2007年08月22日

ベルツの日記13

対馬沖海戦前の日本:明治38年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露戦中の日記を引用してみます。前回と前後するものもありますが、ロシアのバルチック艦隊が日本へ進撃中の国内の様子です。
写真は鎮海湾を出撃する連合艦隊(日露戦争古写真帖より)
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引用開始
3月16日(東京)
 午後、結婚式の後の日本式披露宴に出席。唯一の西洋人だった。長与又郎博士の令妹が、一青年医師と結婚したのである。そして今日、帝国ホテルで300人の客を迎えて、その披露宴が行われた。・・・
 新婦は、日本婦人の正式礼装である。白の下着に黒の絹服をつけていた。それには幸福の山「ホウライサン」の意匠が刺繍してあったが、この意匠は、結婚の贈物を包むのに用いられる「フクサ」という、金糸入りの四角い絹布片にしばしば見るもので、すなわち松と竹と梅の花である。会衆の男子をつくづく眺めたとき、その衣服が今ではぴったり似合っていること、かれらが洋服に慣れ切っていることが目についた。25年前、このような場合の日本人の様子とは、なんという相違だったろう――服はたいていだぶだぶで、下着類は汚れ、猫背で膝が曲っていた。・・・

3月21日(東京)
 日本の力が増大するのを、合衆国では邪推の眼でみる徴候が、いよいよ著しい。二週間前にはカリフォルニア州の立法会議が、ワシントンで日本移民制限の措置を提案することを決議した。一週間前には議会の一委員会の委員長が、アメリカは何時なりと日本にほこ先を向け得るよう、その艦隊を増強せねばならないと公言した。そして今度は移民委員会が、日本人はアメリカの公民になれないとの理由をもって、テキサスにおける日本人10名の帰化を無効と宣言した。・・・

3月27日(東京)
 目覚しい日本の財政――日本の内国公債は、おそらく五倍の申込み超過になるらしく、そして今度は、ロンドンとニューヨークで三億円の新公債を起したが、しかもその条件たるや、一割引発行で四分五厘の利子という、すこぶる有利なものである。・・・担保として、政府はタバコ専売の収益を提供している。
 こうして、自分が日本のためにいだいていた唯一の懸念、すなわち財政上の懸念は一掃された。
 遼陽の戦勝後においてすら、ロシアの公債はまだすこぶる高値を保ち、日本のは安値だった。ロシアは到るところで、たやすく金を調達できたが、日本は自己の同盟国から、最もひどい募債条件を甘受せねばならなかった。今はそれが逆である。ロシアにはもう誰も貢ごうとしない。反対に日本へは、われもわれもとひしめき合って、金を貸そうとしている。
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2007年08月21日

ベルツの日記12

奉天会戦:明治38年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露戦中の日記を引用してみます。
写真は陥落直後の奉天(日露戦争古写真帖より)
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引用開始
明治38年(1905年)1月5日(東京)
 今日、宮中の盛大な新年宴会。各国公使を除けば、またも自分は唯一の西洋人であり、しかも、金糸入りの大礼服姿の百官に混って、たった一人の燕尾服だった。なにしろ、勲四等以上の日本人はいずれも、けばけばしく刺繍で飾り立てた大礼服をもっているからだ。・・・
 天皇は、広間の一端の離れた壇上に、東面して着席される。その左右に、一段下がって、各皇族の席がある。・・・自分は、いうまでもなく当世の花形である東郷提督の筋向いに席を占めたので、その顔立ちをくわしく観察することができた。かれは面長で、頬骨はほとんど目立たず、上り下りのない真直ぐの眼、高くはない鼻だ。ゴマ塩の鼻下ひげがある。全体として、その顔はいささか日本人離れがしている。・・・
 宴会は純日本式で、紐飾りの付いた服装の給仕が銀瓶から注ぐ一杯の酒で、例のように始まる。それから、各自の前に黒い漆塗の盆に盛って並べてある料理に手を出す。皇室の紋章入りの酒杯は、もちろんのこと、誰もが大変ほしがるものである。マツ・ウメの花・タケに、長寿の表徴であるツルとカメを配した「幸福の山」(蓬莱山)の象徴的な飾物もまた、各自包んで帰って差支えない。・・・家では召使い一同が、この宴会の「幸福の山」のふもとに盛られている菓子の、よしんば小さいかけらの一つでも、各自にゆきわたれば、大変ありがたがるからである。

1月16日(東京)
 日本軍は、敗れた敵軍に対して、非常に騎士的な態度を示している。これには、おそらく打算的な気持ちも混っているのだろう。がしかし、事実は事実なのだ。乃木将軍は長崎の知事に一書を送って、ステッセルをしばらくの滞在中、特に鄭重に取扱うよう依頼した。乃木としては、これは確かに心底からの希望である。

1月22日(東京)
 アメリカは清国に、厳正中立維持の要求を突きつけた。そしてドイツ、イギリス、イタリアの三国と組んで、交戦国側にこの点を厳重に警告し、ことに門戸開放の原則をも強調しようと目論んでいる。門戸開放の点は、平和の暁には、特に日本への要求になるわけだから、今からすでに満洲を、外人に対して思いのままに振舞える日本の勢力範囲とみなしている。多数の性急な東京の連中のお気には召すまい。奇怪なのは、アメリカが何事にも出しゃばるのと、また日本がそれに対して「有難う」と礼を言っていることだ。
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2007年08月20日

ベルツの日記11

旅順の陥落:明治37年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露戦中の日記を引用してみます。
写真は第三回旅順総攻撃の決死隊(日露戦争古写真帖より)
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引用開始
10月23日(日光)
 北海における珍しい出来事が、イギリスを極度の興奮に陥れた。バルチック艦隊が、罪のないイギリス漁船を砲撃し、二隻を沈没せしめ、多数の人々を殺傷したのである。まだ公表はないが、強いて説明をつければ、露艦が盲目的な対日恐怖症から、(理性のある者なら、どうして日本の軍艦がそんな場所に現れるか、想像もできないはずなのに)罪のないイギリス漁船を日本の水雷艇と誤認したものと解釈するよりほかはない。・・・・・

10月28日(東京)
 バルチック艦隊は、フランスの港湾そのものの中で、石炭の供給をうけている。これは、明白な中立違反だ。・・・・
 「ロイター電」によれば、イギリス全土は、ハル港漁船事件で激怒しているものと信ぜざるを得ない。もちろん、それはもっともなことだが、しかしイギリスは、バルチック艦隊をやっつけることまでは考えていない。なぜなれば、イギリスの計画におあつらえ向きなのは、日本もまた、あまり強大にならないことであるからだ。かくてこそイギリスは、東アジアで思いのままに振舞えるのだ。イギリスの政策のこんなねらい所は、元来、だれにだってわかるはずなのだが、日本の新聞はわからない――否、それを知りたくないのだ。・・・・

