安倍新総裁誕生を祝福します。
今から真の日本国民は、朝日、毎日およびその系統の反日新聞の不買運動で、
これらを叩き潰す行動を起こしましょう。
そして安倍総裁と将来の安倍政権を徹底して支持しましょう。
彼ら反日マスゴミは戦前は鬼畜英米で戦争を煽り、敗戦後はGHQに尻尾を振ってきた敗戦利得者、
そして現在は支那共産党の代弁者となり下がった事大主義そのものです。
従軍慰安婦などとありもしないものを捏造し、靖国参拝を支那共産党に煽って問題にしたのも朝日です。
我々日本国民は、大多数のまともな国民に、日本の弱体化に奔走するこれらマスゴミとの徹底抗戦を開始す
べき時になりました。
一国民が出来ることは、反日マスゴミの不買、TVスポンサーへの抗議で、
これらマスゴミを壊滅に追い込むことです。
共感できる皆様、大々的な行動を起こしましょう。
2012年09月27日
2008年05月26日
知ってはならない歴史20
国民か人民か
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
最終引用開始
次の言葉は誰の発言でしょうか。1917年のロシア革命を評した発言です。
「・・・ここに数週間ロシアで起っている素晴らしい、心わきたたせるような事態は、将来の世界平和に対するわれわれの希望を、さらに確かなものにしたと、すべてのアメリカ人は感じないであろうか。(中略)専制政治が長期にわたってロシア政治機構に君臨し、その実態は恐怖政治であった。しかし・・・・・いまや、この専制政治は排除され、それに代わって寛大なロシア国民が・・・・・世界の自由、正義、平和のための戦列に加わったのである。われわれはここに誉れ高き同盟にふさわしい盟友を得たのである」(『レーニン、スターリンと西方世界』ジョージ・F・ケナン)
発言の主は当時のアメリカ大統領ウィルソンです。
共産主義者をデモクラシーの仲間と考えていたアメリカ人は、ウィルソン大統領ひとりに限りません。多くのアメリカ人は、君主政治を専制政治と考えていました。日本の皇室も専制政治の担い手と考えられていた一面があります。
これはアメリカ建国の歴史に照らしてみれば、理解もできます。フランス革命は国王夫妻をギロチンで斬首し、数百万人の血を「供犠」しましたが、革命党派ジャコバンは独立アメリカと熱く連帯しようとしたのでした。
私は皇室と書きました。普通は「天皇制」と書く人が多いのですが、私はこの言葉は使わないようにしています。「天皇制度」という語はコミンテルン用語であり、打倒天皇制度の悪意に発する言葉ですから、私は使う気持になりません。1927(昭和二)年のコミンテルン第六回大会製造の「二十七年テーゼ」に起源を持ったものです。制度という語がどうしても必要なときは、皇室制度で充分ではないでしょうか。
ロシア革命の後、反対派や自営農民の虐殺・「抹殺」などが、アメリカ人の耳目に達しなかったのは、歴史の悲劇というしかないものです。
しかし、四選目のルーズベルト大統領が第二次世界大戦中に至っても、ウィルソン大統領なみのソ連・共産主義観しか持っていなかったという事実を、私たちはどのように理解すべきなのでしょうか。彼は政治的にはスターリンの親友だったのです。ただし、ルーズベルトとコミンテルンの関わりについて、史書は沈黙しています。
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若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
最終引用開始
次の言葉は誰の発言でしょうか。1917年のロシア革命を評した発言です。
「・・・ここに数週間ロシアで起っている素晴らしい、心わきたたせるような事態は、将来の世界平和に対するわれわれの希望を、さらに確かなものにしたと、すべてのアメリカ人は感じないであろうか。(中略)専制政治が長期にわたってロシア政治機構に君臨し、その実態は恐怖政治であった。しかし・・・・・いまや、この専制政治は排除され、それに代わって寛大なロシア国民が・・・・・世界の自由、正義、平和のための戦列に加わったのである。われわれはここに誉れ高き同盟にふさわしい盟友を得たのである」(『レーニン、スターリンと西方世界』ジョージ・F・ケナン)
発言の主は当時のアメリカ大統領ウィルソンです。
共産主義者をデモクラシーの仲間と考えていたアメリカ人は、ウィルソン大統領ひとりに限りません。多くのアメリカ人は、君主政治を専制政治と考えていました。日本の皇室も専制政治の担い手と考えられていた一面があります。
これはアメリカ建国の歴史に照らしてみれば、理解もできます。フランス革命は国王夫妻をギロチンで斬首し、数百万人の血を「供犠」しましたが、革命党派ジャコバンは独立アメリカと熱く連帯しようとしたのでした。
私は皇室と書きました。普通は「天皇制」と書く人が多いのですが、私はこの言葉は使わないようにしています。「天皇制度」という語はコミンテルン用語であり、打倒天皇制度の悪意に発する言葉ですから、私は使う気持になりません。1927(昭和二)年のコミンテルン第六回大会製造の「二十七年テーゼ」に起源を持ったものです。制度という語がどうしても必要なときは、皇室制度で充分ではないでしょうか。
ロシア革命の後、反対派や自営農民の虐殺・「抹殺」などが、アメリカ人の耳目に達しなかったのは、歴史の悲劇というしかないものです。
しかし、四選目のルーズベルト大統領が第二次世界大戦中に至っても、ウィルソン大統領なみのソ連・共産主義観しか持っていなかったという事実を、私たちはどのように理解すべきなのでしょうか。彼は政治的にはスターリンの親友だったのです。ただし、ルーズベルトとコミンテルンの関わりについて、史書は沈黙しています。
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2008年05月23日
知ってはならない歴史19
崇高な理想に秘められた悪意
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
私はイデオロギーという語を「虚偽意識」として注記していますが、それには意味があります。マルクス主義には必ず虚偽・悪意が仕組まれています。なぜか。立派な国民性・民族性はユダヤ解放の敵だからです。歴史・伝統・文化に培われた国民性・民族性(ナショナルなもの)はナショナルホームを喪失したユダヤの民には抑圧でしかなかったのです。搾取に苦しむプロレタリアートには祖国はないとされます。
万国のプロレタリアートは団結しなければなりません。女性の解放も、ユダヤ人の解放も、階級社会の全体的解放と共に成し遂げられるとされます。民族ではなくインターナショナルこそが、そして国民ではなく個人・人権の確立こそが、教育の目的でなければなりません。個人を家族制度の奴隷としてはなりません。
秘められた悪意は、こうして崇高な理想の旋律で歌われるのです。
マルクス主義というのは社会科学でもなければ、経済学でもなく、せいぜい社会学のイデオロギー(虚偽意識)にすぎないのです。ある仮説(ハイポネシス)に基いて社会改革を志向する社会学の一分野がありますが、それに近いのがマルクス主義です。仮説を通り越して虚偽意識というのは、「マルクス主義」なるものはユダヤ人の解放を願望する思想体系が「人間解放」の仮面をかぶっているにすぎないからです。
マルクス主義に漂う、どこか黙示録的な雰囲気は偶然ではないのです。共産主義社会とは千年王国であり、プロレタリアートとはモーゼに率いられたユダヤの民でしょうか。ブルジョアジーとは異邦人のことです。・・・・
フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)はモーゼの再来とユダヤ人世界では囁かれたものです。彼の先祖は十七世紀にオランダから移住したユダヤ人社会の名門です。ルーズベルトたちが、ユダヤ人のホロコースト(抹殺)を進めるナチス・ドイツを許す筈がないのです。三国同盟の愚を、日本人はまるで知らなかったのです。
マッカーサーは「真っ赤さ!」と言われた時代がありました。GHQのピンカーズ(赤いやつ)が持ち込んだマルクス主義の虚偽意識(イデオロギー)を条文化したものが「日本国憲法」です。これらは、民法・教育基本法・男女共同参画法・家族・相続・扶養・・・税制に至るまで、敗戦日本の骨格・血肉となっています。
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若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
私はイデオロギーという語を「虚偽意識」として注記していますが、それには意味があります。マルクス主義には必ず虚偽・悪意が仕組まれています。なぜか。立派な国民性・民族性はユダヤ解放の敵だからです。歴史・伝統・文化に培われた国民性・民族性(ナショナルなもの)はナショナルホームを喪失したユダヤの民には抑圧でしかなかったのです。搾取に苦しむプロレタリアートには祖国はないとされます。
万国のプロレタリアートは団結しなければなりません。女性の解放も、ユダヤ人の解放も、階級社会の全体的解放と共に成し遂げられるとされます。民族ではなくインターナショナルこそが、そして国民ではなく個人・人権の確立こそが、教育の目的でなければなりません。個人を家族制度の奴隷としてはなりません。
秘められた悪意は、こうして崇高な理想の旋律で歌われるのです。
マルクス主義というのは社会科学でもなければ、経済学でもなく、せいぜい社会学のイデオロギー(虚偽意識)にすぎないのです。ある仮説(ハイポネシス)に基いて社会改革を志向する社会学の一分野がありますが、それに近いのがマルクス主義です。仮説を通り越して虚偽意識というのは、「マルクス主義」なるものはユダヤ人の解放を願望する思想体系が「人間解放」の仮面をかぶっているにすぎないからです。
マルクス主義に漂う、どこか黙示録的な雰囲気は偶然ではないのです。共産主義社会とは千年王国であり、プロレタリアートとはモーゼに率いられたユダヤの民でしょうか。ブルジョアジーとは異邦人のことです。・・・・
フランクリン・デラノ・ルーズベルト(FDR)はモーゼの再来とユダヤ人世界では囁かれたものです。彼の先祖は十七世紀にオランダから移住したユダヤ人社会の名門です。ルーズベルトたちが、ユダヤ人のホロコースト(抹殺)を進めるナチス・ドイツを許す筈がないのです。三国同盟の愚を、日本人はまるで知らなかったのです。
マッカーサーは「真っ赤さ!」と言われた時代がありました。GHQのピンカーズ(赤いやつ)が持ち込んだマルクス主義の虚偽意識(イデオロギー)を条文化したものが「日本国憲法」です。これらは、民法・教育基本法・男女共同参画法・家族・相続・扶養・・・税制に至るまで、敗戦日本の骨格・血肉となっています。
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2008年05月22日
知ってはならない歴史18
フランクフルト学派
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
歴史の運命の一変は1917年のロシア革命以降です。ロシア革命と言うのは、プロレタリアート主導の社会主義革命だったとの誤解が世を覆っています。当時はロシア・ユダヤクーデターと呼ばれた事件でした。マルクスがユダヤ人なのは周知ですが、レーニン、トロツキー、ジュノビエフ、カメーネフ・・・など指導者の殆どはユダヤ人なのです。先のルーズベルト大統領もユダヤ人です。
第一次大戦の敗戦国ドイツは「社会主義革命」の危機に陥りました。有名な指導者、ローザ・ルクセンブルグやカール・リープクネヒトたちもユダヤ人です。敗戦国ドイツはワイマール共和国となりますが、主要な指導者をユダヤ人とするユダヤ・ドイツと目されていたのです。
これらへの激烈な反動がナチズムですが、ナチを逃れて多数のマルクス主義者がアメリカに亡命しました。コロンビア大学やハーバード大学を拠点にしたフランクフルト学派はつとに有名です。ルーズベルト政権を支えたニューディーラーと呼ばれる一群の人々はマルクス主義者なのです。・・・・この中には当然に、ソ連やコミンテルンの要員が含まれていたことが『ビェノナ文書』等により明らかになっています。このことは現在の問題に直結していることなのです。マルクス主義を古臭いと感じる向きは、ちょっと認識を改めていただきたいものです。1917年のロシア革命の成功は当時の言葉でいえば、ユダヤクーデターの成功なのです。マルクス主義の勝利と錯覚されたにすぎません。・・・・
