2008年06月16日

ペナンのIIL結成大会

ペナン島の印度人代表ラガバン氏

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 プ氏と私は三日間の予定をもってピナン(ペナン)に向かった。この地に詳しい鈴木氏が私達の自動車を操縦して案内に当った。われわれの本部は、この間にタイピンに躍進するように命じた。バタワースの対岸からながめたピナン(ペナン)は絵のように美しかった。六甲を背景とする祖国の神戸をしのばせるものがあった。・・・・
 海岸の豪壮なオリエンタルホテルが、日本軍軍政機関の臨時の本部に当てられていた。英軍のために危うく印度へ連行される運命を免れ、監獄から印度人やマレイ人に救出される幸運を拾った日本人たちでにぎわっていた。・・・・
 翌日午前プ氏の使いの案内を受けて、晴れのIIL結成大会場に臨んだ。広い会場は一万を越える印度人の大衆に埋められ、数流の印度国旗が浜風にはためいていた。プ氏と私はこの大衆の全視線に迎えられつつ正面の定めの席に導かれた。サリーという純白の印度服をまとった小柄な紳士が静かに進み出て、慇懃に握手の手を差し伸べた。大田黒氏の通訳を介して、この島の印度人代表ローヤル・ラガバン氏であることを知った。私は氏と対面のこの一瞬に、英知と慈愛と熱情を象徴する両眼、深い思慮と重厚な徳を示す、うるみを帯びた口調、謙虚な徳と清純沈静な風格を示す物腰など一見して氏は最高度の教養を身につけた衆望の紳士であることがうかがわれた。氏についで、ラガバン氏の縁者のメノン氏を紹介された。親しみ深い温厚な紳士であった。一同が席についてから、先ずプ氏が演壇に立って熱弁を振った。

 プ氏はIILの目的や運動の経緯を語ったのち、アロルスターやスンゲイバタニ―において、IILの下に保護されつつある印度兵捕虜や住民の幸福な状況を説明し、更に近き日にそれらの印度人有志をもって印度独立義勇軍を結成し、祖国の桎梏を断ち切らんとする烈々たる決意を強調した。満場の大衆は熱狂歓呼してこれに応えた。プ氏に次いで私は壇上に送られた。アロルスターの大会と同様の趣旨を強調したのち、将来印度独立義勇軍が祖国解放の遠征にのぼる時来たらば、日本軍もまた旗鼓相和して支援すべき抱負を述べた。
 最後にラバガン氏が起って、荘重なうるみのある声調をもって切々たる雄弁を試み満場の大衆を捉えた。特に日本軍が印度の解放に協力し、またIILを支援してマレイの印度人と印度兵捕虜を保護しつつある友情に対して、満腔の感謝を述べた。また祖国の解放と自由の獲得こそ、全印度人の念願であり、すべての印度人は祖国解放の闘いに殉ぜんとする愛国の熱情を蔵していることを強調し、IIL運動に対して全幅の支援と協力の用意を力説した。大会は大衆一致の共鳴を受けて終了した。大衆はこぞってIILに参加し、IILの運動と印度兵捕虜救恤のため、献金を申し出で、尊い献金が積まれた。
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2008年06月13日

山下将軍との面接

インド人のボース氏への敬慕

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はシンガポール攻防戦で英軍の無条件降伏時の山下将軍
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引用開始
 17日正午、私はF機関と、IILのメンバーと、モ大尉グループの印度人将校、下士官全員合同の会食を計画した。食事は印度兵の好む印度料理を希望し、印度兵諸君の手料理をモ大尉に依頼した。その準備で警察署の裏庭は朝からごった返した。・・・・私が単に親善の一助にもと思って何心なく催したこの計画は、印度人将校の間に驚くべき深刻な感激を呼んだ。モ大尉は起って「戦勝軍の要職にある日本軍参謀が、一昨日投降したばかりの敗戦軍の印度兵捕虜、それも下士官まで加えて、同じ食卓で印度料理の会食をするなどいうことは、英軍のなかではなにびとも夢想だにできないことであった。英軍の中では同じ部隊の戦友でありながら、英人将校が印度兵と食を共にしたことはなかった。印度人将校の熱意にも拘わらず、将校集会所で、時に印度料理を用いてほしいと願うわれわれの提案さえ容れられなかった。藤原少佐の、この敵味方、勝者敗者、民族の相違を超えた、温かい催しこそは、一昨日来われわれに示されつつある友愛の実践と共に、日本の印度に対する誠意の千万言にも優る実証である。印度兵一同の感激は表現の言葉もないほどである。今日の料理と設備は藤原少佐の折角の依頼にも拘わらずこんな状況下における突然の催しであったため、きわめて不十分な点を御寛容願いたいといったような趣旨のテーブルスピーチをやった。

 私は、ボース氏を思慕するモ大尉の念願に対して、率直にボース氏を今直ぐ東亜に迎えることは困難と思われるから、差当り東亜におけるIILのこの運動を発展させ、ヨーロッパにおけるボース氏の大事業と相呼応させて、印度の独立運動を世界的規模において、推進する着想をひれきした。モ大尉の念願を大本営を通じてボース氏に連絡すべきことをを約し、モ大尉始め印度の青年が奮起して第二、第三のボースとなることを激励した。
 五日間の会談ののち、モ大尉は祖国の解放運動に挺身する決意に近づきつつあるように見えた。しかし、日本の誠意を更に確認すること、祖国の同胞特に会議派の支持を得ること、同僚印度人全将兵の堅確なる同意を得ることなどについて、更に慎重なる研究、検討の必要を認めている様子であった。私も又革命軍を結成して、革命闘争に立ち上るというような重大な事柄を、一朝の思いつきや感動にかられて決心しても成功するものではないと思った。モ大尉を始め印度将兵が全員一致、不抜の信念を固め、自発的に展開するものでなければ、絶対に成功するものではないと信じ、私はモ大尉に急ぐことなく慎重に熟慮されんことを切望した。プ氏も私と同意見であった。
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2008年06月12日

モハンシン大尉

投降勧告

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 プ氏が数名のシーク人を伴って私の部屋に訪ねてきて,きわめて重要な情報をもたらした。プ氏の言によると、同行の印度人はこの近郊にゴム園を経営している裕福な識者で、かねがねプ氏と気脈を通じている者だということであった。もたらした情報というのは、一昨日のジットラー付近の戦闘で退路を失った英印軍の一大隊が密林沿いに退路を求めて昨日アロルスター東方三十哩のタニンコに脱出してきた。しかし既に将兵は疲労困憊かつ日本軍のアロルスター占領のことを知るに及んで退路を失い、士気喪失しつつある。その大隊は大隊長だけが英人中佐で、中隊長以下全員印度人である。その印度人は昨夜来、かわるがわるこの印度人のエステートに来て色々情報を集めたり、ラジオの戦況放送を聞いたりしている。園主がこの微妙な彼らの心理状態を看破して、真珠湾やマレイ沖航空戦の状況と、アロルスター方面英軍の敗走振りを誇張したり、IILの宣伝を試みたところ将兵の微妙な心理的反応を見てとり、帰順工作が成功するかも知れないとのことであった。・・・・