・・・午後、女子学習院の運動会へ。これは、年に二回催される。六百人の女生徒全部が参加した。数々の体操や遊戯は、全く申分なく、その出来栄えも同様に結構だった。徒手体操は、身体のあらゆる筋肉を鍛錬するよう、適当に選んである。二十五年前を回顧する時、女子の体育方面における進歩は、確かに驚異的である。しかし、自分の傍におった外交団主席ド・アネタン氏は、それと共に、日本の女性独特の優雅な点が害われることをおそれている。あるいはそうかも知れない。氏のいわく「これらの少女たちは、もう今までの日本婦人のように、優しくしとやかな女ではなくなるだろう」と。しかしながら日本も、上流階級に壮健な婦女子を望むとすれば、結局、一つくらいの代償は払わねばなるまい。

11月26日(東京)
 報道によると旅順総攻撃が開始されたそうだ。
 日本とアメリカ――サンフランシスコのアメリカ労働総同盟は、合衆国とその領土より完全に日本人を閉め出すことを一致で決議し、この趣旨を国会に陳情する件を可決した。これはもちろん、ワシントンでのルーズベルト大統領による伏見宮の歓迎を機会に、先日、日本の新聞がアメリカを謳歌したあの気勢をそぐものだ。・・・しかしながら、こんな経験すらもなお、日本人のアメリカ盲信の迷夢を覚ますにはいたらない。日ごろ、ドイツの対日敵性を証明するためには、いかなる機会をもとらえてのがさない『朝日新聞』は、相変わらず確信していわく「アメリカの太平洋沿岸地方でも、もっと日本人を知るようになれば、必ずや日本人を排斥しないようになるだろう」と。ところが、同地方こそは現在すでに、日本人を一番よく識っているのだ。
 フランスに対しても、その中立違反事件では、穏やかな応対振りである。ただドイツのみが、しかも近ごろのその態度には、非難の余地がないにもかかわらず、はなはだしく憎まれているのだ。・・・・

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2007年08月18日

ベルツの日記10

宣戦布告:明治37年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露開戦時の日記を引用してみます。
写真は旅順港閉塞報告丸乗組員前列右から三人目が広瀬武夫少佐(日露戦争古写真帖より)
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引用開始
2月11日(東京)
宣戦布告――今日は「紀元節」といって、2564年(!)の昔、日本最初の君主、神武天皇が即位した日であるとか。この日を利用して天皇は、対露宣戦を布告した。それは中庸を得た布告文で、どこでも好印象をもって迎えられることだろう。
 旅順沖の大海戦はまだ相変わらず、公式に確認されていない。
午後――
 今なお東郷提督の公報が出ない。非常な憂色がみなぎり始めた。
幸いにして――パリ経由で――アレキシェフ(総督)のペテルブルグ宛の報告が伝わってきた。それによると、日本軍の勝利は、昨夕伝えられたほど圧倒的ではないが、それでも極めて著しいものがある。
 旅順沖の第一戦で戦艦二隻、巡洋艦一隻が甚大な損害をこうむったことは、アレキシェフ自身も認めている。「然れども、これら諸艦はなお水面上にあり」と称するのだ。アレキシェフの第二報によれば、二日目(すなわち九日)戦艦一隻、巡洋艦三隻が水線部に損傷を受け、従って戦闘力を失った由で、しかもこれは、ロシアが極東にドックをもたぬため、決して一時的のものとはいえない。だがしかし、アレキシェフの報告は、日本側になんらかの損害を与えることができたとは、一言も述べていない。
夜――
 ようやくにして東郷提督の報告があった。それははなはだしく控え目のものである。事実その報告によれば、日本側の戦果を、ロシア側の自認しているよりも僅少に推定することすら、あえて不可能ではないくらいだ。
 九日の夜から十日にかけて、大暴風雨があった結果、東郷は自軍の艦艇と、ボートによる連絡がとれなかったらしい。とにかく、今までに露艦九隻が戦闘不能となったのに反し、日本側では著しい損害をこうむったものは、一隻もないことだけは確実だ。・・・・

2月16日(東京)
 戦争の第一報――もっともそれは、誇張されてはいたが――によってヨーロッパのうけた深い感動が、だんだんと判って来た。今度という今度は、さすがのドイツも、無敵ロシアのもろさ加減が、こうも暴露されたのを見ては、いよいよ目を覚まさざるを得ないだろう。なかんずくこれは、あからさまに日本人を軽侮し、一途にロシアを賛美してはばからなかった、東洋におけるわが海軍と役人連中によい薬だ。おそらく今ごろ、かれらの中の若干の者は、昨年の夏、自分と語ったときの話を思い出していることだろう。
 あのとき自分は、日本の方からロシアを攻撃するが、しかもその際、十分勝算があるとの意見を述べたところ、素気なく笑殺された。そして、さすがに日本人を観る点にかけては、かれらの中の誰よりも勝れていると賞められるどころか、反対に、盲目的な日本びいきとして、ヨーロッパ式に物事を量る尺度をなくしてしまったのだといわれた。だが、こんな非難は、友人や親戚の者からもうけて、もう慣れっこになっている。そしてこれは、自己が世の中で観たり覚えたりしたことを、祖国のために役立てようとすれば、誰でもつねにうける非難なのだ。
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2007年08月17日

ベルツの日記9

日露開戦直前:明治37年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露開戦直前の日記を引用してみます。
写真は仁川上陸の第一軍(日露戦争古写真帖より)
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引用開始
1月2日(東京)
 五時のお茶の時、英国公使館付武官ヒューム陸軍大佐並びに、ジャーディン海軍大尉とエー・バナーマン卿の両英国士官と共に政局を語る。この両士官は当地駐在を命ぜられて、まるで通訳になるかのように日本語を勉強している。だが、ジャーディン大尉は素直に断言した「要するにわれわれは、この戦争だけが目的でやって来たんですよ」と。この言葉は、英国が四ヶ月以前において、既に戦争を必至とみなしていたことを、十分に表明している。

