2008年02月15日

イタリアの岩倉使節報道

欧米が見た岩倉使節団8

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。今回はイタリアでの新聞報道をいくつか抜粋してみます。
写真はフィレンツェ アルノ河の景(久米美術館蔵)
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引用開始
1873年5月8日〜6月3日 シルヴァーナ・デ・マイヨ
フィレンツェ『ラ・ナツィオーネ』1873年5月10日

 昨日未明2時40分、日本使節団がストックホルムからブレンナー経由でフィレンツェに到着した。・・・・使節団の到着に際しては、目下ローマに赴き不在の市長に代わって市会議員代表ガルツォーニ侯爵、警察署長、宿泊先の高級ホテル・ラ・パーチェ社主の代理として支配人チェーザレ氏らが出迎えた。
 一行はホテル専用馬車四台に分乗してホテルに向かい、ホテルの玄関では駐日イタリア特命全権大使(公使の誤り)フェ・ドスティアーニ伯爵とともに社主に迎えられ、豪華な客室に案内された。
 大使はじめ書記官と従者全員が洋服を着用し、英語とフランス語を流暢に操り、ヨーロッパ式の食事をして、両腕を交差させ体を二つ折に曲げて挨拶をする。この習慣とオリーヴ色を帯びた褐色の肌の色を手掛かりにする以外には、ヨーロッパ人とまったく見分けがつかない。一行の持参した荷物の量たるや膨大で、駅からホテルまでの運搬には、マンテッリーニ運送会社を頼まざるをえないほどであった。使節団は近くローマに向けて出発の見通しである。・・・・

ローマ 『ラ・リヴェルタ』1873年5月16日
 すでに報じたように、昨夕クイリナーレ宮殿で日本使節を歓迎して盛大な晩餐会が催された。
 国王陛下は司令官の礼服を召され、マルゲリータ皇太子妃と腕を組まれて大饗宴の間に入られた。皇太子妃はこの上もなく優雅で華やかな明るいバラ色の衣服をまとい、華麗なダイヤモンドで装いを凝らしておられた。
 大使たちの短い紹介の後、国王陛下はテーブルの中央に着席された・・・・
 宴会後、招待客は黄色の大広間でうちとけた会話のひとときを過ごした。日本の大使たちは外交官の礼装姿であったが、スウェーデンやその他の国での叙勲があったにもかかわらず、いっさい勲章を佩用していなかった。彼らは英語にきわめて堪能であるが、そのうちの最年長の者は例外であって、通訳を介して陛下や両殿下と言葉を交わしていた。
 日本人はマルゲリータ皇太子妃や女官たちと長いこと話をしていた。女官たちは全員英語ができたからである。日本人はイタリアの魅力のとりことなり、終始わが国を褒め称え、熱烈な賛美者である。・・・

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2008年02月14日

後発の大国ロシア視察

欧米が見た岩倉使節団7

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。今回は視察以前の日露関係から始めたいと思います。
写真はサンクトペテルブルグの宮殿(国立公文書館蔵)
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引用開始
1873年3月29日〜4月15日 イアン・ニッシュ
 岩倉具視公率いる使節団が、折を見てロシア帝国を訪問することに疑問の余地はなかった。ロシアはおよそ7200万人の人口を有する(1857年)大国で、太平洋岸に国境を持っており、主として国境紛争と領土的な不安という形で日本との間に多くの緊張関係を保っていた。その一方で日本人は、ロシアやその制度をまねることにはあまり関心を抱いていなかった。実際、日本人は既にヨーロッパの政治家たちから、ロシアに対するきわめて辛辣な見解を得ていたのである。しかし、それにもかかわらず訪問は不可避だった。ロシアは1862年の幕府遣欧使節の旅程にも入っており、使節団の交換も頻繁におこなわれてきていて、日本人の留学生たちもその地で大学に通っていた。したがって、規模は異なるとはいえ、ロシアも他のヨーロッパ諸国同様に研究されてきたのだった。

 19世紀初めから日本はロシアを恐れてきた。日本とロシアの最初の出会いは1806〜07年ニコライ・レザーノフによるもので、おそらくロシア政府からの正式の要請は得ていなかっただろうが、彼はとりわけ日本北部との交易の開始を求めてきた。1853年海軍中将エフフィーミー・プチャーチンの海軍使節団は、徳川幕府に皇帝からの書簡を手渡し、その中でロシアは蝦夷(北海道)を通しての交易の開始を要請したが、結局1855年に日本はロシアと下田条約を締結した。いくつかの条項はアジア大陸の岸からやや離れたところにあるサハリン島(樺太)にかかわるもので、ここは世紀の変わり目以来ずっと紛争の種になった。両国ともその領土権を主張して、自国民(日本の場合にはアイヌ人)による移住を奨励していたが、どちらも自国に併合しようとはしなかった。
 条約はサハリンを両国の共有地とすることで合意された。しかし、ロシアはクリミア戦争で疲弊しており、自分たちは不利な立場で交渉したので、譲歩を余儀なくされたのだと後に主張してきた。この条約は1867年4月1日の新協定でも明らかに確認されているが、そこではまたあらゆる紛争は、ロシアの当局であれ、日本の当局であれ、一番近い当局で解決されるべきだと定められていた。このことはロシアによる島南部(アニワ湾)への公然たる侵略という事態を導いた。
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2008年02月13日

岩倉使節団ドイツ訪問

欧米が見た岩倉使節団6

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。
写真は国立公文書館蔵ベルリンのコーニングス宮殿
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引用開始
1873年3月7日〜28日、4月15日〜17日、5月1日〜8日ウルリヒ・ヴァッテンベルク
 日本使節団の来たるべき到着はいくつもの新聞で報じられていた。・・・
 プロイセン訪問の当初、以下のように新聞紙上に報道された。
「日本使節団は今朝ベルリンに到着するはずである。すでにハーグでカンツキー参議官が使節団に応接した。オランダ国境のベントハイムでは、陸軍第七軍団参謀長フォン・ライト大佐、レールダンツ陸軍中佐、L・クニッフラー――前長崎領事、現デュッセルドルフ勤務――などで使節団を迎えるであろう。これらの人びとは使節団のプロイセン訪問期間中、接待係の役割を果すことになろう。旅行に際しては、鉄道会社の特別室が使用され、全旅行費用は政府負担とされている。ベントハイムから使節団は著名なクルップ工場(製鋼)を訪問すべく、エッセンにおもむくはずである。ベルリンでは使節団は費用は政府負担でオテル・ド・ロームに宿泊し、一週間ベルリンに滞在するであろう。使節団一行の服装はヨーロッパ風である」。

