2007年06月06日

幕末明治の英紙報道4

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
江戸からの回答
1855年1月13日号つづき
 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
 幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵はデューク・オブ・ウェリントン号
duke.jpg

引用開始
 オブニョウ[御奉行]は皇帝の回答を江戸から受け取っていた。それは解いてみると、長い一巻の巻物、もしくは一組の巻物であった。その内容が知らされた・・・・
 この回答には、丁重な言葉づかいでイギリス人が訪問し書翰のやりとりをした際示した敬意に謝意を述べ、偉大なるイギリス国民、女王、提督、その他に対して皇帝の胸に懐かれている高い配慮を表し、戦争[クリミア戦争]とそれに伴って恐るべき事柄が起ったため、窮迫した事態になったことを残念に思い、皇帝の臣民に対する義務の観念は厳正なる中立を彼に守らせるがごときものであることを説明してあった。

 「皇帝は、いずれか一方の側の怒りに自分をさらさずに、また多くの哀れな弱い国民に恐ろしい災厄をひき起さずに、このひどい争いのどちらにも加担することはできない」としたが、これらの点について述べられた考えは、極めて正当、賢明、かつ尊厳なるものであった。皇帝は「長崎の主なる役人に、わが帝国の法律と利害とが許すような条約を自分の名において締結するよう任命したが、皇帝はよろこんでオランダ・中国の両国民に限られた特別の商業特権だけは除くが、最恵国により享受せられるすべての便宜をイギリス人に譲与する」とのことであった。

 この皇帝の書翰は、とてもすばらしい産物と見なされた。それは、さまざまの義務と意向とを明白に、合理的に、かつ直截に述べたもので、期待され得ることはすべてこれを譲歩し、完全な信頼を示唆し、将来の行動を律すべき原理の数々を定義していた。・・・ 会見の進行中、多量の雨がふり始めた。このことは丁重で親切な心遣いを示す機会を与えた。五艘のボートの乗組員たち――その全員とこれを指揮する士官たち――はすべて宮廷内に雨宿りするよう案内された。もはや真暗だったが、雨はなおやまなかった。一行の各人に1本ずつ傘が贈られた。覆いのある屋形船が用意された。提督とその一行は7時半に日本の政府の小舟で無事にぬれずに旗艦に帰った。なお4、5日が条約起草のために費やされた。
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2007年06月05日

幕末明治の英紙報道3

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
長崎の知事(奉行)を訪問
1855年1月13日号
昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は長崎の上陸場所
landing.jpg

引用開始
(1854年)10月4日9時30分、5艘のボートが提督と約15人の仕官を乗せて旗艦ウィンチェスター号を後にした。
・・・上陸場は、横長で粗削りのみかげ石の石段から成り、セメントはつめてなかった。まず仕官たちが上陸し、2列になり、その間をジェームズ・スターリング卿が、石段より20ヤード先のところで彼を待ち受けている2人の肥った日本人の役人の方へと進んだ。彼らは丁重に彼を歓迎し、知事のもとに案内するためにやってきたといった。・・・・

 提督がただちに向う側の部屋に進むと、そこには知事が立っており、その右には検閲官[目付、永井岩之丞尚志]がいた。2人の背後には4人の若い役人が、手に手に鞘に納めた刀の先端を支えており、刀のつかは彼らの頭より上にあった。・・・知事は水野筑後守[忠徳]という名であった。彼は物静かで、聡明で、顔立ちのいい男で、36歳ぐらいだが、どちらかといえば中背以下である。彼は二言三言低いおだやかな声で彼の足許にいる卑賤の者に話しかけたが、その男は主君をほとんど見上げようともせず、けいれんを起したような「イチ、イチ」[はいっ、はいっ]という言葉で、一句一句理解したとの意思表示をし、知事が話すのをやめると、彼は数回畳敷きの床に接吻してのち、知事の言葉をオト(提督の通訳)に向って繰り返した。オトは提督に「知事は心からの敬意を表し、提督とその士官らにお目にかかれてうれしいといい、彼らが長崎で壮健かつ安穏ならんことを望む、といっている」と語った。

