2008年02月28日

ある兵士の支那事変5

保定城壁突入

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載します。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は保定城突入前の兵士の様子です。
写真は決死の突撃を前に名残の一服
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引用開始
 私たちは保定への泥濘を進んでいた。永定河から保定まではいたるところに野菜畑があったので、部隊がちょっと停るとすぐ野菜を採りに行った。この日も部隊が停って炊事がはじまる前の寸暇に、四人の戦友たちと付近の畑へ出かけて行った。銃があっては、野菜を十分両手に持てないので、みんな銃なしだった。高粱畑の向こうの方にどうも立派な野菜畑がありそうだというので、散歩でもするような気持でブラブラと出かけた。空は晴れ上がってなにか鳥の声さえ聞える。長閑な北支の田園風景だった。高粱畑を抜けると果して見込みどおり見事な野菜畑が広がって、その向こうには小さな部落さえ見えている。畑には円くて一尺くらいの長さの立派な大根がニョキニョキ生えていた。

「しめた!」と口々に叫んで大根を掘りはじめた。「まだあちらにもある、こちらに白菜がある」といって私たちは下ばかりみて這いずり廻る間に、部落に近づいていたのを気付かなかった。瞬間、ダ、ダ、ダ、と機銃が部落の端で鳴って同時にピューッピューッピューッと弾が耳元をかすめて飛んで行った。ハッと思って伏せる。反射的に銃を構えようとして銃代りに白い大根を持っていることに気がついた。「しまった!」と思った。弾は連続的に飛んで来てプスップスッと畑の土に喰いいる。じいっと伏せている、とやがて機銃がピッタリ止んだ。ヤレヤレと思ってこの間に退ろうとじりじり二、三歩動くと、とたんに再び機銃が鳴って弾が傍の大根に突刺さった。二進も三進もゆかなくなった。しきりと軽率さが悔まれてきた。武器も持たないで、大根を抱いてはなんとしても死なれない。他の三人を見るとみんな、しまった、という同じ思いの顔つきをしている。それでも目を見合った拍子にニヤニヤと笑ってみせた。ジリジリ這って、やがてうまく高粱畑の中へ入った。高粱畑を抜けて、もう大丈夫、と思うとまた四人が期せずして顔を見合った。そして、四人ともワッハッハッハと笑った。・・・・

 部隊へ帰って「ひどい目に会ったぞ」とこの失敗の巻を披露に及んでいると、表から石原上等兵がノソリノソリと入って来た。左手で一人の支那兵の腕をつかまえ、右手に鶏を二羽ぶら下げている。みんなが呆れ顔で目を瞠ると、石原上等兵はニヤリニヤリ笑って二羽の鶏を突き出した。「それはわかっているよ、左手の方はなんだい」というと、石原上等兵は支那兵を振り返って胸を張った。
「鶏と一緒に分捕って来た。敗残兵の癖に生意気にこの『兄さん』を撃ちやがる・・・」と悠然たるものである。一言もなかった。私たちは大根を抱えてホウホウの態で帰って来るし、石原上等兵は敗残兵を従えて帰って来る――これだけの違いが私と彼にはあるのだろうかと惚れ惚れとして『兄さん』を眺めるほかなかった。
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2008年02月27日

ある兵士の支那事変4

捕虜を殺さぬ皇軍の情

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載します。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は永定河渡河の苦労の模様と、敵兵に対する処置の様子。
写真はベソかいて命乞い、敵110師の捕虜
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引用開始
演習と違わぬ感じ 
 一面の野菜畑だった。白菜や人参などが水々しい青さで炎熱の直射に照り映えていた。野菜畑を進むと永定河の長い土手がある。土手には野いばらが一杯生えていてゲートルに虫のように喰いついた。
 土手にたどりついてここで携帯してきた飯盒をおろして飯を喰った。野砲が盛んに対岸の敵陣地に射ち込んでいたし、友軍の飛行機がひっきりなしに飛んできて対岸を爆撃していた。にもかかわらず土手からちょっと頭を出すと対岸からダダ―ンと飛んで来る。この中へ飛び出すのか、とチラと考えてみないではいられなかった。

 石原上等兵が元気な声を出して伝令に飛び廻っている。午後三時三十分! 部隊は一斉に土手から永定河の中へ飛び出して行った。
 土手を下りると、広い砂地が海岸のように広がって、そこを演習どおりに散開して進むと、対岸の土手から機銃弾が薙ぐように飛んで来た。その弾幕の中に飛び込んでいった瞬間、もう弾というものを考えなくなってしまった。「こりァ演習とちょっとも違わんじゃないか」と思ったりする。
 砂地を走り抜けると水が激しい勢いで流れていてズボズボと腰から胸までつかった。河底は泥になっていてちょっとも足に力が入らない。左足を踏み出すと右足がズボズボと泥の中へ入る。慌てて手をつこうとすると顔まで水の中へつかってしまった。一人流れそうになるのを助けるとこんどはその重みで自分が流れそうになる。すると助けられた戦友が、慌てて自分を助けてくれる。一つにかたまっては敵に射たれると焦るが、どうしても散開することができない。助け、助け合って四、五人が転がるようにしながら水を渡った。・・・・

「衛生兵!」と喘ぐように呼ぶ。「通訳だ、通訳がやられた」「なにッ通訳が?」と石原上等兵が憤って叫んだ。「隣の○隊の通訳だ!」と、叫び返してくる。ムカムカと腹の底から憤りが湧き上がって来た。「畜生! ここで目茶苦茶に敵をやっつけて死んでやろう」と思ってくる。
 焦ると足はますます泥にとられて進めない。喘ぎ喘いで高粱と泥の中を転げるようにして漸く土手にとりつくと、上から手榴弾が飛び、この下をかいくぐって土手に上ると、支那兵の死体につまづいてゴロゴロと土手の下へ転がり落ちた。もうなにも考えなかった。ただ訳もなくじいっとしていられなかった。もっとなにかしたかった。突き殺すとか、射つとか、走り廻るとか――すでに、とっくの昔に、あれほど考えていた「弾は私の体の何処へ当るだろうか」はすっかり忘れていた。
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2008年02月26日

ある兵士の支那事変3

初めて聞く敵弾の音

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載します。支那事変に従軍した一兵士の手記から、今回は事件で有名な廊坊からの行軍の様子です。
写真は敬虔な墓前の祈り
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引用開始
「畜生!」で一貫した気持 眼を射た新しい墓標
 汽車が停って「下車」の命令が出たときはじめて天津へ来た、とわかった。私たちのしなければならない一切の目的がこれではっきりとわかった。目的がはっきりわかると、こんどはまだ経験しないその目的に対する新しい好奇心が勃々と湧いて来た。
「実際の戦争とは一体どんなものだろうか」とただそれだけを思ってくる。それが直接自分の生命と関係のある問題だとはちょっとも考えない。ただ好奇心で一杯になる。早く知りたい、とみんなが思ってくるのだ。
 天津で少し警備について再び汽車に乗った。乗ったと思ったらすぐ降ろされた。
『廊坊』と書いた駅標が目につくと同時に真新しい墓標が目を射った。きのう建てられたばかりだというこの墓標を兵たちはみんな眺めた。私たちがこれから生まれて初めて経験しようとするもの、私たちの好奇心を胸一杯に揺さぶっているもの――それとこの墓標とが、なんの関係があるというのだろうか。――誰もそれをいうものはない。それをいう前に、この墓標が私たちと同じ兵の上に建てられたものだということだけを、焼きつくような熱さで考えてくる。
 
