2007年06月28日

盧溝橋特派員特電4

国民政府武力解決の最後案

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
 自分たちの違反行為を日本側の責任に転嫁して、それを世界に向け宣伝する。昔からのシナの卑劣なやり方です。
巻頭にある写真を掲載しておきます。
写真は永定河の敵陣地
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引用開始
【上海東日、大毎特電七月十二日発】
 十一日夜発表された国民政府の声明は国民政府としての北支事変に関する最初の公式意思表示として注目されるが、その内容において明らかなる如く事件の責任を悉く日本側の発砲に転嫁し、今日なお事態が緩和されないのは日本の違約に基くものであるとし、さらに最後に極東は危険に瀕するを免れないとして言外に日本側の行動に対する反撃政策をほのめかしていることは事件に対する南京側の強硬政策を明らかにしたものとして極めて重大視されている。
 この政策は今後の国民政府の動向を指示するものとして北支における協定成立の如きも全く無視され、両軍対峙のまま支那側が今後如何に積極的に出るかについて万全の策を講じつつある模様で、南京における政府首脳部の重要会議の結果をもたらして、軍政部長何応欽は十二日中に廬山に急行し、国民政府の最後案として蒋介石の決定を仰ぎ、直ちに具体行動にとりかかる模様である。右最後案として伝えられるところでは、
一、南京、冀察両当局を通じてあくまで日本の要求を拒否し、責任を日本に転嫁すること。

二、これが外交交渉の後楯として日本側派兵に対応して中央軍の精鋭を続々北上せしめて武力解決をも辞せざること。

三、国際的関心を喚起するため、事件の責任が日本にあること、日本軍の北支における行動は全く条約違反であることを欧米諸外国に向い宣伝につとめること。

であって、早くも王外交部長は在外各大公使に事件の経過とともに各国政府の注意を喚起するよう電命した。かくの如く今や国民政府は極度に緊張し最近帰任の予定であった許世英駐日大使にも在京命令を発して政府の諮問に応ぜしめている。

北平の邦人遂に引揚ぐ
【天津朝日特電十二日発】
 戒厳令下の北平は今不安のどん底にある。北清事変の苦い経験を思い起す古い在留民達はもとより最近の声ばかりの北支明朗の波に乗って押し出した多数の在留邦人達は一体どうなることやらと、何も手につかぬ有様だ。
 信義を無視する支那軍は幾度か約束を破って我が方に挑戦して来る。而もその兵力は刻々増大して何時如何なる重大事が勃発するかも知れぬ情勢にあるのだ。 この不安な北平の刻々迫りつつある不気味な空気を前に在留邦人は十二日以来続々引揚げを開始した。手近な天津の日本租界を目指す人達、天津から更に船で、汽車で満洲へ内地へと引揚げる人達の物凄いラッシュだ。十二日午後六時北平発津浦線は、夜の厳戒に先立って北平を脱出しようとする婦人子供を中心とした邦人の群で満載だ。かくて危機は刻々と迫ってきた。
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2007年06月27日

盧溝橋特派員特電3

政府、中外に重大声明
 
 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
 今の朝日新聞とは正反対の論調ですが、これは当時の情勢そのままの記事として真に迫るものがあります。今の朝日の論調なら、シナ軍の暴挙は隠蔽し、日本軍のアラ探しをして報じることでしょう。しかし彼らの先輩記者は、事実をそのまま伝えていました。
写真は日支の衝突現場
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引用開始
【朝日七月十二日朝刊】
 政府は十一日の緊急閣議に於て北支事変に対する帝国政府の根本方針に関し廟議一決すると共に近衛首相より上奏御裁可を仰いだ後左の如く中外に声明した。
声明全文
 相踵ぐ支那側の侮日行為に対し支那駐屯軍は隠忍静観中の処、従来我と提携して北支の治安に任じありし第二十九軍の七月七日夜半、盧溝橋附近に於ける不法射撃に端を発し、該軍と衝突の已むなきに至れり、為に平津方面の情勢逼迫し我在留民は正に危殆に瀕するに至りしも、我方は和平解決の望を棄てず、事件不拡大の方針に基き局地解決に努力し、一旦第二十九軍側に於て和平的解決を承諾したるに拘らず、突如七月十日夜に至り彼は不法にも更に我を攻撃し、再び我軍に相当の死傷を生ずるに至らしめ而も頻りに第一線の兵力を増加し、更に西苑の部隊を南進せしめ中央軍に出動を命ずる等、武力的準備を進むると共に平和的交渉に応ずるの誠意なく、遂に北平における交渉を全面的に拒否するに至れり。
 
 以上の事実に鑑み、今次事件は全く支那側の計画的武力抗日なること最早疑の余地なし。思うに北支治安の維持が帝国及び満州国にとり緊急の事たるは茲に贅言を要せざる処にして、支那側が不法行為は勿論、排日侮日行為に対する謝罪を為し、再び今後斯かる行為なからしむる為の適当なる保障等をなすことは、東亜の平和維持上極めて緊要なり。よって政府は本日の閣議に於て重大決議を為し、北支派兵に関し政府として執るべき所要の措置をなす事に決せり、然れども東亜平和の維持は帝国の常に顧念する所なるを以て、政府は今後共局面不拡大の為、平和的折衝の望を捨てず支那側の速なる反省によりて事態の円満なる解決を希望す。又列国権益の保全に就ては固より十分之を考慮せんとするものなり。