1月3日(東京)
 予想されたとおりロシアは、少なくとも清国に向っては、日本の隠忍を恐怖だと示唆している。こうなってはもう、断の一字あるのみだ。いつのことだ――いつ、日本は馬山浦を占領するのだ! 京城駐在のパウロフ露国弁理公使は、折もあろうに今この時に、馬山浦の土地を韓国に要求するという、高慢な態度に出た! 日本に対する歴然たる侮辱だ!
 一般には、日本側から戦端を開くのも間近いことと観ている。日日新聞ですら、今では結局戦争を、しかも即時の開戦を促す有様である。恐らく日本も、宣戦を布告することはなかろうが、戦端は開くだろう。もしやらなければ、本当にばかだとののしられても仕方がないはずだ。

1月6日(東京)
 日本の強硬な態度は、ヨーロッパに感動を与えた。『ヤパンポスト』紙の一電報によれば、ドイツの新聞も今では、ロシア側の完全な譲歩によってのみ平和を保ち得る旨の見解らしい――これは久しい以前から当地のわれわれが抱いていた見解だが。但しこの譲歩は、文字通り完全なものでなければならんはずだ――というのは、ロシアがこんな譲歩をした場合ですら、それは後日戦端を開くため、単に好機をうかがっているにすぎないことを、日本は余りにもはっきり知りすぎているからだ。従って現在の事態では、ロシアが最後に至って譲歩することは、決して日本の歓迎するところではなかろう。・・・
 現内閣の過度の隠忍振りをあれほどしばしば、しかもあれほど猛烈に攻撃したジャパン・タイムスは、今日突如として、その内閣が、しかもその隠忍自重により『全世界の絶賛』を博した!と、書立てている。
 フランスが、清、韓両国内で政治的の煽動を始めた。北京駐在仏国公使は、速やかにロシアと協調するよう清国側に勧告し、また京城駐在の同国公使は韓帝に、フランスの保護を受けられるよう進言したとか。これは、直接日本に対する敵性行為を意味する。・・・・
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2007年08月16日

ベルツの日記8

日露戦争前年:明治36年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露戦争前年の日記を引用してみます。
写真中央はクロパトキン将軍、右が寺内正毅陸軍大臣(日露戦争古写真帖より)
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引用開始
9月15日(東京)
 二ヶ月この方、日本とロシアの間は、満洲と韓国が原因で、風雲険悪を告げている。新聞紙や政論家の主張に任せていたら、日本はとくの昔に宣戦を布告せざるを得なかったはずだ。だが幸い、政府は傑出した桂内閣の下にあってすこぶる冷静である。政府は、日本が海陸共に勝った場合ですら、得るところはほとんど失うところに等しいことを見抜いているようだ。・・・・

10月20日(宮ノ下)
 外交上は相変らず何の決着もない。・・・だがしかし、もし日本が本当に韓国を占有する意志なのであれば、行動に出るのは今だ。ロシアが永住的に満洲に腰をすえるのを黙って見ておれば、韓国も失ってしまうだろう。こんなことは日本の誰にも判っているのだ。だから、何のために依然として談判を続けているのか、全く不可解である。一日一日がロシアにとっては有利、日本には不利となるのだ。・・・

12月14日(東京)
 ローゼン男(爵)は困難な時局に当面している。・・・男は非常に親日的と見られており、事実またその通りである。だがその男も、今ではやはり日本の主張に腹を立てて、英国が同盟の力を認めることにより日本人の頭を狂わしたものと称している。「われわれは徹頭徹尾平和的で、決して侵略的ではない」と男はいった。そこで自分は一言さしはさましてもらったのである。――とにかくロシアは、他国の眼にはすこぶる侵略的に感じられる、満洲占領は日本人から大いに侵略的な行動と見られていると。すると男は沈黙し、ただ肩をすくめるばかりで、何だか口の中でつぶやいた。

12月21日(東京)
 政治的に一向からっとしない空模様である。戦争はますます不可避だ。ロシアは日本をなめてかかっている。戦備は整えるし、韓国と清国では勝手気ままのし放題という有様で、しかも一方ヨーロッパには、極めて平和的な報道をばらまいているのだ。
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2007年08月15日

ベルツの日記7

北清事変(義和団の乱)の頃:明治33年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
義和団事件の頃の日記を引用してみます。先ずは楽しい事項から。
写真は京都円山公園の桜(モース100年前の日本より)
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引用開始
4月9日(京都)
 けさ未明に、神戸からこの京都へ。一面に春の美しい装い。祇園のそばの公園内のにぎわいは、今すこぶる面白い。サクラはちょうど満開で、たくさんの人々をひき寄せている。にわか作りの茶店ないしは、燃えるように赤い覆いをかけた簡単なベンチに、時としては色とりどりの幕を張りめぐらしただけのものが、至るところにある。
 またここには、でかでかと広告した、鳴物入りの『百美人見せ物』もある。これは百人の芸者の写真を陳列したもので、入場料五銭。入場者はそれぞれ、どの芸者を一番美人と思うかを記入する――というよりはむしろ、記録係に口で伝えるのだ。これらの若い芸者のうちで、最多数の投票を得たものが六百円の賞金をもらう! すべて、東京にある類似の催し物のまねごとである。全く特異であり、しかも文化史的、民族史的にいってはなはだ興味のある点は、日本人の選んだ入賞者がヨーロッパ人の眼には賞に値しないものであり、またその逆も真であることだ。

6月6日(東京)
・・・・清国でも、おもしろくない模様である。ロシアは、暴動を鎮圧するために自国の軍隊を派遣することを、清国政府に申し出たそうである。フランスも結局、一緒に巻きこまれねばならないことになるかもしれない。よしんばそれがどんなに辛くとも。もしロシアの友情を傷つけたくないのなら、『やむにやまれぬ』ことだ。・・・・

6月13日(東京)
・・・・政情不穏、ますます不穏。清国では、ロシアが大沽に砲二十四門を有する四千名を下らぬ兵を、またイギリスが一千名をそれぞれ上陸させた。天津から北京への鉄道は破壊された。数名の西洋人が殺害された。ながらく気づかわれていた『大戦争』がここで始まらねばよいが――。

6月17日(宮ノ下)
 清国の政情は険悪である―険悪! 清国人は、暴徒ですら、決して一般に考えられていたほど『無視してよい存在』ではない。・・・
 英国のシーモーァ提督が1400名の各国連合軍を率いて、天津から北京に進軍した。恐らく誰も信じていただろう、提督が何の抵抗も受けず、間もなく首都に到着するものと――約140キロの行程。ところが、再三再四電信を破壊されながらも、とにかく届いた報道はといえば、その軍隊が前進していないことばかり伝えている。暴動及び外人に対する清国政府の態度は全く不明である。北京にいる外人の状態は危険きわまりない。