 『同じ兵』――それは『戦友』といわれる。私たちは一年有余の軍隊生活でなんでも個人を超えて『兵隊』という概念でしかものを考えないようになってきた。この墓標は兵隊の墓標だ。それだけだ。同じ兵隊の墓標だ。ここに戦友が倒れている。ただそれだけをハッキリと考える。そして口惜しさが、名状しがたい口惜しさが、頭の中の一切を占めてしまった。
 これから知ろうとする戦争がなんであるか、死がなんであるか、すでに問題ではない。まじまじとこの新しい墓標を眺めて、ただ「畜生!」と心の中一杯に思った。これが私の戦闘経験の発端だった。私の戦争への経験は「畜生!」の字ではじまった。そしてこの「畜生!」が限りなく続いて、最後まで「畜生!」で一貫したことをここで告白しなければならない。

 駅に下りて憩う間もなく行軍がはじまった。陽は落ちて星が空に降っている。何という広い空だろうとしみじみ大陸の空の大きさを考えた。道がほとんどなかった。なにが植わっているのかわからぬような畑を通ったり、或は小さな山を通ったりして歩きつづけた。
 五里も歩いたろうかと思うころ、突然前方遠くの暗闇にカンカンカンという機銃の音が起って、深々とした夜の空気にビリビリビリと反響した。同時にヒューンと呻って頭上をなにか飛んで行った。またヒューンと飛んで行く。しばらくは頭の上を飛んで行くものをなにか気がつかないような気持だったが、やがて「あ、弾だ弾だ」と思った。生まれてはじめて敵からの弾の音を聞いた。弾だ――と気がつくと、つぎからはヒューンという音を聞くと、ちょっと反射的に首を引っ込めた。
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2008年02月25日

ある兵士の支那事変2

支那事変戦場へ向う

昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載します。支那事変に従軍した一兵士の手記から、当時の戦場の様子がよくわかる内容です。
写真は慰問品の製作に忙しい朝鮮女性
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引用開始
嬉しいあだ名『兄さん』『お母さん』『嬶』
「オーイ、うちの嬶(カカア)はいないか」と荒木准尉が呼ばれた。すぐ私が飛んで行く。○○に上陸して、再び汽車に乗って私たちは何処とも知れず運ばれていた。
 私は荒木准尉の将校当番だった。それで嬶なんである。汽車も幹部と一緒に二等車に乗って私は少々得意であった。石原上等兵も本部付のラッパ手でやはり二等車の嬶組だ。・・・・・
 小林伍長は新編成以前からの私の友達だ。色が白くて、丸顔で、優しい男振りの兵隊さんだった。小林伍長の任務は衛生兵だったので、これもまた本部付き、すなわち二等車の嬶組であった。
 小林伍長は顔が優しかったように性質も優しくて綿密だった。細かいところまで気がついて、私や石原上等兵の持っていないものは小林伍長のところへ行けば必ず持っているという風だった。だから私たちは小林伍長を『お母さん』と呼んだ。あまっちゃれた言葉で兵営内の言葉には似つかわしくないものだったが、それだけに『お母さん』というアダナを口にすることは、ホッと息を抜くような、なにか自慰的な気持で楽しかった。
『兄さん』とアダナされる石原上等兵は無遠慮で大まかで、そして『お母さん』は気が弱くて綿密で、この真ん中へ入って『嬶』と呼ばれる私は、温かい蒲団にでもくるまったように楽しかった。

 汽車は歓声と旗の波に埋められた駅をいくつも通過して走っていた。とうとうある駅で汽車が停った。歓声と旗が窓々から流れ込むように溢れている。洋服を着たり、綺麗な着物を着た人たちに混って、朝鮮の白い着物をつけた人々が一生懸命になにかを叫んで旗を振っていた。私はオヤ、と思った。白い着物を付けた人々は汽車が再び動き出すとドッと、堰を破ったように汽車の窓々へ飛んで来て、なにか口々に叫びながら汽車の中へ旗やいろんなものを投げ込んだ。私のところへも一つ白い布切が投げ込まれてきた。同時に、アクセントの強い癖のある語調で
「兵隊しゃん、しっかりやって下しゃい」
という叫びが耳を打った。
 汽車の窓を旗と人の波がさッさッと過ぎて行った。私は投げ込まれた白い布を拾った。立派に千の赤い糸で『尽忠報国』と縫いとった千人針だった。
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2008年02月23日

ある兵士の支那事変1

「征野千里」を読む

 今回から、昭和十三年十二月に新潮社から発行された戦場手記「征野千里」中野部隊上等兵 谷口勝著を引用掲載します。まずその序からです。
写真は中表紙の「最近の谷口上等兵(陸軍軍医学校にて)」
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引用開始
序 陸軍少将 桜井 忠温
 日露戦争後、ある兵士が作った戦争記録を読んだことがある。世間に発表しないですんだものだが、それには、玉子一個何銭、鶏一羽何十銭、といったようなことまで細かく書いてあった。
 戦争の記録もここまで来ないといけない。戦史にも何もないことが、あとになってどれほど役立つかわからぬ。
 こういう記録は、百年後を目標にして、始めて生きて来ると思う。
 谷口君のこの著は、細かい日々の生活がよく描かれてある。飾りも何にもないところが尊い。ヤマも何もないようなところに、何度も何度も読み返したいところがある。本人の気のつかない(だろうと思う)ところに何ともいえない味わいがある。
 支那事変が生んだ作品は幾多ある。しかし、この書の中に盛られているものは、その一つ一つが何の装飾もない、「ホントウの戦争」の姿である。
 この作品を世に送られるということは、谷口君が同時に二つの御奉公をなしたのである。剣とそして筆と、――
 これこそ、永遠に残る書であって、その一字一語に血と汗とが滲み出ている。われわれは深く谷口君に感謝しなければならぬ。

読者の皆様
 皆様の信頼こめた万歳に送られて祖国を発った私ではありましたが、僅かばかりの傷のため任務中途で再び銃とれぬ身となって、生きては二度と見まいと誓ったこの祖国に帰ってまいりました。皆様に申訳の言葉もなく、御詫び申上げる胸中、ただ腑甲斐無さへの自責の念で一っぱいです。この情けない私が今更戦場を語るもあまりにおこがましい次第とは存じましたが、私のこの微少な経験にしていささかなりとも銃後の皆様に戦場を偲ぶよすがともなれば・・・・と存じ、私が経験しました一切を読売新聞にお話した次第であります。幸いにして同社社会部の原四郎記者が、私が意図したことそのままに手記の形式にまとめるの労をとって下さいましたので、拙い言葉も実感溢れる文字にかえていただくことが出来ました。ここにこのおこがましき手記を世に送るに当って、護国の鬼と化した幾多戦友の英霊及び光輝ある軍旗の下に烈々として進軍をつづけつつある懐かしい戦場の戦友に深い感謝を捧げると共に、銃後の皆様の日夜にわたる支援と数々の御慰問に厚く御礼申上げておきます。一切を語り終えて今はただ銃執る身となって再起奉公の日が一日も早く来るのを待つのみです。
南京城の戦闘を思い起しつつ
中野部隊 歩兵上等兵 谷口 勝 昭和十三年十二月十日


