蒸気船への熱望
英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。
引用開始
模倣の才と珍奇な物を好む性質の持主である日本人は、1870年(明治三年)頃には、ヨーロッパの製造品を、小児が玩具を欲しがるように、愛好品として所有したいという熱望が大変に旺盛であった。ヨーロッパの新しい物がこの国へ入って来た当時は、その所有欲は、実用品として利用したいというよりも単に珍しい物を所有したいという欲望が強かった。このような気質から全く馬鹿馬鹿しい事態がしばしば起った。
例えば、当時の日本人は兎という動物を知らなかった。あるイギリス人貿易商が耳の長いこの動物を数匹日本に持ち込むことを思いついた。その結果は、日本人はすっかりこの可愛い動物のとりこになり、それを飼いたいという熱望が国中に広まった。商人はカリフォルニアやオーストラリアや支那で飼い兎を捜して買い集め、汽船が日本の港に入る度に数百の兎が舶載されて来た。それでも兎に対する需要は一向に衰えず、熱狂した買手は一匹の兎に100ドルもの値をつけた。政府も驚いて輸入を制限するため兎の輸入に重税を課した。この措置で、さしもの兎熱も短期間で冷却して兎の輸入は全く跡絶えた。
同じような、しかしそれほど激しくない所有願望は、豚や羊を対象にしても起こった。豚も羊もそれまで日本にはいなかったのである。このマニアは少しくトラブルを惹き起こしたものの、短期間で消滅した。・・・
1860年代(万延年間)、70年代(明治三年〜十二年)に起こった日本人の最初の熱中の中でも特に熱中させ、永く続いたのは蒸気船を持ちたいという熱望であった。幕府や封建諸侯、その他資本に余裕のある者は蒸気船を購入した。
日本のような島国では蒸気船は単なる玩具ではなく、最も高価な実用品の代表でもあった。最初の購買者には不幸なことであるが、蒸気船の構造が複雑で、無知な者の手にかかると非常に危険な代物であった。
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2008年02月22日
2008年02月21日
日本最初の鉄橋架設
伊勢佐木町の吉田橋
英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィス、の手になっています。
引用開始
日本人を駆り立てた進歩の精神を象徴するいま一つの例は鉄橋の架設である。
1870年(明治三年)に見た日本の橋の構造は、前に述べた住宅と同様に非常に原始的なものであった。橋脚は木の皮が付いたままの材木である。一番目の橋脚は日本の工法が許す限り岸から離れて地中に打ち込んである。橋脚と橋脚の間には二本の材木が渡してあり、それには日本の橋に特有のアーチ形を造るよう曲った材木が選んである。橋脚の上部には横に並べて厚い板が張ってある。これに粗雑に造った手すりをつければ橋は完成である。こんな橋は絶えず修理が必要で、また馬車などは通れない。橋は五年毎くらいにすっかり架け替えなければならない。
横浜から東京への幹線道路にあるこの短命な※橋の架け替えを、寺島知事に求められた。彼は旧来の橋に代えて恒久的な橋の架設について私に相談をもちかけた。この架橋は一つの実験の意義を持つものである、と彼は私に説明し、ヨーロッパではどのようにして橋を架設するかを日本人に見せたいのだと言った。しかし寺島はこの架設工事に多額の経費を支出する権限は与えられていないので、ヨーロッパから架橋に必要な資材の輸入や、架橋専門の外国人技術者の雇れはできないことを表明した。
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英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィス、の手になっています。
引用開始
日本人を駆り立てた進歩の精神を象徴するいま一つの例は鉄橋の架設である。
1870年(明治三年)に見た日本の橋の構造は、前に述べた住宅と同様に非常に原始的なものであった。橋脚は木の皮が付いたままの材木である。一番目の橋脚は日本の工法が許す限り岸から離れて地中に打ち込んである。橋脚と橋脚の間には二本の材木が渡してあり、それには日本の橋に特有のアーチ形を造るよう曲った材木が選んである。橋脚の上部には横に並べて厚い板が張ってある。これに粗雑に造った手すりをつければ橋は完成である。こんな橋は絶えず修理が必要で、また馬車などは通れない。橋は五年毎くらいにすっかり架け替えなければならない。
横浜から東京への幹線道路にあるこの短命な※橋の架け替えを、寺島知事に求められた。彼は旧来の橋に代えて恒久的な橋の架設について私に相談をもちかけた。この架橋は一つの実験の意義を持つものである、と彼は私に説明し、ヨーロッパではどのようにして橋を架設するかを日本人に見せたいのだと言った。しかし寺島はこの架設工事に多額の経費を支出する権限は与えられていないので、ヨーロッパから架橋に必要な資材の輸入や、架橋専門の外国人技術者の雇れはできないことを表明した。
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2008年02月20日
明治初年の薩摩訪問
明治初期の島津藩で
英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。
引用開始
このときの航海で最も興味深かった所は、有名な島津藩の城下町である鹿児島と薩摩の他の場所を訪れたことであった。
鹿児島は、かつて横浜近くの街道で四名のイギリス人一行が薩摩の大名の家来に襲撃され、殺傷された事件の報復として1863年(文久三年)7月にイギリス艦隊によって砲撃されたことがあった。この砲撃の結果、薩摩人の間に、西洋文明を高く評価する気運が生じたのであるが、私が訪れたときにそれを証明するいろいろの事物を見た。
薩摩の君主島津三郎(藩主島津忠義の父)はいまだに中央政府から独立した勢力を保持してはいるが、1870年(明治三年)頃では天皇の政府から不信視されていた。事実、井上は我々がどんな歓迎を受けるか心中で測りかねていたので、自分でこの地の当局の意向を忖度するまでは我々に上陸を見合わせるようにと言った。我々の船が鹿児島に着くと、彼はすぐに陸岸に向い、四、五時間たって四人の薩摩の役人を伴って帰って来た。役人たちは、我々を心から歓迎し、及ぶ限りの援助を惜しまないと言った。
役人はまた、彼らが通常殿様と呼んでいる薩摩の大名が、次の木曜日の夕刻に我々と晩餐を共にしたいと願っており、我々がそれを受けることを望んでいると言った。殿様の親切に対し我々の感謝を伝えて戴きたいと役人に頼み、我々はこの歓待を喜んだ。
彼らはまた「誠に言いにくいことであるが、遺憾なことに殿様はワインをお持ちにならないから船からいくらか持参して戴ければ幸いである」と言った。我々はシャンペン六瓶とシェリー酒六瓶を晩餐会への贈物とした。
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英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。
引用開始
このときの航海で最も興味深かった所は、有名な島津藩の城下町である鹿児島と薩摩の他の場所を訪れたことであった。
鹿児島は、かつて横浜近くの街道で四名のイギリス人一行が薩摩の大名の家来に襲撃され、殺傷された事件の報復として1863年(文久三年)7月にイギリス艦隊によって砲撃されたことがあった。この砲撃の結果、薩摩人の間に、西洋文明を高く評価する気運が生じたのであるが、私が訪れたときにそれを証明するいろいろの事物を見た。
薩摩の君主島津三郎(藩主島津忠義の父)はいまだに中央政府から独立した勢力を保持してはいるが、1870年(明治三年)頃では天皇の政府から不信視されていた。事実、井上は我々がどんな歓迎を受けるか心中で測りかねていたので、自分でこの地の当局の意向を忖度するまでは我々に上陸を見合わせるようにと言った。我々の船が鹿児島に着くと、彼はすぐに陸岸に向い、四、五時間たって四人の薩摩の役人を伴って帰って来た。役人たちは、我々を心から歓迎し、及ぶ限りの援助を惜しまないと言った。
役人はまた、彼らが通常殿様と呼んでいる薩摩の大名が、次の木曜日の夕刻に我々と晩餐を共にしたいと願っており、我々がそれを受けることを望んでいると言った。殿様の親切に対し我々の感謝を伝えて戴きたいと役人に頼み、我々はこの歓待を喜んだ。
彼らはまた「誠に言いにくいことであるが、遺憾なことに殿様はワインをお持ちにならないから船からいくらか持参して戴ければ幸いである」と言った。我々はシャンペン六瓶とシェリー酒六瓶を晩餐会への贈物とした。
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2008年02月19日
明治元年の長崎にて
明治元年の長崎で灯台設置調査
英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。
引用開始
長崎の知事、井上馨に面会した。彼は若い男(井上馨は天保六年生まれ、当時三十三歳)で、彼は教育の一部を合衆国で受けた。彼は流暢に英語を話すので私は必要な仕事を容易に処理することができた。彼は私の依頼には快く応じて出来る限りの協力を約束してくれた。たまたま私がアルガス号での日本政府高官の突飛な行為を話すと、彼は大変に面白がった。そして「彼も良き日本人であるから、すぐにもっと分別をわきまえるであろう」と高官を弁護した。・・・・
長崎は高い丘陵に囲まれた世界中で最も美しく、かつ安全な港の一つである。外国人の居留地も日本人の市街も丘の北東側に位置し、絵を見るようなたたずまいは殊更に興味深い眺めである。長崎では近代化を図る日本にとって重要な多くの計画が実行されている。大型船の造船台が設けられ、種々の工作機械を設備した工場が建っていた。ここでは日本人のみが働いており、工場は全部が稼動しているようであった。イギリス人※グロヴァー氏の商会は、近くの小島、高島に発見された石炭の採掘で日本政府との間に協定を結んでいる。彼は私が知る限りでは、日本でこの鉱物の採掘の許可を得ている唯一のヨーロッパ人である。
私は高島の採炭作業場を訪れた。そこは毎日三百人の労働者を雇い、近代的巻揚機やポンプの設備があり、毎日約200トンの良質の瀝青炭を産出する。この石炭はトン当たり4ドル50セントで売られている。イギリスから輸入する石炭はこの頃1トン7ドル50セントもした。・・・・
この第一回の視察航海が終り、いよいよ灯台建設推進の手順が出来上がると、灯台補給船の必要なことが改めて痛感された。私は東京の政府から、この目的に適う船が購入できる機会がくれば通知するように命ぜられていた。
続きを読む
英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。
引用開始
長崎の知事、井上馨に面会した。彼は若い男(井上馨は天保六年生まれ、当時三十三歳)で、彼は教育の一部を合衆国で受けた。彼は流暢に英語を話すので私は必要な仕事を容易に処理することができた。彼は私の依頼には快く応じて出来る限りの協力を約束してくれた。たまたま私がアルガス号での日本政府高官の突飛な行為を話すと、彼は大変に面白がった。そして「彼も良き日本人であるから、すぐにもっと分別をわきまえるであろう」と高官を弁護した。・・・・
長崎は高い丘陵に囲まれた世界中で最も美しく、かつ安全な港の一つである。外国人の居留地も日本人の市街も丘の北東側に位置し、絵を見るようなたたずまいは殊更に興味深い眺めである。長崎では近代化を図る日本にとって重要な多くの計画が実行されている。大型船の造船台が設けられ、種々の工作機械を設備した工場が建っていた。ここでは日本人のみが働いており、工場は全部が稼動しているようであった。イギリス人※グロヴァー氏の商会は、近くの小島、高島に発見された石炭の採掘で日本政府との間に協定を結んでいる。彼は私が知る限りでは、日本でこの鉱物の採掘の許可を得ている唯一のヨーロッパ人である。
私は高島の採炭作業場を訪れた。そこは毎日三百人の労働者を雇い、近代的巻揚機やポンプの設備があり、毎日約200トンの良質の瀝青炭を産出する。この石炭はトン当たり4ドル50セントで売られている。イギリスから輸入する石炭はこの頃1トン7ドル50セントもした。・・・・
この第一回の視察航海が終り、いよいよ灯台建設推進の手順が出来上がると、灯台補給船の必要なことが改めて痛感された。私は東京の政府から、この目的に適う船が購入できる機会がくれば通知するように命ぜられていた。
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2008年02月18日
明治灯台建設地測量航海
灯台建設場所測量航海の様子
英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。
写真はブラントン

