2008年07月29日

祖国への帰還

いつもご覧頂いて有難うございます。夏季の間、更新をお休みさせて頂きます。また再開後もよろしくお願いします。

釈放そして祖国への帰還とモハンシン将軍の回想

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの最終抜粋です。
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引用開始
 五月初め、私は、釈放されて娑婆の空を仰いだ。その空気はほんとうに甘かった。五月二十六日、私はチャンギ―下番者二百名の輸送指揮官を承って、帰国の船路についた。全く冥土から、現世に奇跡の「回れ右」をする思いであった。六月二日、又見る日を思いあきらめていた祖国の佐世保に上陸した。リュック一個を背負って。でもその中には、シンガポールのIIL代表ゴーホー氏夫人が贈ってくれた時計とチョコレートと、煙草罐一杯のライターの石が忍ばせてあった。佐世保の街を通して見る祖国は、正視に堪えない惨めな姿ではあったが、矢張り、限りなく懐かしく、いとほしかった。慈母の懐のように。

 嗚呼! 私は生きて祖国の大地に両脚を踏まえることができた。しかも、あれ程の工作に部下の一人の戦犯犠牲者も出さずに。思えば、それもこれも、Fメンバー諸君や何十万現住民や俘虜の、INA将兵の功徳のお陰である。私は、生涯これを忘れてはならないのである。凡根を戒めつつ、報恩に心がけねばならぬと思う。

四十年前の私の回想・INA将軍モハンシン

・・・・ 最初に私が彼と会った時、彼の顔面は大きな希望で輝いていた。だが、最後に会った時の彼は、苛酷なまでの幻滅と悲哀、そして落胆にさいなまれた形相で、顔は止めどなくほとばしる涙で覆われていた。傑出した人物との出会いで、最初と最後の印象は、我々人生の中で忘れ難い重要なものである。私にとってこれらの印象は特に重要なもので、私の心の目にはいつも生き生きと残っている。・・・最初の印象は非常な楽しみと、うれしい驚き、最後の印象は強烈な悲壮と、いじらしい光景であった。・・・・・
 当時の我々は三十を僅かに過ぎた若輩で、横溢する愛国の熱意と冒険心をかかえ、光輝ある大戦のためには生死をかえりみず凡ゆる危険を冒す用意があった。我々両人の意気は、愛国の信念と計画、希望と計画、それに歴史的冒険の夢ではち切れんばかりに満ちていた。・・・・

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posted by 小楠 at 06:55| Comment(17) | TrackBack(5) | 書棚の中の人物

2008年07月25日

グローリアス・サクセス

英局長との会話

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。
写真はチャンドラ・ボース氏の軍刀を返還する筆者、左はボース氏の実兄S・Kボース氏
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引用開始
 十一月の初め、私は、厳重に手錠と捕縄をかけられた上、一個分隊のグルカ兵に物々しく警備されて、クアラルンプールの刑務所に転送された。施錠の手に、毛布に包んだ身の回りの品を持たされ、駅の待合室の土間に、しゃがませられ、現住民旅客の眼に晒し者にされた時の口惜しさは、得も云われぬものであった。
 この刑務所には、八百名の現地人囚人の中に、七十一名余りの日本軍戦犯容疑者が収容されていた。既に死刑の判決を受けた二名の獄友も含めて。憲兵と刑務所関係の司政官が主であった。チャンギ―と異なって、取り調べが終わり、容疑の晴れた者は、苦役を課せられたが、大部屋に収容せられ、食事の量は豊富であった。刑務所外の苦役(官舎の薪割り、椰子の実のガラ拾い等)は、娑婆に飢えている私達には、却って楽しかった。その上、留守のボーイやコックの同情から、白いパンや煙草にありつけることも、一同の人気を買った。自由を失った者には、こんなささやかな自由でも、その有難さが心に沁みるのである。自由に浸っている者には、自由の有難さ否自由を満喫していることさえも意識出来ないのではあるまいか。・・・・

