2007年02月12日

神武天皇の誕生

 前回からの続きになります。このホヲリノ命の孫が神武天皇ということで、今回の古事記のご紹介は、まずここまでとしておきます。
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※鵜葺草葺不合命(うかやふきあへずのみこと)
 こう言う事情で、ワタツミノ神の娘トヨタマビメノ命が自身で出向いて来て、「私はすでに妊娠し、出産の時期になっています。考えて見ると天つ神の御子は海原で生むべきではありません。それで参上いたしました」と申し上げた。
 そこで早速海辺の渚に、鵜の羽で屋根を葺いた産屋を造った。しかしまだ屋根も葺き終わらないうちに産気づいて我慢できなくなったので産殿に入られた。今まさに生まれんとするときに、その夫に申し上げて、「すべて他国の者は出産の時には、もとの国での姿になって産むものです。それで、私も本来の姿で産もうとしています。お願いですから決して私を見ないで下さい」と申し上げた。

 ホヲリノ命はその言葉を不思議に思われて、秘かにお産の始まるところを覗いてご覧になると、八尋もある鰐になって這い回り身をくねらせていた。それを見て驚き恐れて逃げ去られた。それを知ったトヨタマビメ命は恥ずかしいと思われて、御子を産んだまま残して、「私はいつまでも海の道を通ってここに往き来したいと思っていました。けれども私の姿を見られて大変恥ずかしい」と申して、海との境を塞いで帰って行かれた。

 このような訳で、そのお生みになった御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)と言う。しかしその後は、ホヲリノ命が覗き見されたことを恨めしくお思いになりながらも、慕う心に堪えられなくて、その御子を養育申し上げるという理由で、妹の玉依毘売(たまよりびめ)を遣わし歌を献上した。

その歌に、
「赤い玉は、緒までも光るように綺麗ですが、それにもまして、白玉のような貴方のお姿が気高く思われることです。
と歌った。そこで夫の神が答えて、
「鴨の寄り着く島で、私が共寝したいとしい妻のことは忘れないだろう、私の生きている限り」
とお歌いになった。
 そしてヒコホホデミノ命は、高千穂宮に五百八十年間おいでになった。御陵はその高千穂の山の西にある。

 このアマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノ命が、その叔母のタマヨリビメノ命を妻として生んだ御子の名は、五瀬命(いつせのみこと)、次に稲氷命(いなひのみこと)、次に御毛沼命(みけぬのみこと)、次に若御毛沼命(わかみけぬのみこと)、亦の名は豊御毛沼命(とよみけぬのみこと)、亦の名は神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)と言う。
 そしてミケヌノ命は波の上を踏んで常世国にお渡りになり、イナヒノ命は、亡き母の本国のある海原にお入りになった。
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2007年02月11日

海幸彦と山幸彦

さて、いよいよ神武天皇に近づいてきました。丁度今日は紀元節・建国記念の日。そして皆様もよくお聞きになったと思いますが、ここでは海幸彦と、神武天皇の祖父にあたる山幸彦のお話を掲載します。
神話に関しては、本からの贈り物様と杳路庵摘録日乗様の所で楽しいご本が紹介されています。
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 さて、ホデリノ命は海幸彦として、大小さまざまな魚を取り、ホヲリノ命は山幸彦として、大小さまざまの獣をお取りになった。ある時ホヲリノ命が兄のホデリノ命に「それぞれ猟具と漁具を交換して使ってみよう」と言って幾度もお願いになったが許されなかった。しかしやっとのことで取り替えてもらうことができた。
 そこでホヲリノ命は漁具をもって魚釣りをされたが、一匹の魚も釣れず、その上釣針を海で失ってしまわれた
 そこで兄のホデリノ命はその針を求めて「山の獲物も海の獲物も、自分の道具でなくてはだめだ、今はそれぞれの道具を返そう」と言うと、弟のホヲリノ命は答えて「あなたの釣針は、魚を釣ろうとしても一匹も釣れず、とうとう海に失くしてしまいました」と言われた。けれども兄は無理やり返せと責めたてた。そこで弟は着けていた十拳剣を砕いて、五百本の釣針を作って償おうとされたが、兄は受取らず、また千本の釣針を作って償おうとされたが受取らないで、「もとの釣針を返せ」と言った。