提督。知事に対し、私が彼の丁重な言葉に感謝していること、また彼が親切に送ってくれた物資のおかげでわれわれは壮健かつ安穏である、と告げよ。
知事は、提督の書翰に対する江戸からの回答をすでに受領していて伝達することをねがっていたが、まだ到着しないのが遺憾である、といった。しかし、彼は一両日中に到着することを期待した。・・・
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2007年06月04日

幕末明治の英紙報道2

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
クリミア戦争の知らせを受ける
1854年9月16日号付録

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は長崎でのボートの配置
boat.jpg

引用開始
 英国軍艦ウィンチェスター号は、時あたかも女王陛下[ヴィクトリア、在位1837―1901]の誕生日に当る1854年5月24日、香港に入港、郵船の船長から女王の宣戦布告文(クリミア戦争)を読み聞かされた。ウィンチェスター号は上海に赴任するサー・ジョン・ボウリング総督を揚子江口まで送った。・・・南京と上海のほかに、サー・ジョンは日本をも訪問したいと望んでいる。
 ロシア人はすでに日本に到達し、なんらかの条約を結んだと伝えられる。ロシア人の朝鮮での殖民も近づき、彼らにとって日本との友好関係の樹立は、たいへん重要であろう。

 すでに宣戦のあった以上、われわれは、これらの地域からロシア人を駆逐しなくてはならない。アメリカ人はすでに日本人に説いて、彼らの排他的な反社会的慣習をいくぶんゆるめさせた。彼らは丁重に応援を受け、1マイルに及ぶ鉄道[実は模型]や有線電信を敷設し、幾千の観衆の目をみはらせた。アメリカ人のこうした精力的な活動は大いに信用を博するに値するが、だからといって彼らに貿易の独占を許してはならない。
 合衆国の快速警備艇ヴァンダリア号がこのほど日本から到着した。ペリー提督もいた。条約はかなりうまく進行していた。ひとつの港が開かれ、もうひとつも18ヶ月以内に開かれるはずである。・・・・
 
英国艦隊の日本到着
1855年1月13日号
 9月7日英国軍艦ウィンチェスター号、蒸気艦エンカウンター号、バラクーダ号およびスティクス号は、日本の長崎港外に投錨した。・・・
 数艘の小船が、おのおの12人の男たちを乗せてきて、港のはるか外で艦隊と遭遇したが、おのおのそのへさきにある木造の屋根の上に、2、3人の男が立って、竹を通したさまざまな白旗を振っていたが、それは艦隊を追い払いたがっているように思われた。・・・・
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2007年06月02日

幕末明治の英紙報道1

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
合衆国の日本遠征
1853年10月22日号(香港、1853年8月10日)

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介します。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、今回からその内容を抜粋引用してみましょう。
london.jpg

引用開始
 今月7日[嘉永6年7月3日]ペリー提督はその最初の日本訪問を終えて当地に到着した。彼の指揮下にあるアメリカ合衆国艦隊は、旗艦サスケハナ号(蒸気艦)、ミシシッピ号(同)、プリマス号(コルヴェット艦)、サラトガ号(同)およびサプライ号(運送船)から成り、去る6月琉球諸島に会し、7月2日にサプライ号だけを残して、すべて日本に向けて出帆した。
・・・8日に艦隊は江戸湾に到達し、浦賀と呼ぶ町の沖に投錨した。そこは江戸から30マイルのところである。
 2、3日にわたる交渉ののち、ペリー提督は300ないし400人の兵員を上陸させ、合衆国大統領の書翰とペリー自身の信任状を、皇帝[徳川将軍]の閣僚の一人で、これを受領するよう命ぜられた、なにがしの守(かみ)に贈った。

 前記の兵員は、半月形をした海辺に整列して、400ないし500人から成る日本の軍隊と陸上で対峙した。双方とも、ひとたび合図があれば会戦に及ぶ準備が出来ていた。というのは、日本人は信頼を裏切るかも知れず、アメリカ人もまた同じ状況にあったので、ともにそうしたことが起らぬように警戒していたからである。しかし、すべては平和裡に済み、艦隊は回答を受け取るため、春になってもう一度訪問するとりきめができた。非公式ながら、皇帝は、きっと大統領書翰に好意的な回答をよこすだろうとの暗示が得られた。この会見の翌日には、数人の日本の役人たちが旗艦を訪れて、多くの贈物の授受が行われた。

