2006年12月09日

吉田松陰留魂録

今日は、吉田松陰の遺書とされている「留魂録」の中から、ご紹介したいと思う部分を抜き出してみたいと思います。
引用は古川薫著「吉田松陰 留魂録」です。
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引用開始
[第一章]
 身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂 十月二十五日             二十一回猛子
・・・・・後略
 
[第八章]
 今日、私が死を目前にして、平安な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環ということを考えたからである。
 つまり農事を見ると、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈りとり、冬にそれを貯蔵する。秋・冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ちあふれるのだ。この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるということを聞いたことがない。

 私は三十歳で生を終わろうとしている。いまだ一つも成し遂げることがなく、このまま死ぬのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから惜しむべきかもしれない。だが、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのである。
 なぜなら、人の寿命には定まりがない。農事が必ず四季をめぐっていとなまれるようなものではないのだ。しかしながら、人間にもそれにふさわしい春夏秋冬があるといえるだろう。十歳にして死ぬ者には、その十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。
 十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。

 私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずである。それが単なるモミガラなのか、成熟した粟の実であるのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい。
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2006年11月14日

ヴァイニング夫人5

 ヴァイニング夫人は三度訪日していますが、三度目は1959年4月10日の皇太子殿下ご成婚の婚儀に招待されての来日でした。
 この本の最終にあたるところで、彼女は東洋と西洋についての記述をしていますので、その部分を掲載してみます。
エリザベス・G・ヴァイニング著「天皇とわたし」から引用します。

引用開始
※再び日本へ
 わたしはご成婚式に招かれて日本に向っていた。機中のわたしは雄鶏を模したストュベン・グラスの置物を膝の上においていた。それを皇太子殿下のご結婚記念のお祝いに選んだのは殿下が酉年のお生まれだったからであり、殿下との個人授業をもった小金井の教室には現代の大画家、川合玉堂が描いた雄渾な雄鶏の絵が一幅かけられていたからである。
 羽田空港では小泉家、たね、エスター・ローズ、井上さん一家、大ぜいの教え子、それに百人の報道関係者の出迎えを受けた。

※皇太子殿下と美智子様
 滞在中の十五日間に、ご婚儀やその午餐は別にして皇太子殿下には六度、そして美智子妃殿下となられた令嬢には三度お目にかかった。このかけがえのない若いお二人は、ご成婚の日までの息つくまもないお忙しい日々の中でわたしのために時間をおさきになったが、その心の大きさには今もって驚かされ感動させられる。・・・・・
 皇太子殿下は一夕をわたしのためにあけておかれ、わたしたちは二人だけで夕食をいただいた。料理は殿下のシェフがわたしの好物だと覚えておいてくれたものであった。その夜の殿下との談笑はあの連日の至福のときの中でも心底報われる体験として心の中に刻み込まれている。

※ご婚儀
 四月十日、太陽が輝き、桜の花が咲き誇る朝、ご婚儀が皇居の奥深くにある皇室のお社で執り行われた。千人あまりの賓客が参列し、お社の中庭の大きな木の下の椅子に着席していた。一方の側に政府の高官、他の側には皇族の方や花嫁の親族たちが着席していた。礼服に威儀を正した男性の中にあっては女性はほんのわずかであった。夫人たちは含まれていなかった。・・・・
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2006年11月11日

ヴァイニング夫人4

ヴァイニング夫人は、マッカーサーについてもさまざまなことをこの書の中で述べています。
エリザベス・G・ヴァイニング著「天皇とわたし」から引用します。

引用開始
※マッカーサーとの初対面
 日本が降伏してからの五ヶ月近くは、マッカーサーの配下にはアメリカからの部隊しかなかった。1946年の2月になって、英国、オーストラリア、ニュージーランド、インド、カナダの兵士からなる小隊が到着し、本州の南、広島湾の向かいにある呉に駐屯した。
 ソ連は北海道占領のために兵を送ると早い時期に申し出たが、それは即、峻拒された。

 元帥との初対面は1947年5月3日のことで、アメリカ大使館での昼食会に招かれたときだった。・・・・・
 昼食が済むと、軍事法廷のオーストラリア代表の裁判長サー・ウィリアム・ウエッブに話しかけられたが、元帥が近寄ってくると彼はその場を離れ、そのため元帥と二人だけでしばらく話をした。・・・・・
 天皇については親しみと同情を込めた口ぶりで、「この奴隷の国にあってはナンバー・ワンの奴隷だったが、今自由人にされているところだ。彼は本当に飾り気のない率直な人で、民主的な人だ」と評された。・・・

※マッカーサーと天皇陛下の第一回会見
 元帥は天皇陛下と初めて会見されたときの模様を次のように話してくれた。
「わたしは少し強く押してみたんだが、戦争に対する責任を取る気があるのかと質すと、天皇はこう言われた。『お答えする前に一言いわせていただきたい。閣下がわたしをどう扱おうとそれは構わない。わたしはそれを甘んじて受ける。絞首刑にしてもかまわない。ただわたしは戦争を望んだことは一度もなかった。一つにはわれわれが勝てるなどとわたしが考えなかったからだ。それにもましてわたしは軍拡派を好まなかったし、信用していなかった。戦争を阻止するためにわたしにできることはした。』」

 元帥は『回顧録』の中で、陛下の言葉として似たような趣旨の言葉を引いているが、はるかに格調あるものである。通訳官を介してなされた言葉のやりとりの実際はこの二つのうちの間にあるのではないかと思われる。

 元帥は陛下のことを語るときはつねに親しみと憧憬を込めて、科学者としての生物学へのご関心や、純朴で誠実なお人柄、生来の洗練された「高潔なお人柄」を賞讃された。
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2006年11月10日

ヴァイニング夫人3

ヴァイニング夫人は、当時、天皇についてのさまざまな出来事をこの書の中で述べています。
エリザベス・G・ヴァイニング著「天皇とわたし」から引用します。

引用開始
※天皇陛下ご退位の噂
 1948年の夏のはじめ、天皇のご退位があり得ることが盛んに話題にされた。・・・・
 今上陛下にとってご退位できるのであれば、お楽になられたには違いないと思われる。そうすれば思うままに生物学のご研究に専念され、制約の少ない生活をお楽しみになられたものと思われる。・・・・
 人々は噂しつづけ、何週間が過ぎて行った。・・・・ご退位の噂話は消え、そして忘れられた。誰がその決定をしたのか、わたしには分からない。マッカーサー元帥の助言による、と言う人もいるが、わたしはそれについて全く知らない。国民の意志が働いたからであろう。読売新聞の世論調査は、国民の九割が天皇がとどまられることを望んでいたことを示した。

※天皇家の宗教
 アメリカの人たちは陛下の宗教についてわたしによく質問する。
・・・略・・・
 宮内庁長官の田島氏は
 「賢所には伊勢神宮の鏡を模したものが祭られており、剣や勾玉は宮中の中か、陛下のお側に置かれてあるのが慣例です。
 天皇というものは神道の長と見なされたことはかつて一度もありません。賢所で営まれてきたもの、そして現在でも営まれているものは、皇室のご一家の皇祖崇拝の一連の儀式制度にほかならず、宗教であったことは一度もありません
 また、いわゆる神道とも同一ではありません。戦前には、神道は神社神道と教派神道に分かれておりました。前者は宗教とは見なされたことはなく内務省神社局の管轄下に置かれ、後者は宗教と見なされて、文部省の宗務局の管轄下に置かれておりました。天理教、大本教、黒住教などはこの神道の教派なのです。」

