2007年09月28日

ヤポニカ日本の人々

飴 屋

今回ご紹介している『ヤポニカ』は英国人の詩人、ジャーナリストで、『デイリー・テレグラフ』の編集者サー・エドウィン・アーノルド著で、アメリカからこの本の挿絵を描くのにR・フレデリック・ブルームが派遣されています。アーノルドが来日滞在したのは1889年(明治二十二年)末からで、二回目の来日時に仙台出身の女性、黒川たまと結婚。彼には三回目の結婚で、滞日時の年齢は58〜60歳でした。
この本の挿絵には訳者の解説がついていますので、それも部分的に引用します。
挿絵は飴屋です。
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挿絵解説の引用
 画家の解説によると、「本当にその手際は面白いものだ。きわめて単純な方法で、溶けたガラスに息を吹き込んでランプを作るように飴を形作るのだが、その仕上がりは美しく、とても真似できるものではない。確かに職人芸であるとともに十分芸術的だ」という。
 明治中期に大流行した市井の風俗が飴屋(飴細工)であった。管に息を吹き込み、器用な手つきで子供相手に飴で動物などをかたどる技術を間近にした子供たちの、手品でも見るかのような驚きの視線は、外国人も同じであった。彼らには、驚異の職人芸に見えたのである。
 ブルームは、来日前ヴェネツィアでガラスの工房を見たことがあった。その彼の目にも飴屋の技は驚きに映ったのである。
 日本で飴屋のテーマをたびたび描いたブルームは、アメリカに帰国後、それらを集大成し、油彩による『飴屋』を権威あるナショナル・アカデミー・オブ・デザイン展に出品し好評を受ける。この飴屋はブルームの生涯の代表作となった。
挿絵解説引用終わり

本文より
引用開始
 人々がいかにせっせと風呂堂に通うかに注目しよう。人々は世界中で「入浴」の最大の愛好者であり、疑いなくもっとも清いと知られているのである。日本の大衆はどんな臭味もないし、人力車夫は最小の気配りをしながら乗車料をとった後、やたらとたくさんの汗をかく。ほんとうに彼らは下着をつけないし、湯上りには着物、ふんどし、じゅばんを身に付ける。しかし、これらの衣類はまた常に洗濯されている。またすべての手や足がいかに手入れされているか、いかに完全によい状態に保ち、自然であるかに注目しよう。
 木の下駄、なわで作った草鞋によって、実際は足の両側と平にたこができ硬くなっている。ベルベットの糸や草の茎が足の力を保ち、親指を他の指と離して成長させている。しかしほとんどの男性、女性の足は美しく見える。西洋人の男性、女性の足にしばしばみられるいたましいねじれの様子はみられない。そのねじれはきつく尖った長靴や短靴の結果である。とくに日本女性のほとんどの手はいつも上品で、時には絶対的に魅力的である。・・・・・
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2007年09月27日

ヤポニカ日本この国2

アーノルドの麻布の住まい

本文の前に、今回の福田内閣の支持率、毎日新聞では57%と発表していますが、ネット世論ではどうでしょうか。全く違う結果だとしか思えないのですが。

【タイトル】
9月26日発足の福田内閣について
【質問文】
9月25日、福田内閣の閣僚が決定し、名簿が発表されました。
この内閣に対する期待の度合について選択してください。

■結果画面へはこちらからどうぞ
http://www.yoronchousa.net/result/2892
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http://www.yoronchousa.net

 今回ご紹介している『ヤポニカ』は英国人の詩人、ジャーナリストで、『デイリー・テレグラフ』の編集者サー・エドウィン・アーノルド著で、アメリカからこの本の挿絵を描くのにR・フレデリック・ブルームが派遣されています。アーノルドが来日滞在したのは1889年(明治二十二年)末からで、二回目の来日時に仙台出身の女性、黒川たまと結婚。彼には三回目の結婚で、滞日時の年齢は58〜60歳でした。
 19世紀後半の欧米の新聞・雑誌の隆盛普及は、挿絵に支えられていたといっても過言ではなく、以前にご紹介した『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』のような、紙面の50%以上が挿絵のものまで出現しています。この本の挿絵には訳者の解説がついていますので、それも部分的に引用します。
写真は麻布の自宅でくつろぐアーノルド夫妻
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では挿絵の解説から
引用開始
 明治二十二年(1889)十一月初め、来日直後のアーノルドは東京・麻布に居を構えた。家主は警視庁に勤務する麻生氏で、隣接する広壮な本邸には池と庭があった。麻布は当時は郊外とされ、外国人の居住は外交官、聖職者、教師をのぞいて認められていない地域であったが、家主が出版する本の英語訳と家主の娘たちの家庭教師を引き受けるとの名目で、住むことが許可された。
 直前の住人は日本政府の顧問の元イギリス陸軍大将パーマーで、寄棟屋根の日本家屋は、障子をガラス窓に替えられていた。アーノルドと同居した27歳になる長女キャサリン・リリアンは、日本の家屋になじめず、自室を洋風に改装する。しかし、アーノルド自身は畳の生活にとけこみ、この家に近隣の僧や著名人を招き取材を重ねていく。彼にとってこの家は、日本研究と執筆の中心であったのである。
解説引用終わり

この挿絵は「通りを小走りに歩くむすめの、むすめらしい小刻みな足取り」です。
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解説抜粋
 都心からやや離れた自然の豊かな住宅地に住まいを求めたアーノルドに対し、ブルームは都心の商業地域に隣接した有楽町三丁目に住んでいたので、この情景は今日の銀座近辺と思われる。店先を被った大暖簾と人力車を引く車夫は、日本女性とともにブルームが好んだモチーフである。すれ違う人力車と女性の小走りの動きの対比が生き生きとし、銅板の線描が小気味いい。
解説引用終わり

では本文から引用します。
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2007年09月26日

ヤポニカ日本この国1

むすめ

写真は1891年刊の『JAPONICA』表紙
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 今回からご紹介する『ヤポニカ』は英国人の詩人、ジャーナリストで、『デイリー・テレグラフ』の編集者サー・エドウィン・アーノルド著で、アメリカからこの本の挿絵を描くのにR・フレデリック・ブルームが派遣されています。アーノルドが来日滞在したのは1889年(明治二十二年)末からで、二回目の来日時に仙台出身の女性、黒川たまと結婚。彼には三回目の結婚で、滞日時の年齢は58〜60歳でした。
 19世紀後半の欧米の新聞・雑誌の隆盛普及は、挿絵に支えられていたといっても過言ではなく、以前にご紹介した『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』のような、紙面の50%以上が挿絵のものまで出現しています。この本の挿絵には訳者の解説がついていますので、それも部分的に引用します。
まずは巻頭の挿絵「むすめ」の訳者解説から。
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引用開始
 アーノルドの詩や評論を通じ、「むすめ(日本の娘)」という言葉が英語圏に普及した。日本女性について一般に欧米人が思い描くエキゾティックで魅惑的な女性像は、アーノルドの謳いあげる唯美主義的イメージでより鮮明な像を結んだ。アーノルドにとって、「むすめ」とは優しく、麗しい日本の文化と風土すべての象徴であったといってよい。
 東洋思想や仏教の、主として文献・説話の西洋への紹介者であった彼は、日本では日本社会で出会った女性たちを媒体として、日本の精神を直感的かつ具体的に理解したのである。
 挿絵画家ブルームの優れた描写力は、日本女性の魅力をいっそう引き立たせ、アーノルドの「むすめ」のイメージを定着させた。ブルームは日本で、さりげなく「肩越しにふり返る若い女性」のポーズをしばしば題材に選んだ。水彩のきびきびしたタッチと逆光表現の技巧が、強い印象を生んでいる。
挿絵解説引用終わり
では、本文のすばらしい「序」をご紹介します。