 この情報を日本軍司令部に報告することを禁じた。日本軍が掃蕩部隊を派遣することを恐れたからである。私はこの信念に徹底するために、明朝は土持大尉と大田黒通訳だけを同行し、しかも身に寸鉄をも帯びないこととした。・・・・
 エステートに着くと、私は車中の思案通り英人大隊長との会見を提案した。プ氏も園主も一寸意外の面持ちであった。しかし私は私達と印度人将校との直接交渉により、件の大隊印度人将兵と英人大隊長との間に誤解が生じて、不必要な悲創を起したり、あるいは大隊長がそのために態度が硬化する始末になることを懸念したからである。・・・・
 私は日本軍代表藤原少佐の名において、簡単に件の大隊が当面している絶望的状況ならびに誠意をもっての投降交渉に応ずる当方の用意を述べ、このエステートにおいて直ちに会見したい旨の信書を認めた。その手紙とともに、私は単独無武装であるが、大隊長は所要の護衛兵を帯同してもさしつかえないことを使者に付言させた。・・・
間もなく自動車で大隊長が現れた。一名の伝令を伴っているだけであった。私は一見既に交渉の成功を確信することができた。私は自動車のもとまで歩を運んで、大隊長を迎え握手の手を差しのべ名を名乗った。・・・
私は自ら大隊長を休憩所に案内して椅子を与え温かいコーヒーを勧めた。大隊長の安堵の色を認めてから、私はおもむろに来意を語った。・・・・
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2008年06月11日

覆面を脱いだIIL

飛行機上の美談

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 飛行機が断雲を縫うてチュンボン沖に差しかかったころ、プ氏は座席を立って私の座席に近寄った。松井機長の立派な人柄を賞賛したのち、泰貨幣500パーツを入れた封筒を示して、松井機長始め搭乗員一同に謝意の印として、さしあげたいと申出た。私はプ氏の折角の好意でもあるのでその旨を機長に告げた。ハンドルを操縦手に託して客室に入ってきた松井機長は、しばらく恐縮の面持で返事に窮した様子ののち、プ氏に次のように申出た。
「私は、祖国解放のために身を挺して戦場に向われる貴下達印度の志士をお送りできるのを無上の光栄と思っている。私の気持ちは、このまま貴下にお伴して行って、貴方の仕事に奉仕したいほどの気持ちであるが、それは不可能なことである。貴下から私に感謝の賜物をいただくことは重ね重ねの光栄と思いますので有難く頂戴する。
 そして改めて、私からこれを貴方に尊い運動の資金に献納して、私の気持ちの一端を表したいと思います。どうぞ受け取っていただきたい。私は、貴方の殉国的運動が成功を収め、印度の同胞が一日も早く輝かしい自由の日を迎えるようお祈りします」と述べた。プ氏の眼にも、機長の眼にも、立会っている私のまぶたにも、真珠のような清いものが光っていた。・・・・・

 日本軍の進撃は、疾風のごとく快調であることがわかった。
 私がこのような状況を承知し終わった頃、一将校が快ニュースをもたらした。日本海軍航空部隊がクワンタン沖で英極東艦隊主力艦プリンスオブウェルス、レパルスの二隻を捕捉轟沈させたというニュースであった。軍司令部の一角で万歳の叫びが上がった。・・・・
 土持大尉は、田代氏が住んでいた町はずれの粋な二階建ての住宅をIILの本部にすばやく準備し、F機関本部は大南公司の小さな店先に位置するように手配していた。土持大尉の案内で、私はIIL本部となる予定の家を見に出かけた。早くもこの町の印度人の数名が先着していた。プ氏も私も一見して満足した。
 大尉のこの心使いを私は何よりも嬉しいものに思った。プ氏も心から喜んでくれた。プ氏は直ちにバンコックから携行してきた印度の大国旗を二階のベランダに掲げた。国旗を掲げるプ氏の手は感動に打ち震えていた。薄桃色、緑、白の三色地にインドの悲願を象徴する紡車をおいた民族旗は、まぶしい茜色の落陽を浴びてはためいた。国旗に面して祈りを捧げるプ氏の塑像のような厳な姿は、この民族旗と落陽の光に荘厳に映え輝いた。仰ぐ私達は暫時己を忘れて感激に浸った。続いて大布に印度語と日本語で印されたIILの看板がベランダの手摺にはりひろげられた。これこそ、IILが覆面をかなぐり捨て、公然、決然祖国の自由と解放を求めんとする闘争の宣言であった。・・・・
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2008年06月10日

開戦決定の飛電

泰ピブン首相の失踪

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 12月4日の午後、武官室電報班の江里という青年(大川周明博士の塾出身)が一片の電文をわしづかみに息せき切って補佐官室に飛び込んできた。大本営からの飛電である。帝国政府はこの日の午前会議において、万死一生の決意すなわち英、米両国に対する開戦を決定したのである。ついに運命の大戦争は決意された。X日は12月8日の予定と。
 海南島に待機していたマレイ攻略軍の大船団は、この日、泊地を出航して直路南泰沖に向かうのである。
 泰、仏印国境には、近衛師団がスタートラインに勢ぞろいした競馬のように詰めかけている。・・・・
 マレイ攻略軍の船団は三日四晩も英軍の眼の光っている仏印沖を抜けて南支那海を泰湾に進航するのである。天祐か、奇蹟でもなければ、英軍の発見を免れることはできないであろう。バンコックの無線諜報は、マレイ沖からボルネオ沖にかけて英軍機の頻繁な哨戒行動を立証している。日本軍はこの奇蹟の成否に、緒戦の運命を賭けているのである。もし洋上に発見されたら、マレイ英空軍とシンガポールに不沈を誇る英極東艦隊必殺の攻撃を受けること必至である。もしそんなことが起きたらその結果は,想うだに慄然たるものがある。山下兵団の壊滅もあり得る。首そ両端を持する泰国の動向等は、この一事件だけでたちまち日本の敵になることは火を見るよりも明らかである。・・・・