 わたしは疑いの余地のない知識の持ち主によって以上のことを明らかにしてもらって嬉しかった。

※両陛下との懇談
 日本に滞在中の後半に二度ばかり、皇子、皇女方、とくに皇太子のご教育について両陛下と時間をかけて率直にお話し申し上げる機会があった。最初は葉山でだった。・・・
 両陛下とわたし、それに侍従長の三谷氏が通訳官として陪席した。
 三谷氏は外見は落ち着いておられせたが、察するに、その折は神経をすり減らされたのではなかったかと思われる。
 氏はわたしの言葉を適切な御所ことばに置き換えてくれただろうか。というのもわたしは子供の幸せを願うどの父兄に対しても話すような調子でお話し申し上げたからである。両陛下は、通訳官を介してではあるが、世間の親がそうであってほしいのと同じほどに、熱心で、率直で、胸襟を開いてわたしの話に応じて下さったと感じられた。
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2006年11月09日

ヴァイニング夫人2

ヴァイニング夫人は、当時の様々な人物との交流をもその著書に著しています。
エリザベス・G・ヴァイニング著「天皇とわたし」から引用します。

引用開始
※小泉信三氏の紹介する天皇陛下についての話
 1950年の一月のある日、当時すでに一年近く皇太子の教育参与をつとめられた小泉信三博士は陛下について今まで聞いたことのなかった非常に感銘深い話を聞かせてくれた。
「陛下を知れば知るほど、ますます尊敬するようになりました。最初は陛下は善人でいらっしゃると思った。しかし、今では陛下が賢明なお方であることもますます分かってきました。陛下について田島さんがうまいことを言っていました。陛下は剣術にはまったく向いていらっしゃらないが、真剣勝負となると強いお方だ、と。陛下は外見的には目立つお方ではいらっしゃらないし神経質そうに首をふられるが、ご立派なお方ですよ。」

※鈴木貫太郎氏の語る終戦の決断について
 天皇が1945年の夏に終戦をご決断された経緯についてはよく語られている。わたしが聞いた話もそれと同じであった。ただ違っているとすれば、天皇がご決断を下されたとき側近の立場にいたいく人かの人物を個人的に知っているということであろう。
 その人物とは元男爵、海軍大将、侍従長、首相をつとめられた鈴木貫太郎氏である。
 1947年の九月のある日、しわの刻まれた白髪の七十八歳になる氏は、当時住まいとしていた千葉の陋屋で、終戦の経緯を話してくれた。氏によれば、1945の春に、天皇が戦争の終結を望んでおられたことを陛下の口から直接聞いたそうである。陛下はそのとき、陸軍がいくつかの新しい案をもっていたが、陸軍案は功を奏さなかった、とご発言され、日本側と連合国側の戦死者を悼まれた

 鈴木氏は首相に指名された五月から降伏するまでの間のことや、天皇が口にされた、一日も早く平和をという願いを実行できなかった理由などについては何も話されなかったが、八月十四日の最終的なご決断の模様について詳しく話された。
 その日の朝、最高戦争指導会議の緊急御前会議が開かれた。天皇・皇后両陛下がその頃お住まいとされていた小さなコンクリートづくりの図書館、すなわち御文庫の下の防空壕の中においてである。
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2006年11月08日

ヴァイニング夫人1

昭和二十一年の十月に来日し、それから四年間にわたって皇太子(現天皇)の英語教師をつとめたヴァイニング夫人は、単に英語の教師であることにとどまらず、さまざまな影響を皇太子、及び当時の日本人に与えられた方です。
エリザベス・G・ヴァイニング著「天皇とわたし」から引用します。
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引用開始
※ わたしの授業
 最初の二年間は、週に三回、東京の郊外にある小金井まで車で四十分ほどかけて通い、皇太子殿下の個人教授と殿下のクラスの授業を行った。戦禍に崩れ落ちた市街を通り抜けると,光景が一新されて旧道の青梅街道に入り、街道沿いには藁葺屋根の農家や、大木で半分隠されたようになった寺社があったり、村があったりした。村の人家は表が開け放されており、冬の陽だまりの縁側に座って針をさしている年寄りをよく見かけた。

 一方、小金井とは反対方向の、使われなくなった陸軍の兵舎(バラック)にも通った。そこは戦争前の瀟洒な建物をすっかり壊された女子学習院の校舎として使われていた。そこでは皇太子殿下の姉君たちが入っておられる高校の二クラスを担当した。

 生徒たちは男の子も女の子もみなみすぼらしい身なりをしていた。彼らは濃紺の薄手のサージの制服を着ていたが、擦り切れていたり、つぎ当てをしたものだった。上の子のおさがりだったり、古着屋で買ったものだったので、体にあっているのはまれだったが、ボタンだけはどれもしっかりと縫いつけられていた。靴もはき古して破れていたりした。
 学校には火の気がまったくなく、薄手の制服の下に着ているセーターもたいして役には立たず、そのため生徒たちは寒さにうち震えていた。雨水がしみ込んでそのまま凍ってしまった部屋の隅には氷がはりついていたが、わたしはそんな部屋で教えることがたびたびであった。
 生徒たちは疲れていた。通学するのに、大半の生徒は家を六時半に出て、満員の電車やバスに乗らねばならなかったからである。彼らはやせ細って顔色も悪く、みるからにひもじそうだった。・・・・・

 わたしはこんな少年や少女たちの所に、食事もきちんと取り、暖かい格好をして、暖房のある家から車に乗って行くのであった。しかも、そのわたしはと言えば、負け戦を一度たりとも知らず、占領されたこともなかった日本に敗北と軍事的占領をもたらした国からやって来た人間なのである。しかし、生徒たちはそんなことには少しもかまわず、熱心に耳を傾け、よく勉強し、礼儀正しく、人なつっこかった。・・・
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2006年11月07日

憂国の明治女性

 渡部毅著「愛国心の教科書」から、明治時代の憂国の女性のことをご紹介してみます。教科書や世間で言われるイメージとは違う姿も見えてくるかも知れません。

引用開始
※息子を『猛く戦へ』と激励した与謝野晶子
 晶子は弟に対して詠った「君死にたまふことなかれ」の詩によって、明治を代表する女流反戦詩人のようにとらえられていますが、実際は晶子の生家が弟の死によって断絶することを憂えたために、「君死にたまふことなかれ」と詠んだのが真相だったようです。
 というのも、晶子は日露戦争以後の戦争において、厭戦気分を詠ったような詩歌は一つも残していないからです。それよりも晶子に特徴的なのは、彼女の尊王心です。

 たとえば、明治四十三年(1910)、幸徳秋水らによる大逆事件が起こるや、晶子は、「天皇は現人神であることを為政者たちは国民に徹底せよ」といって、次のような歌を詠んでいます。
 「かしこしや 君としいます 今の世に 臣と褒むべき 臣の乏しさ」
 「臣達に ねぢけむ人等も まじれども わが大君は 神にしましけり」

 晶子の尊王心は、彼女が、「堺の街にて亡き父ほど、天子様を思ひ、御上の御用に自分を忘れし商家のあるじは無かりしに候」といっているように、父親の影響を大きく受けており、それについても誇らしげに、