さて、マッカーサーです。彼は総司令部(GHQ)の最高司令官ですが、部下の多数のニューディーラーたちの跋扈と、その正体を知り衝撃を受けたようです。農地改革も財閥解体、そして日本国憲法などはニューディーラーたちの「遺産」なのです。
安倍政権が教育改革や憲法改正に意欲を見せましたが、根は深いのです。戦前の日本も深い部分には、マルクス主義者の潜伏を抱えていました。ゾルゲ・尾崎の事件が有名ですが、この事件は露頭部の一部に過ぎません。ニューディーラーたちの改革によって、戦後の日本の言語空間はマルクス主義者たちの支配するところとなったのです。日本の大学やマスコミ世界の現状は、敗戦日本の戦後利得者の利権構造にほかならないのです。
日本で有名なフランクフルト学派の人物の名をあげておきましょう。都留重人氏です。アメリカ共産党のポール・スウィージーとの親交も知られています。都留氏の同志がノイマン(日本国憲法制定工作で名の出る人物)です。ちなみに都留重人氏の岳父は和田小六であり、和田氏は東工大の学長にもなりますが、彼は木戸幸一内府の実弟です。昭和天皇のすぐ側までコミンテルンの影が見え隠れしています。日本の大学の人事に通じている人なら、巨大な左翼支配の利権構造が直ちに理解できることと思います。
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若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
歴史の運命の一変は1917年のロシア革命以降です。ロシア革命と言うのは、プロレタリアート主導の社会主義革命だったとの誤解が世を覆っています。当時はロシア・ユダヤクーデターと呼ばれた事件でした。マルクスがユダヤ人なのは周知ですが、レーニン、トロツキー、ジュノビエフ、カメーネフ・・・など指導者の殆どはユダヤ人なのです。先のルーズベルト大統領もユダヤ人です。
第一次大戦の敗戦国ドイツは「社会主義革命」の危機に陥りました。有名な指導者、ローザ・ルクセンブルグやカール・リープクネヒトたちもユダヤ人です。敗戦国ドイツはワイマール共和国となりますが、主要な指導者をユダヤ人とするユダヤ・ドイツと目されていたのです。
これらへの激烈な反動がナチズムですが、ナチを逃れて多数のマルクス主義者がアメリカに亡命しました。コロンビア大学やハーバード大学を拠点にしたフランクフルト学派はつとに有名です。ルーズベルト政権を支えたニューディーラーと呼ばれる一群の人々はマルクス主義者なのです。・・・・この中には当然に、ソ連やコミンテルンの要員が含まれていたことが『ビェノナ文書』等により明らかになっています。このことは現在の問題に直結していることなのです。マルクス主義を古臭いと感じる向きは、ちょっと認識を改めていただきたいものです。1917年のロシア革命の成功は当時の言葉でいえば、ユダヤクーデターの成功なのです。マルクス主義の勝利と錯覚されたにすぎません。・・・・
さて、マッカーサーです。彼は総司令部(GHQ)の最高司令官ですが、部下の多数のニューディーラーたちの跋扈と、その正体を知り衝撃を受けたようです。農地改革も財閥解体、そして日本国憲法などはニューディーラーたちの「遺産」なのです。
安倍政権が教育改革や憲法改正に意欲を見せましたが、根は深いのです。戦前の日本も深い部分には、マルクス主義者の潜伏を抱えていました。ゾルゲ・尾崎の事件が有名ですが、この事件は露頭部の一部に過ぎません。ニューディーラーたちの改革によって、戦後の日本の言語空間はマルクス主義者たちの支配するところとなったのです。日本の大学やマスコミ世界の現状は、敗戦日本の戦後利得者の利権構造にほかならないのです。
日本で有名なフランクフルト学派の人物の名をあげておきましょう。都留重人氏です。アメリカ共産党のポール・スウィージーとの親交も知られています。都留氏の同志がノイマン(日本国憲法制定工作で名の出る人物)です。ちなみに都留重人氏の岳父は和田小六であり、和田氏は東工大の学長にもなりますが、彼は木戸幸一内府の実弟です。昭和天皇のすぐ側までコミンテルンの影が見え隠れしています。日本の大学の人事に通じている人なら、巨大な左翼支配の利権構造が直ちに理解できることと思います。
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2008年05月20日
知ってはならない歴史17
マッカーサーの悔悟
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
マッカーサーの米上院軍事・外交合同委員会聴聞委員会の証言(抄)です。
「・・・・(日本が)もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万人から・・・・失業者が日本で発生するであろうことを彼らは恐れた。したがって、彼らが、戦争に駆り立てられた動機は大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのだ・・・」
(1951・昭和二十六年五月三日・米上院軍事・外交合同委員会聴聞委員会証言)
有名なマッカーサーの証言ですが、彼は日本の開戦責任について「安全保障の必要に迫られてのことだった」、つまり日本の正当防衛だったと述べているのです。終戦五年を経てマッカーサーは日米開戦の秘密・機微を知るに至っていたのです。彼はつぎのようにも証言しています。
「太平洋でこの百年の最大の政治的な誤りは中国において共産主義に権力を握らせたということだと、全く個人的な見解ながら私はそう考えるのです」
(同日・ウイレー議員への回答)
1950(昭和二十五)年10月15日、ウェーキ島でのトルーマン大統領との会談でもマッカーサーは「東京裁判は誤りだった」と告白しています。これも同委員会会議録に収められています。朝鮮戦争のさ中です。
日米戦は痛恨の誤りであったとの彼の悔悟の念が行間に溢れているのは、開戦にいたるまでの秘密・機微を知るに至った経緯を抜きには理解できません。このように解するのは、筆者だけではないでしょう。・・・
私がここで指摘したいのは、裁判開始を命じた当の本人・マッカーサーが米上院において、「・・・日本が戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのだ」と述べていることです。
いわゆる自衛戦争・正当防衛戦争証言です。日本と戦った連合国軍の最高司令官が「日本の戦争は自衛の戦いだった」と言っていることを日本人は、いや日本のメディアは語ろうとはしないのです。書いたようにウェーキ島でトルーマン大統領にも、東京裁判は誤りだったと告白しています。日本のメディアは完全に黙殺しているのです。・・・・
続きを読む
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
マッカーサーの米上院軍事・外交合同委員会聴聞委員会の証言(抄)です。
「・・・・(日本が)もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万人から・・・・失業者が日本で発生するであろうことを彼らは恐れた。したがって、彼らが、戦争に駆り立てられた動機は大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのだ・・・」
(1951・昭和二十六年五月三日・米上院軍事・外交合同委員会聴聞委員会証言)
有名なマッカーサーの証言ですが、彼は日本の開戦責任について「安全保障の必要に迫られてのことだった」、つまり日本の正当防衛だったと述べているのです。終戦五年を経てマッカーサーは日米開戦の秘密・機微を知るに至っていたのです。彼はつぎのようにも証言しています。
「太平洋でこの百年の最大の政治的な誤りは中国において共産主義に権力を握らせたということだと、全く個人的な見解ながら私はそう考えるのです」
(同日・ウイレー議員への回答)
1950(昭和二十五)年10月15日、ウェーキ島でのトルーマン大統領との会談でもマッカーサーは「東京裁判は誤りだった」と告白しています。これも同委員会会議録に収められています。朝鮮戦争のさ中です。
日米戦は痛恨の誤りであったとの彼の悔悟の念が行間に溢れているのは、開戦にいたるまでの秘密・機微を知るに至った経緯を抜きには理解できません。このように解するのは、筆者だけではないでしょう。・・・
私がここで指摘したいのは、裁判開始を命じた当の本人・マッカーサーが米上院において、「・・・日本が戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのだ」と述べていることです。
いわゆる自衛戦争・正当防衛戦争証言です。日本と戦った連合国軍の最高司令官が「日本の戦争は自衛の戦いだった」と言っていることを日本人は、いや日本のメディアは語ろうとはしないのです。書いたようにウェーキ島でトルーマン大統領にも、東京裁判は誤りだったと告白しています。日本のメディアは完全に黙殺しているのです。・・・・
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2008年05月19日
知ってはならない歴史16
ハル・ノートはコミンテルン製
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
ハルノートとして知られる「覚書」について書いておきましょう。ハリー・D・ホワイト財務副長官の書いた「一般案」(原則論だから強硬です)と、コーデル・ハル国務長官の記したもの(暫定案だから妥協的です・・・例えば南部仏印の兵力は二万五千人以内とかいうように日本の乙案に対応したものでした)と二つの「ハル・ノート」が存在していたことが、この書(ロバート・B・スティネット著『真珠湾の真実』)でも確認できました。他の書は多くがこの点で混乱しています。ハル長官の記したものは日本に通告されていません。通告されたのはホワイト作成のものです。
ハル作成のものは極めて融和的なものであり、提示された中国・イギリス・オランダは一様に反発しました。それを確認したルーズベルトは、強硬な内容で日本が到底のめない「ハル・ノート」を日本にだけ通告したのです。英蘭支が知らない「ハル・ノート」に日本は絶望しました。牛場秘書官がバレていると忠告した暗号で東京のアメリカ大使館に伝えられ、解読した日本政府は絶望したのです。11月26日にハル・ノートは野村大使に手交されましたが、東京の日本外務省は事前に解読して知っていたのです。日本は暗号を解読して親米英派は絶望し、沈黙しました。
だから機動部隊は一日前の25日に、ヒトカップ湾を出撃していたのです。ハリー・D・ホワイト財務副長官はコミンテルンの要員だったことが確定していますが、日本には哀し過ぎる事実です。コミンテルン製のハル・ノートで日本は開戦を決意したのです(戦後に彼は「自殺」します)。・・・・
ルーズベルトは何を考えていたのでしょうか。1941(昭和十六)年に入ると彼は外交的解決を考えなくなっていました。外交的解決ではなく経済制裁を強め「最悪の事態」「日本の明白な戦争行為」を促進させることに集中するようになっていました。特に、八月のチャーチルとの洋上会談で「バック・ドアー・ツー・ウォー」(裏口からの参戦)を密約して以来は、マッカラムの「八項目」のエスカレーションの実行に移っていたのです。七月になると日本船舶のパナマ運河通過を禁止し、八月には石油。金属等の全面禁輸に踏み切ります。
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若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
ハルノートとして知られる「覚書」について書いておきましょう。ハリー・D・ホワイト財務副長官の書いた「一般案」(原則論だから強硬です)と、コーデル・ハル国務長官の記したもの(暫定案だから妥協的です・・・例えば南部仏印の兵力は二万五千人以内とかいうように日本の乙案に対応したものでした)と二つの「ハル・ノート」が存在していたことが、この書(ロバート・B・スティネット著『真珠湾の真実』)でも確認できました。他の書は多くがこの点で混乱しています。ハル長官の記したものは日本に通告されていません。通告されたのはホワイト作成のものです。
