2007年02月26日

モースの日本観察2

日本の植木屋さんは世界一

 モース著の「日本その日その日1」から、モースの観察した1877年の日本の一部をご紹介しています。ここでは日本は子供にとって安全な国であることを面白い視点で述べ、ままごと遊びを見たり植木屋さんの手腕に驚いたりしています。そして隅田川の河開きの体験など、モースとご一緒に楽しんで下さい。モースは見て興味を持ったものを沢山スケッチしていますので、それらも一部掲載します。
スケッチは隅田川の川開きの一部
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引用開始
 この国民に奇形者や不具者が著しく少ないことに気がつく。その原因の第一は、子供の身体に気をつけること。第二には殆ど一般的に家屋が一階建てで、階段が無いから子供が墜落したりしないことと思考してよかろう。指をはさむドアも、あばれ馬も、噛み付く犬も、角ではねる牛もいない。牡牛はいるが必ず紐でつながれている。
 鉄砲もピストルもなく、椅子が無いから転げ落ちることもなく、高い窓が無いから墜落もしない。従って背骨を挫折したりすることがない。換言すれば重大な性質の出来事の原因になるような状態が、子供の周囲には存在しないのである。投石は見たことがない。・・・・我々からして見れば、日本人が彼等の熱い風呂の中で火傷して死なぬのが不思議である。・・・・

 この広い世界を通じて、どこでも子供達が、泥のパイや菓子をつくるのを好むのは面白いことである。日本の路傍ででも、小さな女の子が柔軟な泥をこねて小さな円形のものをつくっていたが、これは、日本にはパイもパンもないので、米でつくる菓子のモチを現しているに違いない。
 この国の人が――最下層の人でさえも――が、必ず外国人に対して示す礼譲に富んだ丁寧な態度には、絶えず驚かされる。私は続けさまに気がついたが、彼等は私に話しかけるのに先ず頭に巻いた布を解いて、それを横に置くのである。一台の人力車が道路で他の一台に追いつき、それを追い越す時――我々は早く東京に着きたくて急いでいたのでこれをやった――車夫に必ず詫び、そして、通訳の言によると「お許しが出ますれば・・・」というようなことを言う。

 我々は多くの美しい生垣を通過した。その一つ二つは二重の生垣で、内側のは濃く繁った木を四角に刈り込み、それに接するのは潅木の生垣で、やはり四角に刈り込んであるが、高さは半分位である。これが町通りに沿うてかなりな距離並んでいたので、実に効果的であった。
 日本の造園師は、植木の小枝に永久的の形がつく迄、それを竹の枠にしばりつけるという一方法を持っている。私の見た一本の巨大な公孫樹(いちょう)は、一つの方向に、少なくとも四十フィート、扇のように拡がりながら、その反対側は、日光も通さぬ位葉が茂っていながらも、三フィートとは無かった。樹木をしつける点では日本人は世界の植木屋中第一である。・・・・・
 我国の園芸家が日本人の持つこの巧妙な芸術に注意を向けたならば、どんなに立派な食卓の中心飾りが出来ることであろう。
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2007年02月24日

モースの日本観察1

正直な日本人に感心
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 ご存知、大森貝塚の発見で有名な、エドワード・シルベスタ・モース著の「日本その日その日1」から、モースの観察した日本の一部をご紹介してみます。
原書は1917年となっており、全訳が昭和四年となっています。それを復刻したものが今回ご紹介する本です。
第一章は、「1877年の日本――横浜と東京」から始まっています。
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引用開始
 不思議な有様の町を歩いていて、アメリカ製のミシンがカチカチいっているのを聞くと妙な気がする。日本人がいろいろな新しい考案を素早く採用するやり口を見ると、この古い国民は、支那で見られる万事を死滅させるような保守主義に縛りつけられていないことが非常にハッキリ判る。

 私は人力車夫が四人いる所に歩みよった。私は、米国の辻馬車がするように、彼等もまた揃って私の方に駆けつけるかなと思っていたが、事実はそれに反し、一人がしゃがんで長さの異なった麦藁を四本拾い、そして籤を抽くのであった。運のいい一人が私をのせて停車場へ行くようになっても、他の三人は何等いやな感情を示さなかった。

 汽車に間に合わせるためには、大きに急がねばならなかったので、途中、私の人力車の車輪が前に行く人力車のこしきにぶつかった。車夫たちはお互いに邪魔したことを微笑で詫び合っただけで走り続けた。私は即刻この行為と、我国でこのような場合に必ず起こる罵詈雑言とを比較した。

 何度となく人力車に乗っている間に、私は車夫が如何に注意深く道路にいる猫や犬や鶏を避けるかに気がついた。また今迄の所、動物に対して癇癪を起したり、虐待したりするのは見たことがない。口小言を言う大人もいない。これは私一人の非常に限られた経験を――もっとも私は常に注意深く観察していたが――基礎として記すのではなく、この国に数年来住んでいる人々の証言に拠っているのである。・・・・・・

 人々が正直である国にいることは実に気持がよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついてそれを持って来たが、また今度はサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚持って来た。

 この国の人々も所謂文明人としばらく交わっていると盗みをすることがあるそうであるが、内地に入ると不正直というようなことは殆ど無く、条約港に於ても稀なことである。日本人が正直であることの最もよい実証は、三千万人の国民の住家に錠も鍵もかんぬきも戸鈕(ちゅう)も――いや、錠をかけるべき戸すらも無いことである。昼間は辷る衝立が彼等の持つ唯一のドアであるが、而もその構造たるや十歳の子供もこれを引き下し、あるいはそれに穴を明ける得る程弱いのである。・・・・・・
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2007年02月20日

明治日本の女たち2

日本の職人たち

アリス・ベーコン(1858〜1918)著「明治日本の女たち」の中に出てくる、日本の職人についての部分を引用してみます。
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引用開始
 平民階級を語る上で忘れてならないのは、その多くを占める職人である。
日本が芸術や造形、色彩の美しさを大切にする心がいまだにある国として欧米で知られているのは、彼等の功績である。
 職人はこつこつと忍耐強く仕事をしながら、芸術家のような技術と創造力で、個性豊かな品々を作り上げる。買い手がつくから、賃金がもらえるから、という理由で、見本を真似して同じ形のものや納得できないものを作ることはけっしてない。日本人は、貧しい人が使う安物でさえも、上品で美しく仕上げてしまう。一方、アメリカの工場で労働者によって作り出されるあらゆる装飾は、例外なくうんざりするほど下品である。

 アメリカの貧困層は、最悪の趣味のものに囲まれて生活するか、まったく装飾がほどこされていない家具や台所用品を購入する以外ない。優美なデザインの品物は珍しいので値段も高く、金持ちしか手に入れることはできない。だから、私たちアメリカ人にとって、「安い」ことは「下品」であることを意味する。しかし、日本ではそうではない。優美で美しくても、とても安価なものもある。あらゆるものに優雅で芸術的な感性がみられる。もっとも貧しい平民でさえも、人間の本能である美的感覚に訴えかけるようなちょっとした品を所有している。