 12月お6日、いよいよ日本軍の船団がサイゴン沖に差しかかる日である。英軍哨戒の危険区域に入るのだ。この日、サイゴンの軍司令部から連絡の将校がきて、七日午後を期して、泰国政府に日本軍進駐を要求する最後通牒を提出することを武官と打ち合わせた。そして、泰国がこの日本の要求を容認するか否か・・・いわば泰国が日本の味方であるか、敵国であるかを確認するために、12月8日の払暁、武官室の上空に飛ばせるわが飛行機に対して煙と布板の信号をするように打ち合わせて帰って行った。この夜もオリエンタルホテルで外人達の和やかな会食や舞踏が常日のように行われていた。明くれば12月7日である。・・・
 この朝、思わざる奇怪な変事が捲き起った。午前九時頃であったろうか、田村大佐と格別に親密な間柄といわれている泰国政府の閣僚ワニット氏が、突然血相を変えて武官室の宿舎に飛び込んできたのである。そして非常な興奮の面持で応対に出た田村大佐にろくろく挨拶もせず、いきなり「ピブン首相は泰仏印国境において、泰国外務省官吏に対し日本軍が加えた重大な暴行侮辱事件に憤怒し、昨夜来失踪してしまった。誰にも行方を告げずに。これは首相の貴官あて置き手紙である」とて一通の封書を手交してそうこうと風のごとく立去ってしまった。武官室の一同はこの報を聞いてしばらく茫然自失の態となった。・・・・
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2008年06月09日

F機関と開戦準備

絶望的となった日米交渉

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 11月28日朝、いつものように大使館に出かけて坪上大使と暫時面談してから、武官室に立ち廻った。補佐官室に入ると、徳永補佐官がつと立ち上がって私に目くばせしながら階下の応接室に誘った。・・・補佐官が声を潜めて私に漏らした内容は、私の予想とは別個の重大な内容であった。それは「日米交渉がいよいよ絶望状態に立ち至ったことと、開戦は12月上旬たるべきこと、田村武官の任務であり、私が補佐に任じているマレイ方面の工作は開戦と共にすべて南方軍総司令官寺内大将に引継がれ、更に同大将から第二十五軍司令官山下対象の区処下に工作を実施すること。私及び私のメンバーは南方軍総司令部に転属され、更に第二十五軍司令官のもとに派遣されてこれを担任することなどの予想であった。かねて予期していたところではあったが、現実にこのように最後の「断」のときが迫りつつあることを聞くと、名伏し難い興奮が全身を突っ走った。

 私は、即座に二つのことが思い浮んだ。その一つは、プ氏と早々活動の具体的方策を協議しなければならぬことであった。その二つは、開戦と同時にプ氏らIILメンバーと私達F機関のメンバーが如何にして南泰の戦機に間にあうように馳せ参ずるかということであった。私は、その場で徳永補佐官にダグラス一機の準備を要請して快諾を受けた。私はその夜、プ氏との会談を応急手配した。山口君が奔走して、三菱支店長の宿舎を借用するように交渉を遂げてくれた。新田支店長は心よく承諾してくれた。大田黒君がプ氏に本夜の会談を申し入れた。私の気のせいか、武官や補佐官の緊張が、自から武官室全体に反映して、この緊迫した空気と街を行く泰人や支那人の平和な気配とはそぐわない懸隔が感ぜられた。私達は今マレイ方面に対する活動を策しつつあるのだが、脚もとの泰の動向がどちらへ転ぶかわからないのだ。大使や武官の活動により、開戦にあたって泰国に日本軍の平和進駐を認めさせ得る見込みが次第に多くなったと見られていたが、複雑な泰国の政情にかんがみると、必ずしも信をおけるものではない。もし泰の動向が逆転でもしたら、日本人はことごとく拘留されるだろう。そうなると、私を始め私のメンバーは、ことごとくバンコックや南泰の監獄に押し込められて活動ができなくなる。私はそのことを予想すると気が気でなかった。
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2008年06月06日

F機関の理念と任務

日本民族の責務

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 われわれは毎夜のように深更までわれわれがいだくべき理念と任務達成の方策について語りあった。おたがいにこの時期が一番楽しかった。大東亜が戦場となった場合、日本の理想は、「アジアは一つなり」と叫んだ岡倉天心の遺訓に学び、相克対立を越えた共栄和楽の理想境をアジアに建設することにあらねばならない。そこに征服者の支配意識や勝者の驕りがあってはならない。
 大東亜各民族は、他民族のあらゆる支配と圧制から解放され、自由と平等の関係において、それぞれ各民族の政治的念願を成就し、文化の伝統を高揚して、東亜全体の福祉と向上とに寄与する一体観の平和境を造らねばならない。日本民族はその先達となる責務を負い、かつそれを実践しなければならない。各民族の信仰や風俗や習慣や生活はあくまで尊重しなければならない。われわれの主観的なものを強要するようなことは厳に慎まなければならない。われわれの運動はこの理想を指標として、私達の誠意と情熱と愛情とを、実践を通じて異民族に感得させ、その共鳴と共感を受けなければならない。

 英国やオランダの統治は一世紀内外にもわたっているし、巧妙な方策と豊富な物資を駆使して現地人を懐柔し縛っている。これに対して無経験なわれわれが、貧弱な陣容と不十分な準備とをもって、その鉄壁を破る方法はただ一つである。彼らの民族的念願を心から尊重し慕愛と誠心をもって臨み、その心を掴むよりほかはないのだ。至誠は天にも通ずるのだ。
 われわれの運動は、あくまでも日本のこの理念に共鳴する異民族同志の自主的運動を支援すね形において行わねばならない。少しでもわれわれの強制や干渉が加わったり、あるいは利用の観念や傀儡の印象を与えるようなことがあってはならない。術策を排し、誠実をもって任務に当たらねばならぬ。このわれわれの任務を達成するために最も重要なことは、マレイやスマトラや印度の各民族の同志が、それぞれ己の民族に対していだいている愛情と情熱と独立に対する犠牲的決意に劣らないものを、われわれがその民族に対して持たなければならない。・・・・
 作戦軍にこの趣旨の徹底を厳粛に要求しなければならない。われわれはこのような問題に関して、異民族と日本作戦軍との間に立って苦しい立場に立つことが多いことを予想されるが、勇気と信念をもってこの斡旋を完うしなければならない。更にいま一つ大切なことは、われわれのメンバーの融和と団結である。そして異民族の指導者や現地民が、自ら私達のメンバーの麗しい和合に感化されるように心がけねばならない。私は夜の会話にこのようなことを数々の例証を挙げて強調した。皆傾聴共鳴してくれた。
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2008年06月05日