 平穏な日々が続いて、年も改まり、三月を迎えた。帰国の好運を夢見ることが多くなった時、突然訊問の呼び出しがかかった。・・・・
 禿頭大柄の局長は、五十の坂を越していると見えた。意外に柔和な態度と口調で、マレイの探偵局長であることを告げた後、F機関の工作経緯について、三日間にわたって訊ねたいから、素直に答えてくれと前置きした。
 バンコック以来の工作経過、印度工作、サルタン工作、スマトラ工作、マレイ青年連盟工作、ハリマオ工作、華僑工作について克明な訊問が続いた。訊問の内容、態度から、戦犯容疑の追及が目的でないように察せられた。F工作が成功した原因、事由を掘り下げようとするもののようであった。現地人関係者やINA、IIL首脳との接触経緯や彼等の発言内容、彼等に対する私の人物評等を重視した訊問が多かった。マレイ探偵局或いは総督の植民政策の反省と今後の施策参考資料を狙っていると思われた。かく察した私は、和やかに、誠意をもって素直に応答した。
 最後の日、訊問が終わった後、思い入れる口調で「貴官の工作は、真にグローリアス・サクセスであった。敬意を表する。1942年の初めから、英当局は、貴官の工作を重視して、デリーに大規模の対抗機関を特設して、情報収集と対抗施策に活動した。・・・・・
 そしてややきびしい口調で、「貴官の詳細な応答は多とするが、なんとしても納得しかねる疑点がある。・・・・

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posted by 小楠 at 07:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物

2008年07月24日

チャンギ―刑務所

復讐の鬼ワイルド大佐

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。

引用開始
 シンガポール島の東岸に、施設されているこの刑務所ほど、騎士道と武士道を誇る東西両文明国民が、怨讐をむき出しに応酬した場はないであろう。・・・・
 凶悪犯人を護送する物々しさで、私が、この獄門を潜らされた時、三千名を越すわが将兵や軍属が、ABC数個のブロックに区分されて収監されていた。私は洗いざらしの、半そで、半パンツの獄衣、裸足の惨めな姿に変えられた。獄衣の背番号はPCW(戦犯容疑者)六千代であった。
 刑務所の有様は、さながら地獄の涯、賽の河原を思わせるものであった。畜生を扱うに等しい警備兵の仕打ち、飢餓ぎりぎりの乏しい粗食、陰険苛烈な訊問、神の裁きを詐称する前時代的な復讐裁判、獄の一角で次々と執行される絞首刑等、陰惨を極めた。将兵は骨皮同然に痩せさらばえ、渋紙のように陽焼けし憔悴していた。明日をも計り難い己の運命、くずれ去ったわが陸海軍、破れ果てた焦土の祖国、安否の程も知り難い肉親を思って懊悩していた。

 私は幸に、承詔必勤、一億総ざんげ、石をかじり、木の根を喰んでも、占領下の苦痛に堪え抜いて、国土の再建を期していた終戦直後の祖国と同胞を知っていた。(その後、あさましく変貌したが)そして、四億民衆を挙る印度のすさまじい独立抗争やINA将士の剛毅な闘魂を、レッドフォートで見聞してきた。その上、印度を初め東南亜諸民族独立必至の機運と彼等の日本に対する感謝と理解と親近の情を皮膚に感得してきた。・・・・
 私は一年有余を、この刑務所とクアラルンプールの刑務所に過ごした。この間、三百名に近い先輩や僚友が、獄門に下り、絞首台に上った。・・・
 読者は、山下、パーシバル両将軍降伏談判の寧真を見て頂きたい。そのパーシバル将軍につき添って、通訳を努めている白ルの青年参謀が、ワイルド少佐―終戦時大佐に昇任―である。
 大佐は、戦前日本に駐在した経歴がある武官で、日本語を解する俊秀である。降服とともに俘虜の身となり、戦友英豪兵とともに、日本軍に駆り立てられて、映画「戦場に架ける橋」で有名な泰緬鉄道の工事に駆使せられ、日本軍に対して骨髄に徹する恨みを抱いた一人であった。その大佐が、この地区の日本軍に対する戦犯追及の立役者になっていたのである。・・・・

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posted by 小楠 at 07:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物

