2007年07月26日

フランス青年の明治1

明治15年、日本到着
 『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
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引用開始
 上海を出発して二日後、三菱の船は外輪式でずっと振動しているから、あまり快適とはいえないたびの末、東京丸は長崎に寄港した。・・・翌朝、私たちは下関の海峡に錨を下ろした。・・・ここで外務卿の井上氏(井上馨)が乗客の一人として加わることになった。彼は下関に、朝鮮での出来事(壬午軍乱)のために来ており、東京に戻るところだった。・・・・・
 たくさんの人たちが大臣の見送りに来ていたので、私たちは、世界で最も追従的と思われる日本のマナーの数々を目の当たりにすることができた。
 それは数えきれないほどペコペコと頭を下げる動作の連続だった。それぞれが何度も何度も体を曲げ、地面に頭がつかんばかりに下げるのである。奇妙な口笛を吹きながら、手を膝の上で上げたり下げたりしながら、作り笑いを惜しみなく浮かべるのである。かわいそうな大臣とお付きの人たちは、お辞儀された分だけ挨拶を返さなくてはならないから、頭を下げ足をこすり合わせ続けていた。・・・・・

 八月十五日、神戸の外国人租界に到着、・・・日本はどこでも電信線が引かれており、何年も前から鉄道も走っていて、特に大阪経由の神戸・京都間、横浜・東京間は発達している。中国では、1876年にいち早く引いた上海・呉淞間の鉄道を破壊して、首都と地方都市を結ぶ線の建設許可の決断も下せなかったのである。隣国同士でこれほど違う民族については、書いても書ききれないほどである!・・・・
 神戸近郊の布引の滝は、旅行者にとっても住民にとっても、魅力的な散歩コースとなっている。私たちは狭い急流へと通じる坂道までジンリキシャ(人力車)で行く。・・・・私たちが頂上のチャヤ(茶屋)と呼ばれている茶を飲ませる店に近づくと、二人の気取った女たちがわざわざ出迎えにやってきた。さまざまな身振り手振りをしながら私たちを歓迎し、案内するために手を取った。ござに座らせ、小さな磁器の茶碗に、あまり色はないが香りのよいお茶を注いでくれた。ヨーロッパの同じ階級の娘たちと比較した場合、気取らず親切で、優雅で優しいこの娘たちに軍配が上がる。
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2007年07月19日

ギメの明治日本散策4

 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。
明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。
今回もギメの「東京日光散策」から。
画像はかっぽれの踊り
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引用開始
踊りと宴会
 一人は三味線sa-missenを弾く。蛇の皮で飾られた、長くて細いギターで、その耳障りな短い音は、まったく音楽的ではない。控えの三味線弾きは、たえず誤って演奏する。彼女は楽器に合わせて歌うから歌も狂ってくるれのだ。少なくともわれわれにはとらえがたく、その調べは音程が短か過ぎると私には思える。
 他の演奏家は、小さな太鼓[鼓]を鳴らす。左手で肩に支え、右手で打つのだ。太鼓の皮を張っている絹の紐は左手に集められ、打つごとに締めたりゆるめたりする。したがって、音は怒っているあざらしの怒号のように、ほえたり、叫んだりする。
 弱々しそうにみえる娘が、斜めに置いてある太鼓の前の席に着き、うつべき棒を長い間振り上げたままで入る。突然振り下ろして、恐ろしい音を発する。このような激しい音を出す力は、彼女のどこから出てくるのか。芸とたゆまぬ研究、才能と音楽的な感覚とが、こうした結果をもたらすのだ。美しいものだ、音楽は。・・・

 彼女は夢中で、押しつぶされた猫の叫びを発しながら歌う。三味線は活気付き、胸を引き裂くような音を発する一方、小太鼓は最善を尽してほえたてる。
 音が急に止んで気付くのだが、その曲が終ると演奏者に酒を勧めるのが慣習である。酒はこの国のブランデーで、発酵させ蒸留させた米から造られる。
 踊り子が一人やって来た。繊細な目鼻立ちの女の子で、われわれの前にひれ伏し、挨拶の文句を大げさに言う。その文句はたびたび息を吸う歯音で区切られるが、それは敬意のしるしである。吸えば吸うほど礼儀正しいのだ。
 オーケストラが再び楽器の調子を合わせる。踊り子は立ちあがり、ポーズをとる。彼女が演じるのは劇の踊りであり、日本の古いデッサンにみられる持って回った姿勢がその挙動の中に見出せる。彼女は無言劇の中で、顔の表情を変えない。身振りだけの魂のない冷たい哀歌なのだ。・・・
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2007年07月18日

ギメの明治日本散策3

 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。
 明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。
今回もギメの「東京日光散策」から。
絵はレガメの油絵、浅草の射的屋
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引用開始
仏教の市
 ガイドの松本さんは、浅草公園の飾りと名誉とになっている記念建造物をわれわれに見せるだけでは満足しない。
 彼はわれわれを連れて、売店とか軽業師の小屋とか弓の射撃場[矢場]とかを通って歩き回る。これらの施設はすべて、かつては異教の寺院を取り囲んでいたし、現在でもなお、日本の寺院を活気付けている。
 おもちゃ屋が一番多い。花や書物や絵巻物も売っている。古本屋があり、古い写本は珍しくない。
 茶屋、アメリカ風の冷たい飲物の居酒屋、日本料理屋、これらは物質的な面である。囲いの中では、花や珍しい植物や非常に美しい陶器の植木鉢を売っている。・・・
 手拭はそれぞれ一枚のハンカチである。――ポケットには決して入れず、風邪をひいても日本人は決してそれで洟をかまないし、かまないように気を付けている。そんな布切れをハンカチと呼ぶことが出来ればの話だが。(フランス語では、ハンカチは洟をかむものという意味)・・・
 こっちには動物の見世物、あそこには喜劇を物語る講釈師。もっと向うには操り人形、そばには大きい鳥籠のあるにぎやかな小鳥屋。その隅では手品師がいて、群衆が見とれている。・・・