 書翰贈呈の儀式が済むと、艦隊は港をさらにさかのぼって、湾内の一部の全般的な測量を行った。江戸の町を見るところまでは至らなかったが、その前方2、3マイルのところにあるジャンク船の投錨地だけは見えた。日本人はこれらの帆船のことをさほど気にしてはいないように思われたが、それでも蒸気艦が自分達のまわりにあるあまりに多くのことを知りすぎてしまうのではないかと、いたく恐れ、また、蒸気艦が、風向きや潮流にさからってまで行動できることには明らかに納得がいかない模様であった。
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2007年05月19日

江戸中期の日本評3

 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。今回からは、外国人ならではの面白い表現を抜き出して掲載していきます。
 ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
「江戸参府随行記」にある今から230年前にツュンベリーが見た「日本及び日本人」の章から。
写真は幕府が最初に派遣した遣欧使節1862年
kenou.jpg

引用開始
日本語
 日本語は、多くの点でヨーロッパの言語と大きく異なっているので、その習得は大変に難しい。中国語と同様に上から下へ縦に書く。・・・・
 このような困難にもかかわらず、私は昨年の秋から冬の間とそれ以降も、最良の友人である通詞から教わって日本語を理解し、多少は話し、そして書くことにも非常な努力をした。しかしこうしたことは、彼らの無事と私自身の安全のために極秘のうちに行われねばならなかった。この目的をうまく果たすために、私はその時々に学んだ言葉や先述の語彙集をもとに、ヨーロッパではほとんど知られていない言葉についての単語集を作成した。・・・・

衣服
 衣服こそ、日本における国民特有のものであるというにふさわしい。なぜなら、それはあらゆる他民族のものと異なるのみならず、また君主から貧民に至るまですべて同一で、男女とも同じく、そしてまったく信じられないことに2500年間も変わっていないのである。
 それは国中どこでも、長い幅広の着物であり、身分や年齢に関係なく、一枚から何枚かを重ねて身に付ける。身分の高い人々や富裕な人々は上等な絹地の着物を、そして貧しい人々は木綿地のものを着る。
 女性は普通、その裾がつま先までくるし、身分の高い女性はしばしば裾をひきずり、そして男性は踵までくる。また旅人、武士、そして労働者は裾をまくり上げたり、膝までになるよう引き上げたりする。男性は無地の着物が多いが、女性はばら色の布地に花を金糸で織り込んでいるのがほとんどである。

 夏は単衣か薄い裏地がついているだけである。冬は防寒のために、木綿綿や真綿をぎっしりと厚く詰める。男性が何枚もの着物を重ね着することは滅多にないが、女性は三十から五十枚またはそれ以上を重ね着することがたびたびあり、みなごく薄いので合わせてせいぜい四ないし五スコールプンド(1700ないし2125グラム)にも満たない。
 一番下の着物は下着の役割をしており、したがって白または青っぽい地で、たいていは薄くすきとおるようである。これらの着物はすべて、腰のまわりに帯をぐるりと巻いて固定する。帯は男性では手の幅ほどで、女性ではおよそ半アールン(約30センチ)幅であり、腰の回りに少なくとも二回巻いたあとに大きな蝶結びと結び輪が十分に作れるほどの長さがある。
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2007年05月18日

江戸中期の日本評2

日本人の好奇心、親切、正義心

 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
「江戸参府随行記」にある今から230年前にツュンベリーが見た「日本及び日本人」の章から掲載しています。
時代が違いますが、画像は19世紀末のおもちゃ屋さん
toyshop.jpg