銃火に孤立の北平
北平十一日発・読売特派員 村上知行
 北支那の杜の都、古都北平は今や硝煙のなかに孤立した。盧溝橋に暴戻二十九軍の銃声起るや布告された戒厳令は軍警の手によってますますその警戒をきびしくし、邦人といえば有無をいわさず訊問する、殴打する、というまったく人道を無視した敵対行為に出で、この戒厳令は今のところ日本人に対して布かれておるというような奇妙な印象を与えている。
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2007年06月26日

盧溝橋特派員特電2

シナ軍の梅津、何応欽協定蹂躙

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。日本が侵略したなどとの宣伝に惑わされないようにしたいものです。
写真は事件の発端盧溝橋tokuden01.JPG

引用開始
【天津十日発同盟】
 蒋介石が中央軍に河南省境出動命令を発出したことは梅津、何応欽協定を蹂躙するものに外ならず、且つ第二十九軍に対する断乎交戦せよとの激励電の如き南京の中央政府の態度は口に不拡大を唱えその誠意皆無なるを証明するものとして我軍当局はいたく憤慨している。

盧溝橋十日発・朝日特派員 奥村正雄 
 盧溝橋第一線の状況視察のため記者は八日(七月)午後一時四十五分天津発軍用列車で河邊部隊長、高見救護班長等と共に現地に急行した。午後四時三十五分豊台に到着、直に軍用トラックで兵士達と共に第一線盧溝橋駅に出発した。
 豊台市街に通りかかるとかねて我が軍によって守られる支那住民がしばしば手を打ち振って我々を見送る。平漢線踏切を越える頃豆を煎るような銃声が物凄く耳朶を打つ。幾度か銃弾に脅かされつつ漸く第一線盧溝橋駅に到着した。

 我軍の猛撃により盧溝橋県城に後退した二十九軍はなおも城壁を利用して盛んに迫撃砲、機関銃を我が陣地に浴びせ、盧溝橋駅付近一帯は砲煙弾雨の巷と化している。記者は先ず戦況如何と盧溝橋駅構内に夕食中の北平牟田口隊長を訪問した。
 北平部隊幹部の面々が砲、銃声を他所に一升瓶に詰められたお茶を飲みながら大きな握り飯をむさぼるように頬ばっている。その間刻々戦況が報ぜられて来る。
 夕闇迫る頃あいより、我が方より猛烈なる砲撃が加えられ支那軍に多大の損害を与えた模様であるが、支那軍もかつて見ざる頑強な抵抗を行い我軍の意気を却って高らしめるものがある。

 午後八時平漢線に沿うて散開した我が歩兵部隊から敵の迫撃砲により重傷を負うた豊台部隊佐藤准尉が、小林軍医中尉以下看護兵数名に護られて盧溝橋駅に送られて来た。大腿部、足部、上膊部五ヶ所に盲貫銃創を負うているのだ。
 流れ出る血潮は純白な包帯を朱に染め小林軍医の手により応急手当が終ると「残念でした」と一言痛さを耐えてじっと眼をつぶって居るのは痛ましくも悲壮だ。折りしも戦線巡視から帰って来た河邊部隊長は、佐藤准尉の手を取って「傷は浅いぞ確りせい」と激励の言葉を与え、並み居る将兵を粛然とさせる。
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2007年06月25日

盧溝橋特派員特電1

昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
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引用開始
演習中の我軍に二十九軍不法射撃
【北平[北京のこと]朝日特電七月八日発】
 八日午前零時頃我が駐屯部隊が北平郊外盧溝橋付近において夜間演習中盧溝橋駐屯の第二十九軍第三十七師(師長馮治安)に属する二百十九団の一部が不法にも数十発の射撃を加えたため我軍は直ちに豊台駐屯部隊に急報して出動を求め支那軍に対し包囲態勢をとり対峙、我軍は支那側の不法行為に対し厳重謝罪を要求したところ午前四時二十分頃支那側は再び不法射撃を行いたるため我軍も遂に火蓋を切り双方機関銃、迫撃砲をもって交戦、銃砲声は暁の空を破って遥か北平城内まで伝わったが、遂に支那軍を撃退し龍王廟を占拠した。盧溝橋の支那部隊に対しては目下武装解除中である。

支那側の要請で一時停戦
【天津朝日特電八日発】
 八日午前九時半支那側の停戦懇願により両軍一先ず停戦状態に入ったが我軍は午前十一時までに付近一帯の支那軍が完全に撤退せざる限り全滅作戦を以て撃退すべしとの強硬態度を持しこの決意の下に目下現地交渉が進められつつある。

【北平八日発同盟】
 支那側の申出に依る停戦期限たる八日午前十一時に至るも支那側より何等の回答に接しないが我軍は事件不拡大の建前から正午頃迄右期限を猶予するに決し支那側の誠意披瀝方を督促しつつある。