 もちろん、日本の高価な芸術品は職人の才能と丁寧な仕事をよく体現している。しかし、私が感心したのはそのような高級品ではなく、どこにでもある、安い日用品であった。貴族から人夫にいたるまで、誰もが自然のなかにも、人が作り出したものにも美を見出し、大切にしている。安価な木版画、藍や白の手ぬぐい、毎日使われる急須と茶碗、農家のかまどでみかける大きな鉄製のやかんは、大名屋敷の蔵にしまわれてある豪華なちりめん布、銀の香炉、繊細な磁器、優雅な漆器に劣らぬほど美しくて気品がある。高価な品々は言うまでもないが、こうした物の存在は、日本で広く美の感性が共有されていることを示している。

 たいていの職人は自宅で作業する。人は雇わず、父親が子どもに技を教え、家業を手伝わせることが多い。家は狭いけれども、清潔で品がよい。畳が敷いてあって、上品な茶器があり、壁に小さな掛け物がかかっている。日本は大都会でも、冬のあいだでも、花が安く手に入る。貧乏でも気軽に買うことができるから、部屋の片隅にはいつも美しい花が生けられている。・・・・・・
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2007年02月19日

明治日本の女たち1

日本の礼儀作法について

「明治日本の女たち」という本があります。著者はアリス・ベーコンというアメリカ人です。彼女は1858年生まれで、1872年に、ベーコン家が岩倉使節団に連れられて渡米していた十二歳の山川捨松(後の大山巌伯爵夫人)のホスト・ファミリーとなったことから、当時十四歳のアリスとは姉妹同然に暮し、津田梅子らとも知り合いました。このような縁で、1888年に来日し、華族女学校や東京女子高等師範学校で英語を教え、
1899年に二度目の来日時には、津田塾大学の前身である女子英学塾の教壇にたちました。では、「明治日本の女たち」から一部見てみましょう。
写真右から二人目が使節団当時八歳の津田梅子
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引用開始
 日本では礼儀作法は行き当たりばったりに学ぶものではない。適当に周囲を見渡して真似するだけではだめである。作法は専門家について学ぶのだ。 日常生活のこまごまとしたことすべてに決まりがあり、礼儀作法の師範はそれらを熟知している。こうした師範の中でも、とくに有名な人たちがいて、それぞれ流派を作っている。
 作法は細かい点では異なっているが、主要なところはどの流派も同じである。お辞儀ひとつとっても、体と腕と頭の位置に決まりがある。ふすまの開け閉て、座り方と立ち方、食事やお茶の出し方など、すべてに細かい決まりがあり、若い女性に教え込まれる。
 
 しかし、教えられるほうはうんざりしていることだろう。私が知っている今どきのふたりの若い女性は、礼儀作法のお稽古には飽き飽きしていて、できることならさぼりたいようだった。お作法の先生が帰ってしまった後に、彼女達が先生のしゃちこばったいかめしいしぐさを茶化して、ふざけているのを目にしたこともある。

 ヨーロッパ風のマナーが、古くからある日本の日常の礼儀作法にどれだけ浸透していくのかはまだわからない。しかし、礼儀作法の師範のような人はじきに過去の遺物になってしまうのではないだろうかと、少しばかり残念に思う。
 日本の若い女性が、予期せぬことに直面してもけっして取り乱さないのは、しっかりと礼儀作法を教えこまれているからではないだろうか。アメリカの若い女性ならば、ぶざまにまごついてしまうような場面でも、日本の女の子は落ち着き払っている。・・・・・

 ここまで、私は昔の日本で女性に許されていた教育について述べてきた。こうした教育は効果的で、じつに洗練されたものであった。
 ペリー提督によって眠りを覚まされる前に教育を受けた魅力的な日本の婦人を知る外国人は、誰もが昔の日本の女子教育のすばらしさを認めるだろう。
 こう書いていると、柔和な顔に輝く瞳をした、ある淑女の姿が目に浮かぶ。東京に住んでいたときに、彼女と親しくなれたのは幸運なことだった。夫に先立たれ、子供を抱えて文無しになった彼女は、東京にある官立学校で裁縫の先生をして、わずかな収入を得ていた。貧しくて多忙な日々を送っていたはずなのに、いつも完璧なまでに貴婦人然としていた。礼儀正しく、微笑みを絶やさず、知的で洗練された読書家で、質素で家事をそつなくこなす、日本で過ごした楽しい時間をふり返るたびに、彼女のことが思い出される。こうした女性こそが、昔の日本女性の教養をよく示している。
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2007年02月16日

長崎海軍伝習所4

海軍伝習所の勝海舟や榎本武揚

海軍伝習所教育班班長のファン・カッテンディーケ著「長崎海軍伝習所の日々」から、海軍伝習所での勝麟太郎(海舟)や榎本釜次郎(武揚)との練習航海時の模様を見てみます。
写真は榎本武揚
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引用開始
 これから間もなく私は蒸気船にて航海をなすことを定義し、三月三十日海軍伝習所長、大目付木村様および艦長役勝麟太郎らとともに生徒十六名、水夫五十名を引き連れて乗船した。良い天気に恵まれて愉快に五島に向け航海したが、ここでは夜は五島に属する一島の樺島の西岸にある或る港に投錨した。・・・・・
 幕府の肚はその威光を付近の島々に輝かすために蒸気船咸臨丸を使用したかったらしい。・・・・・・

 我々の船は狭い五島の海峡をば、しかも水夫たちのいろいろの指示を受けながら、幸いにも無事通過した。強い潮流がその海峡を東に流れている。それ故、船は進むのに非常な困難を覚えた。機関部員は監督のオランダ将校一名のほかは全部日本人ばかりであったが、この難航を立派に切り抜けた。私は最初、彼らがとても二十四時間も力一杯蒸気を焚き続け得ようとは予想しなかった。・・・・・
 私はこの旅行で大いに得るところがあった。また生徒らも、この航海によって船を動かすことのいかに難しいものであるかを実地に覚えた点において、非常に役立ったと思っている。海軍伝習所長も大いに満足して、幾度も繰り返し私に感謝の辞を述べていた。そうして復活祭の第一日には沢山の鶏卵、四頭の豚、魚、野菜、蜜柑などの贈り物を届けてくれた。
 彼は私に、こうした航海は今後も繰り返しやって貰いたい。また鹿児島、平戸、下関へも行くようにしたいと言っていた。私はむろん喜んでそれを承諾した。・・・・・

 江戸はほとんど毎年、地震、火事または流行病など、何かの災厄に見舞われる。1858年(安政五)は大火の年で、四月には江戸で長崎全市ほどの広い町が灰燼に帰した。このことは艦長役の勝氏が夫人から受取った音信によって私に語って知らせたのであるが、勝氏の全財産はその大火のために失われたとのことである。それだのに勝氏は笑いながら「いや、それしきのこと、何でもござらぬ、18561年の折はもっと凄うござった」と平気で付言していた。実際、この世の事はすべてが比較的である。
 四月十五日、港内を帆走していた十一人乗りのスループが顚覆したのを見たとき、容易ならぬ椿事に見舞われたと思ったが、舵手のデ・ラッペル君の機転によって何の不祥事もなくて済んだ。
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2007年02月15日