 新聞記事では使節団員の氏名を以下のように挙げている。すなわち岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳と。さらに挙げられている氏名は、田辺太一、何礼之、栗本貞次郎、杉浦弘蔵、安藤太郎、久米邦武、田中光顕、富田鉄之助、医者として福井順三であり、そして氏名は挙げてはいないが、会計係、通訳(速記者を含む)、世話係などを掲げている。また新聞は、使節団が条約改定のために派遣されたが、しかしこれはすでにワシントン滞在中に断念し、いまは使節団は、日本において生じた情勢変化について説明すべく、ヨーロッパの主要な宮廷を訪問している、と報じていた。・・・・・

もちろん、宿舎にはベルリン最高級のグラン・オテル・ド・ロームが選ばれたが、それは滞在中の特別の配慮であり、久米が以下のように述べているように使節団を大いに喜ばせた。「其接遇の厚き、他の諸国に超えたり。」
 二日後の三月十一日、皇帝ヴィルヘルム一世の謁見がおこなわれた。新聞はすべて同日と翌日に公式コミュニケを報道した。日本使節団は四頭立て、六頭立ての馬車で送られたが、木戸は「今日のような美しい馬車をいずこの国においても見たことはなかった」と書いている。謁見は宮殿の「白の間」で行われた。そこは1862年にすでにヴィルヘルム一世が当時プロイセン王として竹内使節団を謁見した場所であった。皇帝以外に、宰相ビスマルクなどの高官が列席した。「皇帝は起立し帽子をとって使節団を謁見した。」と公式コミュニケは報じていた。挨拶は日本語とドイツ語でおこなわれ、日本語への翻訳は有能な学生青木周蔵によって行われた。青木はドイツ駐在公使に、最後は外務大臣になった人物である。
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2008年02月12日

岩倉使節団の仏国の印象

欧米が見た岩倉使節団5

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。
写真は久米美術館蔵ヴェルサイユ宮殿のオペラ劇場
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引用開始
1872年12月16日〜1873年2月17日 リチャード・シムズ
 フランスは使節団にいかなる印象を与えたか。久米の『回覧実記』から判断するかぎり、結論から先に言えば、フランスは今もって強国とみなされており、その国威は最近の普仏戦争での敗北によっていささかも損なわれてはいないと日本人の目に映じたということである。1870〜71年のフランスの敗退は、久米によると、なんらかの根本的欠陥によるものでもなければ、たしかに一般兵士の戦闘心の欠如によるものでもない。むしろそれはドイツと比べて相対的に兵士の数が少なかったこと、そして将校団の質が劣っていたことによるのである。 これら二つの欠陥はいずれも取り返しのつかない類のものではない。そしてドイツから学ぼうとするフランス人の意欲が指摘されるのであるが、それはヴァンセンヌ訪問の途次、日本人が「かつてフランス人は他国から学ぼうなどとは思ってもいなかったが、きわめて残念なことだが、今やそうしなければフランスはフランスとしてとどまることはできないであろう・・・」ということをはっきり理解したときのことであった。こうした感想は使節団の心を強く打ったにたがいない。一行もまた日本固有の性格を維持しながら、西欧から知恵を借りる必要を痛感していたからである。

 フランスが今もって尊敬に値すると思わせたものは、フランスの順応の素早さへの期待ばかりでなく、その経済的地力にもよる。久米によれば、ドイツから押し付けられた戦争の賠償金が短期間にまた楽々と返済されたことにイギリスは驚き、ドイツは拍子抜けしたが、このことはフランスの財政的・商業的地位が健全であるとともに、フランスが特に経済学と商法の分野で有能な人材を豊富に備えていることをあらためて確認させることになった。別の箇所で久米はパリをロンドン、ニューヨークと並んで、商取引における世界の三大都市のひとつと書いているが、彼がフランスはイギリスに劣らないと主張しつづけたのは、主としてパリこそヨーロッパにおけるファッションと工芸技術の中心とみなしていたからである。イギリスが大量生産で一歩先んじていることを認める一方で、彼はそのイギリスも優雅さと繊細さの点でフランスに太刀打ちできないでいることを強調した。彼は使節団のフランス訪問記の「総説」で「イギリスの工業は機械に頼る。フランスでは人間の技能と機械が調和している」と書いているが、ここにも彼のフランスへの称賛の念がはっきり見てとれる。

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2008年02月09日

英国の岩倉使節団報道

欧米が見た岩倉使節団4

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。
写真は久米美術館蔵ウェストミンスター橋と国会議事堂
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引用開始
1872年8月17日〜12月16日 アンドルー・コビン
 一行がダービーシャーのチャッツワース・ハウスを訪ねたとき、そこで古伊万里焼の標本が復元保存されているのを見て、久米はヨーロッパの名家が優れたコレクションを何百年も保存している事実に注目し、このような良質の伊万里焼はもう日本でみつけるのは困難であるかも知れないと述べている。西洋のあらゆる習慣の中で、久米が無条件に称賛の気持ちを誘発させられたのが、この歴史的な古物保存の伝統であった。たとえば、ウォーリック州知事邸での晩餐会が終った時、その家の子供たちが、日本人の賓客の手をとって私的に募集された貴重品を見るよう案内した。これらのコレクションは値打ちのない唯の珍奇な品物であった。しかし、久米が感心したのは、西洋人の精神や態度のあり方であり、それは、彼がイギリス滞在中にこれまで見てきた、多くのさまざまな博物館や展示物などによって、育成された気風であると考えられた。

 久米の考えでは、イギリス人が、フランスの流行を模倣する悪しき習慣を放棄する必要をようやく自覚したのは、最近の万国博覧会の開催を通じてである。彼は『回覧実記』でこのテーマを用いて、時々、日本の西洋心酔ぶりを攻撃し、「読者は日本の教訓として何を学ぶべきか考えて欲しい」と公言した。
「現在の日本はヨーロッパの歴史において、ルイ14世時代のフランスの輝きに万人が魅了された状況に似ている。もし我々日本人が伝統を忘れ、ヨーロッパを発展モデルにして性急に突進するならば、ちょうど1851年のロンドン万国博覧会以前の欧州各国と同様の迷霧に陥ってしまうのではないか」。
 イギリスの国内旅行で、岩倉使節団は多くの人々と出会い、彼らの生活習慣を観察することができた。それは旅の途中で見た群衆の姿であったり、公式歓迎会の場であったり、あるいはまた、静かな環境に恵まれた田園の邸宅であったり、いろいろの機会を通じて経験することができた。
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2008年02月08日