引用開始
 この国民の好奇心の強さは、他の多くの民族と同様に旺盛である。彼らはヨーロッパ人が持ってきた物や所有している物ならなんでも、じっくりと熟視する。そしてあらゆる事柄について知りたがり、オランダ人に尋ねる。それはしばしば苦痛を覚えるほどである。
 当地へやってきた商人のなかでは、とくに商館付き医師が唯一の博識者だと日本人は考えている。そこで出島の商館でもそうだったが、とくに幕府への途次や首府滞在時は、医師はいつも賢人であり、日本人はあらゆる事柄、とりわけ数学・地理学・物理学・薬学・動物学・植物学・医学について教えてもらうことができると信じている。

 謁見では、我々は将軍の宮殿で老中や他の幕府高官に頭のてっぺんから足先まで熟視された。それは我々の帽子、剣、衣服、ボタン、飾り紐、時計、杖、指輪等々にまで及んだ。さらに我々の書式や文字を見せるために、彼らの面前で字をしたためざるを得なかった。
 この国民は必要にして有益な場合、その器用さと発明心を発揮する。そして勤勉さにおいて、日本人は大半の民族の群を抜いている
 彼らの銅や金属製品は見事で、木製品はきれいで長持ちする。その十分に鍛えられた刀剣と優美な漆器は、これまでに生み出し得た他のあらゆる製品を凌駕するものである。
 農夫が自分の土地にかける熱心さと、そのすぐれた耕作に費やす労苦は、信じがたいほど大きい。
 節約は日本では最も尊重されることである。それは将軍の宮殿だろうと粗末な小屋のなかだろうと、変わらず愛すべき美徳なのである。節約というものは、貧しい者には自分の所有するわずかな物で満足を与え、富める者にはその富を度外れに派手に浪費させない。節約のおかげで、他の国々に見られる飢餓や物価暴騰と称する現象は見られず、またこんなにも人口の多い国でありながら、どこにも生活困窮者や乞食はほとんどいない。一般大衆は富に対して貪欲でも強欲でもなく、また常に大食いや大酒飲みに対して嫌悪を抱く。
 清潔さは、彼らの身体や衣服、家、飲食物、容器等から一目瞭然である。彼らが風呂に入って身体を洗うのは、週一回などというものではなく、毎日熱い湯に入るのである。その湯はそれぞれの家に用意されており、また旅人のためにどの宿屋にも安い料金で用意されている。
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2007年05月17日

江戸中期の日本評1

日本人の外見と国民性

 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
「江戸参府随行記」にある1775年にツュンベリーが見た今から230年前の「日本及び日本人」から掲載してみます。
画像は幕末頃の庭園、菖蒲園です。
shobu.jpg

引用開始
日本人の外見
 日本人は体格がよく柔軟で、強靭な四肢を有している。しかし彼らの体力は、北ヨーロッパ人のそれには及ばない。男性は中背で、一般にはあまり太っていないが、何回かはよく太った人を見た。肌の色は体じゅう黄色で、時には茶色になったり、白くなったりもする。身分の低い人々は、夏期に上半身裸で仕事をするので日焼けして一層茶色になる。上流の婦人は、外出するさいは大抵何かで覆うので真白である。
 この国民の眼は、中国人と同様に広く知られている。それは他民族のように円形ではなく、楕円形で細く、ずっと深く窪んでおり、ほとんど目を細めているように見える。他の点では、瞳は褐色というよりはむしろ黒色で、瞼は大きな目尻ぎわに深い線をかたち造っていて目つきが鋭くなり、他民族とはっきり区別できる独特な風貌を持っている。眉毛はいくぶん高いところにある。ほとんどの人は頭が大きく、首は短く、髪の毛は黒くふさふさして油で光っている。鼻は低いとは言えないがしかし太くて短い。

日本人の国民性
 一般的に言えば、国民性は賢明にして思慮深く、自由であり、従順にして礼儀正しく、好奇心に富み、勤勉で器用、節約家にして酒は飲まず、清潔好き、善良で友情に厚く、素直にして公正、正直にして誠実、疑い深く、迷信深く、高慢であるが寛容であり、悪に容赦なく、勇敢にして不屈である。
 日本では学問はまだ発達をみていないが、そのかわりに国民は、どんな仕事においてもその賢明さと着実さを証明している。日本人を野蛮と称する民族のなかに入れることはできない。いや、むしろ最も礼儀をわきまえた民族といえよう。