「おほぎみは 猶も尊し 上方に 育ちし我の 習いなるかも」

と歌に詠んでいます。そして、父から影響された尊王心を、「天長節」(天皇誕生日)の日にわが子にも教えたとして、

「大君の めでたき御代を 教ふれば 幼き臣の わが子等も泣く」

というように、わが子も天皇の御代のありがたさに感涙したと詠んでいます。
 そして、パリで、明治天皇が崩御されたことを知るや、次男の秀に、
 「かあさんは、こんにち、天皇陛下のおかくれになった日の新聞を読んで、なきたい気持ちで、一日をおくりました」と手紙を書き送り、十八首もの追悼の歌を、『東京朝日新聞』に寄せています。

 晶子はヨーロッパ旅行から帰国(大正元年)してから、
「私は近年欧州へ旅行するまでは、日本という世界の片隅にいて世界にあこがれている一人の浮浪者であった。日本よりも世界の方がより多くなつかしかった。然るに欧州の旅行中、至る処で私一人が日本の女性を代表しているような待遇を受けるに及んで、もっとも謙虚な意味で私は世界の広場にいる一人の日本の女であることをしみじみと嬉しく思った。私の心は世界から日本へ帰って来た。私は世界に国する中で私自身にとってもっとも日本の愛すべきことを知った」
といって、自身の国家観の変容を表白しています。

 広い世界に出て、自分は世界人だという空虚な考え方を反省し、日本人としての与謝野晶子を自覚したのでしょう。
・・・略・・・
 その後、大東亜戦争で海軍大尉として息子・帖覆い・・傭法砲・仞・靴討い・箸C砲癲⊆,里茲Δ焚里魃咾鵑任い泙后」

「水軍の 大尉となりて わが四郎 み戦に往く 猛く戦へ」

 このように、晶子の生涯は社会化教科書で見られるような反戦家の道ではなく、日本人としての自覚を持ち、勇猛な生き方を尊ぶ人生をたくましく歩んだ道だったのです。
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2006年11月04日

特攻隊戦没者供養

 今回も、ご紹介するのは、2002年に九回にわたって放送された「新・平成日本のよふけ」の瀬島龍三氏出演回の内容を中心に、追加取材して構成されたものです。瀬島龍三「日本の証言」から表題に関する部分を引用します。

引用開始
 国民の皆さまに、ぜひ申し上げておきたいことがあります。陸軍における特攻隊というのは、全部飛行機で敵陣に突入する特攻です。海軍には、飛行機の特攻以外に、水上特攻、空中特攻(菊水)、人間魚雷(回天)、人間爆弾(桜花)など、水上から行く特攻もありました。
 あの戦争では約200万人の日本兵が命を捧げましたが、特攻攻撃によって国に命を捧げた人は、陸海軍合わせて6952名です。そのうちの約5400名が海軍で、約1600名が陸軍です。
 なぜ海軍が多いかというと、いま申しましたように、飛行機の特攻以外に水上特攻というのが、海軍にあったからです。
 その方々の年齢は、19歳から21歳までが多く、結婚はしていなくて子供もいません。それに、両親がすでに100歳に近い年齢になっているわけですから、近親者に供養する人たちがいなくなりつつあるという状況です。

 いまから10年ほど前に、この特攻隊の調査および慰霊事業をやる財団法人をつくろうと考えまして、陸海軍の親しい方や有志の方に相談をして、平成5年11月に、政府の認可をいただき、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会という財団法人ができました。
 私はたまたま陸軍でありながら連合艦隊にも勤務し、陸海軍にまたがっておりましたから、海軍側から私に会長をやってくれっていう話になって、今日までこの財団の会長をやってまいりました。
 まず特攻隊によって国に命を捧げた方々の名簿を整理し、その人たちがどういう方であったかという調査をしまして、これが終わりました。それで、年に一回、靖国神社で慰霊祭をやっております。

 そのほかに、東京の世田谷に特攻観音寺というお寺があるんです。このお寺に、浅草の浅草寺の僧侶たちが来てくれまして、秋のお彼岸の日に慰霊祭をやっております。
 特攻隊というのは、世界に先例がないんです。そのため、世界中から、日本の特攻隊を研究したいので、資料を送ってくれという要望が来ております。
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2006年11月03日

ハバロフスクの慰霊祭

 シベリア抑留、強制労働で亡くなった六万人のための慰霊塔が、平成七年に完成し、慰霊祭が行われました。この発起人代表をされたのが瀬島龍三氏です。
 ご紹介するのは、2002年に九回にわたって放送された「新・平成日本のよふけ」の瀬島龍三氏出演回の内容を中心に、追加取材して構成されたものです。瀬島龍三「日本の証言」から表題に関する部分を引用します。
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引用開始
 私の本分といえば、それはもう、戦争で亡くなった方々の慰霊です。
 私どもは昭和三十一年に命あって戻ってこられたわけですが、シベリアで亡くなられた六万人の方々の慰霊とご供養をしないと、この人たちの魂は、100年も200年もシベリアを彷徨うことになると思いましてね。戦友たちと語らい、厚生省にも相談をしまして、シベリアのどこかにね、慰霊塔を建てなきゃという結論に達しました。
・・・略・・・

 土地はね、ハバロフスク市の市有地が適当だろうということになって、なんと約3000坪もの土地を、50年間無償で提供してもらえることになった。
 これには、私はびっくりした。あの国は、いま経済が大変なので、莫大な金額を言うてくるだろうと思ったらね、50年間無償で提供しましょうと言うんだね。「日本の軍隊は、われわれの国に全然入ってこなかった。逆にわれわれの国の軍隊が向うへ入っていった」ということでね。
 そんなことで、平成七年に、ハバロフスクに立派な慰霊塔を建てることができました。・・・・

 私は発起人代表をやっておったので、そのとき向うに行って、官民合同、日ロ協力で、竣工式と六万人の慰霊祭をやったんです。
 その慰霊祭をやる前に、藤森宮内庁長官の所へ行きまして、その経過を説明して、「これに天皇、皇后両陛下からお供えをいただきたい」と、お願いをしました。
 そうしたら、三日ほどして藤森長官から私に電話がありまして、天皇陛下にこれを申し上げたら、
 「それは大変いいことをしてくれた。勅使を出すことはできないか」
と、おっしゃったというんですね。

 それは大変有難いことですが、勅使がお出ましになるとなったら、向うの治安がどういう状況であり、勅使がお泊りになるホテルがあるかなど、簡単なことではなくなるので、
 「ご沙汰の件は大変ありがたい次第でございますが、勅使の件はご辞退させていただきたく、両陛下からのお供えを、どうぞよろしくお願いします」
と、宮内庁長官にその場で返事をしました。
・・・略・・・
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2006年10月30日

乃木大将と日本人

 昨日は、毎日新聞記者の目に余る両陛下に対する無礼な質問で、気分を害しましたので、今日は心なごむお話を。

 スタンレー・ウォシュバン著「乃木大将と日本人」を紹介します。
 S・ウォシュバンは1878年生れの米国人新聞記者で、日露戦役に特派員として、乃木三軍に従軍し、間近に乃木大将を見た方です。
 この本の冒頭章『永遠の力』は、乃木大将を通じて、日本人以上に日本人を理解しているとさえ思える記述がありますので、それをご紹介しましょう。
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引用開始
※永遠の力
 大きな仕事よりも、むしろ人格によって、その時世に非常な貢献をする人が、三十年に一度か、六十年に一度くらい出現することがある。そうした人物は、死後二、三十年の間は、ただ功績をもって知られているのみであろうが、歳月の経つにしたがって、功績そのものが、その人格に結びついて、ますます光を放つ時がくる。
 たとえば軍人であるとすれば、その統率した将士の遺骨が、墳墓の裡に朽ちてしまい、その蹂躙した都城が、塵土と化してしまった後までも、なおその人格と、人格から発する教訓とが、永遠に生ける力となってゆくからである。乃木大将は実にかくのごとき人であったのだ。