岩倉使節の英国内視察

欧米が見た岩倉使節団3

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。今回のイギリスでは、国内視察に三人のイギリス人役人を伴っています。正式接待役として陸軍少将ジョージ・アレクサンダー、通訳としてウィリアム・ジョージ・アストン、そして休暇で帰国していた駐日公使のハリー・パークス卿が同行しました。
写真は本書表紙
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引用開始
1872年8月17日〜12月16日 アンドルー・コビン
 北部地方の旅行の始めに、岩倉と彼の随員はリヴァプールとマンチェスターで十日間過ごした。二つの都市では、彼らは視察や公式の歓迎会など苛酷なスケジュールで多忙な毎日であった。その残忍ともいうべき旅程のペースは、一週間もたたないうちに、すぐに彼らを疲労困憊させた。たとえば、彼らがマンチェスターに到着するとすぐ、一行はシェリダン・ノウル劇団が王立劇場で公演する芝居「恋愛ごっこ」(ラブチェイス)に招待された。久米はその時の模様を次のように回想している。
「我々一行が最大の善意で招待されたのは確かだと思うが、毎日、足をひきずりながら工場見学をすませた後で、しかも宿舎に到着して身体を洗い、漸くくつろごうとした途端に、再び身体をひもで締め付けるように窮屈な洋服に束縛されるのは耐え難いものであった。しかも私などまったく理解できない芝居を見なければならない苦痛を味わったのである」。

 たしかに久米がいうように、かれらが身に着けていた洋服はいかにも着心地が悪そうであった。イギリス人ジャーナリストは、いかに使節たちが「彼らにおよそ似合わない何の取り柄もない平凡な洋服」を着ていることかという記事を書いていた。そしてついに彼らの多くは、退屈な劇場へ行くよりも、むしろ「敗北」を認めて、宿舎のクイーンズホテルで静かな夜を過ごす選択をしたのである。
「英語を理解できる二、三の者だけが劇場へ行く決断をした。そして、私は宿に残ってその日の見聞記を書き止めた」と久米は告白している。
 岩倉使節団のランカシャー都市部視察の大きな特徴は、その集中的な工場訪問にあったといえよう。マンチェスターに向う列車の中で、パークスは岩倉や副使たちに「ランカシャーは世界のどこよりも沢山の工場があるといわれている」と明言した。彼はまた、「日本が将来、世界と交易し新しい産業を盛んにしていくのであれば、貴方がたがこれから視察する予定の地方と比べてもっとも重要な意義を持つものなのだ」と自信たっぷりに話した。
 しかしながら、数カ月前に、使節団がすでにアメリカで経験した産業視察のために、ランカシャー地方の多くの工場群がかれらに与える衝撃を、幾分、弱めることになってしまったことは事実である。・・・・

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2008年02月07日

文明開化探究の第一歩

欧米が見た岩倉使節団2

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。その中から興味深い部分を引用してみます。
写真は女子留学生
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引用開始
1872年1月15日〜8月6日 アリステイア・スウェイル
 使節団はサンフランシスコに上陸したが、この都市はアメリカの東洋諸国とのフロンティアであり、同時にまた中国人に対する嫌悪の中心でもあった。使節団の訪問に関するランマンの記録は、『アメリカにおける日本人』と題された大部な研究の最初の部分であるが、そこでは日本人の最初の訪問地で彼らに対する最大の好意が寄せられたことを強調している。同市の主要な市民たちが準備した大規模の晩餐会の前に、グランド・ホテルの外でウィリアム・アルヴォード市長の主宰のもとに正式の歓迎会が開催された。同市の芸能人によるセレナードの演奏に迎えられた使節団の指導者たちは、彼らの部屋のバルコニーから群衆に演説するよう求められた。このスピーチは暖かく迎えられ、何度か歓声によって中断された。使節団はまた、商業局の長R・B・スウェインや新聞業界の主だったメンバーに紹介された。使節団に惜しみなく与えられた歓待のクライマックスは、一月二十三日の夕、グランド・ホテルで開催された正式のレセプションであった。市長、アメリカ駐日公使チャールズ・E・デ・ロング、そしてさまざまな商業的・社会的利益を代表する大勢の人々が出席していた。主催者による乾杯の辞に応えて、伊藤博文と岩倉がスピーチを行ったが、拍手喝采によって中断され、「耳をつんざく」ような拍手でお開きとなった。・・・・

 使節団がアメリカの土を踏んだその瞬間から、異常ともいえる歓待を受けた理由を述べなければならない。たしかに、使節団が到着する以前から日本人は中国人とは別の国民であると考えられていた。サンフランシスコにおけるデ・ロングの演説からしても、平均程度の知識しか持ち合わせていないアメリカ人ですら、ペリー提督による日本開国はアメリカ外交の大成功だとみなしていた。そしてこの「啓蒙された」外交がついに1868年の「革新」(維新)に結実したというのである。
 五人の少女をアメリカで教育を受けさせるために使節団に加えたことは、「東洋」の女性に対する侮辱的かつ野蛮な仕打ちという一般アメリカ人の偏見を取り去る努力に、新明治政府がコミットしていることを示すものであった。「女性の文化のための優れた学校」への言及が、使節の日本出発まえに天皇の使節団への御言葉にあったが、ランマンはその使節団に関する記述の中で相当のスペースをこの問題に割いているのである。
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2008年02月06日

米国人の明治日本人観

欧米が見た岩倉使節団1

 ご存知のように明治新政府は維新直後の1872年に、高位の人物多数による使節団を欧米に派遣していますが、本書イアン・ニッシュ編「欧米から見た岩倉使節団」は岩倉の提案でつれていった、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳らの四人の副使を中心に、欧米の人々の残した記録が内容となっています。その中から興味深い部分を引用してみます。
写真は岩倉具視と四人の副使、左から木戸、山口、岩倉、伊藤、大久保
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引用開始
1872年1月15日〜8月6日 アリステイア・スウェイル
 アメリカ人たちが、これほど珍しい一行をどのように眺めたかというと、一行が受けた歓待はほとんど例外なしに暖かく熱烈なものであった。・・・・
 アメリカにおける日本人の待遇に必然的にかかわる要因は、それ以前に到来していた中国人との関係であった。アメリカと中国人との間には、日本人との関係よりも長い関係があり、一方ではアヘンと宗教(キリスト教宣教)の高圧的な輸出、他方では安価な中国人労働者のアメリカ西部諸州への移動にもとづいた関係であった。この初期の経験は「東洋人」についての一定の先入観をアメリカ人に植え付け、それがいくつかの重要な点で日本人の境遇にとって不利な結果をもたらしたのである。

 たとえば、一つの重要な点を挙げると、日本人は東アジアの貿易網に比較的遅れて参入したので、前もって警告を受け、またあらかじめ準備ができていたのである。1853年はペリー提督、1854年にはハリス総領事によるアメリカの開国要求に対応する責務を負わされた日本の指導者たちは、それに先立つ50年間の中国における国際関係の結末に精通しているという利点があった。とりわけ、アヘン貿易の破壊的な影響と、国際協定の侵害に対して西洋諸国が厳しい罰則を科する力をもっていることを日本の指導者は知っていたのである。日本は幕藩システムの弱体化にもかかわらず、中国と比べてはるかに強固に統合された国家であり、中国よりも一貫した、あるいは少なくとも建設的な対応をすることが出来たのである。当時日本国内の極端な排外分子は、(外国への)いかなる譲歩をも紛れもない裏切り行為とみなしていた。しかし、伊井直弼のような幕府の高級役人は譲歩しながらも、可能な範囲で国益を守るための重要な条項を外国に認めさせる術を心得ていた。関税率や治外法権に関して外国人に特権的な待遇を保証するという厄介な約款は、結局受入れることになったが、外国人が条約港を離れて旅行する権利は厳しく制限されたし、宣教師の活動は問題にすらされなかった。・・・・
 このような積極的な施策は、欧米の外交官サークルのあいだに日本に対する友好的なイメージをつくりだすうえで大いに影響があった。しかしながら、カリフォルニアで中国人とヨーロッパ系アメリカ人との間に生じた苛烈な相互作用の結果、中国人に関する否定的なステレオタイプが固定するにいたり、中国人に対する不安がほとんど自動的に一般市民の草の根レベルにおいて日本人にも向けられることになるのである。
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2007年12月22日