 弟が泣き悲しんで海辺におられた時に、塩椎神(しおつちのかみ)が来て、「虚空津日高(そらつひこ[ホヲリノ命を指す])が泣き悲しんでいるのは、どういうわけですか」と尋ねると、「私と兄と釣針を取り替えて、その釣針を失くしてしまったのです。それで釣針を返せと言われるので、沢山の釣針で償おうとしましたが受取ってくれず、『もとの釣針を返せ』と言うので泣き悲しんでいるのです」と仰せられた。

 そこでシオツチノ神が、「私があなたのために良いことを考えましょう」と言って、すぐに竹を隙間なく編んだ籠の小船を造って、その船にホヲリノ命を乗せて、「私がこの船を押し流しましたら、しばらくそのままお進みなさいませ。よい潮路がありましょう。そこでその潮路に乗ってお進みになったならば、魚の鱗のように家を並べて作った宮殿があって、それが綿津見神(わたつみのかみ)の御殿です。その神の宮の御門においでになられましたら、傍らの泉のほとりに神聖な桂の木があるでしょう。そしてその木の上にいらっしゃれば、その海神(わたつみのかみ)の娘があなたのお姿を見て、取り計らってくれるでしょう」と教えた。

 そこで教えの通りに少しお進みになると、全てその言葉の通りであったから、ただちにその桂の木に登っておいでになった。するとワタツミノ神の娘の豊玉比売(とよたまびめ)の侍女が、器を持って水を汲もうとしたとき、泉の水に光がさしていた。ふり仰いで見ると美しい立派な男子がいたので大変不思議に思った。このときホヲリノ命はその侍女の姿を見て、水がほしいと所望なさった。侍女はすぐに水を汲んで器に入れて差し上げた。
 ところが、水を飲まずに、お頚にかけた玉を解いて口に含んで、その器に吐き入れなさった。するとその玉は器にくっついて、侍女は玉を外すことができなかった。それで玉の着いたままの器をトヨタマビメノ命に差し上げた。
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2007年02月10日

天孫の降臨

 今日は古事記の前回からの続きを掲載しておきます。神話でも重要な位置にある、天孫降臨の部分です。
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※道案内の神、猿田毘古神
 さて、日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギノミコト)が天降りなさろうとする時に、道中の多くの道に分かれる辻に、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らす神がいた。
 そこで、天照大御神と高木神の仰せで、天宇受売神(あめのうずめのかみ)に「あなたはか弱い女であるが、向き合った神に気おくれしない神である。そこで、あなた一人で行って、『吾が御子が天降りする道に、どうしてこのように居るのか』と聞いて欲しい」と仰せになった。そこでアメノウズメノ神が問われたことに答えて「私は地上の神で名前は猿田毘古神(さるたひこのかみ)といいます。ここに出ているわけは、天つ神の御子が天降りされると聞きましたゆえ、道案内の役目としてお仕えしようと思って、お迎えに参りました」と申し上げた。

※天孫降臨
 こうして、アメノコヤネの命とフトダマの命、アメノウズメの命、イシコリドメの命、タマノオヤの命、合わせて五つに分かれた部族の長を加えて天降らせになった。その時に、石屋戸からお招きした八尺(やさか)の勾玉・鏡[八咫の鏡(やたのかがみ)]、また草なぎの剣[天叢雲剣]、また常世のオモヒカネの神・タヂカラヲの神・アメノイワトワケの神をもお加えになり、天照大御神は「この鏡はひたすら私の御魂として、私を拝むのと同じように敬ってお祭りしなさい。次に
オモヒカネの神は、私の祭りに関することをとり扱って政をしなさい」と仰せられた。

 この二柱の神(天照大御神と思金神)は、五十鈴の宮に丁重に祭ってある
 次に登由気神(とゆけのかみ)は渡会の外宮に鎮座されている神である。
 次にアメノイワトワケの神、亦の名は櫛石窓神(くしいわまどのかみ)と言い、亦の名は豊石窓神(とよいわまどのかみ)と言う。この神は宮門守護の神である。次にタヂカラヲの神は伊勢の佐那県(さなのあがた)に鎮座しておられる。そして、かのアメノコヤネの命は、中臣連(なかおみのむらぢ)らの祖神であり、フトダマの命は忌部首(いむべのおびと)らの祖神であり、アメノウズメの命は、猿女君(さるめのきみ)らの祖神であり、イシコリドメの命は作鏡連(かがみつくりのむらじ)らの祖神であり、タマノオヤの命は玉祖連(たまのおやのむらじ)らの祖神である。