引用開始
日本における私の主務は灯台の建設である。その第一歩は航海者たちが推薦した予定場所を検分して回ることから始まった。これらの場所を訪れる唯一の方法は海路の旅行しかなかった。・・・・
早急に灯台の建設を始めることに最も熱意を持っていたハリー・パークス卿は、イギリス海軍の提督ヘンリー・ケッペル卿に、この事業のため彼の指揮下にある艦船の一隻を特派するよう慫慂した。公使の要請に基いてケッペル卿はジョンソン艦長の指揮するイギリス海軍のマニラ号を派遣してくれた。こうして私の最初の日本沿岸一周はこの軍艦によって実現した。・・・・士官室には三名の日本人が居住し、下甲板の水兵の間に十八人ないし二十人の随行日本人がいた。
我々の旅行は1868年(明治元年)11月21日に始まった。未調査の湾を測量したり、灯台建設の予定地を訪れたりして、航海は1869年1月5日に終了した。・・・・・
この航海において日本の紳士たちはヨーロッパ式の食卓につくのが始めてであったから、彼らの反応はかなり我々の興味をそそった。薬味入れのガラスの小瓶やナイフやフォークに皿などを見た彼らの珍しがりようは大変に滑稽であった。
食卓用具のそれぞれの使用目的について全く知識がなかったから、どれもこれもまともに扱えなかった。ケチャップや食用酢をなめてみて顔をしかめ、胡椒のふりかけ瓶を嗅いだときは大変なことになった。
牛肉や羊肉は訝しそうに見詰めた。はじめ二、三回の会食の席ではヨーロッパ人たちはおかしさに吹き出すのを押さえることができなかった。それがどんなに口にあわない食物でも威厳を崩さず、静かにすました顔でもぐもぐと味わうので、なおさらおかしさを誘うのだった。馬鈴薯その他の野菜はかなり好む様子であった。
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英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。
写真はブラントン

引用開始
日本における私の主務は灯台の建設である。その第一歩は航海者たちが推薦した予定場所を検分して回ることから始まった。これらの場所を訪れる唯一の方法は海路の旅行しかなかった。・・・・
早急に灯台の建設を始めることに最も熱意を持っていたハリー・パークス卿は、イギリス海軍の提督ヘンリー・ケッペル卿に、この事業のため彼の指揮下にある艦船の一隻を特派するよう慫慂した。公使の要請に基いてケッペル卿はジョンソン艦長の指揮するイギリス海軍のマニラ号を派遣してくれた。こうして私の最初の日本沿岸一周はこの軍艦によって実現した。・・・・士官室には三名の日本人が居住し、下甲板の水兵の間に十八人ないし二十人の随行日本人がいた。
我々の旅行は1868年(明治元年)11月21日に始まった。未調査の湾を測量したり、灯台建設の予定地を訪れたりして、航海は1869年1月5日に終了した。・・・・・
この航海において日本の紳士たちはヨーロッパ式の食卓につくのが始めてであったから、彼らの反応はかなり我々の興味をそそった。薬味入れのガラスの小瓶やナイフやフォークに皿などを見た彼らの珍しがりようは大変に滑稽であった。
食卓用具のそれぞれの使用目的について全く知識がなかったから、どれもこれもまともに扱えなかった。ケチャップや食用酢をなめてみて顔をしかめ、胡椒のふりかけ瓶を嗅いだときは大変なことになった。
牛肉や羊肉は訝しそうに見詰めた。はじめ二、三回の会食の席ではヨーロッパ人たちはおかしさに吹き出すのを押さえることができなかった。それがどんなに口にあわない食物でも威厳を崩さず、静かにすました顔でもぐもぐと味わうので、なおさらおかしさを誘うのだった。馬鈴薯その他の野菜はかなり好む様子であった。
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2008年02月16日
明治最初のお雇い外国人
赴任の理由と日本最初の電信
英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。

引用開始
1865年(慶応元年)5月、オルコックの後任としてハリー・パークス卿が駐日英国公使として江戸に着任した。パークス公使が最初に手掛けた仕事は現行の通商条約の補足の約定の条項の速やかな実施を促進することであった。パークス卿は約定の条項のうち欧米人の安全に関する条項※の実施について特に熱心であった。・・・・
※・・・航海の安全のための条項、第十一条の「日本政府は、外国交易の為め開きたる各港最寄船々の出入安全のため、灯明台、浮木(ブイ)、瀬印木(障害標識)等を備うべし」があった。
英公使が特にこの条項の実施に熱心で、しばしば幕府と折衝した事情は、日本が外国と貿易開始以来、日本沿岸で外国船の遭難事故が頻々として起こり、その都度多数の人命が失われたことによる。
パークス卿は江戸幕府の閣老に対し、航海の安全の問題は可及的速やかに結論を出すよう圧力をかけた。・・・・これに対し幕府閣老から1866年12月7日次のような回答があった。
「灯台の設置場所については正確な実測を行った上でないと決定はできない。しかしその間にも我が方は要求された機器を発注する所存である。灯台の機器三箇所の分については既にフランスへ注文ずみである。それ以外の八箇所の分については装置一式がイギリス政府を通じて入手できるよう貴下の御尽力をお願いする。当方は購入代金の見積りが出来次第発注をする」
・・・・これに関した事務の一切をエジンバラのスコットランド灯台局のダヴィッド&トーマス・スチブンソン兄弟に委任することに決定した。・・・・
スチブンソン兄弟は、私がすべての要求を充たす者であると認めて、私を商務省に推薦し、1868年2月24日付で私は採用通知を受取った。・・・・
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英人リチャード・ヘンリー・ブラントンは明治政府第一号のお雇い外国人で、1868年(明治元年)8月に灯台技師として来日、1876年(明治9年)に帰国しました。在日中に三十余の灯台を建設した人物ですが、もともと鉄道技師の彼は灯台建設以外にも多方面の仕事に関係し、日本最初の電信を建設したのもブラントンです。
今回ご紹介する本は彼の著「お雇い外国人の見た近代日本」で、要約、註釈は、彼の原稿を入手した、ご存知の方も多いと思われる米人ウィリアム・エリオット・グリフィスの手になっています。

引用開始
1865年(慶応元年)5月、オルコックの後任としてハリー・パークス卿が駐日英国公使として江戸に着任した。パークス公使が最初に手掛けた仕事は現行の通商条約の補足の約定の条項の速やかな実施を促進することであった。パークス卿は約定の条項のうち欧米人の安全に関する条項※の実施について特に熱心であった。・・・・
※・・・航海の安全のための条項、第十一条の「日本政府は、外国交易の為め開きたる各港最寄船々の出入安全のため、灯明台、浮木(ブイ)、瀬印木(障害標識)等を備うべし」があった。
英公使が特にこの条項の実施に熱心で、しばしば幕府と折衝した事情は、日本が外国と貿易開始以来、日本沿岸で外国船の遭難事故が頻々として起こり、その都度多数の人命が失われたことによる。
パークス卿は江戸幕府の閣老に対し、航海の安全の問題は可及的速やかに結論を出すよう圧力をかけた。・・・・これに対し幕府閣老から1866年12月7日次のような回答があった。
「灯台の設置場所については正確な実測を行った上でないと決定はできない。しかしその間にも我が方は要求された機器を発注する所存である。灯台の機器三箇所の分については既にフランスへ注文ずみである。それ以外の八箇所の分については装置一式がイギリス政府を通じて入手できるよう貴下の御尽力をお願いする。当方は購入代金の見積りが出来次第発注をする」
・・・・これに関した事務の一切をエジンバラのスコットランド灯台局のダヴィッド&トーマス・スチブンソン兄弟に委任することに決定した。・・・・
スチブンソン兄弟は、私がすべての要求を充たす者であると認めて、私を商務省に推薦し、1868年2月24日付で私は採用通知を受取った。・・・・
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2007年12月13日
はじめて見る日本8
琵琶湖から宇治へ
オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は当時の石山寺

引用開始
夜明けに、参事と補佐が私の部屋に入ってきた。別れの挨拶を述べにきて、和服を着ていた。二人が誰だかほとんど分からなかった。それほど殿様然としていた。私はその点を指してお世辞を言ったが、全然気をよくしてくれなかった。というのも、二人はヨーロッパ人に似ていることを自慢していたのだから。
出発は八時。我々は儀礼兵と目付という嘆かわしい護衛に先導されたり、取り囲まれたり、後続されながら加茂川大橋を渡り、町の東の渓谷に入った。・・・・・いま辿っている東海道のこの部分は人口の多い町の幹線道路と似ていた。路上はこの上ない賑わいだ。通行人、旅人、日本の使者にあたる飛脚、琵琶湖からか北の海(日本海)からか、走りながら運ぶ魚でいっぱいの駕籠を背負う人たち、長い竹竿を持つ苦力、女たち、遍路さんに、牛に曳かれた多数の車駕。道路は完備されていた。・・・・
とくに我々の関心をすっかり惹き付けていたのは、ヨーロッパ人がごく稀に目にしたにすぎない神秘的な琵琶湖だった。この地方の市邑である大津県は、湖に注ぎ込む山の斜面に鎮座していた。・・・・
湖の出口から程遠からぬところで、川に小島ができており、東海道の二つの橋が横切っている。・・・・我々は橋の下を通り、瀬田川の魅力のある岸辺に沿いながら、嶮しい岩山の麓に小奇麗にうずくまる小さな村に着いた。村は巨木に囲まれており、峰には、花崗岩の山で古くから名高い寺、石山寺が鎮座する。・・・・・
寺の前で、上品な服装をした、貴族の家柄の出の娘さん三人に出会った。我々のそばを通る際、彼女らは頭を逸らせ、扇子で顔を隠した。これは帝国の役人の話によれば、まだお歯黒をしてなく、眉毛を抜いていない娘さんにとっては、しなくてはならない用心とのことだ。慎みの上から、彼女らのまばゆいばかりの美しさは、向こう見ずな異人の視線に会うことのないように要求されていたのだから。・・・・
今日、我々はヨーロッパ人は誰もまだ訪れたことのないと言われる地方を横切ることになるだろう。大津出発は八時二十分。方角は南東。九時に追分村に到着。ここで東の方へ、日本中の名茶で名高い宇治地方へ向うために、我々は東海道を後にした。私は馬に乗って旅行をしていて、雨が土砂降りだったけれども、気温は温和で快かった。我々は大きな市場町、醍醐寺を通り過ぎた。・・・・
続きを読む
オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は当時の石山寺