 乃木大将は、日本古武士の典型であり、軍人にして愛国者であった。そして1912年(明治四十五年)9月、明治天皇の崩御し給うと同時に、渾身の赤誠を捧げ、畢生の理想を纏綿させていた、その対象を失ってしまったため、この上はいたずらに生きながらえんより、むしろ白刃を取って、自ら胸を貫くにしかずと思い定めたのである。
 世界万国、特に日本において、万人ひとしく乃木大将を敬仰するのは、大将が旅順口を陥落せしめ、奉天に露軍の右翼を牽制し、クロパトキンの敗走をもって、かの恐ろしい戦役に終局を告げさせた将軍としてである。
 乃木大将とその勲功とは、軍事研究の見地からも、優に戦術兵学の一章を成している。しかし日本帝国にとっては、もはや単なる国民的英雄に止まらない。その功績の詳細が、一般人には漠然とした記憶くらいになった後までも、永く伝承して、帝国の歴史に生きてゆくべき伝説となっている。
・・・略・・・

 日本人の性格には、一種微妙な本能がある。すなわち、理想と自我とを融合させようとする傾向が、はっきりした強い底力となっている。乃木大将の生涯は、この日本人の特質をそっくり具体化したものである。将軍こそ、かの眼に見えず手に触れない涅槃の浄境に、霊魂の安住を求めようとする仏教の思想を、徹底的に体現した人である。その個性においても、その生涯においても、この思想を実現して、更に殉死によって、全国に向かって、これを立証したのである。

 近代日本の基礎は、伊藤、大山、乃木、その他少数の先輩によって築き上げられた。彼らは私的功名心のごときをもって少しも汚すことのできない理想を抱いて、スパルタ的な日本人の剛健質実な気性と、国民的理想に対する熱烈な憧憬と、この二つの、遠い封建時代の昔から伝わった祖先の遺産に加うるに、近世西欧の、一切の学問芸術をもってすることができたのだ。この二種の相異なった文明の、その最もすぐれた要素の大部分を捕えて、打って一丸とするということは、容易に企及すべき事業ではなかったのだ。
・・・略・・・
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2006年10月28日

天皇とマッカーサー

今回も舟山喜久彌著「白頭鷲と桜の木」より、占領軍進駐後、著者の父貞吉が再びアメリカ大使館に勤務することになってからの部分をご紹介してみます。

引用開始
※天皇・マッカーサー初会見
 9月27日午前10時、マッカーサー元帥の官舎、赤坂のアメリカ大使館官邸玄関にシルクハットを片手に持たれたモーニング姿の昭和天皇経陛下がひっそりと佇まれた。
 玄関先の出迎えに当たったフェラーズ准将とバワーズ少佐が続いて入ってくる。一瞬、張り詰めた空気が邸内に流れた。
 玄関内でお出迎えに当たった貞吉は陛下の姿に思わず心の中で声にならぬ声をあげた。憔悴の色濃く、蒼ざめた顔色、そして見るからに緊張されている。

「陛下、お帽子を・・・」かろうじて貞吉はそう申し上げた。その声に陛下はふと訝しげな表情をされたかのように貞吉には思えた。
 ここは昨日まで敵将だったマッカーサーの官邸である。そこにアメリカの国鳥、白頭鷲の紋が入った羽織袴に威儀を正した初老の日本人が立っているのだ。陛下が不審にお思いになられても、それは無理からぬことであろうか。・・・・
「陛下、お帽子をお預かりいたします」
一語一語噛みしめるように、貞吉はそう申し上げた。・・・・
 ふと帽子の裏側に目を落とした貞吉は我が目を疑った。なんと裏地には丹念に繕われているほころびの痕が見えるではないか。明治生まれの貞吉には、言いようのない大きな感動が胸を衝きあげてくるのを感じていた。
・・・略・・・
  
 玄関に入ると、右斜め奥の方向に大広間の入り口が見える。大広間には陛下を迎えるマッカーサー元帥がまっている。
 ノー・ネクタイの軍服だが、陛下をお迎えするゆえか表情に緊張の色が見える。
 陛下は懸命に一歩一歩踏みしめるように、まさに死に臨んで騒がずの心を秘めたごとくに歩をすすめられ、マッカーサーに近づかれた。
 大広間には待機していた米軍報道カメラマンが元帥と並ばれた陛下に向けてフラッシュをたいた。
 陛下にはもはや先ほど感じられた怯えなどはなく、つと上体をのばされ、強烈なフラッシュの閃光を浴びていた。

 貞吉は暖炉前のテーブルに急いで冷たい紅茶のグラスを用意し、執務室に戻った。この執務室は玄関内右脇に位置し、大広間と執務室カーテンで仕切られている。そのカーテン内の執務室にジーン夫人とアーサー少年がいた。・・・・
 貞吉は元帥夫人を敬愛していた。驕らず、高ぶらず、用を言うときでも決して権柄ずくな口はきかなかった。物静かで万事が控え目だった。そして朝夕の元帥の送迎には必ず玄関に立つ女性だった。

 貞吉は大広間のほうを憚りながら、昂りを押さえ、小さい声で陛下の帽子について話し始めた。見る間に夫人は感激の色を面に表し、感に堪えたように貞吉の話に幾度も幾度も頷くのだった。そして、
「ゼネラルもそうですわね。ゼネラルの帽子も繕ってあるでしょ」
 夫人もまた小声でそう言い、静かに微笑んだ。
 アーサーは七歳の子供である。「天皇を見たい」と、駄々をこね、広間を覗こうとする。その仕草は可愛らしいが、夫人はアーサーの腕を掴み、
「お行儀よくするのよ、アーサー。言うことが聞けなければ二階に行きなさい」
と、小声だが語勢は強い。ちょっと肩をすくめて、アーサーは一応従う様子を見せている。

 時間がくれば、貞吉は元帥の指示で暖炉の様子を見に行くことになっている。暖炉前のテーブルの下に指令用のボタンがセットされ、元帥が押すと執務室にランプが点灯する仕組みになっている。
「その時、カーテンを開ける役目をアーサーにお願いしましょう。ただし元帥には内緒ですぞ」
と、一計を案じた貞吉が言う。アーサーは嬉しそうに笑みを浮かべ、おとなしく椅子にかけた。
・・・略・・・
 元帥の演説が聞こえてくる。
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2006年10月27日

ハルとグルー

 今日も舟山喜久彌著「白頭鷲と桜の木」より、戦前から開戦時のアメリカ大使、ジョセフ・C・グルーについて掲載して見ます。副題に「日本を愛したジョセフ・グルー大使」とあるように、彼がいかに日米開戦回避につとめ、開戦後本国においては、いかに戦後の日本の分断、壊滅を阻止するために努力したかが描かれています。
 今回は、1942年8月、グルーが帰国してからの出来事についてです。文中に抑留とあるのは、開戦直後から、アメリカ大使館員は公邸に監視付で滞在していた時期を言います。