 さてそこで、天つ神はヒコホノニニギノ命に仰せを賜り、ニニギノ命は高天原の神座をつき離し、天の幾重にもたなびく雲を押し分け、神威で道をかき分けかき分けて、天の浮橋から浮島にお立ちになり、筑紫の日向の高千穂の霊峰に天降りになった。その時、天忍日命(あめのおしひのみこと)と天津久米命(あめのつくめのみこと)の二人が、立派な靫を負い、頭椎の太刀を腰に着け天のはじ弓を手に執り、天の真鹿児矢を手に挟んで、先に立ってお仕え申し上げた。彼らは大伴連(おおとものむらじ)らの祖先と久米直(くめあたい)らの祖先である。
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2007年02月03日

大国主神の国譲り

 また古事記の続きを掲載します。
 いよいよ国譲り神話まで来ました。前回との間にも一つ物語がありますが飛ばして行きます。
 また、国譲りは、出雲側からは国造りをされた方へ奉還する、つまりお返しするという立場だと言うことです。
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※建御雷神(たけみかづちのかみ)と事代主神(ことしろぬしのかみ)
 天照大御神は「今度はどの神を遣わすのがいいでしょうか」と仰せられた。そこでオモイカネの神や諸々の神が、「天の安河の川上の天の石屋におられる、伊都之尾羽張神(いつのおはばりのかみ)という名の神を遣わせばよいでしょう。もしこの神でなければ、その神の子のタケミカズチノヲノ神を遣わすとよいでしょう。またそのアマノオハバリの神は、天の安河の水を逆に塞き上げて、道を塞いでいますので、他の神は行くことができないでしょうから、特に天迦久神(あめのかくのかみ)を遣わして問われたらいいでしょう」と申し上げた。

 そこでアメノカクの神を遣わして、アメノオハバリの神に問われると、「畏まりました。お仕え申し上げましょう。しかし、このお役目には我が子のタケミカヅチの神を遣わすのがいいでしょう」と申し上げて、ただちに差し出した。そして、天鳥船神(あめのとりふねのかみ)をタケミカヅチの神に副えてお遣わしになった。
 そんなわけで、この二柱の神は出雲の国の伊耶佐の小浜に降り着いて、十拳剣(とつかつるぎ)を抜き、逆さに波頭に刺し立て、その剣の切先にあぐらをかいて坐り、オホクニヌシの神に問いかけて、「天照大御神と高木神の命でそなたの意向を聞きに遣わされた者である。そなたの領有する葦原中国は、我が御子の治める国としてご委任になった国である。そなたの考えはどうなのか」と仰せになった。

 これに答えて「私には返事ができません。我が子の八重言代主神(やえことしろぬしのかみ)がお答えするでしょう。しかし、鳥狩や魚取りで、美保の岬へ行って、まだ戻っておりません」と申した。そこで天鳥船神を遣わしてヤエコトシロヌシの神を呼び寄せてお尋ねになったところ、その父の大神に「畏まりました。この国は天つ神の御子に奉りましょう」と言って、ただちに乗ってきた船を踏み傾けて、天の逆手を打って、青葉の柴垣に変えて、隠れてしまった。
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2007年01月31日

古事記、山田のかかし

 前回との間にはいくつかの物語がありますが省略しますので、興味のある方は古事記でお調べ下さい。ここでは、山田の案山子(かかし)が出てきますので、ご紹介しておきます。
 山田のかかしも童謡として歌われていましたから、お馴染みでしょう。
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※少名毘古那神(すくなびこなのかみ)と御諸山(みもろやま)の神
 さて、大国主神が出雲の御大(美保)の御前(みさき)におられる時、波頭から羅摩船(かがみのふね)に乗って、蛾の皮を丸剥ぎに剥いだ着物を着て近づいてくる神があった。そこで、その名前をお尋ねになったけれども答えがなかった。また、お供の諸々の神にお尋ねになっても、みな「知りません」と申した。
 そこで、たにぐく[蝦蟇、ひきがえる]が、「これは、くえびこ[かかしの神名]が知っているはずです」と申したので、すぐにくえびこを呼んでお尋ねになると「これは神産巣日神(かむむすびのかみ)の御子でスクナビコナの神です」とお答え申しあげた。

