2008年02月04日

朝日グラフの南京報道

南京城の昨日今日

今回のご紹介は、昭和13年1月27日に発行された、朝日新聞社の週間朝日・アサヒグラフ臨時増刊・支那事変画報・第十一号です。
この時期は日本軍による南京大虐殺の真最中のはずの頃です。その時に数名の朝日新聞南京特派員が送ってきた南京城内の写真と記事がこのグラフに紹介されています。
こちらでは映画「南京の真実」第一部の試写会が始まっています。
今回掲載の写真は全て拡大できますので、当時の紙面をお楽しみ下さい(皮肉)。
このページは全て写真とキャプションだけで構成されていますので、その通り見て頂けるようにしておきます。
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写真右ページ上と右中:去る十二月二十三日南京残留二十万の市民によって生まれ出た南京市自治委員会は昭和十三年の芽出度い元旦を期して、南京の中心皷楼で発会式を挙げた。日の丸と五色旗を持って皷楼へ集った市民約三万、南京未曾有の盛観裡に午後二時孫副委員長は開会の辞を述べ、全員起立敬礼の中に五色旗が掲揚されて、晴れ渡った元旦青空に翻り、期せずして起る万歳の声は紫金山を揺るがすばかり、次いで会長陶錫山氏によって趣意書と宣言文が朗読され、現地我が陸海軍の祝辞後自治委員会の万歳を三唱して午後三時式を終った。
写真は【上】北極閣と紫金山をバックに陶会長の発声で自治委員会万歳三唱【右】は皷楼へ詰めかける良民(1月1日影山特派員撮影)
左ページ写真右中:お正月を間近に、南京攻略の有志達は、童心にかえって支度に忙しい。竹を切って来い、松を抜いて来い、お飾りを切れ、こんな忙しさならいくら忙しくても嬉しいんだ(12月27日影山特派員撮影)
真ん中下の写真:門松は立てたし、お飾りはつけたし、さて手廻しよく配給された餅を焼いて、野戦料理のお雑煮を頬張り乍ら「テヘッ! お正月が十日早く来ちゃったぜ。お正月も我が快速部隊と歩調を合したと見えるわい」(12月22日林特派員撮影)
左ページ左三枚の写真の共通タイトルは『南京戦線の本社報道陣』で
上:報道報国の念に燃ゆる特派従軍記者が火戦下に死を堵して綴る一文一句はこの砲火を冒して進む移動通信第一線通信本部に集る(湯水鎮にて12月8日角野特派員撮影)
中:本社濱野嘉夫特派写真班員は十二月八日南京に僅か三里の高菅頭第一線で敵戦車の猛射を浴びて戦死したが、その憎むべき戦車は菅原部隊の勇士の手で生捕られた(12月9日小島特派員撮影)
下:十二月十一日南京城門西南角猛攻中の奮戦を報道すべく弾雨を冒して爆進せる我が社特派員らの自動車は城壁間近で敵の地雷に引かかり無残に大破したが、一人の負傷者を出したのみで、他は幸に奇跡的に難を脱れた(12月13日上野特派員撮影)

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上掲の写真左は、右ページ右下のもので:キャプションは『惨虐無道な支那兵に脅かされ、空と地に唸る砲弾に慄えていた避難民地区の支那良民は、日本軍入城と共にホッと蘇生の思い。その上に食事は元より子供にはお菓子を恵まれて大喜びの嬉しい涙で唯々「謝々」繰返している(12月20日林特派員撮影)』
写真右は、左ページ下のもので、キャプションは『暴虐無類な抗日支那軍乍ら傷けば、皇軍が敵をも隔てぬ同仁の慈(一字不詳)に抱かれ、ここ南京外交部跡の野戦病院に我が衛生隊の手厚い看護を受けつつ、明け暮れ悔恨と感謝の涙に咽んでいる支那負傷兵(12月20日林特派員撮影)』

posted by 小楠 at 07:19| Comment(2) | TrackBack(1) | 反日マスコミ

2008年02月02日

南京入城式の朝日報道

威容堂々大閲兵式
 今回のご紹介は、昭和13年1月27日に発行された、朝日新聞社の週間朝日・アサヒグラフ臨時増刊・支那事変画報・第十一号です。
 この時期は日本軍による南京大虐殺の真最中のはずの頃です。その時に数名の朝日新聞南京特派員が送ってきた南京城内の写真と記事がこのグラフに紹介されています。
こちらでは映画「南京の真実」第一部の試写会が始まっています。
今回掲載の写真は拡大できますので、当時の紙面をお楽しみ下さい(皮肉)。
このページの題は
『この万歳故国に轟け「威容堂々大閲兵式」世紀の絵巻南京入城』となっています。
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主文の引用
【南京にて今井特派員十二月十七日発】
 嗚呼感激のこの日、同胞一億の唱和も響け、今日南京城高く揚る万歳の轟きは世紀の驚異と歓喜茲に爆発する雄渾壮麗な大入城式である。この軍、中支に聖戦の兵を進めて四ヶ月、輝く戦果に敵首都を攻略して全支を制圧し、東亜和平の基礎茲に定まって国民政府楼上に翩翻と翻る大日章旗を眺めては誰が感激の涙なきものがあろうか。
 荘厳勇壮を極めるこの大入城式を目のあたりに実況を故国に伝える記者の筆も感激と興奮に震える。南京は日本晴れ、この日紺碧の空澄み渡って雲一つ浮ばず銃火茲に収まって新戦場に平和の曙光満ち渡る。

 中山門、光華門、通済門、中華門、和平門、太平門、日の丸の旗波打つこれら輝く各城門から午前早くも光輝燦然たる日章旗を捧持して南京総攻撃参加の各部隊続々入城。中山門より国民政府に到る三キロのメーンストリート中山路の沿道に堵列の将兵は征衣に積る戦塵を払って意気軒昂、見渡せば道の北側に上海派遣軍、南側に杭州湾上陸部隊、血と汗に汚れた戦闘帽に輝く両頬は今日この一瞬の歓喜に満ち満ちて日焦した満面が感激に燃えている。
 午後一時を全部隊集結完了した。畏くも金枝玉葉の御身を以て親しく南京攻略戦に御従軍遊ばされた朝香宮殿下の召された自動車が中山門に到着した。続く車は杭州湾上陸の○○部隊長、そして中山門に感激の瞳を輝かせつつ降り立ったのは上海戦の労苦を双頬に刻んだ軍司令官松井石根大将である。午後一時半松井大将を先頭に朝香宮殿下を始め奉り○○部隊長、各幕僚は騎乗にて、ここに歴史的大入城式が開始された。
東方紫の峰を横たえる紫金山の中腹にこの盛典を見守る中山陵、ああこの日! この時! 新支那建設の父、孫文はこの陵下に在って如何なる感慨があるであろうか。恐らくは抗日支那の末路をわが将士とともに哀れんで居るであろう。
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posted by 小楠 at 07:10| Comment(0) | TrackBack(1) | 反日マスコミ