芝(増上寺)
 人力車は上野公園を通って、芝公園にわれわれを連れて行く。
 それは真直な行程ではないが、松本さんは用意周到で、今夜はわれわれに日本式の夕食をさせようと約束していたので、われわれの胃はヨーロッパ風のランチであらかじめ腹ごしらえすることを遺憾に思わないだろうと彼は考えている。
画像は精養軒
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 ところで上野には、もっとも文明化したレストランの一つ[精養軒]がある。そこには、椅子やフォークや本物の羊の背肉がある。そのレストランは日本人が経営しており、公園の中にある。・・・

 教育を受けた日本人が、自分の国で認めている信仰を恥に思うのは、奇妙なことである。
 日本がヨーロッパの思想に関心を寄せるようになったとき、先駆的役割を果たした日本人は、私の考えでは、うわべだけをみて劣等感に陥るという誤りを犯したのだ。確かに彼らは、まだ蒸気を使用した工場も理工科学校も持っていなかった。しかし何とすばらしいものを彼らは持っていたのか。それらを理由なく放棄しているのだ。日本は日本の風習をあまり信用していない。日本はあまりにも急いで、その力と幸を生み出してきたいろいろな風俗、習慣、制度、思想さえも一掃しようとしている。日本は恐らく自分たちのを見なおすときがくるだろう。私は日本のためにそう願っている。・・・・
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2007年07月17日

ギメの明治日本散策2

 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。
明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。
今回もギメの「東京日光散策」から。
画像はエミール・ギメ
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引用開始
日本人の家で
 われわれの友人、松本さんMatsmotoはこう言ってくれた。
「東京に着いたら会いにいらっしゃい。町をお見せしましょう。浅草の寺院やその神聖な庭を見物させましょう。そこは小売店、軽業師、見世物師、花屋、小鳥屋、きれいな娘たちが開いている弓の射的場[矢場]、劇場、墓地、茶屋、お堂があり、にぎわっています。
 また、金の漆で塗られた寺院や巨大な樹木や将軍たちの青銅のくすんだ墓が見られる芝Shibaにも案内しましょう。町には古道具屋がたくさんありますから、それも案内しましょう。日本の料理屋の秘密を明かしましょう。そこではときには食べる相手が、そして常に優れた女の演奏家や魅力的な踊り子が見つかります。」

 この計画のすべてをわれわれは夢見ていた。
 横浜に到着してからというもの、われわれは松本さんに一日でも早く会いに行くことばかり考えていた。
 この若い日本人は、サンフランシスコから日本まで、われわれと一緒に船旅をしてきた。海上での二十三日間は、人間を結びつけるのに十分である。たまたまわれわれと同じ船室に入られたこの外国人が、友人となったのは当然である。彼はアメリカで真面目に勉強し、アメリカの技師の免状を持って帰国する。
 彼の家を見つけるのは、簡単ではなかった。幸いにも人力車夫たちが聡明で、話して説明しなくても、身振り手振りで十分であった。われわれをまず銀座の大通りに連れて行き、ついで橋を渡り、運河沿いにある倉庫を通って、探していた住居まで連れて行ってくれた。

 松本さんは家にいた。彼は門口にわれわれを出迎えにくる。しかし最初の言葉を交わしたときから、彼の顔には当惑の色がありありと浮かんでいる。われわれもかなり戸惑ってしまった。船の上で示してくれたあの友情は、陸地では消えることになっていたのか。悪い時間に不意に彼を訪れたのか。それとも・・・
 そんなことではなかった。松本さんはわれわれが短靴を脱がずに家に入るには、どのようにしたらよいのかと、思案にくれていたのだ。もっと問題をはっきりさせれば、自分の家にわれわれを迎えるために、どのようにして靴を脱がせたらいいのかわからないのだ。
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2007年07月16日

ギメの明治日本散策1

 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。
 明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。
今回からはギメの「東京日光散策」から。
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引用開始
江 戸
 それぞれの地方には、将軍の指図のままに動く領主や大名Daimioがいたが、これらの首長をとおして、日本は征夷大将軍――第二位の主権者――からたえず下される命令で治められていた。
 外国人、特にヨーロッパ人が、帝を法王と思い、将軍を実際の皇帝であると考えていたのは、この点であった。朝鮮人とオランダ人は、それを大君Taikounと呼んでいたが、これは大大名を意味する。・・・
 京都はもはや役に立たない首府でしかなかった。古い首都は首都としての地位を降り、どのように活用するかということだけが問題となった。江戸は帝国の新しい都市となり、これら二つの都市の運命と変遷がよくわかるように、勅令によって江戸の名は廃止され、帝の居所は以後布告によって、東京と呼ばれることになった。・・・

日本の鉄道
画像は三代広重画の蒸気車
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 汽車は非常に快く小ぎれいである。職員は白の雲斎布[厚手の綿布]を着用していて、優美で上品である。車両は少々狭いが、便利で、アメリカと同じように次の車両に通じている。どこも清潔で、手入れが行き届き、サロン風の鉄道である。
 この路線の開業式の日は大騒ぎであった。まだ誰も垣間見ることができなかった帝が自ら、住民の前に姿を現わしたのである。現人神が、列車に乗るために、わざわざ天から下りて来たようであった。・・・
(この日は開業後、天皇が初めて汽車にお乗りになった日で、開業日は明治五年九月十二日。天皇ご臨席で行われています)
 鉄道の沿線は非常に単調である。ほとんど海沿いを走っていく。沿線は豊かに栽培され、数百年を経た樹木におおわれた神聖な丘が点在し、藁葺きの家のある小さな部落や多くの竹林によって彩られた地方を横切っている。・・・
 田畑には、きびしい太陽の暑さから大きな麦藁帽子で身を守った、裸同様の労働者がいる。道には、青い長い着物を着て、油紙でできた大きな日傘をさしている人がいる。日傘のレンズ型の黄色い鮮かな色彩[蛇の目]が、景色から浮き出ている。
 海に目をやると、漁師の小舟が行き交うのが見える。至る所活気に満ちている。
 駅ごとに、多くの土地の人が、急いで車両に乗ってくる。群衆は騒々しく、陽気である。日本人はいつも旅が大好きであったし、また巡礼という口実で、自分の国を完全に知ることができるが、その日本人が即座に鉄道を採用したのだ。・・・
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2007年07月13日