F機関・深夜の密会

藤原氏とプリタムシン氏の密会

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はイッポーF機関本部でINA(インド国民軍)将兵とくつろぐ筆者
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引用開始
 時計は、約束の午後九時に十分前のところを指していた。物静かな路地の奥に目的の家があった。その家の軒先に一人の白布をまとった男が突立っていた。ぎょっとした二人が、素知らぬ素振りで行き過ぎようとした瞬間、件の男は、Yamashita と呼びとめた。われわれは彼がプ氏の案内人であることを知って安堵した。私は山下浩一と変名していた。初会の場で、プリタムシン氏にこの変名を名乗って置いたのである。
われわれは黙々として彼の後に従った。細い路地を入って漬物部屋のような異様な臭気のする納屋の二階に案内された。雑然とした物置の隅に、汚い小さな机と三脚の板張り椅子、縄張りの粗末な寝台が一つだけ備えてあった。そこには先日のプ氏が私を待っていた。待ち構えていたようにプ氏は例の合掌の挨拶ののち、私に握手の手を差し伸べた。プ氏は先ず「こんな汚いところに案内をして失礼を致します。しかし用心にはよい場所です。下に見張りを立ててありますから安心してお話し下さい。」と述べた。私は実のところ、あまりのむさ苦しさと異様な臭気とに閉口していたが、しいて「そんなご心配は無用です。こんな用心のよいところが見つかって何よりです」と答えて、彼の気苦労を解くことに努めた。・・・・・

 私は先ずプ氏からバンコックの印度人の情勢について次のようなことを聞いた。
バンコックにはIILの他に,泰印文化親善を標榜する印度人団体がある。この団体は比較的穏健な国民会議派系の思想団体であり、その中心人物はスワミイ(バンコック大学の教授)、ダース両氏である。この団体はドイツ大使館とも関係をもっているし、当地印度人の実業家の支援もあってIILに比しはるかに有力である。この団体は、シーク族を主体とするIILと反目的関係にあることなどであった。
この団体の指導者ダース氏は、サハイ氏らと共に日本において反英運動に関係していた人で、私は今年の春頃東京でサハイ氏と共に面接したことがある人である。私はダース氏の指導する文化団体とIILとの反目的関係は非常にデリケートな問題だと直感した。またこの反目の結果、IILの活動が暴露しやしないかと心配した。プ氏に両団体との提携の可能性を質したが、相入れない関係にあることが観察された。私は旧知であるダース氏の文化団体とは別個に接触したい魅力を感じないでもなかったが、このことはプ氏を初めIILメンバーによい感じを与えないことや、日本側とIILとの関係が暴露する恐れを感じたので、両者の提携は、いよいよ開戦と決ってから斡旋することがよいと思った。
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2008年06月03日

F機関IILと初の密会

IILプリタムシン氏との密会

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はイッポーF機関本部の庭で語り合う筆者とアグナム大尉、中央は大田黒通訳
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引用開始
 10月10日ごろ、私が理想と運命を盟約すべきIIL書記長プリタムシン氏との初の密会が実現した。武官の宿舎で正午から会うことになった。約束の時間に彼はサムローに身を託して武官の宿舎に着いた。私は彼と面会する武官の居屋で武官と共に恋人でも待つような興奮を抑えながら氏の入室を待っていた。ボーイに案内されて氏は静かに階段を上がってきた。私と武官は室の入口まで彼を出迎えた。たくましい体躯と相貌の志士を想像していた私は、痩躯長身、稍々神経質で病弱そうに見える、物静かで柔和なシーク族の青年を目の前にして、一瞬失望に似たものを覚えた。氏は日本人が神仏に祈りを捧げるときと同様、両掌を胸の前に合わせて、敬虔な祈りの挨拶をした。握手を予想していた私は又面くらった。室内に導いてから武官はプ氏に私をねんごろに紹介してくれた。彼はにこやかにさも久しい知己を見るようなまなざしを私に注ぎながら、「私がプリタムシンです。貴方のことは田村大佐から承って鶴首して今日の日を待っておりました。よろしくお願い致します」といいながら、私の手をしびれる程固く握りしめた。私は誠実と情熱と信頼とをこめた彼の挨拶に感動し、固い握手を返しつつ答えた。「私は貴方の崇高なる理想の実現に協力するため、私のすべてを捧げて協力する用意をもって参りました。それは至誠と情熱と情義と印度の自由が必ず実現されねばならないという信念であります。おたがいに誠心と信頼と情義をもって協力致しましょう」といった意味を述べた。田村大佐の通訳で私の言葉を聞き取った彼は、私のこの挨拶に非常に満足してくれたように見受けられた。

 次で相対坐した。私は真先に昨年の末に広東から送り届けた三人の同志の消息を尋ねた。彼はとみに感激の色を見せつつ「ああ、あの三人を送ってくださったのは貴方でしたか。同志は非常に日本参謀本部の友情を感激していました。厚くお礼申し上げます。彼らはそれぞれ計画どおりにマレイと印度とベルリンに潜行致しました。安心して下さい」と武官を顧みつつ感謝の意を表した。そして彼は「私と貴方が協力する立場になったのは、既にこのときから約束されていたのですね。われわれは既に古い同志なのでした」とうれしそうに語った。それから彼は初対面から打解けて、いろいろ彼らの政治運動に関する話を明らかにしてくれた。彼が1939年祖国における独立運動に伴う身辺の危険から脱して、シンガポールを経て、バンコックのアマールシン氏の許に身を寄せて、素志を継続しつつあることを語った。
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2008年06月02日

バンコック潜行

身分を秘してバンコック入り

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はF機関メンバー
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引用開始
 その日から身分を秘してバンコックに入る研究と手続きが始まった。私と山口中尉は参謀本部からの交渉で、バンコック日本大使館の嘱託ということになった。米村少尉はタイランドホテル(日本人経営)のボーイということに。土持大尉は大南公司の社員に、中宮中尉は日高洋行の社員に、滝村軍曹は武官室書記に手配された。石川君はのちほど追及することになり、私と山口中尉がまず29日の飛行機で先発することになった。
 9月20日、私は門松中佐の紹介で増渕佐平という一紳士に引き合わされた。もう60歳にも近く、見るからに温厚でいかにも円熟した紳士で、私には慈父を見る思いがした。・・・・
 私は当時33歳であった。その他の将校はいずれも25歳に満たない若い人達であった。・・・・
 大使館差廻しの自動車で、私はタイランドホテルに落ち着いた。日本人経営のホテルで、止宿人も日本人ばかりであった。言葉のできない私はほっとした。しかし反面、顔見知りの日本人にでも出くわしたら、身分がばれてしまうことを恐れて気が気でなかった。食道にも娯楽室にも出ずに、自室に引きこもることにした。翌早朝、自動車を呼んで私は武官の宿舎に急いだ。・・・・

