2006年10月02日

近衛と昭和の動乱

 時代は大正から昭和へと移る頃、近衛はたびたび西園寺から呼び出しがあり、相談を受けるほど信頼を得ていたということです。
 スターリンは日本軍を南下させ、華北の関東軍勢力を弱体化させることを謀り、中国共産党は、日本軍と蒋介石を戦わせるようにしむけるのが、この時の策略で、今ではそのためのスパイ活動が明らかになってきています。
 
「われ巣鴨に出頭せず」(近衛文麿と天皇)工藤美代子著より

引用開始
【張作霖爆殺事件】
 昭和三年六月四日、奉天駅から南へ一キロの地点で満洲軍閥の総領、張作霖が乗った列車が爆破され死亡する事件が起きた。時の首相田中義一はこの事件の処理を誤り、さまざまな手遅れをきたした挙句、結果的には満洲の空に晴天白日旗を招き寄せる結果になった。
 日本の対満洲外交の失敗はこれより前の幣原外交から始まっていた。幣原喜重郎はそもそも中国内の軍閥間の内戦である奉直戦争(大正十三年)のとき、日本軍の支援を仰いだ張作霖がやはり軍閥の呉佩孚の逆襲にあって満洲そのものが危機にさらされる情勢となったが、浜口首相、幣原外相は動かなかった。
 しかし、呉佩孚の部下だった馮玉祥の反乱にあって、呉陣営は敗退し日本の介入は結果的には必要なくなった。そのため幣原外相は一時的には名を上げたが、馮の反乱は裏で日本の軍部による謀略だったことがやがて判明した。よくいわれる幣原の“軟弱外交”の結果として、軍が文官の指揮を越えて手を出すきっかけとなった事件だったといえる。
 ところが近年になってモスクワの新情報が開示され、そもそもこの事件はソ連側スパイの謀略によって動かされていたことが、イギリスの調査でほぼ確実になった。
 イギリス情報部の秘密文書によれば、実は馮の背後にはソ連=コミンテルンが張り付いていた。馮がモスクワからの指令で動いていた事実は、コミンテルンからの通信を逐一解読していたイギリス情報部の発表とも一致した。
 ところがさらに、この事件にはまだ隠された重大な陰謀があったという驚くべき事実が伝えられた。
 平成十七年末に刊行された『マオ』(ユン・チアン、ジョン・ハリディ)には、恐るべき謀略の実態が書かれている。

 「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという

 たが、どうやら馮の問題だけにとどまりそうもないということは分かってきた。少なくとも張作霖爆殺事件に始まる満洲事変から一次、二次上海事変、さらにはゾルゲ事件へ至る過程にスターリンの手が入らなかったものはないという可能性を知った上で、我々は昭和の激動をみてゆかなければならないだろう。
 コミンテルンの手先による諜報作戦、あるいは毛沢東のスパイ活動による策謀が、これから先、昭和の日本を随所で翻弄することになると思わなければならない。・・・・・
 こうした諜報活動の新事実は戦後六十年近く経って、今ようやく明るみに出ようとしているのであって、昭和初期にそれを知る者は誰もいない。
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posted by 小楠 at 08:12| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物

2006年09月30日

西欧列強と大正外交

 近衛文麿は大正二年十一月九日、毛利高範子爵の次女、千代子と京都で結婚式をとり行いました。大正三年には第一次世界大戦が勃発、大正六年秋には内務省地方局に勤務。時の内相は後藤新平でした。その翌年に近衛の思想の根底とも思われる論文を発表します。

「われ巣鴨に出頭せず」(近衛文麿と天皇)工藤美代子著より
引用開始
 第一次世界大戦が終了するやいなや近衛は重要な論文を発表した。同年十二月発行の「日本及日本人」に掲載された「英米本位の平和主義を排す」と題されたこの論文は諸外国の目にもとまり、やがて激しい攻撃にも晒される結果となった。しかし、この論文の根底に流れる思考は、最晩年に至るまで近衛を支えたものであり注目に値する。ただし、論文自体はまだ近衛が現実の欧米での外交舞台に触れる以前のものなので、多少その独断的論考には無理もあったことは差し引いておく必要があろう。

