2006年08月26日

英国貴族の見た明治2

「ミットフォード日本日記」より
 維新の動乱期を外国人の目でじかに見、そして今回、日露戦争に勝利した日本を再びその目で見たA・B・ミットフォードの日本評を抜粋して見ましょう。
引用開始
【徳川慶喜公との再会】
 1906年2月21日、・・・・午前9時30分に何人かの日本の貴族が殿下の訪問客として見えることになっていたので、それまでにたくさんの用事を片づけなければならなかった。
 訪問客の中でも最も著名な人物は前将軍徳川慶喜公爵であった。・・・・この偉大なる人物は静岡の城に隠棲し、以前の家臣のために茶の製造事業を興すかたわら、自分は野外でのスポーツや漢詩を作るのを趣味とした。
 彼が失脚する寸前、三十歳の時の彼を覚えているが、徳川公爵は私が今まで会った人物の中でも際立って立派で上品な風貌を備えた人であった。しかも、それだけではなかった。彼は極めて人好きのする優雅な態度と魅力的な物腰を備えていた。背は高くなかったが、非常に均整がとれていた。顔立ちは彫りが深く、口も歯も非の打ちどころがなかった。顔色は明るいオリーブ色で、その手も脚も彫刻家のモデルにしたいほど優美であった。彼がほほえむと、顔全体が明るくなった。年をとった現在でも、彼の立派な外見はほとんど変わらず、その魅力はすべてそのまま残っていた。
・・・略・・・
 数日後、アーサー殿下の昼食会に招かれた彼と再び会ったので、その時かなり長い話をした。私の名前が変わったので、最初、彼は私が誰だか分からなかったようであったが、説明すると私のことを思い出して、極めて打ち解けた態度で話を始めた。「あなたと大坂で会った時から思うと、世の中は随分変わりましたね」というのが彼の最初の言葉であった。本当に大きく変わったものだ。
 最後に彼を見た時のことを覚えている。それは伏見の戦いの後で、戦いに敗れた将軍が、大坂へ馬に乗って戻ってくるところであった。彼は護衛の武士たちに囲まれて、兜をかぶり、面頬をつけ、日本の古式豊かな鎧を着て、軍勢の先頭に立っていた。それは決して忘れることの出来ない絵のような光景であったが、その日は歴史の上で運命の分かれ道となった日であったのである。

【京都再訪】
 1906年3月8日、神戸上陸の前に、我々一同は片岡提督に別れを告げに行った。提督の艦隊は日本水域を航行中の殿下に対し、かくも堂々と名誉の護衛を務めたのだ。・・・・神戸に上陸すると、十隻を下らぬ軍艦が放つ告別の礼砲が周囲の山々にこだました。
 岸壁での殿下の歓迎ぶりは、よそと同じような熱狂的な歓迎であった。私が1868年、維新当時、そこに最初に上陸した時、神戸は、兵庫の郊外にある荒れ果てた土地が広がった地域で、小屋一つなかった所だが、この数十年の間に文字通り無一物から、およそ二十七万の人口を有する第一級の重要な都市に成長した。・・・略・・・現在、神戸は輪出入貿易のお陰で日本でも第一級の港になっている。
・・・略・・・
 神戸から京都までは大した距離ではなかった。・・・略・・・
 駅から京都の市内を通って馬車を進めると、歓迎の声が今までよりもさらにひときわ高くあがった。私は黒木大将と京都府知事と一緒に馬車に乗っていた。歓声が最高潮に達した時、知事は私にこう言った。
 「あなたは、この歓声が単なる意味のない叫びと思ってはいけません。あなたが巡遊されているこの国中のすべての学校で、すべての子供たちが、どんなに小さい子供でも、日本へきたこの使節団の意味を十分に教えられているのです。子供たちは皆、それが天皇陛下に最高の敬意を表するため、甥御の殿下を使節として送られた英国国王をたたえるためだということを存じております。それだけでなく、日英同盟の大切なことも教えられております。ですから、何も分からずに喝采しているのではなく、心からの歓迎をしているのです」
・・・・略・・・
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2006年08月25日