2008年07月22日

印度独立前夜

英印度海軍乗組員の一斉反乱

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。
写真はNHK特別番組「進めデリーへ」よりINA将校を裁く英軍事法廷シーン。この裁判を契機に印度の独立運動は一気に燃え上がった。
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引用開始
 英本国政府は、事態のいよいよ重大な発展を憂慮し、リチャード氏を団長とする下院議員団を印度に派遣して、英帝国の進退に資する現地調査に当たらせた。
 しかし英帝国の面目上、この軍事裁判を直ちに中止することはむつかしかった。単に面目だけでなく、中止は却って勝に乗ずる印度民衆の政治要求を激化する懸念もあった。印度側の目的は独立であって、INA裁判の中止はその闘争戦略だからである。英当局のINA裁判の取扱はいよいよ厄介千万な難題となった。
 オーヒンレック総司令官は、改めて声明を出した。「INA将兵の英皇帝に対する反逆は以後問責しない。拷問、殺人の非人道行為のみについて問責する。その数は少数に止まる」と。これをもって印度民衆の反抗を静め、軍事裁判を、英帝国の面目を最小限つくろいながら、早く打ち切りたいと意図したものと思われた。しかしその期待は、またまた甘かった。英帝国は、更に痛烈な反撃を喰う結果となった。
 二月十一日、第二回軍事裁判の判決が下された。反逆罪を不問に付し、暴行罪だけを取り上げ、被告アブドール・ラシード憲兵少佐に七年の刑を判決した。
 この報に接した印度民衆の憤激は再び爆発した。十二日、先ずカルカッタにおいて、抗議のデモが開始され、全市のゼネストに発展した。警官隊の発砲によって、死者十九名、負傷者二百数名を出し、二十六日に至ってようやく平静に帰した。
 その騒動が収まりかけていた二月二十一日のことである。英帝国印度統治史上、未聞の大不祥事が勃発、英当局の心胆を奪った。すなわち、英海軍の一部である印度海軍乗組員の一斉反乱がそれである。ボンベイ、カラチ、カルカッタ港に凱旋帰投した印度海軍乗組員の印度人将兵が呼応し決起したのである。
 ボンベイにおいては、ゴットフリー提督の旗艦ナバタ号を初め二十隻に上る艦船を反乱軍将兵が押さえてしまった。その上同港基地の兵器庫まで占拠する始末となった。カラチでも、旗艦ヒンドスタン号が、反乱軍に押さえられた。
 何れも占拠艦船の艦砲に砲弾を装填して、もし英当局が武力弾圧に出れば、直ちに全艦砲撃をもって酬ゆると宣言した。これがため、英当局は手も足も出せない羽目となった。

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2008年07月18日

隷属民族は闘う権利あり

INA軍事裁判の逆効果

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。
写真は第一回インパール戦没戦友遺骨収集に参加してモイラン村民から熱烈な歓迎を受ける筆者(中央)後方の建物はもとINA情報本部が置かれていた。(昭和27)
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引用開始
 第一回INA軍事裁判の進展にともなって、印度民衆の反英独立抗争は、業火のように全印度に燃えさかり、激しさを加えた。印度は猛り狂う巨象の形相に変わった。英帝国が印度支配の再強化を狙って始めた軍事裁判であったが、その裁判が逆に、英帝国二百年にわたる印度支配の罪業を裁き、その支配に終止符の引導をわたす形勢に発展した。
 反英抗争は、大衆の全国的抗議暴動、議会における糾弾、新聞、集会を動員しての宣伝を背景として、水も漏らさぬ周到巧妙なはげしい法廷闘争によって押し進められた。
 信仰と種族、階層と言語、政党政派、軍民一切の相違を超え、四億の印度民族が、その全知全能全精力をふりしぼって、火の玉となって決起進撃するこの図は、史上稀有の光景であった。正に民族の運命をこの一戦に賭けんとする民族の綜合大戦争というべきものである。

 大衆の抗議運動は、裁判開始の十一月五日、デリー、カルカッタ、ラホール、マドラス等の主要都市に烽火を挙げた。この日、ネタージ・ボースの生誕地カルカッタでは、十万の大衆が手に手に「INA愛国の英雄を救え」「INAの裁判を即時中止し釈放せよ」「英人は印度から即時去れ」「印度の統治権を印度人に返せ」と檄したプラカードを掲げ、大デモ行進を展開した。随所に、警官隊と衝突、流血の惨事を繰り広げた。マドラスでも多数の死傷者を出す騒ぎとなった。
 英国は、未だこの騒然たる情勢の本質と帰趨を見抜くことが出来なかったのか。翌六日に「目下監禁中のINA将士の中から首謀者四百名を、向こう六カ月間に裁判に付す予定である」と、強気の発表を行った。この発表が、ますます印度民衆の怒りをあおった。大衆の抗議デモはいよいよ激化してゼネスト、暴動に発展して行った。・・・・
 デリーのデモは、特別警戒地帯に指定され、警戒最も厳重な、このレッドフォートに殺到した。天空を画する城壁の外側に、喊声が、押し寄せる高潮のように、どよめき迫ってきた。何万の民衆の怒りをこめて。城内に拘禁されているINA将士も、私達も、固唾を呑んで、その成り行きに全神経を尖らせる。喊声が一段と高まり、近づいたと思う途端、ダダッ、ダダッ、と連発の銃声が城壁にこだました。血を見て群衆の怒りが爆発したのか、喊声はウォーと怒号のはげしさに変わった。息詰まる緊張が城内を圧する。
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2008年07月15日