6月18日(宮ノ下)
・・・この場合、救援できる立場にあるのは日本とロシアのみである。両国だけが、相当大部隊の兵を出せるのだ。明らかに暴動は、清国全土に拡大する恐れがある。
 単独では今、ドイツは何もできない。ロシアの家来になりたくなければ、イギリスと日本に結びつくよりほかはないが、よりによってこの両国たるや、前者はドイツ国民から、また後者はドイツ政府から、それぞれ念入りに手ひどい扱いを受けていたのだ。
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2007年08月11日

ベルツの日記6

暑中お見舞い申し上げます。
明日より14日まで休載させて頂きます。

ウタの死を知らせる手紙:明治29年

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から今回は最愛の幼い娘を亡くした時の手紙を引用してみます。
写真はベルツ(Wikipediaより)
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引用開始
2月28日:東京永田町2丁目
 懐かしい皆さん!
 久しくお便りをしませんでしたところ、いま、悲しい知らせでこの手紙を始めねばならない次第です。
 かわいいウタがなくなりました。
 一昨日の朝、食事の時、まだウタは、生れつきの愛嬌を一杯にふりまいて、わたしの側にすわっていました。お昼に、わたしが大学から帰ると、ハナ(妻)は、子供がかぜをひいたようだと申しました。夜になって、重い腹膜炎を起こしたのですが、この病気は大抵は命取りになるのが常です。そして、今から数時間前に、ウタの明るく澄んだ眼は閉じられてしまいました―永遠に。
 子供が病気になった、ちょうどその日、ハナは『少女の祭り』への招待状を書くのにかかっていましたが、この祭りというのは、母上の誕生日である『三月の三日』に、この日本では毎年お祝いされるのです。しかも今回は、ウタも満三歳になる年にあたりますので、特に盛大に祝うことになっていました。初めてウタに洋装させるつもりで、かわいい服がすっかり取りそろえてありました。
 ところが今、わたしたちのするのはそのお祝いではなく、あの子の―お葬いです。


 このような花盛りの美しい子供を、急に失うということは、恐ろしい打撃です。何しろ、誰ともかけ離れて、ウタは、今までに見た子供の中でも、全く特別な存在でした。あの子は母親から、その気質の内面的な快活さと、同時にまた―子供ながらもある程度は認められるのですが―その堅固な性格と不屈の意志を受け継いでいました。特殊の魅力をもつ、あの子のとても大きい利口な眼には、誰もが驚嘆していました。そして、わたし自身がしばしば不思議に思ったのは、知合いの家庭のもう大人に近い令嬢たちが、ウタにまるで夢中だったことです。わたしがこの不審を口に出していうと、いつも与えられるおきまりの返答がこうです――
あの子は他の子供たちとは違いますと。
 トクは、臨終の時、妹の傍にひざまずき、涙にむせぶ声で絶えず祈り続けました「お助け下さい、どうか妹をお助け下さい」と。わたしはトクを、室外へ遠ざけねばなりませんでした、トク自身が病気になる心配があったからです。
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2007年08月10日

ベルツの日記5

日清戦争のころ

ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から当時の日本と日本人の姿を引用してご紹介します。
写真は箱根湯元街道(モース100年前の日本より)
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引用開始
明治25年8月27日(東京)
 ここ数日は、ヨーロッパ行きの用意をした。
 今日、荷造り。妻(ハナ)は無言で根気よく、しかも上手にやるが、全く彼女でなければできないことだ。三歳のトクには、『オトウサン』がとても永いこと『ドイツ・ノ・クニ』へ『オバアサン』をたずねて行くということが、どういう意味かまだわからない。

明治26年8月17日:太平洋上、汽船オセアニック号にて
 一年に近い不在の後、ヨーロッパや通過したアメリカ合衆国の旅からさまざまの印象を得て、いま帰るところだ。日本に近づけば近づくほど、ハナやトクやウタに会いたい気持ちが、いよいよ激しくなる。ことにウタには、生まれてから初めてだ。

8月21日(横浜):日本到着
 ハナ、トク、赤ん坊のウタが待っている、『山手』のネムブリニ・ゴンザガ方へ。ハナは脚気でまだ少し顔色が悪い。トクは大きくなっていて、意外に元気だが、これはまる一ヶ月、堀内の海岸で遊んでいたからだ。ウタは、生後四ヶ月にしては、上出来の子で、焦茶色の大きい眼をしている。髪は僅かに濃いブロンド。

12月24日(東京)
 クリスマス・イーヴ! だが、楽しいこの日も憂うつだった! トクの流行性感冒がすんだかと思うと、今度は、一週間このかた、かわいい盛りのウタが同じ病気で、重い肺炎を併発し、絶えず生死の境をさまよっている。妻の振舞は悲壮を極め、子供を昼も夜も、ほとんどその腕から離さない。それこそ全く『かの女の』子供といった形で、むしろトクの方がよけいに自分のことを案じてくれる。自分自身も流行性感冒にかかっているのだ。

明治27年7月25日(宮ノ下)
 東京では号外が出た――鎮台の一部に出動命令が下り、予後備召集の準備が勧められていると。戦争らしい。
 妻(ハナ)は子供たちを連れて、昨日こちらへ来た。われわれは山口の『別荘』(現富士屋ホテル)へ移った。みな元気で健康だ。ウタとトクは、この宮ノ下で大喜びだ。みなで一緒に木賀へ金魚を見に行く。
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2007年08月09日

ベルツの日記4

大隈公暗殺未遂(明治22年)

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から当時の日本と日本人の姿を引用してご紹介します。
引用開始

10月18日(東京)
 センセーショナルな出来事――その場から、今帰宅したところだ。七時頃、イギリス公使館のナピーア氏のもとへ車をかり、そこから、夕食によばれていたチェンバレン氏のところへ行くつもりだった。ところが、ナピーア夫人は、熱に浮かされたように興奮していた。自分の顔を見るが早いか、有無をもいわせず、お説教だ。最初は何のことだか合点がいかなかった。そのうちに、ようやく事情が判ってきた――暗殺事件が起ったのである。それが大隈外務大臣に! 
 みんなが自分を探していたのだ。そこで、馬車に飛び乗り、外務省へ。どの門も、サーベルとピストルの警官で一杯だ。前庭には、数知れぬ馬車、人力車。自分の顔をみると、すぐ屋内へ通した。大隈氏は、自分がいつも氏夫妻を往診する時と同じ階下左側の部屋で、ソファの上に横たわっていた。意識は明瞭だ。仮包帯を施した右脚の激しい痛みは、モルヒネで和らげてあった。人々は、まだ橋本氏が来るのを待っていた。他のおもだった日本の医師たちは、もう集まっていた。かれらはすべて、甚だ冷静に事を処理した。だが、このような場所ですら、先生がたはあのばか笑いをやめることが出来なかった。

