今回のご紹介は、昭和13年1月27日に発行された、朝日新聞社の週間朝日・アサヒグラフ臨時増刊・支那事変画報・第十一号です。
この時期は日本軍による南京大虐殺の真最中のはずの頃です。その時に数名の朝日新聞南京特派員が送ってきた南京城内の写真と記事がこのグラフに紹介されています。
こちらでは映画「南京の真実」第一部の試写会が始まっています。
今回掲載の写真は全て拡大できますので、当時の紙面をお楽しみ下さい(皮肉)。
このページは全て写真とキャプションだけで構成されていますので、その通り見て頂けるようにしておきます。

写真右ページ上と右中:去る十二月二十三日南京残留二十万の市民によって生まれ出た南京市自治委員会は昭和十三年の芽出度い元旦を期して、南京の中心皷楼で発会式を挙げた。日の丸と五色旗を持って皷楼へ集った市民約三万、南京未曾有の盛観裡に午後二時孫副委員長は開会の辞を述べ、全員起立敬礼の中に五色旗が掲揚されて、晴れ渡った元旦青空に翻り、期せずして起る万歳の声は紫金山を揺るがすばかり、次いで会長陶錫山氏によって趣意書と宣言文が朗読され、現地我が陸海軍の祝辞後自治委員会の万歳を三唱して午後三時式を終った。
写真は【上】北極閣と紫金山をバックに陶会長の発声で自治委員会万歳三唱【右】は皷楼へ詰めかける良民(1月1日影山特派員撮影)
左ページ写真右中:お正月を間近に、南京攻略の有志達は、童心にかえって支度に忙しい。竹を切って来い、松を抜いて来い、お飾りを切れ、こんな忙しさならいくら忙しくても嬉しいんだ(12月27日影山特派員撮影)
真ん中下の写真:門松は立てたし、お飾りはつけたし、さて手廻しよく配給された餅を焼いて、野戦料理のお雑煮を頬張り乍ら「テヘッ! お正月が十日早く来ちゃったぜ。お正月も我が快速部隊と歩調を合したと見えるわい」(12月22日林特派員撮影)
左ページ左三枚の写真の共通タイトルは『南京戦線の本社報道陣』で
上:報道報国の念に燃ゆる特派従軍記者が火戦下に死を堵して綴る一文一句はこの砲火を冒して進む移動通信第一線通信本部に集る(湯水鎮にて12月8日角野特派員撮影)
中:本社濱野嘉夫特派写真班員は十二月八日南京に僅か三里の高菅頭第一線で敵戦車の猛射を浴びて戦死したが、その憎むべき戦車は菅原部隊の勇士の手で生捕られた(12月9日小島特派員撮影)
下:十二月十一日南京城門西南角猛攻中の奮戦を報道すべく弾雨を冒して爆進せる我が社特派員らの自動車は城壁間近で敵の地雷に引かかり無残に大破したが、一人の負傷者を出したのみで、他は幸に奇跡的に難を脱れた(12月13日上野特派員撮影)


上掲の写真左は、右ページ右下のもので:キャプションは『惨虐無道な支那兵に脅かされ、空と地に唸る砲弾に慄えていた避難民地区の支那良民は、日本軍入城と共にホッと蘇生の思い。その上に食事は元より子供にはお菓子を恵まれて大喜びの嬉しい涙で唯々「謝々」繰返している(12月20日林特派員撮影)』
写真右は、左ページ下のもので、キャプションは『暴虐無類な抗日支那軍乍ら傷けば、皇軍が敵をも隔てぬ同仁の慈(一字不詳)に抱かれ、ここ南京外交部跡の野戦病院に我が衛生隊の手厚い看護を受けつつ、明け暮れ悔恨と感謝の涙に咽んでいる支那負傷兵(12月20日林特派員撮影)』