引用開始
※葬られたグルーのレポート
・・・・翌朝グルーはフィアリィを連れて、命がけで持ち帰ったあの報告書を携えて国務省に向った。いよいよハル長官に会うのだ。・・・・
 ハルの話が終わると、グルーは、
「長官、これは抑留中に大使館の主だったスタッフと協議しながら、真珠湾以前の日本側との交渉過程を記録に残すことが自分の任務であると考え、報告書にまとめたもので、勿論この報告書の責任は自分にあります。
 ハル長官の承認なしには誰にも見せられない大統領と長官宛の極秘文書として提出いたします」と言い添えて手渡した。
・・・略・・・
 しかし報告書に目を通していたハルの顔は、見る見るうちにこわばってきた。読み終えたハルはなんと机越しに報告書をグルーに投げ返し、興奮ぎみに叫ぶように言った。
グルー大使。あなたはこの報告書とそのすべてのコピーを破棄すると約束するか。さもなければ我々はこれを出版し、アメリカ国民の前に提示して彼らに我々と大使のいずれが正しいかを判断させようではないか」
 グルーは答えた。
「これは真実を物語るレポートです。私の良心に照らして破棄することはできません。だが同時にいまは戦争という重大な事態に立ち至っています。すべての国民が一体にならなければならないこの大事なときに、報告書を出版して論争をまき起すことには賛成いたしかねます」
・・・略・・・
 
 ハルと大統領かぎりとして提出した報告書ゆえに率直で明快であったが、それだけにすでに戦争の始まった状態では、容易に公表してよいものではなかったのである。そしてその後さらに強い指示があったのか、グルーはこの報告書を自分の控えからも削除し、焼却するのである。
・・・略・・・

※秘密報告書の大要
 ではハルを怒らせたグルーの極秘報告書にはどんな内容が書かれていたのだろうか。
 フィアリィの記憶するところでは、戦争が始まった12月の終わりごろからグルーは真珠湾以前の日米会談をワシントンがミス・ハンドリングしたことについて、何が失敗の原因になったのか率直にかつ充分に考慮しながら、要するに、グルーが全力を挙げて努力した十年間の日米友好が真珠湾攻撃という悪夢で終わってしまった理由について書いていたのである。そしてレポートには近衛・ルーズベルト会談の意義を簡明に正確に述べ、それをワシントンに打電したことが書かれていた。
・・・略・・・

※近衛提案の内容
 東京の米国大使館としてはこの近衛や彼の支持者たちの真剣な努力をバックアップする必要があった。グルーの報告書にはっきりと書かれてあったことは、ケーブルで打電したこと以外に近衛がルーズベルト大統領に直接提案しようとしたつぎのような大胆な解決策だった。
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2006年10月26日

日米開戦回避努力

 今日も舟山喜久彌著「白頭鷲と桜の木」より、戦前から開戦時のアメリカ大使、ジョセフ・C・グルーについて掲載して見ます。
 副題に「日本を愛したジョセフ・グルー大使」とあるように、彼がいかに日米開戦回避につとめ、開戦後本国においては、いかに戦後の日本の分断、壊滅を阻止するために努力したかが描かれています。

引用開始
※日米首脳会談
 日米首脳会談に、天皇も積極的に賛意を表された。木戸内大臣も近衛を支持した。
 時あたかもルーズベルト大統領はチャーチル首相と大西洋上で会談を行っていた。
 野村大使から巨頭会談の提案を受けたハル国務長官の態度は、近衛に「甚だ失望的だった」と書かせるほど冷淡だった。・・・・・

 グルー大使は豊田外相から、この巨頭会談の斡旋を頼まれた。グルーはもちろん快諾し、ワシントンに真摯に検討し受け入れを要望する旨を打電した。この時点では、ルーズベルトは乗り気だったのだ。
 だが、これは単なるジェスチャーだという強力な指摘がおこなわれた。たしかにルーズベルトはチャーチルとの洋上会談で「日本をあやす」と約束して帰っていたのであるから、その観点から見ればそう言わざるをえないのだろう

 ハルは初めから近衛の提案に好意的でなかったが、それはホーンベックの影響もあった。・・・・・
 ホーンベックとグルーとでは、対日観も日米関係に関する認識も正反対といってよかったから、グルーが巨頭会談に熱意を燃やせば燃やすほど、ミスター極東ホーンベックは反対の立場を固執したのだ
 ホーンベックの発言は大きな力を持っている。東京発の情報を信ずるよりも、ハルはミスター極東の状況判断に押されてしまう。
 ルーズベルトといえども、そうしたハルの進言に耳を傾けざるを得なくなってくる。
 グルーからの巨頭会談実現を訴える手紙を、ルーズベルトはハルに差し戻してしまったのだった。・・・・・

 9月6日、昭和天皇が有名な「四方の海 みなはらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらむ」の歌を引かれた御前会議が行われた夜、近衛首相は東條と及川海相の了解のもとにグルー大使と秘密会談をもった。・・・その席で近衛は、
「今この機会を逸すれば、われわれの生涯のあいだには、ついにその機会が来ないであろう」と言って、一日も早くルーズベルト大統領との会談を行えるようにと要望した。近衛はあくまでもルーズベルトとの直接会談に、期待を抱き続けていたのだ。

 グルー大使はその『滞日十年』に言う。
「近衛公爵は私に、ワシントン非公式会談の当初から、彼が陸海軍首脳部の力強い協力を受けていると話した。(中略)軍部内に彼の政策に賛成しないある種の分子が存在することは彼も認める。しかし陸海軍の責任者が完全に支持する以上、かかる分子の間で起こるかもしれない反対を、抑圧統制することは可能であるとの信念を彼は漏らした」
 さらに近衛はグルーに、
「懸案となっている一切の問題はルーズベルトとの会談の中で、相互に満足しうるよう処理しうると確信する。ルーズベルトと同意に到達し、その旨を天皇に報告し次第に、天皇は直ちに一切の敵意ある行動の即刻停止を命ずる詔勅を発するであろう」
と言明した。
・・・略・・・
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2006年10月25日

昭和天皇とグルー大使

舟山喜久彌著「白頭鷲と桜の木」より、戦前から開戦時のアメリカ大使、ジョセフ・C・グルーについて掲載して見ます。副題に「日本を愛したジョセフ・グルー大使」とあるように、彼がいかに日米開戦回避につとめ、開戦後本国においては、いかに戦後の日本の分断、壊滅を阻止するために努力したかが描かれています。
 著者、舟山喜久彌の父貞吉は、10年にわたりアメリカ大使館でグルーに仕え、後、終戦時の天皇のマッカーサー訪問時もアメリカ大使館で天皇をお迎えされた方です。
 ジョセフ・C・グルー大使は、1880(明治13)年5月27日、銀行家でもあり毛織物商でもあった裕福な家庭の、姉一人兄二人の末っ子としてボストンで生まれました。
 1932(昭和7)年6月6日、当時のフーバー大統領の任命により、妻アリスと末娘エルシィとともに駐日アメリカ大使として、霊南坂の大使館に赴任し、1942(昭和17)年6月18日まで10年の長きにわたり大使を務めました。
では、引用してみます。
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引用開始
※ミスター極東・ホーンベック
・・・アメリカ国務省のアジア関心度は低く、必然的に極東部は主なスタッフが三人しかいず、この少ないスタッフがチャイナ・デスクとジャパン・デスクに分かれていた。
 スペシャリストを名乗る中国派は日本派と合わず、お互いの間にコミュニケーションは少なかった。・・・・・
 しかも極東部には中国通を自認する顧問のスタンレー・ホーンベックが力を持ち、ジャパン・デスクは彼に押され気味だったのである。