ハル作成のものは極めて融和的なものであり、提示された中国・イギリス・オランダは一様に反発しました。それを確認したルーズベルトは、強硬な内容で日本が到底のめない「ハル・ノート」を日本にだけ通告したのです。英蘭支が知らない「ハル・ノート」に日本は絶望しました。牛場秘書官がバレていると忠告した暗号で東京のアメリカ大使館に伝えられ、解読した日本政府は絶望したのです。11月26日にハル・ノートは野村大使に手交されましたが、東京の日本外務省は事前に解読して知っていたのです。日本は暗号を解読して親米英派は絶望し、沈黙しました。
だから機動部隊は一日前の25日に、ヒトカップ湾を出撃していたのです。ハリー・D・ホワイト財務副長官はコミンテルンの要員だったことが確定していますが、日本には哀し過ぎる事実です。コミンテルン製のハル・ノートで日本は開戦を決意したのです(戦後に彼は「自殺」します)。・・・・
ルーズベルトは何を考えていたのでしょうか。1941(昭和十六)年に入ると彼は外交的解決を考えなくなっていました。外交的解決ではなく経済制裁を強め「最悪の事態」「日本の明白な戦争行為」を促進させることに集中するようになっていました。特に、八月のチャーチルとの洋上会談で「バック・ドアー・ツー・ウォー」(裏口からの参戦)を密約して以来は、マッカラムの「八項目」のエスカレーションの実行に移っていたのです。七月になると日本船舶のパナマ運河通過を禁止し、八月には石油。金属等の全面禁輸に踏み切ります。
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2008年05月16日
知ってはならない歴史15
桂・ハリマン協定破棄は日本の錯誤
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
日露戦争の講和会議は1905(明治三十六)年6月9日、ポーツマスで開始されました。
講和気運の高まる8月10日、アメリカの鉄道王ハリマンがニューヨークを発ち日本に向かいました。ハリマンは日本の戦時外債に協力した最も有力な人物だったことから政府・大蔵省・財界あげて大歓迎しました。
ハリマンは南満洲鉄道を、自分の経営する会社と共同経営したいと提案しました。日本側は戦後の経営を考えて、ここはアメリカの力を満州に引き入れた方が今後の対ロシアとの対抗にも有利と判断し、首相桂太郎は明治天皇の内諾も得て、桂・ハリマン協定として知られる仮条約(覚え書き)に調印しました。
ハリマンと入れ違いに帰国した小村寿太郎外相は激怒し、この仮条約を破棄しました。そして清国との条約で「南満洲鉄道経営については両国以外に関与すべからず」との一条を入れさせたのです。・・・・
ハリマンは激怒し「日米両国は十年もしないうちに戦争するであろう」とまで言いました。
1909(明治四十二)年、ハリマンは急逝しました。そして小村寿太郎も、この仮条約に尽力した伊藤博文も前後して率然と急死します。・・・
ここでは小村寿太郎外相たち、つまり日本の犯した誤ちの省察を記しましょう。
アメリカの排日移民問題の悪化について触れておきます。それは、日本人移民の増大を諜報との関係で警戒するようになっていたということです。日本人にはピンとこないことですが、移民とか亡命とかは、諜報と直結なのが常識です。・・・・
ここではアメリカ軍部の視線をトレースしましょう。
日本は下関条約で台湾を領有しました。台湾領有の戦略的な意味について、日本は深く解析した痕跡がありません。第一は、中国の沿岸部の交通路は琉球弧とあいまって、日本の支配化におかれたということです。これは今日でも重要なポイントなのです。台湾、沖縄は、中国の太平洋への出口を扼している、つまり封鎖しているのです。
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若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
日露戦争の講和会議は1905(明治三十六)年6月9日、ポーツマスで開始されました。
講和気運の高まる8月10日、アメリカの鉄道王ハリマンがニューヨークを発ち日本に向かいました。ハリマンは日本の戦時外債に協力した最も有力な人物だったことから政府・大蔵省・財界あげて大歓迎しました。
ハリマンは南満洲鉄道を、自分の経営する会社と共同経営したいと提案しました。日本側は戦後の経営を考えて、ここはアメリカの力を満州に引き入れた方が今後の対ロシアとの対抗にも有利と判断し、首相桂太郎は明治天皇の内諾も得て、桂・ハリマン協定として知られる仮条約(覚え書き)に調印しました。
ハリマンと入れ違いに帰国した小村寿太郎外相は激怒し、この仮条約を破棄しました。そして清国との条約で「南満洲鉄道経営については両国以外に関与すべからず」との一条を入れさせたのです。・・・・
ハリマンは激怒し「日米両国は十年もしないうちに戦争するであろう」とまで言いました。
1909(明治四十二)年、ハリマンは急逝しました。そして小村寿太郎も、この仮条約に尽力した伊藤博文も前後して率然と急死します。・・・
ここでは小村寿太郎外相たち、つまり日本の犯した誤ちの省察を記しましょう。
アメリカの排日移民問題の悪化について触れておきます。それは、日本人移民の増大を諜報との関係で警戒するようになっていたということです。日本人にはピンとこないことですが、移民とか亡命とかは、諜報と直結なのが常識です。・・・・
ここではアメリカ軍部の視線をトレースしましょう。
日本は下関条約で台湾を領有しました。台湾領有の戦略的な意味について、日本は深く解析した痕跡がありません。第一は、中国の沿岸部の交通路は琉球弧とあいまって、日本の支配化におかれたということです。これは今日でも重要なポイントなのです。台湾、沖縄は、中国の太平洋への出口を扼している、つまり封鎖しているのです。
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2008年05月15日
知ってはならない歴史14
日本の国家分裂と敗亡の道。
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
日露戦争が日本勝利の形で終わりました。日本将兵の勇戦はもとよりですが、勝利は米英の日本支援の賜物でした。帝国主義の当時にあって、戦争に国際的な干渉はつきものです。十年前の日清戦争の時に、日本の指導者たちは予期以上の三国干渉に慌てふためき、そして臥薪嘗胆を合言葉に、干渉に膝を屈しました。
日露戦争に干渉する列強はいないと、日本の指導者たちは考えたようです。なぜなら、日本の背後には米英がついていたからです。本当に伊藤博文たちがそのように考えたとしたなら、伊藤老いたりと言うしかないのが残念です。
重ねて言いますがこうした時、干渉は米英から来るものです。ポーツマス講和条約が成立しそうになったと同時にハリマンが来日しました。そして、桂・ハリマン協定が明治天皇の内意を得て成立したのです。しかし、小村寿太郎外相はこの協定という仮条約を一方的に破棄しました。日本の仕打ちにアメリカ国内には怒りの声が充満しました。日本の仕打ちはそれだけではありませんでした。
アメリカは満洲問題について、日本に特別の立場を認めるという「対日不干渉誓約」を取り付けられたのです。(1908・明治四十一年)。
そして、怒りを秘めたアメリカが計画した鉄道建設計画(錦州〜愛琿間)を、なんとロシアと協調して中止させたのでした(1909・明治四十二年)。
すでに見てきたように、このような日本の行動は、米英と世界のユダヤ社会の深い不信感を買うものでした。
これは権威をかるつもりはありませんが、知遇を得ていた杉原千畝氏の慨嘆に拠っています。
杉原千畝氏は1941(昭和十六)年5月、ドイツにあって独ソ開戦近しとの情報を日本外務省に入れるものの、当時の外務省主流の忌避に触れ、リストラの形で外務省を追われたお方です。終戦の後にユダヤ人へのビザ発給を咎められたというのは誤解です。
桂・ハリマン協定の日本の裏切りが日本の運命の狂いの岐路だったと、述懐されたことがありました。同席者は亀山一二氏でした。氏は日米開戦時の外務省大臣官房電信課長でした。不意討ちだったのか、と聞く若輩の私に「国策に騙し討ちはない・・・陛下の前だよ・・・」と笑っておられたものです。・・・・
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若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
日露戦争が日本勝利の形で終わりました。日本将兵の勇戦はもとよりですが、勝利は米英の日本支援の賜物でした。帝国主義の当時にあって、戦争に国際的な干渉はつきものです。十年前の日清戦争の時に、日本の指導者たちは予期以上の三国干渉に慌てふためき、そして臥薪嘗胆を合言葉に、干渉に膝を屈しました。
日露戦争に干渉する列強はいないと、日本の指導者たちは考えたようです。なぜなら、日本の背後には米英がついていたからです。本当に伊藤博文たちがそのように考えたとしたなら、伊藤老いたりと言うしかないのが残念です。
重ねて言いますがこうした時、干渉は米英から来るものです。ポーツマス講和条約が成立しそうになったと同時にハリマンが来日しました。そして、桂・ハリマン協定が明治天皇の内意を得て成立したのです。しかし、小村寿太郎外相はこの協定という仮条約を一方的に破棄しました。日本の仕打ちにアメリカ国内には怒りの声が充満しました。日本の仕打ちはそれだけではありませんでした。
アメリカは満洲問題について、日本に特別の立場を認めるという「対日不干渉誓約」を取り付けられたのです。(1908・明治四十一年)。
そして、怒りを秘めたアメリカが計画した鉄道建設計画(錦州〜愛琿間)を、なんとロシアと協調して中止させたのでした(1909・明治四十二年)。
すでに見てきたように、このような日本の行動は、米英と世界のユダヤ社会の深い不信感を買うものでした。
これは権威をかるつもりはありませんが、知遇を得ていた杉原千畝氏の慨嘆に拠っています。
杉原千畝氏は1941(昭和十六)年5月、ドイツにあって独ソ開戦近しとの情報を日本外務省に入れるものの、当時の外務省主流の忌避に触れ、リストラの形で外務省を追われたお方です。終戦の後にユダヤ人へのビザ発給を咎められたというのは誤解です。
桂・ハリマン協定の日本の裏切りが日本の運命の狂いの岐路だったと、述懐されたことがありました。同席者は亀山一二氏でした。氏は日米開戦時の外務省大臣官房電信課長でした。不意討ちだったのか、と聞く若輩の私に「国策に騙し討ちはない・・・陛下の前だよ・・・」と笑っておられたものです。・・・・
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2008年05月14日
知ってはならない歴史13
支那事変の発端は「西安事件」
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
1937(昭和十二)年7月7日に響いた一発の銃声があの支那事変を引き起した、という戦争理解が日本人の常識化しています。まことに困った知性の混乱と言わねばなりません。
支那事変の発端は西安事件にほかなりません。・・・・当時から日本人はこの事件を軽視はしなかったものの、おそるべき意味については無理解だったというしかありません。今日までこの無理解は尾を引いています。囲碁に例えれば、この一手の意味が理解できずにへぼな手を連発して敗けたようなものです。支那事変は西安事件こそが開戦の起点なのです。
西安事件は1936(昭和十一)年12月12日に起きました。部下の張学良が蒋介石を監禁し、共産党に引き渡したという事件でした。毛沢東たちは狂喜し処刑しようとしますが、スターリンは許しませんでした。・・・要するにコミンテルンの方針に従い蒋介石をして対日戦争遂行の駒にしたのです。コミンテルンと中国共産党は蒋介石と日本の戦争の実現を希求し、1932(昭和七)年4月26日には中国共産党と中国ソビエト政府は「対日戦線布告文」を、そして重ねて1934(昭和九)年には「対日作戦宣言」「対日作戦基本綱領」を発表していました。中国共産党は盧溝橋事件の五年も前から、日中の戦争を宣言していたのです。日中両国の運命に深く関わるのが1928(昭和三)年のコミンテルン第六回大会の決定でした。主な方針は次の三つです。
一、自国の敗北を助成すること。
二、帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること。