以下本文からの引用です。
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2007年09月08日

南京攻略特派員特電6

世紀の絵巻、南京入城式

以前に昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本をご紹介しましたが、今回はその後編のご紹介をしています。こちらは昭和十三年十二月七日発行で、前編と同じく約750ページにもなる分厚い本です。昭和十二年十一月の杭州湾敵前上陸から南京戦そして十月末の広東入城ころまでの特電を集めたものです。
写真は入城する海軍軍楽隊
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引用開始
【南京にて十二月十七日 朝日 今井特派員】
 嗚呼感激のこの日、同胞一億の唱和も響け、今日南京城頭高く揚がる万歳の轟きは世紀の驚異と歓喜茲に爆発する雄渾壮麗な大入城式である。この軍中支に聖戦の兵を進めて四ヶ月、輝く戦果に敵首都を攻略して全支を制圧し、東亜和平の基礎茲に定まって国民政府楼上に翩翻と翻る大日章旗を眺めては誰か感激の涙なきものがあろうか、荘厳勇壮を極めるこの大入城式を目のあたりに実況を故国に伝える記者の筆も感激と興奮に震える。
 南京は日本晴れ、この日紺碧の空澄み渡って雲一つ浮ばず銃火茲に収まって新戦場に平和の曙光満ち渡る。中山門、光華門、通済門、中華門、和平門、太平門、日の丸の旗波打つこれら輝く各城門から午前早くも光輝燦然たる日章旗を捧持して、南京総攻撃参加の各部隊続々入城、中山門より国民政府に到る三キロのメーンストリート中山路の沿道に堵列の将兵は征衣に積もる戦塵を払って意気軒昂。見渡せば道の北側に上海派遣軍、南側に杭州湾上陸部隊、血と汗に汚れた戦闘帽に輝く両頬は今日この一瞬の歓喜に満ち満ちて日焦した満面が感激に燃えている。午後一時全部隊集結完了した。
 
 畏くも金枝玉葉の御身を以て親しく南京攻略戦に御従軍遊ばされた朝香宮殿下の召された御自動車が中山門に到着した。続く車は杭州湾上陸の○○部隊長、そして中山門に感激の瞳を輝かせつつ下り立ったのは上海戦の労苦を双頬に刻んだ軍司令官松井石根大将である。午後一時半松井大将を先頭に朝香宮殿下を始め奉り○○部隊長、各幕僚は騎乗にて、ここに歴史的大入城式が開始された。
 東方紫の峰を横たえる紫金山の中腹にこの盛典を見守る中山陵、ああ、この日! この時! 新支那建設の父、孫文はその陵下に在って如何なる感慨があるであろうか。恐らくは抗日支那の末路をわが将士とともに哀れんで居るであろう。・・・・・
 此時下関に上陸した支那方面艦隊司令長官長谷川中将は、各幕僚を随えてこれに加わる。午後二時国民政府正門のセンター・ポール高く大日章旗が掲揚された。翩翻と全東洋の風をはらんではたはたと靡く日の丸の美しさ、嚠喨たる海軍軍楽隊の「君が代」が奏でられ始めた。空に囂々たる爆音を響かせて翼を連ねる陸海軍航空隊の大編隊・・・・・
 挙げる祝杯は畏くも将士を労わせ給う恩賜の日本酒立食の大卓に並べられた饗宴は、烏賊、かち栗、昆布の戦捷を祝う品々だ、肝に銘じしみ渡る美酒の味! 再び繰返される聖寿万歳の轟きだ。恐らくはこの一瞬祖国日本に一億の同胞が挙げる万歳もこの歓喜をともにするであろう・・・・
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2007年09月07日

南京攻略特派員特電5

南京総攻撃

以前に昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本をご紹介しましたが、今回からはその後編のご紹介をします。こちらは昭和十三年十二月七日発行で、前編と同じく約750ページにもなる分厚い本です。昭和十二年十一月の杭州湾敵前上陸から南京戦そして十月末の広東入城ころまでの特電を集めたものです。
写真は中山門城壁(上)、中華門(中)、光華門(左下)
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引用開始
無錫戦線に散る二記者
【上海朝日特電十一月二十五日発】

 堅塁を誇った無錫が遂に安達部隊及びその他によって完全に占領された。二十五日、第一線に従軍して皇軍の壮烈なる進撃状況をフィルムに収めていた本社映画班前田恒特派員(30)は同日午前十一時半敵弾を受けて壮烈な戦死を遂げ江南戦線における報道陣の花と散った。前田特派員の戦死と殆ど同時に読売新聞特派員渡邊峰雄氏(28)も同地で戦死した。

脇坂部隊決死の突入
【南京城外にて朝日前線通信本部十日発】

 九日午前五時半早くも南京城光華門前面に迫り城壁間近に到達した脇坂部隊は、爾来三十六時間城壁上から猛射を浴せる敵軍最後の抵抗に対し凄壮極まりなき迫撃戦を続けていたが十日午後五時決死的爆破が功を奏し光華門の一部は破壊されたので時を移さず突入、同五時二十分城壁高く日章旗を翻した。
 折柄西に沈む夕陽を浴びて我が一番乗の勇士が力の限り左右に打ち振る日章旗は敵首都南京陥落を力強く意義づけ、これを眺める吾等は感激の涙を禁じ得なかった。
 敵はこの城壁を首都防衛の最後の線と恃み九日朝我が軍が城壁下に達するや続々精鋭を繰り出し分秒の隙もなく機銃を以て撃ちまくり明故宮飛行場その他城内の砲兵陣地からは重砲や迫撃砲を釣瓶撃ちにして我軍を悩ました。我軍は敵のかかる死にもの狂いの抵抗を予期し将士は決死の意気鋭く背嚢をかなぐり捨て唯生の甘藷と弾丸を腰につけて敵と対抗、猛烈な機関銃戦を演じた。
 敵弾雨霰と降り注ぐため最前線と後方とは全く連絡を断たれ、弾薬、糧食の供給は全然不可能になったが、全将兵は城壁の下から一歩も退かなかった。
 かくて朝来薄曇りの空を衝いて飛来する我が空軍の南京城内爆撃と芹澤部隊の砲撃により城内の一廓が崩れ、敵膽を寒からしめたのである。光華門は鉄扉を以て固く閉ざされその上土嚢を積んで厳重に固められているので我砲弾を幾ら受けてもびくともしなかった。午後五時我が決死隊は敵弾雨飛の中を潜って城門口突入爆薬に点火するや轟然たる爆音と共に門の一角に穴が開いた。それッと貴志大尉の一隊、続いて葛野中尉の一隊が城門に突入し五時二十分土嚢伝いによじ登り日章旗を高らかに掲げた。城頭高く揚る万歳のどよめきこれと相呼応して脇坂部隊の全将士の万歳の声は四辺に谺して南京城を圧し直ちに機銃を城壁上に据え城内の敵兵掃討を開始し激戦中である。
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2007年09月05日

南京攻略特派員特電3

朝霧の中に焔の常熟

以前に昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本をご紹介しましたが、今回からはその後編のご紹介をします。こちらは昭和十三年十二月七日発行で、前編と同じく約750ページにもなる分厚い本です。昭和十二年十一月の杭州湾敵前上陸から南京戦そして十月末の広東入城ころまでの特電を集めたものです。
今回は同盟や報知特派員の特電と例の浅海特派員の特電を引用してみます。