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2007年09月01日

洗練された日本精神3

美徳としての克己

「誇り高く優雅な国、日本」という本をご紹介します。
 著者は1873年グァテマラ市に生まれ1927年パリで亡くなった、エンリケ・ゴメス・カリージョという報道文学者で、父親はスペイン貴族の血筋に誇りを覚える保守的な人物ということです。
大国ロシアとの戦いに勝って西欧諸国を唖然とさせた日本は、当時ヨーロッパ中の注目の的となっていました
 来日は1905年8月末横浜到着となっており、確かな滞在日数は不明ですが、ほぼ二ヶ月後にはフランスへの帰途についたようです。帰路の旅先から、彼はパリにいる友人のルベン・ダリーオ(ニカラグアの大詩人)にあてた手紙の中で「もしあなたが私の葬式で弔辞を述べるようなことがあったら、私の魂が東洋の芸術家のそれであったということ、そして金色に輝く漆で大和の花や小鳥や娘たちの姿を描きたいと願っていたということを忘れずに人々に伝えてほしい」と書き送っています。
では「洗練された精神」と題する章から引用してみます。
前回からの続きになります。
写真は武士道の記述に出てくる山岡鉄舟
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引用開始
 これを、諸君は優しさの欠如であると思われるであろうか。日本人の親ほど情愛深い親は世界でも珍しい。彼らが微笑むのは、口許に微笑を浮かべずに悲しいことを話してはならないという厳しい掟に従っているからだ。ハーンによれば、「この掟がある理由はさまざまである。怒りや悲しみはそれがどんなに大きなものであれ、じかに人に見せるのは無益で時には不作法なものであるという確信が、最下層の農夫の心の中にさえ根をおろしている。
 誰か村人が泣いているようなところに出くわすと、彼はあわてて涙を拭い、われわれにこう言うのだ、“非礼をお許し下さい”と。 このような道徳的な理由の他にも、かのギリシャ芸術が痛ましい表情を和らげて表現したのと同じ美的見地からの理由もある」。

 確かに、ハラキリの場面を描いた絵の中でも主人公はつねに微笑んでいる。拷問や末期の苦悶も武士の唇を歪めさせることはできない。ミットフォードは、滝善三郎自刃の厳かな場面で、居並ぶ者たちがみな深刻な顔をしているのに本人だけは微笑んでいると指摘している。
 ミットフォードは語る。「ゆっくりと、至極ゆっくりと、善三郎は微笑しながら歩を進め、居並ぶ人々に深々と頭を下げて挨拶し、次いで祭壇の前で礼拝し、赤い毛氈の上に座る。そこが腹を切り開く場所である。一人の友人が、剃刀のように研ぎ澄まされた短刀を差し出す。善三郎は“すべての罪は私にある”と言う」。そして悲劇的な贖罪の儀式がはじまる。「彼は従容として刀を手に取ると、左から右へ急ぐことなく腹を切り、最後に頭を深く前へ下げる」。 この崇高なる礼は、外国人たちが馬鹿にする軽々しいお辞儀と同じものである。大和の人間はどのような状況のもとでも態度を変えないのだ。挨拶をするときも人を殺すときも同じであり、人を殺すときも自分が死ぬときもまた同じである。彼らは物心がつくようになると克己の精神を養う。・・・・・
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2007年08月31日

洗練された日本精神2

礼儀作法の厳格さ

「誇り高く優雅な国、日本」という本をご紹介します。
著者は1873年グァテマラ市に生まれ1927年パリで亡くなった、エンリケ・ゴメス・カリージョという報道文学者で、父親はスペイン貴族の血筋に誇りを覚える保守的な人物ということです。
 大国ロシアとの戦いに勝って西欧諸国を唖然とさせた日本は、当時ヨーロッパ中の注目の的となっていました。
 来日は1905年8月末横浜到着となっており、確かな滞在日数は不明ですが、ほぼ二ヶ月後にはフランスへの帰途についたようです。帰路の旅先から、彼はパリにいる友人のルベン・ダリーオ(ニカラグアの大詩人)にあてた手紙の中で「もしあなたが私の葬式で弔辞を述べるようなことがあったら、私の魂が東洋の芸術家のそれであったということ、そして金色に輝く漆で大和の花や小鳥や娘たちの姿を描きたいと願っていたということを忘れずに人々に伝えてほしい」と書き送っています。
では「洗練された精神」と題する章から引用してみます。
写真は明治42年頃の上野駅の画
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引用開始
 日本では農夫でさえ、モリエールの貴婦人たちと同じように慇懃な美文調で話す。詩人芭蕉の伝記の中に、興味深くまた含蓄のある逸話がのっている。数人の樵が山中でこの俳諧の創始者に出会ったとき、こう言う。「あなた様のご助言を乞う非礼を、あなた様の御令名に免じてお許し下さい」。これを、記録者が庶民の言葉を書きしるす際に誇張したものだなどと思ってはいけない。礼儀は、帝からクーリー(苦力)にいたるまで、だれもが細心の注意を払って行う国の宗教である。

 マセリエールが言及している室鳩巣の書を読めば、かの時代には礼法が民衆の間にまで浸透しており、いたって貧しい者でも相手を侮辱したり不作法な態度をとることはなかったことがわかる。労働者は、彼らの用語範囲内でできるかぎりの謙譲語を使用して丁寧に話をした。
 侍について鳩巣はこう言っている。「彼らの言葉はきわめて洗練されており上品なので、民衆にはほとんどわからない」。
 島流しになったある武士は、本土から遠く離れたその島で細工物を作る仕事をしていたが、いかに庶民の言葉を身につけようと努力しても、仲間の労働者たちに正確に理解してもらえず、気違い扱いされたという。
 上流階級の文法によれば、表現すべき尊敬の種類によって動詞の語尾が変る。“召使いは籠を持っていた” というのと“ご主人は刀を持っていた” というのは同じではない。各音節が尊敬や軽蔑、敬意や尊大さ、お辞儀やしかめっ面をあらわす。学者たちは何年でも飽きもせずに丁寧語や尊敬語の定義について議論をしている。洗練された習慣には、十分に洗練された言語が必要なのだ。あらゆるものが礼儀作法の厳格な法に則っている。・・・・・
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2007年08月30日