 彼らの現在の統治の仕方、外国人との貿易方法、工芸品、あふれるほどにあるあらゆる必需品等々は、この国民の賢さ、着実さ、そして恐れを知らない勇気を如実に物語っている。
 貝殻、ガラス真珠、きらきらする金属片等で身を飾るような、他のアジアやアフリカ民族にはごく普通にみられる虚栄を、この国で目にすることは決してない。また目先がきらきらするだけで何の役にも立たないヨーロッパ人の派手な金や銀の飾り物、宝石類やその種の物はここでは珍重されず、彼らはきちんとした衣服、おいしい食物、そしてすぐれた武器を国内で製造することに努めている。
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2007年05月16日

参府団江戸到着

江戸時代中期の江戸

 今回ご紹介しているのは、 スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
 ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
画像は幕末頃の街道の例
douro.jpg

引用開始
 品川と高輪は、将軍の住んでいる江戸の町の二つの近郊地である。前者は、その起点(日本橋)からまるまる二里はあり、海岸に沿っている。我々は品川で一時間たっぷり休み、軽く飲食物をとって元気を回復し、美しい眺望を楽しんだ。
 江戸はこの国最大の、そしておそらく地球上最大の町であり、またきれいな港があった。港は非常に浅くなっており、泥土に覆われている。最大の船舶は、しばしば町から五里離れた所に投錨する。そんなに大きくない船舶は二里の距離に、そして小船舶ならびに小舟は何百艘にものぼり、それぞれの大きさや重量によって互いに町の方へ何列にも並んでいる。このようにして町は、他の地域から当地へ輸送される商品の通路を完全に遮断することなしに、海からの敵の襲撃に十分備えているのである。

 我々は、町や港やその周辺を非常に物珍しく眺めたが、同じように日本人は我々を物珍しく眺めたのであった。彼らは噂を聞いてここにどっと集まり、我々の乗り物のまわりを囲んだ。これら日本人のなかには、何人かの身分の高い婦人がいたが、彼女らはその乗り物をここへ運ばせたのである。そして我々が何回か簾を降ろすと、婦人たちはかなり苛立つように思われた。この我々のまわりを囲んでいる地上に置かれた乗り物は、それだけで小さな村を作っているようであったが、この移動式の小さな家は、その後しばらくすると消えていった。

 ただ一本の通りからなる近郊地、品川や高輪を通り過ぎて,番人がいること、住民の数が増えたこと、そして運搬人の沈黙や一層しっかりした足取りから、私は首府に到着したことを感じた。まもなく長さ四十ファムン(約七十一メートル)ほどの橋、日本橋に着いた。国中の地方につながる街道は、ここを起点に測られている。町の入口にあるいくつかの番所を通過して、一時間あまり広い大通りを進み、我々外国人の定宿に到着した。そこは裏門から入り、狭い道を通って家の反対側の端に案内された。この宿泊所に初めて入った印象は、それが大きいとも快適であるとも思えるようなものではなかった。しかし一階上がって通された我々の部屋は、かなりこざっぱりとしたものであった。だが、はるか遠隔の大陸からやってきた使節の一人として私が期待していたほどには、立派ではなかった。

 広い一部屋が、客間、謁見の間そして食堂にあてられた。商館長には特に一部屋が、そして仕切ることができるもう一部屋が医師と書記官に当てられ、また小さな部屋が風呂と他のすべての個人的な便宜をまかなうものとして当てられた。当地滞在中、我々はここで満足せざるを得なかった。狭い道路に面した外の眺めにはたいてい男の子がおり、我々の姿をちょっとでも捕らえると、とたんにきまって叫びをあげた。そして我々を見ようと、向かい側の家の塀の上によじ登っていることも時々あった。・・・・
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2007年05月15日

江戸参府の道中記2

江戸時代の大阪から京都、東海地方へ

 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
画像は幕末頃の「のりもん」です。
norimon.jpg