 そこで大国主神がカムムスビの御祖命(みおやのみこと)にこのことを申し上げると、「これは本当に私の子です。子供の中でも、私の手の指の間から漏れこぼれた子です。そしてお前は、葦原色許男命(あしはらしこをのみこと[大国主の別名])と兄弟となって、その国を造り固めなさい」と仰せられた。そしてそれ以後オオナムヂ(これも大国主の別名)とスクナビコナとの二柱の神が共にこの国を造り固められた。その後は、スクナビコナの神は常世国にお渡りになった。
さて、そのスクナビコナの神であることを顕し申し上げた、いわゆる「くえびこ」は、今でも山田のそほど(かかしの古名)という案山子である。この神は歩くことは出来ないが、ことごとく天下のことを知っている神である。・・・・

※葦原中国の平定
 天照大御神の仰せで、「豊葦原の千秋長五百秋(ちあきながいはあき[長久の意])の水穂の国は、私の子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)の治めるべき国である」と委任されて、高天原からお降しになった。
 オシホミミの命が降りる時、天の浮橋に立って言われるには、「豊葦原の水穂の国は大そう騒がしいようだ」と。そしてまた戻って、天照大御神に指示を仰がれた。
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2007年01月30日

八俣の大蛇と因幡の白兎

 これも有名なお話。子供の頃祖父がよく話してくれました。須佐之男命と言えば一番に思い出すのがこの勇ましいお話です。そしてもう一つ有名なのが、大国主命(おおくにぬしのみこと)の因幡の白兎(しろうさぎ)のお話ですね。これは可愛らしいお話です。因幡の白兎には歌もあります。
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※八俣の大蛇(やまたのおろち)
 こうして高天原を追われた須佐之男命は、出雲の国の肥の河[島根県の斐伊川]上の鳥髪という所にお降りになった。その時、箸がその河に流れてきたので、須佐之男命はその川上に人が住んでいると思われて尋ね探して上って行かれると、老夫(おきな)と老女(おみな)と二人がいて、少女を間において泣いていた。そこで「お前たちは誰だ」とお聞きになると、その老夫が「私は国つ神の大山津見神(おおやまつみのかみ)の子です。私の名は足名椎(あしなづち)といい、妻の名は手名椎(てなづち)といい、娘の名は櫛名田比売(くしなだひめ)と言います」と答えた。

 また「お前は何故泣いているのか」とお問いになると、「私の娘はもともと八人おりましたが、この高志[地名]の八俣のをろちが毎年来て娘を食ってしまいました。今それが来る時期となり、それで泣いています」と答えた。それで、「そのをろちはどんな形をしているのか」とお聞きになると、「目は赤かがち[真赤に熟れたほほずき]のようで、一つの体に八つの頭と八つの尾があります。そしてその体には、ひかげのかずらと檜・杉が生え、身の長さは八つの谷、八つの峰に渡っており、その腹を見るとどこもかしこも常に血に爛れております」と申し上げた。

 そこで須佐之男命は老夫に「このお前の娘を私にくれるか」と仰せられると、「恐し(かしこし[恐れながら])、まだお名前を存じませんので」と答えた。それに答えて「私は天照大御神の弟である。そして今、高天原より降ってきたところだ」と仰せられた。そこでアシナヅチとテナヅチの神は「それは恐れ多いことでごさいます。娘を差し上げます」と申し上げた。

 速須佐之男命は早速その娘の姿を爪形の櫛に変えて御みづらに刺して、そのアシナヅチ・テナヅチの神に「お前たち、何度も醸した濃い酒を造り、また垣を作り廻らして、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つの桟敷を作り、その桟敷ごとに酒の桶を置いて、その桶に先ほどの酒を盛って待つように」と仰せられた。
 そして、言われた通りに準備して待っていると、本当に彼らが言った通り八俣のをろちがやって来た。そしてすぐに酒の桶ごとに自分の頭を入れて、その酒を飲んだ。それで、酔っ払ってその場で寝てしまった。この時、速須佐之男命は、身につけておられた十拳剣を抜き、その蛇をずたずたに斬ってしまわれたので、肥の河は血となって流れた。

そしてその中ほどの尾を斬られた時、御刀の刃がかけた。そこで不審に思われて、刀の先でその尾を割いてご覧になると、すばらしい太刀があった。その太刀を取って、不思議な物だとお思いになり、天照大御神に申し上げて献上された。これが草薙(くさなぎ)の太刀である。(★皇室の「国史」白鳥庫吉著ではこの剣は「天叢雲剣」『あめのむらくものつるぎ』となっています。)