写真のキャプションは常熟へ前進
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引用開始
常熟にて十一月二十日、東日・大毎
【浅海特派員】

 敗戦支那軍が最後と頼む堅城の一つ常熟は十九日遂に陥落した。十三日揚子江岸に敵前上陸して以来辛苦を重ねた○○部隊の努力はついに報いられたのだ。十九日未明両三日来の雨で水は膝を没する塹壕から起ち上った各部隊は一斉に進撃に移った、蜿蜒(えんえん)十余キロにわたる常熟包囲陣の総攻撃だ。耳を裂けんばかりの銃砲声の中に佐藤、高橋、永津の各部隊は常熟東北方から背後、名山虞山めざして突撃、逃げ惑う敵を猛追撃、息もつがせず常熟城の北角をかすめて虞山の山麓に駆け上り輝く日章旗を揚げた。
 続いて血みどろの○砲の引揚げが敢行され雨の中に燃える常熟城に向って痛快極まりなき釣瓶撃ちに城内の支那軍は右往左往の大混乱に陥り、各所に火災さえ起って、さしもの名城も断末魔の喘ぎにのたうち廻るようだ。見れば城壁の西方には友軍○○部隊の勇士等が日章旗を翻して雲霞のように押寄せている。後方からの砲兵の掩護射撃はここから見れば百発百中、支那最後の抵抗線は虱潰しに破壊され、○○部隊の第一線は潮の充ち渡るように前進また前進して行く。
 午前七時半早くも城壁東隅には第一の日章旗が立てられ、つづいて第二第三の日章旗が城内深く突入するのが見える。わが○○部隊の勇士等は一本の日章旗を見る毎に万歳の絶叫だ。見れば城の南側は混城湖、虞山の西方には尚湖が朝靄の中に煙る。常熟城は炎の中に全くわが軍の手中に納められ、山上からも城内からも万歳の嵐が天地をゆるがすのであった。

蘇州城遂に皇軍の手に
【上海東日大毎特電十一月二十日発】

 わが軍は十九日午前七時遂に蘇州城を占拠した。
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2007年09月04日

南京攻略特派員特電2

南翔堅塁脆くも陥つ

以前に昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本をご紹介しましたが、今回からはその後編のご紹介をします。こちらは昭和十三年十二月七日発行で、前編と同じく約750ページにもなる分厚い本です。昭和十二年十一月の杭州湾敵前上陸から南京戦そして十月末の広東入城ころまでの特電を集めたものです。
今回は主に、今では中国共産党の犬、反日新聞の代表といわれる朝日特派員の特電を引用
してみます。その当時との違いに驚くことでしょう。
写真は南翔へ進撃する戦車隊
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引用開始
南翔にて十一月十二日
【朝日、園田特派員】

 かつては前敵総司令陳誠が駐在し江南戦線を指揮した敵の中央根拠地南翔は十二日完全に我が手に帰した。
 記者は和知、浅間両部隊の奮戦地である約8キロ余の新戦場を辿り占領直後南翔駅から鎮内に一番乗りした。つい先程まで前方で物凄い銃砲声が盛んに起っていたのにぴたりと止んだ、丁度南翔の南方4キロ余の地点姚家屯の部落に差し掛かった時だ。この一帯が敵の最後の陣地で頑丈な掩蓋壕と戦車の進行を防ぐ幅一間余の戦車壕が3キロ余に亙って掘られてある、それから進むともう陣地らしい陣地はない、この最後の線を抜かれてから敵は周章し其處此處に敵が陣地を築き掛けているが我軍の追撃が急なため壕も半分堀り掛けて潰走している有様で如何に両部隊の追撃が激しかったかが窺われる。
 戦いが終ったというので避難していたこの付近の農民は「支那兵は恐ろしいが日本兵は無茶をしない」と三々五々打ち連れ早くも我家に帰って来て進軍する我が将士を道端に土下座をして迎えていたが、中には住家を支那兵のために焼かれたり壊されたりして大声をあげ号泣しているものもあったのは哀れであった。・・・・・

 駅から南翔の市街までは石畳のモダンな並木道路が約100メートル、南翔の市街は北南2キロ、その中央より稍北寄りに東西両方に街が伸び飛行機型をなしている。人口は約五万といわれているところ、十字型に流れているクリークの橋は悉く支那兵によって破壊されている。北南のクリークに沿って鎮内を進めば爆撃と砲撃で町並の家屋が潰され支那人の姿は一人もない、・・・・目抜きの商店街に入れば足の踏場もないほどの乱雑さ、支那兵が敗走する行きがけの駄賃に手当り次第に掠奪して行ったのだろう、鎮内はまだ敗残兵が潜伏しているというので我兵が掃蕩に努めていたが天井や竈の中に潜んでいる敵兵が続々と発見されていた。鎮内には敵の陣地らしいものは全くないが一歩東方の街道に踏出すとこれが所謂南翔陣地で、幅20メートル余のクリークに鉄条網をズラリと張りめぐらし小南翔までの間は塹壕が三重四重と続いている、文字通り難攻の堅塁である。
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2007年09月03日

南京攻略特派員特電1

大山大尉の霊と脇坂部隊

以前に昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本をご紹介しましたが、今回からはその後編のご紹介をします。こちらは昭和十三年十二月七日発行で、前編と同じく約750ページにもなる分厚い本です。昭和十二年十一月の杭州湾敵前上陸から南京戦そして十月末の広東入城ころまでの特電を集めたものです。
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引用開始
虹橋飛行場にて十一月(昭和十二年)九日
【朝日、平松、中村特派員】

 恨みの虹橋飛行場――大山大尉、斉藤三等兵曹が無念の最後を遂げた虹橋飛行場は遂に我軍の手に帰した。奇しくも大山大尉遭難の日、月はかわれど日は同じである。大尉らの命日だ。記者等はこの虹橋飛行場が陥落した直後今度の上海戦争の実に発火点となったこの大山大尉事件の現場を見、そうして両勇士の霊を慰めた。
 太い丸太棒と鉄条網から出来たバリケードが虹橋飛行場正面の広場一杯を埋めて居る。正門前に野菜白米その他いろいろな食糧が所嫌わず散乱しトラックが一台横倒しに倒れ黄包車も転がり書類、衣類が鮮血に染って凄惨な情景を見せている。
 記者等は暫く狼藉たる門前を徘徊して先ず大山大尉戦死の地を探し求めてその霊を弔う。あの頃は青葉で182号と書いた幌型の陸戦隊自動車が豆畑に頭を突込んで車体には蜂の巣のような弾痕、運転台は真赤な血の海、その傍に大山大尉が刃の跡も残虐を極め仰向けになって無残な最期を遂げていた。この眼で見た大山大尉憤死の場所、どうして忘れることができよう――日章旗の翻る飛行場区面を400メートル彼方に眺めながら大山大尉最後の場所に立ったのだ。

