2007年04月20日

嵐の中の灯台

「嵐の中の灯台」という本があります。副題で、「親子三代で読める感動の物語」となっていますが、内容は主に児童向けの徳育の本という主旨で作られたもので、明治時代の「国語読本 高等小学校用」、「尋常小学読本」や、大正時代の「尋常小学国語読本」、戦前昭和の「小学国語読本」、戦後の「国語」などに採用されていた物語を、現代風にリメークしたものとなっています。
この本の「あとがき」の部分を引用してみますので、興味のある方は是非親子で読まれたらいかがでしょうか。
arashi.jpg

引用開始
 思えば戦前の教育の世界は、今では遠い彼方に去ってしまったようです。昭和二十年八月、終戦の日を境に、日本人の心の流れは、戦前と戦後の二つに見事に分断されてしまって、すでに五十年を過ぎる日々が経ちました。だが一体それでいいのか。このところ連日報じられている教育界の惨状、目を蔽いたくなるような少年による凶悪犯罪の続発、それは日本人ガ日本人としての自己を見失った、言葉をかえれば自らの歴史を失った民族の悲劇という他はないように思われます。とすれば、この混沌とした時代であればあるほど、いま私たちの視界から消えてしまった戦前の教育を蘇らせて、それを私たち自身の目でもう一度見直し、戦前と戦後の断絶を埋めるべき時がきているのではないか、そう思われてなりません。

 とはいえ、戦前の教育といえばすぐに心に浮かぶ「修身」という言葉一つをとりあげてみても、多くの人はいかにも古めかしい、干からびた道徳教育、冷たい道徳という枠の中に子供たちをはめこむような印象を受けるにちがいありません。
 もっとも一部の教師たちによって、そう思われても仕方のないような授業が行われたのも事実でしょう。しかし多くの教師は決してそうではなかった。たしかに「修身」の教科書の目次には「忍耐」とか「礼儀」とか、そういう徳目が並べられていました。
 だがそれぞれの項目には、それらの徳目を身を以て生きた先人たちの、胸迫るドラマが描かれていたし、先生方はそのドラマの中に溶けこんで、子供たちの胸に、人間の真実がどういうものかということを、強烈に語りかけられました。こうして「修身」の授業は勿論、「国語」の授業でも、「歴史」の授業でも、当時の子供たちは、小学校の低学年の頃から、数多くの人生の美しい姿にふれながら生きてきたのです。暗黒に閉ざされた教育、そういう戦前の教育に対する思いこみは、戦前の日本人の生き方を真向から否定しようとした占領政策のなせるわざにすぎなかったというべきでしょう。

 であれば、このような戦前の教育へのいわれのない不信感を拭い去って、戦前と戦後を貫く一本のバイプを通すこと、それがいま何よりも強く求められているのではないか。私たちはそういうおもいをこめて、明治の半ばから終戦直後までの「修身」と「国語」の教科書の中に埋もれていた十八篇の物語をとりあげて、この一冊の書物を編集しました。もっとも原文のままでは、現在の子どもたちには難解の個所も多く、適宜、筆を加えたところもありますが、当時の教科書のもつ雰囲気を直接味わっていただき、これらの文章を教材として、「人生」を学んだ子どもたちと共感の場をもっていただきたいのです。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:29| Comment(5) | TrackBack(1) | 教科書に見る日本

2006年11月20日

国定教科書に見る国旗

 「日の丸」がどのような意味を持っているかは、現在の教科書のどこにも書かれていないようです。それどころか、「日の丸」と言うと軍国主義のシンボルとして悪者扱いするイメージのほうが、反日や日教組、マスゴミによって作りだされています。
では、戦前の国定教科書でどのように教えられていたか、また他の国の国旗についても、どのように教えられていたかを、「世界に生きる日本の心」という本から見てみましょう。

引用開始
 戦前の第四期国定教科書(昭和8年から15年まで使用)の「國語読本」(小学校六年用)の第十三課は、「國旗」と題して次のように書いている。
flag.jpg

第十三課國旗
 『今日一国家を形成する国々にして、国旗の制定せられざる所なし。国旗は実に国家を代表する標識にして、其の徽章色彩にはそれぞれ深き意義あり。今我が国を始め主なる諸外国の国旗に就いて述べん。

 雪白の地に紅の日の丸をゑがける我が国の国旗は、最もよく我が国号にかなひ、皇威の発揚、国運の隆昌さながら旭日昇天の勢あるを思はしむ。更に思へば、白地は我が国民の純正潔白なる性質を示し、日の丸は熱烈燃ゆるか如き愛国の至誠を表すものともいふべきか
続きを読む
posted by 小楠 at 07:31| Comment(8) | TrackBack(0) | 教科書に見る日本