引用開始
夜明けに、参事と補佐が私の部屋に入ってきた。別れの挨拶を述べにきて、和服を着ていた。二人が誰だかほとんど分からなかった。それほど殿様然としていた。私はその点を指してお世辞を言ったが、全然気をよくしてくれなかった。というのも、二人はヨーロッパ人に似ていることを自慢していたのだから。
出発は八時。我々は儀礼兵と目付という嘆かわしい護衛に先導されたり、取り囲まれたり、後続されながら加茂川大橋を渡り、町の東の渓谷に入った。・・・・・いま辿っている東海道のこの部分は人口の多い町の幹線道路と似ていた。路上はこの上ない賑わいだ。通行人、旅人、日本の使者にあたる飛脚、琵琶湖からか北の海(日本海)からか、走りながら運ぶ魚でいっぱいの駕籠を背負う人たち、長い竹竿を持つ苦力、女たち、遍路さんに、牛に曳かれた多数の車駕。道路は完備されていた。・・・・
とくに我々の関心をすっかり惹き付けていたのは、ヨーロッパ人がごく稀に目にしたにすぎない神秘的な琵琶湖だった。この地方の市邑である大津県は、湖に注ぎ込む山の斜面に鎮座していた。・・・・
湖の出口から程遠からぬところで、川に小島ができており、東海道の二つの橋が横切っている。・・・・我々は橋の下を通り、瀬田川の魅力のある岸辺に沿いながら、嶮しい岩山の麓に小奇麗にうずくまる小さな村に着いた。村は巨木に囲まれており、峰には、花崗岩の山で古くから名高い寺、石山寺が鎮座する。・・・・・
寺の前で、上品な服装をした、貴族の家柄の出の娘さん三人に出会った。我々のそばを通る際、彼女らは頭を逸らせ、扇子で顔を隠した。これは帝国の役人の話によれば、まだお歯黒をしてなく、眉毛を抜いていない娘さんにとっては、しなくてはならない用心とのことだ。慎みの上から、彼女らのまばゆいばかりの美しさは、向こう見ずな異人の視線に会うことのないように要求されていたのだから。・・・・
今日、我々はヨーロッパ人は誰もまだ訪れたことのないと言われる地方を横切ることになるだろう。大津出発は八時二十分。方角は南東。九時に追分村に到着。ここで東の方へ、日本中の名茶で名高い宇治地方へ向うために、我々は東海道を後にした。私は馬に乗って旅行をしていて、雨が土砂降りだったけれども、気温は温和で快かった。我々は大きな市場町、醍醐寺を通り過ぎた。・・・・
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2007年12月12日
はじめて見る日本7
無理やり要求した京都御所内部見学
オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は京都の賀茂(葵)祭り

前回からの続き引用開始
六つの門のうち閉まっているものが若干あり、半開きになっているものもあった。私がこの聖域に入るようなふうをしていると、参事の哀願するような眼差しが私を引き止めたのだった。エンズリー氏(英国副領事)が参事の懸念を取り去るのにふさわしい理屈をあれこれ並べていたが無駄だった。その答えは判で押したように同じだった。曰く「御所の管理は行政の管理ではない」。曰く「御所の管理官は、新政府や進歩派やとりわけヨーロッパ人を毛嫌いする宮廷内の守旧派に属している」云々。最後の妥協案として、参事は我々を御台所門まで連れて行き、若干のちっぽけな殿舎の低い屋根の上から御所の大御殿の切妻を垣間見せてくれた。彼は作り笑いをしながらこう叫んだ。「それでは、これでご満足いただけたでしょうか。ヨーロッパにご帰国の際には、貴殿らは誰もが目にできないもの、つまりは天子の御所をご覧になったし自慢話がおできになることでしょう」。そして、もう遅いし、府知事が我々を屋敷で待っておられるし、道程は長いし、暑い盛りだし、昼食のこともそろそろ考えなければならない時間であると付け加えて、彼は急いで引き返そうとした。
私はこう切り返した。
「そうはいきませんよ。私は貴殿らの態度に満足していません。なんということなのです。あなたがたは我々の習慣の真似をし、我々の服装を変に着込み、文明の全き途上にいると思っておられるというのに、我々を天子の住みかから閉め出そうとなさるほど迷信深いとは。天子の台所を一瞥するお許しが貴殿らの文明の極みだと分かったら、ヨーロッパではさぞかし物笑いになることでしょう」。エンズリー氏がこれらの言葉を訳し終わらないうちに、我々の周囲に沈黙ができた。参事は、蒙古人種の肌色のぎりぎり一杯まで、赤面した。彼と補佐との間で、低い声での短い会話が始まった。彼は我々に言った。「おっしゃる通りです。我々は笑い者になることでしょう」。彼は御所の管理官に会いに行こうと申し出たけれども、この交渉からなんら良い結果も期待できない、と言った。・・・・・
程よい距離を保って我々の周囲には、人の群ができた。公家の侍女なのだった。我々は彼女たちの独特の服装と艶やかな髪型に気付いた。・・・
こんな調子で、半時間が過ぎた。やがて、我々の使者らが喜々として駆けつけてきた。我々は中に入ることが許されるのだ。管理官と補佐は、宮廷の正装を羽織る時間だけをくれと要求した。二人はやってきた。彼らはかなり無愛想な様子をしていたけれども、とうとう決断してくれて、我々に禁じられた一画の敷居を越えさせてくれた。我々は公家門から入った。・・・・
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オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は京都の賀茂(葵)祭り

前回からの続き引用開始
六つの門のうち閉まっているものが若干あり、半開きになっているものもあった。私がこの聖域に入るようなふうをしていると、参事の哀願するような眼差しが私を引き止めたのだった。エンズリー氏(英国副領事)が参事の懸念を取り去るのにふさわしい理屈をあれこれ並べていたが無駄だった。その答えは判で押したように同じだった。曰く「御所の管理は行政の管理ではない」。曰く「御所の管理官は、新政府や進歩派やとりわけヨーロッパ人を毛嫌いする宮廷内の守旧派に属している」云々。最後の妥協案として、参事は我々を御台所門まで連れて行き、若干のちっぽけな殿舎の低い屋根の上から御所の大御殿の切妻を垣間見せてくれた。彼は作り笑いをしながらこう叫んだ。「それでは、これでご満足いただけたでしょうか。ヨーロッパにご帰国の際には、貴殿らは誰もが目にできないもの、つまりは天子の御所をご覧になったし自慢話がおできになることでしょう」。そして、もう遅いし、府知事が我々を屋敷で待っておられるし、道程は長いし、暑い盛りだし、昼食のこともそろそろ考えなければならない時間であると付け加えて、彼は急いで引き返そうとした。
私はこう切り返した。
「そうはいきませんよ。私は貴殿らの態度に満足していません。なんということなのです。あなたがたは我々の習慣の真似をし、我々の服装を変に着込み、文明の全き途上にいると思っておられるというのに、我々を天子の住みかから閉め出そうとなさるほど迷信深いとは。天子の台所を一瞥するお許しが貴殿らの文明の極みだと分かったら、ヨーロッパではさぞかし物笑いになることでしょう」。エンズリー氏がこれらの言葉を訳し終わらないうちに、我々の周囲に沈黙ができた。参事は、蒙古人種の肌色のぎりぎり一杯まで、赤面した。彼と補佐との間で、低い声での短い会話が始まった。彼は我々に言った。「おっしゃる通りです。我々は笑い者になることでしょう」。彼は御所の管理官に会いに行こうと申し出たけれども、この交渉からなんら良い結果も期待できない、と言った。・・・・・
程よい距離を保って我々の周囲には、人の群ができた。公家の侍女なのだった。我々は彼女たちの独特の服装と艶やかな髪型に気付いた。・・・
こんな調子で、半時間が過ぎた。やがて、我々の使者らが喜々として駆けつけてきた。我々は中に入ることが許されるのだ。管理官と補佐は、宮廷の正装を羽織る時間だけをくれと要求した。二人はやってきた。彼らはかなり無愛想な様子をしていたけれども、とうとう決断してくれて、我々に禁じられた一画の敷居を越えさせてくれた。我々は公家門から入った。・・・・
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2007年12月11日
はじめて見る日本6
大阪から京都へ
オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は道頓堀中座

引用開始
この都市(大坂)は日本の商都である。(日本)帝国の中央部向けの外国産の商品すべてはここを経由する。・・・・ここでは蒸気が役割を果たしはじめており、この点で、日本人は中国人を凌駕した。後者は機械の動かし方や蒸気船の運転の仕方をまだ習得していないのに、そうしたことができる日本人を見出せるからだ。
土佐候は、大型の蒸気船を何隻か所有しており、その船長や機関士は現地人なのだ。我々は、この町の外に、美しい三隻の蒸気船が投錨しているのを見た。それらはこの大名の所有になるものであり、横浜と瀬戸内海の小さな港との交易をしている。船賃はアメリカの船会社の料金よりかなり安いので、船はいつも乗客で超満員だ。
外国から輸入された商品は大坂から淀川を伏見まで遡り、そこから陸路で京都へ運ばれる。この川を遡り、琵琶または近江という名称で知られる大きな内陸の湖に入る他の船もある。・・・・
私が(英国)領事館の敷居をまたぐまでもなく、岩倉(具視)の書簡により私の旅行を予め知らされていた府知事が来訪を知らせてきた。数分後、副知事と通訳に伴われて、府知事がやって来た。彼は日本の高官の典型というべき人で、礼儀正しく、立派でこの点は彼に十分ふさわしいことながら、少々ぎこちがなく、場合によっては顔が引きつり、顔の表情は考え深げな様子になったり、少々間が抜けたようになる。・・・
ありきたりの文句の交換が終るやいなや、彼の顔の表情は和らぎ、もともと陽気でしばしば好意に満ちた彼の本性が勝ってしまい、暇乞いの時に再度仮面をつけることにしておいて、公的な仮面をはずしてしまうのだ。・・・・
京都御所の内部見学を要求
我々は四時に伏見に到着した。華々しい式典が我々を待ち受けていた。船着場では、正装の当局者たちが我々を出迎えてくれ、花々や絨毯で飾られた美しい部屋に案内されたが、そこにはこの日のために机と椅子が置かれてあった。我々が自由に使えるように府知事が気をきかせてくれた、これらのありがたい家具は、旅行中ずっと我々のお供をしてくれることになった。・・・・
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オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は道頓堀中座

引用開始
この都市(大坂)は日本の商都である。(日本)帝国の中央部向けの外国産の商品すべてはここを経由する。・・・・ここでは蒸気が役割を果たしはじめており、この点で、日本人は中国人を凌駕した。後者は機械の動かし方や蒸気船の運転の仕方をまだ習得していないのに、そうしたことができる日本人を見出せるからだ。
土佐候は、大型の蒸気船を何隻か所有しており、その船長や機関士は現地人なのだ。我々は、この町の外に、美しい三隻の蒸気船が投錨しているのを見た。それらはこの大名の所有になるものであり、横浜と瀬戸内海の小さな港との交易をしている。船賃はアメリカの船会社の料金よりかなり安いので、船はいつも乗客で超満員だ。
外国から輸入された商品は大坂から淀川を伏見まで遡り、そこから陸路で京都へ運ばれる。この川を遡り、琵琶または近江という名称で知られる大きな内陸の湖に入る他の船もある。・・・・
私が(英国)領事館の敷居をまたぐまでもなく、岩倉(具視)の書簡により私の旅行を予め知らされていた府知事が来訪を知らせてきた。数分後、副知事と通訳に伴われて、府知事がやって来た。彼は日本の高官の典型というべき人で、礼儀正しく、立派でこの点は彼に十分ふさわしいことながら、少々ぎこちがなく、場合によっては顔が引きつり、顔の表情は考え深げな様子になったり、少々間が抜けたようになる。・・・
ありきたりの文句の交換が終るやいなや、彼の顔の表情は和らぎ、もともと陽気でしばしば好意に満ちた彼の本性が勝ってしまい、暇乞いの時に再度仮面をつけることにしておいて、公的な仮面をはずしてしまうのだ。・・・・
京都御所の内部見学を要求
我々は四時に伏見に到着した。華々しい式典が我々を待ち受けていた。船着場では、正装の当局者たちが我々を出迎えてくれ、花々や絨毯で飾られた美しい部屋に案内されたが、そこにはこの日のために机と椅子が置かれてあった。我々が自由に使えるように府知事が気をきかせてくれた、これらのありがたい家具は、旅行中ずっと我々のお供をしてくれることになった。・・・・
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2007年12月10日
はじめて見る日本5
明治天皇に謁見
オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は向島の庭園