三、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
次の1935(昭和十)年のコミンテルン第七回大会はさらに「人民戦線戦術」を決議し、共産党は表に出ないで「民主勢力を利用して反ファシズム人民戦線(フロント)を結成する」という戦術に全力をあげていたのでした。
このコミンテルン決議以来、共産主義者は一斉にフロントに潜りました。共産主義者の姿は消えました。自由主義者か共産主義者かの区別がつかなくなりました。尾崎秀実とゾルゲ・グループの結成も1934(昭和九)年です。日本にも一斉に各種のフロントが作られました。盧溝橋事件発生の時の首相は近衛文麿でしたが、近衛文麿の顧問は首相官邸に一室を構えた尾崎秀実でした。・・・
さて西安事件です。12日の蒋介石逮捕の後、スターリンは殺すなと厳命し、周恩来が飛来し、張学良・蒋介石との間に第二次国共合作(人民戦線そのもの)の秘密協定が成立しました。・・・・
西安で蒋介石は日本との即時全面戦争を約束させられたのです。そして釈放されました。盧溝橋などの小競り合いを約束したのではありません。二十九軍という中国軍の副参謀長・張克侠(共産党員)は、北京周辺に散り駐屯していた日本軍への攻撃計画を策定していました。盧溝橋事件はその一部です。この攻撃の作戦計画案が、日本軍によって後日になって没収されています。・・・・
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若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
1937(昭和十二)年7月7日に響いた一発の銃声があの支那事変を引き起した、という戦争理解が日本人の常識化しています。まことに困った知性の混乱と言わねばなりません。
支那事変の発端は西安事件にほかなりません。・・・・当時から日本人はこの事件を軽視はしなかったものの、おそるべき意味については無理解だったというしかありません。今日までこの無理解は尾を引いています。囲碁に例えれば、この一手の意味が理解できずにへぼな手を連発して敗けたようなものです。支那事変は西安事件こそが開戦の起点なのです。
西安事件は1936(昭和十一)年12月12日に起きました。部下の張学良が蒋介石を監禁し、共産党に引き渡したという事件でした。毛沢東たちは狂喜し処刑しようとしますが、スターリンは許しませんでした。・・・要するにコミンテルンの方針に従い蒋介石をして対日戦争遂行の駒にしたのです。コミンテルンと中国共産党は蒋介石と日本の戦争の実現を希求し、1932(昭和七)年4月26日には中国共産党と中国ソビエト政府は「対日戦線布告文」を、そして重ねて1934(昭和九)年には「対日作戦宣言」「対日作戦基本綱領」を発表していました。中国共産党は盧溝橋事件の五年も前から、日中の戦争を宣言していたのです。日中両国の運命に深く関わるのが1928(昭和三)年のコミンテルン第六回大会の決定でした。主な方針は次の三つです。
一、自国の敗北を助成すること。
二、帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること。
三、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
次の1935(昭和十)年のコミンテルン第七回大会はさらに「人民戦線戦術」を決議し、共産党は表に出ないで「民主勢力を利用して反ファシズム人民戦線(フロント)を結成する」という戦術に全力をあげていたのでした。
このコミンテルン決議以来、共産主義者は一斉にフロントに潜りました。共産主義者の姿は消えました。自由主義者か共産主義者かの区別がつかなくなりました。尾崎秀実とゾルゲ・グループの結成も1934(昭和九)年です。日本にも一斉に各種のフロントが作られました。盧溝橋事件発生の時の首相は近衛文麿でしたが、近衛文麿の顧問は首相官邸に一室を構えた尾崎秀実でした。・・・
さて西安事件です。12日の蒋介石逮捕の後、スターリンは殺すなと厳命し、周恩来が飛来し、張学良・蒋介石との間に第二次国共合作(人民戦線そのもの)の秘密協定が成立しました。・・・・
西安で蒋介石は日本との即時全面戦争を約束させられたのです。そして釈放されました。盧溝橋などの小競り合いを約束したのではありません。二十九軍という中国軍の副参謀長・張克侠(共産党員)は、北京周辺に散り駐屯していた日本軍への攻撃計画を策定していました。盧溝橋事件はその一部です。この攻撃の作戦計画案が、日本軍によって後日になって没収されています。・・・・
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2008年05月13日
知ってはならない歴史12
日本嫌悪と村山談話
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
村山富市という社会党委員長、そして首相がいました。土井たか子という元社会党委員長が当時の衆議院議長でした。このご両人が主役になって、1995年(平成七・終戦五十年目)の6月9日(金)、衆議院では「国会での謝罪決議」がなされようとしていました。提案者は村山首相、議長は土井です。議場は緊迫していたようです。与野党とも分裂投票になる模様で、そして多くの議員は、決議は採択されないだろうと思っていたようです。
折から本日は採択しないとの「通知」があり、多くの議員が退席しました。金曜日ですから選挙区に帰る議員が多かったのです。ところが反対派の議員が退席したのを見計らったかのように、土井議長は会議再開のベルを鳴らしました。
午後七時五十三分、山崎拓氏らが提案し、アッと言う間に「可決」し、五十九分に散会しています。二百六十五名の欠席者を出したまま、賛成二百三十名で「謝罪決議」は「採択」されました。議員数は五百九名だったので、定足数に満たないままの強行「採択」でした。
首相や議長が日本国家を謝罪させようとした政策は、定足数にすら満たない議場での「採択」でした。そこで次に首相は、日本国総理大臣が謝罪するという挙に出ました。・・・・
大学の談話室でのことです。中国人の教授が私に話しかけてきました。「日本の裁判所は『南京大虐殺』を認めているのに、なぜ先生は否定するのか」と言うのです。彼は1999年(平成十一)年9月22日の判決で東京地裁は「南京大虐殺」を認めていると言い張り、私に食らいつくわけです。少し解説が要るかもしれません。
これは「南京大虐殺」事件の被害者を名乗る十余名の中国人が、総額十億円余の損害賠償を求めて日本政府を被告として請求していた事件です。裁判所は「国際法上、個人が直接に外国に対して戦争被害の損害賠償を請求することはできない」と判示した、ごく常識的なものです。つまり、原告敗訴の判決でした。
しかし、判決の「主文」は原告敗訴を言い渡したのですが、裁判官は「傍論」として自分の意見を言いました。聞きましょう。
「『南京大虐殺』と言うべき事象があったこと自体はほぼ間違いないと言うべきであり、原告(人名)はその際に日本兵による刺傷を受けたものである・・・」
つまり判決は原告の請求は斥けたけれど、「南京大虐殺」は事実として認めたわけなのです。続きを読む
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
村山富市という社会党委員長、そして首相がいました。土井たか子という元社会党委員長が当時の衆議院議長でした。このご両人が主役になって、1995年(平成七・終戦五十年目)の6月9日(金)、衆議院では「国会での謝罪決議」がなされようとしていました。提案者は村山首相、議長は土井です。議場は緊迫していたようです。与野党とも分裂投票になる模様で、そして多くの議員は、決議は採択されないだろうと思っていたようです。
折から本日は採択しないとの「通知」があり、多くの議員が退席しました。金曜日ですから選挙区に帰る議員が多かったのです。ところが反対派の議員が退席したのを見計らったかのように、土井議長は会議再開のベルを鳴らしました。
午後七時五十三分、山崎拓氏らが提案し、アッと言う間に「可決」し、五十九分に散会しています。二百六十五名の欠席者を出したまま、賛成二百三十名で「謝罪決議」は「採択」されました。議員数は五百九名だったので、定足数に満たないままの強行「採択」でした。
首相や議長が日本国家を謝罪させようとした政策は、定足数にすら満たない議場での「採択」でした。そこで次に首相は、日本国総理大臣が謝罪するという挙に出ました。・・・・
大学の談話室でのことです。中国人の教授が私に話しかけてきました。「日本の裁判所は『南京大虐殺』を認めているのに、なぜ先生は否定するのか」と言うのです。彼は1999年(平成十一)年9月22日の判決で東京地裁は「南京大虐殺」を認めていると言い張り、私に食らいつくわけです。少し解説が要るかもしれません。
これは「南京大虐殺」事件の被害者を名乗る十余名の中国人が、総額十億円余の損害賠償を求めて日本政府を被告として請求していた事件です。裁判所は「国際法上、個人が直接に外国に対して戦争被害の損害賠償を請求することはできない」と判示した、ごく常識的なものです。つまり、原告敗訴の判決でした。
しかし、判決の「主文」は原告敗訴を言い渡したのですが、裁判官は「傍論」として自分の意見を言いました。聞きましょう。
「『南京大虐殺』と言うべき事象があったこと自体はほぼ間違いないと言うべきであり、原告(人名)はその際に日本兵による刺傷を受けたものである・・・」
つまり判決は原告の請求は斥けたけれど、「南京大虐殺」は事実として認めたわけなのです。続きを読む
2008年05月12日
知ってはならない歴史11
歴史の敗北者と国の衰滅
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
私は高校教師の時、世界史の授業は「大航海時代」から始めました。古代から始めるよりも、現代に関係事項の多いこの時代から始める方が便利だったからです。
同類はいろいろあるようですが、ヨーロッパ人の冗談を紹介しました。
「イギリスを自慢しているやつはイギリス人だ。ドイツの悪口を言っているやつはフランス人だ。スペインの悪口を言っているやつはスペイン人に決まっている」
この冗談の主役はスペイン人です。
あのスペイン(イスパニア)大帝国はなぜ衰弱・没落したのか。
それは、スペイン人が自国を悪く言うようになったからです。悪く言う、つまり自国を悪く考えるようになってからイスパニア大帝国は衰滅に至りました。
誰がスペインを悪く言ったのでしょうか。
イギリスやオランダです。この両国はスペインの後輩国です。イギリスやオランダが植民地でいかに酷いことをしたかは、今では広く知られています。殺されたアメリカ原住民やインドネシア人のその数を知る人はいません。
同じことをスペインもやった「だけ」です。しかし、スペインは敗けました。悪口合戦に敗けたスペインは、歴史の敗北者になり果てました。つまりスペイン人たちはスペインの歴史に自信が持てなくなっていったのです。悪逆非道の国・虐殺の国・異端虐殺の国・暗黒の帝国・狂言の支配する国・・・無数の悪口がスペインに浴びせられました。
プロパガンダ(宣伝)合戦に敗北したスペイン人は、国民的に元気を失い歴史の敗北者にさせられました。自信を喪失し自己嫌悪に苦しみ、自虐に親しみ、寂しく自国を嘲笑する国民には衰滅しか道はありません。
スペイン衰滅に大きな力を発揮した一冊のパンフレットがあります。司教のバルトロス・デ・ラス・カロスの書いた『インディアスの破壊について簡素な報告』というのがそれです。岩波文庫にもあります。こんな調子です。
「・・・彼ら(スペイン人)は村々に押し入り・・・老いも若きも身重の女もことごとく捕え・・・引き裂きずたずたにした」
「彼らは誰が一太刀で身体を真っ二つに斬れるとか、誰が一撃のもとで首を斬り落とせるかとか賭けをした」
「ようやく足が地に着く程度の絞首台をつくり、十三人ずつ吊るし・・・生きたまま火をつけた・・・」
念のために言い添えますが、これは例の「南京大虐殺」の一節ではありません。このカロスのパンフレットは、敵に徹底的に利用されました。空想で描いた残虐な場面の銅版画とともに流布されました。この銅版画は日本の高校生の持たされる教科書・参考書にも載せられています。
イギリスが大英帝国として興隆していく過程で、スペイン帝国が衰滅していきました。科学技術や人文地理的分野からの考察はむろん必要ですが、国民国家の発展・衰滅の土台にはエトス(国民精神)の盛衰が基盤なのです。
続きを読む