2006年10月18日

教科書の中国建国記述

アメリカの教科書と日本の教科書では、第二次大戦後の中国共産党政権成立に対しての記述には、かなりの差が見られるようです。
 その例を掲載してみます。日本の教科書が中国共産党の勝利を大変喜んでいるように思わせるのに対して、アメリカの教科書は失望と共産主義政権を認めたくないとの考えが表れています。
 
引用開始
 戦後の日本がアメリカにとって成功物語だとすれば、国民政府軍と共産軍との間に繰り広げられた激しい内戦が長く続いた中国はまさに好対照だった。
 ワシントンは毛沢東の共産軍に立ち向かう蒋介石率いる国府軍を物心両面から支援した。が、蒋介石は政権内部の腐敗と不適当な言動から、大衆の信頼を失ってしまった。
 共産軍は南部を制圧、蒋介石は1949年後半には最後の生き残りを台湾にかけて、中国大陸を逃れざるを得なくなった。

 国民政府の崩壊は、冷戦下でのアメリカおよび同盟国にとっては手痛い敗北だった。全世界人口の四分の一近くの人類、5億という人々が共産主義陣営に組み込まれることになってしまった

 「中国を失った」責任者を追及する共和党は、トルーマン大統領と口ひげをたくわえてイギリス紳士然としたアチソン国務長官を激しく攻撃した。
 共和党はさらに、共産主義者が侵食している民主党の諸機関が蒋介石に対する援助を意図的に抑えたために国府軍は崩壊してしまった、と批判した。
 これに対して民主党は、蒋介石が倒れたのは中国国内の大衆の支援がなかったためで、いかに外部からの援助があっても救うことはできなかった、トルーマンが中国を失ったというが、トルーマンにはもともと失うべき中国などなかった、蒋介石自身、中国全土を支配したことなどなかったからだ、と反論した。
引用終わり。

もう一つ
引用開始
 蒋介石を支援してきたアメリカとしては、中国が共産主義国家になるのを見たくなかった。第二次大戦中、アメリカは中国が国民党の下で統一するよう、兵隊派遣を含む軍事援助や経済援助を行ってきた
 トルーマン大統領は1946年ジョージ・マーシャルを中国に送り、国府軍と共産軍とに停戦に応じるよう交渉したが、双方ともに妥協しようとしなかった。

 蒋介石は鉄道、道路、工場などを建設して中国の近代化を助けたが、政権は急速に大衆の間では不人気となっていった。日本との戦争は経済を破綻させ、インフレに見舞われた。蒋介石はこうした経済問題にほとんど対処できなかった。また貧農を救うための土地改革にはいっさい手をつけなかった。
 
さらに政権内部の汚職腐敗やすべての反対政党の結社を禁ずる独裁政治から、国民党は急速に大衆の支持を失っていった。蒋介石に対する反対勢力は日増しに力を強め、毛沢東率いる共産軍は1949年までには中国のほぼ全土を掌握した。
 敗色濃しとみた蒋介石と国府軍は台湾に逃れた。そして中国共産党は中華人民共和国を建国した。共産軍の勝利にがっくりしたアメリカは、その後国府を中国の合法政権と認め続けた。国連安保理常任理事国の「中国」の議席は、第二次大戦後も1971年まで蒋介石の台湾政府に与えられた。
引用終わり。

そして日本の「詳説世界史B 改訂版」の記述は、
続きを読む
posted by 小楠 at 08:32| Comment(4) | TrackBack(0) | 教科書に見る日本

2006年10月17日

教科書の真珠湾記述

「アメリカの歴史教科書が教える日本の戦争」という本から、真珠湾に関する内容の一部を引用してみましょう。
 もちろん教科書は何種類もあって、教える教師によっても違いがあるでしょうが、年代とともに事実をきちんと書くようになってきているようです。ついでに日本の教科書の記述もひとつ取り上げて、欠陥を指摘しておきます。
usatext.jpg

『The American People Creating a Nation and a Society』の2000年版から、
引用開始
 ・・・しかし、アメリカは1939年7月、1911年の日米通商航海条約を6ヶ月以内に破棄すると通告することで、経済的圧力をかけた。さらに、1940年9月には航空機用燃料や屑鉄の日本への輸出を停止、さらに1941年春までにその他の品目の対日禁輸を次々と追加していった。アメリカ政府としては、日本がこうした重要な資源をカットされることで交渉を余儀なくされ、危機を回避できると考えたが、話し合いは進展しなかった。日本は中国から撤退はしなかったし、1940年から1941年には仏領インドシナを占領した。・・・・・
 