引用開始
明治四年九月十六日、今朝、侍従が四人乗り無蓋軽四輪馬車のような馬車に乗って我々を迎えにやって来た。・・・・
外門に到着したとき、我々は武装した軍隊に気がついた。これは中門でも、城の近くでも同じことだった。ヨーロッパ風の服装をした者も中にはいる。こういう武装した兵士たちは、見た目にはなかなか立派だった。ただ彼らは少々こういう仮装に当惑しているようではあった。そのかわり、役人や、その他の文武に携わる騎兵たちは、日本古来の服装をし、武器を持っており、堂々としてほんとうに立派だった。城の大きな堀に架けられた最後の橋を渡ってから、我々は馬車を降り、ごく稀な例外を除いては絶対誰も入ることのできない天皇専用の庭園に通された。・・・・
我々は五分ほど歩いたころ出迎えを受けた。太政大臣三条、岩倉、木戸・大隈・板垣の三参議、それから長州・肥前・土佐三藩の代表者たちが我々を迎えてくれたのである。この三藩の代表者たちは、この時は姿を見せなかった薩摩藩代表の西郷とともに、明治維新を成し遂げたのであった。
つまり我々は、ある観点から見るならば日本の改革者とも破壊者ともいえるような人物たちの前にいるのだった。・・・・
少し話しをしていると、天皇は謁見の準備がおできになったと知らせがあった。我々は大礼服を着たこういう高官貴顕に付き添われてふたたび歩き、瀧見茶屋と呼ばれる建物の開いた扉の前に着いた。私は天皇の御姿を一目拝見したいと好奇心を燃やしていたのだが、自分の回りに視線を投げかけて、この場所の詩的な美しさにただもう感嘆せずにはいられなかった。・・・・
我々は中に入り、神々の子孫の前に出た。その部屋は奥行約二十四フィート、間口十六から十八フィートであった。床は極上の畳で覆われていた。天皇が腰かけている高さ二フィートの台座の他はまったく家具はない。入口のところは暗かったが、幸い偶然にも太陽の光が鎧戸と障子の隙間から射しこみ、天皇の御体の上に強い光を投げかけたのであった。
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オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は向島の庭園

引用開始
明治四年九月十六日、今朝、侍従が四人乗り無蓋軽四輪馬車のような馬車に乗って我々を迎えにやって来た。・・・・
外門に到着したとき、我々は武装した軍隊に気がついた。これは中門でも、城の近くでも同じことだった。ヨーロッパ風の服装をした者も中にはいる。こういう武装した兵士たちは、見た目にはなかなか立派だった。ただ彼らは少々こういう仮装に当惑しているようではあった。そのかわり、役人や、その他の文武に携わる騎兵たちは、日本古来の服装をし、武器を持っており、堂々としてほんとうに立派だった。城の大きな堀に架けられた最後の橋を渡ってから、我々は馬車を降り、ごく稀な例外を除いては絶対誰も入ることのできない天皇専用の庭園に通された。・・・・
我々は五分ほど歩いたころ出迎えを受けた。太政大臣三条、岩倉、木戸・大隈・板垣の三参議、それから長州・肥前・土佐三藩の代表者たちが我々を迎えてくれたのである。この三藩の代表者たちは、この時は姿を見せなかった薩摩藩代表の西郷とともに、明治維新を成し遂げたのであった。
つまり我々は、ある観点から見るならば日本の改革者とも破壊者ともいえるような人物たちの前にいるのだった。・・・・
少し話しをしていると、天皇は謁見の準備がおできになったと知らせがあった。我々は大礼服を着たこういう高官貴顕に付き添われてふたたび歩き、瀧見茶屋と呼ばれる建物の開いた扉の前に着いた。私は天皇の御姿を一目拝見したいと好奇心を燃やしていたのだが、自分の回りに視線を投げかけて、この場所の詩的な美しさにただもう感嘆せずにはいられなかった。・・・・
我々は中に入り、神々の子孫の前に出た。その部屋は奥行約二十四フィート、間口十六から十八フィートであった。床は極上の畳で覆われていた。天皇が腰かけている高さ二フィートの台座の他はまったく家具はない。入口のところは暗かったが、幸い偶然にも太陽の光が鎧戸と障子の隙間から射しこみ、天皇の御体の上に強い光を投げかけたのであった。
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2007年12月08日
はじめて見る日本4
明治四年九月・江戸の店舗
オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は当時の呉服店舗

引用開始
今朝、江戸の主な店をいくつか訪問。横浜の日本人地区にはヨーロッパ市場向けにわざわざ製造された品物があるが、ここ江戸ではそれとは逆に、物はすべて日本人の好みに合わせて作られている。こういうさまざまな数々の品物をつぶさに眺めることほど面白いことはない。・・・
美術品と工芸品を比較して言えば、ここ日本では、芸術家は職人に極めてよく似ており、また職人はある程度まで本質的に芸術家なのだ。ヨーロッパにおいても中世はこれと同じ状況だったのである。
玩具を売っている店には感嘆した。たかが子供を楽しませるのに、どうしてこんなに知恵や創意工夫、美的感覚、知識を費やすのだろう、子供にはこういう小さな傑作を評価する能力もないのに、と思ったほどだ。聞いてみると答えはごく簡単だった。この国では、暇なときはみんな子供のように遊んで楽しむのだという。私は祖父、父、息子の三世代が凧を揚げるのに夢中になっているのを見た。・・・・
私はごくわずかなお金でたくさん珍しい品々を買い込んだ。そのうちのいくつかは本物の美術品といってもよいものだ。たとえば、小さな青銅品、さまざまな動物が描かれた文鎮、亀の群像といったものだ。滑稽さをねらっている意図は明らかだ。他の店でも同じような群像、同じモティーフを見つけたが、しかし複製ではなかった。これは機械的に同じ型が再生産されるのではなく、発想が同じなだけなのだ。職人は、というか芸術家は、模倣しつつも自分の創意工夫を盛り込むのである。
それから、柔らかく光沢のある紙で私の買った品物を包んでくれる女性たちの華奢で綺麗なほっそりした手にも私は感嘆したのだった。
我々は最も有名な二軒の絹織物店も訪れた。我々は顧客でいっぱいの二階の大広間に通された。顧客の中には身分の高い婦人も数人いた。男も女もみんな一フィートほどの机の後ろに正座し、その上に薄手の縮緬や、無地あるいは模様入りのずしりと重い厚手の織物など商品を広げていた。着物の色は目を見張るほど鮮やかだ。値段さえあまりに高すぎなければ、喜んで家具や壁掛けの織物として用いられるところだろう。教会の壮麗な装飾にも使うことができるだろう。ここ日本ではこういう織物で男女の正装用の衣装を作るのである。・・・・・
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オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は当時の呉服店舗

引用開始
今朝、江戸の主な店をいくつか訪問。横浜の日本人地区にはヨーロッパ市場向けにわざわざ製造された品物があるが、ここ江戸ではそれとは逆に、物はすべて日本人の好みに合わせて作られている。こういうさまざまな数々の品物をつぶさに眺めることほど面白いことはない。・・・
美術品と工芸品を比較して言えば、ここ日本では、芸術家は職人に極めてよく似ており、また職人はある程度まで本質的に芸術家なのだ。ヨーロッパにおいても中世はこれと同じ状況だったのである。
玩具を売っている店には感嘆した。たかが子供を楽しませるのに、どうしてこんなに知恵や創意工夫、美的感覚、知識を費やすのだろう、子供にはこういう小さな傑作を評価する能力もないのに、と思ったほどだ。聞いてみると答えはごく簡単だった。この国では、暇なときはみんな子供のように遊んで楽しむのだという。私は祖父、父、息子の三世代が凧を揚げるのに夢中になっているのを見た。・・・・
私はごくわずかなお金でたくさん珍しい品々を買い込んだ。そのうちのいくつかは本物の美術品といってもよいものだ。たとえば、小さな青銅品、さまざまな動物が描かれた文鎮、亀の群像といったものだ。滑稽さをねらっている意図は明らかだ。他の店でも同じような群像、同じモティーフを見つけたが、しかし複製ではなかった。これは機械的に同じ型が再生産されるのではなく、発想が同じなだけなのだ。職人は、というか芸術家は、模倣しつつも自分の創意工夫を盛り込むのである。
それから、柔らかく光沢のある紙で私の買った品物を包んでくれる女性たちの華奢で綺麗なほっそりした手にも私は感嘆したのだった。
我々は最も有名な二軒の絹織物店も訪れた。我々は顧客でいっぱいの二階の大広間に通された。顧客の中には身分の高い婦人も数人いた。男も女もみんな一フィートほどの机の後ろに正座し、その上に薄手の縮緬や、無地あるいは模様入りのずしりと重い厚手の織物など商品を広げていた。着物の色は目を見張るほど鮮やかだ。値段さえあまりに高すぎなければ、喜んで家具や壁掛けの織物として用いられるところだろう。教会の壮麗な装飾にも使うことができるだろう。ここ日本ではこういう織物で男女の正装用の衣装を作るのである。・・・・・
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2007年12月07日
はじめて見る日本3
明治四年八月・箱根・江ノ島
オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は箱根の関所跡付近

引用開始
昨日我々は江戸を離れた。私の旅の道連れは、英国代理公使アダムズ氏と英国公使館書記官兼通訳官サトウ氏である。富士山麓に行くときにとったのと同じルートを通って、我々は午後、湯本に到着した。宮ノ下へ向う北東方向の道はここから分かれるのだが、我々は東海道を進み続ける。急流に沿った東海道を辿っていくと、畑村に出た。これはその風光明媚なこと、茶屋とその庭とで有名な所である。・・・・
読者諸氏にはこういういわく言いがたい幸福感を思い描くことがおできになるだろうか。つまり、しのつく雨が絶え間なく朝から晩までどしゃぶりに降って快い涼しさをふりまいているなかで、自分の力と元気を意識しながら、庭に向ってぱっと開け放たれた瀟洒な部屋で、とても綺麗な畳に寝転がっているという幸せを。その気持ちよい感覚を、私は幸せにもみんなと分かちあうことができたのである。・・・・
宿を発つときの光景は、いつもながら賑やかだ。物見高い連中の立ち並ぶ二列の人垣の間を部屋から部屋へと通り抜けていくのである。宿の主人と女将が、両手で仲介人から勘定を受け取った。二人は何度も繰り返し繰り返し感謝と礼の言葉を述べた。姐さんたちはあとを追いかけてきて、笑いながら手を振って、道中ご無事で、またいらしてね、などと言う。家の出口の敷居のところでは、到着した時に脱いだ靴を探す羽目になった。そしてそこで、村のお偉方の市長と側近たちが我々にお辞儀をして、村のはずれまで先導してくれたのである。・・・・・
日本人は自然が好きだ。ヨーロッパでは美的感覚は教育によって育み形成することが必要である。ヨーロッパの農民たちの話すことといえば、畑の肥沃さとか、水車を動かす水量の豊かさとか、森の値打ちとかであって、土地の絵画的な魅力についてなど話題にもしない。彼らはそうしたものに対してまったく鈍感で、彼らの感じるものといったら漠然とした満足感にすぎず、それすらほとんど理解する能がない有様なのである。ところが日本の農民はそうではない。日本の農民にあっては、美的感覚は生れつきのものなのだ。たぶん日本の農民には美的感覚を育む余裕がヨーロッパの農民よりもあるのだろう。というのも日本の農民はヨーロッパの農民ほど仕事に打ちひしがれてはいないからだ。肥沃な土壌と雨と太陽が仕事の半分をしてくれるのだから、あとはそっくりそのまま時間が残ることになる。この時間を、日本の農民は小屋の戸口に寝そべり、煙管をくゆらせ、自分の娘たちの歌声に耳を傾けながら、どこを見ても美しい周囲の風景に視線をさまよわせるのである。
もしできれば、日本の農民は小川のほとりに藁葺きの家を建てる。そしていくつかの大きな石を使って、それを適当な場所に置き、小さな滝を作る。水の音が好きだからだ。
続きを読む
オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は箱根の関所跡付近