 食後武官の居室に案内された。大佐は私の差出した参謀長の訓令を熟読したのち、おもむろに口を開いた。
君は私のもとでIILとの連絡、田代氏の担任している華僑工作と神本氏の担任しているハリマオ工作の指導を補佐してもらう。しかし諜報に関することは補佐官(飯野中佐――陸大同期生)が直接担任する.差当りはバンコックの雰囲気になれるように当地の情勢を観察することだ。近日IILのプリタムシン氏に引き合わせよう。また南泰にいる田代、神本両氏を招致して合わせるように手配しよう。
 想察に難くないことと思うがバンコックは英・米・支・独の諜報戦の焦点でもあるし、日本側からも色々の軍官民が入り込んで、政治工作に、情報に、資源獲得に必死の活動を展開している。
 泰国政府は列国の策動対してきわめて神経過敏になっている。その政府要人の中にも親英派があって、その動向は微妙そのものである。日本側の策動に対しても、厳しい偵諜の眼を光らせている。もし君の仕事がばれたら、この仕事自体が駄目になるばかりではない。日本の作戦準備が暴露するし、泰国の親日動向を逆転させてしまうなど、由々しい結果を招く恐れがある。防諜に特に注意しなければならない。
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2008年05月30日

IILとハリマオ

武官室の密談

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はビルマ軍司令部前で馬上の筆者
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引用開始
 バンコック日本武官室の二階の一室で田村大佐と門松中佐が対座して密談が続いていた。・・・・初めて体験するこのバンコックの熱気も忘れ、田村大佐の報告に全神経を集中し、その要旨をメモしながら時々反問する中佐の面には明らかに希望が輝き、武官に対する感謝の念が動いていた。一体中佐は田村武官からいかなる方策を拾いつつあるのであろうか。中佐は三つの新しい工作の端緒を発見し得たのである。・・・・
 その一つは、先に紹介したIILであった。その二つは「マレイのハリマオ」と称するものであった。それはマレイの東岸トレンガンに居住していた谷豊なるものの異名である。ハリマオというのはマレイ語「虎」という意味であった。彼の一家は明治の末からトレンガンに居住し、理髪業で糊口をしのいでいたが、日支事変の当初、この地に華僑の排日運動が激しかったころ、その襲撃を受けて妹静子(六歳)が拉致されて無惨に殺された。彼はそのころから素行が急変し、マレイ人の無頼の徒に加わって匪賊行動にはしるようになった。彼は大胆、変幻自在の巧妙な行動と、マレイ人の子分に対する義侠的態度によって彼らの頭目となり、三千人に上る部下をもっている。目下英官憲に追われて南泰に潜伏しているが、ここでも地方泰人の信望を集めている。・・・

 マレイに対する諜報に価値があるだけでなく、有事の日にはマレイ人に対する宣伝、英軍に対する謀略に大きな役割を果し得るだろうというのであった。その三つは先に門松中佐が東京から南泰に派遣していた田代重遠氏(佐賀県出身、実名は岩田氏、中学卒業と共に図南の志に燃えて、南方に進出し、シンガポールに長年居住し華僑事情に明るく、また知己が多いという話であった)を通じ、シンガポールの華僑特に埠頭苦力を反英運動に決起し得る見込みがあるということであった。スマトラ・ジャワに対する有効な手がかりは全くなかった。中佐は田村大佐に、この工作のため速急に適当な将校と必要な経費を手配する約束をして東京に帰ってきた。・・・・
 九月十日(1941年)の午後、門松中佐は私を自分の席に呼び寄せていつになく改まった重い口調で、思いもよらない事を宣告した。いわく「貴官には近日バンコックに行ってもらわねばならぬ。その仕事は田村大佐を補佐してマレイ方面に対する工作の準備に当ってもらうことになる。もしこの情勢が悪化して日英戦争が始まるようなことになれば、貴官は近く編成される南方総軍参謀に補佐せられたうえ、もっぱらマレイ方面の工作を担任することとなる予定である。数名の将校をつける予定だ」と。そして彼がバンコックで田村大佐から得た情報の内容をかいつまんで説明してくれた。
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2008年05月29日

印度秘密結社IIL

インド人三志士の密航と秘密結社IILの登場

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真は著者近影(左)とF機関当時の著者(右)
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引用開始
 1940年12月、筑波おろしの烈しいある日の朝、東京三宅坂にある日本大本営陸軍部第八課の門松中佐の机上に異様な一通の親展電報が配布されていた。発信者は広東にある日本軍(第二十一軍・・・波集団)参謀長であった。あて名は参謀次長であった。その内容は香港から脱出してきた三名の印度人が、広東の日本軍司令部にたどり着いて、次のような申出をしたというのである。それは「自分達は反英策動のかどで香港の刑務所に抑留されていたが脱走してきた者である。その目的は三名がそれぞれ印度本国、ベルリンおよびマレイに潜行し、同志と連絡して反英独立運動を遂行したい。それがために、日本軍保護のもとに、なし得ればバンコックに、やむを得なければ仏印に送ってもらいたい。自分達はその後は陸路歩行をもって目的地に行く」というのである。

 なお、この電報の末尾には印度人の氏名が記載されてはいなかったが、「シーク族」で、熱烈な反英独立運動の志士であること確実なる旨が付記されてあった。・・・・
 返電の内容は「広東の日本軍において素性を更に確かめたうえ、できるだけの好意をもってその希望をいれてやるよう」に指令されてあった。この電報と入れかわりに、更に広東の日本軍から「件の印度人三名を、神戸に向かう汽船に便乗し出発させたから、参謀本部の方でしかるべく処置されたき」旨の電報が入った。
 そこで門松中佐はこの三名を安全に、バンコックに密航させる処置を、藤原少佐(当時大尉)―私に命じた。小岩井大尉がその補佐を命ぜられた。私はこの三名の印度人につき、日本大本営は何ら特別の要求、もしくは期待をしないということを確かめた上、バンコック行きの船便を探索した。また、バンコックの田村武官に、バンコック港到着時、無事に密かに上陸できるように手配方を打電依頼した。
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2008年05月28日

藤原岩市著・F機関

先ずは序文から

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
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引用開始
 私は、陸軍少佐に昇進した直後の、昭和十六年九月、若冠三十三歳の凡根の身に、参謀総長松山元大将の特命を拝し、大東亜戦争勃発に備えるため、東南亜のマレイ・北スマトラ民族工作の任を帯び、バンコックに派遣された。この工作をマレイ工作と呼称された。与えられた部下は若い尉官五名・下士官一名。軍属五名の貧弱な陣容であった。もっとも私が、現地で志願を申し出た邦人を然るべく加えて、漸く三十名に増勢した。
 私共は、開戦直前、南方軍司令部に所属換えされた上、マレイ、シンガポール作戦を担当する第二十五軍に派遣され、山下泰文軍司令官の区拠下に、同域各種民族工作に当ることとなった。同軍の作戦に寄与するためであった。しかし緒戦からの僥倖的成果を買われて、ビルマと北スマトラにも工作を拡大する任を追加され、工作担任域は東南亜の大部に拡がった。私は更に印度本土への伸長を画策した。