英国の印度政策の誤謬

印度独立の契機を与えた日本

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。
写真は日本軍に協力してインパール作戦にあたったINAのシャヌワース連隊長
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引用開始
 元英印軍出身INA将兵一万九千五百名の処置は、英帝国戦後処理の最も重要かつ難題の一つとなった。戦後の印度統治の成否を左右する大問題であった。1857年サボイ反乱以後の不祥事であった。殊にその処置の当否は、英帝国印度統治の番犬、英印軍内印度人将兵の対英忠誠心に決定的影響を及ぼすことが予想されるだけに、いよいよ重大であった。
 英帝国は、INA反逆将兵を軍事裁判にかけて、厳刑に処することによって、英帝国の権威を誇示し、印度民衆特に、英印軍印度人将兵に対する見せしめにして、印度支配を揺るぎないものにしよう、それができると考えた。
 この決定は、事志と反対の結果を巻き起こすこととなった。・・・

 戦後トインビーやラティモアが指摘した大東亜戦争の史的意義と歴史の必然を予見し得なかったのであろうか。流石の英帝国も、戦勝の驕りと、飼犬と心得た将兵の反逆に対する憤怒のために。
 ガンヂー、ネールを初め、印度国民会議派の領袖は、英帝国の、この誤判を見逃さなかった。現英印軍印度人将兵と血縁、或いは知己の関係にあるINA将兵二万を厳刑に処せんとする軍事裁判こそ、英印軍印度人将兵を会議派側に獲得し、又これを利用して全印度民衆を反英独立運動に動員結集して、独立運動に決定的成功を収める天与の好機と読んだのである。あの抜け目のない英帝国が、正に会議派の思う壺にはまった形となったのである。
 そこで、会議派は逸早く、裁判の公開と会議派の弁護権を要求した。早くも九月十四日、ブーナにおいて、会議派執行委員会を開催、「INA将兵は印度独立のため戦った愛国者であり、即時解放さるべきである」との決議を採択し、これを宣言した。次いで会議派は、その長老の一人で、名弁護士として聞こえたフラバイ・デサイ博士を首席弁護士に挙げ、会議派指導層の中から、錚々たる一流弁護士を選りすぐって、大弁護団を編成した。そして先ず、印度民衆特に英印軍内印度人将兵に対して、会議派挙げての啓蒙宣伝と大衆動員を開始したのである。私達証人は、この弁護団が喚問したものであった。
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2008年07月11日

デリー軍事法廷

終戦と軍事法廷への召喚

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回も、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。
写真はマレーのIIL支部に別れの挨拶訪問をした筆者を囲んでの記念写真(昭和17年4月)
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引用開始
 八月十五日、私は、終戦の大詔を福岡衛戊病院の病床で排承した。インパールで罹ったマラリアの発作で入院していたのである。
 将兵、看護婦の慟哭が病院を覆った。その中で、私は終日、終夜、国の行末と身の進退を案じつづけて苦悩した。又マレイ、スマトラ、ビルマに展開したF工作とINAとともに戦ったインパールの死闘の思い出が、亡き盟友、戦友の面影が走馬灯のように私の脳裏をかけめぐった。そしてF機関のメンバーや、現地の戦友や、F機関に協力してくれた何十万現住民の身の上に降りかかるであろう難儀を、あれこれと思い煩った。私は、その責を負わねばならぬと心中に誓った。英蘭当局が、不倶戴天の敵として、真先に私を重要戦犯に指定し、復讐を果たすだろうと予想した。
 私は中野婦長に乞うて、青酸カリを入手し、内ポケットに深く蔵いこんだ。逮捕の使いに接した時、機を失せず毒をあおぐべく。この覚悟と用意が整うと、私の心はいくらか安らいだ。第五七軍高級参謀として敗戦の処理に、心置きなく従えた。