洗練された日本精神1

礼に始まり礼に終わる

「誇り高く優雅な国、日本」という本をご紹介します。
著者は1873年グァテマラ市に生まれ1927年パリで亡くなった、エンリケ・ゴメス・カリージョという報道文学者で、父親はスペイン貴族の血筋に誇りを覚える保守的な人物ということです。
 大国ロシアとの戦いに勝って西欧諸国を唖然とさせた日本は、当時ヨーロッパ中の注目の的となっていました
 来日は1905年8月末横浜到着となっており、確かな滞在日数は不明ですが、ほぼ二ヶ月後にはフランスへの帰途についたようです。帰路の旅先から、彼はパリにいる友人のルベン・ダリーオ(ニカラグアの大詩人)にあてた手紙の中で「もしあなたが私の葬式で弔辞を述べるようなことがあったら、私の魂が東洋の芸術家のそれであったということ、そして金色に輝く漆で大和の花や小鳥や娘たちの姿を描きたいと願っていたということを忘れずに人々に伝えてほしい」と書き送っています。
では「洗練された精神」と題する章から引用してみます。
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引用開始
 日本人が持つ社会的特性のうちでもっとも一般的な徳が礼儀正しさであることは、偉大な日本研究家でなくとも、またわざわざ観察する必要もないくらいすぐにわかることである。われわれは日本のどこの港であろうと下船するやすぐに、人々の深々としたお辞儀や頭を軽く下げる動作や微笑みを目にすることになるからだ。だれもが微笑み、だれもが平伏している。われわれに何かを教えてくれるときや質問に答えるとき、あるいは何かの説明書をくれるとき、とにかく何のためでも、いつでも、どこでも、日本人はいちいち微笑んでお辞儀をする。さらにこれが対話となれば、一句ごとに雅語を入れねばならないし、一言ごとに頭を下げることとなる。

 日本語には、侮辱語や粗野な言葉がないかわりに、人を誉めそやす言葉は山ほどある。そして彼らは誇りをまるで信仰のように培っている人々でありながら、もっとも謙虚に平伏することを知っている。「日本は微笑みとお辞儀の国であり」とロティは言う、「おびただしい数の行儀作法を有し、それをヨーロッパ人が復活祭のときにすら経験することのない熱心さで行っている」と。これがまさしく、どんなうかつな旅行者でも通りに一歩足を踏みこんだ途端に目にするものである。ましてや民族の魂の中まで入りこみたいと思っている旅行者なら、それがさまざまな形で日本人の生活の隅々にまで行きわたっていることをはっきりと知ることができる。
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2007年03月23日

日本人の趣味

ほんものの平等精神

英国人バジル・ホール・チェンバレンは、1850年生にまれ、1873年(明治六年)5月に来日、1905年(明治三十八年)まで三十年以上にわたり日本で教師として活躍しました。彼の著「日本事物誌2」から、芸術についてと貴族についての部分を見てみましょう。
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引用開始
 絵画や家の装飾、線と形に依存するすべての事物において、日本人の趣味は渋み――の一語に要約できよう。大きいことを偉大なことと履き違えているこけおどし、見せびらかしと乱費によって美しさを押し通してしまうような俗悪さなどは、日本人の考え方のなかに見出すことはできない。
 東京や京都の住居では、座敷の床の間に一枚の絵画と一個の花瓶があってときどき取替えられるだけである。確かに絵も花瓶も素晴らしいが、西洋人と違って、「どうです、高価な品物がたくさんあるでしょう。私がどんなに素敵な金持ちであるか、考えてもごらんなさい」と言わんばかりに、この家の主人が財物を部屋いっぱいに散らばして置くようなことはないのである。

 高価なお皿を壁に立てかけて置くようなこともない――お皿は食物を入れておくものである。どんなにお金持ちでも、たった一回の宴会のために、1000ポンド、いや20ポンドでも切花のために無駄使いをするようなことはない――切花は単純な物で、しかもすぐ枯れて駄目になってしまう。
 家宝として宝石でも買えるような大金を花などに使ってしまうのはもったいないことである。しかも、この中庸の精神によって、いかに幸福がもたらされることか! 金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。実に、貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない。ほんものの平等精神が(われわれはみな同じ人間だと心底から信ずる心が)社会の隅々まで浸透しているのである。

 ヨーロッパが日本からその教訓を新しく学ぶのはいつの日であろうか――かつて古代ギリシア人がよく知っていた調和・節度・渋みの教訓を――。アメリカがそれを学ぶのはいつであろうか――その国土にこそ共和政体のもつ質朴さが存在すると、私たちの父祖達は信じていたが、今や現代となって、私たちはその国を虚飾と奢侈の国と見なすようになった。それは、かのローマ帝国において、道徳的な衣の糸が弛緩し始めてきたときのローマ人の、あの放縦にのみ比すべきものである。

 しかし、日本が私たちを改宗させるのではなくて、私たちが日本を邪道に陥れることになりそうである。すでに上流階級の衣服、家屋、絵画、生活全体が、西洋との接触によって汚れてきた。渋みのある美しさと調和をもつ古い伝統を知りたいと思うならば、今では一般大衆の中に求めねばならない。――花をうまく活けたいと思うならば、わが家の下男に訊ねるがよい。庭の設計が気にくわない――どうも堅苦しすぎる。それかといって、自分で指図して直させてみると、ごたごたと格好のつかぬものになってしまう。そんなときには、相談役として料理番か洗濯屋を呼ぶがよい。・・・
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2007年03月22日

豹変する欧米の態度

教師としてきた西洋の低い道徳レベル

 英国人バジル・ホール・チェンバレンは、1850年生にまれ、1873年(明治六年)5月に来日、1905年(明治三十八年)まで三十年以上にわたり日本で教師として活躍しました。彼の著「日本事物誌1」から、
写真前列中央が東郷元帥左端は秋山真之首席参謀
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引用開始
 日本の進歩が経済的、行政的、科学的、人道的なものにすぎなかった間は、ヨーロッパは日本に対して、賢くて熱心な大学生の宿題を見るように、暖かい眼で眺めていた。ところが、この少年が完全な軍人として姿を現したとき、ヨーロッパの態度は変わり始めた。
 過去三十五年間に四度の戦争があった。最初は1894〜5年に中国に対して行われた。朝鮮に関する両帝国の長い間の論争を解決するためになされたものであった。
 この戦争によって、日本は、シナ帝国(清)に政治力があると考えられていたが、実は水の泡にすぎず、ぷつりと穴をあけると消えてしまうものであることを証明した(ヨーロッパは、とうの昔にこのことに気がつくべきであった)。宣戦を布告して一年もたたぬうちに、中国は大きな賠償金を支払うとともに、遼東半島を日本に割譲せねばならなくなった。

 しかし日本は、それだけでは未だヨーロッパの完全な尊敬を得るに至らなかった。ロシアは当時恐るべき軍事力を持つ強国と考えられていたが、遼東半島を自分のものにしたいと考えた。そこでロシアは、従順な同盟国フランスと、ベルリンの宮廷(これは代々の友情の絆によってセント・ペテルスブルグの宮廷と結びついていた)を招集した。この三国が共同して、中国本土の領地は少しでも割譲することを禁じた。日本はこのような三国連合の干渉に直面する用意もなく、台湾島だけで満足しなければならなかった。