「戦後の世界に民主主義、人道主義の思想が旺盛となるのはもはや否定できないところである。我が国がこの影響から免れ得ないのも当然のことだ。
 これらの思想は要するに人間の平等感から発するもので、自由民権や各国民平等の生存権や政治上の特権と経済上の独占の排除や機会均等などの主張の基礎をなしている。
 このような平等感は永遠普遍の根本原理のようなもので、これをわが国体に反すると思うのは偏狭の徒である。
 ただし我々が遺憾に思うのは、わが国民はとかく英米人の言説に呑まれる傾向が強く、彼らの言う民主主義、人道主義というのをそのまま割引もせずに信仰謳歌するのは困る。
 日本人さえよければ他国はどうでも構わぬという利己主義を言うのではない。このような利己主義は人道の敵であって、新世界には通用しない旧思想である。
 すなわち、日本人の正当なる生存権を確認し、この権利に対し不当不正なる圧迫をなすもののある場合には、あくまでもこれと争う覚悟がなければならない。人道のためには、時には平和を捨てねばならないときもあるのだ。
 英米の論者は平和人道と一口に言うが、その平和とは『自己に都合よき現状維持』の平和のことであって、欧米人が戦前の状態が正義人道から見て最善の状態であることを前提にして論をなせば、それを撹乱するものはすべて人道の敵、ということになる。
 欧州の戦前の状態が最善の状態だとして、これを破るものは人類の敵だとするのは何びとが定めたことなのか」

 近衛から見れば、第一次世界大戦は現状維持国家と、それを打破しようとした国家の戦いであった。彼は英国など先進国が早速に植民地の門戸を閉鎖し、各国に自給自足を説くのを聞いて腹に据えかねていたのだ。
 領土が狭く、原料に乏しい日本などは、そうであればどうして資源を確保し国家の安全を保ったらよいのかと心配した。そして、

「かかる場合には、わが国もまた自己生存の必要上、戦前のドイツのように現状打破の挙に出ざるを得ない。また白人種による黄色人の排斥のはなはだしきこと、人道上の由々しき問題なり。一切の差別待遇を廃止させ、正義人道の上からこれを主張せねばならない」と結んでいる。
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posted by 小楠 at 07:39| Comment(6) | TrackBack(1) | 書棚の中の人物

2006年09月29日

公爵近衛文麿の誕生

「われ巣鴨に出頭せず」(近衛文麿と天皇)工藤美代子著より
 この本は、当時の日本の政界や欧米諸国との関係など、読み物としても大変面白い内容で、お薦めの本です。
 この著者は、近衛文麿が一般に言われるような優柔不断とか気が弱いとかに対して、果たしてそれが本当だったのかどうかということをこの本で提起しているようです。原文のままでない部分もありますが、内容を引用してみます。
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引用開始
 近衛文麿は父篤麿と加賀前田家五女衍子の長男として出生しましたが、衍子は出産わずか八日目に亡くなり、篤麿は衍子の実妹の貞子を後妻として迎えます。
 明治十七年、華族令が施行され父篤麿は公爵となります。伊藤博文の勧めにより明治十八年、オーストリア、ドイツなどへ遊学。出発間際になって衍子を迎え、遊学から帰国した翌年、明治二十四年に文麿が誕生した。
(篤麿は明治二十八年三月、学習院院長及び貴族院議長に就任しています)
 篤麿は船で香港やシンガポール、インドを通過しながら、白人の横暴をその目で見た。後に文麿はそういう父の気概を日記に残している。

「父が洋行した明治十八年頃は、極端な欧米心酔時代が過ぎて、やや反動期に入っていた。・・・・ヨーロッパの勢力が東洋に段々侵入してくることに対して、日本は支那の領土保全をしようという、例えば大アジア主義というような思想がその根底にあった
 イギリスやロシアの中国進出に対して、篤麿はその領土を守るべく清国に再三の助言をし、とりわけロシアの満洲侵略の危険を説いたのだった。

 日清戦争後の清国の老衰ぶりははなはだしく、欧米列強、ロシアの餌食になりつつあったのが篤麿には我慢ならなかった。彼の思考にあったのはこの清国を救わなければ、日本にも危険が迫るであろうということだった。そこで、明治三十一年、同志を募り東亜同文会という組織を自ら興し会長になった。
 その後三十二年になると、清国で起きた義和団事件をきっかけにロシアが満洲を軍事占領下に置くようになった。当然、日露間の軋轢は大きくなり、篤麿はこうした事態に対処するため支那保全を大義とした国民同盟会という組織を作ってきた。・・・・・

 日露関係が悪化する中、国論も割れていた。伊藤博文は対露宥和派の代表格で、日露同盟を結びたがっており、極力ロシアを刺激しないように努めていた。一方、桂太郎や山縣有朋はロシアを抑えるために英国との同盟を重視していた。・・・
 これに対して近衛篤麿は対露強硬論を張り、清朝末期の幹部、袁世凱や張之洞といった一派と頻繁に連絡を取り合っていたが、明治三十七年の元旦、篤麿は病のため四十一歳で生涯を閉じてしまった。
日露戦争開戦はこの四十日後のことである。

 中学時代の近衛文麿は、一面では明るく健康的な学生にみられていた部分もある。勉強もやるだけのことはやり、運動もよくこなしていたという。当時の学習院院長は乃木大将であった。
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posted by 小楠 at 07:46| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物