 私はインド独立連盟書記長の助言を得て、私の機関をF機関と命名した。フリーダム、フレンドシップと、藤原の頭文字を採ったものである。これは私が信念する日本思想戦の真骨頂は、建国の皇謨八紘為宇の大理想に基き、白人のアジア隷属支配を断わって「アジア人のアジア」「大東亜の共栄圏」を建設して「アジア人の心を一つに結ぶ」心願を表明するものであった。私は機関の信条を、陛下の大御心――四海同胞一如の御軫念を奉じ、敵味方を超越する至誠、信念、情義、情熱のヒューマニズムに徹し、道義の戦いを捨身窮行することを部下と誓い合った。
 私は日本軍の作戦を利する近視眼的謀略工作を戒めた。皇道に謀略なし、誠心あるのみを部下に強調した。インドを初め、東南亜諸民族の民族的悲願に発する彼等の自主自発的決起を促し、苟も日本側の恣意を強制することを厳に戒めた。かくてこそ、わが作戦に、占領地施策に真に寄与する成果を期待し得、大東亜戦争の大義名分に添い得ると確信したからである。
 私のこの使命遂行には、数々の困難と苦渋を伴ったが、反面幾多の神の恩寵と僥倖に恵まれて予期せぬ成功を収め、Fの名は東南亜戦域を風靡するまでになった。この成功には作戦軍の精強と厳正な軍紀に裏打ちされたところが大きかった。
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2007年04月19日

グラント将軍の助言

岩倉具視や閣僚との会談と助言

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から、帰国を前に岩倉具視や日本の閣僚との会談中のグラント将軍の助言を引用してみます。
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引用開始
 日本におけるわれわれの最後の日々は、個人的かつ公の性格を帯びた出来事で満ちあふれていた。個人的という言葉を用いるのは、新聞にも出ず、まして世間にも知られなかった出来事について語るためである。
 閣僚がひっきりなしにグラント将軍を訪れた。岩倉氏はよく訪れた方だが、公務について、特に話をするためであった。
 琉球問題について話し合われた時、グラント将軍は日清両国の協調促進のために精いっぱい努力した。これらの会談の成果について語れるのは歴史だけだが、一言言い添えておくと、グラント将軍が岩倉氏や閣僚と会談したさいに述べた助言は、きちんと文章化され、恭親王や李鴻章に伝えられた。
 琉球問題に関しては日清両国からそれぞれの言い分を聴けば、清国においてこの国の言い分だけを聴いた時よりも正確に話ができる、とグラント将軍は考えた。

 まだ他にもいくつかの問題が持ち上がっていた。それは日本の産業や農業と係わりのある問題である。グラント将軍は、広大な未開墾の肥沃な土地に日本の友人たちの注意を向けさせ、全土を開発する気にさえなれば、国の富と収入がどれほど増大するか、を指摘した。
 話はそこから、国民にとって大きな重荷となっている、政府としても税収入をあげるためにはやむをえない、地租に移っていった。もし政府が、ドイツやフランスのように地租を取り立てずに収入関税を徴収できれば、地租を下げることができるのである。

 話はさらにそこから、日本の政治の中で多年の懸案となっていた条約改正へと向っていった。
 条約改正の問題は、岩倉氏が使節となって何年か前に条約国に赴いたときから、一向に進展していない。将軍は、条約問題では常に同じ意見を述べてきた。イギリスが東洋においてとっている政策のうちでおかしな一面は、関税を各植民地の裁量に任せているのに、自由貿易と保護貿易を行う段になると、日清両国はイギリスの貿易に役立つように、税や関税を決めねばならぬと主張する。言い換えれば、日本は独立国であるにもかかわらず、脅迫されているのであり、カナダやオーストラリアなら決してそのような恫喝に屈することはあるまい。
 条約が存続する間は異常な状態がつづくであろうし、イギリスは条約に認められている最高の権利を放棄するそぶりを見せてはいない。グラント将軍が与えた忠告は次のようなものであった。
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2007年04月18日

天皇とグラントの対話2

外債、外交についてのグラント将軍の意見

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から。明治天皇から希望されたグラント将軍との長時間の対話について、今度はおよその内容を引用してみます。
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引用開始
 日米間で取り決めた条約[吉田・エバーツ条約]によって、日本もどうやら独力で外国貿易を行える権利をもったが、その条約に満足の意を表したことから、話題はアジアにおける外交政策に転じた。グラント将軍は次のように語った。

「ヨーロッパの発展とアジアにおける外国の影響を研究することほど興味をひいたものはありません。インド滞在中に、イギリスがこの国をどうしたかがわかりました。イギリスによる支配が結局はインド人のためになっているように思います。イギリスがインドから手を引くと、インドは無秩序になります。インドの統治法を見ると、遺憾に思われる点もありますが、ほとほと感心させられる度合の方が多いのです。
 しかし、インドを発ってからというもの、ヨーロッパの列強がアジアの国々を堕落させようとしているのを見て、何度もはらわたが煮え返るような思いがいたしました。
 そんな政策がまかり通るようであってはなりません。どうもアジアの国々を独立させないようにするのが彼らの狙いであったようです。この件は私に痛切にこたえたし、国の友人に宛てた手紙の中でも強調しておきました。
 日本や清国についても同じようなことがいえるように思います。故国においては、独立と国民的生存にとって不可欠なものとみられ、またヨーロッパのどんな小国であっても断じて放棄することのない権利が、日本や清国で認められていないのには驚くほかありません。
 いろいろな権利の中でも、関税権ほど重要なものはありません。一国家の運命はしばしば貿易に左右されることがあり、国は貿易によって生じる利益をすべて受ける資格があります。ことに日本は貿易を監理できさえすれば、大きな重荷となっていた地租を免除できるように思えます。
 重税を課しますと国民は貧困に陥り、農業の発展が阻害されます。収穫の半分を租税として収めねばならぬとしたら、農夫はたぶん生活できる分しか作らないでしょう。もし地租を軽減できれば、きっと日本の農業は盛んになるでしょうし、そうなれば国民の生活は豊かになり、購買と消費が伸びますから、結局は貿易にとっても良いのです。
 イギリスやフランスやアメリカの貿易と同じように、日本の貿易も国家の歳入の一部を形成しているのであれば、地租を軽減することができるように思えます。
 わが国の政府が貴国と条約を結んだことをうれしく思います。他の国々もこの条約に賛意を示してほしいと思います。しかし、いずれにしても、私はアメリカ国民についてよく知っているつもりですが、彼らは党派を問わず日本の独立を心から願っております。わが国民は太平洋に大きな関心を寄せておりますが、アジアの国々の独立と合致しないものは何一つ持ってはおりません。」
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2007年04月17日