【北平大毎、東日特電八日発】
 八日午前十一時を期限とするわが方の撤退要求に対し支那軍はこれに応ぜず宛平城内における彼我の交渉は遂に決裂した。よってわが軍は最初の決意に基づき断乎龍王廟及び宛平城内の支那軍を掃討するに決し午後三時まで彼の確答を待ったが遂に支那軍に対し再び応戦するに至った。ただ宛平城内には住民二千余名あり、これに損害を与えざるようわが方では砲撃に当り手心を加え右岸にある盧溝橋の一部隊をしてこれに合流せんとする永定河前方の散在部隊に向って主砲を浴びせているが敵は全面的に増援部隊を山岳地帯及び前線の各部隊に配置し乱射を続けており後退の模様なく夜の帳の近づくと共に最後の重大事は迫りつつある。
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2007年05月11日

南京からの兵士の手紙

陥落直後の南京からの手紙が語るもの

「南京『事件』研究の最前線」平成19年版という本の中に、陥落間もない南京から、西住小次郎大尉と山田博治伍長の肉親に宛てた私信他が掲載されています。
 西住大尉は久留米の戦車第一連隊の小隊長として支那事変に従軍し、昭和十三年五月七日に徐州会戦で壮烈な戦死を遂げられています。大尉は戦死後で、南京当時は中尉でした。
 山田伍長は福井県生まれで、南京一番乗りの脇坂部隊に従軍したあと、昭和十三年八月二十七日「江西省瑞昌県君山」の戦闘において頭部に銃弾を受け、二十六歳で戦死されています。
 この手紙から、中国が言う所謂大虐殺真っ最中の南京が想像できるでしょうか。じっくり読んで見て下さい。
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西住中尉の手紙
引用開始
[1]第一信
西住千代様
軍事郵便 親展 上海派遣軍司令部付 細見部隊高橋隊 歩中尉
十二月二十六日 
西住小次郎
 当地も大分寒くなり、朝など真白に霜が置く様になりました。
其の後、皆様、御変わりありませんか、御尋ね致します。
年内も後数日となり、ご多忙の事と存じます。今、明日は餅搗き位かも知れんと想像致して居ります。
 当地に居るとさっぱり年末の様な気が致しません。猛烈な迫撃戦で手紙とか小包とか、一向遅れて到着しません。何時か腹巻、靴下を送ったとの事でしたが、まだ到着して居りません。其の内に手紙などもどんどん来るようになりましょう。
 十二月十二日、南京に到着以来ずっと南京城内に居ります。
 南京は敵の首都だけに、東京程はありませんが立派な町です。建物と云い、道路と言い、立派です。又、附近には所謂紫金山、其の他の山々、玄武湖等もあり、風光も仲々いい様です。住むのにもよさそうな所です。

 今、我々の居る所は中央大学とて排日教育最も盛んだった大学です。立派な建物です。一部爆撃された所もありますが、部屋など立派です。今は内地の兵営以上にきちんとした生活をやって居ります。私の部屋も机、椅子、其の他寝台、調度品、総てきれいに飾り、内地では出来ぬ様式にして居ります。全員寝台に寝、ストーブ等もあります。
 只、電燈と水道が今のところこわれてありません。ローソクばかりです。
 近い内に汽車も通じ、電燈もつきましょう。町は全部まだ店はありませんが、避難民等も逐次帰って来る様です。
 正月は南京で迎える様になる事と存じます。此の手紙も恐らく正月の五、六日頃しか着かぬと存じます。
 既に小包等御送りになって居るかも知れませんが、今度送られる時は「塩から」の様なおかずになるもの、褌等を御願いします。
 宛名は手紙の裏面の通り願います。・・・・・・
十二月二十六日 小次郎
母上様 膝下
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2007年05月10日

支那事変南京陥落

当時の出版物に見る南京入場

参考記事
 支那の大嘘と朝日新聞のため、未だに問題となっている南京戦について、
 南京陥落から約八ヶ月後の昭和十三年八月から、事変の経緯と支那各地の知識を解説した内容を現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある南京陥落から、昭和十二年十二月十七日の南京入場式に至る部分を掲載してみます。
 中国はこの時点から六週間に亙ってとされる、例の大虐殺の嘘を世界にばら蒔いていますが、これのどこに虐殺してる暇があったのでしょうかね。
六週間で三十万人ということは、一睡もせず徹夜で毎日七千人以上殺して、その死体を運んで埋める等の処理、一方では入城式の準備やインフラの修繕作業も同時に実施。物理的にも不可能でしょう。
いいかげんにしろ!中狂と浅卑新聞!!
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
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引用開始
[敵毒ガスで逆襲]
 十日夜半より早暁にかけて、光華の伊藤部隊正面に大逆襲し来った敵は、城壁を奪回せんと、必死の勢い物凄く手榴弾、機関銃の外、催涙弾を雨注し来り、我が将兵は直ちに防毒面をつけて応戦、一時は非常な苦戦に陥ったが、肉弾戦を以て之を撃退したのである。

[長江北岸奇襲]
 九日當塗を占領した長野、山田両部隊は十日夜陰に乗じて、一挙に揚子江を渡り、奇襲をもって北岸に上陸、十一日払暁烏江の敵を急襲して之を占領、息つく間もなく省境を越えて江蘇省に進入した。これが為、南京籠城の敵が唯一の血路と恃んだ最後の退路も遂に遮断され、南京六万の敵は完全に我が包囲下に陥ったのである。