 日本の憤激は大きかった。勝利を得た喜びも捨て去られた。特に幻滅の悲哀を感じさせられたのは、ドイツがこの不浄な同盟に参加したことであった。ドイツは日本の官界が常に賞讃し模範としていた国であり、その敵対的妨害は、日本にとって青天の霹靂であった。

 中国領土の不可侵のためにドイツが干渉した真意は、二年後に明らかとなった(1897年)。ドイツは隣の膠州湾を奪ったのである。
 明治天皇治世における第二回目の軍事遠征は、1900年(明治二十三年)に起った。北京にいた少数の外国人が、圧倒的多数の敵に対して防衛している光景を世界中の人びとが仰天して眺めていたとき、連合軍の中の日本分遣隊が、真先に救助に乗り込んだのであった。

 このように、ヨーロッパの軍人に直接接触したことによる付随的な結果の一つは、日本人をしてヨーロッパを尊敬する気持を減少せしめた。すなわち、科学において、或は応用技術において、教師として尊敬してきた西洋が、自分たちよりも道徳的に少しも良くないということ――実際に劣っているということを発見したのである。
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2007年03月21日

日本人の清潔好き

日本の大衆は世界で最も清潔

 英国人バジル・ホール・チェンバレンは、1850年生にまれ、1873年(明治六年)5月に来日、1905年(明治三十八年)まで三十年以上にわたり日本で教師として活躍しました。彼の著「日本事物誌1」から、
画像はモースの「百年前の日本」からです。
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引用開始
 清潔は、日本文明のなかで数少ない独創的なものの一つである。・・・
一般的に考察して、世界に冠たるこの日本人の清潔は、敬神と関係はない。日本人はきれい好きだから清潔なのである。彼らの熱い入浴は――というのは、彼らのほとんどすべてが華氏で約110度の非常に熱い湯に入る――冬は身体を温かくもしてくれる。生ぬるい湯は反作用として寒気を惹き起こすが、お湯がきわめて熱いときには、そういうことはなく、かえって風邪をひく心配もないのである。

 東京の町には銭湯(公衆浴場)が1100以上あり、毎日五十万人が入湯するものと算定される。普通料金は大人が六銭、子どもが三銭、乳児は二銭である。さらに、立派な人の家には、それぞれ浴室がある。他の都市には(村にも)同様の設備がある。いつもとは限らないが、一般的に言って、男女を別々にわける仕切りがある。浴場設備や自宅の浴室がないときは、人びとはたらいを家の外に出す(行水)。ただし、現代法規を実施する責任を持つ警官が近所を巡回して来ないときに限る。西洋人はわざとらしく上品ぶるが、日本人はそれにもまして清潔を尊ぶのである。

 ヨーロッパ人の中には日本人のやり方のあらを探そうとして、「日本人は風呂へ入ってから上ると、また汚い着物を着る」と言うものがいる。なるほど旧派の日本人には、毎日下着を替えるヨーロッパの完全なやり方などはない。しかし、下層階級の人でも、身体はいつも洗って、ごしごしこするから、彼らの着物は、外部は埃で汚れていようとも、内部がたいそう汚いということは、とても想像できないのである。日本の大衆は世界で最も清潔である。

 日本人が風呂に入る習慣の魅力は、この国に居住する外国人のほとんどすべてがそれを採用しているという事実によって証明される。温浴のほうが冷水浴よりも健康的であるのは、気候のためでもあるらしい。冷水浴を続けると、リューマチにかかる者もあり、熱を出す人もあり、絶えず風邪を引いたり、咳がとまらなくなる人もある。そこで、外国人はほとんどすべてが廻り道をして、結局は日本式に到達するのである。日本式の温浴に外国が寄与したものがあるとするならば、その主たるものは、個人専用浴室を使うことになったことであろう。
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2007年03月20日

明治の日本陸軍

古くから浸みわたっている民主的精神

 チェンバレンの著「日本事物誌1」は、「私は日本のことについて、常によく質問を受ける。そこで、その返事を辞書の形にして――単語の辞書てはなくて事物の辞書という形にして――本書をまとめたのである」という如く、事物毎の目次構成となっています。
英国人バジル・ホール・チェンバレンは、1850年生にまれ、1873年(明治六年)5月に来日、1905年(明治三十八年)まで三十年以上にわたり日本で教師として活躍しました。
「日本事物誌1」から陸軍についての部分を見ます。
画像二列目左から二人目が乃木大将、右がステッセル
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引用開始
 1600年から二世紀半の間、徳川将軍の強力な統治下において平和が続いたが、昔の軍事形態はそのまま維持されていた。それが明治天皇の治世の初頭(1868年)に突然、粉みじんに砕けた。このときフランスから軍事顧問団が招聘され、ヨーロッパ大陸の徴兵制度が導入されて、むかしの日本の騎士が身につけた、絵のように美しいが足手まといになる装飾に代わって、近代式の軍服が登場した。

 1877年(明治十年)薩摩の反乱(西南戦争)を鎮圧したとき、日本軍人は砲火の洗礼をあびた。日本軍人は日清戦争(1894〜5)において偉功を立て、外国の専門家たちを驚嘆させた。特に兵站部の組織は徹底的に行き届いたもので、峻烈な気候と貧しい国土にあって、敢然とその任務に当った。
 統率もまずく栄養も不良で、生れつき戦争嫌いの中国人は、逃走することが多かった。日本人の胆力を示す機会はほとんどなかった。しかしながら1894年9月15日の平壌の戦闘、続いて満洲に進軍し、同年11月に旅順を占領したのは注目すべき手柄であった。
 さらに1900年(明治三十三年)、北京救出のため連合軍とともに進軍した日本派遣軍は、もっとも華々しい活躍を見せた(北清事変)。彼らはもっとも速く進軍し、もっともよく戦った。彼らはもっともよく軍律に従い、被征服者に対してはもっとも人道的に行動した。

 日露戦争(1904〜5)は同様のことを物語っている。日本は今や、その大きさにおいては世界最強の軍隊の一つを所有していると言っても過言ではない。この事実には――事実と仮定して――さらに驚くべきものがある。それは、日本陸軍が作者不明(という言葉を使わせてもらえば)だからである。世界的に有名な専門家がこのすばらしい機構を作りあげたのではない――フレデリック大王も、ナポレオンもいない。それは、狭い範囲以外にはほとんど知られていない人びとが作りあげたものである。
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2007年03月19日

日本事物誌

英国人バジル・ホール・チェンバレンは、1850年生にまれ、1873年(明治六年)5月に来日、1905年(明治三十八年)まで三十年以上にわたり日本で教師として活躍しました。その後1910年(明治四十三年)から1911にかけて一度だけ来日したのが最後となり、1935年(昭和十年)ジュネーヴで死去しています。今回ご紹介するチェンバレンの著「日本事物誌1」は、
 「私は日本のことについて、常によく質問を受ける。そこで、その返事を辞書の形にして――単語の辞書てはなくて事物の辞書という形にして――本書をまとめたのである」という如く、事物毎の目次構成となっています。が、引用にあたって、1905年の序論に興味深い記述がありますので、そこから始めたいと思います。
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引用開始
 サー・エドウィン・アーノルドが東京に来たとき、官吏、ジャーナリスト、教授たちなど、事実上、最高級の現代日本人を代表する顕著な人々の晩餐会に招かれた。サー・エドウィンは、このもてなしに感謝して演説をした。その演説の中で、彼は日本を高く賞賛し(賞賛するのは当然だが)、地上では天国、或は極楽にもっとも近づいている国だと賞めた
 その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙譲であるが卑屈に堕することなく,精巧であるが飾ることもない。これこそ日本を、人生を生き甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より一段と高い地位に置くものである(これらは彼の言葉通りではなく、彼の一般的な趣旨を述べたものである)。