 十月も半ば、私はGHQを介して予想外の召喚状に接した。英マウントバッテン元帥の西南亜連合軍司令部から。それは予期していた戦犯の召喚ではなかった。INA将兵を裁くデリーの英軍軍事法廷の証人としての召喚であった。しかも、被告盟友に対する印度側弁護士団の要請に基づくものであった。・・・・
 私は、召喚状を手に、進退を熟慮した結果、断乎これに応ずる決意を固めた。INA盟友のため、わが祖国とF機関全員のため、更に日印両民族将来のために、証言することが私の責任であると考え及んだからである。
 私は、わが印度工作は、単なる謀略ではない、陛下の大御心に添い、建国の大理想を具現すべく、身をもって実践したものであることを強調しなければならぬと思った。又IILやINAの盟友は、最も清純な祖国愛にもとづき、自主的に決起したもので、断じて日本の傀儡でなかったことを立証しなければならぬと考えた。これが盟友に対する盟義を果たす唯一の途であると思い定めた。
 かく思い定めつつも、私の心の一隅に、一抹の不安が動いた。それは、敗戦の今日、盟友の一部から変節の誣言を受けるかも知れない。非暴力不服従運動を信条とし、外国の援助を忌避することを建て前としてきた印度国民会議派の主流(ガンヂー、ネールを領袖とする正統派)やその影響下にある印度の民衆から、INAを武力闘争に駆った指弾を受けるかも知れない。更に証言終了後、英軍の戦犯として処断されるだろう.俘虜を懐柔逆用し、英帝国への反逆に駆り立てた戦時俘虜取扱いの違反者と銘打って。等々の懸念がともすると私の決意を鈍らせそうになった。なおこの工作の過程に見られた紛糾混迷の事由を追及せられ、心なくも、私が身を奉じた国軍や上司に累を及ぼさんことも計り難い、といった悩みが、一層私を迷わせた。

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2008年07月09日

チャンドラ・ボース登場

インド独立の巨星チャンドラ・ボース

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。今回からは、その第二部の内容をご紹介して行きます、同じく昭和六十(1985)年初版の本からの抜粋です。
写真はシンガポールに到着したチャンドラ・ボース氏、先導は国塚少尉
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引用開始
 昭和十八年七月二日、ベルリンにあった印度独立運動の巨星スバス・チャンドラ・ボース氏が、忽然、シンガポールに、脚光を浴びて登場していた。颯爽、六尺の偉躯に、烈々たる闘志を漲らせてボース氏は潜水艦で、文字通り潜行三千里、南亜、マダガスカル沖を経て、五月六日、スマトラ北端のサバン島に上陸し、先ず東京に密行していたのである。それは、東条総理を初め、重光外相、陸海軍首脳等に面談して印度独立運動支援に対する日本の真意を確かめるためであった。
 去る十七年三月、山王会談の節、上京した南方代表モ将軍等との会談や、バンコック会議の決議に冷淡な態度を示した東条総理は、一見ボース氏に傾倒することとなった。重光外相のただならぬ推奨もあったが、その非凡の人物に魅せられた。あらゆる支援を約し、専用機を提供する優遇振りであった。更に六月十六日、ボース氏を衆議院に案内し、氏を前にして、親しく印度独立支援に対する帝国の理念と熱誠を披露する大演説を行った。混迷を続けたが印度工作の理念は、ボースの出現によって、ようやく鮮明になってきた。

 偉大なる指導者を、劇的裡に、シンガポールに迎えた東亜在住二百万の印度人は、歓呼熱狂した。モハンシン事件以来、紛糾と沈滞を続けたIIL、INAの運動は、この一刹那に、起死回生、闘志と結束を復元倍加した。七月四日には、同地に開催されたIIL代表者大会において「自由印度仮政府」の樹立が決議宣言され、ボース氏は満場一致、その首席に推された。かくて大東亜における反英印度独立闘争統帥の地位は、ラース・ベハリ・ボース氏からスバス・チャンドラ・ボース氏に継承せられることとなった。チャンドラ・ボース氏は、ネタージ(総帥の意)・ボースと敬称せられた。七月五日、ネタージ・ボースは一万五千のINA将兵を、シンガポール支庁前の広場で閲兵し、次の歴史的大獅子吼を行った。彼が半生の独立闘争に求めて得られなかった革命軍を、今、掌中におさめ得たのである。その歓喜と感激は、余人の想像に絶するものであったであろう。
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2008年07月07日