2008年02月01日

朝日新聞の南京一番乗り

南京陥落時のアサヒグラフ

今回のご紹介は、昭和13年1月27日に発行された、朝日新聞社の週間朝日・アサヒグラフ臨時増刊・支那事変画報・第十一号です。
 南京陥落から入城後の大虐殺があったとか言う丁度その時の朝日特派員の写真報告を本日から三回に分けて掲載してみます。
こちらでは映画「南京の真実」第一部の試写会が始まっています。
今回掲載の写真は全て拡大できますので、当時の紙面をお楽しみ下さい(皮肉)。
写真はその表紙、キャプションは『江南某基地における「陸の荒鷲」のお正月』となっています。
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次は『南京一番乗り「感激に声なき脇坂部隊の万歳」』と題されたページです。
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主文を引用します。(現代仮名使いにした部分もあります)
【南京光華門外にて平松、藤本両特派員十二月十一日発】
 南京一番乗りの栄誉は遂に脇坂部隊将士の頭上に燦として輝いた。記者等(平松、藤本両特派員)は九日午前五時部隊の主力が南京城壁下にタッチして以来付近の陸軍兵営の一角から眼前に展開する壮烈極まりなき激戦の推移を手に汗を握って観望し遂に心の底から迸しる城内占領の歓喜の叫びをあげることができたその時の感激歓喜こそは永久に忘れ難いものである。
 愈城壁に辿りつくという九日払暁高橋門付近部落で全将士は背嚢を整理し、ただ食料として僅かに残る乾麺麭麭と付近農村で手に入れた生の甘藷を袋に入れて腰には能う限りの弾丸が詰められた。
 群がる残敵を撃破し右翼は城壁外の丘陵を掩護物として左翼は陸軍兵営の建物を盾として城壁下に進む。眼前には一条のクリークが横わって我等の進路を阻む。只光華門に通ずる橋梁が我が軍を門内に誘導するかの様に壊されもせず架っている。城壁上の敵兵は早くもわが軍の進撃に備えて機銃口を城壁の銃眼に一列に並べ間断なく射ちまくる。わが歩兵部隊は弾雨を潜って今将にスコップを揮って懸命に塹壕を掘っている最中である。一秒でも早く一寸でも深く掘らねば何等の掩護物とてない丘陵の上の原っぱのこと、高い城壁から射ち下す敵機銃の餌食になるばかりだ。
 傍らの○砲は砲身も焼けよと射って射って射ちまくる。一発また一発弾丸は光華門の窅湾部に命中するが幾重にも積まれた土嚢のため門はビクともしない。かくて九日も遂に機関銃、小銃戦で暮れて行った。
 徹夜で射ち続ける敵弾は我が勇士の身辺を包み一寸の進撃も許さぬ迫撃砲、野砲は盛んに炸裂し、われ等は生きた心地もない。後退するも前進するも悉く弾雨の危険地帯を突破せねばならぬ。部隊長は「大丈夫だ、明日には必ずあの城壁に日章旗を掲げて見せる」と力強く言ってのける。
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2007年09月23日

全体主義既存マスゴミ党

既存マススコミの実態は全体主義

9月26日記、
 朝日はどこまでも安倍氏を苛め抜きたいようです。「安倍しちゃう」などと流行語でもないものを流行語にしようとしているようですが、本当にこの新聞を作っている人間は卑劣の集りですね。それじゃ、その前に「朝日る」(あさひる)という言葉を流行らせてしまおうではありませんか。
使い方は「朝日るな!」のようになりそうですが、その意味としては、
代表は、「捏造するな!」でしょう。その他 「日本を貶めるな!」、「中国によいしょするな!」、「嘘をばらまくな!」、「印象操作するな!」、「真実を隠すな!」、「偏るな!」など。そして意味深なものとしては「頬かむりするな!」、「偽者に同情するな!」にも使えそうです。
これらの意味をひとまとめにして「朝日るな!」というのはどうですか? 
しかし、どれもこれもろくな意味になりませんね。朝日だから、こんな意味にしかならないのでしょう。

では総裁選について
 今回の総裁選の異常さは、既存マスコミによる情報操作、思想統制につきると思います。日本の政治には、いよいよ巨大権力を持つ「既存マスコミ党」という全体主義勢力が台頭し、今回の総裁選で、自分達の思い通りの首相を作るという暴挙が顕在化してきたようです。
 普段は「自由」や「民主」を絶対的なもののように何かと利用する既存マスゴミの実態は、思想統制、言論封殺、印象操作など「全体主義者」そのものをやっています
 今後は「既存マスゴミ全体主義」と「民主主義」を守ろうとする国民の対立の構図が益々大きくなってくるでしょう。その魁がネット世論です。
 総裁選時、水間政憲氏の本部前現場レポートもご覧下さい。

 安倍氏の辞意表明が発表されたとたんに、時期総理候補として福田氏の名前が唐突に報道されました。この時まで、私の知る限り、周囲で総理候補として福田氏の名前など聞いたこともありません。ごく自然に次は幹事長である麻生氏が政策を引き継ぐべく総理になるであろうというのが、周囲から聞こえる多くの声でした。
 これについては24日の産経抄の冒頭で同じ事を言っていますので引用しておきます。

24日産経抄
 福田康夫氏(71)が、第22代の自民党総裁の座に就いた。本命麻生の声があっという間に、福田圧勝の大合唱にかき消された背景には何があったのか。いまだによくわからない。福田氏の考え方、政策がはっきりしないうちから、流れはできあがっていた。
引用終り

 ところが、マスコミからは突然福田氏という名前が報道され出したので、一体何を言っているんだ、どこから福田氏などが出てくるんだと、なんとも不思議な感覚になったものです。
 この時まで、福田氏がどんな仕事をしていたのか、国政にどのような信念で参画しているのか、全く分からない状態でしたから、まさか国民が福田氏をずっと待望していたなどとは、全く考えのなかにはありません。
 
 ところが、そんな疑問におかまいなく福田氏という名前を突然報道し出した既存マスコミは、福田氏の政策信条が国民に広く知れわたる前から、自民党内の福田氏擁立派(安倍氏の時には勝ち馬に乗って安倍氏を持ち上げた多くの無節操議員を含む)の権力闘争有利をもって、あたかも国民の待望であるような報道がなされ、しかも麻生氏にはイメージダウンになるような、事実を確かめもしないクーデター説などを垂れ流し、私から見れば、福田氏への世論誘導と思えるような報道をしつこく繰り返していました。
 クーデターと言うなら、正しくは自民党内媚中派議員が起こしたクーデターと言う方がよく分かりませんか?
 その結果、何人かの国民へのインタビューを聞いていても、福田氏支持と答える人たちの理由は、マスコミがTVなどを通じて報道している福田評と同じ理由の答えが多く見られました。

 一方、ネット世論では全く逆で、アンケートなどを見ても圧倒的に麻生支持となっています。
 おまけにマスコミが発表する結果発表の支持率では、ずっと福田氏優勢が続いていましたが、リアルタイムで集計を発表していた日テレの番組での視聴者投票は、7:3の大差で麻生氏支持の結果が出ています。

 結果として福田政権が誕生するのでしょうが、安倍氏を支持してきたような、本来の保守派国民は、福田自民党、ましてや幹事長候補に古賀氏の名前が出てくるような自民党とは、その政策上大きな隔たりが出来てしまい、受け皿が無くなってしまった感を強くしています。昔からの長年の自民党支持者もこんな内閣を作る今の自民党では多くの人々が自民党と敵対してしまい、多くの支持票を失うでしょう。(感情的に言えば、こんな気持ちの悪い自民党は初めてです)
 これを打開する道は、本来の保守正道を貫く今回の麻生氏支持派などが、民主党にいながら自民党議員以上の保守正道を唱える議員たちと、新しい政党として誕生し、社民党と変わらないようなことを言い出す福田自民とはっきり一線を引いて、国民に真正保守政党とはこれだというものを示すことではないでしょうか。
 そして今回から自民党も分かりやすいように名称を変えて「社会自民党」なりにすればどうでしょうか。
早速産経には以下の記事が掲載されていましたので、引用させて頂きます。引用開始
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posted by 小楠 at 10:30| Comment(31) | TrackBack(10) | 反日マスコミ