 右足内側のくるぶしの上方にある傷は、その個所で脛骨を完全に粉砕していた。その上方の第二の傷は、ひざ関節の内側下方にあって、該関節内への粉砕骨折を伴っていた。脛骨の中間部も同様に、全部粉砕されていた。下腿を動かすと、骨が、まるで袋にはいっているかのように、手の中でがたがた音を立てた。上腿切断手術よりほかに、施す手段がないことは明白だった。この手術を佐藤氏が行い、その際、橋本氏がある程度の指図をした。手術は順調にはかどった。治癒の見込みは十分ある。

 凶行は、明らかにダイナマイト爆弾を以て行われた。犯人来島恒喜は、その場で頸部をかき切って自殺した。
 凶行の原因――条約改正。大隈は、この国多年の宿願であった条約改正をなしとげようと思った。事実かれは、その目的達成の寸前にまでこぎつけ、ドイツ、アメリカ及びロシアとの新条約はもはや締結されたも同然で、ただ批准を要するのみという状態にあった。この時、突如として、多数の日本人は不安をいだき始めたのである。内閣まで、このことで確執を生じた。かつては日本人すべてが望んでいた宿願を、多大の労苦と手腕でついに達成することに成功した大隈は、今では、外人に国を売ろうとする国賊であるとか、その他のばかげた非難を浴びるにいたった。このような一般の感情が最高潮に達して、今回の卑劣な暗殺行為となって現れたものである。・・・・
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2007年08月08日

ベルツの日記3

帝国憲法発布(明治22年)

 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から当時の日本と日本人の姿を引用してご紹介します。
写真は当時の皇居桜田門(B・ジャポンより)
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引用開始
明治22年2月11日(東京)
 天皇の前には、やや左方に向って諸大臣、高官が整列し、そのうしろは貴族で、そのなかに、維新がなければ立場をかえて現在『将軍』であったはずの徳川亀之助氏や、ただ一人(洋服姿でいながら)なお正真正銘の旧い日本のまげをつけているサツマの島津公を認めた。珍妙な光景だ! 天皇の左方は外交団。広間の周囲の歩廊は、他の高官連や多数の外人のため開放されている。
 皇后は、内親王がたや女官たちと共に、あとより続かれた。長いすそをひく、バラ色の洋装をしておられた。すると、玉座の左右から、それぞれ一人の大官が一つずつ巻物を持って進み出たが、その一人はもとの太政大臣三條公だった。公の手にあった方が憲法である。他方の巻物を天皇は手に取ってお開きになり、声高らかに読み上げられた。それは、かねて約束の憲法を進んで国民に与える決定を述べたものであった。
 次いで天皇は、憲法の原本を黒田首相に授けられたが、首相はこれを最敬礼で受け取った。それが終ると、天皇は会釈され、皇后や御付のものを従えて、広間を出て行かれた。式は、僅か十分間ばかりで全部終了した。
 この間、祝砲がとどろき、すべての鐘が鳴り響いた。儀式は終始、いかめしく、きらびやかだった。ただ玉座の間が、自体は豪華なのだが、なにぶん地色が赤で暗すぎた。――皇后御付の女官たちの中に式部官として当地に在留する同国人フォン・モール夫人の上品な姿を認めた。

 東京で今日ほど、たくさん美しい娘を見たことがない。このみずみずしさ、このすこやかさ、このあでやかな着物、この優しい、しとやかな物腰。東京のいわゆる『山車』――宗教上のお祭に、人間や牛によって街路をひきまわされる行列の車――はことごとく街頭へ。多くは数階もある、こみ入った造り物で、上部には大きい人形や舞台面を取付け、前部には一種の音楽隊が控えていて、とてつもない騒音をかき立てるのだ。ある二、三の車ではその前方を芸者たちがいろいろな服装でねって行った。一番きれいだったのは『人足』(職人)に仮装した芸者の一団である。
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2007年08月07日

ベルツの日記2

岩倉公の死(明治16年)
 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から当時の日本と日本人の姿を引用してご紹介します。
写真は左から二人目、使節団時の岩倉具視(ロングフェローより)
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引用開始
 それは明治16年の初めのことだったが、ある晩、ドイツ公使館で一人の貴公子然たる青年にあった。あとで判ったが、それは岩倉公の令息だった。青年はわたしの方へ歩みよって尋ねた、
「お伺いいたしますが、先生、ひどい嚥下(えんか)困難を呈する場合は、危険な兆候でしょうか?」――「その方はお幾つです?」――「五十二歳ですが」――「それじゃあ、まあただ事ではありませんね」――「実はわたしの父なのですが」――
青年がさらになお二、三の症状を述べたとき、食堂癌の疑いがあると、わたしは告げておいた。

 それから半年あまりは、別に何事も耳にしなかった。するとある日、宮内省と文部省の役人から、至急面談したいとの知らせをうけた。二人の役人は勅令によりわたしに、次の船便で神戸へ立ち、京都で重い病気にかかっている日本の最も重要な政治家の岩倉右大臣を見舞い、出来れば東京へ連れ帰ってほしいと依頼した。すぐさまわたしは、助手を一人伴って神戸へ出発したが、神戸ではもう、わたしを迎える手まわしがすっかり出来ていた。
 公はひどく衰弱し、やっとの思いで少量の栄養をとり得るにすぎないような有様だった。六月の末、わたしたちは東京へもどった。――その時、公はわたしから包み隠さず本当のことを聞きたいと要求した。

「お気の毒ですが、御容態は今のところ絶望です。こう申し上げるのも、実は公爵、あなたがそれをはっきり望んでおられるからであり、また、あなたには確実なことを知りたいわけがお有りのことを存じていますし、あなたが死ぬことを気にされるようなお方でないことも承知しているからです」
「ありがとう。では、そのつもりで手配しよう。――ところで、今一つあなたにお願いがある。ご存知の通り、伊藤参議がベルリンにいます。新憲法をもって帰朝するはずだが、死ぬ前に是非とも遺言を伊藤に伝えておかねばならない。それで、出来れば、すぐさま伊藤を召還し、次の汽船に乗りこむよう指令を出そう。しかし、その帰朝までには、まだ何週間もかかる。それまで、わたしをもたさねばならないのだが、それが出来るでしょうね?」そして公は低い声でつけ加えた、
「これは、決して自分一身の事柄ではないのだ」と。
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2007年08月06日