[南門撃破]
 わが新鋭部隊の先鋒長谷川部隊は、十二日午後零時十分、南京城中華門(南門)を破り、城内に突入して、城内到る処に壮烈なる市街戦を展開したが、緒方敬之中佐の一隊によって、南門は占領されたのである。続いて岡本(保)部隊も、中華門に突入したのであった。

[南京完全占領]
 かくてわが南京城攻撃軍は、十三日夕刻南京城を完全に占領したのである。江南の空澄み日章旗は城頭高く夕陽に映え、皇軍の威容は紫金山を圧した。
 かくて南京は世紀の感激の裡に見事陥落したが、各部隊は城内の残的掃蕩と、市内整理に当ったのである。この南京攻略戦で失った敵兵は、六万を下らぬと推察された。
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2007年05月09日

支那事変南京総攻撃4

当時の出版物に見る南京陥落完全占領

 支那の大嘘と朝日新聞のため、未だに問題となっている南京戦について、
南京陥落から約八ヶ月後の昭和十三年八月から、事変の経緯と支那各地の知識を解説した内容を現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある南京総攻撃の部分から、昭和十二年十二月十三日の南京完全占領に至る部分を掲載してみます。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
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引用開始
[南京城門に大日章旗]
 九日(昭和十二年十二月)午前五時半、南京城光華門前面の城壁間近に到達した脇坂部隊は、三十六時間の永きに亙って城壁上から猛射を浴びせる敵軍最後の抵抗に対し、凄壮極まりなき迫撃戦を続けて、十日午後五時、決死的爆破に成功したのである。
 ああ、かくてこの時、この事あるを熱望した光華門の一部は破壊されたのである。
 時を移さず突入して、十二月十日午後五時二十分、城壁高く日章旗を翻したのである。
 世紀の歓喜!仰ぎ見た将兵は感激に泣く。折から西に沈む夕日を浴びて、我が一番乗りの勇士が力の限りに打ち振る日章旗は、敵首都南京陥落を力強く全軍に示したのである。
 おお何たる喜びぞ! 何たる一瞬ぞ! これを眺める将兵の感慨は、弓矢とる身でなければ分かるものではない。敵はこの城壁を首都防衛の最後の線と恃み、九日早朝我が軍が城壁下に達するや、続々精鋭を繰り出し、分秒の隙もなく機銃を撃ちまくり、明故宮飛行場その他城内の砲兵陣地からは、重砲や迫撃砲を釣瓶打ちにして、我が軍を悩ませたが、我が軍はかかる敵の死に物狂いの抵抗に屈せず決死の意気鋭く、背嚢をかなぐり捨てて唯生の甘藷と弾丸を腰につけて、敵と対戦したのである。
 敵弾雨霰と降りそそぐ中に、後方とは全く連絡を断たれ、弾薬、糧食の供給は全然不可能になったが、全将兵は城壁の下から一歩も退かなかったのである。かくて朝来薄曇の空を衝いて飛来する我が空軍の南京城内爆撃と、芹澤部隊の砲撃により城壁の一廓が崩れたが、光華門は鉄扉を以て固く閉ざされ、その上土嚢を積んで厳重に固められていたので、我が砲弾を幾つ受けてもびくともしなかった。午後五時我が決死隊は敵弾雨飛の中をくぐって、城門に突入爆薬に点火するや轟然たる爆音と共に、門の一角に穴が開いたのである。それを見た岸大尉の一隊、続いて葛野中尉の一隊が、城門に突入して、ここに歴史的南京陥落の一頁は描かれたのである。見よ! 城頭高く翻る大日章旗! 脇坂部隊の全将士の万歳の声は、南京城頭に谺(こだま)したのである。
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2007年05月08日

支那事変南京総攻撃3

当時の出版物に見る松井大将の投降勧告文

 支那の大嘘と朝日新聞のため、未だに問題となっている南京戦について、
南京陥落から約八ヶ月後の昭和十三年八月から、事変の経緯と支那各地の知識を解説した内容を現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある南京総攻撃の部分から、昭和十二年十二月九日の松井大将の南京司令官宛の投降勧告文の内容と、南京陥落直前の模様を掲載してみます。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
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引用開始
[皇軍、最後の投降勧告]
 南京は既にわが掌中に在ったが、九日正午松井最高指揮官は、南京防衛司令官唐生智に対し、二十四時間の期限を付し、十日正午迄に降伏するよう、情理を尽した投降勧告文を飛行機より投下して、光栄ある日本武士道の精神を内外に示したのであった。

【勧告文全文】
 日軍百万既に江南を席巻せり、南京城は将に包囲の中にあり、戦局大勢より見れば今後の交戦は只百害あって一利なし、惟うに江寧の地は中国の旧都にして民国の首都なり、明の孝陵、中山陵等古跡名所蝟集し、宛然東亜文化の精髄の感あり、日軍は抵抗者に対しては極めて峻烈にして寛恕せざるも無辜の民衆及び敵意なき中国軍隊に対しては寛大を以てしこれを冒さず、東亜文化に至りてはこれを保護保存するの熱意あり、しかして貴軍にして交戦を継続せんとするならば、南京は勢い必ずや戦禍を免れ難し、しかして千載の文化を灰燼に帰し、十年の経営は全く泡沫とならん、よって本司令官は日本軍を代表し貴軍に勧告す、即ち南京城を和平裡に開放し、しかして左記の処置に出でよ。
大日本陸軍司令官
松 井 石 根