2007年08月29日

性奴隷イメージの拡散

元朝日新聞記者松井やより氏の行動
西岡力著の「よくわかる慰安婦問題」から、抜粋しています。

引用開始
 2000年の6月、南北首脳会談で金大中が北朝鮮に行ったときに、金大中夫人が北朝鮮の女性活動家と会い、そこで慰安婦問題を南北共同で取り上げようという話をする。
 このような中で、平壌で南北の慰安婦問題の活動家のネットワークができ、さらにオランダ人や中国人も含めて慰安婦になった人たちのネットワークがつくられる。そして日本でもアジア女性基金に反対するもうちょっと左のグループが、「バウネット・ジャパン」という組織をつくる。
これをオーガナイズしたのが、松井やより氏という元朝日新聞の記者で、この人は新左翼的な思想の持ち主だった。高木健一氏らは、アジア女性基金でお金を配ろうとしたほうだったが、彼女は、それよりもうちょっと左で、慰安婦のことも含めて、日本の戦争中の行為を断罪することに血道をあげる。
 日本の犯罪行為なるものを挙げて、それがすべて天皇の責任だと言い、天皇を有罪にする国際法廷なるものを開く。「女性国際戦犯法廷」と彼らは呼んでいるが、法廷といっても、弁護側が誰もいないのだから、法廷ではなくて、革命のときに行われる人民裁判と同じものなのである。それは彼らが権力をとったときに、おそらくやるであろうと予測されるようなもので、人権というのを認めない独裁政治そのものである。

 もう亡くなった人間に対して、それも裁判と言いながら、「被告」の実名を挙げて弁護士もつけずに、一方的に糾弾だけをやる。彼らにはまったく人権感覚がないことの証左だと思うが、こういうことを国際ネットワークを作って日本でやり、しかも、それをあろうことかNHKが番組「問われる戦時性暴力」において、松井らの「女性国際戦犯法廷」をそのまま放送することになっていた。

 そんなことが起こっていることを放送の直前になってやっとNHKの幹部が気づき、若干修正を加えて放送した。これは92年以降の論争の中身にまったく反した番組だった。NHKとしては、論争の結果、事実関係がどこまでわかったのかを踏まえて番組をつくらなければ、不偏不党とはいえない。
 ところが、もろに偏向しているプロパガンダのような番組がつくられていた。ぎりぎりのところで、自浄作用が働き、若干修正がなされたわけだが、それに対して朝日新聞が政治家の圧力で番組内容が変更されたかのように報道した。
 そのため今では政治家が番組に圧力をかけたという問題になっているが、それよりも問題の本質は、ひどく偏向し、事実にも反する、このような主張をNHKが一方的に流していいのか、ということなのである。そちらのほうが、はるかに重大な問題なのだ。
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posted by 小楠 at 06:57| Comment(1) | TrackBack(0) | 反日マスコミ

2007年08月28日

事実を隠蔽する朝日

東京で家五軒買えるほどの貯金

 下記のような事実の隠蔽や虚報までして日本と日本人に多大な物的、精神的損害をもたらす朝日新聞は、すでに公平中立な新聞社という基準からはかけ離れています。これ以上こんな新聞を容認できますか?

西岡力著の「よくわかる慰安婦問題」から、抜粋しています。

引用開始
 1992年から93年にかけて、日本政府は政府機関に残る公文書をしらみつぶしに調べて、慰安婦動員の実態にせまろうとしていた。朝日新聞をはじめとするマスコミも、慰安婦強制連行を証明できる証拠をそれこそしらみつぶしで探していた。
 しかし、
第一に、挺身隊という公的制度は慰安婦募集とは関係ないことが確認された。

第二に、公文書をいくら探しても、先に見たように民間の犯罪的慰安婦狩りを取り締まれという善意の関与は出てくるが、公的機関が慰安婦強制連行を行ったことはまったく証明されない。

第三に、自分が強制連行に加担したと告白していた吉田清治と原善四郎参謀の「証言」にも信憑性がないことが判明した。それ以外に、強制連行したという側の証言は出てこない。

 最期に残ったのが、92年に入り続々と名乗り出てきた元慰安婦たちの証言であった。当然のことながら、私も彼女らの証言をできる限り集め、検討した。その作業をしながら、少し大げさに言えば、人間というものを考え、複雑な思いに陥ることも少なくなかった。
 92年3月、名乗り出た元慰安婦、文玉珠さんが訪日し、軍事郵便貯金の払い戻し請求を行ったという新聞報道があった。文さんは1942年から44年までビルマで慰安婦生活をしたが、その間に軍人からもらった現金などを現地部隊の軍事郵便局に預けた。通帳は紛失したが、6、7000円残っているはずだから、払い戻してほしいと下関郵便局に請求したと言うものだ。
 その後、郵便局側が調査したところ、92年5月11日に軍事貯金の原簿が発見された。原簿によると、1943年6月から45年9月まで12回の貯金の記録があり、残高は26145円となっていた。本来ならこの金額の大きさが大ニュースだった。なにしろ当時の26000円である。その頃、5000円あれば東京で家一軒買えたというから、彼女の貯金は家五軒分なのだ。
 しかし、新聞の扱いは大変小さかった。ちなみに、あれほど慰安婦問題に熱心な朝日新聞は残高がいくらだったかを報じなかった。

 1965年の協定で韓国政府に支払われた5億ドルにより、日韓両国は韓国籍者の貯金なども含む補償を解決させた。それを受け日本は韓国籍者の貯金などの権利を消滅させる法律を作った。
 また、・・・韓国政府は文さんのような貯金所有者に対して個人補償を実施している。通帳紛失のため韓国政府からの補償をもらえなかった文さんは、韓国政府と交渉すべきだろう。そのときに、日本は郵便局の原簿の写しを提供するなどの協力はできる。
 ところが、文さんは日本の郵便局に対して、「個人の請求権は消滅していない。当時日本人として貯金したお金だから、ただちに返して」とまったく理屈にならない要求をし、彼女の貯金払い戻しを実現しようという日本人らの支援組織が生まれ、そのめちゃくちゃな要求をまた、マスコミが批判せずに報じている。
 これらの報道を見て、私は、慰安婦問題の詐欺劇はついに行くところまで来たと、嘆くばかりだった。