レガメの明治日本見学3

 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。
 明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。
レガメは明治三十二年に再来日していますが、今回はそのレガメの「日本素描紀行」からの引用です。
画像はレガメ画の本所の家
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引用開始
日本の家屋
 今日は女の子の祭りである。数えきれないほどの店が、昔風に華美に着飾った小さな人形を陳列する。そして、いたるところに赤味を帯びた明かりがあって、この妖精の小さな世界のきらびやかな色の衣装を、玉虫色に光らせている。
 また、私にとっても祭りである。日本の旧友に再会したのだ。
 一昨日、その友人は、新聞で私の名前を読んで昨日、私のホテルに来て、名刺を置いていったのだ。そして今朝、私は答礼の訪問をしに出かける。彼は留守で私より英語を上手に話す奥さんに迎えられる。彼が戻り、率直に感動し合う。われわれは、1881年にパリで別れた。彼は法律の勉強のためにパリに来ていたのだ。一別以来、われわれは会っていなかったし、文通もなかった。一般に、日本人は、容易には文通に応じないのだ――少なくとも外国語では――これは不思議な性格だと見てもよいかも知れない。それでも良い友人でなくなったというわけではないのだ。彼は、私に、自分の家に来て住むように勧めて、その友情を示してくれる。私は少しもためらわずに承知する。

 明日から家財道具を移すことになる本所という地区で、私は間近から日本を見ることになるのだ。私は日本人の生活を送り、その秘めた魅力を味わうことができるだろう。そしてそれは、漆を塗った盆の上に置かれたいくつもの小さな皿で出される食事で始まる。この盆は、純然たる日本の二つの道具である、火鉢Chibachiと、長い燭台(行灯)の間に置かれる。
 私の新しい住所は、本所、両国橋、元町十八番地(今の墨田区両国一丁目九番地)である。これは快く響く。家は川の左岸に建てられていて、二階建てのいくつかの棟があり、それらは互いに連結している。石垣で囲まれた庭先は水に洗われ、その小さな庭には木が植えられていて、そこから、お茶を飲みほしながら、舟が通るのが眺められるのだ。さらにすばらしいことには、ちょうど真向かいに、富士山がある。はるかな靄の中に、雪の頂きがそびえ、決して飽きることのない景観である。・・・
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2007年07月12日

レガメの明治日本見学2

 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。
 明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。
レガメは明治三十二年に再来日していますが、今回もそのレガメの「日本素描紀行」からの引用です。
画像は川鍋暁斎画のレガメで、彼が暁斎の肖像を描いている様子
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引用開始
西郷侯爵公式訪問
 内務大臣、元帥西郷侯爵[西郷従道]が、彼の秘書官の上品な大久保利武氏[大久保利通の三男]を通じて、私を元帥の邸に喜んで招く旨を昨日、伝えて来られた。
 強風にもかかわらず、私は、誠実なS氏と共に、約束の時間に着く。風は嵐のように吹き、一人引きの車を二人引きにしなければならず、車夫たちは、自然の力に逆らってたいへんな苦闘をしなければならなかった。
 私は、電灯で照らされ、ヨーロッパの家具や日本の品々を備えた一階の客間に案内される。二枚の油絵、元帥と彼の父である大西郷[西郷隆盛は従道の父ではなく兄である]の肖像が壁を飾っている。

 待つほどもなく、大臣は侯爵夫人を伴って入って来る。握手やりとり、肘掛け椅子が暖炉の前の一本脚の二つの円卓の側に移される。一方の円卓は、葉巻と紙巻きたばこ用であり、他方は、干菓子とマロン・グラッセ、それに伴う日本流の砂糖を入れないお茶用である。私を暖炉の右側に座らせる。親切なS氏は客間の中央に立って、われわれのために通訳の労をとってくれる。離れたところに、大臣の個人秘書が座っているが、まったく無口な人物である。
 元帥は灰色の口髭を生やし、見たところ少し荒っぽい気性の大男である。

 慣例的な挨拶のやりとりの後、会談が始まり、私はいくつもの質問に答えなければならない。私はインターヴィユーは苦手で、何とかその難関を切り抜ける。西洋的な考え方の流行についてほのめかしながら、私は、元帥が専心している物の独特な様式について話す。その場合、外国の事物の採用が必要だと認められるとき、その外形をいささかも変えてはならないと考えるべきではないであろう。彼がまずそうであるように、自分の仕事に慣れるためには、事物の全体の調和の中に自分を入れさせるような外見を、急いで自分に与えなければならない。
 和服を着ている侯爵夫人が会話に加わる。夫人は三十歳を越えていて、聡明の誉れが高いことがその物腰から見てとれる。
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2007年07月11日

レガメの明治日本見学1

 明治初期に来日した二人のフランス人の著書から、彼らの観た、当時の日本及び日本人の姿をご紹介します。
明治九年、フランスの実業家であり、宗教や特に東洋美術に強い関心を持つギメは、宗教事情視察の目的で、画家のレガメと連れ立って来日しました。この本はギメの「東京日光散策」とレガメの「日本素描紀行」が収められています。レガメの挿絵も沢山収録されています。
レガメは明治三十二年に再来日していますが、今回はそのレガメの「日本素描紀行」からの引用です。
画像はS氏(杉田義雄)と家族
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引用開始
 日常生活には、その本質的なものの中に、昔からの習慣が残っている。家庭生活では、まだ何も変っていないのである。
 祖先崇拝、孝心、誠実さ、兄弟愛、夫婦間の貞節、老人を敬う心、子供や弱い者への思いやり、貧しい者への慈善、助け合う心、これらすべてが、家庭での教育でしっかり教え込まれ、僧侶と何の関係もない儀礼や、独自の儀式を通じて培われる。
 神棚は家の中にあり、父親には魂を導く責任があり、そしてその妻は、夕方になると家の女中たちを身辺に集め、自分は彼女たちの安泰と振舞の責任者であるという態度を保っている。――これはわれわれの国の中産階級でのような、七階の屋根裏部屋の召使いのあり方とはずいぶんと違う。
 日本の家では、家具はたいへん少なく、これが家の中での仕事の手間を省き、他の仕事をしやすくしている。余った時間には、糸を紡ぎ、絹を織り、また、家族用に必要な衣服を作ったりする。
 一つの例として、シカゴの博覧会[1893年の世界代博覧会]への、先の皇太后[英照皇太后]の出品が挙げられる。それらは皇太后の御所で織られた見事な絹織物であった。