長崎海軍伝習所3

東洋諸国と日本の違い

 海軍伝習所教育班班長のファン・カッテンディーケ著「長崎海軍伝習所の日々」から、日本のお寺や婦人についての観察の記述を見てみます。
写真は当時の長崎の町
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引用開始
 1855年(安政二)にオランダ国王ヴィルレム三世陛下は、将軍に一隻の蒸気船を献上された。その時、同時にその船を用いて日本人を教育するために、将校機関部員および水兵をもって組織された一派遣隊をも付け給うた。日本人は欣んでその国王の思召しを受けるとともに、感激のあまり同派遣隊所属の人々には、二百年来厳守された規則をなげうって、自由に長崎市の内外を往来しうることすらも許可したのである。

 これら士官および部下たちは日本に雇われているのではなくて、蘭領東インド派遣のオランダ艦隊に属し、給料はオランダ政府から支給されたのである。その指揮官は、日本人に航海学の教育を授ける任務を帯びていた。
 将軍はこれら派遣隊の出島滞在に要する費用に対し、金銭的補償も与えないで派遣隊をただで使うこと欲しなかった。そこで一定の手当を支給したが、なおこの他にもいろいろの恩賞があったから、両者を合すればかなり莫大な額に上ったといえるだろう。・・・・・

 私は日本人が常に我々に対し、及ぶ限りの優しみをもって接し、未だかつて何事も私に相談することなしに、勝手に行ったことなどなかったことを認めねばならぬ。・・・・・
 ヨーロッパでは日本および日本人に対し先入主を持っているが、それもあながち無理もない。例えばキリスト教徒に対する残虐な掃滅、二世紀以上も頑迷に固守された鎖国、オランダ人の出島幽閉――これは何れの著書も憤激に満たされている――のごとき事実は、ヨーロッパ人をして日本人に良い感じを持たしめない理由である。

 しかし、日本人の外国人取扱いを非難する者は先ず1848年に出版されたフォルブスの著『支那滞在の五ヵ年』を一読するがよかろう。その一節に次のようなことが書いてある。
「イギリス人は広東で、自宅に檻禁されているも同然である。散歩しようとて散歩する町が殆どない。たまたま町に出れば侮辱されるに定まっている。いや自宅においてすら、狂暴な民衆を防ぐに安全を感じられないことを経験した。些細な原因でも、きっと激昂の酬いが憐れな外国人の頭上に下され、自分の家が損害賠償を受ける微塵の望みもなくして民衆にブチ毀されていくのを見ていなければならない」
 これによっても我々の隣国人たるイギリス人が、ただ将来の飛躍を望むばかりに、つい最近まで、広東でどれほど酷い目に遭うのを隠忍したかをよく知ることができる。
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2007年02月14日

長崎海軍伝習所2

咸臨丸の回航

 海軍伝習所教育班班長のファン・カッテンディーケ著「長崎海軍伝習所の日々」から、著者が長崎に上陸直後あたりの印象を見てみましょう。
写真はオランダから贈呈された観光丸
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引用開始
 1856(安政三)年私は勅命によって殖民大臣付きに補せられ、日本の将軍のためにキンデルダイク造船所にて建造せられた百馬力の蒸気船ヤパン(咸臨丸)をその目的地に回航し、同時に私と同行する人員の一部をもって、さきに1855(安政二)年より57年までペルス・ライケン中佐指揮の下に、日本において航海学およびその他の科学の教育を担当せしめられていた海軍派遣隊と交代すべき命令を受けた。

 今ここに何故オランダが、日本に派遣隊を送ったかの理由につき、一言述べることは、あながち無駄ではあるまい。日本政府は、オランダ国王ヴィルレム三世が折角与え給いし忠告も容れなかった。しかし我が国は常に、日本がヨーロッパ国民をもっと寛大に取り扱う制度を設けるよう慫慂してきた。そうして今度こそは前よりも、もっと成功の見込みがついて、再び提案を出しうる時機の到来を狙っていたのである。・・・・・

 また両国の古い友好関係からしても、強制的手段に訴えるということは、許さるべきではなかろう。かくて我々の望みを達する方法としては、幕府に風説書(長崎の商館長がその義務として、オランダ船入港のつど入手した海外情報を長崎奉行を通じて幕府に提出したもの)の提出を拒否し、また場合によっては、出島を引き揚げるより以外に、途はなかった。しかし幕府の遅疑逡巡の態度は、むしろ憫むべきで、我から相談を断るということは、一般の利害にももとり、また出島の商館を引き払うということも、時すでに遅い。・・・・・

 オランダは及ぶかぎり幕府の期待を裏切らないようにして、その日本における勢力を維持しなければならない。かくてオランダは、あらゆる科学的進歩の誘導者となり、また海軍派遣隊までも付けて蒸気船スームビング(観光丸)を日本に贈呈し、科学的進歩のために助力しなければならなかったのである。

 最初はこれほど尽くしても、おそらく日本を正しい道に導くことはできないだろうと思っていたが、結果は予想を遥かに越えて、江戸の保守派は、未だ勢力を失墜していなかったにもかかわらず、日本人のヨーロッパに対する考え方がガラリと大転換をしたことは、見のがし得なかった。・・・・

 土地の人々は、船の入港の光景を久しく見なかったところに、船から暗闇の中で二発の砲を放ち、到着を知らしたものだから、忽ち市民の間に大騒ぎを起した。・・・・・私がこれを敢えてしたのは、つまりは夜中には何事も起こらないと安心しきった気持でいるお人好しの日本人の夢を、多少とも醒まさせようとの考えからであった。
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2007年02月13日

長崎海軍伝習所1

海軍伝習所創設の経緯

 オランダからの第二次海軍教育班として来朝したファン・カッテンディーケ著「長崎海軍伝習所の日々」副題として「日本滞在記抄」という本から、幕末の日本の考えなどを見てみます。
 この教育班の長崎到着は安政四年(1857年)九月です。
本文に入る前に、当時のこの状況を解説した部分が、大変興味深いので、先ずそこから引用してみます。
denshu.jpgkattendyke.jpg

引用開始
 日本の政治は、嘉永六年(1853年)ころから従来にない動揺を示した。安政の初め、徳川幕府は四囲の情勢から、二百年堅持した鎖国政策を持続することが不可能になったと観念して、にわかに開国政策に転ずる腹を決め、さしあたり幕府が最も憂慮する、欧米諸勢力の我が国安全に対する脅威に対抗できる近代的欧式海軍を創設することにした。そしてこの旨を、時の長崎オランダ商館長ドンケル・クルチウスに内密に告げて、オランダ政府からこの計画の実現のための協力、並びに軍艦の建造または購入の斡旋について、何分の意向を確かめるよう手続きをとってもらいたいと申し入れた。