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2007年08月27日

慰安婦裁判煽動者

慰安婦裁判をけしかけた日本人

本文の前に、慰安婦問題の火付け役朝日新聞がらみの事件がまた報道されましたので引用しておきます。

毎日新聞記事より
愛知女性殺害:金目的で面識のない女性を 逮捕の3人供述
 岐阜県瑞浪市の山林で25日夜、名古屋市千種区内から拉致、殺害された女性の遺体が見つかった事件で、愛知県警捜査1課と千種署は26日、自首してきた住所不定、無職、川岸健治容疑者(40)ら男3人を死体遺棄容疑で逮捕した。3人は女性から現金7万円やキャッシュカードを奪ったうえ、殺害したことも認めており、県警は特別捜査本部を設置、強盗殺人容疑でも追及する。3人は犯罪仲間を募る携帯電話サイトで知り合ったといい、金目的で拉致を計画し、面識のない女性を襲ったと供述している。
 ほかに逮捕されたのは▽愛知県豊明市栄町西大根、朝日新聞外交員、神田司(36)▽名古屋市東区泉1、無職、堀慶末(よしとも)(32)の両容疑者。殺害されたのは同市千種区春里町2、派遣社員、磯谷(いそがい)利恵(りえ)さん(31)。調べに対し、3人は容疑を認め「弱い女性ならやりやすいと思い、たまたま通りかかった女性を狙った。顔を見られたので殺した」と供述している。
引用終わり

それでは、西岡力著の「よくわかる慰安婦問題」から、抜粋します。
引用開始
 調べれば調べるほど、権力による強制連行は証明されていないことがわかってきた。それならなぜ裁判が起きたのかということになるのだが、ここにはさらにもう一つの仕掛けがあった。
 大分県に青柳敦子という女性がいる。私はこのときの調査で、大分の彼女の自宅まで訪ねて詳しい話を聞いた。お医者さんの奥さんで、在日韓国人のちょっと変わった宋斗会氏という差別反対運動家に私淑していた。青柳氏は宋氏と組んで、日本政府を相手に謝罪と補償を求める裁判を始めた張本人だ。その後、私は東京で、青柳氏を後ろで操っていた宋氏とも会って話を聞いた。その聞き取りから私が明らかにできたのが次のような事実だ。
 この種の裁判の最初は、実は、サハリン在住韓国人問題である。これも宋斗会氏が始めたものだ。しかし、宋氏は偏屈な人で、・・・・その上、弁護士も使わないから、書類が体裁をなしておらず、なかなか裁判所が受け付けてくれない。そこで高木健一という弁護士が出てくる。

 高木弁護士らは1975年、宋氏を排除して書類を整え、「終戦後サハリンに残された韓国人が韓国に帰国できなかったのは、日本政府の責任だから、謝罪し、補償せよ」と日本国を訴えた。
 この訴えは根拠のないものだった。そもそも、敗戦国日本はサハリン韓国人の戦後の処遇についてまったく関与していない。サハリンを軍事占領したソ連が、北朝鮮を支持する立場から、韓国人の韓国への帰国を認めなかったのが、悲劇の原因だった。裁判は道理にかなうものではなかったが、事実を歪曲してでも日本を非難すればよいという姿勢が、高木弁護士ら反日日本人の特徴だ。・・・・

 高木弁護士らにサハリン裁判を乗っ取られた宋斗会氏らは、今度は、韓国から原告を集めようとしたのである。
 当時、「朝日ジャーナル」という左翼雑誌があったのだが、宋・青柳グループは1989年5月19日号に「日本国は朝鮮と朝鮮人に公式に陳謝せよ」という広告を出す。この広告は12月まで隔週で合計15回掲載された。
 青柳氏がその広告を韓国語に訳して韓国を訪問したのは、89年11月19日から22日までだ。徴用被害者や元慰安婦などで日本政府を相手に謝罪と賠償を求める裁判の原告になってくれる人を探すのが訪韓の目的だった。青柳氏は、用意した資料を報道機関などに置くなどはしたものの、被害者に会うこともできず帰国した。
 そのとき、私の知り合いの日本のある新聞の支局にも彼女が現れ、原告募集活動をしていることを話したという。それを聞いていたので、私は彼女の活動を知っていた。日本人がわざわざ韓国まで出向き、日本政府を訴えましょうと韓国語で資料を配ってまわった。調べれば調べるほど話は胡散臭くなっていくばっかりだった。
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2007年08月25日

朝日新聞の悪質な捏造

朝日新聞の悪質かつ重大な捏造

 最近の論調は、朝日新聞だけが突出して中国共産党の機関紙の様相を呈してきました。勿論以前から変ってはいませんが、他の新聞各社が少し遠慮ぎみに或は日本の国益の上に立っての報道もある中で、なおさら朝日の反日姿勢が際立ってきたということでしょうか
 慰安婦問題だけに関しても、どれほどの税金が捨てられたでしょうか、しかも、日本と日本人を貶めるために。
 良識ある日本人は、もうこんな下劣な朝日新聞の講読はよしましょう。
 西岡力著の「よくわかる慰安婦問題」から、抜粋しています。

引用開始
 次に慰安婦だったことを最初に名乗り出た金学順さんを取材しようと思ったのだが、金さんは入院していて会うことができなかった。その代わり、韓国に日本のテレビ局などが金学順さんを取材に行ったとき現地の手配や通訳などをしている在日韓国人女性に会うことができた。
 彼女は通訳などを繰返すうちに金学順さんと親しくなり、その結果、軍による強制連行ではなく貧困のためにキーセンとして売られたという身の上を知ることになった。・・・・
 彼女は金学順さんの本当の身の上を知ったあと、記者らがいない一対一の席で、静かに金学順さんに話しかけたという。
「おばあちゃん、キーセンに身売りされたのですよね」
「そうだよ」
「結局、おばあちゃん、なんで出てきたの」
「いや、わしは寂しかったんだ。誰も訪ねてこない。そしてあるとき、テレビを見ていたら、戦時中に徴用で働かされていた人たちが裁判を起こすという場面が出たのさ。それで、わしも関係があるかなと思って電話をした」

 91年8月、金学順さんが元慰安婦として初めて名乗り出たのだが、そのとき、朝日新聞は先に見たとおり、「初めて慰安婦名乗り出る」と大きく報じた。これは韓国の新聞よりも早く、世界的なスクープだった。この記事を書いたのが、遺族会幹部を義理の母とする植村隆記者だった。名乗り出たところの関係者が義母だったわけで、義理の母親が義理の息子に便宜をはかったということだった。・・・・
 ここには、金学順さんが貧乏のためキーセンに身売りしていたという問題の本質に関わる重大な事実関係が書かれていない。・・・
 朝日新聞は同年12月25日付けで、植村隆記者が金学順さんから詳しい話を聞いたとして、「日本政府を相手に提訴した元従軍慰安婦・金学順さん 返らぬ青春恨の半生」と題する大きな記事を載せた。・・・
ここにも、キーセン身売りが書かれていない。
 調べていくと、植村記者が「初めて元慰安婦名乗り出る」という8月のスクープ記事を朝日に書いた数日後の8月14日、金学順さんは韓国の新聞記者を前に記者会見していた。その記事を韓国紙で探すと、韓国の新聞の中で最も左派系の「ハンギョレ新聞」にも金学順さんの記事が出ていた。
「生活が苦しくなった母親によって14歳のときに平壌にあるキーセンの検番に売られていった。三年間の検番生活を終えた金さんが初めての就職だと思って、検番の義父に連れられていった所が、華北の日本軍300名余りがいる部隊だった。私は40円で売られて、キーセンの修行を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」(ハンギョレ新聞1991年8月15日)