 結婚は、まったく民法上の[宗教儀式によらない]もので、簡単な登録によって認められる。贈物の交換のあと、儀式としては、親族の集まりが、新婦の家で行われるだけである。
 養子縁組は、古い時代に宗教上の理由から、祖先を崇拝する慣行を果たすのに、男の代表者を必要としたために生まれた習慣であると言える。今日では、この習慣の恩恵をこうむっているのは、もはや死者ではなくて、生きている者、特に低い階層の者たちである。 息子の義務は、年とった両親の必要に応じて援助することである。誰もこの義務を免れようと考えていないので、養老院を設立する必要は感じられないし、そして公共負担はそれだけ軽減されている。

 社会のどの階層でも、貧富にかかわらず、親族会議の諸権利は、今でも尊重されている。一個人にかかわる重要な事柄は、親族会議の判断にすべて委ねられる。親族会議の承認なしに農家の息子は、村を去って都会で生活しようとは考えないであろうし、同様に、上流階級の人間は、近親の承諾なしには自分の財産を抵当に入れることはできない。隠居Inkioつまり、ある年齢に達して、共同体[家族]の主人の地位を退いた者は、まだ元気いっぱいであり、公の仕事をすることはできる。だが私生活での役割りはまったくなくなる。その場合、一家の舵を取るのは長男である。
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2007年06月20日

ケンペルと元禄の日本5

二度目の江戸参府
 1690年(元禄三年)7月4日に日本にやってきたケンペルの「江戸参府旅行日記」の中から、1692年3月2日に長崎を出発して、二度目の江戸参府を行った時の将軍との謁見の模様を、少し引用掲載してみます。これは300年以上前の日本の姿です。
画像は本文と関係ありませんが道中での清水寺
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引用開始
4月21日
・・・われわれはぬれた靴下や靴をとりかえて、[本丸]御殿に入った。カピタン一人が将軍の座所の前に進み出て、献上品を捧呈したのは12時で、それが終るとすぐにわれわれのいる控えの間に戻ってきた。(長崎奉行の)十兵衛様は、それからわれわれも一緒に拝謁するように言い、献上品が並べてあった左手の広間の所を回って、・・・・
拝謁が行われる広間のすぐ近くにある長い次の間に入った。・・・

 われわれが坐りきりで長時間待っていて疲れるといけないので、他の廊下にさがらせ、そこで気楽に時を過ごすことができるようにしてくれ、終いには近くにある庭が見えるように戸をあけてくれた。
 そこで休んでいる間に、身分の高いたくさんの若い人々が現れ、われわれを見て挨拶したが、大へん親しみがこもっていた。宗門改めの奉行はわれわれに、金の輪を見せてくれたが、それには日本の十二の干支のついた磁石がはめこんであったし、またヨーロッパの紋章やその他いろいろな物を見せた。われわれがもとめられて、これらの品について説明しようとしたちょうどその時に、将軍に呼ばれた。・・・・

 左には六人の老中・若年寄が、右の廊下には側衆が座に着き、その右手の御簾の向うに将軍が二人の婦人と一緒におられた。その前の所に実力者の側用人備後様が座を占めていた。彼は将軍の名において、よくぞ来られたと挨拶し、それから、正座しなさい、外套を脱ぎなさい、と言い、われわれの氏名や年齢を言わせ、立ちなさい、そこらを歩いてみなさい、向きを変えなさい、舞ってみなさい、などと命令し、特に私には歌え、と言った。
 われわれは互いにお辞儀をしたり、叱り合ったり、怒ったり、客に何かを勧めたり、いろいろの会話をやらされた。それからわれわれ二人を親友とか、親子とかいうことにし、互いに別れを惜しんだり、訪ねて来たり、互いに出会う二人の友人のしぐさをしたりした。また、一人の男が妻と別れる場面を演じたり、子供を甘やかしたり、腕に抱いたりする真似をした。

 その他われわれに向っていろいろな質問が行われた。すなわち私に対しては、其方はどんな職業についているのか、また特に、其方はこれまでに重病を治したことがあるか、と聞かれた。これに対して私は、捕虜と同じような状態にある長崎では、治したことはありませんが、日本以外の所ではあります、と答えた。さらに、われわれの家のことを、また習慣は違っているのか、と尋ねられた。私は、はいと答えた。其方どもの所では葬儀はどのように致すのか。答え。遺体を墓場へ運んでいく日で、それ以外の日には葬儀は行いません。
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2007年06月19日

ケンペルと元禄の日本4

各奉行屋敷への訪問

1690年(元禄三年)7月4日に日本にやってきたケンペルの「江戸参府旅行日記」の中から、1691年2月13日に長崎を出発して、江戸参府を行った当時の日本人との交際にあたる部分を、少し引用掲載してみます。ここは前回と同じ日の出来事から続けます。これは300年以上前の日本の姿です。
画像は謁見の広間の内部
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引用開始
 もう午後3時であった。・・・今日にも贈物を携えて、老中と若年寄を儀礼的に訪問しなければならなかった。そこでわれわれは将軍の御殿を離れ、大番所にいた主立った人々に、通り過ぎる時挨拶をし、歩きつづけた。
 贈物は、一つもわれわれの目につかなかったから、すでにわれわれが行く前に、めいめいの屋敷に書記役が持参し、たぶん特別な部屋に置いてあるのだろう。
・・・どの屋敷へ行ってもわれわれは書記役に丁重に迎えられ、短時間なので当然のことであるが、挽茶や煙草や菓子を出してもてなされた。われわれが通された部屋の簾や障子の後ろは、女性の見物人でいっぱいだった。もしわれわれが彼女たちにおどけたしぐさを少しでもやって見せたら、好奇心が強いから、大へん喜んで見物したであろう。しかし備後守の屋敷と、城内の北側にある一番若年の参政官[側用人柳沢出羽守吉保。当時33歳]の屋敷以外では、彼女たちは当てがはずれたであろう。備後守の屋敷では少しばかりダンスをお目にかけ、出羽守の所ではわれわれ一人一人が歌をお聞かせした。・・・