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
私は高校教師の時、世界史の授業は「大航海時代」から始めました。古代から始めるよりも、現代に関係事項の多いこの時代から始める方が便利だったからです。
同類はいろいろあるようですが、ヨーロッパ人の冗談を紹介しました。
「イギリスを自慢しているやつはイギリス人だ。ドイツの悪口を言っているやつはフランス人だ。スペインの悪口を言っているやつはスペイン人に決まっている」
この冗談の主役はスペイン人です。
あのスペイン(イスパニア)大帝国はなぜ衰弱・没落したのか。
それは、スペイン人が自国を悪く言うようになったからです。悪く言う、つまり自国を悪く考えるようになってからイスパニア大帝国は衰滅に至りました。
誰がスペインを悪く言ったのでしょうか。
イギリスやオランダです。この両国はスペインの後輩国です。イギリスやオランダが植民地でいかに酷いことをしたかは、今では広く知られています。殺されたアメリカ原住民やインドネシア人のその数を知る人はいません。
同じことをスペインもやった「だけ」です。しかし、スペインは敗けました。悪口合戦に敗けたスペインは、歴史の敗北者になり果てました。つまりスペイン人たちはスペインの歴史に自信が持てなくなっていったのです。悪逆非道の国・虐殺の国・異端虐殺の国・暗黒の帝国・狂言の支配する国・・・無数の悪口がスペインに浴びせられました。
プロパガンダ(宣伝)合戦に敗北したスペイン人は、国民的に元気を失い歴史の敗北者にさせられました。自信を喪失し自己嫌悪に苦しみ、自虐に親しみ、寂しく自国を嘲笑する国民には衰滅しか道はありません。
スペイン衰滅に大きな力を発揮した一冊のパンフレットがあります。司教のバルトロス・デ・ラス・カロスの書いた『インディアスの破壊について簡素な報告』というのがそれです。岩波文庫にもあります。こんな調子です。
「・・・彼ら(スペイン人)は村々に押し入り・・・老いも若きも身重の女もことごとく捕え・・・引き裂きずたずたにした」
「彼らは誰が一太刀で身体を真っ二つに斬れるとか、誰が一撃のもとで首を斬り落とせるかとか賭けをした」
「ようやく足が地に着く程度の絞首台をつくり、十三人ずつ吊るし・・・生きたまま火をつけた・・・」
念のために言い添えますが、これは例の「南京大虐殺」の一節ではありません。このカロスのパンフレットは、敵に徹底的に利用されました。空想で描いた残虐な場面の銅版画とともに流布されました。この銅版画は日本の高校生の持たされる教科書・参考書にも載せられています。
イギリスが大英帝国として興隆していく過程で、スペイン帝国が衰滅していきました。科学技術や人文地理的分野からの考察はむろん必要ですが、国民国家の発展・衰滅の土台にはエトス(国民精神)の盛衰が基盤なのです。
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2008年05月09日
知ってはならない歴史10
歴史認識と国家の命運
ここからは若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。

引用開始
1990年代の後半、アメリカで立て続けに起された訴訟での対日本の請求総額はなんと百兆円に達していました。(被告日本企業二十八社・・・原告は大戦中の米元捕虜・在米中国人・韓国人・・・戦時中の強制労働等を理由とした損害賠償請求訴訟)。
2003(平成十五)年一月、米連邦高裁はサンフランシスコ講和条約によって賠償問題は解決済みとの理由で、カリフォルニア州地裁判決を破棄すると判決しました。この判決によって、二十八社の日本企業への請求は破棄されたが、実に危ういことでした。
私は末端の一部を支えたに過ぎませんが、歴史認識がいかに国家の命運と深く係わっているかを身にしみて痛感しました。
原告たちは連邦最高裁に上告しましたが、棄却が確定しました(2006年7月)。
展開いかんでは、日本を代表する企業群は存亡の危機にさらされていました。百兆円もの賠償に耐えられる企業は、存在しません。
日本人は歴史認識の切実さを改めて知るべきです。・・・。
歴史偽造の一例
1914(大正三)年6月28日、オーストリアの皇太子夫妻が暗殺されました。第一次世界大戦の発端となった有名な事件です。
高校の全ての教科書が、犯人は「セルビアの民族主義者の一青年」であり、そしてこの事件(サラエボ事件)の銃声が悲惨な世界大戦のきっかけになったと説明しています。
これは歴史の偽造なのです。
三人の犯人たちは共産主義者でした。彼らのテロの目標は世界大戦の惹起であり、「帝国主義戦争を内乱へ、内乱から革命へ」(レーニン『国家と革命』)への実践にありました。つまりは、1917(大正六)年のロシア革命の第一幕がサラエボ事件だったのです。彼らはトロツキーやレーニンらに心酔した共産主義者たちです。
三人のテロリストを背後で支援していたのはセルビア陸軍の青年将校たちであり、彼らはロシアの革命派と気脈を通じ合わせていました。
この軍人たちは、1903(明治三十六)年にクーデターを起し、セルビアの国王・王妃・閣僚らを殺し権力を握っています。だから当時のセルビアは、ヨーロッパ世界では最も急進的な革命政権と目されていたのです。
彼らに支援されたテロリストが、オーストリアの皇太子夫妻を殺害しました。だからオーストリア帝国はセルビアに宣戦布告をします。セルビアを支援してロシア帝国が、オーストリア帝国に宣戦布告しました。オーストリア帝国を支援して、ドイツ帝国がロシア帝国に宣戦布告しました。ロシア帝国を支援して英仏両国が参戦し、米も日本も参戦しました。世界大戦となるのです。大成功です。
続きを読む
ここからは若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」の続編をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。

引用開始
1990年代の後半、アメリカで立て続けに起された訴訟での対日本の請求総額はなんと百兆円に達していました。(被告日本企業二十八社・・・原告は大戦中の米元捕虜・在米中国人・韓国人・・・戦時中の強制労働等を理由とした損害賠償請求訴訟)。
2003(平成十五)年一月、米連邦高裁はサンフランシスコ講和条約によって賠償問題は解決済みとの理由で、カリフォルニア州地裁判決を破棄すると判決しました。この判決によって、二十八社の日本企業への請求は破棄されたが、実に危ういことでした。
私は末端の一部を支えたに過ぎませんが、歴史認識がいかに国家の命運と深く係わっているかを身にしみて痛感しました。
原告たちは連邦最高裁に上告しましたが、棄却が確定しました(2006年7月)。
展開いかんでは、日本を代表する企業群は存亡の危機にさらされていました。百兆円もの賠償に耐えられる企業は、存在しません。
日本人は歴史認識の切実さを改めて知るべきです。・・・。
歴史偽造の一例
1914(大正三)年6月28日、オーストリアの皇太子夫妻が暗殺されました。第一次世界大戦の発端となった有名な事件です。
高校の全ての教科書が、犯人は「セルビアの民族主義者の一青年」であり、そしてこの事件(サラエボ事件)の銃声が悲惨な世界大戦のきっかけになったと説明しています。
これは歴史の偽造なのです。
三人の犯人たちは共産主義者でした。彼らのテロの目標は世界大戦の惹起であり、「帝国主義戦争を内乱へ、内乱から革命へ」(レーニン『国家と革命』)への実践にありました。つまりは、1917(大正六)年のロシア革命の第一幕がサラエボ事件だったのです。彼らはトロツキーやレーニンらに心酔した共産主義者たちです。
三人のテロリストを背後で支援していたのはセルビア陸軍の青年将校たちであり、彼らはロシアの革命派と気脈を通じ合わせていました。
この軍人たちは、1903(明治三十六)年にクーデターを起し、セルビアの国王・王妃・閣僚らを殺し権力を握っています。だから当時のセルビアは、ヨーロッパ世界では最も急進的な革命政権と目されていたのです。
彼らに支援されたテロリストが、オーストリアの皇太子夫妻を殺害しました。だからオーストリア帝国はセルビアに宣戦布告をします。セルビアを支援してロシア帝国が、オーストリア帝国に宣戦布告しました。オーストリア帝国を支援して、ドイツ帝国がロシア帝国に宣戦布告しました。ロシア帝国を支援して英仏両国が参戦し、米も日本も参戦しました。世界大戦となるのです。大成功です。
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2008年05月08日
知ってはならない歴史9
朝鮮植民地化のウソ
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
前掲の教科書(『世界の歴史』山川出版社)を引こう。
「経済的にもまだ弱い日本が、二十世紀はじめ帝国主義諸国の仲間にはいれたのは、日本が天皇制のもとで強力な軍備を保持し、また当時列強の分割競争のおもな舞台であった中国にもっとも近く位置して、ここに大兵力をすばやく送れる有利な条件をもっていたことによる。たとえば義和団事件で列強が中国へ出兵したとき、ここに一カ月以内に一万の大軍(連合軍総数二万弱のうち)を送れたのは日本だけで、結局、日本は義和団鎮圧の主力になった。こうして日本は東アジアで帝国主義列強の利益を守る「憲兵」の役割をはたしながら軍事的・経済的大国に成長したのであった」
ここにはウソが書かれている。義和団事件のときに、十余万の大軍を満州に駐屯させていたのは、ロシアである。ロシアは思惑から、満州の大軍を救援に用いなかっただけである。
動かないロシア軍の思惑を警戒していた英仏などは、日本に球援軍の派遣を懇請したのであった。日本は四回の正式要請に接して、第五師団の派遣を行ったものである。連合軍二万弱は天津から北京に入城に成功した。確かに、日本軍が半数以上を占めていたが、ロシアは義和団事件を機に満州に大軍を送り続け、満洲全土をほぼ占領することに成功したのであった。・・・
ロシアは北京の外交使節団全滅は秘かに期するところだったのである。なぜなら、義和団を清朝は利用するだけでなく、自らも国軍を動かし、排外の軍事行動に出ていたからである。ロシアは清国の国軍との交戦を欲しなかったし、密約もあった(露清密約)。
ロシアの思惑はこの限りでは、成功した。満州の占領が成功したからである。
義和団事変議定書は、清国は賠償金約五千万両(テール)を連合軍十一カ国に支払い、十二箇所に外国軍隊の駐屯を認めた。この議定書に基いて、日本は諸外国とともに支那駐屯軍を置くにいたったのである。議定書の成立は1901年9月である。日露戦争の三年前である。このときからの支那駐屯軍が、盧溝橋事件に遭遇するのだが、これが昭和十二年七月七日のことである(正確には七月八日が正しい)。
満州が占領され、朝鮮にロシアの軍事基地が構築されるにいたり、日露戦争が勃発した。
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若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
前掲の教科書(『世界の歴史』山川出版社)を引こう。
「経済的にもまだ弱い日本が、二十世紀はじめ帝国主義諸国の仲間にはいれたのは、日本が天皇制のもとで強力な軍備を保持し、また当時列強の分割競争のおもな舞台であった中国にもっとも近く位置して、ここに大兵力をすばやく送れる有利な条件をもっていたことによる。たとえば義和団事件で列強が中国へ出兵したとき、ここに一カ月以内に一万の大軍(連合軍総数二万弱のうち)を送れたのは日本だけで、結局、日本は義和団鎮圧の主力になった。こうして日本は東アジアで帝国主義列強の利益を守る「憲兵」の役割をはたしながら軍事的・経済的大国に成長したのであった」
ここにはウソが書かれている。義和団事件のときに、十余万の大軍を満州に駐屯させていたのは、ロシアである。ロシアは思惑から、満州の大軍を救援に用いなかっただけである。
動かないロシア軍の思惑を警戒していた英仏などは、日本に球援軍の派遣を懇請したのであった。日本は四回の正式要請に接して、第五師団の派遣を行ったものである。連合軍二万弱は天津から北京に入城に成功した。確かに、日本軍が半数以上を占めていたが、ロシアは義和団事件を機に満州に大軍を送り続け、満洲全土をほぼ占領することに成功したのであった。・・・