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2007年08月24日

慰安婦問題は朝日の放火

慰安婦問題をめぐる論争

 西岡力著の「よくわかる慰安婦問題」から、先ず経緯と現在の構図について書かれている『はじめに』の記述の抜粋から始めます。
nishioka1.jpg

引用開始
 この論争は主として92年ころから翌93年まで私(西岡)を含む一部専門家の間で激しく続き、「強制連行は証明されない」ということでほぼ決着した。・・・・
 その後、日韓の反日勢力は、「強制連行は証明されない」という論争結果を意図的に隠しながら、河野談話を利用して反日宣伝を続け、96年には日韓両国の中学歴史教科書に慰安婦強制連行が書き加えられてしまう。・・・・
 この段階で、朝日新聞や左派学者らは、連行における強制だけが問題でないとして、慰安所の生活などにおける強制性を強調しだすが、説得力が乏しく、2000年代に入り、日本の中学歴史教科書からは慰安婦強制連行の記述が削除される。・・・・・
 (現在)国内の反日勢力だけでなく、今度は国外の反日勢力のネットワークができつつある。つまり、国内の反日勢力が国外の反日勢力と結んで、日本包囲網をつくろうとしているということだ。とうとう、その魔の手がアメリカの議会にまで伸びてしまったということである。

 国内の論争ではこちらが勝っていたが、論争に負けた国内の反日勢力が外と結んで、逆噴射を仕掛けようとしているというのが全体の構図である。
 彼らにとって安倍政権は、国内の論争で負かされた相手なのである。その安倍晋三が政権を獲って、日本をいよいよ正常化しようとしていることに対して、外の力を使って、日本正常化の動きをつぶしにかかっているというのが現在の状況といっていいだろう。・・・・・
引用終わり

次に本文の中から抜粋します。
引用開始
 1983年に慰安婦に関する日韓の認識を大きく歪める吉田清治著『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』(三一書房)が出版された。・・・
 日本の朝鮮史学者、朝日新聞に代表される自虐派メディア、反日運動家らは、吉田の告白を検証もせずに無条件で信じ、1980年代半ば以降、歴史書、事典などの記述に慰安婦の強制連行説が広がっていき、その結果、植民地時代を知らない世代の中で「慰安婦強制連行説」にむしばまれる者たちが増えてきた。この流れに乗って89年頃から、当時の社会党議員が国会で慰安婦問題を取上げはじめた。・・・・
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2007年08月04日

日本人の敵朝日新聞

朝日新聞の不買を拡大しましょう

 朝日の捏造、虚偽報道はもう周知の事実でしょうが、このことが結局は外交への悪影響を与え、我々日本人の税金を、中国共産党や韓国に支払うことにつながっているという因果関係を明確に認識するべきではないでしょうか。これまでどれほど厖大な国民の税金がドブに捨てられてきたか、よく見直してみることです。
 戦後日本は、ことごとく朝日の主張の逆をやってきて今の日本があります。朝日の主張の逆が正論だということです。
安全な日本、健全な日本にするため、いつまでもこんな卑劣な、民主主義を衆偶政治に誘う(情報の隠蔽によって)マスゴミを許さないことが結局は「生活第一」につながります。もちろん自治労の解体もね民主党さんよ、
社保庁職員:年金着服1億3千万円 24人が12年間で【2007年8月3日、毎日新聞】
そしてその民主党比例代表の中でトップ当選を果たしたのが、自治労選抜の組織内候補・相原久美子だった。
なぜこれが「生活第一」なんだよ!!このこともはっきり説明したらどうだ。

J-CAST ニュースより抜粋
抜粋引用開始
NHKディレクター出身で現在、上武大学大学院教授を務める池田信夫さんはJ-CASTニュースに対し、1992年の朝日新聞による「従軍慰安婦」報道を踏まえたうえで、「孤立」した朝日新聞の社説について次のようにコメントした。

「慰安婦問題は、ほとんど朝日新聞の捏造した『非問題』だ。『軍が慰安婦を強制連行した』という朝日の誤報で騒ぎが起き、政府が『河野談話』で謝罪したため、これが『歴史的事実』として定着してしまった。
 その後、国内では歴史家の検証によって朝日の報道が誤りであることは広く認められるようになったが、そういう続報は海外に伝わらないため、欧米メディアまで慰安婦をホロコースト並みの戦争犯罪と信じている。
 これは『女性国際戦犯法廷』をめぐる誤報以上の国際問題だが、朝日は訂正もしないで『枝葉の問題だ』と開き直っている。
 今日の社説では、安倍首相に謝罪を求めているが、これは順序が逆だ。政府が謝罪すべき『軍の強制』という事実があったかどうかを検証するのが先であり、その責任は朝日にある」

慰安婦決議で新聞「猛反発」 朝日社説だけが「孤立」
旧日本軍のいわゆる従軍慰安婦について、米下院が「対日謝罪要求決議案」を本会議で採択した問題で、日本の主要新聞は社説やコラムの中で「事実誤認」「おろかな選択」「有害である」などと揃って批判論を展開した。しかし、朝日新聞だけは安倍首相が談話を表明して謝罪するよう要求しており、「孤立」が際立っている

朝日以外の新聞各紙が米「対日謝罪要求決議案」について批判や疑問をあらわにした。
米下院本会議は2007年7月31日未明(日本時間)、旧日本軍によるいわゆる従軍慰安婦問題で日本政府に公式に謝罪を求める決議案を可決した。決議案は1月末にマイク・ホンダ議員が提出したもので、2007年6月27日(日本時間)には米下院外交委員会で可決された。決議案は、旧日本軍の「強制集団売春制度」によって、「集団レイプ」「堕胎の強制」が行われたとするもので、「残虐性に前例がない」「20世紀における最大の人身売買の一つ」などと断じられている。さらに、本会議での可決が決まった翌日の米国では、ラントス下院外交委員長が、「(日本での)性奴隷の徴用を否定する試み」について「吐き気をもよおす」とまで批判していることなどが報じられている。
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2007年01月16日

捏造元祖朝日新聞

従軍慰安婦も朝日新聞が火付け役

 珊瑚にKYの捏造報道はあまりにも有名ですが、従軍慰安婦も朝日が元祖です。そして、日本人を貶めるためには「詐話師」吉田清治の作り話まで新聞に掲載しました。吉田清治は戦後共産党から下関市議に立候補し落選しています。
片岡正巳著「朝日新聞の戦後責任」より、そのころの部分を見てみます。
虚偽報道.gif

大爆笑、韓国政府自爆画像も見て下さい。

引用開始
 ところで“従軍慰安婦”がクローズアップされたのは、教科書に記述され、それが検定合格となったからではなかった。これについては、すでに何冊か、かなりいかがわしい内容の書籍が出版されている。しかし、これが社会的に話題になることはさしてなかった。それが突然という感で社会性を帯びてきたのは、平成三年の夏から翌四年にかけてであった。その発端となったのが朝日の記事で、平成三年八月十一日付、大阪本社発行版の社会面トップである。

<思い出すと今も涙><元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く><韓国の団体聞き取り>の派手な見出しで、(ソウル十日=植村隆)の記事。リードは次の通りである。
「日中戦争や第二次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』のうち、一人がソウル市内に生存していることがわかり、『韓国挺身隊問題対策協議会』(伊貞玉・共同代表、十六団体約三十万人)が聞き取り作業を始めた。
 同協議会は十日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は『思い出すと今でも身の毛がよだつ』と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた」