 記者等は思わず帽子をとって暫し黙祷した、それから飛行場正面に入って脇坂部隊長を訪れると正門上の狭い部隊長の室には○○○が奉置されてあり、その横の壁に「謹弔大山海軍大尉の英霊」と大書してある。・・・・
 記者等は大山大尉等の英霊を弔ってから軍用飛行場として敵が一歩たりとも外来者の出入を許さなかった飛行場に行く、ここは上海戦争が始まるとわが飛行隊の活躍に先立って敵が租界爆撃を敢行したその重要な根拠地でもあったのだ。・・・・記者等の姿を見つけたのかヒューンと執拗い狙撃の弾丸が流れる。格納庫の間には緑色に塗った高さ5メートル長さ20メートル位の小屋掛みたいな大きな荷物が数個置いてある。
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2007年07月10日

支那事変海軍従軍記者電

長谷川司令長官声明

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
写真は戦跡視察の長谷川司令長官
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引用開始
【上海十四日(八月)発同盟】
 長谷川第三艦隊司令長官は本日午後次の重大声明を発表した。
 支那軍隊の挑戦的攻撃をうけたる我が第三艦隊は自衛のため必要とする処置を執るの已むなきに至れり、仍って支那軍隊の占拠する地域及びその軍用施設付近にある一般住民は直ちに右以外の適当なる地に転居せんことを勧告す。
昭和十二年八月十四日
長谷川第三艦隊司令長官

【上海十五日発同盟】
 (海軍武官室午後六時半発表)

(一)十五日午前十時わが海上航空部隊は銀翼数十機を連ね杭州を空襲、壮絶なる空中戦を演じ敵の戦闘機約十機を撃破し地上飛行機全部を撃破せり。
(一)正午ごろ海軍○○空襲部隊は猛烈なる悪天候を冒し暴風雨中の南昌を空襲し重爆弾数十個を投下、折柄地上に待機中の敵機数十機を撃破、何れも無事帰還せり。
(一)午後わが海軍○○空襲部隊は敵の首都南京の飛行場を空襲し多大の損害を与えた。敵は無電台を通じてSOSを発し各地に応援を求めていたが、情報によれば蒋介石は周章狼狽し首脳部と謀議中と伝えらる。なおわが飛行機は全部帰還(東日十五日号外)

首都南京を震撼し大空中戦展開
【上海十五日発同盟】

 十五日午後荒天の支那海を翔破し来った海軍航空隊により敢行された南京飛行場襲撃は壮絶を極めたもので、雲低く垂れた南京上空に爆音勇しく銀翼を連ねた海軍機が紫金山をかすめて現れた時は、南京全市を震撼せしめ、市内外に装置された高射砲、高射機関銃は一斉に火蓋を切られ、轟々たる砲声は我飛行機より投下する爆弾炸裂の轟音と相俟って首都南京の天地に轟き渡った。我空襲隊は約一千四百メートルの高度を保ちつつ見事に機翼を連ねて前後三回に亘り故宮飛行場、光華門外軍用飛行場格納庫及び多数の飛行機を完全に爆破し、数機は家屋の屋根をすれすれに低空飛行を敢行したとのことである。かくて応援にかけつけた支那軍飛行機約十台と壮烈な空中戦を演じ、その大半を墜落せしめた後、悠々長距離を翔破、我海軍空軍の偉力を思う存分発揮して無事根拠地に帰還。我戦史上空前の貴重な記録を印した。
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2007年07月09日

支那事変海軍機の活躍

敵大編隊を果敢に射落す我空軍

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
海の荒鷲出発前の訓示
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引用開始
上海十五日(八月)発・読売特派員 田中幸利
 上海における支那軍空爆、しかも米国製飛行機の編隊爆撃は、日本軍、ならびに日本人が生まれてはじめて受けた空襲の洗礼ていってもよいであろう。そのうえ暴虐な支那飛行機は盲目滅法な爆撃をやって列強の憤慨を買った。それに対し大鷲に向う隼の如きわが少数の艦載機は入り乱れて壮烈な空中戦を展開し、みごとに敵機を射落した。
 国際人の監視裡、颯爽として軍門にふさわしき血祭りである。本社上海支局は敵弾雨飛する支局を上海日々新聞社に避難、田中支局長はその屋上より十四日の空中戦を親しく観戦した。以下田中支局長の手記である。

 十四日払暁二時ごろより天地を揺がして轟き渡っていた全線の砲声が夜明けとともに衰えたと思うと、七時過ぎ、天の一角から遠雷のような爆音が聞えてきた『それ! わが軍の出動だ!』と興奮と不安の一夜を明かした全邦人は慌てて飛出した。台風がはこぶ雨雲の間を縫って三機編隊の爆撃機だ。それと認めて女や老人までが『うれしい、うれしい』と歓呼の声をあげた。子供たちは雀躍して飛行機だ飛行機だと手に手に日の丸の旗をふった。ああ上海は救われる、われわれ日本人は救われるんだ。支那兵にいじめつけられていた憤懣がとけて喜びの色がサッと流れた。編隊はますます機影をひろげてわれらの頭上をかすめた。その瞬間陸戦隊本部方面に突如として砲声があった。わが高射砲や高射機関銃が一斉に火蓋を切ったのだ。あッ敵だ! あの飛行機は敵だ敵だと全邦人の安堵と喜びは忽ち恐怖と戦慄に変わり、土嚢の影のわが兵は一斉に銃口を空に向け、民家の上に散在する機関銃隊も一斉に火蓋を切った。だが雨雲低く垂れた悪天候は却って敵に幸いした。密雲を破って急降下して来ては爆弾を投下、忽ち急角度で上昇して雲中に逃げ込んでしまうのだ。わが高射砲隊が一斉猛射を浴びせる時にはすでに敵機は密雲の中に姿を消してしまっている。密雲の中の姿なき爆音を追いながら照準を定めるのだが、これでは如何に精鋭なるわが高射砲隊たりとも如何ともなしがたいではないか! 高射砲の弾丸は空中に空しく炸裂点々たる黒煙を天に印するのみである。
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2007年07月07日

支那軍上海爆撃の特電

数万の避難民に爆弾投下

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
写真は戦友の霊の弔い
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引用開始
【上海十四日(昭和十二年八月)発同盟】
 午後四時半支那側の連続的空爆でバンド北京路先の埠頭に落下した爆弾は、折柄午前中の空爆で虹口、楊樹浦方面から殺到した数万の避難民の真中に落下し、死傷者無数、上海随一の華麗街南京路上は死傷者の鮮血で真赤になり、或は片手を奪われ或は頭をやられた瀕死の重傷者が血の雨の中を這い廻り上海一の国際社交場カセイ、パレス両ホテルに宿泊中の外国婦人等がめちゃめちゃに粉砕された窓ガラスに傷ついて狂気のように泣きわめいて、道路いっぱい身動きのならぬような混乱の中から逃れようとして踏み殺された小児等、思わず目を蔽わしめる惨状である。

【上海十四日発同盟】
 支那軍の空爆によって最も惨劇を呈しているのは上海目抜きのカセイホテル、パレスホテル一帯で、南京路カセイホテル玄関前に二発落下し、避難民殺到中だったため死者百数十名負傷者百名を出し、街道は死の山、数十台の自動車は粉砕され名状すべからざる惨状である。未曾有の惨事といっても過言にあらず、その惨劇は語るに絶するものあり。目下各国の救護班が出動、死傷者を収容中である(以上十四日朝日号外)。