ロシアは北京の外交使節団全滅は秘かに期するところだったのである。なぜなら、義和団を清朝は利用するだけでなく、自らも国軍を動かし、排外の軍事行動に出ていたからである。ロシアは清国の国軍との交戦を欲しなかったし、密約もあった(露清密約)。
ロシアの思惑はこの限りでは、成功した。満州の占領が成功したからである。
義和団事変議定書は、清国は賠償金約五千万両(テール)を連合軍十一カ国に支払い、十二箇所に外国軍隊の駐屯を認めた。この議定書に基いて、日本は諸外国とともに支那駐屯軍を置くにいたったのである。議定書の成立は1901年9月である。日露戦争の三年前である。このときからの支那駐屯軍が、盧溝橋事件に遭遇するのだが、これが昭和十二年七月七日のことである(正確には七月八日が正しい)。
満州が占領され、朝鮮にロシアの軍事基地が構築されるにいたり、日露戦争が勃発した。
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2008年05月07日
知ってはならない歴史8
日露戦争直接の原因
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
日露戦争の直接の原因は、ロシアの満洲・朝鮮への侵略である。日本はロシアの攻勢の終末点が日本にあることを知り、朝鮮が完全にロシア支配に落ち、満州のロシア軍の戦備完整(「完整」という日本軍の用語を用いる)の直前に日本は開戦を決定した。
文字通り国の存亡を賭けた一戦である。敗北したら、日本は滅びるしかないことを国民は自覚していた。このとき、大韓帝国も清国も日本の味方ではなかった。日本の頼みは英米の後援である。ロシアには清国の他に、仏独の後援があった。
ところで、満州はなぜロシアの支配下になったのか。それは露清密約の結果である。1896年(日清戦争終結の翌年)、ロシアの新皇帝ニコライ二世の戴冠式に出席した李鴻章は、大歓迎を受けるとともにウィッテから迫られ、攻守同盟を密約した。
主な内容は次の通りである
一、日本に対して、露清の相互援助
二、満洲でのロシアの鉄道敷設権の承認
三、鉄道の軍事利用権の承認
四、露清銀行の設立
五、東清(支)鉄道株式会社の設立
六、同社の土地と収入は無税、社有地内の絶対的な行政権
これは三国干渉の代価であるが、ドイツは山東半島の租借と膠州湾の九十九年の租借権、フランスは広州湾(広東)の租借地権(九十九年)を獲得した。対抗してイギリスは威海衛を租借地とした。
これは清国の以夷制夷の術策が完全に裏目に出た結果であったが、日本は露清密約の存在について、1922年のワシントン会議で中華民国が暴露するまでは知らないでいた。
これが満洲事変の要因のひとつとなるのだが、清国の半植民地化は自ら招いた結果と言うしかない。
別の観点から言えば、朝鮮半島の独立をめぐる日本との対立に端を発して、日清戦争に敗北するや三国干渉を導入して、ついには清国は独立国の実質を失うはめに陥ってしまうのである。そして、朝鮮はロシアの支配下におかれることになり、日露戦争を呼び込むことになるのだが、これらの経過を見るに東アジアの風雲は朝鮮半島の動向に左右されることを百年後の今日も教えている。
言葉を継ぐが、朝鮮半島の動向は日本には死活的である。大陸の勢力が朝鮮半島を制圧したら、この勢力は日本には直接の脅威となることは、元寇の例を引くまでもなく日本人には防衛本能的な常識であった(ある)。だから、十年前には国の運命を賭して日清戦争を戦ったのである。しかし、日本のこの常識はこの時期から痴れ始めていた。
清国がもし朝鮮の独立を認め、朝鮮の開化と近代化を認めていたなら、日清戦争はなかった。歴史に「たら」「イフ」はないが「大陸・半島・島国」のこの原理は、今日でも生きている。朝鮮半島をソ連が支配しようとしたとたんに、朝鮮戦争が起こった。マッカーサーをはじめアメリカ人は、日本が日清戦争以来、大陸で何を相手に頑張っていたのかを初めて理解したのである。
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若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
日露戦争の直接の原因は、ロシアの満洲・朝鮮への侵略である。日本はロシアの攻勢の終末点が日本にあることを知り、朝鮮が完全にロシア支配に落ち、満州のロシア軍の戦備完整(「完整」という日本軍の用語を用いる)の直前に日本は開戦を決定した。
文字通り国の存亡を賭けた一戦である。敗北したら、日本は滅びるしかないことを国民は自覚していた。このとき、大韓帝国も清国も日本の味方ではなかった。日本の頼みは英米の後援である。ロシアには清国の他に、仏独の後援があった。
ところで、満州はなぜロシアの支配下になったのか。それは露清密約の結果である。1896年(日清戦争終結の翌年)、ロシアの新皇帝ニコライ二世の戴冠式に出席した李鴻章は、大歓迎を受けるとともにウィッテから迫られ、攻守同盟を密約した。
主な内容は次の通りである
一、日本に対して、露清の相互援助
二、満洲でのロシアの鉄道敷設権の承認
三、鉄道の軍事利用権の承認
四、露清銀行の設立
五、東清(支)鉄道株式会社の設立
六、同社の土地と収入は無税、社有地内の絶対的な行政権
これは三国干渉の代価であるが、ドイツは山東半島の租借と膠州湾の九十九年の租借権、フランスは広州湾(広東)の租借地権(九十九年)を獲得した。対抗してイギリスは威海衛を租借地とした。
これは清国の以夷制夷の術策が完全に裏目に出た結果であったが、日本は露清密約の存在について、1922年のワシントン会議で中華民国が暴露するまでは知らないでいた。
これが満洲事変の要因のひとつとなるのだが、清国の半植民地化は自ら招いた結果と言うしかない。
別の観点から言えば、朝鮮半島の独立をめぐる日本との対立に端を発して、日清戦争に敗北するや三国干渉を導入して、ついには清国は独立国の実質を失うはめに陥ってしまうのである。そして、朝鮮はロシアの支配下におかれることになり、日露戦争を呼び込むことになるのだが、これらの経過を見るに東アジアの風雲は朝鮮半島の動向に左右されることを百年後の今日も教えている。
言葉を継ぐが、朝鮮半島の動向は日本には死活的である。大陸の勢力が朝鮮半島を制圧したら、この勢力は日本には直接の脅威となることは、元寇の例を引くまでもなく日本人には防衛本能的な常識であった(ある)。だから、十年前には国の運命を賭して日清戦争を戦ったのである。しかし、日本のこの常識はこの時期から痴れ始めていた。
清国がもし朝鮮の独立を認め、朝鮮の開化と近代化を認めていたなら、日清戦争はなかった。歴史に「たら」「イフ」はないが「大陸・半島・島国」のこの原理は、今日でも生きている。朝鮮半島をソ連が支配しようとしたとたんに、朝鮮戦争が起こった。マッカーサーをはじめアメリカ人は、日本が日清戦争以来、大陸で何を相手に頑張っていたのかを初めて理解したのである。
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2008年05月02日
知ってはならない歴史7
日清戦争と三国干渉
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
1894(明治二十七)年、いわゆる「東学党の乱」が起った。「東学」党は「人乃(すなわち)天」の平等主義を掲げ李朝の打倒を民衆に呼びかけた。鎮圧に派遣された政府軍は敗北し、全羅道は東学党の制圧するところとなった。狼狽した李朝は清に救援を求めた。清国の北洋軍が派遣され、日本も出兵した。日清戦争の勃発である。
開戦前、清国は日本を完全に侮っていた。だが、結果は清国軍の連戦連敗、完敗であった。清国は意外な敗戦に呆然自失した。ある清国の軍人は敗因を、整然とした散兵線(戦)のできる日本軍と、それができない清国軍との差に求めたりしている。
日本軍は国民軍だが、清国軍は王朝軍でしかなかった。拉夫という言葉は日本人は知らないが、清国兵の多数はこの拉夫から成っていた。兵士にするために若い男を「拉致」して、兵隊に仕立て上げるのである。支那の諺に「良い鉄は釘にならない」というのがあるが、兵に良民なしとも言った。
散兵したら兵隊は文字通り散っていなくなるのである。だから、兵隊は常に団塊の状態で督戦隊の監視下で戦わされたのである。逃げる者は射殺である。砲撃には特に被害が大きい。だから散兵線なのにである。
日本軍の「とっかーん」の掛け声は、清国軍には恐怖の声だったと諸書は伝えている。「とっかーん」は突貫だが、一方で日本兵は大陸の戦争文化に大きな衝撃を受けている。例になく頑強に抵抗する清国軍の陣地を攻略した日本の兵士は、足を鎖で縛られた清国兵士の戦死体を見て、思わず泣いたという。
また捕らわれた日本兵が虐殺されているのを見て、捕虜の運命を知ったという。日本人には食人(カニバリズム)の習慣はないが、喰われた仲間の骸に激昂し捕虜にだけはなるまいと心に誓ったのである。精強な日本軍というのは、脅迫観念の産物という一面がある。
日清戦争は日本人に大陸の生死の苛烈さを教えた。人を信じることは、死に直ちに結び付くことを学び、日本人は緊張した。日清戦争は日本人の大陸経験の始まりであった。
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若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
1894(明治二十七)年、いわゆる「東学党の乱」が起った。「東学」党は「人乃(すなわち)天」の平等主義を掲げ李朝の打倒を民衆に呼びかけた。鎮圧に派遣された政府軍は敗北し、全羅道は東学党の制圧するところとなった。狼狽した李朝は清に救援を求めた。清国の北洋軍が派遣され、日本も出兵した。日清戦争の勃発である。
開戦前、清国は日本を完全に侮っていた。だが、結果は清国軍の連戦連敗、完敗であった。清国は意外な敗戦に呆然自失した。ある清国の軍人は敗因を、整然とした散兵線(戦)のできる日本軍と、それができない清国軍との差に求めたりしている。
日本軍は国民軍だが、清国軍は王朝軍でしかなかった。拉夫という言葉は日本人は知らないが、清国兵の多数はこの拉夫から成っていた。兵士にするために若い男を「拉致」して、兵隊に仕立て上げるのである。支那の諺に「良い鉄は釘にならない」というのがあるが、兵に良民なしとも言った。
散兵したら兵隊は文字通り散っていなくなるのである。だから、兵隊は常に団塊の状態で督戦隊の監視下で戦わされたのである。逃げる者は射殺である。砲撃には特に被害が大きい。だから散兵線なのにである。
日本軍の「とっかーん」の掛け声は、清国軍には恐怖の声だったと諸書は伝えている。「とっかーん」は突貫だが、一方で日本兵は大陸の戦争文化に大きな衝撃を受けている。例になく頑強に抵抗する清国軍の陣地を攻略した日本の兵士は、足を鎖で縛られた清国兵士の戦死体を見て、思わず泣いたという。
また捕らわれた日本兵が虐殺されているのを見て、捕虜の運命を知ったという。日本人には食人(カニバリズム)の習慣はないが、喰われた仲間の骸に激昂し捕虜にだけはなるまいと心に誓ったのである。精強な日本軍というのは、脅迫観念の産物という一面がある。
日清戦争は日本人に大陸の生死の苛烈さを教えた。人を信じることは、死に直ちに結び付くことを学び、日本人は緊張した。日清戦争は日本人の大陸経験の始まりであった。
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2008年05月01日
知ってはならない歴史6
劣情日本人に握られている歴史教科書
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
日本の歴史教科書は悲惨である。日本の国民を育てる教育ではなく、日本の「罪悪史」をでたらめに教え込み、日本を嫌い憎む日本人を育てるのが、今の歴史教科書である。私は高校社会科の教師を三十八年間勤めた者である。生徒は、近現代史になると、ため息をついて、言う。詰問口調のときもある。
「先生! また日本の悪口の時間ですか?」
「先生なら違うやろ・・・?」
歴史教育はイデオロギー教育ではない。それなのに、生徒たちは中学校までに十分にイデオロギー教育の洗礼を受けてきている。経験的に間違いないのはこの二十年間、正確を期して言うと、この十五年間に急速に生徒の詰問が増えた。「教科書問題」の発生以来、急速に生徒のため息が増えた。1982年の宮沢談話と近隣条項の誕生から、露骨に変わったのは教師用の「指導書」の中身である。生徒は教科書を持つが、教師には教科書会社が発行する「指導書」なる虎の巻がサービスされる。