 記事はこの女性の氏名を伏せているが、この年の十二月六日に彼女は金学順という名前を公表して、他の二人の元慰安婦と元軍人・軍属だった韓国人十六人と共に、日本政府に補償を求める民事訴訟を起した。・・・・
 こうして、“従軍慰安婦”は、にわかに社会性を帯び、朝日や毎日は精力的に肩入れすることになる。そして、そのキーワードは「女子挺身隊」「強制連行」→「従軍慰安婦」であった。
 しかし、このキーワードは破綻する。朝日の第一報とも言うべき既述の平成三年八月十一日付、植村記者の記事からして、すでに事実関係がいい加減で、かなりトリッキーなのである。

 記事は「女子挺身隊」の名で連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられたとしているが、現在「この女性は六十八歳」で、「女性の話によると、中国東北部で生まれ、十七歳の時、だまされて慰安婦にされた」と記している。この女性とは金学順さんだが、平成三年に六十八歳といえば大正十二年生まれで、十七歳(後掲の記事によれば数え年)の時は昭和十四年である。 しかるにその頃、女子挺身隊は存在しないのだ。昭和十八年九月二十三日、国内必勝勤労対策が閣議決定され、販売店員、出改札係、車掌、理髪師など十七職種の男子就業を禁止し、二十五歳未満の女子を勤労挺身隊として動員するとしたが、「女子挺身勤労令」の公布は翌十九年八月二十三日である。

 女子挺身隊と騙されてとしたのは、日本政府の責任を強調するためであったろうが、ちょっと調べれば、あり得ないことは直ぐ分る。この記事は基本的な事実関係で、重大な誤りを侵しているのである。因みに「週間新潮」(9・4・17)によれば、植村記者は訴訟を起した「太平洋戦争犠牲者遺族会」の幹部(梁順任・常務理事=当時)の娘と結婚しており、夫人は同会で働いていたという。義父らの運動にある種の心情を抱いたとしても、あながち不思議ではあるまい。このような場合、報道の公正を保つために担当させないのが通常だろうが、朝日はむしろ積極的だったと映る。・・・・
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2007年01月15日

朝日新聞の文革報道

先ずは文化大革命を道徳国家への道と評価

 私が学生の頃、朝日の紙面には紅衛兵の大きな写真が掲載され、絶賛のタイトルが躍っていたことを覚えています。あれは何だったのでしょうか。
文化大破壊を絶賛した朝日新聞の判断基準がいかにでたらめかがよくわかります。国民のレベルの方がずっと高いでしょう。社説などはもう止めなさい。
片岡正巳著「朝日新聞の戦後責任」より、そのころの部分を見てみます。
写真は当時の紅衛兵
紅衛兵.jpg
朝日が礼賛した文革の動画はこちらから。

引用開始
 1966年(昭和四十一年)に始まり、十年余も吹き荒れた中国の「文化大革命」が、如何に非人道的であり、非文化的どころか文化遺産まで破壊するすさまじい暴挙であったか、評価は定まっている。
 昭和四十一年五月二日付の社説は
「・・・・そこには、いわば“道徳国家”ともいうべきものを目指すとともに、中ソ論争の課題に答えようとする“世紀に挑む実験”といった意欲も感じられなくはないのである。今回の動きは、こうした観点からもとらえられねばならない」

 早くも朝日は“道徳国家”を目指す運動だと肯定的に受け止めたのである。当時、論説主幹は森恭三氏であった。氏はこの年に中国を訪問し、帰国して報告会を行い、その報告要旨が「文化フォーラム・ニューズ」の同年四月号に載った。・・・その中でこう述べている。

「中国は長年、四書五経を生活の規範としてきました。この四書五経を現在、毛沢東主義におきかえ、精神主義で人民を引張っていこうとしている。そればかりでなく、人間を改造とようと試みている。ここにソ連とは違った中国的な発想法と人間観がある。そして若干の抵抗はあるにせよ、現在のところ相当成功していると私は観察したのです。一般論としても、共産主義者が非共産主義者とちがった倫理観、道徳観をもっていることは、いうまでもありません。・・・・私は中国を『一種の』道徳国家として客観的に評価している

・・・・それにしても「客観的評価」というものはあり得ない。評価は主観的である。
 昭和四十二年四月二十日付の<人民解放軍を見る>という栗田特派員の一文。
「たっぷり七時間半の“半日入隊”―― 解放軍の兵士たちと昼食を共にし、迫撃砲の実弾射撃を見たのは、日本人記者としては恐らくはじめての経験であろう。『毛沢東思想で武装された解放軍』の姿を通じて“文化大革命”を理解してもらいたいというのが、中国側のねらいだったようだ」・・・
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2007年01月13日

朝日新聞の無責任豹変

ソ連共産党崩壊に厚顔無恥の豹変

 片岡正巳著「朝日新聞の戦後責任」より、ソ連崩壊時のあきれかえる記事を見てみましょう。前回の記事をご覧の方は目を疑うのではないでしょうか。朝日新聞が全く信用できないことがよく分かります。
こんな恥知らず新聞はもう日本から消滅させるべきです。
写真はベルリンの壁崩壊を祝ってダンスする両ドイツ国民
wall.jpg

引用開始
 アンドロポフ書記長は就任わずか十五ヶ月で1984年(昭和五十九年)2月に死去した。後を継いだチェルネンコもまた翌85年(昭和六十年)3三月10日に世を去った。そしてミハイル・ゴルバチョフの登場である。
 ペレストロイカ(改革、改造)とグラスノスチ(情報公開)を掲げた大胆なゴルバチョフのもとで、85年11月にはレーガン米大統領と六年ぶりの米ソ首脳会談がジュネーブで行われ、米ソ関係は雪解けの兆しを見せる。87年(昭和六十二年)12月のワシントンでの米ソ首脳会談では、INF(中距離核戦力)全廃条約に双方が調印した。そして89年(平成元年)12月3日、地中海のマルタ島で行われた両首脳会談で、歴史的な「冷戦終結」宣言へと進む。

 この間、同年夏には東独市民がハンガリー経由で多数西独に脱出する事態が起り、11月初めには遂にベルリンの壁が崩壊、12月末にはルーマニアで自由を求める民衆の暴動が起り、チャウシェスク政権が劇的に倒れる。同大統領は夫人と共に特別軍事裁判で死刑判決を受け銃殺された。
 チェコスロバキア連邦議会は、ドブチェク元共産党第一書記を議長に選出した。ソ連軍に押しつぶされた“プラハの春”の指導者の復活である。げに大雪崩の如き世紀的な東欧諸国の共産党支配の崩壊であった。

 かくして1991年(平成三年)8月、レーニン革命以来七十年余、ソ連邦を支配してきたソ連共産党が潰えた。そして、同年暮にはソ連邦が瓦解して新たな連邦、独立国家共同体(CIS=ロシア、ウクライナ、ベラルーシの三共和国を中心に十二カ国が加盟)に変わるが、ソ連共産党崩壊について朝日は何と論じたか。平成三年八月二十五日付社説は次のように論述したのである。

「<自由な共和国による揺るぎない連邦>。スターリンの時代以来、ソ連の指導者は自国をこうたたえてきた。それは建前にすぎず、実はどの共和国も、共産党とそれが支配する軍、KGBなどの『鉄の腕』に締めあげられてきた。中央権力は民族の文化、言語を軽んじ、ときにその抹殺さえはかった。抵抗する人たちは迫害した。
 新連邦条約は何より、忌まわしい過去を清算し、これまで建前にすぎなかったものに実質を与えるものでなければなるまい