 ――さて、日本人はこのような讃辞の雨に対して、満足したと諸君は思うであろうか。少しも満足していないのである。晩餐会に出席した主要新聞の翌朝の論説は、サー・エドウィンの言葉が真実であることを認めながらも、その演説は賞讃を伝えるものではなくて、無慈悲な非難の言葉であることを指摘した。
 編集者はその中で叫んでいる。「なるほど、美術、景色、やさしい性質か! なぜサー・エドウィンは、巨大な産業企業、商業的能力、国富、政治的賢明さ、強力な軍備を賞めなかったのか。もちろん、彼は心の底からそのように言い切ることができなかったからである。彼はわれわれの本当の値打ちを評価したのである。要するに彼の言わんとすることは、われわれは単にかわいらしい柔弱者にすぎないということである」と。
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2007年03月10日

イザベラ・バード2

初めて見る外国人

 イザベラ・バードの「日本奥地紀行」では、彼女が訪れる村の人々にとっては彼女が初めて見る外国人でした。そのあたりの記述はたくさんありますが、その中から一つと、彼女の旅に同道した日本人たちに対する彼女の評価や日本人の子どもこと等を掲載してみます。
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引用開始
 外国人がほとんど訪れることもないこの地方では、町のはずれで初めて人に出会うと、その男は必ず町の中に駆け戻り、「外人が来た!」と大声で叫ぶ。すると間もなく、老人も若者も、着物を着た者も裸の者も、目の見えない人までも集まってくる。宿屋に着くと、群衆がものすごい勢いで集まってきたので、宿屋の亭主は、私を庭園の中の美しい部屋へ移してくれた。ところが、大人たちは家の屋根に登って庭園を見下ろし、子どもたちは端の柵にのぼってその重みで柵を倒し、その結果、みながどっと殺到してきた。・・・・・・

 私は、宿を出ると、千人も人々が集まっているのを見た。・・・・
これら日本の群集は静かで、おとなしく、決して押しあいへしあいをやらない。・・・・・
(次の宿を)朝早く起き、ようやくここを出発することができた。
 二千人をくだらぬ人々が集まっていた。私が馬に乗り鞍の横にかけてある箱から望遠鏡を取り出そうとしたときであった。群衆の大逃走が始まって、老人も若者も命がけで走り出し、子どもたちは慌てて逃げる大人たちに押し倒された。伊藤(通訳)が言うのには、私がピストルを取り出して彼らをびっくりさせようとしたと考えたからだという。そこで私は、その品物が実際にはどんなものであるかを彼に説明させた。優しくて悪意のないこれらの人たちに、少しでも迷惑をかけたら、心からすまないと思う。

 ヨーロッパの多くの国々や、わがイギリスでも地方によっては、外国の服装をした女性の一人旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられるのであるが、ここでは私は、一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金をとられた例もない。
 群集にとり囲まれても、失礼なことをされることはない。馬子は、私が雨に濡れたり、びっくり驚くことのないように絶えず気をつかい、革帯や結んでいない品物が旅の終わるまで無事であるように、細心の注意を払う。

 旅が終わると、心づけを欲しがってうろうろしていたり、仕事をほうり出して酒を飲んだり雑談をしたりすることもなく、彼らは直ちに馬から荷物を下ろし、駅馬係から伝票をもらって、家へ帰るのである。ほんの昨日のことであったが、革帯が一つ紛失していた。もう暗くなっていたが、その馬子はそれを探しに一里も戻った。彼にその骨折り賃として何銭かをあげようとしたが、彼は、旅の終わりまで無事届けるのが当然の責任だ、と言って、どうしてもお金を受けとらなかった。彼らはお互いに親切であり、礼儀正しい。それは見ていてもたいへん気持がよい。・・・・
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2007年03月09日

イザベラ・バード1

日光金谷家とホテル

 皆様よくご存知の、英国婦人イザベラ・バードの「日本奥地紀行」の、1878年(明治十一年)六月十五日から始まる、「日光 金谷家にて」という部分があります。この日光金谷家は現在の日光金谷ホテルの前身で、現在のホテルの「歴史の紹介」ページにもイザベラ・バードが宿泊したことが載せられています。
では「日本奥地紀行」から金谷家に関する部分を少しご紹介します。
画像は当時の金谷家
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引用開始
 私が今滞在している家について、どう書いてよいものか私には分からない。これは、美しい日本の田園風景である。家の内も外も、人の目を楽しませてくれぬものは一つもない。宿屋の騒音で苦い目にあった後で、この静寂の中に、音楽的な水の音、鳥の鳴き声を聞くことは、ほんとうに心をすがすがしくさせる。家は簡素ながらも一風変わった二階建てで、石垣を巡らした段庭上に建っており、人は石段を上って来るのである。庭園はよく設計されており、牡丹、あやめ、つつじが今花盛りで、庭はとてもあざやかな色をしていた。・・・・

 金谷さんの妹は、たいそうやさしくて、上品な感じの女性である。彼女は玄関で私を迎え、私の靴をとってくれた。二つの縁側はよく磨かれている。玄関も、私の部屋に通ずる階段も同じである。畳はあまりにきめが細かく白いので、靴下をはいていても、その上を歩くのが心配なくらいである。磨かれた階段を上ると、光沢のあるきれいな広い縁側に出る。ここから美しい眺めが見られる。・・・・・

 金谷さんは神社での不協和音(雅楽)演奏の指揮者である。しかし彼のやる仕事はほとんどないので、自分の家と庭園を絶えず美しくするのが主な仕事となっている。彼の母は尊敬すべき老婦人で、彼の妹は、私が今までに会った日本の婦人のうちで二番目に最もやさしくて上品な人であるが、兄と一緒に住んでいる。
 彼女が家の中を歩きまわる姿は、妖精のように軽快優雅であり、彼女の声は音楽のような調べがある。下男と、彼女の男の子と女の子を入れて一家全員となる。金谷さんは村の重要人物で、たいへん知性的な人である。・・・・・

 近ごろ彼は、収入を補うために、これらの美しい部屋を紹介状持参の外国人に貸している。彼は外国人の好みに応じたいとは思うが、趣味が良いから、自分の美しい家をヨーロッパ風に変えようとはしない。・・・・
 個人の家に住んで、日本の中流階級の家庭生活の少なくとも外面を見ることは、きわめて興味深いことである。

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2007年03月07日

公使夫人と明治日本4

大津事件当時の日本

写真はフレイザー夫妻の箱根の別荘
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 1889年(明治二十二年)四月に来日した駐日英国全権公使ヒュー・フレイザー夫人、メアリー・クロフォード・フレイザーの著「英国公使夫人の見た明治日本」という本から、有名な大津事件、ロシア皇太子が襲撃された時の記述を掲載して見ます。