宮中のお雇い外国人7

新嘗祭(米の収穫祭)

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は東京のモール邸
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引用開始
 毎年、米の収穫に対して感謝し、神に供物をささげる大祭が十一月二十三日に行われる。これは国家神道の首長としての天皇の伝統的な地位が、特別にはっきりと表わされる古来からの日本の宗教的な祭儀である。
 この祭儀は皇居内宮殿近くに建てられた、天皇家の宗教である祖先崇拝つまり神道のための神殿賢所の中で常に行われてきた。部外者はけっして入場を許されない。この文章の執筆者であるわたしが祭典のいくつかに見学者として参列することができたのも、もとはといえば、私が宮中勤務者の一員であったからだ。
 これらの宗教的祭典の中でもっとも重要かつ盛大なのは、毎年十一月二十三日に行われる米の収穫感謝のための祭典、新嘗祭である。米は日本人の主食である。したがって以前からこの祭典は重要視されてきた。祭典は二部にわかれて行われ、第一部は、夕方おそくなった午後六時に始まり、午後十時に終了する。次に第二部は、午前零時頃から翌日の午前二時までつづけられる。

 古代日本の伝統ある白羽二重の神主の衣裳をまとわれた天皇は、帽子がやや単純という点だけは違うものの、天皇と同じような白羽二重の衣服を着た宮中の神主たちをまわりにめぐらされた。天皇が加わられた行列は荘重に、一フィートばかりの高さの燭台でぼんやり照らされた宮殿の長い回廊を進む。行列の先頭には、神鏡、神剣、それに国の印章あるいは神聖な曲玉が担われてゆく。ついで行列は皇居内神殿に向かい、柔らかい畳敷きの特別の廊下を進む。天皇がお供の神官たちといよいよ神殿に到着されると、すだれが垂れ下がる。宮家の各親王、閣僚、将軍、高位高官、宮中の官僚は、百年もの樹齢をもつ御苑の古木の下に建てられた露天の行廊に、神殿と相対して立つ。――洋服の制服、軍服姿の一同は盛装している。
 木造の神殿を取り巻く四本のきらめく燭台の火によって側方から照らされている芝生の上で、宮廷音楽師たちは、いずれも古式ゆかしい色彩豊かな衣裳に身をかため、あるときはするどい音、またあるときは太鼓をたたくような鈍い音を奇妙に長々と演奏していた。色とりどりの絹の上着、ひだの多いあざやかな赤い袴をはいた宮中の女召使や神殿の巫子たちは、白木の器の中に、米をはじめ祭儀の供物に定められた食品を入れ、私たち部外者にはけっしてうかがい知ることのできない神殿内部に運んでいった。

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2007年12月21日

宮中のお雇い外国人6

最後の将軍と天皇誕生日

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は鍋島侯爵と夫人
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引用開始
 (静岡から箱根へ)
 広い安倍川にかかる橋を渡ったあと、私たちの一行は、空の人力車をあとに従え、別当という名の先駆の車夫が引っ張る三輪の人力車には絹製の日除け帽をかぶり、驚くべきほど優雅に洋服を着こなした紳士が乗っていた。彼は確かに私たちを見たはずだけれども何の注意を払う様子もなかった。
 政府秘書官にたずねたところ、この人物こそ元将軍であったことがわかった。誤って世俗的皇帝といわれた将軍が、往時の日本では五百人の武装したお供を従えずに国内の街道を移動することなどなかったことを考え合わせると、こんどの巡り合いは全く驚くべきであった。伝えられたところらよると、彼の生活ぶりはまさに田舎の貴族そのものであった。 彼はおのれの領地に住み、毎朝、日本の大新聞のすべてに目を通し、あらゆる事情に通じていたが、実際に政治に介入するようなことはなかった。午後、彼は運動のために、夏は自転車に乗り、冬は狩に出かけた。彼の精神的能力はたいしたものらしい。彼は日本の親族法と慣習に従い以前のすべての権力を完全に放棄し、隠遁生活をしていた。

 私たちに同伴した日本人諸君は、かつて日本の最大権力者であった将軍をまのあたりに見て、不安と動揺を隠さなかった。静岡県知事は元将軍の日常生活や態度に注意を怠らないよう命ぜられていた。その頃、元将軍自身が支援したり、激励したりした事は全くなかったけれども、彼を担ぎ出そうとひそかに策動している連中が日本にいたことを忘れてはならない。徳川家の当主で財産の相続者である彼の後継者は、東京在住の彼の甥、徳川公爵で、勅令により日本第一の華族となった。現代のヨーロッパ人で元将軍を見る機会に恵まれた者はだれもいない。そういうことからしても、偶然に彼と会ったことは、実際に私たちの滞日中のきわめて注目すべき出来事であった。
 かつての日本の支配者が隠居所に選んだすばらしい地域、青い海原、雪の冠をいただく雄大な富士、それに爽快な小都市静岡の姿は公園のただ中にそそり立っている浅間神社の丘から実によく眺められた。私たちは夕方、帰りがけにきわめて優雅ではなやかな庭園に囲まれ、色とりどりの提灯に照らされた多くの料亭を見物した。座敷では金色の襖を背景に青や赤の美しい衣裳を着た芸者や踊り子が身動き一つせず座っていた。まだ青年官僚といってもいい年配の知事が私たちを旅館まで案内した。夜は元将軍や時代の動きについて私たちは楽しく語りあった。
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2007年12月20日

宮中のお雇い外国人5

旧領主家訪問と名所見物

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は松平子爵
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引用開始
 とりわけ光陽館クラブで、日本人の友人の世話で何度も開催されたこうした宴会に出たほか、私たちは再三、新富座見物に出かける機会に恵まれた。もちろん宮中の人々は、新富座での観劇などを極力避けていた。日本では俳優は民衆の中でも社会的地位は最低であり、宮中の人々がしばしば劇場に出かけることは不謹慎だとされていた。しかし外国人である私たちは、こうした日本人固有の偏見に与する必要はなかった。そこで私たちは、芝居の内容をどうにか説明できる友人を伴ってしばしば劇場を訪れた。すべての役は男優によって演ぜられた。あの頃、日本には女優がいなかった。出し物はほとんどが歴史劇で、上演には数時間かかった。芝居は午前中に始まり、一日中続いた。・・・・・
 当然のことながら、有名な歴史的行為あるいは伝説を表している古式ゆかしい衣裳を着た俳優たちの出る場面は、観客にとっては緊張感にあふれた興味深いもので、彼らは終日ドラマの進行に没頭していた。俳優の演技は意味深長かつ自然であり、とりわけ崇高な情熱の表現が巧妙であった。もちろん日本語の知識のないヨーロッパ人にとっては芝居に対する興味はさほどのことはなかった。・・・・