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2007年01月12日

朝日プラウダ日本版時代

激越な「北方領土の日」反対論

片岡正巳著「朝日新聞の戦後責任」より、昭和五十年代、朝日が一党独裁の超国家主義で共産主義の総本山ソ連への傾斜を露にしていた頃を見てみます。
写真は、スパイ、レフチェンコ氏の単独インタビューを掲載したリーダーズ・ダイジェスト
レフチェンコ.jpg

引用開始
 昭和五十六年に政府が二月七日を「北方領土の日」とすることを決めた時には、(二月四日)社説で
「1855年のこの日、下田で日露通好条約が締結され、日露両国の国境を択捉島と得撫(うるっぷ)島の間に決めた。四島が両国の平和的な話し合いで日本領土と認められた歴史から見て、『北方領土の日』を選ぶとすれば、妥当な日取りといえる」とし、「ソ連は、返還運動を『一部の策動だ』と非難している。これは誤っている」とした。

 だが、「しかし他方、東西の緊張が高まり、内外に右旋回が著しくなるなかで、『北方領土の日』をテコとした国民運動が誤った方向に曲げられたら、所期の目的を達せられなくなるおそれがある」「いたずらに『ソ連脅威論』であおったり、右傾化へのバネに利用してはならない。現状ではその危惧がないとはいえない」と、衣の下に本音が透けていた。

 そして、初の「北方領土の日」を翌日に控えた二月六日の「論壇」に<「北方領土の日」取り下げよ>という東海大学総長だった松前重義・日本対外文化教会会長の激越な一文を掲載したのである。それは、
「鈴木内閣が、閣議で『北方領土の日』を決定したことは、日本の対ソ外交における大きな失敗である」と非難するもので、その理由は「この決定は、改善の機運が高まった日ソ関係を再び緊張においやるだけではなく、肝心の『北方領土』問題の解決を一層困難なものにするからである」と言うにあった。

 国後、択捉、色丹の三島にソ連がわがもの顔で軍事基地を増強し、北方漁場では日本の漁業者が苦汁をなめている緊張のさ中で、日ソ関係は「改善の機運が高まっ」ているとは、超弩級の親ソ派でなければ口にできない言辞である。なにせ松前氏は、朝日と提携して、ソ連のレーニン革命六十周年を盛大に祝う事業を行ってさえいる。

 しかして松前氏は、ソ連との相互信頼こそが北方領土問題解決の前提だと強調し、にもかかわらず日本政府は、ソ連を刺激する「北方領土の日」を設けて、自ら信頼関係を壊すことをしたと言い、これは「日本政府が『北方領土』問題の解決を事実上放棄する宣言であった、と理解している」「閣議決定によって、『北方領土』を永久に残し、日ソ間の緊張を継続し、軍国主義への道を開こうという意図ではないだろうか」とまで激しく難詰した。
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2007年01月11日

朝日のマルクス気触れ

GHQ民生局作成の九条草案信仰の愚昧

片岡正巳著「朝日新聞の戦後責任」より、現代日本マスコミの癌、朝日新聞が、いかに共産主義気触れの文面であったかを見て下さい。
写真は60年安保闘争
anpo01.jpg

引用開始
 昭和21年3月8日付社説で<憲法草案と世界平和>と題して戦争放棄条項を称賛し、

「これを単に敗戦国としての現状肯定とみるのは浅い見方」だと論じた。そして再び

「日本が一方的に戦争放棄を憲法に規定しても、それだけで世界の平和が維持できぬことはいうまでもない」と述べ、

「従って、憲法にかかる条項を入れようとする以上は、日本人民として、世界平和維持に対する積極的発言が許されねばならぬのである。現在日本は聨合国の管理下にあり、政府当局としては、かかる発言はなお許さるべき時期ではないが、日本人民の声だけは、率直に世界各国民に伝えておきたいと思う」と念を押す。・・・・

 それにしても右の社説は、「国民」ではなく「人民」である。当時の論説委員の意識が奈辺にあったか、この表現はそれをよく表していると思う。また、この社説は一方で、世界の恒久平和を確立するためには、完全雇用を実現する世界を作らねばならぬとも言い、

「経済恐慌のない世界、失業の無い世界、過剰資源も、過剰滞貨も生ぜざる世界、生産力の無限の向上が社会の無限の向上に全く矛盾なしに照応する世界」と書き連ねて、

「この問題は、ソ連以外の国々において特に重大な意義を持つ。ソ連は既にソ連方式によりこれを解決しているからであると言い切って、アメリカは

「此の問題に対する理論的解決をせまられている」と書く。完全にマルクス経済の虜になっているのである。「人民」の用語を使うのもむべなるかな。げに、のちに反米親ソを鮮明にする朝日の源泉を見る思いがする。

※安保・戦争巻き込まれ論
安保改定ニュース動画
 昭和三十五年元日の社説は、
「いま目の前にある何よりも大きな収穫は、フルシチョフの完全軍縮の提案と、これに呼応した国連総会の同じ決議である」と、緊張緩和の夜明けが訪れたとばかりに微笑み、「危険そのものが、全世界を爆破しかねないほどに成長して、その巨大な危険の前には、永い争いの種であったイデオロギーの相違が、いよいよ小さく、色あせて来たということではあるまいか」、

東西の間には、もう『戦争』ではなく、『競争』という言葉だけが、意味をもち得ることとなってきた。それは別の面から言うなら、人々の心の中に『寛容』がしのび込み、『平和』が小さな芽をふき出して来たともいえよう」と喜んで、「平和共存」を強調した。・・・・
 だが、フルシチョフの提案は、明らかに米国の核に追いつき追い越すための時間稼ぎであった。・・・・
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2007年01月10日

朝日新聞の無恥変節

相哭からプロレタリア戦線機関へ

 片岡正巳著「朝日新聞の戦後責任」より、現代日本マスコミの癌、朝日新聞の恥ずべき変節の様子と、以後の反日ぶりを見て下さい。
 つい先日も満洲問題で、日本と日本人を貶めようとの悪意がまる見えの記事を掲載。過去に朝日の報道でどれほどの国益を損ねてきたことか。朝日新聞はなんとしても日本と日本人の敵になりたいのでしょうか。
kataoka.jpg

引用開始
※一億総懺悔から戦争責任者追及へ急変
 昭和20年8月23日付は<自らを罪するの弁>なる社説を掲げた。

「過ぐる十五日の正午、一億国民の耳朶を激しく打ち、国民の胸奥を強く揺すぶった玉音は何人も終生忘れ得ないところであり、必ずや子々孫々言い伝え、語り継いで永遠の戒めとするに相違ない」
と。そして次のように続ける。

「思うに事志と違って邦家が今日の悲運に立到ったについては、天の時、地の利ともに因をなしているとはいえ、人の和についてなお遺憾な点があったことは否めない。然らばこの点に対する責任は、決して特定の人々に帰すべきでなく、一億国民の共に偕に負うべきものであらねばならぬ。さりながら、その責任には自ら厚薄があり、深浅がある。特に国民の帰趨、世論、民意などの取扱に対して最も密接な関係をもつ言論機関の責任は極めて重いものがあるといわねばなるまい