引用開始
昨日我々は江戸を離れた。私の旅の道連れは、英国代理公使アダムズ氏と英国公使館書記官兼通訳官サトウ氏である。富士山麓に行くときにとったのと同じルートを通って、我々は午後、湯本に到着した。宮ノ下へ向う北東方向の道はここから分かれるのだが、我々は東海道を進み続ける。急流に沿った東海道を辿っていくと、畑村に出た。これはその風光明媚なこと、茶屋とその庭とで有名な所である。・・・・
読者諸氏にはこういういわく言いがたい幸福感を思い描くことがおできになるだろうか。つまり、しのつく雨が絶え間なく朝から晩までどしゃぶりに降って快い涼しさをふりまいているなかで、自分の力と元気を意識しながら、庭に向ってぱっと開け放たれた瀟洒な部屋で、とても綺麗な畳に寝転がっているという幸せを。その気持ちよい感覚を、私は幸せにもみんなと分かちあうことができたのである。・・・・
宿を発つときの光景は、いつもながら賑やかだ。物見高い連中の立ち並ぶ二列の人垣の間を部屋から部屋へと通り抜けていくのである。宿の主人と女将が、両手で仲介人から勘定を受け取った。二人は何度も繰り返し繰り返し感謝と礼の言葉を述べた。姐さんたちはあとを追いかけてきて、笑いながら手を振って、道中ご無事で、またいらしてね、などと言う。家の出口の敷居のところでは、到着した時に脱いだ靴を探す羽目になった。そしてそこで、村のお偉方の市長と側近たちが我々にお辞儀をして、村のはずれまで先導してくれたのである。・・・・・
日本人は自然が好きだ。ヨーロッパでは美的感覚は教育によって育み形成することが必要である。ヨーロッパの農民たちの話すことといえば、畑の肥沃さとか、水車を動かす水量の豊かさとか、森の値打ちとかであって、土地の絵画的な魅力についてなど話題にもしない。彼らはそうしたものに対してまったく鈍感で、彼らの感じるものといったら漠然とした満足感にすぎず、それすらほとんど理解する能がない有様なのである。ところが日本の農民はそうではない。日本の農民にあっては、美的感覚は生れつきのものなのだ。たぶん日本の農民には美的感覚を育む余裕がヨーロッパの農民よりもあるのだろう。というのも日本の農民はヨーロッパの農民ほど仕事に打ちひしがれてはいないからだ。肥沃な土壌と雨と太陽が仕事の半分をしてくれるのだから、あとはそっくりそのまま時間が残ることになる。この時間を、日本の農民は小屋の戸口に寝そべり、煙管をくゆらせ、自分の娘たちの歌声に耳を傾けながら、どこを見ても美しい周囲の風景に視線をさまよわせるのである。
もしできれば、日本の農民は小川のほとりに藁葺きの家を建てる。そしていくつかの大きな石を使って、それを適当な場所に置き、小さな滝を作る。水の音が好きだからだ。
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2007年12月06日
はじめて見る日本2
明治四年八月・富士への小旅行
オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は山中湖のさかさ富士

引用開始
オランダ公使ファン・デル・フーフェン氏が、自分の計画している富士山への小旅行に加わらないかと勧めてくれた。私はこの得がたい機会を利用して、その休火山のほとんど未知の北部・北東部地方を探検してこようと思った。旅行者は六名。・・・・いよいよ今朝(三日)五時、暑い一日を思わせるすばらしい晴天の朝、我々は腰掛付馬車に乗って出立した。馬車は我々を乗せて東海道に向う。東海道は日本の幹線路で、ここから一里あるが、この東海道に出ると、小田原の川(酒匂川)まで馬車に乗っていくことができる。そこからは徒歩や馬や駕籠で道を続けるのだ。我々の守護天使にして監視人である役人は、小さな痩せ馬に乗って、我々の車を取り巻いている。この原始的なつくりの乗物に腰をおろすやいなや、私以外の者はみんなそれぞれ自分の武器を点検しだしたが、私は武器を何も所持していなかった。となりの若者はポケットから恐ろしげな回転式連発拳銃を取り出した。彼がその拳銃をとり扱うさまを見ていると、これまでの世界周遊旅行ではじめて、自分の生命が心配になったのだ。
東海道はいつもと変わらずたいへん賑わっていた。徒歩で旅する者、乗物(のりもん)をつかう者、駕籠に乗った者、女子供、両刀を差した人々、剃髪した僧侶などが、ほとんど途切れることなく続くのだ。・・・・
我々に付き添っている役人たちは、立派な若者だった。大きな鍔の黒い烏帽子をかぶり、絹のゆったりとした着物をつけて、結構上品なのだ。道の両側には家や店や木が立ち並んでおり、村々が隣り合っていた。・・・・
一時頃、封建都市小田原の対岸に到着した。ここで馬車を降り、我々はそれぞれ一枚の板の上に横になって、指を小さな穴に通した。そうすると、四人の裸の男たちがその板を持ち上げて肩に乗せ、そして川の中に飛び込んだ。これは奇妙だが少し感動的な迫力のある情景だった。急流の中ほどまで来た時、水が板をかつぐ男たちのほぼ肩の高さまでになった。激しい流れに屈せざるをえず、男たちは流されるがままになったが、幸いにも背が立たなくなることはなかった。まるで我々が小船に乗って下っているかのように、岸辺が遠ざかっていく。そのうち海の怒涛の響きが苦力たちの拍子をつけた大声と混ざりあうのだった。彼らは荒波と闘いながらも時おり笑いながら我々の方を見やる。軽い板の上でさんざん揺さぶられつつも、我々は板に必死にしがみつく。やっとのことで川岸にたどり着き、我々は砂の上に降ろされた。
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オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。
写真は山中湖のさかさ富士

引用開始
オランダ公使ファン・デル・フーフェン氏が、自分の計画している富士山への小旅行に加わらないかと勧めてくれた。私はこの得がたい機会を利用して、その休火山のほとんど未知の北部・北東部地方を探検してこようと思った。旅行者は六名。・・・・いよいよ今朝(三日)五時、暑い一日を思わせるすばらしい晴天の朝、我々は腰掛付馬車に乗って出立した。馬車は我々を乗せて東海道に向う。東海道は日本の幹線路で、ここから一里あるが、この東海道に出ると、小田原の川(酒匂川)まで馬車に乗っていくことができる。そこからは徒歩や馬や駕籠で道を続けるのだ。我々の守護天使にして監視人である役人は、小さな痩せ馬に乗って、我々の車を取り巻いている。この原始的なつくりの乗物に腰をおろすやいなや、私以外の者はみんなそれぞれ自分の武器を点検しだしたが、私は武器を何も所持していなかった。となりの若者はポケットから恐ろしげな回転式連発拳銃を取り出した。彼がその拳銃をとり扱うさまを見ていると、これまでの世界周遊旅行ではじめて、自分の生命が心配になったのだ。
東海道はいつもと変わらずたいへん賑わっていた。徒歩で旅する者、乗物(のりもん)をつかう者、駕籠に乗った者、女子供、両刀を差した人々、剃髪した僧侶などが、ほとんど途切れることなく続くのだ。・・・・
我々に付き添っている役人たちは、立派な若者だった。大きな鍔の黒い烏帽子をかぶり、絹のゆったりとした着物をつけて、結構上品なのだ。道の両側には家や店や木が立ち並んでおり、村々が隣り合っていた。・・・・
一時頃、封建都市小田原の対岸に到着した。ここで馬車を降り、我々はそれぞれ一枚の板の上に横になって、指を小さな穴に通した。そうすると、四人の裸の男たちがその板を持ち上げて肩に乗せ、そして川の中に飛び込んだ。これは奇妙だが少し感動的な迫力のある情景だった。急流の中ほどまで来た時、水が板をかつぐ男たちのほぼ肩の高さまでになった。激しい流れに屈せざるをえず、男たちは流されるがままになったが、幸いにも背が立たなくなることはなかった。まるで我々が小船に乗って下っているかのように、岸辺が遠ざかっていく。そのうち海の怒涛の響きが苦力たちの拍子をつけた大声と混ざりあうのだった。彼らは荒波と闘いながらも時おり笑いながら我々の方を見やる。軽い板の上でさんざん揺さぶられつつも、我々は板に必死にしがみつく。やっとのことで川岸にたどり着き、我々は砂の上に降ろされた。
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2007年12月05日
はじめて見る日本1
明治四年七月・横浜
オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。

引用開始
日本にやってきた者は、誰しもわが目を疑う。歩みを進めるごとに、これはみんな夢ではないか、おとぎ話ではないか、千一夜物語の一挿話ではないか、といぶかることになる。それに、目にする光景があまりにも美しいので、雲散霧消してしまうのではないかと恐れるのである。
私はむだな記述をするつもりはない。こんにちでは誰でもよく知っているように、日本の人々はおとなしくて感じがよく、礼儀正しくほがらかで、よく笑い、温厚で、とりわけたいへん子供っぽい。また下層階級の人々は、日焼けした赤銅色の顔をし、肌にはしばしば赤や青の刺青をしており、その模様や色からして、この国の古い漆器によく似ている。どんな階級の人でも、頭は額を刈り上げ、後頭部に楽しそうに揺れる小さい辮髪(丁髷)を飾っている。夏には窮屈な袴を脱ぎ、個人によって違うが、タフタ織か綿の簡単な浴衣をつけるだけで、家にいる時には褌をしている。この褌という腰巻は、上は天皇から下は苦力まで、対面を重んじる日本人なら誰でも心がける身だしなみの基本となるものである。
階級制度の最下位にある商人は別として、みんな誰かに帰属している。しかし、農奴とか奴隷としてではなく、ある一つの藩の構成員として帰属しているのである。この藩というのは、いくつかの階級に分かれているが、つまるところはただ一つの大家族だけを形成しているものである。君主すなわち大名が、その長である。この君主に従うのは、重臣、家臣、侍つまり両刀を差した武士(一本しか刀を差していない者もいるのだ)、いろいろな階級の兵士である。みんな着物の背中と袖には、仕えている君主や団体の紋章をつけているが、この紋章は円の中に花とか文字が書き込まれたものだ。武士の刀や、墨壷、煙管、帯に結わえられた財布などは、いずれもよく知られている。
ラザフォード卿の報告でこれも周知のことだが、君主に随行している侍連中とか、酒を何杯か飲んで興奮して茶屋つまり遊郭から出てきたばかりの侍連中に出くわすことは、好ましくないばかりか、死の危険すらある。
ところで現政府が封建制度を解体している途上にあることは、一般にはあまりよく知られてはいない。しかし、この国の外見そのものは、まだほとんど変わっていないのである。さて、日本女性には、どんな記事や書物の筆者でも心を奪われてしまっている。正確に言えば、彼女たちはけっして美しくはない。顔立ちの端正さという点では、まだ申し分ないとは言えないのである。・・・・
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オーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったアレクサンダー・F・V・ヒューブナーは、職を辞した後1871年5月から世界一周旅行に出発、同年(明治四年)七月二十四日に横浜に上陸しました。彼の『世界周遊記』中の日本編を全訳した「オーストリア外交官の明治維新」という本から、彼の見た明治初年の日本の様子を抜粋引用してみます。