 六月の頃、東京では郊外の堀切のむすばらしい庭園のある茶屋を訪れるならわしがあった。それというのも堀切では群生したアヤメが咲きほこり、魅惑的光景をくりひろげたからである。この月は雨さえ降らなければ、木々の緑はいともあざやか、田園の風景はきらびやかですがすがしかった。いたる所で茎の長い菖蒲の先に花が見事に咲いている姿がみられた。私たちはこの日、堀切から俥(くるま)で隅田川の畔のこぢんまりとした庭園の中にある愛想のよい宮内省の若手官僚で侍従の松平子爵の別荘を訪れた。子爵は徳川家の一族の一人でかなり憂鬱そうに、しかし諦念の気持ちをこめた愛想のよさで時代の変化について語った。明治維新以前には彼の父は地方の領主で城を持っており、また江戸にも屋敷と大勢の家臣を抱えていた。ところがその子息は小さな夏むきの別荘をもつだけの宮内省の役人というしがない身の上となった。日本ならではの精密な大工仕事を示す一部漆塗りの木材で組み立てられ、柔らかい畳を敷きつめたこのいかにも日本的な別荘の中に、松平子爵は遺贈された家族のもろもろの記念品を保存していた。

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2007年12月18日

宮中のお雇い外国人4

皇后誕生日祝宴、宮廷音楽とお茶屋

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は長崎式部官
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引用開始
 毎朝十時頃、私は宮中内の前述の事務所に、あるときは馬、あるときは人力車でまた降雨の際は馬車で出かけた。するとただちに私の協力者、宮内相の個人秘書で宮内省式部官の長崎が、私と共同で作業をするために現れた。私たちはまず、「宮廷、国家ハンドブック」のうちプロイセンの宮廷ならびに国家制度について該当する章句に取り組んだ。私が英語に翻訳すると長崎が耳で聞き、望むらくは正しく理解したことを邦訳し、まとめて書きとった。・・・・・
 午後十二時三十分まで、ほとんどこの方式で仕事がつづけられた。そのあと気がむいたとき私たちが式部官食堂と呼んでいる宮中内の宮内省専用食堂へ昼食に出かけるのを常とした。この食堂の二つのテーブルで宮内省の役人全員にめぐりあった。一つのテーブルは勅任テーブルと呼ばれ、私たちのような高官用であり、もう一つのテーブルは奏任テーブルと呼ばれ、他のすべての官位の者が着席することになっていた。これら宮内官僚の上品で優雅な態度はまことに賞賛すべきであった。残念ながら日本語に通じないものは、食卓で交わされる有益かつ愉快な会話に、だれか親切な隣人がその内容を何らかのヨーロッパの言葉に通訳しようと申し出てくれない限り、加わることができなかった。私は常に多くの興味深いことがらが、そういう事情から私から逃げ去ってゆかねばならないことを遺憾に思った。・・・・

 午後は自宅にいるかあるいは遠足に出かけ、東京の市内や周辺で多くの興味深いものに巡り合う機会があった。来日早々、皇后が設立、保護されることになったベルリンのアウグスタ病院に模した日本の病院が開院した。そこへ皇后は宮中の人々とともにお出ましになった。皇室のお姫さまたちや多くの招待者が集合し、見学に先立って皇后にお目通りした。美しい宮廷馬車が行列をつくった。イギリス製で日本で漆を外側に塗り黄金の紋章をとりつけた皇后のお馬車はきらびやかであった。皇后が病院の中に入られると、ただちに馬は馬車からはずされ、ついで馬車全体の上に亜麻布のおおいがかけられた。それはひとつには馬車内にほこりが入るのを防ぐためであったが、ひとつには参集した群衆が不謹慎にも中をのぞいたりしないようにするためであった。天皇、皇后が降りられたあとの宮廷馬車を一時的におおいかくすしきたりはその後も随所でみうけられた。
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2007年12月17日

宮中のお雇い外国人3

西洋の導入で失われる日本の魅力に遺憾の念

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は右、高倉伯爵夫人と左、北島いと子女官
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引用開始
 宮中全員にとって皇后美子は、共感を呼ぶ誰からも尊敬される女主人であられた。才能が豊かで野心的、精力的な日本国民の宗教、世俗の両面での首長という難しい任務をかかえられている天皇にとっても、皇后はきわめて価値のある支柱であられた。
 その頃の天皇の男性の側近では、皇后のご兄弟にあたり、まったく旧日本の代表者のような祭式長九條公、さらにやはり保守的に侍従長のちの徳大寺候が、宮中の幹部職員であった。大膳頭(だいぜんのかみ)はヨーロッパで教育を受けた若い岩倉公爵で、彼は有名な右大臣岩倉具視の息子であった。国璽尚書にあたるのは三条実美であった。かれは維新後、太政大臣の職についた、まことに帝国宰相といった人物で、賢明で繊細な古い京都の宮廷貴族の出身であった。・・・・彼の名声、単に職務上の地位ばかりではなく彼の個人的な地位はその頃きわめて高く、国家の第一人者とみなされていた。
 しかし彼は次第次第にスターの座から姿を消し、天皇の臣下の中でももっとも名声のある地位は、その頃の伯爵のちの侯爵西郷従道に移行した。従道は兄西郷隆盛の指導下に発生した薩摩の反乱、つまり西南戦争にさいしても天皇側にとどまったために、末長く天皇政府の感謝の念を確保した。・・・・・西郷の長女は宮家の一人閑院宮載仁親王と結婚した。
 皇后に仕える高位の女官は、正四位室町伯爵と正四位高倉伯爵である。ともに親切で愛想がよく活発な女性だ。二人よりもずっと下位の女官には英語を話しかつ書く北島嬢と大山伯爵夫人の妹でフランス語を話す山川嬢がいた。二人とも、あらゆる行事に皇后に必ず同伴し、忠実な通訳の仕事を果たしていた。・・・・
 この頃、宮中で働く日本人同僚の家庭を訪れたとき、私たちは男性の多く、そして女性のほとんど全員が和服を着ているのに気がついた。彼らは勤務中は洋装をしているところを見られたい様子であったが、家庭内では好んで和服を着ているのだ。・・・・