 グルーの個人秘書を務め、戦後はインドネシアのアメリカ大使となったマーシャル・グリーンは、その間の事情を次のように語っている。
「ルーズベルトは数多くの重要懸案を抱えているヨーロッパに関心があり、太平洋には目を向けていなかった」
 このため、中国と日本を主として担当する国務省極東部が対日政策に関して主導権を握るようになっていた。しかも国務長官のハルとホーンベックは極めて親しい間柄にあり、中国通を自認するホーンベックは極東部に君臨し、対日政策立案に大きく関与してくるのであった。・・・
 ともあれ当時のホーンベックの最大の関心は中国にあり、「日本は取るに足らない存在」だったのである。
この点が多くの人に見逃されている点ではないか」とのちにマーシャル・グリーンは指摘する。

※天皇家からの結婚祝い
 グルーが初めて天皇と顔を合わせたのは、着任して間もない昭和7年6月14日の信任状を奉呈したときであった。・・・・
帰ってきてからグルーは貞吉にこう語っている。
「非常に美しい宮城に入ると、近衛兵の一隊が気をつけの姿勢で並び、ラッパを高々と鳴らし、予定の十時五十分ちょうどに一秒の狂いもなく玄関に到着した」
 それはまさにお伽の国の出来事のようだったという。
・・・略・・・
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2006年10月24日

敵兵を救助せよ

続けて、恵隆之介著「敵兵を救助せよ!」
(英国兵422名を救助した駆逐艦『雷』工藤艦長)
をご紹介してみます。
 現在、日本人が誇りに思える史実の伝承が、あまりにも疎かにされているように思いますが、この本の内容のように、読んでいて感動を覚える史実は、多くの日本人が知り、多くの人々、子供達に伝えることによって、日教組やマスゴミ、反日左翼の悪影響から、すでに悪影響を受けた人たちを覚醒させ、子供達を守るためにも必要なことだと考えます。

引用開始
 ・・・開戦から半年、昭和17年5月末日までに、フィリピン、マレー半島、蘭領インドでの連合軍捕虜は合計23万人となっていたのである。
 この方面に展開していた日本陸軍の兵力と捕虜の数を比較すれば、いかに日本軍にとって捕虜の収容が重荷になっていたかが理解できよう。日本兵より捕虜の数が多かったのである
・・・略・・・
 しかし、米国などは「捕虜に対する国際条約」を批准していたものの、条約に違反する行為も少なくなかった。

 昭和18年11月27日、ニュー・アイルランド島カビエン西方チンオン島沖で、ラバウル野戦病院からの傷病兵1129名を乗せた病院船「ブエノスアイレス丸」は、米軍B24爆撃機に爆撃され沈没する。
 患者、看護婦、乗組員はB24に対してオーニング上に赤十字を表示したが、容赦なく機銃掃射を加えられ、看護婦を含む158名が戦死している。

【敵兵救助】
 ・・・二番見張りと四番見張りからそれぞれ、「浮遊物は漂流中の敵将兵らしき」「漂流者400以上」と、次々に報告が入る。
 工藤は「潜望鏡は見えないか」と見張りと探信員に再確認を指示するが、各見張りとも「敵潜水艦らしきものは見えません」「探信儀異状なし」と報告してきた。・・・当時工藤の側にいた艦長伝令の佐々木は、今でもこの瞬間をはっきり覚えている。
 午前10時頃、工藤は「救助!」と叫び、「取り舵いっぱい」と下令、艦を大きく左に転舵する。そして針路30度に定針し、敵漂流者集団の最前方に艦首を向けたのである。

 フォール卿の回想
「午前10時頃、突然200ヤードのところに日本の駆逐艦が現れました。
 当初私は、幻ではないかと思い、わが目を疑いました。そして銃撃を受けるのではないかという恐怖を覚えたのです」・・・・

「雷」は直ちに、「救難活動中」の国際信号旗をマストに掲げ、第三艦隊司令部高橋伊望中将宛てに「我、タダ今ヨリ、敵漂流将兵多数を救助スル」と無電を発した。世紀の救助劇はこうして開始された。・・・・・
 工藤は、救命筏八個が浮遊し、その先頭に高級士官が乗っているのを確認した。さらに、筏を取巻くように遭難者が頭だけ出してそれぞれ筏に摑まっていた。しかも、最前方の筏の上に、白服で大佐の肩章をつけた高級将校一人と,少佐が座っており、中佐の制服をつけた士官は重傷を負って横たわっていた。・・・・
 下士官兵の重傷者の中には浮遊木材にしがみつき、「雷」に最後の力を振り絞って泣きながら救助を求めていた。その形相は誠に哀れであったという。顔面は重油で真っ黒に汚れ、被服には血泥がべっとりと張り付いていた。・・・
 先任将校浅野市郎大尉が、艦橋後部から甲板中央を指呼しながら、拡声器で怒鳴った。
「右舷、舷梯降ろせ、急げ!」
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2006年10月23日

武士道と騎士道

恵隆之介著「敵兵を救助せよ!」(英国兵422名を救助した駆逐艦『雷』工藤艦長)をご紹介してみます。
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なお、ここに出てくる潜水艦の佐久間艇長については、おばりんさんのブログで紹介されています。
 
引用開始
【工藤俊作の生い立ち】
 工藤俊作は、明治34年1月7日、山形県東置賜郡屋代村竹森、現在の高畠町大字竹森で生まれた。
・・・略・・・
 祖父が幼少の頃、アジアは列強の侵略を受け、蚕食され尽くしていた。わが国も列強から不平等条約を押し付けられ、辛うじて独立を維持する状態にあった。
・・・略・・・
 工藤の三学年進級後間もない明治43年4月15日、広島湾で潜水訓練中の第六号潜水艦(57トン)が事故で沈没するという事態が発生した。
 艇長の佐久間勉大尉(31歳)は、酸素が消耗していく艇内で遺書をしたため、天皇に対し、潜水艇を沈めた責任を詫びた後、「部下の遺族をして窮するものなからしめ給わらんことを」と結び、さらに事故の原因、改良すべき点について呼吸が停止するまで記録していたのである。これを読んだ明治天皇は感泣したという。

 当初海軍は、事故後、艇を引き揚げハッチを開ける際、凄惨な状況が呈されているものと恐れていた。ところが、艇内には、艇長以下14名全員が各配置についたまま従容と最後を遂げていたのである。
・・・略・・・
 英国海軍はこの佐久間の遺書を英訳し、現在も潜水艦乗組員の精神教育のテキストとして使用している。
 このことは昭和2年以降終戦直後まで、「尋常小学校修身教科書巻六」の「第八科・沈勇」に掲載され、多くの国民が知るところとなった。
ところが、この項は戦後進駐軍によって削除され、佐久間艇は解体された。そして、国民の意識からも完全に忘却されかかっていた。

 しかし、再評価される時がきた。しかも、その発見をしたのは、皮肉にも米海軍軍人であったのだ。
 昭和31年、「ニューヨーク・タイムズ」記者で、ピュリッツアー賞受賞作家、米国海軍兵学校出身の軍事評論家ハンソン・ボールドウィンがその人であった。
 ボールドウィンは、『海戦と海難』という書を著し、その中に「日本六号潜水艇の沈没」という章を設けて佐久間艇長の遺書を紹介し、「佐久間の死は、旧い日本の厳粛なる道徳、サムライの道、または武士道を代表したもの」と強調したのである。
 このことによって、カリフォルニアの高校教科書「リーダーシップ」の項にこの佐久間の行為が引用された。
・・・略・・・
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2006年10月06日