英国貴族の見た明治1

「ミットフォード日本日記」
 原書名は「The Garter Mission to Japan」(ガーター勲章使節団日本訪問記)で、使節団の主席随員であったリーズデイル卿、本名アルジャーノン・バートラム・フリーマン・ミットフォードの日本滞在中の記録です。
 ガーター勲章は英国の勲章の中でも最も古く、最も位の高い勲章ということです。
 この使節団は英国国王エドワード七世から明治天皇へガーター勲章を捧呈するため、国王の弟コンノート公の第一王子アーサー殿下を御名代として1906年(明治三十九年)2月に派遣されました。
 ミットフォードは幕末から維新にかけての1866年(慶応二年)10月から1870年(明治二年)1月まで、英国公使館の書記官としてパークス公使の下で、同僚のアーネスト・サトウとともに勤務し、外務省辞職後の1873年にアメリカへ旅行したおりに、サンフランシスコから日本へ二度目の訪問をします。そしてこの使節団の随員として約33年ぶり三度目の来日となります。
 維新の動乱期を外国人の目でじかに見、そして今回、日露戦争に勝利した日本を再びその目で見たA・B・ミットフォードの日本評を抜粋して見ましょう。
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引用開始
【横浜到着】
 1906年(明治三十九年)二月十九日の早暁、・・・十一隻の大きな軍艦が殿下を歓迎する礼砲を鳴らし、軍楽隊がゴッド・セイヴ・ザ・キング(英国国歌)を奏した。松の木の生い茂る箱根の山々が遠くに望まれ、それは私の記憶の通りに美しかったが、一番素晴らしかった光景は、雪を被って朝日に輝く、比類なく美しい富士山が、その優美な曲線を損なう一点の雲もなく、神秘的な円錐形を見せて、天高くそびえている姿であった。
 それは、この山の女神である「木花開耶姫」(このはなさくやひめ)が古き時代の日本の精神に則って、日本の友人であり、同盟者である国王エドワード七世の使者を歓迎しようと、その優美な姿で立ち迎えてくれたのかと思わせるようであった。
・・・略・・・
 錨を下ろすと同時に、駐日英国大使サー・マクドナルドが、殿下の日本滞在中、その接待の役を務める何人かの著名な日本の政府高官と一緒に乗船してきた。その中でもとくに著名な人物は黒木大将と東郷(平八郎)提督であったが、彼らの偉業は世界中に鳴り響いていたのである
 我々が彼らと初めて会見した時、少なからず興奮していたことは想像できると思われる。
 東郷提督は静かな口数の少ない人で、どちらかといえば物憂げな表情をしていたが、きげんの良い時には極めて優しい微笑を浮かべることがあった。彼の表情は優しく穏やかで、話しかけられていない時は、時折、瞑想に耽っているらしく、ほとんどいつもじっと地面を見つめて、頭を少し右へかしげていた。
 これと反対に黒木大将は、日焼けしたがっしりした体格で、まるでオリンピック競技の選手のように鍛錬された、典型的な軍人タイプであった。彼はいつも陽気で、愛想がよくどっしりとしていて、物事の良い面を見ようとする人物であった。
 この二人ほど一目見た時、対照的な人物はないだろう。しかし、二人には共通した特色があった。
 彼らの謙遜と自制心は、まさに人々の心をとらえるものがあった。彼らが話すのを聞いて、本当に彼らが日本の歴史の上ばかりでなく、世界の歴史に残るような立派な役割を果たした人物だとは信じられないだろう。
 両者ともに、誇らしげな様子は全く見られなかった。ここに私がとくに強調しておきたいのは、私の日本滞在中にいろいろな種類の多くの日本人と話をしたが、さきの日露戦争の輝かしい勝利を自慢するかのような発言を、一度も耳にしなかったことである。
 戦争に導かれた状況と戦争そのものおよびその結果について、全く自慢をせずに落ち着いて冷静に話をするのが、新しい日本の人々の目立った特徴であり、それは全世界の人々の模範となるものであった。このような謙譲の精神をもって、かかる偉大な勝利が受け入れられたことはいまだにその例を見ない。・・・略・・・
 かくて我々の長い航海も終わり、まさに天皇日和ともいうべき天気に恵まれて、我々はお伽の国への第一歩を踏み出したのである。
・・・略・・・
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2006年08月24日

大正日本の印象記

 植物学者モーリッシュの「大正ニッポン観察記」をご紹介します。このような種類の明治期の本は数多く出ているのですが、大正期のは時代自体が短かかったためなのか割と少ないように思います。
 著者のハンス・モーリッシュ(1856〜1937)は世界的によく知られたオーストリア帝国出身のドイツ人植物学者で、1922年9月から25年3月まで、東北帝国大学の招聘に応じて仙台に赴任し、当時新設されたばかりの生物学教室で植物生理学及び解剖学を講義しました。
 有名な植物学者、牧野富太郎や細菌学の北里柴三郎博士などとの出会いも書かれていたり、一般的日本人の日常の観察が大変興味深い書物です。
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引用開始
【日本の大学】
 学生はみな、所属する学部のちがいにかかわりなく、紺色の洋風仕立ての制服を着て、同じ紺色のお皿のような形の帽子をかぶる。そして革靴か、木でできた日本独特のスリッパ(下駄)をはいている。
 学生たちとはおしなべてとてもよい経験をした。彼らは謙虚で礼儀正しく、勤勉でなかなかインテリジェンスもあり、なかにはたいへん才能に恵まれた者もいる。・・・・残念なことに眼鏡をかけている学生が多い。本当に近視で眼鏡をかけている者もいるが、なかにはインテリ・学者をよそおうために近視のふりをしている者もいることはたしかだ。こんなに近視が多いのも不思議ではない。なにしろ小学校のときから、あの小さな込み入った文字を読み書きすることで、目はたっぷり酷使されるのだから。
・・・略・・・
 日本で生活していると、いろいろな機会に贈り物をもらうことが多くなる。外国人教授も例外ではない。どこへ顔を出しても(客として招かれたときも、施設を訪ねたときも、あるいは学会で講演を行ったときも)かならず贈り物をもらったものである。
 学生が遠慮がちに私の研究室の戸をたたき中に入り、帰るきわになって、さもほんのついでであるかのように、私にほんの小さなつまらないプレゼントを贈ることを許してもらいたいと言うのである。その中身はたとえば、故郷の絵葉書、きれいな漆の箱、日本人形、風呂敷、写真、かわいらしい日本刀の模型、もぎたての柿の入った小箱、有名な魚の薫製などである。
 はじめはこういったものを受取るのに、何とはなしにばつの悪さを感じたものだ。というのも、大学教授たるもの学生からプレゼントをもらうなど、西洋の風習に反することであるし、学生にしてもそのような贈り物をすることは、「人気取り」と見られてしまうからである。しかし日本では別の考え方をする。つまり人々がたがいに贈り物を贈ったり贈られたりすることは、感謝の気持ちのあらわれなのである
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2006年06月24日