 これは明らかに「一億総懺悔」論であり、とりわけ言論機関の責任の重さを強調しているが、何を懺悔すべきだとしたか。それは戦争に至った日本の歩みへの懺悔ではなく、・・・戦いに敗れたことへの懺悔なのである。
 ところが、それからわずか一ヵ月後、ダグラス・マッカーサー元帥を最高司令官とする連合軍の“戦争責任者”追及の動きが顕在化してくると、朝日は一億総懺悔も新聞の責任も投げ捨てて、9月22日付社説は<戦争の責任果して如何>なる表題で、・・・

遂に国民を大戦争の渦中に投じた我国指導者の責任こそ、この際、十分に糾明せられて然るべきであろう」

と豹変したのである。・・・そうして朝日は、勝者のお先棒をかついで戦争責任者追及に邁進することになるが、ここに、朝日の“東京裁判史観”の芽生えがあるといっても過言ではなかろう。
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posted by 小楠 at 07:26| Comment(6) | TrackBack(0) | 反日マスコミ

2007年01月07日

石橋湛山の新聞批判

真の自由人、石橋湛山の新聞批判

ご存知の稲垣武氏著「朝日新聞血風録」から、東洋経済新報社時代の石橋湛山の言動についての部分がありましたので、掲載してみます。
写真は石橋湛山内閣、岸信介外務大臣、池田勇人大蔵大臣が見えます。
ishibashi.jpg

引用開始
・・・湛山の言論はその後も一貫して変わらなかった。日独伊三国同盟締結に当たっては昭和四十年十月五日付の社説「日独伊同盟の成立と我が国官民の覚悟」で、

「世間には、新聞に現るる欧州の戦況を読み、その戦争は、間もなく独伊の全勝を以て終結するかに思う者も少なくないであろう。・・・けれども実際の戦局が果たしてどう転回するかは、そう易くは予断できない」
 と安易な「バスに乗り遅れるな」論に警告し、米英との摩擦激化を予測している。

 この間、湛山はさまざまな弾圧を受けた。内閣情報局から厳重な注意を受け、削除を命じられることもしばしばあった。社内からも湛山を社長の座から退けて軍部に協力しようとの動きもあった。しかし湛山は、
「新報社の伝統も主義も捨てて、軍部に迎合するくらいなら、自爆して滅びた方が、遥かに世のためになり、新報社の先輩の意志にもかなう」と信じ、断固として節を曲げようとしなかった。同じころの大新聞各社の首脳の覚悟とは月とスッポンではないか。

 湛山こそ、真の自由主義者だったと言えよう。だからこそ不撓不屈の姿勢を貫けたのだろう。「ファッショに対抗する」ために近衛新体制に積極的に協力し、ミイラ取りがミイラになった大新聞の論説委員諸公とは雪と墨だ。その湛山が当時のマスコミをどう見ていたか。二・二六事件直後の三十六年三月七日付の社説「不祥事件と言論機関の任務/建設的批判に精進すべし」を読もう。

「彼等は口を開けば言論の不自由を云う。なる程、現代日本において言論の自由のないことは、同じく筆の職に従うところの記者(湛山自身)が何人よりもこれを心得ている。しかしながら世には現在の言論の許される程度において、言論機関が報道し、批判しうることが山ほどあるのである。強力なるものの前には筆を投げながら、弱いものに対して飽くまで追求するのは言論不自由とは関係ないのである。又一方的な報道をなして性急な暴力主義に拍車をかくるのは言論不自由からではないのである。」

 湛山はさらに「言論自由は言論機関が自ら闘いとるべしである。現時の言論機関の有力さを以てして、協力さえすればそれができないわけではない。言論自由が不足しているのは、彼等にこれを得んとする熱意がないからなのだ」と喝破し、
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2007年01月06日

左翼の戦争反対は嘘

真の反戦論者は保守主義者

 ご存知の稲垣武氏著「朝日新聞血風録」から、目にとまった部分を引用してみます。
inagaki.jpg

引用開始
 戦後長らく、左翼勢力が論壇の覇権を握った時期があり、そのために戦争に抵抗し反対したのは共産党をはじめとする社会主義者だったという説が支配的となった。確かに左翼の抵抗はあったし、そのために投獄されても節を曲げなかった共産党幹部らは信念を貫いた点で称賛に値する。しかし彼らはいわゆる帝国主義戦争に反対したのであって、戦争一般に反対したのではない。社会主義の祖国とされていたソ連の行う戦争には無条件で賛同していたのである。

 ゾルゲ事件で検挙された元朝日新聞東亜部記者の尾崎秀実は、近衛首相らに働きかけて、独ソ開戦後、陸軍に盛り上がったソ連侵攻論(北進論)を断念させ、英。仏。オランダなど宗主国の力が衰えた南方資源地帯を狙う南進論に傾くよう工作したと供述している。その南進論の結果生まれた仏印武力進駐が太平洋戦争の契機となったことを考えれば、尾崎は戦後喧伝されたように平和主義者でも何でもない。共産主義者として祖国ソ連を守り、世界の資本主義体制の崩壊を促進しようとして、日本と米英といった、彼らのいう帝国主義国相互の戦争へと日本を誘導しようと図ったのである。

 また弾圧を受けて転向した左翼は、雪崩を打って近衛新体制のイデオローグとなった『昭和研究会』に入会した。尾崎もこの主要なメンバーであった。
 『昭和研究会』は私が朝日新聞調査研究室報用の論文でも指摘した通り、転向左翼と革新官僚の奇妙なアマルガム(合金化)であった。そこから反・資本主義、反・自由経済体制、統制経済と挙国一致体制の推進による高度国防国家の建設、世界政策では英米本位の世界秩序であるヴェルサイユ・ワシントン体制を打破した大東亜共栄圏の樹立という、ナチス・ドイツばりの国家社会主義体制の理念が生まれたのも当然であった。
 また左翼転向者のなかには、身すぎ世すぎのために、言論統制の総合機関であった内閣情報局に入って検閲の使い走りをした者も少なくなかった。
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2006年11月16日

偏向の拠点 ETV

 高山正之著「歪曲報道」から、HHK「ETV」の一つを引用してみます。

引用開始
NHKの「ETV」で2006年5月13日、「アジア留学生が見た日本」をやった。
 司会が「日本の強制連行と従軍慰安婦はあった」という嘘を繰り返す東京大学教授の姜尚中だから、見ない前から反日番組と分かる。
で、どんな嘘を盛り込むか見ていたら、さすが偏向の拠点「ETV」だ。実に巧妙に偏向をちりばめる。

 たとえば日露戦争当時、潘佩珠(ベトナム独立運動家)に連れられてやってきた約200人のベトナム留学生のエピソード。
 日本の勝利が彼らに独立心を植え付け、ベトナムの村々を流す歌謡師が「アジアのリーダー日本」を歌い上げる。
さらにフランス統治の植民地の様子が、ハノイの革命博物館にある一枚の風刺画を通して語られた。
 絵の一番上にはベトナム人を搾取して得た金貨を弄ぶフランス人、そして白人に取り入ったベトナム人官吏、その下でベトナム人を鞭打つ太った男たちが描かれる。
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2006年11月15日

日本の名誉回復

日本の名誉、64年ぶり回復 宣教師殺害は現地人犯行

これも産経だけですか?
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