引用開始
1891年6月・東京
 五月十一日、もっとも恐ろしい打撃がこの不運な国を襲いました。そして数週間が過ぎた今でさえ、それ以外のことを考えることも話すこともでません。ご来日があれほど熱望され、その歓待には帝国が万策を尽すこととなり、その人にはかつていかなる外国の王子も受けたことのない栄誉をと、天皇陛下がお考えになっておられたあのロシアの皇太子殿下が、沿道の警備にあたっていた巡査のひとりに襲われ、瀕死の重傷を負われたのです。・・・・・

 ロシア皇太子は琵琶湖をご覧になるため京都を出発されていました。この湖の近辺の周遊の際にたいてい基地とされる大津という名の小都市で、県知事とともに昼食をとられました。その地方の道路では馬車が通ることができないので、皇太子と随員たちは、一台をふたりの車夫が引く人力車にお乗りになりました。・・・・
 道の両側には任務遂行に信頼が置ける選り抜きの警察官たちが短い間隔をおいて並んでいました。しかし彼等の働きが現実に必要となることなど、誰も夢にも思いませんでした。少しの妨害も受けることなく、外国人がこの帝国の端から端まで旅行できるということが、新生日本の自慢なのです。その上、この外国人は、敬愛される天皇陛下の賓客なのでした。

 並んでいた警官のなかに津田三蔵という男がいました。かつて陸軍曹長だった男で、西南戦争での働きによって勲章も受けています。・・・・
 皇太子が彼の前を通られた時、彼はそのすばらしい日本刀を抜き、皇太子の頭へ必殺の打撃を加えようとしたのです。
人力車はかなりの速度で走っていたため、刀は滑って帽子を切り、そのままもう一箇所に傷を加えたのです。
 
 それから津田自身が倒れた時、刀も地面に落ちたのです。というのは、車夫のひとりがかじ棒を降ろして巡査に素手で飛びついていったためで、もうひとりの車夫はその刀をつかんで、暗殺者が最初の車夫と格闘しているあいだに、彼にはげしく切りつけたのです。皇太子ご自身は、流れる血で眼が見えなくなりながらも、人力車のかじ棒が降りた時に飛び降りられ、知事や他の日本の役人たちが乗っている人力車の方へ走られました。ただちに知事は皇太子に手を貸し、かたわらの開いていた店の中へとお連れしました。一方、行列は大混乱に陥っていました。護衛たちが津田に飛びかかり、捕り押さえました。・・・・
そして翌朝早く、国じゅうの悲嘆と憤慨の騒乱のなかを、天皇陛下ご自身が供奉員全員をしたがえ、京都へむかわれました。・・・・
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2007年03月05日

公使夫人と明治日本2

中国観や皇后陛下の慈善事業

 今回ご紹介しているのは、1889年(明治二十二年)四月に来日した駐日英国全権公使ヒュー・フレイザー夫人、メアリー・クロフォード・フレイザーの著「英国公使夫人の見た明治日本という本です。
 彼女の日本に対する気持は「回想録」のなかで、「私のふたつのほんとうの故郷、日本とイタリアでは、美がしっかりと生きています。それは、たんにあなたが目にするひとつのみごとな景色のことではなく、風景にふれることと啓示を受けることが一体になりうるということです。自然は或る瞬間に何かを語りかけます。それはあなただけにたいしてであり、和音が言葉に置きかえられないように、翻訳できないものです。しかし、それは明晰で、ごまかしようもなく、神々しいものなのです・・・」という言葉に表れているでしょう。では、書簡風のこの本から。
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引用開始
1889年6月・中国観や皇后陛下の慈善事業
 東京で出されている新聞のひとつに、「日々新聞」というのがありますが、最近、日本と中国の相互関係について、きわめて公正な評論を発表しております。
 私がそれに興味を持ちますのは、私たちがこちらへくる前に、ずいぶん長く中国にいたからです
 船でただの五日の隔りでしかありませんが、中国はこれまでのところ、現代の日本についてはっきりした考えを持っているとは、けっして申せません。中国は、自分より年若いこの国民にたいして、一定の威張った気持を捨て去ることができないのです。たしかに日本は、かつて中国の熱心な生徒ではありました。しかし何度も主張されていますように、けっして中国に貢ぎ物を運ぶ国ではなかったのです。

 「日々」の記者は、中国問題を扱う際に慎重さがなによりも必要であると力説します。というのは、中国はなかば嫉妬から、またなかば日本への軽蔑から、いつでも喧嘩の種を拾いあげる態勢にあり、これは双方にとり、きわめて不都合なことになりかねない、と言うのです。
 他方、日本は中国と闘っていまだ負かされたことがないという誇らしい自意識と、隣国が日本をゆえなく軽蔑しているに違いないという不快な確信とを合体させているとものべています。喧嘩はさし迫っているように思われますが、記者は賢明にも、同胞にたいして、それが双方になんの益ももたらさないこと、

 そして西洋列強に、調和を回復させるという名目で、領地を奪い影響力をのばす機会をあたえるだけだということを想起させています。中国人は、現代の日本人とは、ほとんどなにも共通のものを持たないように思われます。そして、そして、私たちが「天上国」の外交官たちに公式の晩餐会で会いますと、彼らは休戦旗を掲げて敵中に暮らす人々といった風情で、しかも、そのような事態をけっして喜んではいない、という印象をあたえます。・・・・・・・
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posted by 小楠 at 07:49| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A

2007年03月03日

公使夫人と明治日本1

1890年3月・雛祭り

 1889年(明治二十二年)四月に来日した駐日英国全権公使ヒュー・フレイザー夫人、メアリー・クロフォード・フレイザーの著「英国公使夫人の見た明治日本という本から、特に今日がひな祭りの日なので、目次の順を無視して、静養先の熱海の旅館での場面とひな祭りに招待された時の記述を少し掲載してみます。
写真は著者メアリーと雛祭りでの華族の少女
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引用開始
 私がある華族の名家の少女を訪問していた時のことです。それは彼女の母親が主催する招待日で、きれいな茶会テーブルの上の茶碗のかたわらに、雛祭りにだけ用いられる濃い白酒の小さな瓶がいくつか並んでおりました。
 私がその部屋に入って二、三分にもならないころ、彼女が言いました。「人形をご覧になられますでしょうか? 別の部屋においで下さる労をおかけしますことをどうかお許しください」。そしてこの日のヒロインである五歳の小さな女の子は、私の前に立って案内するのでした。

 彼女は瑠璃色の縮緬を着ていましたが、その裾は淡い青に、肩は濃い紫をおび、かわいらしい模様の刺繍が金糸でほどこされ、高貴な緋と金の帯がしめられていました。頭上につややかに結いあげられた髪は、宝石をちりばめたピンで止められ、そしてまるいふたつの頬には紅がやや目立って掃かれていました。
 完璧に落ち着きはらって彼女は私の手を取り、奥の間へ導いてくれました。