公使夫人の日露戦日記4

「ベルギー公使夫人の明治日記」エリアノーラ・メアリー・ダヌタン著
 今回は、1893年[明治二十六年]10月2日から始まるこの日記の中から、日露戦争当時の部分を抜粋して掲載しています。
 日露戦争に関する日記引用の最後に、ここをお読みの皆様に、アルベール・ダヌタン男爵が臨終に際して、自分の死後の未亡人の生活を心配して、天皇皇后両陛下に宛てて次のような、涙なしには読めない遺奏書を作成して、御慈悲を奏請したことが、明治天皇記第十二に記されていますので、掲載しておきます。
 「陛下、皇后陛下
 余は日本国に幾多の年月を経過したる後、今や全く資産を有せざる余が寡婦を残して瞑目す。願わくは両陛下、余が寡婦の為に慈悲の御心を垂れ給わんことを
 ダヌタン男爵夫人は余と等しく常に両陛下に対し深厚なる敬意を以って満たされたり。余等は実に日本国を余等の第二の本国として思量せり。茲に余は両陛下並に皇統の幸福を祈り、併て上帝の日本国を加護あらんことを懇祷す。余は最早僅に手に筆を執り得る迄衰弱したり。
                    男爵 アルベール・ダヌタン」
 言うまでも無く、両陛下はこれにお応えになり、夫人をお召しになって、皇后陛下より相応の大金が直接手渡されました。

 引用開始
 1905年[明治三十八年]6月7日
 私たちはバークレイ家で夕食をした。バケナム大佐が戻ってきたという話をそこで聞いた。バケナム大佐は英国公使館付海軍武官で、彼とジャクスン大佐の二人だけが、戦艦に同乗して大海戦を目撃することを許された海軍武官であった
 彼は朝日に乗艦し、他の士官と共に艦橋で観戦した。何の遮蔽物もない艦橋を降りて、安全な司令塔にいて下さいと何度も言われたが、彼はどうしても艦橋に留まると言い張って、戦闘の間ずっと記録をとり続けた。・・・略・・・
 日本軍は悪魔のごとく戦い、その砲撃は百発百中だったが、ロシア艦隊の砲撃は全くでたらめだった。・・・略・・・

 1905年[明治三十八年]10月13日
 (注:この年の八月十二日に調印された第二回日英同盟協約を記念して日本を表敬訪問するため、ノーエル提督率いる英国シナ艦隊が十月十一日横浜に入港した。)
 祝賀の行事は昨日の繰返しであった。日比谷公園で芸者がビールを無料で接待したため、思慮の足りないこの行為の結果として、その日あとになって見られた光景は決してその場にふさわしいものではなかった。
 しかし、英国の水兵と日本の水兵が一言も言葉が分からないのに、お互いに肩を組んで、楽しそうに歩き回っている姿は見ていて面白かった。どこの店でも「勇敢な同盟国兵士に値引き販売」と書いた貼紙を掲示していた。

 1905年[明治三十八年]10月22日
 東郷提督が東京へ帰ってきた。首都東京へ戻る前に、提督は日本国中で一番神聖な場所、すなわち伊勢神宮へお参りして、輝かしい勝利を達成できたことに対して敬虔なる感謝を捧げた。この英雄の凱旋を歓迎して、おびただしい数の群集が集まり、すばらしい装飾が飾り付けられた。
 新橋駅の前に焼き石膏で作られた巨大な凱旋門が建てられた。私たちは駅まで馬車を走らせて、数枚の写真を写した。私は今までにこれほど大勢の人々が集まったのを見たことがない。彼らは最高に熱狂し、割れるような歓声を上げていたが、それにもかかわらずみんな実に秩序整然としていた。
 東郷提督は駅から馬車で市街を通って皇居に向かうとき、その歓迎ぶりに控え目ながら喜んでいる様子だった。
 私は翌日の観艦式を参観するため、急行で横浜へ向かった。そしてホーキンズ夫妻の家に泊まった。あらゆる場所に無数の群集が群がり、駅を通り抜けることさえ難しいほどだった。横浜の市街は様々な旗や色とりどりの提灯で美しく飾りつけられていた。確かに日本人は装飾技術において他を抜きん出ている。あらゆるものが実に綺麗に出来ていて色彩豊かである。
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2006年06月23日

公使夫人の日露戦日記3

「ベルギー公使夫人の明治日記」エリアノーラ・メアリー・ダヌタン著
 今回は、1893年[明治二十六年]10月2日から始まるこの日記の中から、日露戦争当時の部分を抜粋して掲載しています。