不法支那に各国憤慨

【上海十四日発同盟】
 血迷った支那軍は上海全市にところかまわず無数の爆弾を投下、外国人、支那人多数を殺傷しつつあり、この残虐行為に各国領事団は早くも活動を開始し、不法極まる支那の責任を厳重に問わんとしつつあり。

【上海読売特電十四日発至急報】
 十四日午前十時支那空軍重爆機三機編隊でわが陸戦隊本部を襲撃し、わが方は高射砲、高射機関銃で猛撃、同十五分虹口地帯に飛来、居留民密集地帯に爆弾投下、更に同二十分八機編成で虹口に飛来爆弾投下、目下高射砲で一斉射撃を加えている。支那飛行機の投下せる爆弾の一つはわが総領事館に隣接せる招商局碼頭付近に落下、目下火災中、右は総領事館○○を狙ったものである。支那空軍の爆弾投下の報に○○○○に待機中の我が空軍は直ちにこれを撃滅すべく出動し敵陣めがけて盛に爆弾を投下し北支事変以来最初の壮烈なる空中戦は茲に愈よ展開された。

爆音渦巻く上海!
上海十四日発・都特派員 原 勝

 在留邦人三万は日本人小学校、東本願寺に避難して、不安と恐怖の中に十三日の夜を迎えた。夜来台風のあおりを受けて雲行き怪しく、今暁四時ごろからは本格的の暴風雨と化した。籠城している避難の邦人は刻々の情勢に一喜一憂、蒼醒めた顔を見合って全く生きた心持もしない有様だ。
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2007年07月06日

大山事件特派員特電

大山海軍中尉上海で射殺さる

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
写真上は現場検証、下は事件現場
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引用開始
【上海朝日特電八月(昭和十二年)九日発】
日本海軍特別陸戦隊午後九時四十五分発表
 陸戦隊第一中隊長海軍中尉大山勇夫は一等水兵斉藤要蔵の運転せる自動車により本日午後五時頃上海共同租界越界路のモニュメント路(碑坊路)通行中、道路上にて多数の保安隊に包囲せられ次いで機銃小銃等の射撃を受け無念にも数十発の弾丸を受けて即死した。
 現場を検視するに頭部腹部には蜂の巣の如くに弾痕があり、自動車は前硝子が破壊せられ車体は数十発の機銃弾痕あり無法鬼畜の如き保安隊の行為を物語っている。右のモニュメント路は共同租界のエキステンションであり各国人の通行の自由のある所であるに拘らず、支那側は最近上海の周囲に公然と土嚢地雷火鹿柴などの防禦施設を構築し、夜間は兵力を以て勝手に通行を禁止し昼間にても通行人に一々ピストルを突き付けて身体検査するなどは明かなる停戦協定無視なるのみならず、共同租界居住各国人に対する侮辱である、支那側の無法なる抗日の公然たる挑戦行為である。なお同自動車の運転員一等水兵斉藤要蔵は座席に多量の血痕を残せるままいずこにか拉致されたものの如くである。
 帝国海軍陸戦隊は厳重に支那側の不法に対する責任を問うと共に厳正なる態度を以て徹底的解決を期せんとす。なお同中尉は軍服であったことを付記する。

眼を蔽う暴虐の現場
【上海大毎・東日特電十日発】

 大山中尉、斉藤水兵の死体引取りの一行は沖野海軍武官、陸戦隊山内参謀、重村大尉、総領事館服部副総事、工部局警察上原副総監、憲兵隊長塚本大尉など、支那側は市政府秘書張定栄以下警察局員数名、これに内外の記者団十数名が従い陸戦隊看護婦十名を乗せた救急車とともに九日午後十一時半わが総領事館を出発、深夜の上海をまっしぐらに現場に急行した。・・・・・
 大山中尉の死体は虹橋路を虹橋飛行場に突き当って右に折れ碑坊路(モニュメント路)を北行すること約七、八町鉄条網を張りめぐらした飛行場の北端に近い路傍、血の海の中に横たわっていた。案内役の支那巡警が差出すカンテラの光に死体の上を窺うと立会の支那側代表張定栄市政府秘書、朱英保安隊参謀主任でさえ見るに堪えず思わず眼を蔽う暴行の跡だ。
 午後七時半最初に死体確認のため現場を視察した陸戦隊重村大尉の談によれば、最初見た時は頭蓋骨粉砕、骨折や刺傷はなかったというから、これ等は何れもその後死体に加えられた暴行であることが明かで、その暴挙を敢てするのは全く鬼畜の仕業だ。傍に横たわる自動車を見れば一面の弾痕だ。車内は血に染まっている。斉藤一等水兵の死体はそれより東方十数米の豆畑の中に哀れにも仰向けに放り出されてあった。斉藤水兵は後から身に数弾を受け運転台から転げ落ちながらもなお敵に応戦したらしいが、幾つもの残酷な傷があり、両名とも身ぐるみ全部掠奪されている。四方から一斉に撃たれた模様で、あたり一面は文字通り血の海である。午前四時過ぎようやく詳細な検証を終えた。
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2007年07月05日

通州事件特派員特電

鬼畜も及ばぬ残虐

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、ここでは有名な通州事件関係の特電から一部掲載します。
また、日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
時は昭和十二年のことです。
写真は被害甚大の近水楼
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引用開始
【北平三十一日(七月)発・東日大毎特電】
 通州反乱保安総隊顧問、村尾昌彦大尉夫人が頭に包帯をして顔その他に傷を受け三十日深夜命からがら冀東政府長官秘書孫錯氏夫人(日本人)とともに北平交民巷に逃げ込んだ。身震いが止まず反乱隊の残虐ぶりをポツリポツリと語った。

 保安隊が反乱したので在留日本人は特務機関や近水楼などに集まって避難しているうち二十九日の午前二時頃守備隊と交戦していた大部隊が幾つかに分れてワーッと近水楼や特務機関の前に殺到して来て、十分置きに機関銃と小銃を射ち込みました。
 近水楼の前は日本人の死体が山のように転がっています。子供を抱えた母が三人とも死んでいるなど、二た目と見られない惨状でした。私達はこの時家にいました。二十九日午前二時頃保安隊長の従卒が迎えに来たので洋服に着かえようとしたところ、その従卒がいきなり主人に向ってピストルを一発射ち主人は胸を押え「やられた!」と一声叫ぶなりその場に倒れました。
 私は台所の方に出て行って隠れていると従卒がそこらにあるもの片っ端から万年筆までとって表へ行きました。そのうちに外出していたうちのボーイが帰って来て、外は危ないというので押入の上段の布団の中にもぐっていたところ、さっきの従卒が十人ばかりの保安隊員を連れて家探しをして押入れの下まで探したが上にいた私には気づかず九死に一生を得ました。
 家の中には主人の軍隊時代と冀東政府の勲章が四つ残っていました。それを主人の唯一の思い出の品として私の支那鞄の底に入れ、主人の死体には新聞をかけて心から冥福を祈り、ボーイに連れられて殷汝耕長官の秘書孫一珊夫人の所へ飛び込み三十日朝まで隠れていましたが、日本人は皆殺しにしてやるという声が聞え、いよいよ危険が迫ったので、孫夫人と二人で支那人になり済まして双橋まで歩きやっとそこから驢馬に乗ったが、日本人か朝鮮人らしいと感づかれて驢馬曳などに叩かれましたが絶対に支那人だといい張ってやっと三十日午朝陽門まで辿りつきましたが、門がしまっていたので永定門に廻りやっと入り、三十日夜十一時日本警察署に入ることが出来ました。
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2007年07月04日