引用開始
日本にやってきた者は、誰しもわが目を疑う。歩みを進めるごとに、これはみんな夢ではないか、おとぎ話ではないか、千一夜物語の一挿話ではないか、といぶかることになる。それに、目にする光景があまりにも美しいので、雲散霧消してしまうのではないかと恐れるのである。
私はむだな記述をするつもりはない。こんにちでは誰でもよく知っているように、日本の人々はおとなしくて感じがよく、礼儀正しくほがらかで、よく笑い、温厚で、とりわけたいへん子供っぽい。また下層階級の人々は、日焼けした赤銅色の顔をし、肌にはしばしば赤や青の刺青をしており、その模様や色からして、この国の古い漆器によく似ている。どんな階級の人でも、頭は額を刈り上げ、後頭部に楽しそうに揺れる小さい辮髪(丁髷)を飾っている。夏には窮屈な袴を脱ぎ、個人によって違うが、タフタ織か綿の簡単な浴衣をつけるだけで、家にいる時には褌をしている。この褌という腰巻は、上は天皇から下は苦力まで、対面を重んじる日本人なら誰でも心がける身だしなみの基本となるものである。
階級制度の最下位にある商人は別として、みんな誰かに帰属している。しかし、農奴とか奴隷としてではなく、ある一つの藩の構成員として帰属しているのである。この藩というのは、いくつかの階級に分かれているが、つまるところはただ一つの大家族だけを形成しているものである。君主すなわち大名が、その長である。この君主に従うのは、重臣、家臣、侍つまり両刀を差した武士(一本しか刀を差していない者もいるのだ)、いろいろな階級の兵士である。みんな着物の背中と袖には、仕えている君主や団体の紋章をつけているが、この紋章は円の中に花とか文字が書き込まれたものだ。武士の刀や、墨壷、煙管、帯に結わえられた財布などは、いずれもよく知られている。
ラザフォード卿の報告でこれも周知のことだが、君主に随行している侍連中とか、酒を何杯か飲んで興奮して茶屋つまり遊郭から出てきたばかりの侍連中に出くわすことは、好ましくないばかりか、死の危険すらある。
ところで現政府が封建制度を解体している途上にあることは、一般にはあまりよく知られてはいない。しかし、この国の外見そのものは、まだほとんど変わっていないのである。さて、日本女性には、どんな記事や書物の筆者でも心を奪われてしまっている。正確に言えば、彼女たちはけっして美しくはない。顔立ちの端正さという点では、まだ申し分ないとは言えないのである。・・・・
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2007年11月29日
仏人の見た明治の長崎
門司から長崎へ
フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。
彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。
写真は当時の長崎港

引用開始
私たちは、まさに日が暮れようという時刻に、日本地中海のジブラルタルともいうべき下関海峡に着いた。門司港は煙の幕に覆われている。無数の帆船が、長く伸びた赤い水平線上に浮かんでいる。かつては名もない漁村に過ぎなかったところが、今や九州鉄道が通り、要塞を設けられた都市になった。
汽車が出るまで時間があったので、私は日本人の旅行の仕方をもう一度観察した。ある程度の階層の日本人は、高価な荷物のように旅行をする。行先を告げる必要はほとんどない。下車すると、宿がたとえほんの数歩のところにあっても、そこまで運ばれる。宿では、茶、酒、料理が振る舞われ、芸者がまかり出る。彼は何にも気を遣う必要がない。彼の汽車の切符は彼の手の中に滑り込み、時刻かっきりに、車室に案内される。自分の夢想を中断されることなしに、下船し、町を通り、汽車に乗ることの出来るのは、世界で彼らだけである。信徒の手で移転する仏陀さながらである。
しかし、異国の仏陀である私は、家族全員が私の周りに集まっている宿屋のござの上には坐っていない。僧侶の説教は、私の沈黙ほどには必ずしも多くの人を集めない。門司の人びとは、普通よりももっと強い好奇心を示す。私が口にする僅かの言葉、生活習慣についての私の試み、酒や生の魚に対する私の好みは、たちまち無数の微笑と丁重な挨拶を招くにいたる。
突然、宿屋の主人が、その質問が私に通じないのを見て、頭を掻き、英和会話の手引きを探しに人を走らせる。彼はその手引きを、最初右から左に、次いで左から右にめくり、その顔は赤く充血する。・・・
女中が入って来て、私に汽車の切符を渡し、主人には車夫が玄関に来ていると告げた。しかし、主人は下女を押しのけ、熱心にページをめくるのをやめようとしない。私は通訳がいないことを呪った。そして、不安は募るし、ここを立ち去りたい気持ちは強くなるしで、私はどうしてよいか分からなかった。その時、宿屋の主人は勝ち誇ったように拳を振り上げ、上体をすっくと起すなり、爪でしるしをつけた次の言葉を私に指し示した。
“I do not understand English”
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フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。
彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。
写真は当時の長崎港

引用開始
私たちは、まさに日が暮れようという時刻に、日本地中海のジブラルタルともいうべき下関海峡に着いた。門司港は煙の幕に覆われている。無数の帆船が、長く伸びた赤い水平線上に浮かんでいる。かつては名もない漁村に過ぎなかったところが、今や九州鉄道が通り、要塞を設けられた都市になった。
汽車が出るまで時間があったので、私は日本人の旅行の仕方をもう一度観察した。ある程度の階層の日本人は、高価な荷物のように旅行をする。行先を告げる必要はほとんどない。下車すると、宿がたとえほんの数歩のところにあっても、そこまで運ばれる。宿では、茶、酒、料理が振る舞われ、芸者がまかり出る。彼は何にも気を遣う必要がない。彼の汽車の切符は彼の手の中に滑り込み、時刻かっきりに、車室に案内される。自分の夢想を中断されることなしに、下船し、町を通り、汽車に乗ることの出来るのは、世界で彼らだけである。信徒の手で移転する仏陀さながらである。
しかし、異国の仏陀である私は、家族全員が私の周りに集まっている宿屋のござの上には坐っていない。僧侶の説教は、私の沈黙ほどには必ずしも多くの人を集めない。門司の人びとは、普通よりももっと強い好奇心を示す。私が口にする僅かの言葉、生活習慣についての私の試み、酒や生の魚に対する私の好みは、たちまち無数の微笑と丁重な挨拶を招くにいたる。
突然、宿屋の主人が、その質問が私に通じないのを見て、頭を掻き、英和会話の手引きを探しに人を走らせる。彼はその手引きを、最初右から左に、次いで左から右にめくり、その顔は赤く充血する。・・・
女中が入って来て、私に汽車の切符を渡し、主人には車夫が玄関に来ていると告げた。しかし、主人は下女を押しのけ、熱心にページをめくるのをやめようとしない。私は通訳がいないことを呪った。そして、不安は募るし、ここを立ち去りたい気持ちは強くなるしで、私はどうしてよいか分からなかった。その時、宿屋の主人は勝ち誇ったように拳を振り上げ、上体をすっくと起すなり、爪でしるしをつけた次の言葉を私に指し示した。
“I do not understand English”
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2007年11月28日
仏人の見た明治京都2
ベルソール、京都の魅力(下)
フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。
彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。
写真は当時の東本願寺東山別院

引用開始
私の住む通りの外れにカトリック教会が立っている。そこの司祭オーリアンティス神父は、伝統あるいは歴史の中でキリスト教に対する最も仮借ない敵の一人に数えられる大名の屋敷跡住んでいる。・・・・
元の主がしつらえたままに残った庭には、珍しい樹木や奇妙な石などが配置されている。・・・・ほとんど毎日、私が訪れる時刻には、オーリアンティス神父は数人の日本人へのフランス語の授業を終える。これらの生徒は、既婚者、家庭の父親、軍人、公務員、あるいは外国語愛好者等さまざまだが、わが国の言語を学ぶことを望んでおり、大男で、ひげが半白になり始めているオーリアンティス神父は、わが国の子供たちが使う読本を彼らに使わせている。・・・・
昨日、オーリアンティス神父は、ある職人の家で宵を過ごすのだと私に告げ、同行しないかと私を誘ってくれた。・・・
われらが知人たちは、職人の住まいが両側に並ぶ狭い袋小路の奥に住んでいた。窓と引戸式の表口はまだ開いていて、二つか三つの小さい部屋の中を見ることができた。この種の家はたいていこんな間取りである。木蓮の大きな花のような白い角灯が投げる白っぽい光の下で、子供たちがひざまずいて勉強のおさらいをしていた。光の陰に隠れたいくつかの顔からは、穏やかな話し声や笑い声が洩れていた。
われわれが入った家は大きくはなかった。一室とそれに板の間である。板の間は台所に使われている。父親、母親、それに四人の娘が、その部屋に人を迎え、食事をし、そして眠る。しかし、この人たちは貧民ではない。その部屋は、六人が住んでいるのに、わが国の屋根裏部屋の入口で感じる貧しい不潔感がない。その部屋は清潔で、魅力的ですらあった。部屋には、夏にはいっそう涼しい藤のござのようなものが敷かれていた。小さいたんすが二、三、奥に並んでいた。鏡の入ったごく小さい化粧台が、部屋の隅に見えていた。ニスか漆を塗ったごく低いテーブルが二脚あり、一つには茶道具と菓子が、他の一つには、元サムライで、今は扇子作りの職人である父親の刀が載っていた。
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フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。
彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。
写真は当時の東本願寺東山別院