 引用開始
 1904年[明治三十七年]12月30日
 ボナー夫人と一緒に、東郷平八郎提督と上村彦之丞提督の凱旋の模様を見ようと駅まで行った。二人の良い写真を数枚撮ることができた。群集が大勢つめかけており、日本の名誉と偉大さを守るために多大な貢献をしたこの二人の英雄を迎えて、大変な熱狂ぶりを呈し、盛大な歓迎が行われた。

 1905年[明治三十八年]1月2日
 朝の十時半頃、旅順が新たに最後の攻撃を受けて陥落したという大ニュースが日本の新聞の号外として出た。
 乃木将軍はそれを誇りにして当然である。彼は戦争が生み出した最高の人物であるとの世評が高い。遂に日本が多大の生命を犠牲にした目的が達成されたのである。「旅順の要塞は防御の状態におかれているが、それは難攻不落の要塞としてロシアのために役立つ準備が整っている」と豪語したアレクセ―エフの自慢話は一体どうなったのだろう。

 1905年[明治三十八年]1月4日
 ・・・略・・・
 降伏の条件はロシア軍にとってこの上ない好条件である。将校は、戦争が続いている間、日本軍と二度と戦わないという誓約をすれば帰国できるが、もし宣誓しなければ捕虜として残ることになる。一般の兵卒はいずれにせよ捕虜として収容される。

 1905年[明治三十八年]1月25日
 ロシアにおける事態は日に日に深刻になってきている。宮殿の前に集まった大勢の暴徒が、警官隊によって射撃された。新聞によると二千人の人が殺されたということである。皇帝と皇后はペテルブルグを離れ、まさに完全な革命の状況を呈している。現地では新聞は一つも発行されていない。
 私たちが東京の慈善事業および戦争義捐金のために上演した芝居「最後のママ」は、熱狂的な観衆で満員の盛況となり、非常な成功を収めた。
・・・略・・・
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2006年06月22日

公使夫人の日露戦日記2

「ベルギー公使夫人の明治日記」エリアノーラ・メアリー・ダヌタン著
 

 今回は、1893年[明治二十六年]10月2日から始まるこの日記の中から、日露戦争当時の部分を抜粋して掲載しています。

 引用開始
 1904年[明治三十七年]2月24日
 私は赤十字社の婦人支部の会員として登録されることになった。私は日清戦争の後でメダルを授与されて、既に赤十字社の会員になっている。
 赤十字病院へ行って、三、四時間包帯巻きの奉仕をする。三宮男爵夫人と鍋島侯爵夫人が、作業の監督としてきていた。伏見宮妃殿下もお見えになっていた。全部で三十人以上の婦人がきていたが、私だけが唯一の西洋人であった。
 それは非常に興味深い仕事で、作業は極めて整然と運営されていた。これからできるだけ頻繁に通うことになるだろう。私は自宅でも負傷者のために頭巾その他のものを作るのに忙しい。
 青木子爵夫人とその令嬢がお茶にきた。彼らは私に赤十字社の芝居に出演してほしいと言う。

 1904年[明治三十七年]3月10日
 日本は再び海戦で勝利を挙げて、ロシアの水雷艇一隻を撃破した。日本軍はこの戦いで極めて義侠的な振舞いをした。ロシアの水雷艇が沈没し始めたのを見ると、彼らはひどく荒れた海に二度も乗り出してロシアの将兵の救助に努めたのである。最後に水雷艇が波の下に消えようとしたとき、日本軍は沈んでゆく艇に掲げられた国旗を救おうと再び舟を出して、艇がまさに視界から消える寸前に旗をとり外した。

 1904年[明治三十七年]3月28日
 日本軍が旅順港に七隻の輸送船を沈めて、二度目の閉塞作戦を行ったという話を聞いた。完全な成功とは言えないが、決定的な障害となるだろう。
 いつものようにその行動は全く勇敢そのものであった。雄々しく気高い廣瀬少佐は、無事船から降りたあと、一人の水兵を救いに再び船に戻った。彼が沈みつつある輸送船からボートに乗り移った瞬間、飛来した砲弾で戦死したのである。日本軍は沿岸での小規模な戦闘で勝利を得た。これは陸地における最初の戦いであった。

 1904年[明治三十七年]5月2日
 鴨緑江の渡河作戦に日本軍が成功したニュースの詳報が入ってきた。それは熾烈な戦いで、日本軍は八百名を失ったが、ロシア軍の死傷者は三千名近くで、結果として日本軍の完全な勝利となった。
 日本軍は三十名の将校と多数の兵を捕虜にし、二十八門の大砲を捕獲して、七箇所の要塞を破壊した。以上は昨日すなわち一日に起きたことだが、日本軍が河の二箇所に別々に橋を架けて激しい戦闘の下に実際に鴨緑江を渡ったのは4月30日であった。
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2006年06月21日