3月30日金曜日
 われわれは朝早く、他の役人すなわち二人の江戸町奉行、三人の寺社奉行、外国人や舶来品を監視する二人の宗門改めのところに、われわれの贈物を届けるため、馬で出かけた。その贈物は同じように日本人の書記役が、台に載せてあらかじめ指定された謁見の間にきちんと並べておくのである。
・・・一人または二人の家来の案内で幾つかの部屋を通りぬけ、四方八方どこの場所も見物人でぎっしりと詰っている謁見の間に連れて行かれた。席につくと煙草や挽茶が出された。それから間もなく用人か書記役が一人、時には同僚と一緒に出て来て、主人の名において挨拶を受けた。
 いつもわれわれは目に見えぬ婦人たちの視野の中にあるようになっていた。いろいろな焼菓子や砂糖漬の菓子をわれわれの前に出して、婦人たちのお気に召すように、われわれを引留めようとした。

 二人の宗門改めの奉行は、一人は西南で、もう一人は東北と、一里ほど離れたかなり遠い所に住んでいた。われわれが大へん彼らの愛顧をこうむっていたかのように、大仰な出迎えを受けた。すなわち10人ないし20人の武装した堂々たる服装の侍が、頑丈な棒を横に伸ばして町筋に立ちふさがり、詰めかけた群衆を前へ出ないように抑えていた。
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2007年06月18日

ケンペルと元禄の日本3

将軍[綱吉]に謁見

1690年(元禄三年)7月4日に日本にやってきたケンペルの「江戸参府旅行日記」の中から、1691年2月13日に長崎を出発して、江戸参府を行った当時の日本人との交際にあたる部分を、少し引用掲載してみます。これは300年以上前の日本の姿です。
オランダ使節謁見の広間
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引用開始
3月29日木曜日
 われわれは呼ばれて、二つの立派な門で閉ざされた枡形を通り、それから一方の門を出た所から幾つかの石段をあがって本丸に案内された。そこから御殿の正面までは、ほんの数歩の距離で、そこに武装した兵士が警備し、役人や近習などがたくさんいた。
 われわれはなお二段ほど登って御殿に入り、玄関の右手の一番近い部屋に入った。この部屋は、謁見のため将軍や老中などの前に呼び出される者の普通の控えの間で、金張りの柱や壁や襖でみごとに飾り立てられ、また襖を閉めた時には、それに続く右手の家具部屋の、かなり高い所にある欄間を通してほんのわずかな光がさすだけで、大変暗かった。
 われわれがここでたっぷり一時間ばかり坐っていると、その間に将軍はいつもの座所に着いた。二人の宗門改めと攝津守とが、わが公使つまりカピタンを迎えにやって来た。それから彼を謁見の間に案内して行ったが、われわれはそこに残っていた。彼が謁見の間に入って行ったと思われた時に、間髪を入れず、オランダ・カピタンという大へん大きな声がした。それは彼が近づいて敬意を表わす合図で、それに応じて彼は、献上品がきちんと並べてある場所と、将軍の高い座所との間で、命じられた通りひざまずき、頭を畳にすりつけ手足で這うように進み出て、一言もいわずに全くザリガニと同じように再び引き下がった。いろいろと面倒な手数をかけて準備した拝謁の一切の儀式は、こういうあっけないものであった。

 毎年大名たちが行う謁見も同じような経過で、名前を呼ばれ、恭しく敬意を表し、また後ずさりして引下がるのである。謁見の広間は、モンタヌスが想像し紹介していたのとは、ずっと違っていた。ここには高くなった玉座も、そこへ登ってゆく階段も、たれ下がっているゴブランの壁掛けもなく、玉座と広間すなわちその建物に用いてあるという立派な円柱も見当たらない。けれども、すべてが実際に美しく、大へん貴重なものであることは事実である。・・・・

 100枚の畳が敷いてある謁見の間は、一方の側が小さな中庭に向って開いていて、そこから光が入る。反対側には同じ中庭に面して二つの部屋が続いていて、最初の部屋はかなり広く、幕府の高官の座所で、比較的小さい大名や公使や使節に謁見する所である。しかし、最後のもう一つの部屋は、大広間よりは狭く、奥深く一段高くなっている。そこはちょうど部屋のすみで、数枚の畳が敷いてある高くなった所に将軍が、体の下に両足を組んで坐っていたが、その姿がよく見られないのは、十分な光がそこまで届かなかったし、また謁見があまりに速く行われ、われわれは頭を下げたまま伺候し、自分の頭をあげて将軍を見ることが許されぬまま、再び引下がらなければならないからである。
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2007年06月16日

ケンペルと元禄の日本2

元禄時代のオランダ人の旅行

1690年(元禄三年)7月4日に日本にやってきたケンペルの「江戸参府旅行日記」の中から、1691年2月13日に長崎を出発して、江戸参府を行った当時の日本人との交際にあたる部分を、少し引用掲載してみます。
これは300年以上前の日本の姿です。
挿絵はオランダ使節の行列
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引用開始
 われわれが宿に着くと(道にいる腕白小僧たちが叫び声をあげるので、少しもゆったりした気分になれず)与力に導かれて家の中を通り、われわれの部屋に行くのだが、そこでは小さな裏庭に出ること以外は何一つ許されず、同心たちは田畑や裏通りの見える窓や、そこに通じる戸口などすべてのものに鍵をかけさせ、釘付けにさせる。
 彼らに言わせれば、盗賊から守るためというのであるが、腹をさぐれば、われわれを盗賊や逃亡者のように見張るためなのである。それでも帰りの旅行の時には、われわれはようやく信用を得たので、こうした彼らの用心は目に見えて少なくなったのに気付いた。
 検使は、その部屋がどの部分にあっても、われわれの部屋に次ぐ良い部屋を使う。与力・通詞および同心たちは、われわれの一番近くにある次の間をとるが、その目的はわれわれを見張っていて、従僕やよその者が、彼らの知らないうちに、または許しを受けずに、われわれの所に立寄るのを妨げるためである。・・・・