ベルツの日記1

東京・加賀屋敷にて
 ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から当時の日本と日本人の姿を引用してご紹介します。
写真は大名屋敷の門の一例(B・ジャポンより)
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引用開始
(明治9年)6月26日
 今日、きめられた家へ引越しましたが、さしあたり前任者ヒルゲンドルフ博士の客分としてこの家へ迎えられたのです。この住居はいわゆる『加賀屋敷』、すなわち旧加賀候の邸宅である大学の構内にあります。・・・ 将来わが家となるこの家は坂の上にあって、そのすその大きい『不忍』池には無数のハスの花と、かわいい朱のお宮があります。向うの丘の眺めもすばらしく、そこは古い美しい『上野』公園で、今をさる僅か8年(!)前に維新の役の決戦が行われたところです。
 この家の庭は、老樹の木立があって非常に美しいので、これを自分の趣味どおりにしつらえることのできる日を、今から楽しみにして待っています。・・・
 着いてから五日で、すぐ生理学の講義を始めましたが、学生たちの素質はすこぶる良いようです。講義はドイツ語でやりますが、学生自身はよくドイツ語がわかるので、通訳は実際のところ単に助手の役目をするだけです。・・・
 日本のドイツ医学は一種の伝統をもっていたのです。既に17世紀には、ドイツの探検家で医師の、ケンプフェルが、オランダの役人としてではありましたが、来朝しています。しかもかれの活動は、当時の非常に困難な事情にもかかわらず、ある程度の注目をひきました。それから50年前には、同じくオランダ人として(それ以外には入国の可能性がなかったので)ヴュルッブルクの医師フォン・シーボルトが来朝し、多数の門弟を出しましたが、そのうち若干のものは、自己の知識欲のため死罪にすら処せられねばならなかったほどです。・・・

11月7日(東京)
 今日、ミットフォード著『古い日本の物語』を読んだ。日本の事情に関する見解が、この本では、日ごろ在留ヨーロッパ人の口からよく聞くのよりも正しいこと、ことに女性にたいする見方が妥当であることを知って満足に思った。
 同時にまた、その中で語られている伝説と歴史上の出来事は個人的の勇気、極めて幼い時からの勇敢さを表明しており、われわれを心から驚嘆させるばかりである。志操の高潔な点も物語のすべてを通じて現れており、しかもそれが極めて純潔で堅固であるため、まるで美しい中世紀を眼前にみるような気がするのである。
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2007年08月03日

フランス青年の明治8

明治の相撲と鎌倉
『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
 著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は相撲をまねてみる一行
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引用開始
 隅田川を両国橋で渡って少し行った地域の本所のエコイン寺(回向院)で、力士の戦いが行われた。・・・・
 この奇妙な興行は、私に今までだれも考えたことのないことを思いつかせた。力士たちが戦っている様子、壇上の様子を写真に撮ることだ。写真機を持って行って試みようとした時、新しいもの好きの人は好奇心を見せたが、力士たちの丁重だがきっぱりとした拒否にあった。
 たいへん礼儀正しく、礼儀に対して最も敏感な日本人は、習慣の定めた節度を越すと、その人間に対して冷たい軽蔑の態度で接するようになる。彼らが過敏であることは、それほど長く滞在しなくても分かる。・・・

 私は言われた手続きを踏み、どんなにつまらない交渉もすべて厭わないようにした。そのため、イトーと寺の隣の小さい家に、協会の会長の七十歳の紳士に会いに行った。・・・
 イトーが伝統的な丁寧なささやき声で、私には永遠と思える説明、ほめ言葉をささやき、お愛想を言い、それに対して相手も同じように応え、時々静かにお茶を少しずつ飲み、キセルをふかし続けた。嫁や子供が話し合いに加わり、ソオデスカ、ソオデスネ、エ、エ! の声をのんびり発しながら。それが会話の中に何度も出て来るのだ。
 全員が非常な驚きで私のことを見ていて、もし、通行人が外の壁を外すことができたら、ためらわずに仲間に入ったことだろう。結局私のほうが成功をおさめ、親方は私の希望を受け入れることを約束してくれて、巨人たちを閉会式の次の日、闘技場を取り壊す前に集めるようにしてくれた。
 私のために行われた興行は、短時間では済まず丸一日かかった。・・・
 とにかく細かい部分も手を抜かず、いつもの状態であるようにした。私が言わなくてもすぐに集ったのが群衆だ。観客が必要だという心配は、物見高い人たちが四方八方から集って来たのを見た時、すぐ晴れた。すべてが思うとおりにいった。スモウ(力士)たちは、全然威張らずに気持ちよく私の希望に応えてくれた。何度も、試合前、途中、後のポーズをとってもらい、最後にお礼のためにきちんと包んだお金を、頼み込んで会長に受取ってもらった。
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2007年08月02日

フランス青年の明治7

明治、東京にて
『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は大森の梅屋敷
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引用開始
・・・最も活気のあるのは大通りで、交通量の激しい往来で遊ぶ子供たちが問題になっている。小さい子供から、子供(あるいは代わりに巨大な人形)を背負っている子たちも、みんな道の真ん中を走り、注意されているにもかかわらず、平気で車夫たちの足元にまとわりついている。
 それに加え、盲目の人が杖をつきながら歩いていたり、下駄をはいた女性たちが不器用に小股で歩いていたり、全速力で走るジンリキシャ、荷物が重くてかがんでいる苦力などがいて、事故が起きないのは奇蹟としか言えない
 だがこの民族の冷静さと落ち着きが、事故を防いでいることは認めなくてきならない。イライラしたり喧嘩する人がいないし、車夫たちも他のクルマとぶつかりそうになると、非常に巧みに止まるのだ。その上笑いながら邪魔したことを詫びるのだ。どこでも洗練、礼儀、それに暗黙の了解が存在している。我々も見習わなくては!・・・・