引用開始
 4月9日、大阪と都[京都]間の行程は十三里もあったので、我々は未明のうちに出発しなければならなかった。
 したがって我々は夜明け前、早々に起された。コーヒーを一杯のみ、朝食にサンドイッチを準備して旅を続けた。旅の間、先に立つ日本人はほとんど間断なく歌をうたい、たくさんの松明で朝まだきの暗さを照らした。
 ようやく二里進み、守口という大きな村に到着して、我々と運搬人はしばし休憩した。その後三里進んでもっと大きな村、枚方で再び休み、そして軽い飲食物をとった。その後一里先の休憩所の淀まで行き、さらに一里進んで伏見で遅い昼食をとった。淀は小さいがきれいな町で、この上なく水か豊かである。・・・・伏見は一村落に過ぎないといえようが、長さは三里にも及んで幕府の首府、都[京都]にまで達しており、そのため都の郊外とみなすことができよう。

 その国のきれいさと快適さにおいて、かつてこんなにも気持ちよい旅ができたのはオランダ以外にはなかった。また人口の豊かさ、よく開墾された土地の様子は、言葉では言い尽くせないほどである。国中見渡す限り、道の両側には肥沃な田畑以外の何物もない。そして我々は長い旅を通していくつかの村を通過したが、村は尽きることなく、一つの村が終わると、そこでもう一つの村が始まるのであり、また村々は街道に沿っていた。
 今日、私は初めて道路でいくつかの車を見ることができた。それは都とその周辺で使われている唯一の車輪の乗り物で、それ以外の地方では使われていない。この車は低い小さな三輪車であった。二つの車輪は通常の位置に、そしてあとの一つは前方についていた。その車輪は全片、木を切って作ったものである。車輪の摩滅を防ぐために、縁の周囲を綱またはそれに類したもので巻いてあった。町近くまたは町中では、車はもっと大きく不恰好で、時に二輪の車もあり、その前方を牛が曳いていた。またいくつかの車は、ヨーロッパのものと同様、轂(こしき)とスポークを備えていたが、留め金はなくもろかった。この車は道路の片側しか通行を許されていない。そのため、その側にはたくさんの車が往来しているのが見られた。またそこでぶつかり合わないように、午前中に町を出て行き、午後に町へ帰ってくるという順序になっていた。

 どの村のどの宿屋でも、米粉を煮て作った緑色や白色の小さな菓子が売られていた。旅人やとくに乗り物の運搬人はそれを買って、お茶を飲みながら食べた。お茶はどこでも旅人のために準備されている。・・・・・
 私はここで、ほとんど種蒔きを終えていた耕地に一本の雑草すら見つけることができなかった。それはどの地方でも同様であった。このありさまでは、旅人は日本には雑草は生えないのだと容易に想像してしまうであろう。しかし実際は、最も炯眼な植物学者ですら、よく耕作された畑に未知の草類を見出せないほどに、農夫がすべての雑草を入念に摘みとっているのである。・・・・・
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2007年05月14日

江戸参府の道中記1

江戸時代の旅人、小倉の宿と下関

 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
画像は出島
dejima.jpg

引用開始
 郵便車は国中どこにも見られないし、またほかに旅人を乗せる車輪の乗り物もない。したがって、貧しい者は徒歩で旅をし、そして車代を払える者は馬に乗って行くか、または駕籠か乗物(のりもん)で運ばれる。徒歩で行く者は草鞋を履いている。それは上革のない靴底のようなものであり、脱げ落ちないよう藁を編んだ紐で固く結ぶ。脚には脚絆をつけており、ふくらはぎの後部でボタンを掛けるか、または上部を紐で固く結ぶ。
 彼らはまた裾の長い着物の代わりに、上着[羽織]か、ふくらはぎまである亜麻仁のズボン[袴]を着用することがよくある。そして徒歩で行く武士は、この袴を腿の真ん中まで結び上げる。馬に乗って行く者は、始終、おかしな格好である。一頭の馬に何人も、たいていの場合家族全員が乗っているのをよく見かける。その場合は、主人が鞍の真ん中に乗り、足を馬の首の前まで伸ばす。鞍に取り付けられた片方の籠には妻が、そしてもう片方の籠に一人または何人かの子供が乗っている。そのような時は特定の人[馬子]がいつも馬の手綱を取って、前を歩いている。富裕な人は乗り物で運ばれるが、各人の階級によりその大きさと華麗さが異なり、したがって費用もまちまちである。最低のものは小型で、足を折って坐らざるを得ない。そして四方は開いており、小さな天井がついていて、二人の男が運ぶ。通常は「カゴ」と呼ばれる駕籠は、屋根がありそして四方は閉じられるようになっているが、ほとんど四辺形であり立派とは言えない。一番大きくかつ豪華なものは「ノリモン」と呼ばれ、長方形で、身分の高い役人が乗り、何人もで担ぐ。・・・・