公使夫人の日露戦日記1

「ベルギー公使夫人の明治日記」エリアノーラ・メアリー・ダヌタン著
 著者は、ベルギー王国弁理公使として東京に着任した夫のアルベール・ダヌタン男爵と共に1893年[明治二十六年]10月2日来日しました。
 翌年アルベールは特命全権公使に叙せられ、在任中、東京の外交団首席を七年間務められ、1910年[明治四十三年]、東京で逝去されました。
 夫人は英国人として生まれ、夫君と同じく、わが邦の国民を完全に正確に評価しておられ、国民もまたご夫妻に親愛の情を抱いていた。
 ここでは、沢山の日記の中から日露戦争の頃に夫人が書かれた日記を何回かに分けて抜粋してみようと思います。
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 引用開始
 1903年[明治三十六年]10月9日
 日本とロシアは開戦前夜の状態にある。どうすればそれを回避できるのか判断することは難しい。ロシアは今までの約束にもかかわらず、満州の占領を諦めようとする気配がない。・・・略・・・日本はかなり喧嘩腰でひどく憤慨している。ロシアは日本がはったりをかけていると思っているが、彼らはそのことを思い違いしている。日本がこの上なく真剣だということは一点の疑いもない。

 1904年[明治三十七年]2月6日
 久しく戦争の暗雲をはらんで、今か今かと懸念されていた危機が遂に現実のものとなった。今日アルベール(夫のベルギー公使)がローゼン男爵(ロシア公使)に会いに行くと、彼は外務省から戻ったばかりだったが、外務大臣の小村男爵が、日本政府はロシア駐在公使の栗野慎一郎氏をペテルブルグから召還する予定だとローゼン男爵に通告したそうだ。それと同時に小村男爵は、ローゼン男爵とロシア公使館の館員一同に、できるだけ速やかに日本を離れるように要請したという。ローゼン男爵はアルベールに落着いた口調でこう話した「これは当然の帰結ですな」。
 アルベールは可哀そうな男爵夫人をちらりと見かけたが、彼女の顔には悲歎の色が浮かんでいた。アルベールはすぐに公使館へ戻って、本国政府に「日本はロシアと国交を断絶した」という趣旨の電報を打った。・・・略・・・

 1904年[明治三十七年]2月7日
 昼食のあと、私たち二人でローゼン男爵夫人に会いに行った。彼女は思ったより落着いていた。彼女はこの戦争は、三年は続く必死の戦いになるだろうと言った。・・・略・・・彼女は一所懸命に自制していたが、私には彼女がとても悲しんでいるのが分かった。 一方クダチェフ公女(ロシア公使館一等書記官クダチェフ公爵の妹)のほうは、彼女が私にちょっとした頼み事をしてからお互いにお別れを言って抱き合ったとき、気の毒な公女の頬を涙が流れ落ちた。私たちは彼女とその兄が大変好きだったし、二人とも大の日本びいきだったので、彼らを本当に可哀そうだと思った。
・・・略・・・
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2006年06月09日

日本人とイギリス人

「東京に暮す」1928〜1936,キャサリン・サムソン著
 キャサリン・サムソン夫人は1883年イギリス生まれで、外交官の夫と1928年(昭和三年)から39年9月(昭和14年)まで東京で暮しました。その間日本の社会、文化、慣習の研究にも精を出し、日本人と一緒のバスに乗り、わざわざ二等の列車に乗り、旅先では日本人と一緒に温泉に浸かり盆踊りの輪に加わったりしています。
 この本の中から、“日本人とイギリス人”という章の一部を掲載して、昭和初期の日本を見てみましょう。
 この中で「イギリス人はアジアの民族は支配されるべきものだと考えている」との記述がありますが、これが大東亜戦争直前の欧米一般の考えだったこと、ソ連は満州の権益と中国の共産化を目していたことから、人種平等を唱える日本は、白人たちの植民地権益や覇権の障害と考えられたことも判ります。
tokyo.jpg
 引用開始
 日本にしばらく滞在してイギリスに戻った時にまず聞かれるのは「日本人はイギリス人のことをどう思っていますか」ということです。ごく当たり前の質問ですが、答えはそう簡単ではなく、いろいろ考えてしまいます。・・・略・・・
 日本人の暮しや気質について考えれば考えるほど、答えは「日本人はイギリス人のことなどまったく頭にない」というのが正しいのではないかと思えてきます。・・・略・・・
 それから質問者に言っておかなくてはならないのは、イギリス人は日本にいる外国人のほんの一部にすぎないということです。私たちは日本では、イギリス人のAさん、イギリス人のBさんというように大勢の外国人の中の一人として扱われ、概して好意をもって迎えられます。
 ところがイギリスでは、アジアについて何らかの知識を持っている人の大半が、アジアの民族は支配されるべきものだと考えています。ビルマ、香港、上海、セイロン(スリランカ)、マレーシアに住んだことのある人が日本で快適な暮しをしたいと思ったら、それまでの態度や行動様式を改める必要があります。植民地の統治者であることと、政府がその国の人民によって非常に見事に機能している国に外国人として暮らすこととはまったく別のことです。
・・・略・・・
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2006年06月08日