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2007年12月15日

宮中のお雇い外国人2

明治天皇、皇后のことなど

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真は美子(はるこ)皇后
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引用開始
 五月二日、私たちは宮中の人々に紹介された。それが午後二時、赤坂仮宮殿で行われることを長崎氏によって伝えられた。・・・・ 天皇はじめ宮中全体が、1887年には一時的に赤坂仮宮殿に住まわれた。ここは外見上は人目をひくような点は一切なく、広々として起伏に富み池や樹木に恵まれた名園のある将軍の郊外の御殿の一つであった。・・・・
 私たちは助手の長崎氏と青い洋服のお仕着せを着た召使いに迎えられいくつか階段を上って大広間についた。この大変簡素な入口の大広間を出て、私たちは両側に白色と灰色の紙をはり黒わくをつけた襖が連なる長廊下をわたった。謁見の間の前室では、私たちを宮中勤務の多くの日本人が迎えてくれた。この人たちは、その後私たちの重要な知己となった。
 まず式部長官鍋島候は、当初から朝廷に忠誠を尽くし、明治維新で功績をあげた大名の一人。前肥前候で、かつてローマ駐在日本公使をつとめた。この時四十歳、黒々とした毛髪とひげの持主で、あっさりとした優雅な物腰の愛想のよい人物であった。鍋島候は初対面のときから私たちに好感を抱かせた人物で、多少英語を解した。彼は公卿出身の有名な美人の奥方とともに日本の社交界の中心となっていた。・・・・・

 だれしも小型の洋風の文官制服すなわち金ボタンのついたビロードの襟をもつ燕尾服を着ていた。ただわが国の習慣とはちがって帯剣していた当番式部官が赤坂の和風仮宮殿の中を私たちを謁見室まで導いた。ここで私たちは洋装の天皇、皇后両陛下に紹介され、御前に立った。私は天皇と、そして妻は皇后と向かい合ってそれぞれ立ったわけだ。
 ヨーロッパ人からミカド、公式には天皇、しかし宮中では常にお上すなわち高貴な支配者と呼ばれている日本の天皇は、その頃まだ四十歳にもなられていなかった。天皇は、イギリスあるいは以前、ブラウンシュヴァイクの陸軍が用いた黒い軽騎兵の軍服姿で菊花の勲章をつけ、帽子はかぶっておられなかった。天皇はやや黄ばんだ肌色ながら若々しく、髪やおひげは黒かった。天皇は、いかにも特徴的に睫毛を動かされたが、あとは身動きひとつせず直立されていた。
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2007年12月14日

宮中のお雇い外国人1

日本上陸当時の模様

 今回のご紹介は、明治中期の1887年4月から1889年3月までの間、外務省のお雇い外国人として明治天皇の宮中に勤務した、ドイツ貴族、オットマール・フォン・モールの(1846−1922)著になる「ドイツ貴族の明治宮廷記」からです。
彼ら夫妻は一歳半から六歳の四人の子供、子供達の二人の女性教師、侍女という大所帯で、1887年4月29日、横浜に到着しました。
写真はホルレーベンドイツ公使
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引用開始
 1886年、私はペテルブルグ駐在のドイツ帝国領事であった。ヨーロッパのもっとも美しい首都の一つで生活し、仕事も多く愉快なこの職場から、極東のミカドの宮廷という職場に転勤することなど、夢想もしていなかった。
 ドイツ外務省人事局の枢密顧問官フムベルトの半ば公式的な手紙は、日本の宮廷がヨーロッパの宮廷実情を学び、かつ改革に乗り出すために現地の宮廷事情にくわしいヨーロッパ人の顧問を数年、東京に招聘しようと願っているとの驚くべきニュースを伝えてきた。さらにこの手紙は(全く正しい方式ではないが)、式武官と呼ばれることになるこの顧問が、宮内相夫人の代理として活動できるほど、やはり宮廷事情にくわしい貴婦人と結婚していること、さらにこの顧問が侍従の位階をもっていることが望ましいと述べていた。

 さらにこの手紙はくわしい条件などは、原則的に就任を受け入れてくれれば、ベルリン駐在の日本公使館と口頭ならびに契約文書に基づいて協議決定されることになろう、そしてこうした条件を具備していると思われるフォン・モール夫妻が適任とされたと伝えていた。最後にこの手紙は、日本の外務次官青木子爵と、東京駐在のフォン・ホルレーベン公使が、東京にいながらすでにわたしたちに関心を寄せていたと述べていた。
 説明のためつけ加えておきたいが、私は1873年から1879年までドイツ皇后兼プロイセン王妃のアウグスタ陛下の下で枢密顧問秘書をつとめていたことから、ベルリン駐在日本公使であった青木氏と昵懇の間柄であった。それに私はプロイセン王国の少年侍従をしたこともある。またフォン・デア・グレーペン伯爵家出身のわたしの妻ヴァンダは、プロイセンのフリードリヒ・カール王子ご夫妻の年かさの王女たち、すなわちオランダのハインリッヒ王子と結婚された(今は亡き)マリー王女、それにやはり今は亡きオルデンブルグ世襲大公夫人エリーザべト王女におつかえした宮廷女官であった。・・・・

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2007年12月04日

明治の端午の節句

日本の歳事2

今回ご紹介している「ドイツ歴史学者の天皇国家観」の原著者ルートヴィッヒ・リースは、東大から招聘を受け、明治二十年(1887年)二月に横浜に到着し以来、明治三十五年七月まで、今日の東京大学史学科で歴史を学を講じた人物です。
本書ではドイツ人を対象とした日本紹介のために書いた論文が中心となっています。
写真は京都の町屋
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引用開始
 世界中で、日本ほど子宝に恵まれることを高く評価する国はほかにない。子供が生まれたと聞くたびに、誕生日から数えて三日目、七日目、三十三日目、五十五日目、そして百二十日目といった日を選んで、方々からお祝いの客がやって来る。また、贈物もたくさんなされる。これらの日に赤ん坊はおめでたい品物に囲まれ、古くから伝えられてきた礼式に則って祝福を受けるのである。
 特に男児が生まれたときは、親戚、知人を問わずその喜びようは際限がない。女性に優しい日本の男性も、結局は東アジア文化圏の、何事においても男の方が女より遥かに優れているとする男尊女卑的な考え方を隠そうとしないのだ。「男子は女子の七倍輝く」と日本の諺は言っている。なるほど、昨今では顔の方も本当は女房より自分の方がよいなどと勝手に信じ込んでいる御仁がいるくらいであるから、日本の男性諸氏の思い上がりも相当なものである。