この「指導書」に「検定」はないから、簡単に言えば書きたい放題である。私は準備中なのだが、「指導書」の研究書を上梓したい。教師への影響という点では、「指導書」はダイレクトである。・・・・
日本の歴史教科書は、中韓に媚びる劣情日本人に握られている。これが言い過ぎではないことは、事態を知る人ならすぐに理解されるに違いない。劣情日本人の大部分は「旧左翼」の人たちである。
日本を愛するなどという「ナショナリズム」は、国際主義の思想からみれば遅れた陋劣な心情である。日本人であること自体を反省するのを思想的課題とするのが、左翼の良心だと、彼らは確信しているのである。
「万国のプロレタリアート、団結せよ!」の国際主義の精神こそ高貴とするのが、左翼である。これが人間を左翼にするパラダイムの原点である。若者の多くが左翼になった。
だがソ連の崩壊ののち、あからさまに左翼的発言を口にすることは憚れるムードになってきた。だから、信条は隠すのである。隠蔽される信条は、劣情と化すしかない。ゆえに私製語だが、劣情日本人の語を私は用いる。続きを読む
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
日本の歴史教科書は悲惨である。日本の国民を育てる教育ではなく、日本の「罪悪史」をでたらめに教え込み、日本を嫌い憎む日本人を育てるのが、今の歴史教科書である。私は高校社会科の教師を三十八年間勤めた者である。生徒は、近現代史になると、ため息をついて、言う。詰問口調のときもある。
「先生! また日本の悪口の時間ですか?」
「先生なら違うやろ・・・?」
歴史教育はイデオロギー教育ではない。それなのに、生徒たちは中学校までに十分にイデオロギー教育の洗礼を受けてきている。経験的に間違いないのはこの二十年間、正確を期して言うと、この十五年間に急速に生徒の詰問が増えた。「教科書問題」の発生以来、急速に生徒のため息が増えた。1982年の宮沢談話と近隣条項の誕生から、露骨に変わったのは教師用の「指導書」の中身である。生徒は教科書を持つが、教師には教科書会社が発行する「指導書」なる虎の巻がサービスされる。
この「指導書」に「検定」はないから、簡単に言えば書きたい放題である。私は準備中なのだが、「指導書」の研究書を上梓したい。教師への影響という点では、「指導書」はダイレクトである。・・・・
日本の歴史教科書は、中韓に媚びる劣情日本人に握られている。これが言い過ぎではないことは、事態を知る人ならすぐに理解されるに違いない。劣情日本人の大部分は「旧左翼」の人たちである。
日本を愛するなどという「ナショナリズム」は、国際主義の思想からみれば遅れた陋劣な心情である。日本人であること自体を反省するのを思想的課題とするのが、左翼の良心だと、彼らは確信しているのである。
「万国のプロレタリアート、団結せよ!」の国際主義の精神こそ高貴とするのが、左翼である。これが人間を左翼にするパラダイムの原点である。若者の多くが左翼になった。
だがソ連の崩壊ののち、あからさまに左翼的発言を口にすることは憚れるムードになってきた。だから、信条は隠すのである。隠蔽される信条は、劣情と化すしかない。ゆえに私製語だが、劣情日本人の語を私は用いる。続きを読む
2008年04月30日
知ってはならない歴史5
韓国併合で知ってはならない歴史3
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
当時の日本でも(朝鮮との)合併に対して異論がなかったわけではない。伊藤博文は保護国論に近い立場にあった。強硬な合併論者はいても、いわゆる植民地化論者は皆無であった。これが事実である。当時の朝鮮は極度に貧しく、李朝の苛斂誅求によって国は衰亡したも同然であった。朝鮮の前には、独立の選択肢は存在していなかった。滅亡か、日本との連衡による滅亡回避かの二択しかなく、他の道はあり得なかった。これが歴史の事実である。
当時の日本に朝鮮植民地論者は皆無であった、と書いた。
植民地という以上は、コロニーとしての「うま味」がなければならない。例えば収奪の対象になり得る財貨・物産が、当時の朝鮮に存したのだろうか。
そんな物はありはしない。収奪した物を運ぶ道路はない。鉄道はない。港湾はない。橋はない。破壊されたハゲ山、堤防のない河川と、洪水の危機に曝され、野放しの農地と破壊された自然というのが、李朝支配五百年余の惨たる風景であった。
李朝の国是は「衛正斥邪」だが、この中華従属イデオロギーの自家中毒が李氏朝鮮滅亡の根本原因である。
半島が独立したのは日清戦争での清国の敗北の結果であり、下関条約第一条で朝鮮の独立が規定されてからである。にもかかわらず、朝鮮の独立を奪ったのは日本だという韓国人、朝鮮人がいることを、私は奇観だと思う。同時に、私は合併は日本の現代史上、最大の過誤であったと言わざるを得ない。
元の時代、高麗朝の貴族は競って「創氏改名」して、モンゴル式の名を名乗った。元が明に代わると、高麗の武将の李成桂は高麗朝を滅ぼし、朝鮮の国号を頂戴した。そしてさらに「創氏改名」して中華風の名乗りに変えた。
清の時代になると、清朝は満州族の王朝だから、朝鮮は明に殉じて小中華をもって任じ「衛正斥邪」を国是とした。だから、明に忠節を尽そうとした宋時烈たちの義挙もあった。だが、清軍に撃破(丙子胡乱、1636年など)されると清の忠良なる属国となった。
日本と合併ののちは、「創氏改名」を希望する者が多く、朝鮮総督府は申告制で対応した。・・・・・日本式の名乗りが多くの利便を韓国人に与えたことは事実である。支那でも、アジアでも欧米ででも、日本人として振る舞うことの利便は大きかったし、日本式の名乗りを好んだ韓国人は少なくはなかった(台湾では許可制であった)。特に支那では、ほとんどの韓国人が日本式の名乗りを用いた。
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若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
当時の日本でも(朝鮮との)合併に対して異論がなかったわけではない。伊藤博文は保護国論に近い立場にあった。強硬な合併論者はいても、いわゆる植民地化論者は皆無であった。これが事実である。当時の朝鮮は極度に貧しく、李朝の苛斂誅求によって国は衰亡したも同然であった。朝鮮の前には、独立の選択肢は存在していなかった。滅亡か、日本との連衡による滅亡回避かの二択しかなく、他の道はあり得なかった。これが歴史の事実である。
当時の日本に朝鮮植民地論者は皆無であった、と書いた。
植民地という以上は、コロニーとしての「うま味」がなければならない。例えば収奪の対象になり得る財貨・物産が、当時の朝鮮に存したのだろうか。
そんな物はありはしない。収奪した物を運ぶ道路はない。鉄道はない。港湾はない。橋はない。破壊されたハゲ山、堤防のない河川と、洪水の危機に曝され、野放しの農地と破壊された自然というのが、李朝支配五百年余の惨たる風景であった。
李朝の国是は「衛正斥邪」だが、この中華従属イデオロギーの自家中毒が李氏朝鮮滅亡の根本原因である。
半島が独立したのは日清戦争での清国の敗北の結果であり、下関条約第一条で朝鮮の独立が規定されてからである。にもかかわらず、朝鮮の独立を奪ったのは日本だという韓国人、朝鮮人がいることを、私は奇観だと思う。同時に、私は合併は日本の現代史上、最大の過誤であったと言わざるを得ない。
元の時代、高麗朝の貴族は競って「創氏改名」して、モンゴル式の名を名乗った。元が明に代わると、高麗の武将の李成桂は高麗朝を滅ぼし、朝鮮の国号を頂戴した。そしてさらに「創氏改名」して中華風の名乗りに変えた。
清の時代になると、清朝は満州族の王朝だから、朝鮮は明に殉じて小中華をもって任じ「衛正斥邪」を国是とした。だから、明に忠節を尽そうとした宋時烈たちの義挙もあった。だが、清軍に撃破(丙子胡乱、1636年など)されると清の忠良なる属国となった。
日本と合併ののちは、「創氏改名」を希望する者が多く、朝鮮総督府は申告制で対応した。・・・・・日本式の名乗りが多くの利便を韓国人に与えたことは事実である。支那でも、アジアでも欧米ででも、日本人として振る舞うことの利便は大きかったし、日本式の名乗りを好んだ韓国人は少なくはなかった(台湾では許可制であった)。特に支那では、ほとんどの韓国人が日本式の名乗りを用いた。
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2008年04月28日
知ってはならない歴史4
韓国併合で知ってはならない歴史2
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
李朝では清国の干渉を逃れるために、密かにロシアに接近する構想が練られ始めていた。1885年(明治十七年)一月に甲申事変の後始末のための漢城条約の交渉が始まると、ウラジオストックに密使が派遣された。策謀者はメレンドルフ(清国政府推薦のドイツ人外交顧問)である。
メレンドルフは謝罪使として東京を訪れているが、滞在期間の大部分をロシア公使館書記官スペールとの会談に費やしている。メレンドルフは天津条約に言う朝鮮軍隊の訓練にあたる第三国にロシアを当てようとしたのである。彼は清国の顧問官であり、清国を裏切ったようではあるが、清国もロシアを「利用」する気持を抱いていた。それは清国へのロシアの圧力を朝鮮経由で日本に充てようという以夷制夷策に出ている。
メレンドルフの提案をスペールは受諾した。
ところが、四月十八日に天津条約が締結され日清両国以外から軍事教官を招くべきことが決められると、李朝政府はアメリカから軍事教官を招くことを決定した。
六月に漢城に到着したスペールは違約を責めるが、外務督弁・金充植は不知として相手にならない。交渉は紛糾した。
こうしたなかで朝露密約の存在が暴露された。内容の要点は次のようである。
1、金玉均がウラジオストックに来れば、ロシアは逮捕して朝鮮政府に引き渡す。
2、日本への賠償金はロシアが日本政府への影響力を行使する。
3、外国が朝鮮を攻撃するときはロシア軍が相手となる。
4、朝鮮の海軍の代行をロシアが担当する。
外務督弁・金充植らがウソを言ったわけではない。ウソを言ったのではなく、李朝内部の意見の分裂が露呈されたのである。・・・・
甲申事変後の朝鮮政府内では、閔氏派は清国への服属を嫌い、もっと強大なロシア帝国の力に依存しようとする別の事大主義が力を得ていた。
・・・・朝鮮半島は、ロシアのものになると列強は見始めた。果然、イギリスが動いた。
明治十八(1885)年四月、イギリス艦隊は朝鮮半島の南端の巨文島を占領した。朝鮮海峡を扼するこの島は、ロシアの東洋艦隊の行動を同時に扼する位置を占めている。ロシアはイギリスに抗議して、巨文島の占領を続けるならば自国も朝鮮の一部を占領すると主張した。イギリスは聞かずに、砲台構築を進めた。
英露交渉は二年間にわたったが、清国の仲介で、ロシアは朝鮮を占領しないと宣言したことで、そしてこれを清国が「保証する」という了解のもとで、英国艦隊は去った。
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若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
李朝では清国の干渉を逃れるために、密かにロシアに接近する構想が練られ始めていた。1885年(明治十七年)一月に甲申事変の後始末のための漢城条約の交渉が始まると、ウラジオストックに密使が派遣された。策謀者はメレンドルフ(清国政府推薦のドイツ人外交顧問)である。
メレンドルフは謝罪使として東京を訪れているが、滞在期間の大部分をロシア公使館書記官スペールとの会談に費やしている。メレンドルフは天津条約に言う朝鮮軍隊の訓練にあたる第三国にロシアを当てようとしたのである。彼は清国の顧問官であり、清国を裏切ったようではあるが、清国もロシアを「利用」する気持を抱いていた。それは清国へのロシアの圧力を朝鮮経由で日本に充てようという以夷制夷策に出ている。
メレンドルフの提案をスペールは受諾した。
ところが、四月十八日に天津条約が締結され日清両国以外から軍事教官を招くべきことが決められると、李朝政府はアメリカから軍事教官を招くことを決定した。
六月に漢城に到着したスペールは違約を責めるが、外務督弁・金充植は不知として相手にならない。交渉は紛糾した。
こうしたなかで朝露密約の存在が暴露された。内容の要点は次のようである。
1、金玉均がウラジオストックに来れば、ロシアは逮捕して朝鮮政府に引き渡す。