 浅草への散歩道は、東京で最も人出の多い所で、観光客にとって興味深いものだ。・・・・
 トリイをくぐると、両側には店がぎっしり並んでいる。大通りはもっと活気づいている。写真館や床屋、おもちゃ売り、服、靴、茶や米、ハトのための豆売りがいてお祭りのようで、この露店の前を町や田舎からやってきた家族連れが、カンノン(観音)に向ってぞろぞろと散歩している。
 赤い柱の下にあるお金を投げ入れる木の箱に近づくにつれて、混雑が激しくなってくる。ここで祭壇の前を通り一列になり、寺の見せ物の彫像と、六世紀に川の岸辺で、ある貴人が釣り上げたという女神の聖遺物にたどりつくためだ。これは病気の救世主のビンツル(お賓頭廬)を表したものだ。いつでもこの偶像に、体の治したい部分を触れている熱心な人々を見かける。あまりにこすられるので、彫像はすっかりすり減っている。・・・
 坊さんたちによる祈祷が終わると、人の流れは寺の周りの露店の並ぶ娯楽や遊びのある広場に向かう。軽業師、手品師、学者犬、玉突き、弓、芸を仕込まれた鳥やてなずけられた猿、画廊、茶屋やお菓子屋。通りのそこら中に写真屋があり、陳列棚には人気のある俳優のさまざまなポーズのもの、有名な芸者、よそゆきの顔をした市民の写真が飾られている。
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2007年08月01日

フランス青年の明治6

明治、横浜にて
『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は当時の横浜、弁天通り(?)の松飾り
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引用開始
 私たちの住んでいる別荘からは、一年の半分以上雪に覆われた、頂が砂糖の塊に似た富士山や海、山手の坂の素晴らしい景色が見える。一階には食堂と大きなサロンが、二階には寝室がある。ヨーロッパ式の住居の作りと同じで、小さな別棟には、台所と使用人の部屋がある。スタッフはウィ
ル、イトー、ボーイ一人と料理人の四人だ。・・・・・
 この日紹介してもらった数人に、秋の競馬で出会った。先おとといやっと終わったが、この競馬は三日間続き、その間はまさにお祭りだ。香港や上海でもそうだったが、皆にとって競馬はホリデーで、この間、銀行も会社も店も、馬場に行くか、郊外で休日を過ごして息抜きするために休業する。日常的な流れはすべて中断され、現地の人たちも多かれ少なかれ、お祭りの明るい気分を楽しんでいる。
 すでに何週間も前からコースは馬主や調教師の集会場になっており、選抜の名目で走らせている。彼らの馬は、中国のポニーか日本のポニー、または掛け合わせたポニーで、居留者はみな大会のずっと前からずっと後まで、どの馬が勝とうが負けようが、競馬に夢中になる。馬場は私たちの借家から車で十五分のところの山手にある。・・・・

 この日に座を沸かせたのは、朝鮮の使節団だった。・・・・
 公式のレセプションからレセプションへと出席し、新しいものを見る機会に恵まれて非常に喜んでいるようだ。使節団は、愉快で天真爛漫だが、やや粗野な八人だ。競馬には通訳に連れられて羊のようにゆっくりとやってきて、人々のいるスタンドの真ん中にぎこちなく固まっていた。彼らの着ている緑、紫、白や青の服は、あまり清潔とはいえず、針金の大きな被り物(サラダの水切り籠か携帯用食器籠のような形)は、皆の視線を集めていたが、そんなことには一向にお構いなしのようだ。競馬には非常に関心が高く、乗馬への情熱を呼び覚ましたようだ。こらえ切れなくなって、彼らのうちの一人がミカドに走る許可を請うた。
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2007年07月31日

フランス青年の明治5

中山道から横浜へ
『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は木曽福島の家並み
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引用開始
 中山道は、まずいくつかの山頂や人気のない小さな谷を見下ろす荒涼とした高原を通り、東海道のように活気のある村のある、両側が切り立った平地にたどりつく。少し先は静かな地域となり、人の住んでいる中心地は非常に広々して閑散とした所だ。人も周りの景色のように牧歌的な性格をしている。家は大きな石で葺いた平らな屋根が突き出ていて、スイスやチロルの山小屋のように木のバルコニーがついている。たくましく日に焼けた目鼻だちのはっきりした住民たちは、都市の技術革新を知らずにいる。大人たちは非常に愚直な表情をしていて、子供や若い娘たちは手に負えないくらい内気なのには驚かされた。

 この高地にはあまり外国人が来ないので、通りすがりに好奇の目で見られた。朝など、私たちが宿屋の玄関先で大きな靴の紐を結んでいたり、夕方、食事の際に私たちがフォークやスプーンで食べているのを見物しに来る人たちで周りに人垣ができるほどだ。ある茶屋では、女中さんが怖がって近づくことができなかったほどだ。またある宿屋ではある晩、人生で二度とないほどのアリガトの嵐にあった。宿屋のおかみさんがルイ(同行の友人)に直してもらおうと壊れたオルゴールを持ってきて、修理の様子を心配そうに見守っていた。彼女がぜんまいを回し、長い間眠っていた音色が流れ出すと、彼女は感謝の念を際限なく示した。・・・・

 湖の近くのシモノスワ(下諏訪)という村での休憩の後に、私たちは浅間火山に程近い和田峠の先の少し寂しい地域に着いた。少し先の、日本で最も寒い場所の一つと言われる追分では、また雨が降り出し、・・・・
 ここで私たちは三日間も足止めをくった。通過してきた道も、これから通る道も、橋が流されてしまい、川の流れは激しくなり、警察も船で渡ることを許可してくれなかった。・・・・
写真は下諏訪の宿で
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 この足止めは、日本語の勉強に少し役立ったが、この言葉は非常に難しく、そのうえ書いてあるとおりに読むには不都合に思えた。・・・
 十月十日、やっと警察の許可が下りて何里か進み、熊谷の百七十五人も旅行者がいる混んだ茶屋まで行くことができた。
 その日の夕、日が暮れてから、私たちは果てしなく広がった東京の町に入った。・・・・
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2007年07月30日