明治日本印象記

「明治日本印象記」アドルフ・フィッシャー著
 副題は「オーストリア人が見た100年前の日本」です。
 アドルフ・フィッシャー(1856〜1914)はオーストリアの東アジア美術史家、東アジア民族研究家、ケルン市東洋美術館館長で、初めての来日は1892年で、1897年に結婚したフィッシャーは、新婚旅行の目的地としても日本を選んでいます。
 明治時代は武士道精神が日本国民の間に行き渡っており、その中で育ってきた国民は、当たり前のことをしていても、当時の世界から見て賞賛されるだけの社会道徳を自然に身につけていたといえます。
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 フィッシャーの日本と日本人感がよく表れている部分を引用してみましょう。
 引用開始
 数世紀にもわたって支配した政権が、突然政治的役割を放棄したこともさることながら、現政権に対抗して旧幕府を守りたてて少しでも戦っていこうと試みる政治勢力が日本に皆無なことはまったく信じ難い。かつての勤皇、佐幕両派は、祖国の繁栄発達ということのみを目標に掲げる一つの党派に融合した。すべての国民がこの理想をあらゆる特権的利益、党派の利益に優先させているわけで、日本はまさに幸福な国である!
 すでにこの点で日本は幸福であり、賞賛に値するのだが、さらにこの国は、ヨーロッパのすべての国から、思想の自由があるという点で羨望されている。
 数ヶ月前、私は日本人の友人と話し合った際、たとえばオーストリアでは数年来、国と教会が闘争しているが、それは教会が学校教育、すなわち国民教育を独占しようとしているからだと述べた。驚いたその日本人は次のように反論した。
 「僧侶は学校でなにを求めようとしているのですか?わが国では仏僧であろうと神主であろうと、聖職者が学校に介入することなどけっして許されませんよ。」
 あわれなヨーロッパ人である私は、これを聞いて勇気をなくし、おずおずとたずねた。
 「それでは宗教教育はどうなっているのですか?」
 「宗教ですって?」そこで彼は次のように続けた。西欧式の考え方によれば、日本ではそもそも宗教の講義は行われず、ただたんなる道徳教育があるだけだ。上級学校ではさらに儒教や古代中国の道徳哲学に関する書物の講読があるものの、それだけで十分だというのだ。
 「あなたはどう思いますか?」彼はさらにつづけた。「あなたは日本では、聖職者の介入がないために、ヨーロッパよりも子供たちが両親に対し、より粗暴な、情けない、敬意を欠くような態度をとったり、国民全体が一層、非行、犯罪に走ると思いますか?」
 わたしは公平に見て、実際に日本人ほど礼儀正しく、上品な民族はなく、西欧人がしきりにビールや火酒を飲み、トランプ遊びにふけるのにひきかえ、日本人にはいささかも粗暴な趣はなく、自然とすべての美に対する愛を育てていると告白せねばなるまい。
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2006年06月06日

勝海舟三男の嫁

「勝海舟の嫁・クララの明治日記」より。
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 あの勝海舟に青い目の六人もの孫がいたことをご存知でしょうか?
 勝海舟の愛人の一人、長崎時代から続いた“おくま”との間には男子が生まれています。名前は梅太郎(後におくまの生家梶家の姓をつぐ)といい海舟の三男として育てられました。明治十九年(1886)、この梅太郎に嫁いだのが、クララ・ホイットニーです。
 日記はクララが十五歳になる明治八年(1875)から始まっていますが、開国間もない日本の姿を生き生きと表していることと、そこに登場し、クララが交際した人物が、当時の超一流人であることに驚きます。勝海舟とその家族は勿論、福沢諭吉、森有礼、大鳥圭介、大山巌、富田鉄之助、新島襄、や、アメリカ公使ビンガム、イギリス公使パークス、ヘボン式ローマ字で有名なドクター・ヘップバン、フェノロサ、グラント将軍などなどです。
 来日のきっかけは、クララの父が、東京に開設した商法学校(商法講習所、一橋大学の前身)の所長兼教師として家族共々赴任してきたことによります。この日記は上下巻とも約600ページにもなります。
 日記は明治二十四年(1891)十二月十一日で終わっています。どのような感じで書かれているかを中の一日分だけ抜き出してみましょう。

引用開始
明治九年(1876年)11月3日
(目次では「明治天皇誕生日と勝家の人々」となっていますが、日記には日付だけです)
 今日はミカド陛下の誕生日で・・・ミカドは二十九歳になられたと思うが、確信はない。・・・私は前に約束したとおり、お逸(注:勝の三女逸子でクララと同い年なので一番の親友)を訪ねた。いつものように早く起き、顔を洗って着替えをし、八時半までには行く準備ができあがった。
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2006年06月05日

オーストリア皇太子日記

「オーストリア皇太子の日本日記」より。
 著者のフェルディナント大公は、1914年、大正三年六月二十四日、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで暗殺され、これを契機にオーストリアはセルビアに宣戦布告して第一次世界大戦が勃発したことはご存知の通りです。その著者が世界一周旅行を綴った世界旅行日記の中で、日本に滞在したときの日記を抜き出したのがこの本です。サラエボ事件の二十一年前、明治二十六年の夏、約一ヶ月間日本に滞在し、長崎から日光あたりまでを見学しています。
ちょっと京都へ行く途中での、安芸の宮島を記した部分を引用してみます。
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引用開始
 きょうまで、日本に来てから提供された宿舎のどれにも驚かされつづけてきたが、ここ宮島の宿舎に比べると、そのどれもが眺望のよさ、調度の独創、立地の魅力という点でずいぶんと見劣りがする。途中、林間の幽谷を抜けていった。
 樹齢幾百年という老樹が枝を差し交わして気持ちの良い樹陰をつくり、渓谷の底には透きとおった細川が流れ、色あざやかな魚たちが元気に泳ぎ回っていた。そして、樹間に岩の台地がそそり立ち、それぞれ別の建築意匠で建てられた小家屋が瀟洒に点在し、一棟一棟が各自にあてがわれた。
 行く道のところどころ、水音のにぎやかな小川がせき止められては小池をなし、その水上にあずまやとベランダが杭に支えられて建っていた。ひと休みできるようにと畳が敷かれ、さらに水音を聞きながらまどろめるようにと、ふかふかの布団も用意されていた。これら気品あふれる建物はそれぞれ優美な小道や、石段や、小橋で結ばれている。また、岩間には、ここにひとつ、そこにひとつ、湧泉からゴボゴボと水が高く噴き出し、舟形に彫られた石のくぼみに流れ落ちていた。その船形の石は、さまざまな水草や蔓草によって、あるいは縁取られ、あるいはからみつかれていた。
・・・略・・・
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2006年05月25日