 そこですばらしい光景に目を奪われたのです。深紅の綾で覆われた階段状の棚に幾百もの人形が並べられ、もっとも熱心な人形愛好家のみが夢想しうるような家具や調度も揃っていました。
 いずれの組も、天皇と皇后は廷臣全員にかこまれて玉座に坐っているのです。将軍も大臣も楽師、舞い手たちも皆、はるか昔の衣裳です。腰掛けや床机、絵の描かれた屏風、金蒔絵の什器、そして楽器や武具、すべてが、西洋のもっともすばらしい骨董品をも凌ぐ、あくなき出費と凝りに凝った仕上げでつくられているのです。

 このようなみごとな骨董品にまじって今出来のフランスやイギリスの人形が置いてあるのは、妙な気がします。でもこの小さなレディーはコスモポリタンな趣味の持ち主で、ネジをまかれると歩いたり歌ったりする生き物をとくにめでるのでした。これらのお雛様たちすべてを讃嘆し、それらをみごとに並べたことについて、彼女にお祝いの言葉を言った後、私は彼女に、この厖大な数の人形のなかでどれがお気に入りかしら、とたずねてみました。
 まことの日本人の血を受けつぐ彼女は、ただちに、この前のクリスマスに私からもらった湯舟に浮かぶ陶器の赤ん坊を指さしました。それから一瞬ためらった後、フランス公使夫人から届けられた豪華なパリ娘の人形を指したのでした。・・・・・・・

 日本の女の子! 彼女はあまりに多くの魅力的な矛盾をもつ生き物です。暖かい心と敏捷な頭脳、それでいて恐ろしくせまい経験。第二の天性となった従順さと控え目。それでいて彼女のもともとの天性が再び優位に立ち、勇気が慣習より強すぎる時の、彼女の勇敢な反抗・・・・・

 私が読んだ日本についての書物はつねに、庶民の、かわいい茶店の少女ムスメーや、芸術家にして踊り子、かの機知に富む日本の聡明な高級娼婦ゲイシャについて、じつに多くのことを語っていました。でも思うに、ミュージック・ホールの歌手がヨーロッパの慈善修道女を代表しえないように、こういったムスメーやゲイシャは普通の日本女性を代表してはいないでしょう。このような女性たちが西洋の同等の階層よりもはるかに不快でないのは、疑いもなく、日本の女性の生来の洗練によるのです。・・・・
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2007年03月02日

モースの日本観察6

子供の親切な扱いは世界一

モース著の「日本その日その日2」から、モースの観察した1877年の日本の一部をご紹介しています。今回もまた日本の子供たち、学生たちのことが書かれています。モースのご紹介はこれで最終にします。
スケッチは当時の人力車
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引用開始
 昨日の午後、実験室を出た私は、迷子になろうと決心して、家とは反対の方へ歩き出した。
 果して、私は即座に迷子になり、二時間半というものは、誰も知った人のいない長い町々や狭い露路をぬけて、いろいろな不思議な光景や新奇な物を見ながら、さまよい歩いた。
 晩の五時頃になると、人々はみな自分の店や家の前を掃き清めるらしく、掃く前に水をまく者も多かったが、これは若し実行すれば、我国のある町や都会を大いに進歩させることになる、いい思いつき、且つ風習である。

 帰途、お寺へ通じる町の一つに、子供の市が立っていた。並木路の両側には、各種の仮小屋が立ち並び、そこで売っている品は必ず子供の玩具であった。
 仮小屋の番をしているのは老人の男女で、売品の値段は一セントの十分の一から一セントまでであった。子供たちはこの上もなく幸福そうに、仮小屋から仮小屋へ飛び廻り、美しい品々見ては、彼等の持つ僅かなお小遣いを何に使おうかと、決めていた。

 一人の老人が箱に似たストーブを持っていたが、その上の表面は石で、その下には炭火がある。横手には米の粉、鶏卵、砂糖――つまりバタア(麺粉、鶏卵、食塩等に牛乳を加えてかきまわしたもの)――の混合物を入れた大きな壷が置いてあった。老人はこれをコップに入れて子供達に売り、小さなブリキの匙を貸す。子供達はそれを少しずつストーブの上にひろげて料理し、出来上がると掻き取って自分が食べたり、小さな友人達にやったり、背中にくっついている赤坊に食わせたりする

 台所に入り込んで、しょうがパンかお菓子をつくった後の容器から、ナイフで生麺の幾滴かをすくい出し、それを熱いストーヴの上に押しつけて、小さなお菓子をつくることの愉快さを思い出す人は、これ等の日本人の子供のよろこびようを心から理解することが出来るであろう。・・・・
 老人の仮小屋は移動式なので、彼は巨大な傘をたたみ、その他の品々をきっちり仕舞い込んで、別の場所へ行くことが出来る。これは我国の都市の子供が大勢いる所へ持って来てもよい。これに思いついて、貧乏な老人の男女がやってもよい。
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2007年03月01日

モースの日本観察5

熱心な学生たち

モース著の「日本その日その日2」から、モースの観察した1877年の日本の一部をご紹介しています。ここでは上野の教育博物館や大学の学生について、そして有名な大森貝塚発見の最初の記述などが見られます。
スケッチは発掘品の一部
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引用開始
 九月十一日、大学の正規な仕事は、今朝八時、副綜理ドクタア浜尾司会の教授会を以て、開始された。・・・・午後には先任文部大輔が、大学の外人教授たちを、上野公園の教育博物館へ招いて接待した。・・・・・
 我々の持つ教育制度を踏襲した日本人が、その仕事で使用される道具類を見せる博物館を建てるとは、何という聡明な思いつきであろう。ここに、毎年の予算の殆ど三分の一を、教育に支出する国民がある。それに対照して、ロシアは教育には一パーセントと半分しか出していない。・・・・・

 いろいろな広間を廻って歩いた後、大きな部屋へ導かれると、そこにはピラミッド形のアイスクリーム、菓子、サンドウィッチ、果実その他の食品のご馳走があり、芽が出てから枯れるまでを通じて如何に植物を取扱うかを知っている世界唯一の国民の手で飾られた花が沢山置いてあった。これは実に、我国一流の宴会請負人がやったとしても、賞賛に価するもので、この整頓した教育博物館で、手のこんだ昼食その他の支度を見た時、我々は面喰って立ちすくみ、「これが日本か?」と自ら問うのであった。・・・

 九月十二日、私は最初の講義をした。・・・・私の学級は四十五人ずつの二組に分かれているので、一つの講義を二度ずつしなくてはならず、これは多少疲労を感じさせる。私はもう学生達に惚れ込んでしまった。これ程熱心に勉強しようとする、いい子供を教えるのは、実に愉快だ。彼等の注意、礼儀、並に慇懃な態度は、まったく霊感的である。・・・・・
 特に注目に価するのは、彼等が、私が黒板に描く色々な動物を、素早く認識することである。これ等の青年は、サムライの子息達で、大いに富裕な者も、貧乏な者もあるが、皆、お互いに謙譲で丁寧であり、また非常に静かで注意深い。
 一人のこらず、真黒な頭髪、黒い眼、そして皆青味を帯びた色の着物を着ているが、ハカマが如何にも半分に割れたスカートに似ているので、まるで女の子の学級を受持ったような気がする。・・・・