引用開始
私の住む通りの外れにカトリック教会が立っている。そこの司祭オーリアンティス神父は、伝統あるいは歴史の中でキリスト教に対する最も仮借ない敵の一人に数えられる大名の屋敷跡住んでいる。・・・・
元の主がしつらえたままに残った庭には、珍しい樹木や奇妙な石などが配置されている。・・・・ほとんど毎日、私が訪れる時刻には、オーリアンティス神父は数人の日本人へのフランス語の授業を終える。これらの生徒は、既婚者、家庭の父親、軍人、公務員、あるいは外国語愛好者等さまざまだが、わが国の言語を学ぶことを望んでおり、大男で、ひげが半白になり始めているオーリアンティス神父は、わが国の子供たちが使う読本を彼らに使わせている。・・・・
昨日、オーリアンティス神父は、ある職人の家で宵を過ごすのだと私に告げ、同行しないかと私を誘ってくれた。・・・
われらが知人たちは、職人の住まいが両側に並ぶ狭い袋小路の奥に住んでいた。窓と引戸式の表口はまだ開いていて、二つか三つの小さい部屋の中を見ることができた。この種の家はたいていこんな間取りである。木蓮の大きな花のような白い角灯が投げる白っぽい光の下で、子供たちがひざまずいて勉強のおさらいをしていた。光の陰に隠れたいくつかの顔からは、穏やかな話し声や笑い声が洩れていた。
われわれが入った家は大きくはなかった。一室とそれに板の間である。板の間は台所に使われている。父親、母親、それに四人の娘が、その部屋に人を迎え、食事をし、そして眠る。しかし、この人たちは貧民ではない。その部屋は、六人が住んでいるのに、わが国の屋根裏部屋の入口で感じる貧しい不潔感がない。その部屋は清潔で、魅力的ですらあった。部屋には、夏にはいっそう涼しい藤のござのようなものが敷かれていた。小さいたんすが二、三、奥に並んでいた。鏡の入ったごく小さい化粧台が、部屋の隅に見えていた。ニスか漆を塗ったごく低いテーブルが二脚あり、一つには茶道具と菓子が、他の一つには、元サムライで、今は扇子作りの職人である父親の刀が載っていた。
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2007年11月27日
仏人の見た明治京都1
ベルソール、京都の魅力(上)
フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。
彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。
写真は当時の八坂神社・四条通り

引用開始
すばらしい場所であった。寺院の名前はもう思い出せないが、いくつかの丘に囲まれた平地全体が見渡され、そこに京都の町並みがくすんだ黒っぽい干潮のように広がっている。大きな建物の屋根も浮き立っては見えない。緑がかった、大きな塊のように見えるだけである。・・・
いくつもの丘の斜面のいたるところに、寺院の階段、仏塔、神社、叢林等が、朝の光が輝く青白い空気の中に、くっきりとそれぞれの輪郭を浮かび上らせていた。小川と小鳥だけが歌っていた。人間たちの住居も、神々の館と同じく静まり返っていた。
かつて、帝位が盛んで、天皇が京都に都を置き、この都市の四十万の人口のうち五万人が僧侶であったという時代には、狭くて長く、上り下りの坂の多い大路小路は、耳に入るものとては、衣ずれの音に刀の触れ合う音、笛の音、舞踊の調べのみであり、朝な夕な、僧侶が鐘を打ち鳴らしていたのであろう。
われわれは、寺院近くの、とある茶店の戸口に腰を下ろしていた。校旗を先頭にして、少女の学校生徒の群が通っていった。どの子も明るい色の着物を着て、生徒らの姉と見えるくらいの女教師たちに引率されていった。女生徒たちは山腹の神にお参りに行くところで、めいめいが枝葉模様の布(風呂敷)にきれいに包まれた小さい弁当を下げていた。少女らの、軽やかな、跳びはねるような一群は、たちまち木立の陰に消えた。・・・・
あらゆる地方から、学校の教師たちは、生徒を引率して京都にやってくる。ほこりで真っ白になった履物を引きずり、ある者は日本風の衣服をまとい、他の者はヨーロッパ風の衣服を着こんだ生徒たちの群に会わぬ日はない。一見して、彼らの無骨な顔は、喜びも驚きも疲れも見せておらず、懸命な緊張の表情があるばかりである。私は好んで彼らのあとについて行く。とくに、彼らが宮殿や城館を訪ねるときにはそうする。この少年たちは、過つことのない嗅覚を備えていて、優れたもの、珍しいもの、極上のものの前ではぴたりと足を停める。
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フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。
彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。
写真は当時の八坂神社・四条通り

引用開始
すばらしい場所であった。寺院の名前はもう思い出せないが、いくつかの丘に囲まれた平地全体が見渡され、そこに京都の町並みがくすんだ黒っぽい干潮のように広がっている。大きな建物の屋根も浮き立っては見えない。緑がかった、大きな塊のように見えるだけである。・・・
いくつもの丘の斜面のいたるところに、寺院の階段、仏塔、神社、叢林等が、朝の光が輝く青白い空気の中に、くっきりとそれぞれの輪郭を浮かび上らせていた。小川と小鳥だけが歌っていた。人間たちの住居も、神々の館と同じく静まり返っていた。
かつて、帝位が盛んで、天皇が京都に都を置き、この都市の四十万の人口のうち五万人が僧侶であったという時代には、狭くて長く、上り下りの坂の多い大路小路は、耳に入るものとては、衣ずれの音に刀の触れ合う音、笛の音、舞踊の調べのみであり、朝な夕な、僧侶が鐘を打ち鳴らしていたのであろう。
われわれは、寺院近くの、とある茶店の戸口に腰を下ろしていた。校旗を先頭にして、少女の学校生徒の群が通っていった。どの子も明るい色の着物を着て、生徒らの姉と見えるくらいの女教師たちに引率されていった。女生徒たちは山腹の神にお参りに行くところで、めいめいが枝葉模様の布(風呂敷)にきれいに包まれた小さい弁当を下げていた。少女らの、軽やかな、跳びはねるような一群は、たちまち木立の陰に消えた。・・・・
あらゆる地方から、学校の教師たちは、生徒を引率して京都にやってくる。ほこりで真っ白になった履物を引きずり、ある者は日本風の衣服をまとい、他の者はヨーロッパ風の衣服を着こんだ生徒たちの群に会わぬ日はない。一見して、彼らの無骨な顔は、喜びも驚きも疲れも見せておらず、懸命な緊張の表情があるばかりである。私は好んで彼らのあとについて行く。とくに、彼らが宮殿や城館を訪ねるときにはそうする。この少年たちは、過つことのない嗅覚を備えていて、優れたもの、珍しいもの、極上のものの前ではぴたりと足を停める。
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2007年11月26日
明治仏人の京都への旅
ベルソール、京都への道すがら
フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。
彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。

引用開始
一般的に言って、校門が開かれ、教師から白人への反感を植えつけられている生徒たちが路上に溢れる時には、ヨーロッパ人はそこに居合わさないことが望ましい。とはいうものの、生徒の群がヨーロッパ人にぶつかり、罵りの言葉が彼に浴びせられた時には、私は、日本人がどんなに親切で丁重かを思い出すよう、そのヨーロッパ人に勧告したい。最も無礼な子供をも静めるための妙策を、私はずっと以前から教えられている。誰でもよい、子供たちの一人に近寄り、道を聞くか、広場の名前を尋ねるかするのである。罵りを発していた口はたちまち微笑を浮かべる。挑むような姿勢をとっていた小さい体が前に傾いてお辞儀をする。そして、彼の仲間たちも、私が敵であることを忘れて、彼らの父たちが生活の掟としてきた愛想のよさをひたすら私に示そうとする。
つい昨日も私は、一群の生徒たちにタバコ屋へ案内してもらった。この生徒たちというのが、その一瞬前には、私に石つぶてを投げたかもしれない連中だったのである。「タバコ屋はどこですか?」という私の単純な問いかけが、親切と丁重の伝統をたちまち彼らに思い出させたのである。・・・
私の記憶に誤りがないならば、ラフカディオ・ハーンは心身を備えた生身の神、老いたる農夫を見た。その農夫は、ある夏の夕方、自分の住んで居る岬から、巨大な津波が押し寄せてくるのに気がついた。水平線の果てに現れたその大波はみるみる巨大に膨れ上がり、陸地に近づいてきて、村人全部をその波間に呑み込んでしまうかと思われた。農夫はためらうことなく自分の手で収穫したばかりの稲わらと穀倉に火をつけた。彼がどんなに叫んでも声の届くはずのない丘の上に、火の手を見つけた村人たちが駆け上がってくるのを願ってのことである。村人たちが感謝して彼のために建てた寺は、この農夫の家から遠くなかった。耕している田畑から、彼はそのわらぶきの屋根を、木立ごしに見ていた。日々の生活の中で、人びとがこの農夫に対して神としての敬意を表していたろうとは私は思わない。しかし、この土地の子供たちは、いつからかこの人物が神の魂を実際に宿したことを知っていた。ヨーロッパの人たちが日本の無宗教について語るとき――ある人びとはそのことを嘆き、他の人びとは、もっといけないのだが、それをほめそやすたびに――人びとは肩をすくめずにはいられない。神がその路上を歩んでおり、その屋根の下に住んでおり、神の誇りとする行為がその存在の目に見える閃光にほかならないと、こんなにも信じている国民を、私はかつて見たことがない。・・・・
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フランス人、アンドレ・ベルソールの「明治日本滞在記」は、1897年(明治三十年)12月から翌年8月にかけての日本旅行を記したものです。
彼は小説家、翻訳家、旅行作家、評論家と多面的な活動をしたといわれ、この本の中でも、日本についても、しばしば遠慮のない評言をしています。

引用開始
一般的に言って、校門が開かれ、教師から白人への反感を植えつけられている生徒たちが路上に溢れる時には、ヨーロッパ人はそこに居合わさないことが望ましい。とはいうものの、生徒の群がヨーロッパ人にぶつかり、罵りの言葉が彼に浴びせられた時には、私は、日本人がどんなに親切で丁重かを思い出すよう、そのヨーロッパ人に勧告したい。最も無礼な子供をも静めるための妙策を、私はずっと以前から教えられている。誰でもよい、子供たちの一人に近寄り、道を聞くか、広場の名前を尋ねるかするのである。罵りを発していた口はたちまち微笑を浮かべる。挑むような姿勢をとっていた小さい体が前に傾いてお辞儀をする。そして、彼の仲間たちも、私が敵であることを忘れて、彼らの父たちが生活の掟としてきた愛想のよさをひたすら私に示そうとする。
つい昨日も私は、一群の生徒たちにタバコ屋へ案内してもらった。この生徒たちというのが、その一瞬前には、私に石つぶてを投げたかもしれない連中だったのである。「タバコ屋はどこですか?」という私の単純な問いかけが、親切と丁重の伝統をたちまち彼らに思い出させたのである。・・・
私の記憶に誤りがないならば、ラフカディオ・ハーンは心身を備えた生身の神、老いたる農夫を見た。その農夫は、ある夏の夕方、自分の住んで居る岬から、巨大な津波が押し寄せてくるのに気がついた。水平線の果てに現れたその大波はみるみる巨大に膨れ上がり、陸地に近づいてきて、村人全部をその波間に呑み込んでしまうかと思われた。農夫はためらうことなく自分の手で収穫したばかりの稲わらと穀倉に火をつけた。彼がどんなに叫んでも声の届くはずのない丘の上に、火の手を見つけた村人たちが駆け上がってくるのを願ってのことである。村人たちが感謝して彼のために建てた寺は、この農夫の家から遠くなかった。耕している田畑から、彼はそのわらぶきの屋根を、木立ごしに見ていた。日々の生活の中で、人びとがこの農夫に対して神としての敬意を表していたろうとは私は思わない。しかし、この土地の子供たちは、いつからかこの人物が神の魂を実際に宿したことを知っていた。ヨーロッパの人たちが日本の無宗教について語るとき――ある人びとはそのことを嘆き、他の人びとは、もっといけないのだが、それをほめそやすたびに――人びとは肩をすくめずにはいられない。神がその路上を歩んでおり、その屋根の下に住んでおり、神の誇りとする行為がその存在の目に見える閃光にほかならないと、こんなにも信じている国民を、私はかつて見たことがない。・・・・
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2007年11月16日
明治初年市井の生活
ブスケ 日本見聞記1
「ブスケ 日本見聞記(フランス人の見た明治初年の日本)」の中からご紹介します。ブスケは1872年[明治五年]に日本政府の法律顧問として四年間滞在しました。
先ずその緒言の一部で「この好機を逸せず、まだまだ知られていないこの国民の外的及び内的生活を事実に基いて知ることができた。私は、我々の文明よりもはるかに古く、同じように洗練され、これに劣らず成熟した文明が私の眼前で花を開いているのを見た。私は、その文明の花と我々西洋文化の花との違いに心をうたれ、根元まで探り、この国の芸術的・精神的表現をこの国の構造に基いて尋ね、その国民の心理をその作品の中に求めようとするに至った。私は利害に捉われない・良心的な観察者として、この調査を体系的でもなく、また成心もなしにつづけてきた。私は自由な証人として語るのである・・・」と述べています。

