極楽天国のような生活とやりたい放題の自由を満喫しているのは、ほんの一握りの資本家階級にすぎない。その傍ら、99%以上の労働者・人民は食うや食わずの極貧の生活を強いられていて、資本家階級が牛耳る国家から残酷無道な抑圧を受けながら、暗黒の世界の中で奴隷同然に暮らしているのだ――。

 だからこそ、社会主義は人類史上もっとも優れた社会体制であり、共産主義は全人類の憧れる、もっとも素晴らしい理想である。共産主義を唱えるマルクス主義は、この世界における唯一の真理であり、マルクス主義の中国版である毛沢東思想は中国人民の信仰すべき神聖なる理念である。そして、この毛沢東主席こそは、日々人民の幸福を願っておられる慈悲の救世主であり、中国人民を永遠に正しい道へと導く史上最高の偉大なる指導者なのである――。

 毛沢東時代の「共産主義教育」の教義となったこのような言説は、真実のかけらもない100%のウソ偽りであることは言うまでもない。
 事実はむしろその正反対であって、いわば「99%以上の労働者・人民が食うや食わずの極貧の生活を強いられているような残酷無道な暗黒世界」とは、そのまま毛沢東時代の中国人民の置かれた現実そのものであった。
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2006年06月03日

南京入城者の証言2

 この本は、陥落直後の南京城内を実際に見てきた人たちへの質問とその答えで構成されています。当時の記録映画も見ていますが、証言者たちの言っている内容と記録映画の内容も一致しています。(写真は記録映画のDVD版です)
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 引き続き「南京事件」日本人48人の証言より引用してみます。
 大阪朝日新聞・山本治上海支局員の証言
 ――山本さんが南京に行くのはいつですか。
 「蘇州に行った時も上海に戻り、前線に行っては上海にいるということを繰り返していましたが、その時は橋本さんと一緒だったと思います。
 入城式の日は、上海を最初から従軍取材しているというので、陸軍の飛行機が連れて行ってくれました。着いたのは午後で、入城式の終わった後でした」

 ――南京の様子はどうでした?
 「城壁の周りには中国兵の死体がありました。中山門から見た時、城内には何ヵ所も煙が上がっているのが見えました」

 ―城内の様子はどうでした?
 「特別変わったことはありません。南京で印象的なのは城壁で中国兵の死体を見たくらいです」

 ――虐殺があったと言われてますが・・・。
 「全然見たことも聞いたこともありません。夜は皆集まりますが、そんな話は一度も聞いたことはありません。誰もそういうことを言ったことがありません。朝日新聞では話題になったこともありません
・・・略・・・
 「徐州作戦に従軍した後、私は体を悪くして昭和十三年夏に日本に帰ってきました。神戸へ着いたところ、神戸のホテルで、南京では日本軍が暴行を働いたそうですね、と言われてびっくりしました。なんでも外字新聞には出ていたということです。
 上海にいる時、私は中国の新聞を読んでいましたが『決戦光華門』などという文字が大きく載ったのは見たことがありますが、南京についてのそういうことは何も出ていませんでしたから、不思議に思ったものです」
・・・略・・・
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2006年06月02日

南京入城者の証言1

 佐藤カメラマンは現在の稲田弁護士らによる向井、野田両元少尉の名誉回復のための百人斬り訴訟に、老齢をおして弁護側証人として証言して下さった方で、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
「南京事件」日本人48人の証言より引用してみます。
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東京日々新聞・佐藤振寿カメラマンの証言

――そのあと、どういうコースでしたか。
 「・・・・常州では百人斬りの向井少尉と野田少尉の二人の写真を撮りました。煙草を持ってないかという話になって、私は上海を出る時、ルビークインを百箱ほど買ってリュックのあちこちに入れてましたので、これを数個やったら喜んで、話がはずみ、あとは浅海記者がいろいろ聞いていました
 私は疑問だったのでどうやって斬った人数を確認するのだと聞いたら、野田の方の当番兵が向井が斬った人数を数え、野田の方は向井の部下が数えると言っていました。
 よく聞けば、野田は大隊副官だから、中国兵を斬るような白兵戦では作戦命令伝達などで忙しく、そんな暇はありません。向井も歩兵砲の小隊長だから、戦闘中は距離を測ったり射撃命令を出したり、百人斬りなんてできないのは明らかです。
 戦後、浅海にばったり会ったら、東京裁判で、中国の検事から百人斬りの証言を求められている、佐藤もそのうち呼び出しがくるぞ、と言ってましたが、私には呼び出しが来ませんでした。
 浅海が、あの記事はフィクションですと一言はっきり言えばよかったのですが、彼は早稲田で廖承志(初代中日友好協会会長)と同級だし、何か考えることがあったんでしょう。それで二人が中国で銃殺刑になってしまった」
・・・略・・・