近衛とマッカーサー

 占領国が被占領国の憲法まで制定するなどと言うことは、国際法上許されるのでしょうか。「ポツダム宣言」という条件をのんで、日本は有条件で降伏したにも拘わらず、完全武装解除した上に、GHQはあたかも無条件で日本国が降伏したかのように振舞いました。
「われ巣鴨に出頭せず」(近衛文麿と天皇)工藤美代子著より引用開始

【憲法改正の提案】
 昭和二十年九月十三日午後五時、近衛はつてを頼ってまだ横浜にいたマッカーサー元帥を訪問した。・・・・近衛はおそらく重要な日本人としては初めてマッカーサーと会見した人物ではないだろうか。有名になった天皇のマッカーサー訪問は九月二十七日になってからである。
 横浜税関のビルで会った元帥は、日本の軍閥の外形はあらかた破壊したから、今度は近衛らがその内実を破壊するべきだとし、日本軍閥に非常な嫌悪を示したという。・・・・・

 天皇とマッカーサーの初会見が成功裏に終わったのを見届けた近衛は、再び元帥を訪問する機会に恵まれた。
 十月四日、・・・近衛は第一生命ビルの石段を昇っていた。近衛は、おおむね次のように話した。元帥のほかに、その側近であるジョージ・アチソン政治顧問とリチャード・サザランド参謀長が同席し、通訳には近衛側が外務省参事官奥村勝蔵を用意した。アチソンはバーンズ国務長官から総司令部に派遣されている実力者でもある。

 「軍閥と極端な国家主義者が、世界の平和を破り、日本を今日の破局に陥れたことには一点の疑いもないが、皇室を中心とする封建的勢力と財閥とが演じた役割とその功罪については、米国に相当観察の誤りがあるのではないかと思う
 彼らは、軍国主義者と結託して今日の事態をもたらしたと見られているようだが、事実はその正反対で、彼らは常に軍閥を抑制するブレーキの役割をつとめたのである。軍閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなした者は、実にマルキストである。日本の今日の破局に陥れたものは、軍閥と左翼との結合した勢力であった。しかるに日本では、財閥と封建的勢力を除いて安定勢力はない。
 自分はいわゆる封建勢力の出身で、このような議論は言いにくいが、決してかかる勢力を弁護しようとするものではない。ただ、今日直ちに一挙にこの安定勢力を除去すれば、即ち日本がすぐ赤化に走るということを強く指摘したいのである」

 マッカーサーは近衛の話を聞き終わると、
「有益で且つ参考になった」
 と言った。この後二人はいくつかの問題点を友好的な雰囲気で語り合い、最後に近衛が、
「私としては、種々の事情で思ったことを十分成し遂げられなかったが、今後元帥の激励と助言により、国家のためできうる限りご奉公したい」
 と述べると、元帥から、
「まことに結構である。公はいわゆる封建的勢力の出身ではあるが、コスモポリタンで世界の事情にも通じておられる。又、公はまだお若い。敢然として指導の陣頭に立たれよ。もし公がその周囲に自由分子を糾合して、憲法改正に関する提案を天下に公表せらるるならば、議会もこれについてくることと思う
 と近衛を持ち上げた。
 この会見で、近衛は憲法改正案を作るという大責任を負ったのだった。それはなによりマッカーサーがアチソン顧問を同席させたため、一層現実性を帯びた提案であると日本側には考えられた。・・・・・

 幣原自身は余りこの憲法改正に興味を示さなかった。そこで木戸と石渡宮相は司令部と近衛の良好な関係を考え、天皇にも承諾を得た上で近衛を内大臣府御用掛に任命し、そこで研究ができるよう計らった。
 ここに、近衛はマッカーサーからも天皇からも憲法改正を正式に委託されることになったのだ

 十月八日、近衛はアチソン顧問を訪ねて意見交換をした。同道した高木八尺は学習院中学以来の学友で今は東大法学部教授。松本重治は共同通信記者で近衛のブレーンの一人。牛場友彦は近衛の秘書兼通訳だった
 アチソンはその席で積極的にいくつかの私案を示した。・・・・・
 これを受けた近衛や高木は、京大の憲法学者である佐々木惣一博士に相談することを決めた。・・・・・
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2006年10月05日

ハル・ノート

 今度はアメリカの中枢にもソ連のスパイが暗躍し、日米交渉にも大きな影響を与えていたことを、この本からも見てみましょう。
「われ巣鴨に出頭せず」(近衛文麿と天皇)工藤美代子著より

引用開始
【甲案・乙案】
 昭和十六年十一月五日、ここまで連日のように連絡会議を開いてきた東條はようやく野村大使宛に甲案、乙案の二案の訓電を送るところまでこぎつけた。これは日本側の最終回答だった。そこで野村を補佐する特派大使来栖三郎をアメリカへ送ることになった。来栖がワシントンへ着いたのは十一月十五日のことだ。
 東郷外相が考えた甲案は、いわば九月六日の決定を穏やかに改定したものだった。その肝心な部分は、日本軍の支那および仏印からの条件付撤退である。アメリカからいつ撤退するのかと問われたら、二十五年と答えるようにと注が付記されていた。

 直ちに撤退せよ、というアメリカに二十五年では到底話になるまいと今日の常識では思われるが、陸軍は九十九年を主張したくらいだから止むを得ない。陸軍に言わせればイギリスはアヘン戦争以後、香港を九十九年間も租借地としたではないかという理屈になる。
 乙案は、アメリカが甲案に難色を示した場合の代案だった。基本的な難題をすべて棚上げしてこれ以上日本は侵攻をしないから、物資通商を以前の環境に戻して欲しい、というものだった。
 だが何のことはない、ハルの机には甲も乙もとっくに無線傍受されてその引き出しに入っていたのだ。ただ感づかれないために、彼らは慎重な言い回しで共同宣言を提案したり、誠意を示すような素振りだけは忘れなかった。・・・・・

 来栖の渡米は何の役にも立たなかった。ハルは来栖と反りが合わなかったと、次のように書き残している。
「彼の顔つきにも態度にも、信頼や尊敬を呼ぶものがなかった。私は初めからこの男は嘘つきだと感じた。彼の役目は、日本の攻撃準備ができるまで、会談でわれわれを引き摺っておくことだった」・・・・・
 不信感に満ち満ちた双方の交渉に追い討ちの鉄槌を下すような覚書が、ハルから野村と来栖に手交されたのは、十一月二十六日のことだった。
 来栖はそれを読んで、
「これでは日本政府は手を上げるしかない」
 と言った。それは「日米間協定の基礎概略」と書かれた書類に、「両国政府がとるべき措置」として十カ条が記されたものだった。

 いわゆる「ハル・ノート」と呼ばれる文書だが、そもそもはモーゲンソー財務長官が起案したのを大統領が採用し、ハルに渡したものである。
 なぜ、外交と直接関係の無い財務省が加わってきたのか、しかも実際に文書作成を手がけた人物はモーゲンソー長官の部下であるホワイト財務省特別補佐官だった。