貝塚発掘の様子
 横浜に上陸して数日後、初めて東京へ行った時、線路の切割に貝殻の堆積があるのを、通行中の汽車の窓から見て、私は即座にこれを本当の貝墟であると知った。私はメイン州の海岸で、貝塚を沢山研究したから、ここにある物の性質もすぐ認めた。・・・・・

 当日(十月十六日)朝早く、私は松村氏及び特別学生二人と共に出発した。・・・・我々は東京から六マイルの大森まで汽車に乗り、それから築堤までの半マイルは、線路を歩いて行った。途中私は学生達に向って、我々が古代の手製陶器、細工をした骨、それから恐らく、粗末な石器を僅か発見するであろうことを語り、次にステーンストラップがバルティック沿岸で貝塚を発見したことや、ニューイングランド及びフロリダの貝塚に就いて、簡単に話して聞かせた。
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posted by 小楠 at 07:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A

2007年02月28日

モースの日本観察4

世界無二の日本の意匠

モース著の「日本その日その日1」から、モースの観察した1877年の日本の一部をご紹介しています。ここでは東京の加賀屋敷に住みだしたころのもので、博覧会見学で見た日本の芸術と自然を見る目に感心しています。
スケッチは博覧会場の展示品のひとつ
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引用開始
 昨日私は人力車夫を月極で雇ったが、非常に便利である。彼は午前七時半にやって来て、一日中勤める。私が最初に彼の車に乗って行ったのは、上野の公園で開かれたばかりの産業博覧会で、私の住んで居る加賀屋敷からここまで一マイルばかりある。・・・・・
 入場料は日曜日は十五セントで平日は七セントである。入口は堂々たる古い門の下にあり、フィラデルフィアの百年記念博覧会の時みたいに廻り木戸があった。・・・・
 内には倭生の松、桜、梅、あらゆる花、それから日本の植木屋の面食らう程の「嬌態と魅惑」との最も驚嘆すべき陳列があった。松の木は奇怪極る形につくられる。・・・・

 何百人という人々を見ていた私は、百年記念博覧会(フィラデルフィアの)を思い浮かべた。そこには青二才が多数いて、生姜パンと南京豆とをムシャムシャやり、大きな声で喋ったり、笑ったり、人にぶつかったり、色々な悪さをしていた。
 ここでは、只一つの除外例もなく、人はみな自然的に且つ愛らしく丁寧であり、万一誤ってぶつかることがあると、低くお辞儀をして礼儀正しく「ゴメンナサイ」といって謝意を表す。

 虫の蝕った材木、即ち明らかに水中にあって時代のために黒くなった板を利用する芸術的な方法に就いては、すでに述べる所があった。この材料で造った大きな花箱に、こんがらかった松が植えてあった。腐った株の一片に真珠の蜻蛉や小さな青銅の蟻や、銀線でつくった蜘蛛の巣をつけた花生けもある。
 思いがけぬ意匠と材料とを使用した点は、世界無二である。長さ二フィートばかりの額に入っていた黒ずんだ杉板の表面には、木理をこすって目立たせた上に、竹の一部分と飛ぶ雀があった。竹は黄色い漆で、小さな鳥は一種の金属で出来ていた。別の古い杉板の一隅には竹の吊り花生けがあり、金属製に相違ない葡萄の蔓が一本出ていた。蔓は銀線、葉と果実とは、多分漆なのだろうが、銅、銀等に似せた浮ぼりであった。意匠の優雅、仕上げ、純潔は言語に絶している。
 
 日本人のこれ等及び他の繊美な作品は、彼等が自然に大いなる愛情を持つことと、彼等が装飾芸術において、かかる簡単な主題を具現化する力とを示しているので、これ等を見た後では、日本人が世界中で最も深く自然を愛し、そして最大な芸術家であるかのように思われる。
 彼等は誰も夢にだに見ぬような意匠を思いつき、そしてそれを信用し難い程の力と自然味とで製作する。彼等は最も簡単な事柄を選んで、最も驚く可き風変わりな模様を創造する。彼等の絵画的、又は装飾的芸術に於いて、驚嘆すべき特徴は、彼等が装飾の主題として松、竹、その他の最もありふれた物象を使用するその方法である。
 何世紀にわたって、芸術家はこれ等から霊感を得て来た。そしてこれ等の散文的な主題から、絵画のみならず、金属、木材、象牙で無際限の変化――物象を真実に描写したものから、最も架空的な、そして伝統的なものに至るまでのすべて――が、喧伝されている。
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2007年02月27日

モースの日本観察3

江ノ島実験所と周囲に見る日本人

 モース著の「日本その日その日1」から、モースの観察した1877年の日本の一部をご紹介しています。今回は彼の実験所と東京帝国大学への招聘、江ノ島実験所での日本人観察の様子です。
スケッチは江ノ島実験所
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引用開始
 私は日本の近海に多くの「種」がいる腕足類と称する動物の一群を研究するために、曳網や顕微鏡を持って日本へ来たのであった。・・・・
 日本には三、四十の「種」が知られている。私は横浜の南十八マイルの江ノ島に実験所を設けた。ここは漁村で同時に遊楽の地である。私がそこに行って僅か数日経った時、若い日本人が一人尋ねて来て、東京の帝国大学の学生のために講義をしてくれと招聘した。
 日本語がまるでしゃべれぬことを述べると、彼は大学の学生は全部入学する前に英語を了解し、かつ話さねばならぬことになっていると答えた。

 私が彼を見覚えていないことに気がついて、彼は私に、かつてミシガン大学の公開講義で私が講演したことを語った。そしてその夜私はドクタア・バーマアの家で過ごしたのであるが、その時同家に止宿していた日本人を覚えていないかという。そのことを思い出すと、成る程この日本人がいた。彼は今や政治経済学の教授なのである。
 彼は私がミシガン大学でやったのと同じ講義を黒板で説明してやってくれと希望した。

 (割ったスカートと言った方が適している)衣服のヒラヒラするのを身に着けた学生が一杯いる大きな講堂は、ズボンと婦人の下ばきとの合の子みたいなハカマを、スカートのようにはき私にとっては新奇な経験であった。私はまるで、女の子の一学級を前にして講義しているような気がした。この講義の結果、私は帝国大学の動物学教授職を二年間受持つべく招聘された。・・・・・

 江ノ島は有名な遊覧地なので、店には土地の材料でつくった土産物や子供の玩具が沢山ある。海胆(ウニ)の二つで作った簡単な独楽がある。小香甲の殻を共鳴器とし、芦笛をつけたラッパ(笛というか)もある。この独楽は長い間廻り、ラッパは長い高い声を立てた。これらは丈夫で手綺麗に作ってある。而も買うとなると私の持っていた最少額の貨幣は日本の一セントだったがおつりを貰うのが面倒なので三つ買った。
 小さな箱の貝細工、上からつるした輪にとまった貝の鳥、その他の上品な貝細工のいろいろを見た私は、我国で見受ける鼻持ならぬ貝細工――ピラミッド、記念碑、心臓形の品、パテをごてごてくっつけた、まるで趣味の無い、水腫にかかったような箱――を思い出さずにはいられなかった。・・・・
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posted by 小楠 at 07:13| Comment(2) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A