 ルーズベルトは対日交渉で有利な立場に立っていた。なぜなら、アメリカは日本の極秘外交電報を解読していたからだ。しかし日本の意図は盗聴、解読した電文だけではわからなかった。
 アメリカの指導者たちは日本が攻撃を計画していることは知っていたが、どこに攻撃を仕掛けるかはわからなかった。1941年9月、日本はアメリカがまともな譲歩をせぬ限り11月以降対米攻撃を行うことを決定していた。そして12月7日、空母から発進した日本軍の爆撃機はハワイ・真珠湾に停泊中のアメリカ艦船を攻撃した。日本による奇襲(Surprise attack)で戦艦5隻を含む19隻が沈没あるいは破壊され、150機の航空機が壊され、兵士、水兵2335人と民間人68人が殺された。
同日、日本軍はフィリピン、グアム、ミッドウェー、英領香港、マニラに侵入した。翌日、アメリカ議会は宣戦布告を承認した。・・・・

 ルーズベルトは議会で1941年12月7日を「屈辱の日」と呼び、宣戦布告を認めるように議会と国民に求めた。この日は米外交政策およびアメリカ国民の世界観全般に強烈な衝撃を与えた。奇襲によって、孤立主義を唱える者たちやアメリカ第一主義を主張する者たちを含むすべてのアメリカ国民が団結した。これ以上のものはなかった。

 ショックと憤りが醒めるや、アメリカ国民は悪者探しを始めた。真珠湾奇襲を事前に知りながらアメリカ国民を対独戦争で一致団結させるために、わざとアメリカ軍への警戒警報を出さなかったとしてルーズベルトを悪者扱いする神話が依然として存在している。だがルーズベルトは本当に知らなかった。
 日本軍が真珠湾を攻撃するという事前の警報はまったくなかった。確かにアメリカ軍は日本軍の暗号を解読していたが、真珠湾奇襲については役に立たなかった。なぜなら日本海軍は作戦行動中、すべての交信を途絶していたからだ。・・・

 アメリカ人は確かに日本人を過小評価していた。その理由の一つは人種的な偏見からだった。つまり、アメリカは攻撃以前の多くのシグナルを無視していた。なぜなら、まさか日本人が遠く離れたハワイの標的を攻撃できるような能力は持ち合わせていないと思っていたからだ。
 ルーズベルトや軍部指導者たちは、日本がフィリピンやタイを攻撃することは予想していた。多くは不注意からしくじったが、そこには共同謀議などはなかった
引用終わり
続きを読む
posted by 小楠 at 07:33| Comment(7) | TrackBack(0) | 教科書に見る日本

2006年10月16日

フランス歴史教科書2

同じくフランスの教科書で、1961(昭和三十六)年発行の教科書を引用します。明治維新から第一次大戦頃までの通史となっています。ここには「明治天皇とその家族」の珍しい写真や明治天皇の大きな写真、そして連合艦隊の写真も載せています。
 この通史は是非日本の中学生あたりに読んで見て欲しいと思います。

引用開始
『現代史――1848〜1914』
※日本の変革 明治時代
 1869年、東京に遷都したムツヒト天皇は、数年にわたって、日本を改革することとなる。

【政治】
 帝国憲法が発布された1889年までは、天皇が唯一の主人であった。この時まで、天皇が憲法そのものであった。しかし憲法が制定されてから、天皇は各種大臣の輔弼と、貴族院ならびに多額納税者による選挙によって選出された衆議院の協賛をもって統治した。しかし、現実は、各種大臣が天皇に対してだけ責任を負って政治を行い、予算は自動的に「成立」可能であった。
 天皇は権力の根元を保持していたが、国家の長老(憲法によって何の明記もされていない制度・元老)の助言が天皇の帷幄(いあく)にあって主要な役割を果たした。結局、日本を「列強と全く平等の立場に置く」為に制定された憲法は、現実的には単なる衝立にすぎなかった。

【社会】
 日本は激動した。天皇は封建体制を一掃した。法の前での平等が宣言され、幕藩体制は廃止され、農民は自らの土地の所有者となり、大名は城を明け渡し、造幣権を失った。日本は今や、郡県の行政区画に分割された。士族の激しい反乱が鎮圧された。1884年にはヨーロッパから輸入された世襲貴族制(公・候・伯)が創設された。