 それにしても日本人は子供が生まれた当初こそ何やかやと大騒ぎをするくせに、その後は、毎年巡ってくる誕生日をきちんと祝うということをしない。・・・・庶民のあいだでは、干支が一巡して六十一年目の誕生日を迎えてからでないと、いっぱしの人間として自分の誕生日を人さまから祝ってもらおうなどとは考えないのである。
 ちなみに、日本では年齢を満年齢では数えず、数え年で表す。したがって1930年12月に生まれた子供は、翌年の元旦にはもう二歳と数えられる。すなわち日本人は一月一日を期してみな、一歳年長になるのである。そういうわけで日本の子供たちは自分の誕生日を迎えても、年に一度の特別な、大切な日を祝ってもらえるという誇らしい気持ちがまったく生まれなくなっている。そこで彼らには、この日ばかりは単に小さな子供であるというだけで贈物やお祝い事をしてもらえる日が用意されている。まず女の子には一年の三番目の月の三番目の日、すなわち三月三日にこうした幸せに酔える日が設けてある。この日、彼女達は大人たちに並べてもらった雛人形や餅、菓子のたぐいを前に、うっとりとしてしゃがんでいることができる。そして、五月五日が男の子のお祝いの日となる。この日、各家庭は祝賀の喜びを内輪だけでかみしめるのではなく、家から出て路上の至るところに繰り出す。そして町中の屋根という屋根が、やがてこの「日出ずる国」をしょって立つ軍人となる自慢の「戦利品」を空高く抱え上げる姿でいっぱいになる。
 この十二ヶ月のあいだに跡取り息子が誕生した家庭には、祝賀の当日まであと数日という頃になると、もう親戚や友人が紙を貼り合わせて作った内部が空洞の鯉(鯉のぼり)を持ってやって来る。・・・・続きを読む
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2007年12月03日

明治の正月点景

日本の歳事1

 今回ご紹介している「ドイツ歴史学者の天皇国家観」の原著者ルートヴィッヒ・リースは、東大から招聘を受け、明治二十年(1887年)二月に横浜に到着し以来、明治三十五年七月まで、今日の東京大学史学科で歴史を学を講じた人物です。
本書ではドイツ人を対象とした日本紹介のために書いた論文が中心となっています。
写真はリース夫妻
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引用開始
 十二月という月は日本のビジネスマン、大小の商人にとって一年中で最も骨の折れる月である。誠実な人間として通りたかったら、古くからの慣習に則って、新年を迎える前に未清算の勘定書を一括して提示し、支払いを済ませなければならないのである。それで借金を翌年に持ち越さぬため、伝来の家宝を相当数売却するということがいまだに決まってなされている。それでも足らないとなれば、いつでも借金に応じてくれて、しかも返済にはうるさくない友達に無心をする。万策尽きたら、人目につかない宿に密かに引き移って、押し寄せる債権者を避けることとなる。従って、日本では一年の最後の日は重大な支払いの日であり、夜遅くまでお使いが請求書をもってやってくる恐怖の一日なのである。「ダンナサン キライ ナ オオミソカ」と手まり遊びをしながら歌う小さな女の子たちは、この歌詞に込められた奥深い真実を知らない。

 新年の本当の始まりは、夜中の十二時を境に、突き手が大きな釣鐘の前にぶら下げられた丸太を時々刻々引き寄せ、この日だけ特別に百八回打鐘することによって告げられる。しかし、これは大晦日を越す喜びを騒々しく呼び起すものではない。借金の取立てや支払いを終えたものは、床につく方を選ぶ。もう翌日の早朝には元旦の儀式が待っているからである。
 晴着をまとった家族全員が新年最初の軽い食事のために集る。畳に座っている各々の前に、さまざまの意味ありげな料理をのせたお膳が並べられる。祝い酒は最年少の子供がはじめに飲み、それから年かさの方へ順々に、そして厳かに盃を回していく。
 神棚の前には、子供たちの関心を一手に集めるお供えが置かれている。それは、丸型の分厚い塊(鏡餅)で、上下紅白の二段重ねになっている。・・・・てっぺんには、ゆでて殻が深紅色になった大きなロブスター(伊勢海老)がでんと構えており、裏白、昆布、藁等が幸福をもたらす飾りつけとして添えられている。・・・・
 母親が小さな子に破魔弓を与え、女の子には新しい羽子板の羽根と板を、年かさの男の子には凧と凧糸を与えると、この可愛らしい子供たちは大喜びで外に飛び出して行き、戸口の前に据えられた祝いの飾り付け――竹のまわりに松をあしらって藁縄でしばってある――を見てびっくりする。そうこうするうちに、早々と最初の訪問客がやって来る。日本ではわずかのつながりしかない者同士でも、新年には皆お祝いを述べ合うのである。やがてこの家の友人もやって来る。賀詞を述べるため、多少の時間留まっていなければならぬ者もいるが、そそくさと祝い酒だけをよばれていく者もいる。・・・・
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2007年12月01日

明治の新聞と新聞記者

日本文化と精神基盤

今回ご紹介している「ドイツ歴史学者の天皇国家観」の原著者ルートヴィッヒ・リースは、東大から招聘を受け、明治二十年(1887年)二月に横浜に到着し以来、明治三十五年七月まで、今日の東京大学史学科で歴史を学を講じた人物です。
本書ではドイツ人を対象とした日本紹介のために書いた論文が中心となっています。
写真は帝国議会仮議事堂
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引用開始
 日本で現在ある九百もの新聞の記事の内容について批評を加えるのはかなり至難の業である。それらはどれも皆できるだけ多くのニュースを報道しようとしている。しかし本来の「新聞」として信頼のおけるのはせいぜい三紙か四紙にすぎない。すなわち『時事新報』『日日新聞』『国民新聞』、それにもしかすると『大阪朝日新聞』を加えてもよいかもしれない。
 だがつねに注意しなくてはならないのは、日本では個人的に偏った報道の真偽を見抜くセンスが、国民の間でまだあまり涵養されていないということである。さらに数字もまた曖昧であり、かなり名の知られた新聞記者でも数字に対する感覚はほとんど皆無と言ってよい。統計表が出てきても、各項目の総和にはかならず計算違いがあると思って差支えない。また日本の新聞の報道には、興味をかき立てるような中心、あるいは常識的な理性というものがしばしば欠けている。たとえば李鴻章が北京の宮廷に仮講和条約締結の電報を打ったというような、もう何日も前に分かりきっているようなことがわざわざ打電され、大見出しで報じられたり、あるいは香港から入港した客船に疑わしい病原菌が発見されたというような、専門家の助けを借りなくては読めないような記事が新聞に載ったりする。

 新聞を定期購読している通信社も、わざわざ手間をかけて顧客に提供するほどの材料をなんらそこに見いだせないことがある。また新聞記者は、外国大使館とか各省庁の門番などから、なんの価値もないネタを拾ってくることがよくある。たとえば「先週の木曜日、某国の大使が外務省を訪問した」というような記事であるが、日本の外務大臣あるいはその代理が毎週木曜日に外国大使と面会するのが通例になっていることを知っている者には、そんな記事は別に珍しくもなく、ましてやそれが単なる埋め草として掲載されているのであれば、なおさら馬鹿らしくて読む気はしない。しかしこのような気の抜けた同じ話の蒸し返しならまだ害はない。むしろ危険なのは、平気で嘘の報道をする新聞が以前から日本にあるということである。それは「ある種の勢力」の危険な意図に関する報道で、それを真実と思い込む者も依然としており、たいていロシアとの関係をほのめかしている。・・・・・
 あえて私がこう言うのも、日本では、生まれてまだ日が浅いにもかかわらず、すでにここ二十年のあいだに新聞が一つの大勢力にのし上がってきたからこそなのである。大勢力にのし上がってきたのは、政党の機関紙にとどまらない。そういったものから独立した新聞、さらには広い発行部数を誇る非政治的な新聞に至るまで一大勢力を形成しているのである。・・・・・
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2007年11月30日