天皇とグラントの対話1

民選議会設立についてのグラント将軍の意見

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から、八月十日に明治天皇が将軍と非公式に会談された内容を対話式に見てみましょう。
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引用開始
[陛下]
 私はもっと早く卿とお会いしたかったのですが、政務多忙で本日やっとお会いできる機会を得、お元気そうにお見受けして喜んでおります。

[グラント]
 この国に参りましてから二ヶ月にならんとしております。陛下の政府ならびに貴国民から温かく迎えられ、またどこへ行きましても大変ご親切にしていただきましたから、思いのほか早く時がたってしまいました。来週の火曜日には箱根の温泉に行き、十九日か二十日に帰京することになっております。本月の二十七日に、一行と共に「東京」号に乗りサンフランシスコに向けて出航いたします。もう少し滞在したいところですが、残念ながら船に乗らねばなりません。

[陛下]
 できればもう少し滞在されますことを希望しますが、どうしてもその船で帰国されなければならないと言うことであれば、しかたがありません。今般卿にはわが国の実況を親しくご覧になりましたので、もしわが国のことについてご意見などもありましたら、お教えいただきたく思っています。

[グラント]
 陛下からこのようなお言葉をお聞きいたし大変うれしく思います。もとより最善の国策について論じる場合、その国の人びとこそいちばん適任ではありますが、思いついた意見を陛下に喜んでお話いたしたいと思います。
 長崎に着きましてから、この国の農業面と国民の進歩の状態などに大きな関心と注意を向けた結果、前よりもはるかにはっきり国情と国民についてわかるようになりました。
 私は久しく日本とこの国の発展に大きな関心を寄せてまいりましたが、どちらかといえば関心と同情はここに至ってさらに大きくなりました。今はっきり自分の意見を述べることができます。陛下の国民を別にすれば、私ほど日本の繁栄を心から願っている者はおりません。しかし、この点についていえば、私は大抵のアメリカ人の気持を正しく代弁しているのです。
 シンガポールよりこちら側では、アジア人と欧米人とを同等視して論じることができる、あるいは論じようとする新聞・雑誌がほとんど無いことを知りました。ただ『東京タイムズ』と『ジャパン・メール』の両紙だけが、東洋諸国にも尊重されねばならぬ権利があるかのように論じております。
 ほんのわずかな人を除くと、西洋諸国の官吏はみな、アジアの国々の権利を無視しております。私利私欲がどうであれ、彼らは清国や日本の権利を顧慮せずに権利を主張するのです。時には不公平や利己主義を目の当たりに見ますと腸(はらわた)が煮え繰り返ります。

[陛下]
私は深く卿の誠意を嬉しく思います。
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2007年04月16日

天皇とグラント初会見

グラント将軍と明治天皇の会見

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から。明治天皇との会見そして浜離宮滞在の模様を引用してみます。
画像は明治天皇皇后との初会見の模様
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引用開始
 金モールの付いた制服を着た侍従が静かに部屋に入って来て、合図をすると、先に立って案内した。グラント将軍夫妻は、ビンガム将軍と残りの一行に付き添われて、部屋に入った。・・・・・
 われわれは短い廊下を歩いて行き、もう一つの部屋に入ったが、その部屋のいちばん奥に天皇と皇后が立っていた。両陛下のそばには、身をかがめるようにして女官が二人いた。まだほかに皇女が二名立っていた。・・・・
 天皇のそばにいる皇后は、よい素材の地味な和服を着ていた。彼女は真白な顔をし、ほっそりとした体はまるで子供の体のようであった。髪型は地味であり、髪は金の矢で飾られていた。天皇・皇后両陛下は感じのよい顔をしていた。天皇の顔だけは確固たる信念とやさしさを表していた。・・・

 天皇が侍従の一人である、石橋氏に合図をしたところ、彼は静々と前に進み出た。・・・・陛下が話を終えると、石橋氏はグラント将軍の方に歩み寄り、陛下より歓迎の辞を読み上げるよう命じられた旨を伝えた。

 閣下の名は、わが国に知られて久しく、私どもはあなたにお目にかかれたことをとてもうれしく思います。合衆国大統領の要職にある間に、閣下はわが国民に格別の親切と好意を示して下さいました。特命大使の岩倉が貴国を訪ねた折、親切なもてなしを受けました。閣下から受けたご親切は、常に私どもの記憶に新しいところであります。世界を漫遊中、お立寄りいただき、国民一同、閣下をお迎えできたことを喜ばしく思っております。わが国に滞在なさっている間に楽しいことにたくさん出会えることでしょう。
 閣下をお迎えできたことを心から喜んでおります。アメリカの独立記念日に当る日に歓迎できたことは何よりもうれしく思います。また独立記念日に対して祝辞を申し述べます。
 英文による歓迎の辞が読み上げられた。それがすむと、今度はグラント将軍のあいさつがあった。
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2007年04月15日

グラント将軍横浜上陸

横浜でのグラント将軍歓迎風景と東京到着

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から。当時の横浜港の様子をご想像下さい。
画像は横浜での歓迎風景
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引用開始
 七月三日(1879,明治十二年)に行われたグラント将軍の横浜上陸は、お祭り騒ぎにすぎなかったけれど、一大盛儀であった。横浜には美しい港があり、緑を背景とした町並みがいくつも続いている。・・・・港には各国の軍艦が停泊していた。グラント将軍が到着する正確な時刻がわかっていたので、誰もが注意していた。十時に日本の護衛艦が先頭に立って入港した。十時半にはアシュエロット号を従えたリッチモンド号が、ゆっくりと港に入ってきた。・・・・

 三十分ばかりの間、港に砲声がとどろき、砲煙がもうもうと立ちこめた。リッチモンド号は日本の国旗に対して礼砲を放った。これに続いて日本・フランス・ロシアの軍艦もつぎつぎに礼砲を放った。次いで公式訪問が行われた。――パターソン提督と幕僚、他の艦隊に属する提督と指揮官、総領事のヴァン・ビューレン、きらびやかな制服を着た日本海軍の士官たちが艦を訪れた。
 リッチモンド号の士官たちは正装していた。一時間ほどの間、旗艦の甲板は燃えるような色彩と装飾の洪水であった。グラント将軍は高官たちがやって来ると、彼らを甲板の上で迎えた。グラント将軍の上陸は正午きっかりに行われるようにあらかじめ取り決めてあった。