 われわれが割当てられた部屋に入ると、宿の主人は、すぐに家族のうちの主立った男たちを連れて姿を見せ、めいめい薄茶をいれた茶碗を持ち、体を非常に低く折曲げ、胸の中からしぼり出したような丁重な声で、アー・アー・アーと言いながら、それを階級順に次々に差出す。
 主人たちが着ている礼服や腰にさしている短刀は、客が泊っている間は家の中でも脱いだり、とったりはしない。その次には、喫煙具が運ばれる。・・・同時に折板や漆塗りの平らな盆に肴が載せてある。すなわち焼菓子、国内産のイチジクやクルミなどの果実、暖かいまんじゅう、米から作った菓子など、また塩水で煮たいろいろな種類の根菜類とか砂糖菓子といったようなもので、これらは最初に検使の所に、次にわれわれの部屋に出される。

 日本人の客に対する給仕は女中が行う。彼女たちは客の所にすべての必要なものを運び、食事時には酒や茶をつぎ、食べ物を出したりし、そうすることで近づきになるための道を拓くのである。
 オランダ人の場合にはこのような給仕はなく、それだけでなく旅館の主人や番頭たちでさえ、茶を持って来た後は部屋に入ることは全く禁止されており、せいぜい部屋の引戸の前まで来ることが許されているくらいである。というのは、われわれの連れて来た従僕がなんでも必要なことをしてくれるし、われわれに加勢してくれるからである。・・・
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2007年06月15日

ケンペルと元禄の日本1

オランダ人の参府旅行準備

1690年(元禄三年)7月4日に日本にやってきたケンペルの「江戸参府旅行日記」の中から、1691年2月13日に長崎を出発して、江戸参府を行った当時の日本人との交際にあたる部分を、少し引用掲載してみます。
これは今から約300年前の日本の姿です。
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引用開始
 ・・・ポルトガル人がそのころこうした儀式(江戸参府)にやむを得ずに従ったように、今またわがオランダ東インド会社の代表たる商館長もそれに従っている。彼は一名ないし二名の書記と一名の外科医をこの旅行に伴うことができるが、そればかりでなく身分や官位の異なる一群の日本人に護衛されるのである。これらの日本人は長崎奉行の支配下にあり、奉行がその役を任命する。
 このことは、将軍に謁見を願う者に敬意を表するかのようにみえるが、実際この護衛の裏にある意図は全く別で、スパイや捕虜の場合と同じようなものなのである。つまりこれによって、道中でこの国の人々と疑わしい交渉や関係が結ばれないこと、また万一にも十字架・聖画像・聖遺物あるいはその他キリスト教に何らかの関係があるものを、こっそり彼らの手に渡させないこと、外国の物やキリスト教の国々から珍しい品物を持込んで、日本人に売ったり贈ったりしないように、さらに誰かがひそかに逃れて、キリスト教の伝道あるいはそのほかの有害な騒動を国内で起こすために、身を隠したりしないように、防止しようというのである。・・・・

 再度私はこういう参府旅行に加わる楽しみを持った。最初は1691(元禄四)年で、ヘンリッヒ・フォン・ビューテンヘム氏と一緒であった。彼は正直で気立てがよく思慮深い人で、日本人の流儀や言葉によく通じていた。そして特に賢明で自分の名誉とオランダ国民の名誉を保持していた。もう一度はその翌年で現バタビア総督の弟コルネリウス・アウトホルン氏に随行した。彼は博識で世故にたけ数カ国語に通じており、その生来の愛想の良さによって、疑念を抱いている日本人にうまく取り入っていたので、それによって会社の利益を非常にあげたのである。・・・

 この旅行の準備には次に挙げることが必要である。
 まず最初に将軍とその閣老および江戸・京都・大阪にいる数人の高官に対する、一定の金額の進物を選ぶことから始まる。次にこれらの進物を分け、どれを誰に贈るかを決め、それから革の袋か行李に入れ、注意深く菰(こも)で包むが、それは贈物が旅行中こわれないためであり、最後に封印をする。贈物の選択は長崎奉行が行い、幕府に喜んで受取ってもらえそうなものの中から決める。彼らはそれらの品を早い時期に商館長を通じて注文するか、あるいは現に倉庫の中にあるものを取出す。・・・
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2007年06月14日

幕末明治の英紙報道11

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース(最終回)
日英同盟成る

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
 幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は、日英同盟を祝して長崎に建てられた凱旋門
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引用開始
1895年4月13日号
 下関で開かれている講和交渉が、近日中には、昨年7月以来中国と日本の間で猛威をふるってきた戦争の決定的な終結をもたらすことになるよう、また、両国陸海連合軍の間の3昼夜にわたる激戦ののち、2月7日に起った威海衛攻略こそ歴史的事件として記憶されるに至るであろう、と期待されている。
 威海衛の位置は渤海湾南岸に当たり、中国本土北部の遼東半島の末端にあるポート・アーサー[旅順]のほぼ反対側ほ占めるが、その位置は、日本軍の企図する海路陸路からする天津・北京への敵対的前進という観点から見るとき、ここを征服することを非常に重要ならしめているのである。この進軍はもし戦争がもう2、3ヵ月延びたら、きっと企図されたであろう。伊東提督と大山将軍が威海衛で行った作戦方法は、戦術に関する教授鎌アマチュア諸君によってくりかえしくりかえし検討されることになろうが、今週号にわれわれが掲載しているような正確で信頼すべきスケッチは、いずれも今後この問題について出る叙述や論評に関連して貴重なものであることが知られるかも知れない。

戦後の東アジア
1898年3月12日号
 中国の揚子江とその他の内陸河川のヨーロッパ貿易への開港とビルマ鉄道の延長を考慮してイギリス大使C・マクドナルド卿が交渉に当たっていた中国の香港上海銀行からの借款契約は、2月1日北京で調印された、しかしロシアの影響力が強くてこの利益の多い取引がだめになりそうでもある。ロシア側としては、ポート・アーサーおよび大連湾ならびに満洲鉄道の永久租借権を要求している一方で、東部シベリアにおけるロシア陸軍の増大を大々的に意図している。他方、ドイツは山東地方の無限の占領権を要求するらしく、フランスは中国南部での、かねて欲しがっていた便益を要求するかも知れない。日本は、海軍が戦闘的態度をとっている。貿易と財政はこのところかなり混乱に陥っている。
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2007年06月13日