【経済】
 その飛躍は驚異的なものがあった。それは特に、たびかさなる英・米からの借款にささえられて行われた。1900年には、鉄道は七千キロメートルにのび、1906年には、日本は負債を返済した。商船隊は当初オランダ人技師を師として、そのおかげで発展していった。電信・電話局が政府のてこ入れで、急速に発達をとげていった。

 産業革命は通信手段の激変をもたらした。日本政府は官営工場を創設し、民間企業に補助金を与え、外国人技師を招聘した。炭鉱や鉱山を開発し、1891年からは、京都の近郊にある琵琶湖の水力発電を利用した。一番に近代化された繊維工業は各地に工場の林立をみることになった。

 1898年になると、日本は綿の国内需要を満たすようになり、その輸出国となった。その当時まで、未加工のままで売られていた絹がフランスの技術によって製糸工場で製品として生産されるようになった。製鉄業は資源不足という不利益によって発展を妨害されていたけれども、政府は、1892年に、北九州の地に日本帝国製鉄所を設立し、そして海軍造船所を各地に創立していった。正しい意味での工業地帯が建設されていった。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:48| Comment(4) | TrackBack(0) | 教科書に見る日本

2006年10月14日

フランス歴史教科書1

 今日はフランスの中等教育用歴史教科書に現れた日本の姿を引用してみます。こちらは、1967(昭和四十一)年発行のものです。
 ここでは主に歴代の日本文化の成り立ちを説明しています。

引用開始
『歴史・現代の世界』
※日本文化の独創的特徴
 日本文化は、中国と西洋から受容れた借物の文化と言われるが、その奥底には依然として独創的なものがある。その偉大な伝統は、常に非常に強靭なものである。その伝統とは、『大臣下』に補佐された天皇という一人の皇帝に代表されるもの、さらには自然に対する深遠な感情を映した詩と芸術等である。
 その後、貧しく人口過剰の日本は、国の運命に立ち向かってきた。その間、激しい競争の渦巻く世界の中で、身を守るために戦争に訴えた。しかし、その後はそう思っていないし、日本は再び平和を愛するようになった

※日本世界とその偉大な伝統
 日本はまず輸入したものを模倣し、ついで自分のものにし、それに自国の特性を与えて同化する。それ故、これは単なる受身的な“消化”といったものでなく、自発的能動的な適応である。中国文化に対してもその通りで、日本はそれを輸入した後で、自国自身の伝統に順応させた。それは西洋文化についても同様であった。

※天皇朝永続性の秘密
 西暦五世紀頃、日本には国の南部に局限された数多くの貴族制氏族が存在していた。これらの氏族の一つ、大和の氏族の頭が、他の頭の上に立った。彼は自分を、アマテラスノカミ――『天を照らす大きな神』という国の創造者・太陽の後裔と認めさせた。かくして、アマテラスの後継者はすべて『天皇』という称号を持ち、神聖な性格を示すようになった。天皇はこのように始めから『神』の印を押されていた。

 続く二・三世紀の間に、別の要素が協力して、政治的伝統を完成した。六世紀に輸入された儒教思想と、唐帝国に存在するものに従って、階層化された統治の形態が確立した。
 天皇は日本の有歴時代の初めに生まれ、それが日本の主な伝統となり、非常な重要性を持って今も生き続けている
 その関係は、天皇と『大臣下』と名づけられた人たちとの間に打ち立てられた権力の分立であった。国を創設した諸氏族の頭達の目から見ると、天皇は豊作を保証することができる唯一の国の守護神である『カミ』という霊の一種の代理人でしかなかった。権力は実際は『大臣下』によって所有され、大臣下はいかなる神聖な性格も持たず、そのため野心や反乱によって変わり得た。対立しながらまた中立になりながら。
続きを読む
posted by 小楠 at 08:13| Comment(5) | TrackBack(1) | 教科書に見る日本

2006年10月13日

英国歴史教科書の日本

 今回は、1981(昭和五十六)年発行の英国中等教育用歴史教科書から、日本の日露戦争時の記述を見て見ましょう。
 二つの新興強国――アメリカ合衆国と日本の部分で、米西戦争(アメリカ・スペイン戦争)のことが書かれていますが、例の「メイン号爆破」を当時の新聞は、「キューバ沖で、『極悪非道の秘密兵器』を使ったスペイン人によって爆破された」と報じていますが、それを証明する証拠は何もありませんでした。しかし、「この報道が米西戦争の最大の要因となったのである」とここでは記述しています。
 当時スペインはアメリカとの戦争は絶対に避けたいと考えていたそうで、どうも怪しいですね。
 真珠湾も先に日本が攻撃していますし・・・・というか、日本の攻撃を待っていたようですし・・・・