支那事変特派員の戦死

南苑の最前線で岡部特派員戦死

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、ここでは、「新聞報国」という今の朝日には考えられない活字も見え、朝日特派員の戦死を報じています。今ではゴロツキ新聞としか思えない反日朝日新聞ですが、当時には命がけで国家国民のため取材していた記者が多くいたのです。時は昭和十二年のことです。
画像は巻頭にある写真を紹介しています。
写真は大同占拠の我が軍
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引用開始
【天津朝日特電二十九(七月)日発】
 川岸部隊に従軍して去る二十六日の郎坊における戦闘に鯉登(こいと)部隊の第一救援列車に便乗し逸早く最前線の生々しき実況と皇軍の奮戦ぶりを伝えて銃後国民に報道の任務を果した本社特派員岡部孫四郎氏(二九)は引続き河邊部隊に従軍し二十八日第二十九軍第三十八師の本拠南苑総攻撃に当り、華々しき皇軍活躍の状況を報告すべく最前線に出たが不幸敵弾に当り通信職務遂行のため壮烈な戦死を遂げた。右に関し二十九日午後十一時支那駐屯軍参謀部より天津の本社支局に次の如き電報があった。
『川岸部隊長発電
 御社の記者岡部孫四郎氏は二十八日正午頃南苑の攻撃戦闘中危険を冒して第一線に駆足し、頭部に盲貫銃創を受けて遂に戦死を遂げらるる。誠に痛恨に堪えず謹みて哀悼の意を表す』

新聞報国史を飾る
【天津朝日特電三十日発】

 本社北支事変特派員岡部孫四郎氏は川岸部隊に従軍し、同部隊従軍の各新聞記者の中にあって特に同部隊の信頼を受け、同僚新聞記者と軍との間の連絡係りとして円滑な関係をはかり、同部隊並に同僚から尊敬を受けていた。
 同氏は従軍以来終始勤勉全く不眠不休で俊敏な活躍を続け川岸部隊の記事に写真に独特の機軸を示し、殊に同部隊の活躍を迅速正確に母国に報じていた。
 川岸部隊が天津から更に前進して暴戻支那軍を膺懲すべく二十七日午前二時半、まず鯉登部隊が急遽郎坊方面に出動を命ぜられるや、本社特派の同僚池内記者及び繁田、西橋両写真部員と共に出動、同夜一旦天津に帰府し最前線の従軍記を送るや直に再び川岸部隊の南苑出動の軍用列車に同乗を許されて南苑に赴き。第一線の将士と辛苦危険を共にしつつ勇敢にも第一線奮戦状況報告の任についていた。かくて二十八日正午頃ついに敵弾の犠牲となり壮烈な最期を遂げ報道戦線の尊き責務に殉じたのである。その死は軍人の精神と何等異ならず、新聞報国の強き信念と軍人と同じ御国のために誠を捧げて一身を賭したものである。新聞記者として同氏の如く第一戦にあって壮烈な戦死を遂げたのは恐らく最初のことであろう。
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2007年07月03日

支那駐屯軍声明特電

支那事変駐屯軍司令部声明

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、ここでは、不法射撃により何人もの犠牲者を出した支那駐屯軍が我慢に我慢を重ねた結果なお支那軍の不法が治まらず、遂に破局へと向わざるを得ない状況が報告されています。また日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
時は昭和十二年のことです。
画像は巻頭にある写真を紹介しています。
写真は大原城壁歩兵の万歳
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引用開始
最後態度決定
【天津二十八日(七月)発同盟】

 支那駐屯軍は最後通牒を発すると同時に左の声明を発表した。
七月七日以来盧溝橋付近に於て支那側の不法射撃に端を発したる日支両軍の紛争事件に関し、日本軍が飽迄事件不拡大の方針を堅持し和平解決に万全の努力を致したるは周知の処なり。然るに支那側は不信不法の行為を反覆し一旦我が要求を承認、調印したる後と雖も其後誠意の認むべきものなく而も通信交通を妨害し、計画的挑戦行為に出で、殊に一昨二十五日夜は軍用線修理のため郎坊に赴きたる部隊に対し、昨二十六日夕は北平廣安門付近に於て我が居留民保護に向える部隊に対し、偽瞞の手段を講じ不法の攻撃を敢てするが如き抗日侮日到らざるなし。
 加うるに梅津・何応欽協定を蹂躙して中央軍を北上せしめ、着々戦備を進むる等暴戻言語に絶するものあり。斯て今や治安は全く乱れ、我が居留民の生命財産は危殆に瀕するに至れり。素より北支治安の維持は日満両国の重大関心事たり事茲に至りては和平解決の万策尽きて、膺懲の兵を進むる外なし、真に遺憾とする処なり。然りと雖も日本軍の敵とする処は抗日挑戦の行為を敢てする支那軍にして河北一億の民衆に非ず。軍は速かに治安を恢復し東亜民衆の福祉を増進せん事を期するものなり。
 北平城内に於ては支那側が求めて混乱を惹起し、戦禍を誘発せざる限り武力を行使するが如き事はなく又、列国の権益を尊重しその居留民の生命財産の安全を期するは論を俟たざる処にして、況や領土的に北支を占領せんとするが如き意図は断じて之を有せざるものなり。右声明す。

総攻撃開始、平津各地に激戦
【北平朝日特電二十八日発】

 我が最後通牒において二十七日正午を期限とせる盧溝橋、八寶山第三十七師撤退は遂に支那側において何等の誠意を示さざりしため、我方は通告通り同日午後より敢然自主的行動を開始して支那軍に絶大の損害を与え、更に二十八日黎明に至り爆撃、砲撃の偉力を以て痛烈なる攻撃を加えた。最後通牒の第二段に示された北平城内及び西苑部隊の撤退並に移駐開始は二十八日正午を期限としてあるが、是亦遂に支那側の誠意ある実行を見るを得ず、却って市中に兵力を増大し抗日準備を厳にする等交戦の気構え明かとなったため、ここに我軍は二十九軍全軍に対し愈々総攻撃を行うべき最後の事態に到達、膺懲の火蓋を切った。
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2007年07月02日

廣安門事件特派員特電

入城の廣部部隊包囲さる

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年
のことです。
写真は廣安門、円内は廣部部隊長
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引用開始
【北平東日、大毎特電二十六日発】
 北平邦人保護の重責を帯び、二十六日午後軍用トラック○○台で豊台より北平兵営に向った廣部部隊は事前に冀察首脳部と諒解の結果午後四時、廣安門より入場の予定であったところ、城門の支那軍は約に背いて開門せず交渉のため廣安門に赴いていた二十九軍顧問桜井少佐は支那側の不信を怒り直ちに戒厳司令部に赴き厳談した結果、再び午後六時に開門する旨回答を得たが支那軍は依然開門せず、三度折衝の結果午後八時に至り漸く城門を半開したので約三分の二程入城したところ、はからずも門を閉鎖しすでに廣安門の内側には高々と土嚢を築き、突如支那兵は小銃、機関銃、手榴弾、迫撃砲をもって城壁上より攻撃の暴挙に出で、わが軍も遂に応戦火蓋を切った。
 城内の支那軍は続々廣安門に増援しつつあり、支那軍の射ち出す迫撃砲の音は殷々と城内に轟き同八時半に至り二十九軍は遂に城壁上より山砲の乱射をはじめ、わが部隊には死傷相当ある見込み。【註】北平の城門は二重になっている。二十九軍は外門廣部部隊の一部を入れ内門を閉ざして四方の城壁の上から乱射したもので、内門外門の間には約三町四方の空地がある。