幕末明治の英紙報道10

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
日清戦争

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は、日本の軍艦「吉野艦」
yoshino.jpg

引用開始
1894年7月21日号
 アジアの極東では、ときおり、仲介的な地理的位置を占める一国が無政府状態に陥って、自分で防衛できなくなったような場合に、ヨーロッパの場合と同様、敵視しあう諸帝国のもつ猜疑心のために、混乱が起る。
 中国と日本とは、朝鮮をいかにあつかうべきか、自他いずれの国もこの国を放任しておくべきかという問題をめぐって、まったく意見を異にしているが、さらに北方には第三国、すなわちロシアがいて、どんな政策をとるつもりか、その意図はまったくわからない。・・・・

1894年9月1日号
 日本における最近の政府の発表によれば、朝鮮国王は6月30日中国からの独立を宣言し、ついで日本軍に中国の分遣隊をアサン[牙山]から駆逐するのを援助してほしい、と呼びかけたとのことである。
 中国側の報告によれば、最近日本軍が京城北西の平壌付近で中国軍に敗れたという。
 8月18日、日本の軍用輸送船団は、軍艦の護衛のもとに、大同江河口の平壌の入江に到着したらしい。
・・・軍は大同江流域を通って平壌に向け出発したが、突然1000騎の中国軍騎兵隊の攻撃を受け、縦隊を2つに分断された。高地に程よく配置されていた中国軍砲兵隊は、日本軍に対し砲火を開き、日本軍は完全な混乱に陥り、自国の軍艦の砲火の保護圏内の海岸へ逃亡した。日本人ガ平壌南方中和へ後退した事実については、上記の報告では言及されていないが、中和は中国軍によって占領されているらしい。・・・
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2007年06月12日

幕末明治の英紙報道9

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
横浜から見た西南戦争

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は、薩摩の戦場に出かける江戸の警官
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引用開始
1877年4月14日号
 日本は火山国であるため、しばしばこの地に爆発が起ることは、極めて自然のことである。実際、昨年10月ヒオゴ[肥後]の国の熊本の守備隊が真夜中に襲撃を受け、多数の将兵が“古い日本”の狂信家たちによって虐殺されて以来、農民の暴動や反乱がこの国のほとんど至るところで起っている。
 しかしこうした行動も、帝国政府によって、個々に鎮圧されてきた。これらの暴動のあいだ強力な薩摩藩は完全に静謐を保ち、ひところは全日本を内乱にまきこむ恐れのあったチョーシン[長州萩]における前原[一誠]の反乱のあいだすら、そうであった。

 農民を鎮めるために減税が行われ、日本国中すべてが静謐に帰するかと思われた。それでも、ときおりは薩摩がかなり動揺しているとの噂が江戸に達した。ひところは、西郷[隆盛]が、不愉快に思っている大臣たちの解任を求める建白書を提出するため、17個大隊の兵の先頭に立って首都に向かって進軍中である、との報せもあった。しかし、これらの噂は否定され、ミカドが今月五日に鉄道開業式に臨むため京都へ赴いたころは、すべてが円滑に運んでいるかのように思われた。しかしこの式典すらも、とても満足には行われなかった。というのは、1隻の政府の汽船が鹿児島(薩摩の首府)から火薬を持ち去ろうとしたところ、その国から火薬を持ち去らせるのを拒んだ武装したサムライ[士族]たちによって追い払われた、とのニュースがこの地に伝わったからである。これが、実に紛争の発端であった。

 薩摩にいた男子生徒やサムライや軍隊は、武器をとって隣国ヒオゴ[肥後]に侵入したのである。ミカドとその顧問官たちは、かねてから和解策をとることを願っていたが、しかし、反乱者たちがこのような振舞をしている旨の電報を受け取ると、彼らは、やむを得ず、戦争を布告した。そこでミカドはアリスガワ・ノ・ミヤ[有栖川宮熾仁親王]を総司令官に任命して、できるだけ速やかに反乱を鎮圧するための全権を与えた。
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2007年06月11日

幕末明治の英紙報道8

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
日本の茶屋の夜と朝

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は、宿の少女
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引用開始
1873年11月15日号
 日本は旅行のためのよい設備をそなえている。この点では、多くの東洋諸国とは異なっている。われわれの言葉の意味でのinn(旅館)は存在しないが、日本人なりのそういう場所は、「茶屋」(tea houses)と称するものによって、充分提供されている。
 こうした場所のひとつふたつは、大抵の村々に見出される。ある村々では、こうした場所は大きな建物である。すべてが極めて念入りなやり方で清潔さを保っており、しばしば日本式に設計された裏庭があり、そこには小型の岩や滝や湖や寺や盆栽の木が置かれている。ただヨーロッパ人旅行者は多少の食料品を用意して行かなくてはならないが、それは、日本の食糧がほとんどヨーロッパ人を満足させないからである。
 それに、いくらか飲める物と、敷布と、枕と毛布は、自分で持参しなくてはなるまい。

 苦力もしくは運搬人は容易に雇えるから、われわれは、日本国内をいとも気楽に旅行することができるのである。これらの茶屋の部屋は、床にたいへん立派な柔らかい藁でできた畳があり、部屋の三方は紙製の、日本の風景を描いた横にすべる板[襖]でできている。夜になって家を締めるときには木製の横にすべる板でできた外側の防壁[雨戸]があり、これらには家を安全にするためかんぬきが使われる。朝になっても、これらの外側の板が外されるまで、光は部屋に入ることはできない。こうした場所のひとつで私がはじめて眠った夜のこと、私は、朝目がさめても、終夜灯が尽きてしまって、あたりは真っ暗であった。今何時だろうかと思ったが、あまりに快適だったため、何時か知るためマッチをするのがめんどうであった。
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2007年06月09日

幕末明治の英紙報道7

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
日本に起った変化(本紙特派通信員より)

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は、新旧両様、日本における服装の変化。
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引用開始
1873年11月8日号
 いかなる国の歴史においても、日本に起った最近の革命に匹敵する変革を見出すのは困難であろう。最も急激な変革が行われ、驚くべき変容ぶりが今なお続いているのである。
 政府の明瞭な代表者であったタイクンは完全に排除され、ダイミョウたちの古い封建制度も一掃されてしまった。この国の軍事力を形成していたダイミョウ家臣団の代りに、今ではフランス式に訓練され、ミカドもしくはその政府に直属する陸軍がある。
・・・・電信線が全国に拡張され、まだ1本だけだが、鉄道もすでに江戸横浜間に運転されており、もう1本の線は神戸大阪間でほぼ完成に近く、やがてはこれらも日本全土に拡張されることとなろう。