 それに対しオランダ政府は、近年衰微の一途をたどりつつあった対日貿易の促進と政治的理由から、幕府の要求に応ずる方針を決め、幕府が欧式海軍を創設せんとするならば、先ず幕府はオランダより教師を招聘して、日本青年に近代科学の知識を授け、艦船の操縦術を習得さすことが必要であることを告げ、また軍艦の建造・購入の件については、当時ヨーロッパの政局極めて不穏なる状態にある折柄、幕府の希望に副うことは頗る困難ではあるが、政局安定の暁にはまた改めて考慮すると回答した。

 この結果、幕府は長崎に海軍伝習所を設けて、そこに旗本だけでなく、諸藩の青年にも入所を許し、オランダ人教師から近代科学並びに海軍に関する教育を受けさすこととして、オランダより海軍教育班を招聘したが、そのオランダ教育班は二次にわたって来朝した。その第二次教育班長であったのが、この『滞日日記抄』の著者、オランダ海軍二等尉官リッダー・ホイセン・ファン・カッテンディーケであった。
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2007年02月09日

明治日本体験記V

グリフィスが見た日本女性の地位

1870年12月29日〜1874年7月25日の日本
今回はグリフィスが感じ見た日本女性の地位について書かれている部分を見てみましょう。
グリフィス著「明治日本体験記」から
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引用開始
 しかし、アジア的生活の研究者は、日本に来ると、他の国と比べて日本の女性の地位に大いに満足する。ここでは女性が東洋の他の国で観察される地位よりもずっと尊敬と思いやりで遇せられているのがわかる。日本の女性はより大きな自由を許されていて、そのためより多くの尊厳と自信を持っている。
 子女の教育はよくなっており、この国の記録にはおそらくアジアのどの国よりはるかに多くのすぐれた女性が現れるだろう。まさにそういう時機に、公立・私立の女学校が開設されて、女学生が通学している。・・・・・・

 この問題の根は銭湯をのぞいたぐらいでは見つからない。歴史、文学、芸術、理想を調べてみなければならない。それには西洋の理想や偏見を基準にしてはいけない。西洋人が潔白であり宗教的だと見なしているものの中に非難すべきことが多くあるのを、日本人は正しい目で見ている。だからこれらの判断は公平でなければいけない。

 百二十三人の日本の君主のうち九人までが女性であった。神権の管理人は処女の神官である。日本の女性はその機知と天才によって母国語を文学語にした。文学、芸術、詩歌、歌謡において、名声と栄誉の長い巻物にのっていて、その額に日本人が少なくとも高名の色あせない花輪を置いた最も輝かしい人たちのなかに、女性の名前がまじっている。その女性たちの記憶は、暗唱、引用、読書、屏風、巻物、記念碑、壁、扇、茶碗の上の文章や絵画など、太平洋の東と西の外国人讃美者さえ喜ばす絶妙な芸術作品として、いまなおみずみずしく残っている。

 紳士淑女の道、道徳律、宗教的戒律が手本として試されるような人生の難儀にあたって、日本人の示した栄光、勇気、艱難に耐えること、立派な死に際、親孝行、妻の愛情などの記録が残っている。中でも歴史と物語文学、実際の日常の出来事のなかに、男性に課せられたどんな苦しみや悲しみも共にする女性の力と意志が示された例がいくらでもある。・・・・・

 女性についてこれまでのところ、私の意見は、世界のカスが日本のカスと出会う港町の生活をいそいで垣間見た結果ではなく、内地の都市や日本の首都に数年生活してみてわかったものであることを忘れないでほしい。さらに私は日本の普通の女性を他の国の普通の女性と並べて見ている。また神国の男性と社会との関係で女性の地位を述べている。そしてアジアの他の諸国に比べて日本は、女性に対する尊敬と名誉にかけてはアジアの指導者であると信じたい。
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2007年02月08日

明治日本体験記W

グリフィスの見た封建制決別の日

1870年12月29日〜1874年7月25日の日本
ここではグリフィスが見た廃藩置県(1871年8月29日)に伴う封建制との決別その時を、福井藩での人々の動揺の様子を通じて、見てみましょう。
グリフィス著「明治日本体験記」から。
絵はカゴに乗るグリフィス
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引用開始
 七月十八日(1871年)
 まさに青天の霹靂!政治の大変動が地震のように日本を中心から揺り動かした。その影響はこの福井でもよく観察できた。今日、町の武士の家には激しい興奮が渦巻いている。武士の中には三岡(福井藩士、由利公正)を殺すとおどしている者がいるという。というのは三岡は1868年の功績で収入を得、また福井で長い間、改革と国家の進歩の中心人物であったからである。

 今朝十時に、東京からの使者が藩庁に着く。にわかに学校で騒動が起きた。日本人教師と役人が全員、学監室に呼び出された。数分後に会うと、その人たちの大方は顔が青ざめ、興奮していた。・・・・・
 たった今届いた天皇の声明によると、武士の世襲の所得を減らし、名目だけで任務のない役所を廃止し、それに付けた給金は天皇の国庫に渡すよう命じている。
 役人の数は最小限まで減らす、藩の財産は天皇の政府のものになる。福井藩は中央政府の一県に変わる、そして役人はすべて東京から直接に任命されることになる。

 この変化は私にいい影響を与える。いままで学校の管理に十四人の役人があたっていた。「船頭多くして舟山に登る」。ところが今は、わずか四人。藩庁から役人が訪ねてきて、私の四人の護衛者と八人の門番が免職になると告げた。これからは二人の門番しかいない。福井の地方役人の数は五百から七十に減らされる。役人という厄介者を振り捨てるところである。昔から日本の最大の災いは働かない役人とごくつぶしが多過ぎることであった・・・・新生日本万歳。

七月十九日
 今日の学校は、役人は不在。そのため私の教える科には、いつもの役人の騒ぎ立てや邪魔がなかった。特筆すべきことだ。学監室は空っぽだった。・・・・・
 県庁の定員は昨日までの太った身体が骸骨になったように、最小限度になった。学生が言うには、町の老人の中には心配で気が狂いそうな人がいるし、少数の乱暴者がまだ三岡らの天皇支持者を、こんな状態にしたのはお前らだ、殺してやると言っている。
 けれどもちゃんとした武士や有力者は異口同音に、天皇の命令を褒めている。それは福井のためでなく、国のために必要なことで、国状の変化と時代の要求だと言っている。日本の将来について意気揚々と語る者もいた。「これからの日本は、あなたの国やイギリスのような国々の仲間入りができる」と言った。
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2007年02月07日

明治日本体験記V

女性蔑視どころか、かかあ天下の日本

1870年12月29日〜1874年7月25日の日本
 ここではグリフィスの住んだ家、生活の一部についての記述を見てみましょう。
グリフィス著「明治日本体験記」から。
絵は後にグリフィスのために立てられた家のスケッチ
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引用開始
 私に当てられた古い屋敷は建てられてから百九十七年たっていて、これまで代々同じ一族が住んでいた。この家は柴田勝家の古城があった所に建っていた。・・・・・・それは堅い材木でできた大きな古い家で、広い部屋と長い明るい廊下があった。幅六十フィート、奥行き百フィートの一階建てだが・・・・・部屋数は全部で十二。床はやわらかくてきれいな畳が敷いてあり、・・・・。
 このようにしてこの住居で数世紀にわたって、先祖代々の地所の上で、一族が平和にくらし、繁栄してきた。