宋哲元に期限付最後通牒
【天津都特電二十六日発】支那駐屯軍二十六日午後三時半発表
 七月八日盧溝橋事件以来、支那駐屯軍は不拡大、現地解決の方針の下に第二十九軍と協定を結び、支那軍隊の数回に亘る不法不信行為に、努めて隠忍自重し以て支那側の協定実行を厳重監視せり。然るに支那側は協定の実行に言を託して遷延せるのみならず、遂に二十五日郎坊の支那軍隊は我通信隊掩護の僅少なる部隊を侮り、不法射撃を実施し我軍に損害を与えたり。斯くの如きは支那軍が単に侮日抗日の挑戦的行為たるに留まらず、我軍との協定実行に全然誠意を欠くものと断ぜざるを得ず、茲に於て軍は其の使命に基づき公正なる態度をとり断然支那側の協定実行の誠意を糺し、之が敏速確実の実行を望み、左の如き最後通牒を特務機関長松井大佐をして第二十九軍長宋哲元に本日午後三時半手交せしめたり。
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2007年06月30日

郎坊事件特派員特電

郎坊の激戦

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。また、日本軍を執拗に挑発し、和平を阻害する裏には、ソ連と中国共産党の策謀そしてアメリカの蒋介石援助があることは周知の通りです。
 では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
写真は行進する鯉登(こいと)部隊
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引用開始
【豊台二十六日(七月)発同盟】河邊部隊発表
 二十五日午後十一時頃、通信隊保護のため天津より派遣されたる○○部隊が郎坊駅附近にて通信線を補修中突如第三十八師百十三旅二百二十六団の部隊より射撃を受けたるも部隊長は第三十八師を友軍と見て俄に交戦することなく郎坊駅より慎重敵状を偵察したるも、敵は不法射撃を止めざるのみか駅を包囲するに至ったので遂に二十六日午前零時過ぎ応戦を開始した。
 郎坊には元来第百十三旅第二百十六団の第一及び第二営があるが、我部隊を包囲したる敵部隊の兵力は迫撃砲を用いたる約十七個連で更に宛平より騎兵を有する約三個団、武清県より約一営の部隊が郎坊に向け前進中である。
 我軍は支那側のこの不信行為に極度に憤慨二十六日払暁鉄道輸送により○部隊を郎坊に急派する一方、二十六日朝六時五分爆撃機数台を現地に飛行せしめ爆弾投下を行った。支那軍は我爆撃に仰天退却を開始した模様だが、我部隊は依然郎坊駅によって敵状を監視中である。尚二十五日夜来の戦闘により我部隊は十数名の死傷者を出した。

頭上で砲弾炸裂!鉄兜は飛ぶ 
郎坊二十六日発・朝日特派員・岡部孫四郎

 二十五日午後十一時三十分、郎坊駐屯の張自忠麾下第三十八師の兵約一千名が我が郎坊監視隊五ノ井部隊に不法発砲すとの情報が川岸部隊にあり、続いて二十六日午前一時五分支那兵迫撃砲の砲撃を開始す。次いで同一時十分重傷者三名、一時半六名に増加、遂に二時七分無電不通となる。
 これだけの情報を耳にして郎坊救援に急行の鯉登(こいと)部隊に随伴、先発したのは本社記者二名、写真班二名だけだ。きのうに変わって沿線も殺気を帯びている。朝から勿論列車の運転は休止。
 沿道には警備兵の姿がチラホラと見える「こりゃ大きくなるぞ」ぐっと胸に直感、「今日こそ報道のために身を捧げるのだ」と決意して沿道の彼方此方に目を見張る。
 午前八時列車はまっしぐらに北平平原を突っ走っている。空に爆音が聞える。列車の窓口から顔を出すと真上に飛行機が戦場の方に快翔して行く、と間もなく耳をつんざく迫撃砲の炸裂する音が引っ切りなしに起る。敵か味方か同行の川岸部隊北川参謀が、「我軍の砲撃です」と教えてくれる。あと五分で郎坊だという地点で敵の大砲、迫撃砲、機関銃の弾丸が我等の列車を狙っている。
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posted by 小楠 at 07:51| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の支那事変

2007年06月29日

盧溝橋特派員特電5

狡猾極まる南京政府

 昭和十二年十二月十八日発刊の、「各社特派員決死の筆陣『支那事変戦史』」という本があります。約750ページにもなる分厚い本ですが、昭和十二年七月の盧溝橋事件から十月末の上海事変ころまでの特電を集めたもので、当時の事件が生々しく伝わってきます。では、事件毎に一部を抜き出して引用してみましょう。時は昭和十二年のことです。
巻頭にある写真を掲載しておきます。
平漢戦線負傷兵の後送
tokuden04.JPG

引用開始 
【南京朝日特電七月十五日発】
 南京政府は北支事変以来全く不遜極まる態度をもって望み和平解決を実行するが如き誠意を有していない。即ち政府当局者は公然と非は日本側にありと宣伝し、地方党部及び各機関に命令して計画的民衆運動を煽動し抗日商売の馮玉祥等は二十九軍および旧西北軍系軍隊に対し『抗敵英雄たれ』と歯の浮くような通電を発して得意になっていると云われ、抗日戦線の巨頭孫科は広東行きを中止し、上海にあって人民戦線一派と連絡をとり、政府部内の自重派を圧迫して民衆運動の指導に当って居ると伝えられて居るが、駐支英国大使ヒューゲッセン氏が北戴河より急に南京入りをするに至ったのは、本国政府の訓令によるよりも南京政府の懇望によったもので、飽く迄外国勢力に依存して局面を有利に導かんとする支那流の政策で、外交部当局者はしきりに南京在留の外交官及び外国記者を招致し、勝手な宣伝に躍起となっている。

 某外国人記者などは余り露骨な宣伝振りに呆れて我が大使館に事実を確めに来る始末であり、一方南京政府としては、この機会に地方軍を整理せんとする腹黒い魂胆はいよいよ露骨で新聞を利用して二十九軍将兵慰労義金を募集し英雄扱いをし安価な憂国心をそそって、いやが上にも二十九軍及び韓復軍、山西軍をして日本軍と衝突せしめ、労せずして北支の中央化を図らんとする魂胆である事は明瞭であり、二十九軍その他の北支地方軍の南京弁事処をして常にニュースを放送させているが、この手段を選ばぬ老獪な国内政策に対して外人筋でも不愉快に思って居る。こうした重大時局に際し徒に小策を弄し民衆を欺瞞に陥れる抗日政策は益々時局を急迫に導くものであり、いよいよ和平解決を困難ならしめるものであって、支那を大混乱の渦中に投げ込む責任は南京政府が負うべきであるといわれて居る。
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posted by 小楠 at 07:18| Comment(6) | TrackBack(1) | 書棚の中の支那事変