引用開始
大川は大商業活動の舞台であるばかりでなく、大衆の娯楽の舞台でもあり、この娯楽は呑気で陽気な一国民の大きな行事であるらしい。
最も凝った行事は両国橋のたもとで毎年6月28日に行われる大花火である。川の両岸には、夕方6時から早くも、派手な着物をきた大勢の人々が集ってくる。赤づくめの着物をき、鳥の羽で作った一種の帽子をかぶった何人かの子供が通行人の前でとんぼがえりをうってみせる。橋は人で一杯であり、左岸の本所から流れでてきた水路は船で一杯である。好奇心をそそるような仕掛けをしたアーチがつぎつぎと空に描かれるのを見るのはすばらしい。
これらの大勢の人々を見るだけでもかくも強い喜びの印象を生むのは、この多くの人々の上にどんな不思議な威力が働いているのだろうか。日が落ち、見世物の場所が変わり、舞台はもう河岸ではなく河自体の上である。船がひしめき合い、各船は上機嫌の市民を満載している。こちらには、昨日は商売に用いられまた明日も商売に用いられる船の中に、真面目な商人一家が質素に化粧もせずに見せるためでなく見るために乗っているかと思うと、あちらには非のうちどころのないほど化粧をし素晴らしい着物をきた婦人たちが夫と共にいる。彼女らは静かに楽しんでいる。もっと遠くには、「ゲシヤ」(芸者)――舞妓――が数名きわめて優雅な無言劇を演じており、楽人が三味線で彼女らにあわせている。
隣の船には白絹の長いマント(羽織?)を着た一人の若い男が悠々と横になり、そばでは三人の女が坐り、代わる代わる彼をあおいでいる。彼はすでに「サキ」(酒)に酔っており、目は輝き微笑をたたえ、やっと立上がって岸にある鯨幕と吹流しのはためいている茶屋に入ってゆく。夜になるとすぐに、一万か一万二千の船が、暑い夜のそよ風の下で各種各様の図柄をみせまた無数の蛍のようにゆらぐ、あらゆる形の、あらゆる大きさの、あらゆる色の提灯をかかげる。
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「ブスケ 日本見聞記(フランス人の見た明治初年の日本)」の中からご紹介します。ブスケは1872年[明治五年]に日本政府の法律顧問として四年間滞在しました。
先ずその緒言の一部で「この好機を逸せず、まだまだ知られていないこの国民の外的及び内的生活を事実に基いて知ることができた。私は、我々の文明よりもはるかに古く、同じように洗練され、これに劣らず成熟した文明が私の眼前で花を開いているのを見た。私は、その文明の花と我々西洋文化の花との違いに心をうたれ、根元まで探り、この国の芸術的・精神的表現をこの国の構造に基いて尋ね、その国民の心理をその作品の中に求めようとするに至った。私は利害に捉われない・良心的な観察者として、この調査を体系的でもなく、また成心もなしにつづけてきた。私は自由な証人として語るのである・・・」と述べています。

引用開始
大川は大商業活動の舞台であるばかりでなく、大衆の娯楽の舞台でもあり、この娯楽は呑気で陽気な一国民の大きな行事であるらしい。
最も凝った行事は両国橋のたもとで毎年6月28日に行われる大花火である。川の両岸には、夕方6時から早くも、派手な着物をきた大勢の人々が集ってくる。赤づくめの着物をき、鳥の羽で作った一種の帽子をかぶった何人かの子供が通行人の前でとんぼがえりをうってみせる。橋は人で一杯であり、左岸の本所から流れでてきた水路は船で一杯である。好奇心をそそるような仕掛けをしたアーチがつぎつぎと空に描かれるのを見るのはすばらしい。
これらの大勢の人々を見るだけでもかくも強い喜びの印象を生むのは、この多くの人々の上にどんな不思議な威力が働いているのだろうか。日が落ち、見世物の場所が変わり、舞台はもう河岸ではなく河自体の上である。船がひしめき合い、各船は上機嫌の市民を満載している。こちらには、昨日は商売に用いられまた明日も商売に用いられる船の中に、真面目な商人一家が質素に化粧もせずに見せるためでなく見るために乗っているかと思うと、あちらには非のうちどころのないほど化粧をし素晴らしい着物をきた婦人たちが夫と共にいる。彼女らは静かに楽しんでいる。もっと遠くには、「ゲシヤ」(芸者)――舞妓――が数名きわめて優雅な無言劇を演じており、楽人が三味線で彼女らにあわせている。
隣の船には白絹の長いマント(羽織?)を着た一人の若い男が悠々と横になり、そばでは三人の女が坐り、代わる代わる彼をあおいでいる。彼はすでに「サキ」(酒)に酔っており、目は輝き微笑をたたえ、やっと立上がって岸にある鯨幕と吹流しのはためいている茶屋に入ってゆく。夜になるとすぐに、一万か一万二千の船が、暑い夜のそよ風の下で各種各様の図柄をみせまた無数の蛍のようにゆらぐ、あらゆる形の、あらゆる大きさの、あらゆる色の提灯をかかげる。
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2007年08月23日
ベルツの日記14
対馬沖海戦(日本海海戦):明治38年
ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露戦中の日記を引用してみます。(最終回)
写真は降伏したニコライ一世を点検する日本軍係官(日露戦争古写真帖より)

引用開始
5月5日(東京)
日本の新聞が、フランスの中立違反振りに興奮しているのも無理はない。ロゼストウェンスキーはインドシナの諸港を利用し、しかも外国の船舶までそこからの出港を差止めている有様だ!
典型的なのは、この危機に当って、『タイムス』その他の英紙のそらぞらしい態度だ――すなわちいわく「フランスがいかにデリケートな立場にあるかを、日本も顧慮すべきである!」と。得手勝手な話だ!
フランスの態度により、日本の立場は極度に脅かされているのだ。ロシア艦隊としては、フランスの港に逃げこんでじっとしていることによってのみ、国外にありながら、日本軍の攻撃をうける危険を、一時は免れ得るわけである。しかも、事が死活に関する重大問題であるというこの場合、日本に感傷的な顧慮をせよと称するのだ。フランスは公然とその同盟国を助けているが、イギリスはきこえぬ風をしている。だが日本としては、それがどんなに辛くとも、平気な顔をしておらねばならない。なにしろ、やがて再び金が要ることはわかっているのだから、英人の機嫌を損じてはならないのだ。
5月10日(東京)
東京在留の全外国人は大騒ぎだ。かつて永年にわたり東京のフランス公使館付武官を務め、今はフランスの大会社の代理店をやっている退役陸軍大尉ブーグァンが、義理の息子F・ストランジと共に、ロシアのスパイとして逮捕されたのである。・・・ブーグァンのように世間で知られ、ことに以前は日本の武官のあいだで非常に人気のあった男に対して、こんな手段をとる以上、政府は極めて確実な証拠を握っているに相違ない。・・・しかも、かれには財産がなく、収入はまことに微々たる有様であったから、家族の将来に見透しがつかなかったのだ。こうして、かれは誘惑に敗れ、危険と知りつつ破滅の一歩を踏み出したのであった。・・・
5月27日(東京)
ロシア艦隊に関して、奇怪きわまる消息が伝えられている。あるいは、まだインドシナの領海内にとどまっているとか、あるいはまた、フィリピンの近海に居るとか。なおまた、戦艦五隻と輸送船三隻は上海に向って航行中であり、戦艦二隻は上海よりさらに北方へ進航しているとの噂もある。
午後――
号外――ロシア艦隊は対馬の近海に現れ、海戦が行われていると。今し方、自分のところに居ったグリスコング米国公使の話しによると、この報道が真実である旨の情報を、公使はうけていると。
こうしておそらく、自分が今これを書いている最中に、世界歴史の重要な一ページが決定されているのだ。
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ドイツ人医師エルヴィン・ベルツは、官立東京医学校に生理学兼内科医学教師として、明治9(1876)年6月、27歳の時に来日しました。彼の日記が「ベルツの日記」として出版されています。その中から
日露戦中の日記を引用してみます。(最終回)
写真は降伏したニコライ一世を点検する日本軍係官(日露戦争古写真帖より)

引用開始
5月5日(東京)
日本の新聞が、フランスの中立違反振りに興奮しているのも無理はない。ロゼストウェンスキーはインドシナの諸港を利用し、しかも外国の船舶までそこからの出港を差止めている有様だ!
典型的なのは、この危機に当って、『タイムス』その他の英紙のそらぞらしい態度だ――すなわちいわく「フランスがいかにデリケートな立場にあるかを、日本も顧慮すべきである!」と。得手勝手な話だ!
フランスの態度により、日本の立場は極度に脅かされているのだ。ロシア艦隊としては、フランスの港に逃げこんでじっとしていることによってのみ、国外にありながら、日本軍の攻撃をうける危険を、一時は免れ得るわけである。しかも、事が死活に関する重大問題であるというこの場合、日本に感傷的な顧慮をせよと称するのだ。フランスは公然とその同盟国を助けているが、イギリスはきこえぬ風をしている。だが日本としては、それがどんなに辛くとも、平気な顔をしておらねばならない。なにしろ、やがて再び金が要ることはわかっているのだから、英人の機嫌を損じてはならないのだ。
5月10日(東京)
東京在留の全外国人は大騒ぎだ。かつて永年にわたり東京のフランス公使館付武官を務め、今はフランスの大会社の代理店をやっている退役陸軍大尉ブーグァンが、義理の息子F・ストランジと共に、ロシアのスパイとして逮捕されたのである。・・・ブーグァンのように世間で知られ、ことに以前は日本の武官のあいだで非常に人気のあった男に対して、こんな手段をとる以上、政府は極めて確実な証拠を握っているに相違ない。・・・しかも、かれには財産がなく、収入はまことに微々たる有様であったから、家族の将来に見透しがつかなかったのだ。こうして、かれは誘惑に敗れ、危険と知りつつ破滅の一歩を踏み出したのであった。・・・
5月27日(東京)
ロシア艦隊に関して、奇怪きわまる消息が伝えられている。あるいは、まだインドシナの領海内にとどまっているとか、あるいはまた、フィリピンの近海に居るとか。なおまた、戦艦五隻と輸送船三隻は上海に向って航行中であり、戦艦二隻は上海よりさらに北方へ進航しているとの噂もある。
午後――
号外――ロシア艦隊は対馬の近海に現れ、海戦が行われていると。今し方、自分のところに居ったグリスコング米国公使の話しによると、この報道が真実である旨の情報を、公使はうけていると。
こうしておそらく、自分が今これを書いている最中に、世界歴史の重要な一ページが決定されているのだ。
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