 やがて外国人がやって来ていろいろな災難が起きた・・内乱、革命、将軍の打倒、天皇の再興、封建制度の強制的廃止と。大変化が福井の様子を変えた。知行高が減って、一族は粗末な場所に移り、家来や小作人は散り散りになり、そして今外国人がここに来た。・・・・
 古い文明を破壊するための新しい文明を持ってくるのを手伝いに、知識の建築者として私は福井に来た。しかし、因習打破主義者になることは難しかった。しばしば自分に問うた。なぜこの人たちをそのままにしておいてはいけないのか。みんな充分に幸福そうだ。「知識を増すものは憂いを増す」というではないか。古い祠でさえ、人間の信仰と崇拝を神聖にするため奉納されてきたのだ。この見捨てられた神殿の石を取り除くのは、私ではなく、誰か他人の手にまかせねばならない。かつて位牌があり、燈明と香が燃えていた家族の小礼拝堂(仏間)を、食堂にするとは何といやしい考えか。・・・・・
 信仰もまたそうである。もしも私達の信仰が神聖なら、他人の信仰も神聖なのだ。・・・・・・

 家の同居者について一言ふれないわけにはいかない。日本到着の第一日目に召使が選ばれて、未来の主人に会わせに連れられてきた。佐平をはじめて見た時、佐々木がもっと顔立ちのいい男を召使として選んでくれなかったのが残念で仕方なかった。・・・・・
 また最初、新しい召使が独り者だと思って失望した。家族のある既婚の男に来てもらうつもりだった。その方が同じ屋根の下で実際の日本人の生活を見ることができると思ったからである。・・・・・
 このように失望は大きかったが、反面、うれしいこともあった。佐平は百姓の出ではなかった。東京へ旅をしたことがあった。小者として戦いに出たこともあった。頭がよくて人に仕えるのに適していた。職業はかつて大工であったから、家のことを手際よくした。・・・・
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2007年02月06日

明治日本体験記U

1870年12月29日〜1874年7月25日の日本
 これより先福井藩主、松平春嶽に呼ばれて来た熊本藩士、横井小楠は春嶽に大きな影響を与え、この本の著者グリフィスも、小楠の「学政一致」の思想の分析をしたりしています。
 私がこのブログでHNとして使っているのは、この横井小楠から借りたものです。
写真は横井小楠
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グリフィス著「明治日本体験記」から、今回は、福井藩主の歓迎のあたりをご紹介します。

引用開始
 藩庁の大広間には藩主と重臣が私を待っていて、中村が護衛をし、岩淵が同席して通訳をすることになっていた。
 一行が乗った馬は大名屋敷前の大名通りと呼ぶ堀に面した広い通りを進んだ。・・・
 藩庁の正門に着いて馬を下りた。・・・小石を敷いた庭の広い石畳の道を通って行った。戸口の前に大きな高い玄関がある。小姓がひざまづいて迎えてくれた。また役人の一人が絹ずれの音をたてて迎えに出て来た。

 靴を脱いで中に入った。やわらかくて念の入った清潔な畳の廊下を通って謁見の間に着くと、型どおりに中に案内された。小姓と侍者がひざまづく。 大名と六人の家臣が立って迎えてくれた。テーブル、椅子、握手は当時まだ新しい物事であったが、そこにはすでにあった。藩主の前に進み出て礼をすると、藩主は寄って来て手を差し出し、あとで知ったことだが、歓迎の言葉を述べた。
 握手の後、藩主から直筆の手紙を渡された。岩淵は最初から畳に両手両膝をつけ、顔をふせて座り、上目遣いに話した。次に長い名前の身分の高い家臣を紹介された。全員がテーブルについた。・・・

 十歳から十二歳のかわいい男の子の小姓が小さな茶碗を金属の茶托にのせて運んできた。みんなが茶碗を持ち上げると、小姓は低くおじぎをして静かに出て行った。
 藩主と家臣から、名前と身分が漢字で書いてある、人目をひく白い紙切れの名刺を渡された。
 松平茂昭、福井藩主。小笠原盛徳、大参事。村田氏寿、大参事。千本久信、副参事。大谷遜、権小参事。大宮定清、家令職。
 にぎやかな話し合いになった。おかげで岩縁の二枚の舌は一時間近くいそがしかった。初対面の堅苦しさが解けてきてくつろいだ気持になり、そのうち愉快になってきた。そして終わりごろにはお互いにうまくやっていけると諒解しあっていた。
 アメリカ人の自由と日本人の気楽さが初めての者同士を友達にしたと言えよう。教育と文化が、二つの民族、宗教、文明に横たわる湾にたやすく橋を架けるのである。この上品で洗練された紳士たちの前で、私は心から打ち解け、一時間が楽しく過ぎた。
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2007年02月05日

明治日本体験記T

 今回ご紹介する本は、グリフィス(1843〜1928)というアメリカ人教師の記録です。
 ウイリアム・エリオット・グリフィスは、福井藩の招きで、自然科学の教師として、明治維新直後の、1870年12月29日に27歳の時日本に着き、1874年7月25日までを日本で過ごしました。
写真は渋沢栄一の招きで五十年ぶりに来日したグリフィス夫妻
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グリフィス著「明治日本体験記」(原書は1876年初版)から一部をご紹介します。
ここは、大阪から淀川をさか上って、伏見を通り、滋賀県の大津に到着し敦賀を経て福井にたどり着くあたりの記録です。
写真は明治初年の大津付近
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引用開始
 通訳の岩淵が福井からの五人の武士の到着を告げた。アメリカ人を迎えに百三十マイルを旅してきたところであった。・・・・
 襖が開くと、五人の頑丈な男が入ってきて、こちら向きに前へならって一列に立った。どんな儀式が始まるのかひそかに待ち受けた。一瞬のうちに男たちは床の上に膝を折って座り、両手を伏せて、そのままたっぷり十五秒間、頭を下げていた。それからパッと身を起して、羽織を広げて、はかまに手を入れて正座下。次に代表が岩淵にものものしい書状を渡して読むように言った。それは福井の大名からのもので、福井の政府筋の挨拶と福井までアメリカ人教師をおつれするよう述べてあった。・・・・

 不意の客と予告してある客についての差別は、旅館とその経営者に関していうと、高度な文明国と同様に日本にもある。冬、日本の宿屋に突然入ると、冷蔵庫にいるほど身震ぶるいが生じ、しびれをきらしてわびしく待つ間、グリーンランドのことを思いやっていると、ようやく火と食事が運ばれ、体が暖まり気分が和らぐ。けれども大津では、馬を中庭に乗り入れると、赤々と燃える火が用意してあった。靴と外套を脱ぐと、最上の部屋に案内された。寝床には絹のふとんが重ねて敷いてあり、部屋の真ん中にこたつがあったのが最高にうれしかった。気の毒だが文明国の読者、西洋の未開人には、こたつが何かわかりますか。わからなければ教えましょう。