シドモア日本紀行2

「シドモア日本紀行(明治の人力車ツアー)」より。
 横浜の模様は、山手の外人居住区で、最初に家を建てた人が戸口番号1をつけ次の人が2というように番号を付けたため、数字の順番に関係なく様々な番号が隣り合わせに並んでいることや、弁天通りの骨董品の店、算盤を「滑るボタン付き木枠でカチカチ鳴る計算道具」などと表現しています。
 中国人についてはやはり、「居留地の本通り裏手、病人臭い一画に中国人が住んでいます。脂っこい壁、汚い路面は、水路対岸の優美で人形のように愛らしい住宅街とは異なり大いに当惑します。背後の絶壁の上で、風通しのよい茶屋の桟敷の提灯が揺れています。朱の壁紙、袋のような衣服、辮髪、耳障りな声、嫌な臭いがチャイナ・タウンを支配しています」と批評しています。
続いて横浜近郊での記述を少し

引用開始
 神奈川を過ぎ東海道を上がるとリチャードソン(生麦事件の被害者)の碑があります。彼は1862年9月14日薩摩の大名(島津久光)の行列に遭遇して斬殺されました。
 その日、外国人は東海道に近寄らないように警告されていたにもかかわらず、無鉄砲なブリトン(英国)人たちは、故意に大名行列の中を馬で横切りました。この侮辱が原因で、彼らは家来によって攻撃され重傷を負い、リチャードソンは道端で絶命し、他の仲間は逃走しました。
 行列が通り過ぎたとき、一軒家から若い娘が走り出て死体に茣蓙(ござ)をかけました。さらに夜間自分の家に運んで弔い、友人らが引き取りにくるまで隠しました。
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2006年05月24日

日米友好の桜

「シドモア日本紀行(明治の人力車ツアー)」
 今回より、この本から明治中期頃の米国婦人から見た日本と日本人を引用してご紹介したいと思います。
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 シドモア女史(1856〜1928)はアメリカの首都ワシントンのポトマック河畔に日米友好の桜を植えることに尽力した、米国立地理学協会の初の女性理事で、紀行作家です。
 初めて日本を訪問したのが明治17年(1884)27歳の時でした。その後何度も日本を訪れています。
 日本から3000本の苗木が贈られ、明治45年(1912)3月、ポトマック公園において桜の植樹式が行われ、苗木がタフト大統領夫人と珍田駐米大使夫人によって植えられました。
 今では8000本の桜がポトマック河畔を包み、毎春“ワシントン桜まつり”が盛大に催されるということです。
 第一章では単調で寂しい西回り(サンフランシスコ〜横浜)よりも東回りコースを薦めています。

引用開始
 東洋の万事が西洋世界にとって驚異です。半信半疑になりながらも、この紛れも無い非現実的姿に遭遇すると、全く摩訶不思議な感動に包まれます。とにかく日本のすばらしさを味わうためにアジア大陸の果てへ足を伸ばして、この島国へやってくるべきです。
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2006年05月08日

渡来者の日本評3

 幕末から明治にかけて来日し、滞在した外国人の目で見た日本と日本人の姿は、日本では当たり前のこととして、我々では気づかないようなことを教えてくれます。
『英国人写真家の見た明治日本』ハーバート・G・ポンティング著より
 ポンティングは1901〜02年何度か来日していますが、欧米では、1910年にスコット大佐の第二次南極探検隊に加わり記録写真を撮った写真家として知られています。また彼は日露戦争にも従軍しています。
主に日本の婦人についての部分を中心に取り上げてみましょう。
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引用開始
 「家の中での婦人の演ずる役割について、人々の見解が分かれることはない。彼女は独裁者だが、大変利口な独裁者である。彼女は自分が実際に支配しているように見えないところまで支配しているが、それを極めて巧妙に行っているので、夫は自分が手綱を握っていると思っている。そして、可愛らしい妻が実際にはしっかり方向を定めていて、彼女が導くままに従っているだけなのを知らないのだ」。
★管理者注: そう言えば私にも思い当たる節が(^_^;
・・・略・・・ 
 「プラットホームに立っていると、そこにロシア軍の捕虜を満載した列車が到着した。乗っていた捕虜の全員が戦争から開放された喜びで、大声で叫んだり歌を歌ったりしていた。・・・反対の方向から別の列車が入って来た。それは日本の兵士を満載した列車で、兵士達は前線に行く喜びで同じように歌を歌っていた。
 ロシア兵と日本兵はお互いの姿を見るや否や、どの窓からも五、六人が頭を突き出して、皆で歓呼の声を上げた。ロシア兵も日本兵と同じように懸命に万歳を叫んだ。列車が止まると日本兵は列車から飛び出して、不運?な捕虜のところへ駆け寄り、煙草や持っていたあらゆる食物を惜しみなく分かち与えた。一方ロシア兵は親切な敵兵の手を固く握り締め、その頬にキスしようとする者さえいた。私が今日まで目撃した中でも、最も人間味溢れた感動的な場面であった」。
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2006年05月07日