3月9日・・・・・
 小倉は、国のなかでも大きな町に数えられ、広く貿易を営んでいる。・・・
 我々は小倉に到着する手前で、若君の名のもとに城からの使者二人の出迎えを受け、その後、町を通って宿屋へ着くまで付き添ってもらった。我々はここで丁寧に遇され、翌日の午後まで留まった。・・・・・
 ここでも他のどこの宿でも、我々はその家の奥の部屋を割り当てられた。そこは最も住み心地がよく、かつ一番立派な場所であり、常にたくさんの樹木、潅木、草本そして鉢植えの花のある大小の庭を望むことができるし、そこへの出口もある。またその端には客人用の小さな風呂場があって、好きな時に使える。・・・・・

 この国の建築様式は独特で変わっている。各家は相当に広く、木材、竹の木摺そして粘土からなる木骨造りなので、外部は石の家にかなり似ている。そして屋根には、相当に重くて厚い瓦が葺いてある。家は一つの部屋からなっていて、必要に応じまた好みに合わせて、いくつかの小さい部屋に仕切ることができる。それには、木枠に厚く不透明な紙を貼り付けた軽い仕切り[襖]が使われており、それを、その目的で彫られた床と梁に相当する天井の溝にはめると、らくらくとしかもぴったりと据えられる。
 旅のあいだこのような部屋は、我々や随員のためによくつくられた。そして食堂や他の目的にもっと大きな部屋が必要なときは、この仕切りはまたたく間に取り払われる。隣接する部屋の様子は見えないが、話していることはしばしば聞えてくる。
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2007年05月13日

江戸参府出発

長崎から小倉の江戸時代日本観察
 
 今回ご紹介しているのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
この描写が江戸時代中期の日本であることに驚きます。
画像はC.P.Thunberg
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引用開始
 1776年3月4日、使節一行は出島を発って江戸参府の旅に向った。・・・この旅に参加するオランダ人は三名だけであった。それは、商館長として大使のフェイト氏、医師つまり商館付医師としての私、そして書記官のケーレル氏である。それ以外のおよそ二百人にも達する相当な数の随員[この人数は疑わしい。通常は60名ほどという]は、すべてが日本人であり、役人、通詞、従僕、召使いであった。・・・・・
 商館長の食卓に並べるオランダ人用の料理をつくるため、商館から日本の料理人二人が同行した。・・・・料理人は全行程にわたっていつも一足先に発った。それゆえ我々が昼食をとりに宿に到着するころには、料理はすっかり調っているのである。・・・

 商館長はもちろん、その医師と書記官も大きく立派な漆塗りの乗物(のりもん)にのり、旅をした。・・・・・この乗物という人の力で運ばれる乗り物は、薄い板と竹竿から出来ており、長方形で前面と両側面に窓がついている。・・・・茶は進行中も沸かされ、欲しくなればいつでも飲めるようになっている。しかしヨーロッパ人が、胃の緊張を解くこの飲み物をのむことはほとんどない。それよりは一杯の赤ワインかオランダのビールを好んで、乗り物にそれらの各瓶を用意し、細長いサンドイッチを二重に入れた長方形の漆器の小箱と一緒に前方の足元に置いた。・・・・

