ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。今回はイタリアでの新聞報道をいくつか抜粋してみます。
写真はフィレンツェ アルノ河の景(久米美術館蔵)

引用開始
1873年5月8日〜6月3日 シルヴァーナ・デ・マイヨ
フィレンツェ『ラ・ナツィオーネ』1873年5月10日
昨日未明2時40分、日本使節団がストックホルムからブレンナー経由でフィレンツェに到着した。・・・・使節団の到着に際しては、目下ローマに赴き不在の市長に代わって市会議員代表ガルツォーニ侯爵、警察署長、宿泊先の高級ホテル・ラ・パーチェ社主の代理として支配人チェーザレ氏らが出迎えた。
一行はホテル専用馬車四台に分乗してホテルに向かい、ホテルの玄関では駐日イタリア特命全権大使(公使の誤り)フェ・ドスティアーニ伯爵とともに社主に迎えられ、豪華な客室に案内された。
大使はじめ書記官と従者全員が洋服を着用し、英語とフランス語を流暢に操り、ヨーロッパ式の食事をして、両腕を交差させ体を二つ折に曲げて挨拶をする。この習慣とオリーヴ色を帯びた褐色の肌の色を手掛かりにする以外には、ヨーロッパ人とまったく見分けがつかない。一行の持参した荷物の量たるや膨大で、駅からホテルまでの運搬には、マンテッリーニ運送会社を頼まざるをえないほどであった。使節団は近くローマに向けて出発の見通しである。・・・・
ローマ 『ラ・リヴェルタ』1873年5月16日
すでに報じたように、昨夕クイリナーレ宮殿で日本使節を歓迎して盛大な晩餐会が催された。
国王陛下は司令官の礼服を召され、マルゲリータ皇太子妃と腕を組まれて大饗宴の間に入られた。皇太子妃はこの上もなく優雅で華やかな明るいバラ色の衣服をまとい、華麗なダイヤモンドで装いを凝らしておられた。
大使たちの短い紹介の後、国王陛下はテーブルの中央に着席された・・・・
宴会後、招待客は黄色の大広間でうちとけた会話のひとときを過ごした。日本の大使たちは外交官の礼装姿であったが、スウェーデンやその他の国での叙勲があったにもかかわらず、いっさい勲章を佩用していなかった。彼らは英語にきわめて堪能であるが、そのうちの最年長の者は例外であって、通訳を介して陛下や両殿下と言葉を交わしていた。
日本人はマルゲリータ皇太子妃や女官たちと長いこと話をしていた。女官たちは全員英語ができたからである。日本人はイタリアの魅力のとりことなり、終始わが国を褒め称え、熱烈な賛美者である。・・・
続きを読む