渡来者の日本評2

 幕末・維新期に来日し滞在した外国人、言葉も文化も異なる人々から見た日本の文化、教育で育った日本人を親しみを持って賞賛しています。
これをご覧になったあなたは、どんな感想を持たれるでしょうか?

『江戸・幕末滞在記』エドゥアルド・スエンソン著
スエンソンはデンマークに生まれ、フランス海軍に入って、1866年横浜に上陸しました。
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引用開始
 「私はかつて、まだ年若い青年が、大名やゴロジョー(御老中)と、同僚や自分と同じ身分の者と話すのと同じ率直で開けっ広げな会話をする場面に居合わせたことがある。青少年に地位と年齢を尊ぶことが教えられる一方、自己の尊厳を主張することも教えられているのである。・・・・
 こうした社会的秩序、ならびに諸階級の間で非情によく発達した独立心は、日本人がなぜ中国人やほかのアジアの民族よりすぐれているかを説明して余りある。後者においては唯一者の意志しか聞かれないし、それに対して自分の意見を述べるような大胆な真似をする者はいない。日本という国は、その構成員がたとえどんなに抑圧されているにしろ、誰であろうと他人にやすやすと屈服するようなことはない。彼らが文句なしに認める唯一のもの、大君から大名、乞食から日雇いに至るまで共通な唯一のもの、それは法である
 「日本の上層階級は下層の人々をたいへん大事に扱う。最下層の召使いが主人に厳しい扱いを受けたなどという例を耳にすることさえ稀である。主人と召使いとの間には通常、友好的で親密な関係が成り立っており、これは西欧自由諸国にあってはまず未知の関係といってよい」

 『絵で見る幕末日本』エメェ・アンペール著より
アンペールはスイス人で、1863年に長崎に上陸しました。
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 「私は、よく長崎や横浜の郊外を歩き回って、農村の人々に招かれ、その庭先に立ち寄って、庭に咲いている花を見せてもらったことがあった。そして、私がそこの花を気に入ったと見ると、彼らは、一番美しいところを切り取って束にし、私に勧めるのである。私がその代わりに金を出そうといくら努力しても、無駄であった。彼らは金を受け取らなかったばかりか、私を家族のいる部屋に連れ込んで、お茶や米で作った饅頭(餅)をご馳走しない限り、私を放免しようとはしなかった」
 「日本人の間に認められる表情の活発さと相貌の多様性は、私の意見では、あらゆる他のアジア民族よりも、より自主的であり、より独創的であり、より自由である知的発育の結果である

『ロングフェロー日本滞在記』チャールズ・アップルトン・ロングフェロー著
ロングフェローはアメリカ人で、1871年、27歳のとき横浜へ到着した。
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2006年05月06日

渡来者の日本評1

 ザビエルの昔から、日本を訪れた外国人たちは、初めて見る日本と日本人を賞賛していました。戦後から現在の教育で言う日本の暗黒史観がいかにでたらめかが解ります。私の手元にある本の中からその一部を抜粋してみます。
引用開始
『ザビエルの見た日本』ピーター・ミルワード著より
ポルトガル人、フランシスコ・ザビエルは1549年に鹿児島に上陸しました。
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 「私がこれまでに会った国民の中で、キリスト教徒にしろ異教徒にしろ、日本人ほど盗みを嫌う者に会った覚えはありません
「大抵の日本人は字が読めるので、私達の教会の祈りもすぐに覚えます」
「日本人はとても気立てがよく、驚くほど理性に従います

『ヨーロッパ文化と日本文化』ルイス・フロイス著より
ルイス・フロイスもポルトガル人で、ザビエルの影響を受けて1562年に日本にやってきました。
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 「ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格に行われる。日本では娘達は両親にことわりもしないで一日でも幾日でも、ひとりで好きな所へ出かける
 「ヨーロッパでは妻は夫の許可がなくては、家から外へ出ない。日本の女性は夫に知らせず、好きな所に行く自由をもっている
 「我々の子供はその立居振舞に落着きが無く優雅を重んじない。日本の子供はその点非情に完全で、全く賞賛に値する」
我々は全ての物を手を使って食べる。日本人は男も女も、子供の時から二本の棒を用いて食べる」
★管理者注: ヨーロッパでナイフ・フォークが使われだしたのは17世紀以後です。

『シュリーマン旅行記・清国・日本』ハインリッヒ・シュリーマン著
 シュリーマンはドイツに生まれ、1865年に日本に来ました。トロイアの遺跡発掘で有名です。
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