 歓迎会はいわゆる居留地で開いてほしい、といった希望を在留外人たちは持ってはいたが、日本政府は自国の領内で開くことにした。正午に皇室用の座艇とランチがやって来て、リッチモンド号の舷側に横づけになった。グラント将軍は、夫人、子息、伊達候、ジャッジ・ビンガム、吉田氏、ならびに随行をするよう特別に派遣された海軍士官らを従えて、舷側より座艇に乗り移った。グラント将軍が座艇に足を踏み入れるとすぐに、リッチモンド号は登舷礼を行い、礼砲を放った。すると不思議にも、日本・フランス・ロシアの艦艇もたちどころに登舷礼を行い、礼砲を放った。ドイツの船は帝国旗を掲げ、イギリス船は艦飾りを施した。大砲のとどろきと旗が揺らぐ中を、グラント将軍を乗せた船はゆっくりと岸の方に向かって進んで行った。
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2007年04月14日

グラント将軍横浜へ

グラント将軍清水から静岡、横浜へ

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から。
画像は当時の横浜港風景
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引用開始
 清水湾は外国に開放されていない。われわれがここにいるのは、天皇の賓客であるからである。条約の中には特定の貿易港が明記されており、悪天候のときに避難する場合を除くと、それ以外の港には入港できないのである。もし列強が銃剣の先で押し付けたきびしい条件のいくつかを軽減さえすれば、日本人は国内のどんな港でも喜んで開いてくれるであろう。・・・・
 ともかくわれわれは閉鎖されている港に特別に入港できる光栄を持ったことになる。なぜかといえば、外国人がまだ足を踏み入れたこともない日本を見学できたからである。

 軍艦が入港したことは大事件であったのであろう、町中の男女や子供たちまでがたちまち船・荷船・帆船などに乗ってわれわれを見物しにやって来た。べナム艦長は、一度に五十名を甲板に上げ、艦内を見学させてもよい、といった命令を出した。・・・・年老いた男女、子供を背中におぶったり胸元からつりさげている母親、着物を着たあるいはまとわぬ猟師たち、要するにあらゆる階層の人間が見物しに続々と舷側にやって来て、燃えるように輝いている大砲に驚きの目を向けた。

 県令[大迫貞清]の肝煎りでわれわれは首都に招かれた。そこは沿岸から六マイルほどの距離にある内陸の古い町である。われわれは上陸し、ほんのしばらく猟師たちがとらえた獲物を見ていた。・・・・また茶屋を訪れ、茶のさまざまの製造工程を見学した。・・・・・
 そして午前十時頃になってようやく静岡に向って出発したが、人力車の長い行列が続いた。町中の人間が表に出て見物し、どの家にも日本の国旗が翻っていた。学校は休みとなり、先生を列の先頭にすえて整列した生徒たちは、われわれが通り過ぎて行くと深々とおじぎをした。

 道の状態はかなりよかった。ニューヨーク郊外でみた道よりかはずっと良かったといってよい。人力車はかなりのスピードで走った。町の外に出ると、木陰の下を通り、水をたたえた一帯の水田と茶畑のそばを通り過ぎて行った。小ざっぱりとした制服を着た、警棒を持った警官が、要所要所に配置され、警戒に当っていた。しかし、笑みを浮かべしあわせそうな、友好的な日本では、警官はまるで場違いのように思われた。群集の誰もが上機嫌であった。われわれがやって来るといったうわさの方が、われわれよりも先に着いたようである。なぜかというと、笑みとおじぎでグラント将軍を歓迎しようという群集が、沿道に待ちかまえていたからである。
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2007年04月13日

グラント将軍長崎来航

グラント将軍の演説

 アメリカ南北戦争で勇名をはせ、戦後は大統領を二期つとめたユリシーズ・シンプソン・グラント将軍(1822〜85)は、1879年6月に長崎に来航、国賓として約二ヶ月半日本に滞在しました。
この本は随行した書記のJ・R・ヤングの著です。
「グラント将軍日本訪問記」から。
画像は当時の長崎
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引用開始
1879(明治十二年)6月21日
・・・・リッチモンド号は丘陵の間を汽走し、やがて錨を下ろした。まだ早朝のことであった。冷たい魅惑的な緑が水面に影をおとしていた。丘陵の斜面にある長崎は、居心地がよいうえに美しく思われた。そして日本の町を見るのはこれが初めてのことでもあったので、われわれ望遠鏡でよくよく眺め、あらゆる特徴を研究したのである。風景とか絵のように美しい長崎の町の特質とか。
 頂上まで連なるひな段のような丘陵とか、いま耕作中の土地とか一風変わった珍しい家やおびただしい数の旗などを。――この旗によって、われわれがやって来ることを市民がすでに知っており、歓迎の準備をしていることがわかった。波止場には大勢の群集が整列し、また手すきの市民はふつうアメリカの帝として知られている国賓を一目見ようと待っているのにわれわれは気づいた。

 やがてリッチモンド号は日本の旗を掲げると、日本に敬意を表すために二十一発の礼砲を放った。砲台もこれに答え礼砲を発射した。今度は日本の軍艦や砲台からアメリカの国旗がするすると掲げられ、グラント将軍に敬意を表して二十一発の礼砲が放たれた。
 駐箚アメリカ領事のW・P・マンガム夫妻が艦にやって来た。まもなく目もあやな大礼服をまとった伊達候[伊達宗城]と吉田氏[吉田清成]と県令[内海忠勝]らを乗せた座艇がやってくるのが見えた。これらの高官は十分な敬意をもって遇され、艦長室に案内された。伊達候は、天皇の代理としてグラント将軍を出迎え、歓待いたすよう、また将軍が日本にご滞在中は、天皇の名代としてお世話するように、といった勅令を受けたと語った。この言葉がどれほどの意味を持つものであるかは、伊達候が最も身分が高い華族の一人であることによってもわかるのである。・・・・・・

 吉田氏は駐米公使としてよく知られており、利口なりっぱな人物である。彼はこの国の新興政治家の一人なのである。グラント将軍の大統領時代に吉田氏は駐米公使としての信任を得、将軍の知遇をうけていたので、日本政府は彼を帰国させ、接待に当たらせることにしたのである。・・・・・・
 二十三日の夜に長崎県庁で盛大な晩餐会が催されたが、そのおり、グラント将軍のスピーチがあった。グラント将軍の演説は東洋の諸国でいろいろと論議を呼んだようなので、ここに全文を掲げる。・・・・・
グラント将軍は立ち上がり、次のように述べた。
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