本勧告に対する回答は十二月十日正午中山路句容道上の歩哨線において受領すべし、もしも貴軍が司令官を代表する責任者を派遣する時は、該処において本司令官代表者との間に南京城接収に関する必要の協定を遂ぐる準備あり、若しも該指定時間内に何等の回答に接し得ざれば日本軍は已むを得ず南京攻略を開始せん。

 松井最高指揮官の武士道的見地から礼を尽した勧告文に対し、唐生智は非礼にも回答期限たる十日正午に至るも何等の回答を為さざるのみか、却って十日早朝来猛烈なる砲火を以て我が軍を攻撃応酬しつつあったのである。ここに於て我が軍は十日午後一時遂に総攻撃を実行することに決し、砲兵の全力を以て砲撃を開始すると共に、全線一斉に進撃を開始して、南京城を圧するに至ったのである。
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2007年05月07日

支那事変南京総攻撃2

当時の出版物に見る南京包囲戦2

 支那の大嘘と朝日新聞のため、未だに問題となっている南京戦について、
南京陥落から約八ヶ月後の昭和十三年八月から、事変の経緯と支那各地の知識を解説した内容を現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある南京総攻撃の部分から、先ず昭和十二年十二月六日から南京包囲までの部分と総攻撃の部分を掲載してみます。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
nankin002.jpg

引用開始
[白水橋付近の夜襲]
 南京を死守する敵は、湯山の市外付近に蟠踞して、迫撃砲、速射砲により頑強に抵抗し、且つ高地には永久陣地を構築して、遮二無二の盲目撃ち、その勢い侮るべからざるものがあった。その時我が新鋭部隊は野田部隊を以て、八日午前零時を期し夜襲を決行したのである。右翼には助川、片桐、左翼には大野部隊、かくて野田部隊の夜襲により、八日暁までに我が軍の先頭部隊は勇躍南京を距ること二里の地点白水橋付近に達したのであった。一方湯水鎮付近三百メートルの高地に蟠踞して、頑強に抵抗を続けつつあった敵は、我が三国部隊の砲撃によって、七日午後八時遂に沈黙するに至った。

[城外の一角の突入]
 我が助川部隊は七日午後湯水鎮の北方、南京城外の紫金山後方の山岳陣地に拠る敵部隊を猛撃、物凄い山岳戦を演じて、これを屠り、南京攻撃三日目の朝には、既に南京城外陣地の一角に突入したのである。
 まだ明けやらぬ八日早暁、南京外周の山野を包む朝霧を衝いて、愈々南京城正面攻撃の火蓋は切って落されたのであった。
 八日朝来の戦況は左の如くである。
 南京街道をひた押しに押し進む助川、大野の諸部隊は、湯山の山腹及び山頂の敵を攻撃、山麓より徐々に敵を制圧しつつ山腹の堅陣に肉迫した。
 索野鎮を突破した下枝、脇坂等の諸部隊は七日に引き続いて街道を扼する普山の要塞攻撃を続行中であった。

 又秣陵関の天嶮をついて北進した千葉、山田の諸隊は牛耳山の本陣地山麓にとりつき、肚烈な山岳戦に移り、敵を雨花台方面に圧迫しつつあった。いずれも戦況有利に展開して、砲声は南京城外の山野を圧し、戦闘は正午頃に至って益々酣となったのである。
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2007年05月06日

支那事変南京総攻撃1

南京包囲戦1

 支那の大嘘と朝日新聞のため、未だに問題となっている南京戦について、
南京陥落から約八ヶ月後の昭和十三年八月から、事変の経緯と支那各地の知識を解説した内容を現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある南京総攻撃の部分から、先ず昭和十二年十二月六日から南京包囲までの部分と総攻撃から陥落の部分に分けて掲載してみます。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
写真のキャプションは「南京へ南京へ」です。
nankin01.gif

引用開始
[南京へ南京へ]
 北上する左翼千葉、山田両部隊は、六日秣陵関を越えて、叉路口に達し雨花台に迫り、右翼は句容より南京、杭州街道によって西進する助川、大野の両部隊は、麒麟門の難関を突破し、紫金山山麓を縫って進撃すれば、その中間を金壇より長躯進撃した脇坂、下枝等の部隊は、高橋門難関を突破して、大校飛行場を占領、今や全く南京城壁は指呼の中に迫ったのである。
 陰暦四月の弦月は早や西に没して、快く晴れた星月夜に我が掩護砲撃の音殷々としてしじまを破り、各部隊は微かに白く浮ぶ高さ十五メートルの城壁めざして最後の進撃を続けていたのである。今や太湖南北両岸より長躯、南京めざして進んだ我が部隊将士は、晴れの入城を目睫に控えて意気愈々軒昂たるものがあった。

[親衛隊の後退]
 句容及び秣陵関の一戦に多大の犠牲を出して、脆くも敗れた敵大部隊は、東方及び東南方より軍工路伝いに雪崩を打って南京城内に殺到してくれば、蒋介石の親衛隊たる第三十六、第八十七、第八十八の各師の一部も、六日夕刻過ぎより夜陰に乗じて、対岸へ後退を開始したのである。尚御大蒋介石も宋美齢夫人同伴親衛隊若干を率いて、南京落ちを七日早朝行ったと推察された。