 一般に戦争を起すのは政府と速断しがちですが、実は戦争熱に火をつけるのは新聞であり、国民の激昂であって、政府は慎重でなかなか腰を上げないものであるというのは事実でしょう。

 この教科書では、日本海海戦で連合艦隊がとったT字戦法まで記述しています。世界的に有名な東郷平八郎を、海外の教科書では取り上げ、日本の教科書では、扶桑社を除いて全て無視し、朝鮮や中国の軍人や日本の首相を暗殺した者まで英雄のように紹介しています。
 日本の教科書は左翼や日教組によって、完全に歪められ、子供達を朝鮮人にでもしたいような内容を押し付けられています。
 心ある国民、保護者は徹底してこの悪の根源日教組を糾弾して下さい。

引用開始
『世界の近代史』(The Modern World since 1870)
※日露戦争
 ロシアの極東への拡張が続いたため、この機会と口実とは、すぐに生じた。たとえば、1900年には、ロシアは満洲全域に進出した。イギリスは驚愕し、これを一つの理由として、日本との同盟に調印した
 こうして、西欧の大国との対等な協力相手としてはじめて認められた日本人にとって、この同盟は大勝利であった。

 日本は、満州におけるロシアの権利のかわりに朝鮮における日本の権利を認めさせる取り決めをロシアに要求してもよいほど、自分たちは強大になったと感じたのである。しかしロシア人は、『ちっぽけなサル』と呼んでいた相手とこの問題を議論することを拒み、軍隊を派遣して朝鮮を侵略した。
 日本の反応は激しかった。1904年2月9日、日本の駆逐艦が闇にまぎれて旅順港に入って行ったとき、ロシア側は何の準備も整えていず、まるで平時のように船には燈りがともっていた。また岸壁の大砲には、防護カバーがかけられたままであった。日本側は何の苦もなく、二隻の戦艦と一隻の巡洋艦とを魚雷で沈めた。四十年間の近代化の過程をへて、日本はここに強国の一つと戦いに突入したのである。
・・・・略・・・・
続きを読む
posted by 小楠 at 07:45| Comment(4) | TrackBack(1) | 教科書に見る日本

2006年10月12日

米国大学教科書の日本2

同じく1978(昭和五十三)年発行のK・B・パイル教授の教科書、『近代日本の形成』(THE MAKING OF JAPAN)から引用してみましょう。

引用開始
※世界の中の日本
 我々は戦後の日本について、いくつかの顕著な特徴を見てきた。その特徴というのは、異常ともいえる経済の成長ぶりであり、それをもたらしたものは官僚機構の優秀性であり、教育と試験制度の影響力であった。
 ここで我々は最終的なテーマに到達しなければならない。結論的に言えば、戦後の日本は、世界の中で日本が存在することの意味や、究極の使命は何かということについて、日本が混迷しており、不明確であるということである。
このことは本書の中で早くから見てきたことである。日本は(敗戦という)世紀の変革に遭遇して、国家の本質はいかにあるべきかについて、成熟した概念を確立しなかった。そしてまた日本は、世界に対してどのような役割を果たすべきかについて、探究し討議することもなく過ごしてきた。

※過激なる日教組集団の登場
(歴史は民衆中心の生活史か指導者主役の栄光史か)
 その例を挙げよう。そもそも教育の内容は、日本の本質とは何かについて深い関わりを持ってくるものである。

 日本は戦後、国家主義的理念が顧みられなくなった。その反動として、歴史は、過去の天皇の治世や日本の軍人の功績については教えないように全部書き改められた。その結果、歴史は事実に基づいて、過去の制度や習慣の発達を批判的に教えねばならないと考えられた。それは日本の教師が極左的指導者によって支配されている強力な労働組合に組織されているからである。(organized into a powerful trade union dominated by radical left-wing leaders) 
 そのため歴史教科書は、しばしば教師の政治的偏見を反映し、「経済的搾取及び独裁的支配階級の圧迫から逃れるための民衆の闘争」を教えなければならないと強調した。
 例えば日露戦争の歴史的記述は、当然取りあげなければならない海軍の英雄東郷平八郎元帥の名を避け、その代わり戦争に反対した一握りの社会主義者、平和論者で記述されるようになった。そのため新しい教科書は、論争の焦点に立たされた。即ち、歴史の中の反体制人物を大きくとりあげ、そこに独自の民主的伝統の根拠を見出そうとした訳である。そのため、自国の過去の栄光を讃えなくなってしまった