2、日本への賠償金はロシアが日本政府への影響力を行使する。
3、外国が朝鮮を攻撃するときはロシア軍が相手となる。
4、朝鮮の海軍の代行をロシアが担当する。
外務督弁・金充植らがウソを言ったわけではない。ウソを言ったのではなく、李朝内部の意見の分裂が露呈されたのである。・・・・
甲申事変後の朝鮮政府内では、閔氏派は清国への服属を嫌い、もっと強大なロシア帝国の力に依存しようとする別の事大主義が力を得ていた。
・・・・朝鮮半島は、ロシアのものになると列強は見始めた。果然、イギリスが動いた。
明治十八(1885)年四月、イギリス艦隊は朝鮮半島の南端の巨文島を占領した。朝鮮海峡を扼するこの島は、ロシアの東洋艦隊の行動を同時に扼する位置を占めている。ロシアはイギリスに抗議して、巨文島の占領を続けるならば自国も朝鮮の一部を占領すると主張した。イギリスは聞かずに、砲台構築を進めた。
英露交渉は二年間にわたったが、清国の仲介で、ロシアは朝鮮を占領しないと宣言したことで、そしてこれを清国が「保証する」という了解のもとで、英国艦隊は去った。
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2008年04月26日
知ってはならない歴史3
韓国併合で知ってはならない歴史1
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
幕末から明治の日本を支配していた空気は、ロシアへの恐怖である。露国や列強に支配され、ひいては滅ぼされるのではないかという恐怖感は、なまなましい現実感を帯びていた。
黒船の脅しに始まり、不平等条約を無理矢理に呑まされる過程で思い知らされた彼我の武力の絶対的な格差は、「富国強兵」・「殖産興業」の道を猛烈な勢いで日本を進ませることになる。エネルギーは「追いつける」という感覚である。
当初、日本の描いた構想は、日本・清国・朝鮮(李氏朝鮮)の三国の連衡であった。この連衡の構想は、橋本左内・吉田松陰・横井小楠たちも考えたものであったが、根はもっと深い。
西郷隆盛のことを「征韓論」の武断主義者のように言う人もいるが、誤解である。明治六年の西郷隆盛の下野を、「征韓論」否決の抗議と書く歴史書(例えば、高校教科書)は例外なく史実を曲げている。
高校の教科書の例に、『日本史A 現代からの歴史』(東京書籍 日A553)をあげておく。この教科書は西郷のみならず木戸、大久保たちもみな征韓論者として描いている(四十五頁)。
江華島事件を
「日本軍艦の徴発によって砲撃事件(江華島事件)がおこるや、大久保らとともに(木戸も)朝鮮に対する強硬策を主張している。その結果、欧米からおしつけられた不平等条約を、逆に朝鮮におしつけたのである(日朝修好条規)」と書くのであるが(同頁)、こんなところが日本人に「おしつけられた」歴史の一端である。
西郷、大久保、木戸・・・・とまるで日本の政府は侵略主義者の巣窟である。まともな感覚の文章とは思えないが、わが国の高校生はこのように教育されているのである。・・・・・
日本の開国と朝鮮(李氏朝鮮)の出会いの不幸は、その精神世界の舞台が「衛正斥邪」と「尊王攘夷」意識の大きな隔たりにあった。・・・
1868年、日本は明治元年である。十二月、対馬藩の代表たちが釜山に到着した。明治新政府の派遣した使節たちである。この使節たちの持参した国書の受け取りを朝鮮が拒否した、理由は日本の国書は「皇上」「奏勅」「朝廷」の文字を用いていることや、印璽や署名が伝統と異なる、などがその理由である。
まさに「衛正斥邪」である。中華秩序と儒教が正義であり、これに服さない者を邪とする精神世界からは、日本ごとき島夷が僭上にも「皇上」とか「朝廷」の言葉をちりばめた国書を朝鮮にもたらすなど、絶対に許されることではないのである。
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若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
引用開始
幕末から明治の日本を支配していた空気は、ロシアへの恐怖である。露国や列強に支配され、ひいては滅ぼされるのではないかという恐怖感は、なまなましい現実感を帯びていた。
黒船の脅しに始まり、不平等条約を無理矢理に呑まされる過程で思い知らされた彼我の武力の絶対的な格差は、「富国強兵」・「殖産興業」の道を猛烈な勢いで日本を進ませることになる。エネルギーは「追いつける」という感覚である。
当初、日本の描いた構想は、日本・清国・朝鮮(李氏朝鮮)の三国の連衡であった。この連衡の構想は、橋本左内・吉田松陰・横井小楠たちも考えたものであったが、根はもっと深い。
西郷隆盛のことを「征韓論」の武断主義者のように言う人もいるが、誤解である。明治六年の西郷隆盛の下野を、「征韓論」否決の抗議と書く歴史書(例えば、高校教科書)は例外なく史実を曲げている。
高校の教科書の例に、『日本史A 現代からの歴史』(東京書籍 日A553)をあげておく。この教科書は西郷のみならず木戸、大久保たちもみな征韓論者として描いている(四十五頁)。
江華島事件を
「日本軍艦の徴発によって砲撃事件(江華島事件)がおこるや、大久保らとともに(木戸も)朝鮮に対する強硬策を主張している。その結果、欧米からおしつけられた不平等条約を、逆に朝鮮におしつけたのである(日朝修好条規)」と書くのであるが(同頁)、こんなところが日本人に「おしつけられた」歴史の一端である。
西郷、大久保、木戸・・・・とまるで日本の政府は侵略主義者の巣窟である。まともな感覚の文章とは思えないが、わが国の高校生はこのように教育されているのである。・・・・・
日本の開国と朝鮮(李氏朝鮮)の出会いの不幸は、その精神世界の舞台が「衛正斥邪」と「尊王攘夷」意識の大きな隔たりにあった。・・・
1868年、日本は明治元年である。十二月、対馬藩の代表たちが釜山に到着した。明治新政府の派遣した使節たちである。この使節たちの持参した国書の受け取りを朝鮮が拒否した、理由は日本の国書は「皇上」「奏勅」「朝廷」の文字を用いていることや、印璽や署名が伝統と異なる、などがその理由である。
まさに「衛正斥邪」である。中華秩序と儒教が正義であり、これに服さない者を邪とする精神世界からは、日本ごとき島夷が僭上にも「皇上」とか「朝廷」の言葉をちりばめた国書を朝鮮にもたらすなど、絶対に許されることではないのである。
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2008年04月25日
知ってはならない歴史2
日本人が「知ってはならない」戦後の追撃戦
若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
これは特にお薦めしたい本です、是非購読してみて下さい。
引用開始
支那事変は日本の侵略という。しかし、支那事変を始めたのは日本ではない。盧溝橋事件は、中国共産党軍の日支両軍への発砲により始まったものであり、そして、その背後にはコミンテルンの世界革命の戦略が深く関わっていた。民国政府・軍部も日本も盧溝橋事件の拡大を避けようとした。しかし、停戦協定がなるたびにテロが繰り返された。これらのテロは、コミンテルンの指示・支持を受けた中国共産党が実行したものである。
大陸の日本人へのテロに憤激した軍部が、戦火を拡大していったという話は、非常に不正確なハナシである。事態はそんなに単純ではない。陸軍の参謀本部、海軍の軍令部もともに不拡大・収拾の方針であった。ただ陸軍省・海軍省が一撃後和平と割れていた。
問題は日本政府の内部にあった。昭和に入ると、日本の政官界の内部には多数の共産主義者が要路に潜伏するようになっていた。コミンテルンの人民戦線戦術によるものである。先に書いたように、日本には一撃後和平論者はいたが、日本には支那事変拡大派はいなかった。ただし、二人だけいた。尾崎秀実と、工作された近衛文麿である。
表の共産党は当局の取り締まりで、ほぼ壊滅させられたまま終戦にいたる。獄中十八年とかの「英雄的闘士」は、表の部分の残党にすぎない。獄中とは、生命と三度の食事が保証された世界である。善良な国民は職域に殉じ、戦陣に倒れていった。獄中での拷問を口にする人がいるが、内務班の辛さと戦地の地獄を思えば、獄中など天国だと吐き捨てるように言う多数の元兵士たちを、私は知っている。
コミンテルンは、主戦力は潜り込ませたのである。尾崎・ゾルゲ事件は露頭部の一部にすぎない。これは捜査が中途で終っているからである。
北進してソ連と対峙する路線が、なぜか米英と対決する南進に転換していった過程は十分に研究されなければならない。今や資料の類は続々と明らかになりつつある。
中国大陸での泥沼の戦線に日本の大軍を貼り付け、ソ連への脅威を減じ、そして列強同士を噛み合わせるというコミンテルンの政策について、ひとり日本や中国にとどまらず米国の政策決定に関わる研究が急がれている。ルーズベルト政権内部にコミンテルンの影響の痕跡が歴然としている。日本、米国、中国(民国)ともにコミンテルンには存分にやられたのである。・・・・・朝鮮戦争の勃発とともに、マッカーサーは自分がかつての日本が歩んだのと同じ道を進んでいることを知り、愕然となった。日本がマットに沈んだら、たちまち中国、朝鮮、ベトナム、カンボジアは共産主義の制するところとなったからである。
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若狭和朋氏の著「日本人が知ってはならない歴史」という本をご紹介しています。教育学博士若狭氏は、公立高校の教師を平成15年に退職後、現在は人間環境大学講師です。
「知ってはならない歴史」というのは、知られては困る歴史という意味である。私たち日本人に知られては困る歴史・史実とは何だろう。だれが困るのだろうか。
これは特にお薦めしたい本です、是非購読してみて下さい。
引用開始
支那事変は日本の侵略という。しかし、支那事変を始めたのは日本ではない。盧溝橋事件は、中国共産党軍の日支両軍への発砲により始まったものであり、そして、その背後にはコミンテルンの世界革命の戦略が深く関わっていた。民国政府・軍部も日本も盧溝橋事件の拡大を避けようとした。しかし、停戦協定がなるたびにテロが繰り返された。これらのテロは、コミンテルンの指示・支持を受けた中国共産党が実行したものである。
大陸の日本人へのテロに憤激した軍部が、戦火を拡大していったという話は、非常に不正確なハナシである。事態はそんなに単純ではない。陸軍の参謀本部、海軍の軍令部もともに不拡大・収拾の方針であった。ただ陸軍省・海軍省が一撃後和平と割れていた。
問題は日本政府の内部にあった。昭和に入ると、日本の政官界の内部には多数の共産主義者が要路に潜伏するようになっていた。コミンテルンの人民戦線戦術によるものである。先に書いたように、日本には一撃後和平論者はいたが、日本には支那事変拡大派はいなかった。ただし、二人だけいた。尾崎秀実と、工作された近衛文麿である。
表の共産党は当局の取り締まりで、ほぼ壊滅させられたまま終戦にいたる。獄中十八年とかの「英雄的闘士」は、表の部分の残党にすぎない。獄中とは、生命と三度の食事が保証された世界である。善良な国民は職域に殉じ、戦陣に倒れていった。獄中での拷問を口にする人がいるが、内務班の辛さと戦地の地獄を思えば、獄中など天国だと吐き捨てるように言う多数の元兵士たちを、私は知っている。
コミンテルンは、主戦力は潜り込ませたのである。尾崎・ゾルゲ事件は露頭部の一部にすぎない。これは捜査が中途で終っているからである。
北進してソ連と対峙する路線が、なぜか米英と対決する南進に転換していった過程は十分に研究されなければならない。今や資料の類は続々と明らかになりつつある。
中国大陸での泥沼の戦線に日本の大軍を貼り付け、ソ連への脅威を減じ、そして列強同士を噛み合わせるというコミンテルンの政策について、ひとり日本や中国にとどまらず米国の政策決定に関わる研究が急がれている。ルーズベルト政権内部にコミンテルンの影響の痕跡が歴然としている。日本、米国、中国(民国)ともにコミンテルンには存分にやられたのである。・・・・・朝鮮戦争の勃発とともに、マッカーサーは自分がかつての日本が歩んだのと同じ道を進んでいることを知り、愕然となった。日本がマットに沈んだら、たちまち中国、朝鮮、ベトナム、カンボジアは共産主義の制するところとなったからである。
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