 身分の異なるさまざまな人々が、それぞれに異なる手段で進行しているこの大行列全体は初めて見る者には、立派にして秩序ある光景に映った。そして我々は至る所で、その地の藩主と同じような名誉と尊敬をもって遇された。その上、万が一にも我々の身に危害が加わることのないよう厳重に警護され、さらに母親の胸に抱かれた幼児のごとく、心配することは何もないほど行き届いた面倒をみてもらった。
 これは我々ヨーロッパ人にとって、この上ない大きな喜びであった。我々がやることは、食べ、飲み、自らの慰めに読み書き、眠り、衣服を着け、そして運ばれるだけであった。

 初日は、長崎から二里で日見を通過し、さらに一里離れた矢上へ、そこからなお四里の諫早へ到着し、そこで最初の宿を取った。
 我々は矢上で昼食をとった。そこでは宿の主人から、かつて私が世界のいくつかの場所で遇されてきたより以上に、親切で慇懃なあつかいを受けた。・・・・用意された部屋に案内されると、食卓はすでに調えられており、そこで食前酒、昼食、コーヒーをとった。・・・・
 3月7日、この地方の首府である佐賀には藩主の住む城がある。城は濠と城壁に囲まれ、そして城門のそばには番人がいる。ほとんどの町がそうであるように、この町もきちんと整っており、真っすぐに広い道路が通っている。また何本かの運河に水を導き、町中を流している。・・・・
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posted by 小楠 at 13:22| Comment(4) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本B

2007年05月12日

日本人は第一級の民族


江戸時代中期の日本概観

 支那事変関係が続きましたが、支那事変については今後、当時の新聞社等の特派員報告を掲載するつもりです。
 今日からはちょっと一息のつもりで、
 今回からご紹介するのは、スウェーデン人ツュンベリー著の「江戸参府随行記」です。
 ツュンベリーは植物学者そして医学博士で、東インド会社所属のオランダ船に員外外科医として乗船し、1775年(安政四年)8月13日、オランダ船の主任医官として長崎に来航しました。この年は、杉田玄白らの訳で有名な『解体新書』が出版された翌年にあたります。
先ずは「序」から、日本到着までを見てみましょう。
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引用開始
 日本帝国は、多くの点で独特の国であり、風習および制度においては、ヨーロッパや世界のほとんどの国とまったく異なっている。そのため常に驚異の目でみられ、時に賞讃され、また時には非難されてきた。
 地球上の三大部分に居住する民族のなかで、日本人は第一級の民族に値し、ヨーロッパ人に比肩するものである。しかし、多くの点でヨーロッパ人に遅れをとっていると言わざるを得ない。だが他方では、非常に公正にみてヨーロッパ人のうえをいっているということができよう。

 他の国と同様この国においても、役に立つ制度と害をおよぼす制度、または理にかなった法令と不適正な法令の両者が共存していると言える。しかしなお、その国民性の随所にみられる堅実さ、法の執行や職務の遂行にみられる不変性、有益さを追求しかつ促進しようという国民のたゆまざる熱意、そして百を越すその他の事柄に関し、我々は驚嘆せざるを得ない。
     
 このように、あまねくかつ深く祖国を、お上を、そして互いを愛しているこんなにも多数の国民がいるということ、自国民は誰一人外国へ出ることができず、外国人は誰一人許可なしには入国できず、あたかも密閉されたような国であること、法律は何千年も改正されたことがなく、また法の執行は力に訴えることなく、かつその人物の身上に関係なく行われるということ、政府は独裁的でもなく、また情実に傾かないこと、君主も臣民も等しく独特の民族衣装をまとっていること、他国の様式がとりいれられることはなく、国内に新しいものが創り出されることもないこと、何世紀ものあいだ外国から戦争がしかけられたことはなく、かつ国内の不穏は永久に防がれていること、種々の宗教宗派が平和的に共存していること、飢餓と飢饉はほとんど知られておらず、あってもごく稀であること、等々、これらすべては信じがたいほどであり、多くの人々にとっては理解にさえ苦しむほどであるが、これはまさしく事実であり、最大の注目をひくに値する。
 私は日本国民について、あるがままに記述するようつとめ、おおげさにその長所をほめたり、ことさらにその欠点をあげつらったりはしなかった。その日その日に、私の見聞したことを書き留めた。
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posted by 小楠 at 12:44| Comment(4) | TrackBack(1) | 外国人の見た日本B