 日本では、左翼と右翼の間に今尚、理念的争いがある。特に日本教職員組合の過激な指導者と、文部省の保守的な役人との間で争いがある。その争いというのは、「歴史教育は民衆の過去の不幸を扱うべきか、または過去の栄光を主にすべきか。被支配者を主にすべきか、支配者を主にすべきか。権威に反抗し個人の権利の確立を主とすべきか、愛国心を尊重し、国家の発展を主とすべきか」についてである。

※戦後思潮への批判
(松下幸之助、石原信太郎等)
 戦後の日本では国家の過去の出来事を否定的に考えることや、伝統的・文化的価値あるものに目を向けない現象は、あちこちで見られる。それらの考え方は、教科書にも広く採用され、多くの日本人にとって、それが不満となっている。日本人として戦後の改革、特に憲法と教育制度は、もはや時代錯誤という考えがある。京都大学のある教授は、次のように書いている。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:47| Comment(10) | TrackBack(0) | 教科書に見る日本

2006年10月11日

米国大学教科書の日本1

解説引用
 この教科書は、ワシントン大学の歴史担当教授である、K・B・パイル氏が書いたものです。発行は1978(昭和五十三)年です。
 当時の世界情勢、動向と、それに対応しょうとする日本の考え、動きが、分かりやすく記述されていると思います。せめて日本の歴史教科書にも、このような解説があって然るべきではないでしょうか。

引用開始
『近代日本の形成』(THE MAKING OF JAPAN)
※日清戦争
 1894〜5年の日清戦争は、国際関係史において絶大な重要性を持つが、それはこの戦争が清国の弱体ぶりを余すところなく暴露し、東アジアの資源と市場の支配を求めて帝国主義列強間に激烈な競争を展開せしめることになったからである。日本は不可避的にこの渦中に捲き込まれ、自国権益の保護と拡張を最優先関心事とせざるを得なかった。

 19世紀から20世紀への転換期に、日本には欧米列強との平等を望む願望があり、東アジアの原材料と市場――日本の近隣諸国が欧米列強のいずれかの支配下に陥ったならば、日本はそこから締め出されることになる――への接近の維持という経済的動機もあったが、日本を除く東アジア諸国の政治的不安定は最も重要な要因と見られ、日本が最大の経済的利害関係を有する朝鮮と清国は、固陋で無能な政府が革命運動により土台を揺るがされており、もし両国が西欧列強の支配するところとなれば、日本の安全と経済的権益は危殆に瀕するものと考えられた。

 山縣有朋と軍首脳部は、東アジアは帝国主義列強間の激烈な競争の舞台になるであろうと結論した。支那大陸における力の真空がこの事態を招いたのである。ロシアのシベリア横断鉄道建設の決定は、山縣らの懸念の正しさを示した。新鉄道は、朝鮮または南満洲に不凍港たる終点を必要としたからである。

 日本列島の安全保障は朝鮮が第三国の支配下に陥るのを防止するのにかかっているというのが、日本外交政策の基本的原則となった。さらに参謀本部は、朝鮮の独立は、隣接する旅順港と遼東半島の支配によってのみ確保されると結論した。以上の戦略的目標を胸に秘めて、明治政府は陸海軍の増強を着実に進めた。

 朝鮮内部の陰謀と政治的混迷は、朝鮮への影響力を競い合う清国と日本の関係を緊張させ、ついに日清戦争が起こり、日本軍の勝利の結果、1895年4月17日の下関条約で、清国は澎湖諸島・台湾・遼東半島を日本に割譲し、朝鮮の独立を認めた

 日本政府が新制度を取り入れて日清戦争に臨んだことは、世界に広く知れ渡った。日本国内でも民族意識を極度に昂揚させ、その勝利は西洋文明を先進的に採用したという誇りをもたらした。・・・・・・
 だが、4月23日の三国(独仏露)干渉の結果、日本は遼東半島を清国に返還せざるを得なくなり、日本は外交的孤立の感を深め、安全保障面の不安が増大した。

 朝鮮に対するロシアの利害関係と日本の願望が対立することが明らかとなり、日本政府は軍備の拡張に着手し、山縣は友人への書簡(1895年)中に「日本は、間もなく遼東半島南部を押さえるであろうロシアを相手に、十年以内に戦争することを覚悟しなければならない」と洩らした。朝鮮半島の日本の経済的権益は急速に増大しており、日本は、食糧輸入の見返りに綿製品を輸出し、さらに野心的な鉄道建設計画を推進していた。