[支那軍抵抗線]
 我が軍の主力は、南京に通ずる三つの街道をいづれも南京に向けて攻略の陣を進めつつあったが、支那軍は六日この我が軍の攻略戦の前面にある湯水鎮、淳化鎮、高家村を連ねる山岳地帯によって、南京死守の防御陣をかためて、我が進撃を喰い止めんとしたが、七日朝には我が軍はこの抵抗を排して前進,棲霞山、青龍山、方山を結ぶ敵の本防禦線を撃破したのである。この山岳地帯を我が軍が占領すれば、残るは南京市街を直接に防禦する紫金山、雨花台の最後の防備陣だけである。支那軍はこの防備陣によって死にもの狂いの抵抗を試みるものと察せられた。
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2007年05月02日

支那事変上海付近2

上海付近の戦闘

 支那の大嘘と日教組や反日マスコミ、媚中勢力のため、支那事変が未だに日本の侵略と思わされている日本人ガ多いようです。
 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある「上海付近の戦闘」という部分から、当時の様子を引用して、これが日本の侵略などとは言えない性質のものであることを見て欲しいと思います。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
写真のキャプションは「宣撫」となっています。
senbu.jpg

引用開始
 昭和十二年八月十三日午前、閘北の支那前線部隊は続々虹口クリーク、淞滬鉄路沿線、寶山路方面に兵力を終結増加して機銃、小銃の射撃を断続し、同日午後四時十分寶山玻璃廠(日本人経営の硝子工場)付近の敵は本格的に攻撃を開始し来り、午後四時三十分にはまた八字橋警備の陸戦隊にも攻撃し来ったので、わが方は断乎これに応戦しここに上海方面の戦端は遂に開かれた。同夜は早くも彼我の猛撃によって戦線各所が炎上、戦火は大上海の空を焦して凄烈なる状況を呈した。

 十四日午前十時、支那爆撃機編隊は突如として上海空襲を開始し、一機は先ずわが陸戦隊本部上空に現れ他の敵機はわが総領事館、軍艦及び船舶、公大紡、裕豊紡等を爆撃し来り数回反復し来ったが内一機は同日午後三時眞茹上空に於て日本海軍水上機と空中戦の結果撃墜せられた。更に午後四時二十三分敵のマルチン爆撃機十数台は旗艦出雲に編隊爆撃を敢行したが命中せず、わが高射砲機関銃の猛射を浴びて血迷って共同租界、仏租界へ所嫌わず爆弾を投下し、多数の支那人及び外人を殺傷し、英人経営のパレス・ホテル、カセイ・ホテルに三発まで爆弾を誤り命中せしめた。

 我が海軍航空隊はこの暴状に果然憤激、支那海の怒涛を越えて長躯し十四日午後六時半には早くも敵の空軍根拠地、筧橋、杭州喬司飛行場を、同七時半には廣徳飛行場を襲撃し、更に別動隊は同日午後八時南翔飛行場を襲い各々果敢なる爆撃、空中戦を敢行し翌十五日には更に鵬翼を伸して、午前九時半頃杭州を、正午頃南昌を、午後には敵の首都南京を、折柄の悪天候を冒して空襲し支那空軍根拠地の飛行機、格納庫を爆撃して反撃し来った敵機数十を撃墜して制空権を我手に握った。

 爾後わが海軍は空陸海、相呼応して士気益々旺盛に優勢なる支那軍の攻撃を撃退し来り流石に多勢を恃んで執拗な敵軍も、二十日頃には漸く気勢衰え始め戦線は膠着状態に入ったのである。
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2007年05月01日

支那事変上海付近1

中支方面戦略大観

 支那の大嘘と日教組や反日マスコミ、媚中勢力のため、支那事変が未だに日本の侵略と思わされている日本人ガ多いようです。
 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその中巻にある「上海付近の戦闘」という部分から、当時の様子を引用して、これが日本の侵略などとは言えない性質のものであることを見て欲しいと思います。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
写真は上海市政府の建物
cityholl.jpg

引用開始
・・・長江の流域には、数十年来培われた列強の勢力があり、上海特別市は世界で最も複雑した国際都市である。しかもこの地方一帯の住民は北方の民族に比べて知識的であり、多血質であり、多年国民政府の排日教育によって凝り固まって居た。
 盧溝橋畔一発の銃声によって、支那事変の発端が開かれるや時局収拾策に奔命した国民政府は直ちに中支那方面に、日本軍の軍事行動を拡大せしめ国際紛争を惹起し御得意の以夷制夷の術策により事態の態勢を有利ならしめんと企図した。
 この方策は数年来支那で研究唱導されて居た「抗日決戦策」の第一案であったのである。驕慢なる支那軍閥は満洲事変以来の国際状勢と日本内地の状勢を誤断し、うちには支那軍の近代装備と強化を急ぎ、外には列強の支那支持を恃んで「日本軍何するものぞ」と皇軍の実力を軽侮し敢てこの方策に出たのである。

 蒋介石はこのために支那一流の精鋭軍と誇る直系軍三十個師をこの方面に動員し、戦線四十キロに亘って配置、一師の防禦担任正面は実に一、三キロと言う世界戦史にも稀な濃密な布陣をし、戦場一帯に点在する稠密なる小部落と五十メートル乃至三、四百メートル毎に縦横に交錯する大小クリークの水濠地帯を利用して要点には悉くトーチカを準備し、一連の靭強なる大陣地帯を完成して完全な近代的防禦設備により皇軍を一挙に邀撃せんと試みた。