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2006年05月10日

日露戦争開戦へ

 ヘンリー・ダイアーは、明治の初期より約10年間、日本の科学工業発展を支える多くの教え子を育成してきました。同時に、当時の世界における日本人と日本国の立場を、国際状勢から客観的に見ていたのです。
 どこかの国が日露戦争までを侵略戦争などと馬鹿げたことを言い出しているようですが、これは言いがかりのための嘘だということをはっきり認識させてくれます。
『大日本』ヘンリー・ダイアー著より。
引用開始
「日本歴史の建設」
 不平等条約の改正交渉に長い歳月を費やし、日本人がつくづく思い知ったのは、自分達の正当な主張に相手の耳を傾けさせるには、日本がもっと強い国になるのが先決で、そのための国の政策が必要だという認識である。ヨーロッパの列強、とりわけロシアという強国が侵略してくるのではないかという恐怖心から、日本人はそういう意識をますます高めていった。日清戦争に勝利を収めた直後、そのロシアがフランスおよびドイツと組み、日本が清国から手に入れた遼東半島の返還を迫ったことは、日本人の敵愾心に火をつける結果となった。日本人は決して急ぎはしなかったが、しかし着々と陸海軍の戦力の増強に励み、国内の交通通信網の充実を図って、やがて自分達の国を一大軍事強国に育て上げたのである。
 日本人は、だからといって自分達に外国を侵略する意図などはまったくないことを明らかにしていたが、それと同時に極東の情勢の推移を注意深く分析することを怠らず、もし不法にも自分達の繁栄を脅かしたり国の存在を危うくするような行為に出る外国勢力があれば、断固として最後まで抵抗する決意を固めていた。
 ロシアの行動は長いこと日本人の不安の種だったが、とりわけ日清戦争後にロシアが満州で示した振舞いは、日本人に重大な危惧の念をいだかせるに充分なものだった。日本はこの問題についてロシアと意思を疎通したいと切望し、忍耐強くロシアに働きかけてきた。日本の自制的な態度は、日露両国の対立に中立の立場をとる国々から称讃を浴びた。・・・略・・・
 こうした提案は、しかしロシアを満足させなかった。まさか戦争に訴えるようなことはあるまいと高をくくったロシアは、その野心をあからさまにした対案を日本に突きつけてきた。・・・略・・・
 その上でロシアはさらに、@朝鮮海峡の韓国沿岸には、海峡の自由航行を妨げる要塞の設置を認めない、A北緯三十九度以北の韓国領土を非武装中立地帯とし、軍隊の引き入れを禁止する、B日本は満州における政治的権益をすべて放棄する、という一方的な要求をしてきた。こうした要求は、ロシアが日露間の懸案事項について、穏当な解決を図る意思がないことをはっきりと示している。

「日露開戦へ」
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posted by 小楠 at 07:31| Comment(3) | TrackBack(1) | 書棚から真実を

2006年05月09日

明治維新の精神

 今回からは、ヘンリー・ダイアーの大著「大日本」をご紹介します。この本の内容は、明治初期の日本の広い分野にわたって、進歩発展の様子が記述されています。
『大日本』ヘンリー・ダイアー著より。
ヘンリー・ダイアーはスコットランド人で、1873年に来日し、東大工学部の前身である工部大学校の初代都検(校長)に就任、日本の近代化に多大な功績を残しました。
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引用開始
「強国日本を目指す必要性」
 しかしながら、諸外国の関心が実はそれとは別のところにあると日本人が気づくのに、それほど時間はかからなかった。欧米の列強は、教育や行政面の改善を根拠に対等の処遇を求める議論よりも、強大な陸海軍の存在を後ろ盾とした主張のほうに耳を傾けたのであるそれを知った日本人は、みずからも強力な軍事力を備えた国家になろうと決意するに至った。
 実際問題として、日清戦争で鴨緑江の川岸に日本軍の砲声が轟いたとき、ヨーロッパの諸国とアメリカは初めて日本に対する認識を新たにした。つまり、極東の一角に出現した一国家がかなりの程度まで西洋の文化を身につけるようになったばかりでなく、政治と行政の諸制度も充実させ、そのことを根拠にして、諸外国と完全に平等の条件で国際社会に仲間入りすることを強く主張するに至ったという事実を認めたのである。そればかりでなく、日清戦争の戦闘で日本の陸海軍が世界に見せつけた鮮やかな手並は、いまや日本がただの口先の議論ではかなわぬ強力な後ろ盾を手に入れて、みずからの権利を強く主張できるようになったことを立証したのである。
・・・略・・・

「明治維新の精神」
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2006年05月01日

GHQ検閲官は語る

 元GHQ検閲官だった英文学者が五十年の沈黙を破り、当時の克明な日記をもとに、峻烈な米軍検閲の実態を・・・と帯書きにあります。
 戦後日本の歪んだ思想、歴史観、国家観の大きな原因がこの米軍の検閲と真相箱などによる洗脳の結果でしょうが、今なお左翼やマスコミ、擁護論者などは、ここから抜け出せないのか、或いは抜け出さない方が都合がいいのでしょう。

甲斐弦著「GHQ検閲官」(1995年初版)より
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引用開始
 占領期間中にGHQが行った郵便物や出版物に対する検閲への一般の関心は、今(1995年)でもそう高いとは言えない。多くの日本人は、敗戦によってわれわれは軍のくびきから解放され、大幅の自由を与えられたものと無邪気に信じ込んでいる。
・・・略・・・
 新憲法第二十一条を読むたびに私は苦笑を禁じ得ない。
 「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」
 何というしらじらしい言葉であろう。言論及び思想の自由を謳ったポツダム宣言にも違反し、GHQ自身の手に成る新憲法にも抵触するこのような検閲が、憲法公布後もなお数年間にわたって実施されていたのである。民間検閲局(CCD)こそがこの違法行為の実行者であった。・・・略・・・
 私が属した福岡の第三民間検閲局は、特に峻烈だったとの評判がある。
・・略・・・
 おれは米軍の犬だ、とある時は自嘲し、ある時は、妻子を養うためにはいかなる汚辱にも堪えよ、と自己を励ます。時にはまた開き直って、よし、この機会にメリケンの正体を見極めてやろう、と唇を噛む。・・・略・・・
 今一つ、読者に考えていただきたいことは、米軍の検閲が行われていた頃の 日本の庶民生活の実態である。
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posted by 小楠 at 17:16| Comment(2) | TrackBack(2) | 書棚から真実を