 部屋の真ん中のあの一フィート四方の畳をあげてみなさい。そこに深さ数インチの石で内張りしたくぼみがある。太った赤いほっぺたの女中が十能いっぱいの燃えている炭をそこに入れる。その上から櫓を真似てその名をとった「やぐら」という高さ一フィートの木の枠を置く。さらにその上に大きなふとんを広げて掛ける。それは即席のむろで、ふとんをまわりにかけて体を焼くのである。なかに小さな熱の天国があって、体のふるえをぽかぽかするぬくもりに変えてくれる。日本が未開の国でひどい所だと信じている不平家を、十分間で、この国は天国だと喜んで言明する熱狂的な人に変えるのが、こたつであると断言してもさしつかえない。・・・・・・
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2007年02月02日

米国夫人の大正日本記2

 1919年(大正八年)6月から1922年(大正十一年)夏まで、大正時代の横浜に住んだアメリカ夫人の著作。
セオダテ・ジョフリー著「横浜ものがたり」の一部をご紹介します。本名はドロシー・ガッドフリー・ウェイマン(1893〜1975)
写真は本牧の家で息子たちとドロシー。
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※契約万能に侵される日本
引用開始
 日本に着いてから初めての夏、私は山手の家を住みよくするため、ウスイ(専属の人力車夫)と一緒に随分店屋を回ったものだった。そうした或る日、弁天通りの陶器屋のウィンドーで美しい花瓶を見つけ、そこの主人に同じデザインでディナー・セットを注文したいと聞いてみた。
「できますよ、オクサン。でもこの絵付師から見積りをもらうことはできません」という返事であった。
(写真は、ウスイとドロシー)
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 古参者達からよく注意されていた私は、注文を出す前にどうしても見積書を出すように主張した。さんざんああだこうだと苛立たせたあと、奇妙な発音通りのアルファベットで書いた見積りをよこした。それによるとディナー・セットは九十円、三ヶ月後のでき上がりということであった。
 その後間もなく、着物を着た小僧がよろよろと自転車に乗ってデザインのスケッチを六枚持ってきた。いずれも日本の歴史的逸話を画いた美しい下絵であった。鎧や衣裳の詳細は勿論のこと、無造作な黒い髪の毛もよく見ると一本一本丁寧に画かれていた。

 三ヶ月の待望期間が過ぎると、私は喜び勇んでディナー・セットを受取りに陶器屋に赴いた。その後週に二、三回は催促に行くようになったが、それがまた三ヶ月続いた。店の主人が苦笑しながら言うことには「しかたがない」だけである。そして巧みな商法で、良いセットができるまでと私はもう一セットのディナー・セットを買わされてしまった。
 漸くセットが我が家に運ばれた時、私の長い忍耐は充分に報いられた。美術愛好家は晩餐の席で、このような芸術品はものを食べるのに使うのはあまりに勿体無い、美術館に属する傑作だと賞賛を惜しまなかった。私は図らずも日本最高の芸術家の創作によるすばらしい食器の持主になってしまったことに気がついた。

 この事は私を俄に欲張りにして、絵師が生きているうちにもっと作品を手に入れようと思い立った。陶器屋の店主はもう作品は望めないと言い張って、どうしても注文は受け付けてくれなかったが絵師の住所は教えてくれた。・・・・・
 サイトー・ホードーの工房は、テラスの農園を上った山の上の岩にこびりつくように建っていた。彼の妻が入れてくれたお茶をいただきながら、私は通訳を通じてどんなに彼の芸術を評価しているかを話し、もっと蒐集を増やしたいと頼んだ。
 ホードーは前かがみの小男で、金縁眼鏡をかけた取り付きにくい人物であった。彼は私の賞賛を冷たく聞き流し、追加注文は頑として引受けなかった。・・・・
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2007年02月01日

米国夫人の大正日本記1

古事記を少しお休みして、今回は1919年(大正八年)6月から1922年(大正十一年)夏まで、大正時代の横浜に住んだアメリカ夫人の著作。
セオダテ・ジョフリー著「横浜ものがたり」の一部をご紹介します。
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本名はドロシー・ガッドフリー・ウェイマン(1893〜1975)で、「エドワード・シルヴェスター・モース伝」の作者でもあります。三児の母で日本の住宅にも住みました。
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※日本人の公園でのマナー
引用開始
 ウスイ(お抱えの人力車夫)と私は一年中花々を追って歩いた。・・・
 桜の花見で私が次に好んだところは、私達の本牧の家に程近い三之谷である。
 この公園はかつて日本のある紳士が所有していたが、海岸に面し、急な白い崖と高い山に囲まれた何万坪かの庭園は一般公衆に開放された。低地には大きな池があって、夏になると見事なピンクと白の蓮の花が茶碗のように空に向って咲き開いた。
 泉水にはコイ金魚が泳ぎ、水面には茶色の鴨が浮かぶ。入口で観覧客は糸につなげられた白いお麩を買う。鴨の住処の小島と池をつなぐ丸木橋の上から麩を投げると、最初の一片が水面につくや否や水中に変動が起こる。大きく尾をひるがえして輝くばかりの金魚[錦鯉]と軍艦色の鯉が無数に姿を現す。見物人がよく食べさせるのだろう彼らは怪物の様に大きく太っている。想像できますか、三フィートもあってアナコンダのように太った金魚を!・・・・・

 樹々の間に輝く朱塗りの鳥居の連なっている境内は聖域を意味する。
曲がりくねった険しい山道を登ると英雄を祀った小さな社があった。その社はほんの三フィートの巾しかない白木の社で、尖った屋根の下の木の棚の間から英雄の名の書かれた碑が見えた。私がここを訪ねた時はいつも必ず二、三人の信者が手を打ち、手を合わせて祈っている姿を見かけない事はなかった。祈祷者には男も女もいたが、ことによく見かけたのは軍服姿の兵隊である。カーキ色の軍服をつけ、脇の下に軍帽を挟み直立して坊主頭を下げる姿であった。

 ある日、私は同国人(アメリカ人)の行為を本当に恥ずかしいと思った事があった。その時祈願を捧げている二人の兵隊の邪魔にならないように社の後ろに座ったのだが、その灰色の木に痛々しくもペンナイフで「ハロー、フリスコ(サンフランシスコ)J.H.S.1915」と堀り刻まれているではないか。なんと言う無意味ないたずら。もし日本人がアメリカで私達の教会にこの様な傷をつけたら何が起こるであろうか。

 日本人が他人の持ち物を尊重することにかけてアメリカ人は学ぶべきところが多い。百万長者の原氏は庭園を開放したあとその一部に高い樹々に囲まれた私邸に住んでいた。ごく小さな表札が門にかかって庭園の観賞は自由だが、それ以上は立ち入らないようにと書かれていた。
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2007年01月25日

フランス人の幕末日記2

 ここでは日本滞在を終えて帰国の途についたボーヴォワールがそのコロラド号の船上でしたためた日記の部分をご紹介します。当時のアジア情勢を彼なりの分析で書かれており、また興味深いものがあります。
L・ド・ボーヴォワール著「ジャポン1867年」より、
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引用開始
 楽しかった日本滞在は、ここにこうしてついに終わった。植物が大地にうっそうと生い茂った自然と、その住民が生来持っている親切な心とは、時がたつにつれてますますわれわれを喜ばせた。・・・・
 わたしの思い違いであればよいのだが、当地へ恐ろしい紛争(国内の対立)を持ち込んだのは西洋人で、この国のすべての階級をそそのかしている根深い革命も、大部分はわれわれの仕業であるとわたしは率直に信じている。