 ヨーロッパの暦が採用され[明治5年12月3日が1873年1月1日なので、明治6年1月1日とした]、イギリス製の時計が鉄道の停車場にはどこにもかかっており、・・・・
 いかなる東洋の国も――そして、いかなる西洋の国も、と付け加えてもよかろうが――日本人が自国の主要な島をそう呼んでいるニフォンに、今起りつつあるような急激で完全な組織上の変化をとげたことはない。ミカドは今や政府の真の首長であり、しかも宗教的な神聖さのもとに包まれて見えないところにいる代わりに、彼は国民の前に現われ、政務を実際にとり行っているのである。みずから最初の鉄道の開業式に臨み、横浜商業会議所からの祝辞をたずさえた代表団に拝謁を賜った。・・・・

 これらすべてのことは奇妙にも北京で起った事態と対照的であり、そのことは、・・・皇帝と西洋列強代表たちとの外交関係、およびひきつづき中国のどの地方へも電信と鉄道を導入することに反対している、という詳しい報せのなかで明らかにされる。
 どの港にせよ、日本の港を訪れる人の眼にとまる最初のことは、つい最近起って今もつづいている衣服の変化である。今までのところ、婦人たちは自分の昔からの絵画的な衣裳になんら変更を加えていないし、すべての人々がこの変化をなしとげるにはなお時間が経たなくてはなるまい。しかし、部分的にせよ全面的にせよ、変化をなしとげた人々の数も相当である。
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2007年06月08日

幕末明治の英紙報道6

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース
明治維新のニュース
 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
 幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は横浜の出入り口の門、門に見える3人は薩摩出身の兵士。
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引用開始
1868年1月11日号
 上海からの報告は、日本で革命が起った旨を伝えている。タイクン[徳川慶喜]は辞職[大政奉還]したといわれ、この変革のひとつの結果として、外国人に対する新たな諸港の開港は、おそらく2、3ヶ月遅れるものと思われる。

1868年1月18日号
 国内の内乱に関しては、現在のところ、帝国政府は今後ミカドのもとに、ダイミョウすなわち貴族層の協議機関をおくことによって運営されていくであろう、との話である。帝国の首都キアト[京都]には争乱が起っているとの噂がある。

1868年3月7日号
 この国は明らかな混乱状態にある。内乱が生じたのは外国人に対して最近行われた数々の譲歩の結果であるが、この譲歩政策については、半独立的な領主たちが中央政府と意見が合わないのである。
 中央政府についていえば、「シャグーン」[将軍]が積極的でしかも目に見える首長であるのに対して、「ミカド」[天皇]は形式上の首長なのである。若いミカドはサツマ[薩摩]、チョイス[長州]及びソソ[土佐]という帝国の3大領主によって捕縛され、1月25日[慶応4年1月1日]付の報告書発信日現在では、捕虜としてなお彼らの手中にあるとのことであった。
 香港で2月12日[慶応4年1月19日]に受取った情報によれば、連合したダイミョウたちとショウグン・ストツバシ[一橋慶喜]との間の争いが継続中とのことである。・・・

1868年4月11日号
アレキサンドリアで受取った情報によれば、日本における内乱は終った。3人の有力なダイミョウ――すなわち、薩摩と、長州と、ゾザ[土佐]――がミカドのもとに政権を握った。

1868年5月2日号
 先月7日[慶応4年3月15日]までの日本からの情報によれば、英国公使ハリー・パークス卿は、ミカドを訪問し、ミカドによって好意的に迎接を受けた。その帰路、パークスは一団の日本人に襲撃を受け[正しくは明治元年2月晦日襲撃を受け、3月3日初めて朝見]、付添の者数人が負傷した。襲撃者のうち3人が捕えられた。
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2007年06月07日

幕末明治の英紙報道5

イラストレイテッド・ロンドン・ニュース

 昭和48年に初版が発行された「描かれた幕末明治」という本をご紹介しています。これはイギリスの絵入り新聞「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」に掲載された1853年から1902年までの日本関係の記事を翻訳したものを一冊の本にまとめたものです。
幕末から明治への激動の日本の姿を今に伝える一資料として、その内容を抜粋引用してみましょう。
挿絵は長崎のオメズキ[御目付]とオブンゴ[御奉行]
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引用開始
外国および植民地ニュース:日本
1859年9月3日号
 最近の中国からの郵便は、6月5日[安政6年5月5日]までの日本からのニュースをもたらした。日本とヨーロッパ諸国との国交は日増しに緊張を加え、数年のうちにこの点では完全に変化が起りそうである。
 電信に関する最初の実験ののちに、皇帝[将軍]は、江戸・長崎・下田・箱根の町々を結ぶ線を架設するように命じた。
 皇帝はまた艦隊の改造も決定し、すでに蒸気軍艦を6隻もっている。それらのひとつ「二フォン号」[咸臨丸=原名ヤーパン号]は周航航海に出たが、エンジンはアメリカ製の350馬力である。。船員はすべて日本人で、彼らは蒸気エンジンの操縦に多大の適性を示している。

 アメリカ領事と日本政府[幕府]との間に難題が起ったが、このほど友好的に解決された。豊かな銅山を発見したひとりのアメリカ人が、日本の法律に反して鉱山と土地に対する権利主張した。政府は反対し、事件は不愉快な局面を迎えたが、そのとき、皇帝は、争いがさらにひろがるのを防ごうと、第三勢力を審判員に選ぶことを提案し、当初はフランスを、ついでロシアを指名した。アメリカ領事[タウンゼント・ハリス]は回答を送らなかったが、発見の当事者は、結果を道徳的に判断して、土地に対する要求は放棄し、鉱山を採掘してその利潤を日本政府と分けあう許可を求めた。この申し出はただちに受理されたが、誰しも本件における皇帝のとった中庸的立場を非常に高く評価している。

長崎の日本人
1860年2月25日号
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