フランス青年の明治4

明治東海道の旅3
『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は当時の奈良、春日大社
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引用開始
奈良は八世紀に首都だった人口二万人の町で、寺を囲む大きな森と、十八メートルもある巨大な大仏で知られている。この大仏はミカドの希望によって、何度か失敗した末、七四九年に造られた(正しくは七四七年鋳造開始、七五二年開眼)ものだ。・・・・
 坂の上にある、私たちの泊っている宿ムサシノから、大きな階段とカスガノミヤ(春日大社)へ通じる林道が延びていて、巡礼者たちが木や角でできたおみやげを売る店の前を通っている。近くでは、てなずけられた鹿が草を食べている。
 赤く塗られた回廊と礼拝堂は、緑の生い茂った背景に映える。暗い葉の茂った大樹林の間の巨大な杉の下を曲がり、数百メートルにわたって両脇にランタンと花崗岩の台座(燈籠)が並んでいる段々になった大通りを行くと、この神秘的な眺望の中で、少し離れた所にもう一つのシントーの社ワカミヤに着く。まるで墓の間を歩いているようで、恐れさせるような効果がある。
 ワカミヤでは、非常に興味深いカグラ(神楽)という宗教舞踊が九円で見られる。これはシントーの非常に古い勤行で、熱心な信者の希望でミサのように行われる。
写真は当時の奈良、春日大社の神楽
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 儀式の様子を説明しよう。社の庭に面して開け放した部屋に、三人のカンヌシと女が観客の前にひざまずく。右側の少し奥まった所に、四人の処女が舞踊の準備をして控えている。聖職者たちは短い白衣をまとっている。手にはそれぞれ笛、長太鼓、二枚の木の板を持っている。若い女たちは、顔を厚塗りして、白と金と薄緑色の長い服をまとい、それが下に着ている深紅の服と対照をなしてくっきり浮かび上がっている。ほどいた髪が背中に垂らしてあり、首の高さで金色の輪で結んでいる。額の上には人工の花の房が飾られている。
 楽器を演奏する女も同じ格好をしていて、目の前に長くて平らなハープ(琴)を置いている。この人たちはみな一言も喋らず、不動のまま合図があるまで待っている。合図と共に頭を床まで下げ、楽器がメランコリックな前奏をかなでる。若い女たちが立ち上がり、列になって進み、色とりどりのリボンのついた鈴の束や扇子を操りながら、優雅で息のあった間を取ったゆっくりした動作を始める。聖職者たちは長太鼓の音、板のパチパチいう音、笛のうなるような音、ハープのせわしない音階に合わせて、悲しげな連祷を歌う。・・・・

 奈良から大阪まで、途中、薬師寺と法隆寺の二つの寺に立ち寄ると一日かかる。・・・・
 街灯のない暗い町外れ、終わりのない道、同じ橋をまた渡っているのではないかと思うほど数多くの大きい橋や小さい橋を通り、十四日の夜大阪のジュテイホテルに到着した。
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2007年07月28日

フランス青年の明治3

明治東海道の旅2
『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は浜松、通りの角の旅館
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引用開始
 数日後、浜松という人口一万二千人の小さな町で、今まで見たこともないようなきれいな旅館に出合った。部屋の羽目板は、漆を塗って磨いた違った色合いから成っている。女主人と息子と義妹が、夕食の間ずっと同席してくれた。義妹は優しくはにかんだ目をしたきれいな少女で、外国の食べ物を味見しようとしなかった。主人のほうは、既婚にしては珍しく歯も黒く染めず、眉も抜かず、人の良い女性だった。自然の美しさに恵まれた人が、野蛮な処置によってその魅力を失ってしまうとは、残念なことである!

 最近書いた手紙を出したのは名古屋の町からで、ここで一日半休んだ。名古屋は尾張の大名が昔住んでいた土地で、人口三十万人の栄えた工業都市であり、現在は愛知県の県庁所在地だ。・・・
 私たちの泊った宿屋は村や集落のものより劣っているが、大都市にありがちな新しいアイデアを取り入れていて、壁紙を張った食堂、テーブルクロスの掛かったテーブルがあり、じゅうたんが敷いてある。室内装飾の細かい点にもびっくりしたが、それ以上に、ヨーロッパの作法や道具をまねたり、使いこなそうと奮闘する日本人男性の格好とぎこちなさには驚かされた。・・・・
写真は名古屋、熱田神宮の祭
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 名古屋で最も注目に値する所は、間違いなく国内でも有名な城だ。・・・
五階建ての天守閣の最高層は、日本でも有名な芸術作品、対になった金のイルカ(シャチ)を載せている。その価値は、十八万円、つまり八十万フラン以上と言われている。二つのうちの一つは、1873年にウィーンの万国博に出展され、その帰途、蒸気船ニルは難破したが、幸にも釣り上げられ、不幸を免れて元の場所に納まった。
 五日前から京都にいる。熱病が治り、神戸経由で来たシャルルと落ち合った。・・・・
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2007年07月27日

フランス青年の明治2

明治東海道の旅1
『ボンジュール・ジャポン』フランス青年が活写した1882年という本からご紹介します。
著者のウーグ・クラフトは明治十五年に日本を訪れ、彼が「見たままを写した」写真と「感じたままを書いた」紀行文とをまとめものがこの本です。
著者はシャンパーニュ地方のランスで、シャンパン財閥の長男として生まれ、少年期、青年期にかけて、パリ万国博覧会が二回(1867と1878年)、ウィーン万国博覧会(1873年)も開かれ、ヨーロッパのジャポニスムに大きく刺激を受けたようだとのことです。
写真は旅の一行、フランス人の左からウーグ・クラフト、シャルル・ケスレ、弟エデュアール・クラフト、ルイ・ボーシャル。洋装の日本人が通訳のイトー。
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引用開始
 すでに八日間東海道を進んでいるが、一歩進むごとに新しい風景が現れる。・・・・一年のうちに春と秋との二つのきれいな季節を過ごせるとは、夢のような気持ちがする。・・・・
 もし自然の美しさが民族の容貌と性格に影響するとすれば、日本人はきっと勇壮な山やのどかな谷から、誇りを持った、独立的で優しく陽気な性格を養われたのであろう。中国人の皮肉っぽい表情や憎々しげな態度を思い出すにつけ、それほど遠い地ではないのに、全然違う性格で、礼儀正しく快い歓迎に魅了されてしまう。
 しかし我々外国人は、日本人の礼儀作法を正しく評価しない傾向があるようである。初めて見ると洗練されているがあまりにも儀式的な態度なので、彼らにとっては大切な慣習も、我々には間抜けて見える。どれほど西洋的な思い上がりや、無遠慮な態度や、疑い深い態度が彼らを傷つけていることであろうか。
ここでは日常的な礼儀として、人に話す時、自分自身を卑下して、相手を称賛とお世辞で満たさなくてはならない。これは私たちには考えられないことである。家の中で挨拶をする際も、ござに手と膝をついて、何度も額を床につけるのである。道で会った場合は、お礼やお世辞をささやきながら、またもや何度も体を曲げるのである。どの階級のどの部類の男も女も子供も、苦力から貧しい旅行者、乞食にいたるまで、出会いがしらと分かれ際に、私たちが下関で見た例のように儀式ばっているのである。
 この礼儀作法に対して、当然私たちは不器用で気の利かない対応をしてしまう。不慣れで戸惑っている私たちに代わって、ガイドのイトーに挨拶が集中する。だが冗談に関しては非常に気が合い、何を言っても笑う。私たちが単に「オハヨー」といっても笑い、たいしたことがなくても爆笑するのである。
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