 約三十年前には、日本は、国家的階級制度をひとつの神聖な常態とした封建法の下に、ひとりで生き、栄えて幸せであったことを考えてもらいたい。 今日警戒の叫びは、かまびすしくこの全土にひろがって、上を下への騒ぎである。西洋文明の名にかけて、革命は日本の門戸に迫る。それが急激であればあるだけ一段と恐ろしい衝撃を戸口で支えるために、中世とわれわれの世紀というこの上もなく相反する二つの基礎的原理が、何ら過渡的段階を経ることなしに、まさに相闘おうとしているのである。

 シナについては、西洋は反道徳的で不名誉な阿片の戦いに初名乗りを上げたのであるが、さらにもう一度、イギリスのいいなりになって、平和な国民の中に不和の種を蒔かねばならぬ羽目に陥った。海の女王の商船にと同様、労働する人口にも、新しい必要な食糧を供給しなければならなかったが、それも、マンチェスターの汽缶がいつも煙をあげ、なおいっそう煙をあげるのを見るためであり、それ自身で自足している一民族に、われわれの生産物を強制的に買わせるためであったのである。

 従って日本を無理やり登場させ、われわれの意志を法となして通商を強制し、一民族に向って、「われらこそは最も強きもの、われらの世紀においては人間社会の一部が孤立して立て籠もることは許さぬ。われらはお前らに友好を強いにやって来たのである」といわなければならなかったのである。・・・・・
 1842年、シナにおけるイギリスの戦闘と阿片戦争の噂がにわかに伝わってきて、平穏な日本を不安に陥れた。日本は孤立して生きることしか望まず、そこでは神聖な掟が外国人に近づくことをひとつのけがれとして禁じているのであった。
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2007年01月24日

フランス人の幕末日記1

 L・ド・ボーヴォワール著「ジャポン1867年」という本から、維新直前の日本に来たフランス人青年の日記を少しご紹介してみましょう。
 その当時(慶応三年)の日本を、フランス人がどのように見ていたか、なかなか興味があります。
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引用開始
横浜 四月二十三日
 きょうわれわれは、はじめて日本の都市内部の探検をおこなった。まだ人気のない、黒焦げのもえのこりが目につく一部の地域は別として、この町が昨年十一月の恐ろしい火災のため完全に破壊されたとは誰も気づかぬであろう。
 道路は大変幅が広くて真っすぐだ。どの家も縦材でつくられ、ひと刷毛の塗料も塗られていない。感じ入るばかり趣があり、繊細で清潔かつ簡素で、本物の宝石、おもちゃ、小人国のスイス風牧人小屋である。

 日本国民は木材を見事に細工する。滑り溝を走る隔壁、縦の棒で出来た細い枠ぐみ、その格子の上には綿毛で覆われ、光を通す紙が貼られる。こうしたもので支えられる、軽いが丈夫な屋根を見るのは興味深い。一軒の家がこのような紙製の薄い間仕切り壁しか持てぬということは、わたしの思いも及ばなかったところである。
 日が暮れてすべてが閉ざされ、白一色のこの小店の中に、色さまざまな縞模様の提灯が柔らかな光を投げる時には、魔法のランプの前に立つ思いがする。・・・・

 われわれはすでに挨拶の言葉を話しはじめている。「オハイオ」はボンジュール。「オメデト」はわたしはあなたを祝う。「イルーチ」はきれい、魅力的。「セイアナラ」はまたお目にかかりましょうだ。
 それにこの民族は笑い上戸で心の底まで陽気である。われわれのほんのわずかな言葉、ささいな身振りをたいへんに面白がる
 男たちは前に述べたとおり、ちょっとしたものを身に付けただけでやって来て、われわれの時計を調べ、服地にさわり、靴をしげしげと見る。そして、もしも彼らの言葉をまねて少々大胆すぎるほど不正確に発音すると、口火用の筋状に巻いた火薬に火をつけたように、若い娘たちの間から笑いがはじける。

 そこからわれわれは弁天の社へ赴く。薫香、香水、何千という奉納物、大きな鐘から取るに足りない手芸品、要するに清潔さを別にすればシナの寺塔と何一つ変わるところはない。ああ、あのように不潔、下品なあの中国を離れて間もない今、どんなに深い喜びの気持で日本への挨拶をすることであろうか。
 ここでは物みな実に明るく、美しい色調をもって眼に映ずるのである。何という対照であろう。健康を害う沼のどろどろした汚泥から、こんこんと湧き出る泉の、底の見える冷たい流れへ、死の平原から永遠の緑へ、または石ころを投げ、熊手を振るってわれわれを殴り殺そうとした民衆から、この地球上で最も温和で礼儀正しい住民へと転換するのである。・・・・
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2006年09月10日

明治日本見聞録最終

英国人家庭教師婦人の見た明治の日本の記録
 今回も、エセル・ハワード著「明治日本見聞録」からご紹介します。彼女は自分の教え子たちの学校参観に行ったりして、熱心に彼らの教育に取り組み、特に男の子として、のびのびと育てたいと考えていたようです。
引用開始
【学習院】
 公爵と弟たちは、「学習院」と呼ばれていた華族学校へ毎日通っていた。この学校は、名前はそうであったが貴族だけに限定されていたわけではなく、家職の子弟でも入学を認められている者もあった。
・・・略・・・
 この独特の制度は、上にも下にもすばらしく融通の利くものだった。例えば、今の皇太子殿下(のちの大正天皇)が七歳になってこの学校へ入学されたとき、殿下とその侍従は、院長の乃木大将にその朝正式に迎えられたのである。
・・・略・・・
 子供たちは、クリケットより野球を好んで遊んだが、おそらく学校でやっていたからであろう。
・・・略・・・
 大体において、子供たちの学校生活がきわめて楽しかったことは確かで、学校に行かずに家に留め置かれることが罰の一つとみなされていたことは、子供たちがいかに学習院の生活を愛したかをよく物語っている。
・・・略・・・
 先生たちの中には、私の助けになると思った人たちが一人二人いた。私はときどき学校へ行って、子供たちの授業を参観したが、子供たちの成績改善を目指す私の努力に対して、先生たちからも多大の同情が寄せられたものだった。彼らの中には英語を上手に話す者が何人かいた。
 末の子の先生は、毎週私に英語で書いた報告書をよこしたが、私の帰国後もその学期の成績について報告書を送ってきたので大層感激したものである
・・・略・・・
 学生たちは、普通は学校の制服を必ず着ることになっていたが、休祭日は例外で着物に戻って寛いでいた。
 男の学生も女の学生も「袴」という裾の分かれたスカートを穿いていたが、それはよそ行きの場合は絹で、ふだん着はサージのような布地で作られていた。この袴の色は学校によって違っていた。赤が一番多く使われ、主として色合いの違いで区別されたが、紺も同様に人気があった。
 慣れないうちは西洋人にとって、日本の学生は皆同じように見えるので、誰かれを見分けるのは不可能に近かった。教育制度に関しては、日本は東洋で抜きん出て高い水準を保っていた。東京には清国から何千人もの留学生が来ていたが、彼らは都会の人々と同じ服装をしていた。そして、何人もの日本女性が毎年のようにシャムやその他のアジアの国々へ、家庭教師として出かけていた。
・・・略・・・
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2006年09月09日