 これに対して日本軍は兵力極めて僅少、そのうえ戦場の地形は平坦で砲兵の観測所に有利なる地点がなく、交通は困難、歩砲の協同至難を極めると言う攻撃に悉く不利なる状況で、一方上海租界を控えて作戦行動にも重大なる国際上の掣肘を受ける有様であった。しかも敵軍は逐次兵力を増強して上海付近の戦い中期には昆山の線以東に実に七十個師の大軍を配して居たのである。
 戦況は惨烈を極めた。世界無比の皇軍にしてこそ始めてこの状況を克服し堅塁を突破したものと断言し得る。・・・・・
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posted by 小楠 at 09:40| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変

2007年04月29日

支那事変支那軍の挑発

当時の出版物に見る郎坊、廣安門、通州事件

 支那の大嘘と日教組や反日マスコミ、媚中勢力のため、支那事変が未だに日本の侵略と思わされている日本人ガ多いようです。
 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその上巻にある「事変の発端盧溝橋事件」という部分から、当時の様子を引用して、これが日本の侵略などとは言えない性質のものであることを見て欲しいと思います。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
画像は通州事件直後の現場状況tsushu01.jpg

引用開始
[郎坊事件]
 昭和十二年七月二十五日午後十一時三十分郎坊駅に日支両軍が衝突したのである。
 郎坊は北寧線北京と天津の丁度中間の小邑である。ここに於て屡々我が軍用電線が切断されるので五ノ井中尉(当時)の率ゆる一部隊は電線補修のため郎坊に到着、直ちに作業に取りかかったが、郎坊に兵営を持つ張自忠麾下の部隊は何故か、我が部隊が作業中の郎坊駅を取囲み不穏の形勢を示していたが、同夜十一時三十分遂に五ノ井部隊に不法射撃を加えたのである。
 止むなく同部隊は応戦、小部隊を以って終夜善戦、二十六日払暁には敢然突撃に移って、大軍の中に斬って入り、支那軍を駅付近より撃退したのであった。
 一方急を聞いた陸の荒鷲は敵兵営を強襲爆撃を敢行した。これこそ今次事変最初の空爆であった。・・・・
 その時天津にあつては、軍当局は、宋哲元に対し三十七師を二十八日正午迄に永定河以西に撤退すべしと厳重に要求していたのである。

[廣安門事件]
 この日衝突は遂に北京にも起った。
 二十九軍との諒解の下に廣部部隊は居留民保護のため廣安門を通過して北京に入城せんとしていた時である。時刻は午後七時三十分、三台目のトラックが通り終った途端、突如全く突如に支那軍は城門を閉し、城壁直下にある我が廣部部隊に機関銃、手榴弾の雨を降らせたのである。
 これが所謂「廣安門事件」である。
 この事件が如何に支那側の計画的暴挙であったかは、当時廣安門にあった人々の身をもって感じた処である。左にその当時従軍していた同盟記者の筆を借りて当時の大要を記そう。

「不誠意極まりなき支那側は、事前の諒解あるにもかかわらず、城門を固く閉して土嚢を積み重ね、形勢全く不穏なるを思わせたが、櫻井顧問の断乎たる交渉の結果、城門は漸く開かれた。今にして思えばこの時既に支那軍は皇軍を奸計に陥れるあらゆる準備を完了していたのだ。
 午後七時十分、豊台からのトラックが何等狐疑する処なく、廣安門を通過し始めた。トラックはスピードを落として一台、また一台、三台目が城門を通過した途端、突如全く突如パンパンパンと三発の銃声! 続いて起る機関銃の掃射、堅固な城壁から二十メーター直下にある皇軍の先頭部隊に真向から暴戻極まりなき猛射を浴びせたのだ。はっと思ういとまもあらせず、迫撃砲、手榴弾、機関銃、小銃の乱射は、夕闇ようやく濃い廣安門大街に縦横に閃光を交錯させる。その物凄さ記者等は全くなす処を知らなかった。次の瞬間、二人の写真部員はアッと叫んで敵弾に倒れてしまった。
 記者はわずかな掩護物を発見して、からくも身をかくしたが驟雨の如く落下する敵弾に全く生きた心地もない。このとき敏捷果敢な皇軍は早くも城門を隔たる数百メートルの地点に間髪を入れず散兵線を展開、直ちに支那軍膺懲の機関銃猛射を開始したのである。」
 以上が廣安門の支那軍の不法射撃である。
 かくして我が国政府、並びに軍が堅く不拡大方針を持して隠忍自重和平招来に尽した一切の努力は水泡に帰したのである。・・・・・
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posted by 小楠 at 21:54| Comment(2) | TrackBack(1) | 書棚の中の支那事変

2007年04月28日

支那事変の発端2

当時の出版物が語る支那の協定違反

  支那の大嘘と日教組や反日マスコミ、媚中勢力のため、支那事変が未だに日本の侵略と思わされている日本人ガ多いようです。
 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその上巻にある「事変の発端盧溝橋事件」という部分から、当時の様子を引用して、これが日本の侵略などとは言えない性質のものであることを見て欲しいと思います。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
写真は当時の一文字山の様子
ichimonji.jpg