 こうして、速須佐之男命は宮を造るべき所を出雲の国に求められた。そして須賀の地に到り、「私はここに来てすがすがしい心だ」と仰せられて、そこに宮を造ってお住みになった。それでその地を今も須賀と呼んでいる。この大神が初めて須賀の宮をお造りになった時、そこから雲が立ち上ったので、御歌をお詠みになった。その歌は、
 「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」
と言う。
 そこで、アシナヅチの神を呼んで、「お前をわが宮の首長に任じよう」と告げられた、また名を与えて稲田宮主須賀之八耳神と名づけられた。
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2007年01月29日

古事記、天の石屋戸

 ここにはまた神の名が多く出てきますが、続きを考えて、必要な神だけのご紹介に止めます。つづいて有名な天の岩戸のお話となります。
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※神の誓約(うけひ『正邪吉凶などの判断』)生み
 そこで天照大御神が仰せられるには、「では、お前の心の清く明らかなことはどうすれば判るのか」と問われた。それで速須佐之男命が答えて「それぞれ誓約して子を産みましょう」と申し上げた。こうして各々天の安河を中にはさんで誓約する時に、天照大御神が先ず、建速(たけはや)須佐之男命が帯びている十拳剣(とつかつるぎ)を受け取り、これを三つに折り玉の触れ合う音とともに天の真名井(まない『神聖な泉』)に振り濯(すす)いで、何度も噛み砕いて噴出す息の霧から成った神の御名は、・・・・
の三柱。

 速須佐之男命は、天照大御神の左の御みづらに巻かれた長い、多くの勾玉を通した珠を受け取って、玉の音とともに天の真名井に振り濯いで、何度も噛み砕いて噴出す息の霧から成った神の御名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)。また右の御みづらに巻かれた珠を受け取って、何度も噛み砕いて噴出す息の霧から成った神の御名は、天之菩卑能命(あまのほひののみこと)である。
・・・・あわせて五柱。

 そこで天照大御神が速須佐之男命に、「この後に生まれた五柱の男子は、自分の持ち物から成ったのであるから、当然我が子である。先に生まれた三柱の女子は、お前の持ち物から成ったのであるから、彼女らはお前の子である」と区別を告げられた。・・・・・
 先に生まれた三柱の神は、宗像君(むなかたのきみ)等があがめ祭っている三座の大神である。

※天の石屋戸(いわやど)
 この時、速須佐之男命が天照大御神に申すには、「私の心が清く明らかな故に、生んだ子はやさしい女の子でした。この証拠にもとづけば私の勝です」と言い、勝に乗じて天照大御神の営田(つくだ『耕作する田』)の畔を壊し、その溝を埋め、また天照大御神が新嘗祭の新穀を召し上がる神殿に、糞を撒き散らした。
 須佐之男命がそのようなことをしても、天照大御神はとがめたてせず、「糞のように見えるのは、我が弟の命が酔っ払って吐き散らしたものであろう。また田の畔を壊し、溝を埋めたのは、我が弟が、土地がもったいないと思ってしたことであろう」と言われたけれども、悪行は止まずますますひどくなった。
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2007年01月27日

天照大御神と須佐之男命

 ここは神の名がつづいて出てきますが、その中の何神かをご紹介するに止めます。
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※神の神生み
 伊邪那岐、伊邪那美の二神は国を生み終わって、更に神をお生みになった。その神の名は、・・・・・・・次に海の神、名は大綿津見神(おほわたつみのかみ)を生み、・・・・次に風の神、名は志那都比古神(しなつひこのかみ)を生み、次に木の神、名は久久能智神(くくのちのかみ)を生み、次に山の神、名は大山津見神(おおやまつみのかみ)を生み、次に野の神、名は鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)を生んだ。亦の名は野椎神(のずちのかみ)と言う。・・・・・
次に火之夜芸速男神(ひのやぎはやをのかみ)を生んだ。亦の名は火之拡堙ソタ(ひのかがびこのかみ)と言い、亦の名は火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)と言う。この子を生んだために、陰部が焼けて病に臥せた。・・・・

 こうして邪那美神は,火の神を生んだために遂にお亡くなりになった。
伊邪那岐・伊邪那美の二神が共に生んだ島は十四島、神は三十五神。 
そして伊邪那岐命は、伊邪那美が亡くなる原因となった子、迦具土神(かぐつちのかみ)の頚を十拳剣(とつかつるぎ)で斬られた。・・・・・