蘭印アチェの蜂起

インドネシア対オランダ軍

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。日本がアジア諸国の白人支配からの独立にいかに大きな役割を果たしたかが詳しく解るでしょう。
昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 Fメンバーたるサイドアブバカル君など二十名の同志がスマトラに帰ってから、その宣伝はプサ団の共鳴を得て、文字通り燎原の火のごとく全アチェに拡大した。オランダの圧迫とその重要公共施設の破壊準備の進捗に伴って、アチェ民族のオランダに対する反抗気運は頂点に達した。プサ団の使節が日本軍との連絡に成功したとのピナン放送は、シンガポール陥落の東京放送と相まって、いよいよアチェ民族を勇気づけた。
 反乱は二月二十三日夜、スリモム町においてトンクアブドル、ウハブ指揮の下に、オランダ、コントロレユールの郵便局襲撃をもって開始された。そのころ既に、この町の兵営にあったインドネシア人のオランダ兵は、Fメンバーの一翼となっていた。その翌朝、反乱はオランダ軍の橋梁破壊阻止の暴動に発展した。すなわち、Fメンバーはオランダ軍がラム、ルポンよりラムバクにわたるクミル橋梁始め、二十個所の橋梁に装置したダイナマイトを除去せんとして決起したのである。この決起指令は既に二十一日発令せられ行動を開始していた。F字の腕章を付した三十名の武装決起隊がこれに参加し、見事にその取除きに成功した上、随所に隘路を遮断し、電話線を切断し、インドラプリの鉄道を破壊してその確保に当った。・・・

 このアチェの反乱気運に対抗して、コタラジャ地区のオランダ軍が増強された。
 これに対して三月四日、ルボーにおいてアチェ各地の代表者会議を開催し、全アチェ一斉に統一ある反乱を起すことを決議した。・・・
 三月六日、この決議は全域に檄された。更にオランダ政府官吏たるインドネシア人に対しては、即時辞職罷業せざればオランダ人と見做す旨警告が発せられた。これらの檄は政府にも警察署にも送付され、街頭は勿論、オランダ軍の装甲車にまで貼布された。三月七日には先ず各都市の自警団が罷業に入り、続々逃亡してFメンバーに加わった。オランダ軍が破壊を企図すべきすべての橋梁、製油所、貯油所、交通施設等一切の公共施設にFメンバーが配置され、ダイナマイトは片端から除かれた。三月七日、トク、ニヤ、アリフ氏はオランダ理事官に対して「アチェの政治をアチェ人に正式に返還すべし。しからざればアチェ人はオランダ人に宣戦すべし」との通告を発した。このころからアチェ各地の電話線は切断され、倒木による道路遮断が至る所で行われた。この不穏な形勢に対処しコタラジャ近傍のオランダ軍と官吏は兵営に集結した。
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2008年07月04日

山王会議

ハリマオの死、岩畔機関

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真は山王会談から帰還したIIL、INA代表をシンガポール カラン空港に出迎える筆者。中央はモハンシン将軍、左はゴーホー氏、右はラガバン氏。(昭、17、4)
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引用開始
 三月二十日、山王ホテルにおいて四志士殉難の悲愁をつつんで、山王会議が開催された第一日の午前の会議には岩畔大佐と私に傍聴を許された。南方から上京したIIL、INA使節の四氏のほか、香港、上海、比島、日本の代表が列席してラース・ビハリー・ボース氏が推挙されて議長の席についた。しかし何故か、在日印度人の有力者であり、また独立運動の代表的人物であるサハイ氏の姿が見当らなかった。プラタップ氏も参列していないのが私には奇異に感ぜられた。