引用開始
 かくて事件は小康を得た形であったが、支那側は着々八寶山付近から京漢線に至る間、永定河右岸地区に益々兵力を増加しつつあったばかりでなく、事件の発端地盧溝橋付近から京漢線北側地区、八寶山付近に亙る間に、三線の陣地を構築、更に永定河右岸長辛店、及びその西北方高地にも堅固な陣地を占領して、漸次我方に包囲的態勢をとり抗戦意識極めて旺盛なるものがあった。

 一方古都北京の反日意識も意思外に熾烈で事変勃発と同時に戒厳令を布き、内外城門は勿論、市内の随所は二十九軍兵士の青龍刀に固められて、城外との交通は全く遮断された。
 見上げれば屋上等には機関銃さえ配置され、ことに邦人の多く往き交う交民巷付近の街路には、夜間迫撃砲まで持ち出すという始末であった。
 我方の交渉により城門だけは開かれたが、戒厳令は依然続行して、我軍の通過を許さなかった。

 こうした例は数十年来かつて見なかったもので民国革命以来、内乱戦、事変等は屡々起ったが、北京の治安はおおむね警察力で維持されていたのであるが、今回は全く状態が異なり、悉く二十九軍の銃剣と、青龍刀が北京の街を支配した。ことに邦人に対する暴圧は言語同断で、或は我が憲兵を検束し、或は婦女子に迫害を加え、或は住宅に不法侵入し、或は暴行傷害を加える等々の不祥事が頻発したのである。

 かくの如き不法圧迫が北京城内に行われている折も折、十三日城外馬村付近に於て同地通過の歩兵一小隊に支那軍は突如不法射撃を行い、我方は戦死三名を出すという不祥事が惹き起こされたのである。更にその翌日十四日団河村付近を我騎兵部隊が通過の際不法射撃を受け兵一名が戦死した。
 一日置いて十六日午前八時頃鈴木部隊の一部は安平に於いて冀殺保安隊の攻撃を受けるなど重ね重ねの不法射撃を受けたのである。
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posted by 小楠 at 19:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変

2007年04月27日

支那事変の発端1

当時の出版物に見る盧溝橋事件

 支那の大嘘と日教組や反日マスコミ、媚中勢力のため、支那事変が未だに日本の侵略と思わされている日本人ガ多いようです。
 昭和十三年八月から、支那事変の経緯と支那各地の産業、観光地等の知識を解説した内容を、現地将兵に頒布するため「支那事変 戦跡の栞」という本が、上中下三巻で発行されています。幅広の手帳サイズの本ですが、支那事変の推移を詳細に記録しており、今回はその上巻にある「事変の発端盧溝橋事件」という部分から、当時の様子を引用して、これが日本の侵略などとは言えない性質のものであることを見て欲しいと思います。
(字が小さく古い本なので、漢字の読取が間違うかも知れませんが、大抵は地名などの固有名詞の場合が多いので、ご容赦下さい)
写真は「支那事変 戦跡の栞」全三巻
allbooks.jpg

引用開始
 昭和十二年七月七日、この歴史的な夜は七夕だった。・・・・・
 この夜この時限りに日支両国の運命の星は遂に相離れてしまったのである。
 その夜、我支那駐屯軍に属する豊台駐屯部隊は盧溝橋の北方約千メートルの龍王廟付近の草原に夜間演習を実施していた。・・・・・
 屡々我が部隊の演習はこの好適の草原に行われていたのだが、なんに血迷うてかこの夜十一時四十分頃、盧溝橋に駐屯する支那軍(宋哲元の指揮する第二十九軍の一部)は我が部隊めがけて数十発の不法射撃を行って来た。

 ここで二十九軍なるものの正体にちょっと触れておこう。この軍隊は民国十四(1926)年以来、西北革命軍として馮玉祥の麾下で北伐に参加し、民国十七年に宋哲元が陝西省主席となると同時に陝西に入り十九年の反蒋戦に敗れ、同二十一年、宋哲元が察哈爾省主席に任ぜられた時、全軍は河北省に移駐した。
 満洲事変には抗日戦に参加したが喜峯口の一戦に敗れてしまった。しかし、性懲りもなく、相変わらず抗日行動の先鋒となって北支民衆を毒しながら、昭和十一年六月、中央軍の河北撤退を期として平津地方を完全に保有してしまった。

 その兵力十数万、軍長は宋哲元であったが、まもなく第三十七師長馮治安が軍長を兼任し、三十七師(師長馮治安)三十八師(張自忠)百三十二師(趙登禹)及び新編二師より構成され、事変前の配置区域は保定付近が三十七師、天津付近が三十八師、京漢線沿線の大名付近には百三十二師が分駐していた。この軍隊は抗日の親玉馮玉祥の麾下であった関係から、抗日意識は下層まで行きわたっていた札つきの悪質の軍隊であったのである。
 さて、我が部隊は演習を中止して人員点呼を行った所、兵一名が不足しているのを発見したので直ちにその付近を捜索すると共に豊台駐屯隊長に急報したが、間もなく不足した兵員は発見され我が部隊に損害の無いことが明らかになった。
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posted by 小楠 at 07:51| Comment(1) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変