※黄泉の国、(概略で飛ばします)
 そこで伊邪那岐命は、女神の伊邪那美命に会いたいと後を追って黄泉の国へ行かれた。そして現世に帰ってくれるよう頼みます。
 すでに黄泉の国の食べ物を食べてしまった伊邪那美命は、それでも黄泉の国の神と相談してみますと答え、その間自分の姿を見てはいけませんと言います。
 その間が大変長いので、男神が覗いてみると、女神の身体には蛆がたかり、ゴロゴロと鳴って、頭には大雷(おおいかずち)がおり、・・・・・・
 これを見て伊邪那岐命が驚いて恐れ逃げて帰られるとき、伊邪那美命は「私によくも恥をかかせた」と言って、ただちに黄泉の国の醜女(しこめ)を遣わせて追いかけさせた。・・・・・・

 最後に、女神の伊邪那美命自身が追いかけて来た。そこで男神は、巨大な千引きの岩をその黄泉比良坂(よもつひらさか)に引き据えて、その岩を間にはさんで二神が向き合って、夫婦離別のことばを交わすとき、
 伊邪那美命が申すには「いとしいわが夫の君が、こんなことをなさるなら、私はあなたの国の人々を一日に千人絞め殺しましょう」と申した。すると伊邪那岐命が言われるには「いとおしいわが妻の命よ、あなたがそうするなら、私は一日に千五百の産屋を建てるだろう」と言われた。こういうわけで、一日に必ず千人の人が死ぬ一方、一日に必ず千五百人の人が生まれるのである。・・・・・
 そして、かのいわゆる黄泉比良坂は、今の出雲国の伊賦夜坂という坂である。

※禊祓(みそぎはらへ)と三貴子
 伊邪那岐命は言われるには「吾はなんといういやな穢らわしい国に行ってきたことだろう。そうだ、私は体を清めよう」と言われて、筑紫の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)に到って、禊(みそ)ぎ祓えをされた。・・・・・・

 ここに左の御目を洗われた時に成り出た神の名は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)。次に右の御目を洗われた時に成り出た神の名は、月読命(つきよみのみこと)。次に御鼻を洗われた時に成り出た神の名は、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)。・・・・・
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2007年01月26日

古事記、天地の初め

 古事記成立の直接の動機は、天武天皇が稗田阿礼(ひえだのあれ)に勅語して、帝皇の日継(ひつぎ)と先代の旧辞をくり返し誦(よ)み習わせられたことですが、天武天皇が崩御されたためその計画は実行されなかった。しかし、天武天皇の御遺志は皇后であった持統天皇に受け継がれ、さらに天武天皇の崩御後二十五年を経て、天武天皇の姪にあたる元明天皇に受け継がれて、太安万侶の手で記され、和銅五年(712年)に献上されました。
 今回は、古事記の中からかいつまんでその物語をご紹介してみます。
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参考書は、講談社学術文庫の古事記です。

※天地(あめつち)の初め
 天地(あめつち)が初めて発(ひら)けた時、高天原に成った神の名は、天之御中主神(あまのみなかぬしのかみ)、次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、次に神産巣日(かむむすひのかみ)である。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)として成り、その身(姿形)を隠されて[姿を現さない]いた。

 次に国がまだ稚(わか)く、脂の浮いたような状態で、海月(くらげ)のように漂っている時、葦牙(あしかび)のように萌え騰(あが)る物から成った神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)、次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)である。この二柱の神もみな独神で身を隠されていた。
 上(かみ)の件(くだり)の五柱の神は別[・・特別]な天(あま)つ神である。
 次に成った神の名は、国之常立神(くにのとこたちのかみ)、次に豊雲野神(とよくもののかみ)である。この二柱の神も独神として成り身を隠されていた。

 次に成られた神の名は、宇比地邇神(うひぢにのかみ)、次に妹須比智邇神(女神のすひぢにのかみ)である。
 次に角杙神(つのぐひのかみ)、次に妹活杙神(女神のいくぐひのかみ)である。
 次に意富斗能地神(おほとのぢのかみ)、次に妹大斗乃弁神(女神のおほとのべのかみ)、次に於母陀流神(おもだるのかみ)、次に妹阿夜訶志古泥神(女神のあやかしこねのかみ)である。次に伊邪那岐神(いざなきのかみ)、次に妹伊邪那美神(いざなみのかみ)である。
 上の件の国之常立神より以下、伊邪那美神より前を、併せて神世七代と称(い)う。
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