※日露戦争
 日本外交の――時間稼ぎのための日露暫定協定(満州と朝鮮での権益の均衡を認めた)締結以上の――最も感銘的な功績は、1902年7月30日の日英同盟の締結であった。日英同盟は、日本の外交的孤立を解消しただけでなく、西洋国家と非西洋国家の間で平等な条件で結ばれた最初の軍事条約を提供した。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:32| Comment(4) | TrackBack(0) | 教科書に見る日本

2006年10月10日

米国教科書に見る日本3

 今回ご紹介する教科書は1982(昭和五十七)年の発行です。
ここではモンゴル民族によって文明民族が次々に侵犯されたが、日本は例外的であったとしています。

引用開始
『文明の発展』(The Growth of Civilization)
※元寇をまぬがれた文明国家
 中世のアジアにおいて、中東・インド・東南アジア・シナ、そして日本は、文明民族であった。これら文明民族のうちの三つは、野蛮民族の侵入によってゆさぶられ、あるいは破壊された。
 しかし、その中で野蛮民族の侵入を免れた国があった。それは島国日本であった。野蛮なモンゴルは、シナと朝鮮を征服し、その後1272年と1281年には二度にわたって、海を超えて日本侵攻を試みた。しかしその侵攻は、二度とも失敗した。

※初期の日本の宗教 Early Japanese Religion
 日本の最も古い宗教は、すべて事物や場所に魂が宿っていると考える。アニミズム(万物有霊観)であった。アニミズムは、太古における普遍的な文化であった。それがしばしば複数の神々を信ずるいわゆる多神教に転化していった。
 日本では、自然の中に宿る霊魂崇拝が神道となった。神道は“神々の道(the way of Gods)”を意味する。神道には、自然界の物象のみならず、祖先に対する崇拝心も含まれていた。この点で、我々は、シナ思想の影響も認めることができる。この祖先崇拝は、日本人の氏族関係をより強固なものとした。
 ここでは、やさしい太陽の女神・天照大神と、性質の粗暴な嵐の神・須佐之男命(スサノオノミコト)に関する日本の神話を読んでみよう。

※太陽の神と剣 The Sun God and the Sword
 天上界でも地上でも、須佐之男命が乱暴な攪乱者だということは、知られていた。須佐之男命は、特に姉の天照大神を悩ますことを好んだ。
 ある日彼は、いたずらの度を少し過したことがあった。まず大神の新しくできたばかりの庭園をこわし、稲田の畔道を踏みつぶした。大神はそれが弟の仕業と聞いて大層悲しんだ。彼女は一番深い岩屋の中に身をかくしてしまった。そして「私は決して外には出ない」と宣言した。

 太陽の神が岩屋の中にかくれてしまうと、地上は真暗になった。まもなく、地上のあらゆるものが枯死し始めた。
 他のすべての神々は心配して、天照大神のかくれた岩屋の外に集った。彼らは天照に対して、岩屋から出て下さい、と懇願に懇願を重ねた。しかし、大神は出ることを断った。そこで神々は一計を案じた。

 神々は岩屋の外に大きな鏡を置き、鏡の上に宝玉をかけた。それから、神々の一人が、ふざけた踊りを始めた。それは神々の笑いをさそった。
 神々の哄笑を聞いた天照大神は、「何事が起こったのか」と思った。彼女はそれを見ようと、岩屋の外に顔を出した。その時、鏡に映った自分の姿を見つけた。「この美しい方は誰かしら」と、いぶかしく思った。彼女はもっとよく見ようと、戸外に踏み出した。その時、他の神がすばやく岩屋を塞いでいた大石を転がした。かくして大神は再び岩屋に戻ることができなくなった。その後は二度と太陽が空から消え失せることもなくなった。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:58| Comment(8) | TrackBack(1) | 教科書に見る日本

2006年10月09日

米国教科書に見る日本2

解説引用
この教科書は1984(昭和五十九)年発行のもので、第十七章が日本の通史になっています。この冒頭に十一世紀の源氏物語絵巻の一部が掲げられています。今から千年も前に、女性によってあれだけの構成と心理分析を持った大河小説が書かれたことは、彼らにとって大きな驚きなのです。そして本文の導入部は、いきなり三島由紀夫から始まっています。