明治日本見聞録2

英国人家庭教師婦人の見た明治の日本の記録今日も、エセル・ハワード著「明治日本見聞録」からご紹介します。
彼女は当時東京の永田町にあった島津家の屋敷に住み込むことになります。英語ができると紹介されたはずの女中さんも、当初全く言葉が通じないので、がっかりしますが、覚悟を決めて仕事に取り掛かったようです。
引用開始
【公爵と四人の弟たち】
 最初の日、私に渡された書きつけには、私の教え子たちの名前と年齢が次のように書かれていた。
公爵 島津 忠 重 14歳5ヶ月
男爵 島津 富次郎  9歳9ヶ月
男爵 島津 諄之介  8歳5ヶ月
    島津 韶之進  7歳2ヶ月
    島津 陽之助  6歳2ヶ月
 私は最初、子供たちがひどく内股に歩くのが不可解だった。その時は知らなかったのだが、日本の貴族社会での古くさい行儀作法では、内股のほうが行儀よいとされていたのである。
最初のうちは、子供たちにこの癖をやめさせようとする努力で、他の仕事よりも何にも増して疲れ果ててしまった。しかし、他のことと同様、まもなく彼らは躾にすばらしく早く順応するようになった。何分おきかに絶えず「足をもっと開いて」というのが、私の口癖になってしまったので、大変疲れてぼんやりしていたある日のこと、われわれの訪問客であったドイツ大使アルコ・ヴァレー伯爵が、何かの拍子で足を内股にして腰掛けているのを見て、ついうっかりと「足をもっと開いて」といってしまったほどだった。
・・・略・・・
島津家は顧問の選定に関しては、ほんとうに恵まれていた。というのは、日本の重要人物が何人もその中に含まれていたからである。著名な元帥大山公爵をはじめとし、卓越した政治家で、経済界や政界で大きい勢力を持っていた松方(正義、のち公爵、政治家)侯爵、歴史的に武功の名高い西郷(従道、隆盛の弟、元帥)侯爵、世評高い海軍大将樺山(資紀、海軍大将)伯爵、それに皇太子(大正天皇)や弟君たちの御幼少時代の養育係であった海軍大将川村(純義)伯爵、以上五人の人たちが、私の着任当時、子供たちの後見人である叔父を補佐して、顧問に選ばれていたのである。
・・・略・・・
【通 訳】
 東京には津田(梅子)女史によって設立されたすぐれた女学校があったが、女史は非常に利口な愛嬌に富んだ婦人で、偉大な教育者であった。私の通訳の優秀な者は、皆この学校の卒業生であった。これらの通訳を通じて、私は日本の学生の生活の内情を知ることができた。
学校を卒業してからも彼らの目標は、自分自身の向上に向けられていた。稼いだ金は外国語を完全に習得するためか、職業につくための準備教育を受けるに必要な費用にほとんど費やされていた。
・・・略・・・
克己的な生活は娘たちだけに限ったわけではなかったようだ。日本の学生たちの生活はすべて勤勉そのものであり、賞讃や尊敬に値するものが多々あった。
・・・略・・・
【子供たちとの生活】
 自分の仕事が済むと、私はときどき二階へ上がっていって、子供たちの寝顔をのぞき込むのだった。夜はことさらに孤独を感じるので、これは私の寂しさをまぎらせてくれた。
 彼らは髪の毛を短く刈って、私の作ってやったピンクと白のパジャマを着てとてもかわいらしかった。私は自分の腕の中に、かわいい子供を抱きしめたい気持ちに何度もなった。しかし、ここへ来た最初の日から、子供たちにキスをしないという日本の習慣を私は固く守ってきた。
・・・略・・・
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posted by 小楠 at 08:08| Comment(3) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A

2006年09月08日

明治日本見聞録1

英国人家庭教師婦人の見た明治の日本の記録
エセル・ハワード著「明治日本見聞録」をご紹介します。
 エセル・ハワードは、明治三十四年(1901)から同四十一年(1908)まで七年間にわたって島津家(薩摩)の家庭教師として渡来したイギリス人女性です。明治後半期の我が国上流社会の姿が詳しく描かれています。
 歴史上有名な人々との出会いが、そこに出てくる名前でわかります。
ethel.jpg
引用開始
【日本に来て】
 ある朝、私は一通の手紙を受取った。それは私に日本に行って家庭教師をする意思はないかという手紙であった。それまで私が日本に対して抱いていた印象といえば、日本人はいつも笑いを絶やさない陽気な民族で、住む家は地震がくればトランプで作った家のようにすぐ壊れてしまうが、たちまちのうちに建て直されるといった程度の知識しかなかったのだが、しばらくためらった後に、日本へ行く決心をした。
・・・略・・・
 先方の申し出では、私の教育するのはある貴族の息子たちで、両親がなく、その長男は「大名」だとのことであった。・・・略・・・
 日本の貴族中の貴族ともいうべき薩摩の殿様の家庭に住み込んだ最初の外国人女性として、この本を書く資格があるのではないかと思っている。
・・・略・・・
 日本での最初の寄港地は長崎で、そこでは英国領事の温かい歓待を受けた。次の日は神戸に停泊したが、そこで見たものが私の日本での第一印象となった。
 一人の日本人の男を見て、大層気味悪かったのを覚えている。彼は苦力が泥だらけの道で履くような木靴を履いていた。それはスリッパのように爪先を防水紙で覆ってあり、五〜六インチの木片が二つ底に取り付けられていた。そのためそれを履くと大変背が高く見えるのである。この男は普通より背が高かったが、寒い時に着るようなねずみ色の綿入れを着ていた。・・・略・・・男は手を暖めるため着物の中に両手をたくし入れてしまうので、まるで手がないかのように袖がぶらりと下がってしまうのである。その男がわれわれのほうに駆け寄ってきたとき、両袖がぶらぶらと揺れて、どうみても腕なしとしか見えない恰好であった。私は驚きのあまり飛び下り、この国にかつて長く住んでいた同行の船客たちに大笑いされてしまった。
 もう一つの光景は、その後一度も見なかったが、私にとっては一層のショックであった。大勢の子供たちがお寺の境内で赤ん坊を背負って遊んでいたが、それはそんなに珍しいことではない。しかし、女の子の一人が着物の中に小さな犬を入れており、まるで赤ん坊のように背中に背負っていた。そして、頭しか見えなかったので、初め見たとき、私はそれが奇形児だと思って、驚いて真っ青になった。
・・・略・・・
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posted by 小楠 at 07:27| Comment(4) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A