ハル・ノートの主要問題箇所は次の二点だといっていい。
1,日本国政府は支那及び印度支那より一切の陸海軍兵
  力及び警察力を撤収すべし。
2,米国政府及び日本政府は臨時に首都を重慶に置ける
  中華民国国民政府以外の支那におけるいかなる政府
  もしくは政権をも軍事的、政治的、及び経済的に支持
  せざるべし。
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2006年10月04日

尾崎秀実とコミンテルン

 スターリンが張り巡らせたスパイは、蒋介石の国民党は勿論、米国中枢、そして日本の中枢に潜り込んでおり、スターリンは重要情報を手に取るように把握し、スターリンの指示に従った工作により、日本軍の南下政策や西安事件での国共合作などが決定していったことは、今では周知の事実でしょう。そのへんの事情をこの本から見てみます。
「われ巣鴨に出頭せず」(近衛文麿と天皇)工藤美代子著より

引用開始
【昭和研究会】
 近衛の心胆を寒からしめた尾崎秀実がいた昭和研究会とはいったいどんな組織だったのか、簡単にたどっておこう。
 そもそもは近衛の学友だった後藤隆之助が事務方の、東京帝大教授蝋山政道が政策の中心となって昭和十一年に設立された国策研究グループである。・・・・
 昭和研究会は各種専門部会に分かれて勉強会や情報交換会として近衛のブレーンの役を果たしていたのだ。 後藤たちは欧米を視察してみて、日本を巡る国際情勢の激変に対応するために国策研究が急務と考えた。いずれ首相になるだろうと目されていた近衛を支えるうちに、それが現実のものとなる二ヶ月前の四月、朝日新聞記者の名刺を持った尾崎秀実がこの会に加わってきた。昭和十二年春である。
 紹介者は同じ朝日の記者で論説委員の佐々弘雄や近衛側近の風見章である。

 尾崎秀実はそもそも台湾で生まれた。明治三十四年というから、昭和天皇と同じ年の生まれである。その尾崎はやがて一高から東大へ進み朝日新聞社に入社した。すでに学生時代からマルクス主義の強い影響を受け、台北育ちということも関係してか中国、民族問題に関心を寄せていた。やがて大阪本社へ移動後、昭和三年には上海支局勤務となる。これが尾崎の人生を決定的に変える転機となった。
 中国共産党との深い関係に没入し、日本との闘争を支援する各種の運動に加わってゆく。そこへ現れたのが中国共産党を支援する活動を積極的にしていたアメリカ人ジャーナリストのアグネス・スメドレーだった。
 スメドレーはたちまち尾崎を虜にし、尾崎もまたそれに応え情報を渡し続けた。・・・・・
 尾崎はいずれにせよ日本から支局に送られてくるあらゆる情報をアグネスのために提供したのである。もちろん、朝日情報に限らず、昭和研究会からの情報も多々含まれていた。
 その見返りにスメドレーはドイツ人ジャーナリスト、リヒャルト・ゾルゲを、この方「優秀」なのよ、といって尾崎に紹介した。昭和六年である。
 ゾルゲは上海でスメドレーと知り合うと、間もなくふたりは同棲生活に入っていた。ゾルゲの表の顔はドイツの新聞記者だったが、実際にはコミンテルン情報局や赤軍の諜報活動のために働く「優秀な」エージェントだった。どういうわけか尾崎もゾルゲも吸い寄せられるように上海へ、そして東京へやって来た
 それらはちょうど張作霖爆殺事件から上海事変、満洲事変までは支那にいて、その後支那事変から汪兆銘国民政府樹立、仏印進駐といった大事な外交、軍事問題のすべてに関わる期間にぴったり重なっていたのだ。

 近衛内閣が成立するや、首相秘書官の牛場友彦の引きで朝日新聞社を退社して内閣嘱託の仕事に就いた。これも奇怪だったが誰もその正体を知らないのだから仕方がない。朝日には尾崎、佐々のほかにもう一人中国通がいた。笠信太郎である。
 尾崎は昭和十二年六月、首相官邸の地下に自室を持ち、そこであらゆる書類や出入りする人物の情報を苦もなく手に入れることになった。それがすべてゾルゲに知らされ、クレムリンは赤子の手を捻るより楽々と日本の動向を入手していたのだ。
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2006年10月03日

日華和平の妨害

 日本と蒋介石との和平を不都合に思っていたのがスターリンと中国共産党であることは、後の推移からも明確に分かることだと思います。ソ連は日華の和平により日本軍の対ソ防衛が強固になることを嫌い、中国共産党は蒋介石が後顧の憂い無く共産党討伐に出てくることを何としても阻止する必要がありました。
 日本軍と蒋介石軍の戦闘を画策し煽り、あげくに中共は今も侵略されたなどとは笑止千万。昔も今も共産主義は「嘘」無しでは成り立たないのでしょう。
「われ巣鴨に出頭せず」(近衛文麿と天皇)工藤美代子著より

引用開始
【盧溝橋から上海事変】
 東京裁判で証拠として提出された事件当時の北京市長で第二十九軍副隊長だった秦徳純の「七・七事変紀実」でさえも両軍のどちらが先に撃ったのかについては決め付けていない。そこからは、日中いずれでもない謎の第三者による射撃が行われた可能性が浮かんでくる。
 陸軍の皇道派はソ連とその国際共産主義を警戒し、対ソ国境には熱心でも、中国とことを構えたり南下する方針にはもとより反対していた。その皇道派が組織としての力を落としていたために、統制派がその間隙を縫って中国戦線を拡大し事件を起したのだろう、という見方が大勢を占めていた。
 近衛もそう理解して自らに最終責任があると、己を責めたのではないか。この時代の我が国の情報戦力からみれば致し方もなかったろう。・・・・

 日本軍はこの後、総攻撃を開始して七月までに北京、天津など華北一帯を制圧した。近衛が杉山に命じた不拡大、事態収拾とは裏腹な進展を現地は示し始めていた。
 だか、この時点で日本軍は華北以外に戦線を拡大する考えは持っていなかったので、この時期としては画期的とも思われるほど陸軍、海軍、外務省が一体となって和平案を練っていた。少なくとも日本軍も蒋介石も、まだ全面戦争突入だけは避けるつもりがあったのだ。
 近衛は、蒋介石と直接ひざ詰め談判をする策を講じ、宮崎龍介を蒋介石の元に送って取り次がせることにした。宮崎龍介というのは、かつて孫文と黄興を会わせて辛亥革命にひと役買った宮崎滔天の息子で、こういう仕事にはうってつけだった。ところがその宮崎が神戸で船に乗る寸前、憲兵に逮捕されこの計画が頓挫してしまった。
 杉山陸相が事前に了解しながら自ら憲兵を使って妨害したというので、近衛も怒りが収まらず杉山に問いただしたものの、返答はいっこうに要領を得なかった。このころ、近衛は天皇に呼ばれご下問を受けた。
「もうこの辺で外交交渉により問題を解決してはどうか」
 仰せの通り、近衛は今述べた陸海外務の力を合わせた和平案を提示しようと既に準備を進めていた。
 それは、土肥原賢二・秦徳純協定、及び梅津美治郎・何応欽協定などこれまで日本に有利だった軍事協定を見直し、大幅に日本が譲歩する案を示すものだった。この提案は満洲事変で得た日本の既得権をほとんど放棄するほど、国民政府に有利なものを用意していた。
 だが、この案が実を結ぼうとした矢先、またもや不可解な事件が「偶発的」に起きたのである。
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posted by 小楠 at 07:22| Comment(5) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物