ロシア皇太子襲撃事件

新聞の外国人排撃煽動

今回ご紹介する「ドイツ歴史学者の天皇国家観」の原著者ルートヴィッヒ・リースは、東大から招聘を受け、明治二十年(1887年)二月に横浜に到着し以来、明治三十五年七月まで、今日の東京大学史学科で歴史を学を講じた人物です。
本書ではドイツ人を対象とした日本紹介のために書いた論文が中心となっています。
写真はロシア皇太子
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引用開始
 明治二十四年五月十一日、訪日中のロシア皇太子を日本人巡査が襲撃した事件の概要は次の通りである。・・・・
 京都から二マイル半ばかりのところにある大津駅目指して出発したが、それは山並みに囲まれた大きな湖、琵琶湖の素晴らしい景色を大津から展望するためであった。五月十一日の正午、一行は最初用意されていた知事の車を使うのをやめて、人力車で湖に向った。・・・山間の道幅は狭く、また本道からそれた場所にある名所旧跡に立ち寄るためにも、この乗物のほうが便利であり、だからこそ皇太子はこの交通手段を選んだのであった。・・・
 警備の巡査が立ち並ぶ通りをこれらの小型蓋車の行列は大津の市街から郊外の美しい自然の中へと進んで行った。・・・数キロ進んだあたりで、道端に立っていた巡査の一人がサーベルを振りかざして皇太子の車に駆け寄り、左側から彼の頭上に一太刀くわえた。巡査の名は津田三蔵である。・・・
 機敏な車夫は向ってくる巡査の足に果敢にタックルし、サーベルが打ちおろされんとする刹那、彼を地面に押し倒したのである。サーベルは皇太子の頬骨と頬をかすり、ふた筋の浅い傷跡を残したが、骨にはなんら異常はなかった。この勇敢な車夫は倒した相手のサーベルをすばやく拾い上げると、急所をそらして彼の頸部に思い切り二太刀をくわえ、さらに背中にも傷を負わせて巡査を叩きのめした。・・・
 電信でこの凶行の知らせを受けた天皇は、ただちに特別列車をしたてさせて侍医を京都に遣わせた。・・・翌日の五月十二日朝六時、天皇は負傷したロシア皇太子を自ら見舞うため特別列車で京都に向った。・・・・

 以前から日本ではこのような狂信的な犯行によって多くの外国人が殺傷されてきたが、明治二十一年以来ふたたび排外的世論が勃興、明治二十三年九月十一日条約改正反対の列国声明が出されるに及んでそれは全国に広まった。学校の生徒や大学生の乱暴狼藉に始まり、公の集会における狂信的な演説、さらには新聞のしばしば声高な誹謗に至るまで、外国人排撃の運動はとどまるところを知らなかった。・・・・
 新聞を通じて人々の怒りはまさに爆発寸前であった。そして津田三蔵のような人物に対して、新聞のこのようなアジテーションがいかなる効果を及ぼしたかは想像に難くない。津田は生粋のサムライの生まれで、二十四歳にして西郷の反乱の鎮圧に当って功をあげ、勲章を得たほどの勇敢な兵士であって、その彼が悪意に満ちた新聞報道に煽動され、人気のない山間の警護地点で憂国の念に駆られて凶行に及んだとしてもなんら不思議はない。・・・・
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2007年09月29日

ヤポニカ、銀座

新橋付近の火の見の梯子
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今回ご紹介している『ヤポニカ』は英国人の詩人、ジャーナリストで、『デイリー・テレグラフ』の編集者サー・エドウィン・アーノルド著で、アメリカからこの本の挿絵を描くのにR・フレデリック・ブルームが派遣されています。アーノルドが来日滞在したのは1889年(明治二十二年)末からで、二回目の来日時に仙台出身の女性、黒川たまと結婚。彼には三回目の結婚で、滞日時の年齢は58〜60歳でした。
写真はアーノルド像
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引用開始
 次に「銀座」、日本の首都の「ブロードウェイ」に立ち寄る――実際すばらしい往来で,舗装された歩道と中央に市街電車、有名銘柄の店がある。ここでは町の商売は衰え、他と調和して、母や姉妹が赤子を背負ってペチャペチャおしゃべりをし、子供たちは凧を揚げている。商人たちは炭の真赤に燃えた火鉢の脇に座っている。
 魚の行商人、たくあん、菓子、柿、おもちゃ、パイプ、凧、旗、重荷をかつぐ苦力、盲目の老三味線奏者、仏教僧侶、黒大理石のような髪をし、鳩の足のようなかわいい娘たち、落ち着いて動じない細い眼の赤子、道での知人との出会い、おおまかなお辞儀とあいさつ、日本の役人は、別当を伴って馬に乗ってくる。花の行商人、去勢男、鳥屋、茶屋、少しおかしな家の入口、開かれた屋内、風呂場、寺院、石庭、籠細工、きしむ米舟――なにもかもが実際に、日本のすばらしい常に興味のある首都である。

 あるいは城を横切って多くの入口、出口から銀座に入っていたのかもしれない、たとえば「虎の門」「桜田門」あるいは「半蔵門」は皇居に通じている。この城は都市の大きな特徴であり、広大な要塞化した城郭であり、あらゆる所が非常に高い土手で囲われ、古木の松が植えられ、巨大な石造りの壁、その足下には静かな幅広い堀、冬期においては野性のあひるとがちょう、ごいさぎ、あおさぎでいっぱいになる。首都の装飾として、これらの重厚な城壁と草の緑の傾斜、ふしのあるもみの木で影がつくられるという外見で、これ以上のすばらしいものはあり得ない。
 石垣は海の絶壁のように堅固で、鋼鉄艦の衝角のように石の巨大なかたまりで、すべての角にはめ込まれ、曲線の突き出た外観をしている。それゆえに大きな石のかたまりはその場所をうしろに移動しない、地震さえも石垣にはほとんど影響を与えないだろうと思える。皇居において日本の大工や建具師がなしえたものの完全な例をみてきた、そのうえ高度な芸術作品がある天井のどれも、濃い褐色の漆により、非常にみごとに飾られた羽目板に分割されているにもかかわらず、もっとも高価な絹やもっともすばらしい彫刻がまわりのすべてに惜しげもなく使われている。・・・

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