『歴史と生活――世界とその国民』(HISTORY AND LIFE―THE WORLD AND ITS PEOPLE)より

引用開始
※導入部
 三島由紀夫は、日本の最も高名な作家の一人であった。彼の輝かしい小説、劇、短編物語は、国際的にも評価が高かった。彼の作品の一つである「潮騒」は、漁村における生活を題材にした受賞作品であった。
 三島は、日本の古い習慣と伝統、特に封建時代以来の武士道精神ともいうべき生き方を愛した。

 第二次大戦後の日本は、むやみに欧米の真似をしており、欧米的様式が国民を堕落させていると考えた。彼は家族内の連帯が崩壊し、素朴な田園生活が衰え、現代の若者の間に非日本的行動が流行することを慨嘆した。三島はこのような堕落を阻止するために、「盾の会(Society of the Shield)」という愛国的グループを作った。そのメンバーは、天皇への不動の忠誠、古い伝統の尊重、ボディビル、戦闘術等を学んだ。

 三島は現下日本のこのような風潮に、劇的な方法で注意を喚起させたいと決意した。彼は数人の部下を従え、自衛隊東京駐屯地の総監室に乱入(Broke into)した。彼らはまず総監を縛りあげ、つづいて三島は総監室を出て外のバルコニーに立ち、下に集まった自衛隊員に対し(檄文)を訴えた。
 彼の訴えは、政府を打倒し、日本を古きよき時代に立ち還らせる、という趣旨であった。しかし、隊員たちからは何の反応もなかった。
 三島は屈辱と失敗の念に耐えられず、かねてから自ら賛美する武士道の様式に則って行動した。彼は短刀を腹につき刺し、切腹――一般にはハラキリといわれる名誉ある死を遂げた。
 三島は常々、日本の古く美しい伝統のために、自分自身を捧げると言っていた。

 欧米人には、日本の古い武士道の伝統を知らなければ、このような行為を充分に理解することはむつかしい。そして全体が商人化し、軍人に敬意を表わさなくなった商業主義的都市生活化した戦後日本では、この事件は奇妙にも場違い的な事件と受け止められた。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 教科書に見る日本

2006年10月07日

米国教科書に見る日本1

 戦後は日本の教科書よりも外国の教科書のほうが、より日本的なようです。親日的外国教科書に対して、反日的日本教科書という歪の実態を、外国教科書の日本国の概説で、それがよく解ります。

アメリカの社会科教科書(中等教育用)
1978年(昭和五十三年)
発行のものからの引用です。
『アジア・アフリカ世界―その文化的理解』(The Afro-Asian World―A CULTURAL UNDERSTANDING)より。

引用開始
※日いづる国 Land of the Rising Sun
 「ジャパン」という国名は、太陽の出る所という意味の、「漢語」から来ている。この国名を使うことによって、シナ人は、日本列島がシナの東に位置することを言ったものである。このために、日本はしばしば「日いづる国」と呼称されてきた。それに日本人は、自分たちの国名を「ニホン」または「ニッポン」と発音する。そのためアメリカ人は、時に日本人のことを「ニッポニーズ(Nippo−nese)と呼ぶことがある。

※神々の国 Land of the Gods
 日本の子供たちは、学校で次のように学んでいる。
 イザナギという権威ある神が、その妻イザナミと共に「天の浮橋」(Floating Bridge of Heaven)の上に立った。イザナギは、眼下に横たわる海面を見降した。やがて彼は暗い海の中に、宝石を散りばめた槍をおろした。その槍をひき戻すと、槍の先から汐のしずくが落ちた。しずくが落ちると、次々に固まって、島となった。このようにして日本誕生の伝説が生まれた。

 またこの伝説によると、イザナギは多くの神々を生んだ。その中の一人に太陽の女神があった。女神は孫のニニギノミコトを地上に降りたたせ新しい国土を統治することを命じた。
 ニニギノミコトは大きな勾玉と、神聖な剣と、青銅の鏡の三つを持って、九州に来た。これらはすべて、彼の祖母から贈られたものであった。これら三つの品物は、今日もなお、天皇の地位の象徴となっている
 ニニギノミコトにはジンムという孫があって、この孫が日本の初代の統治者となった。それは、キリスト紀元前六百六十年の二月十一日のことであった。

 何百年もの間、日本人はこの神話を語りついできた。この神話は、日本人もその統治者も、国土も、神々の御心によって作られたということの証明に使われた。現在のヒロヒト天皇は、ジンム天皇の直系(Direct Line)で、第百二十四代に当たるといわれる。かくして日本の王朝は、世界で最も古い王朝(dynasty)ということになる。
続きを読む
posted by 小楠 at 07:46| Comment(5) | TrackBack(0) | 教科書に見る日本