 正面の壁間には印度と日本の大国旗が飾られていた。まず議長が立ってIIL、INA使節四氏の殉難の予想を悲しんだ後、遠来の各地使節に対する歓迎の辞を述べた。次いで、東条声明において宣言された日本の印度独立支援に対する基本態度と日本軍の勝利によって急速に到来されつつある印度独立の天機について感激の意を表し、またIIL、INA使節の南方における挺身的活動を絶賛し、感謝を述べた。更にこのたびの山王会議においては、まず各地代表の懇親を結び、自由かつ率直に印度独立に関する政治問題を討議し、祖国解放のため全東亜印度人の政治的結束を計る方策を探究せんとするにある旨を披歴した。私はボース氏の熱誠のこもった挨拶にも拘わらず、各地代表特にIIL、INA使節に与えた感銘は必ずしも期待されたように深刻ではないとの印象を受けた。しかし殉難四氏の素志を継いで、その念願を達成しなければならないという悲痛な決意も各代表の面に読み取れた。使節一行は会議の席上において、あるいは個別に、連日こもごも真摯なる意見の交換、討議の反覆を行った。その結果IILを東亜全印度人の印度独立運動団体として確認された。そして五月中旬、バンコックにおいて名実共に全東亜印度人代表をこぞる公開のIIL大会を開催し、連盟の組織、運動の方策を再討議することとなった。

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2008年07月03日

ビハリー・ボース

東京会談とプリタムシン氏ら四人の遭難

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真は山王会談に先立って行われたIIL指導者会議のメンバー。中央の筆者より向って左へプリタムシン氏、モハンシン将軍、メノン氏、同じく右へギル中佐、ゴーホー氏。
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引用開始
 プ氏は新段階に対処するためにマレイ、シンガポールのIIL支部長会議をシンガポールに招請し、モ大尉はシンガポールにINAの全兵力を集結して、INAの強化拡充について日夜奔走しつつあるとき、東京の大本営から南方軍総司令部を経て一通の電報が私のもとに着いた。その内容は日本大本営の肝入りで、東京にあるラース・ビハリー・ボース氏(新宿中村屋の主人相馬氏の女婿)が、東亜各地の印度人代表を招請して祖国印度の解放に関する政治問題の懇談を遂げ、かたがた日本側との親善を計るため、マレイ、泰方面のIIL、ILA代表約十名を三月十九日までに東京に到着するように、招請されたものであった。なお、この電文には私が一行に同行すべきことと、岩畔大佐の上京とを要求されていた。・・・・
 三月十日、親善使節の一行と私はカランの飛行場を出発して東京への飛行の途についた。大田黒君が私に随行した。・・・・

 飛行機の都合によって、私達の一行は二組に分かれなければならなかった。岩畔大佐と私とモハンシン大尉、ギル中佐、ラバガン氏、ゴーホー氏、メノン氏の七名が一組となって東京に直行することとなった。大田黒氏、スワイミ氏、プリタムシン氏、アイヤル氏、アグナム大尉が一組となって別の飛行機で二日遅れてサイゴンを出発することとなった。三月十一日、私達一行はサイゴンを出発したが、私達の飛行機は海南島の飛行場でエンジンに故障を起したために二日間も滞在を余儀なくされた。・・・・
 私達の飛行機は台北、上海で各一泊のうえ東京羽田飛行場に着いた。・・・
 そして私達の搭乗機はスワミイ氏一行を迎えるために直ちに台北に引き返して行った。飛行場から大本営の案内で一行は山王ホテルに落着いた。上海からオスマン氏が、また香港からカン氏が使節として着京していた。三月も半ばの東京は南方の客達には極寒の思いであった。なかんづく一行の長老メノン氏は栄螺のように身体を縮ませて震えていた。東京における一行の案内や行事は私の手から離れて、大本営当事者の手に移った。誓いを共にし、生死を分ってきた友に、桜咲く祖国の風物を心行くまで、私が自ら案内することを楽しんでいた折柄、掌中の玉を奪われたような空虚な思いが私を襲った。
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2008年07月02日

スマトラからの密使

アチェ民族とオランダの抗争

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 三月の初め、軍司令部から次のような電話がかかってきた。
スマトラのアチェから、日本軍との連絡のために重要な密使がピナンに到着し、ピナンの軍当局から送致してきたから藤原機関に引渡す。直ちに案内者を司令部に派遣せよ」と。
 私は山口中尉からこの報告を聞いて雀躍するほどうれしかった。マレイから潜入したFメンバーが潜入に成功し、しかもアチェ民族が、日本軍に呼応して決起する用意にありと直感したからである。この密使は中宮中尉に案内されて機関に到着した。一組の密使はトクムタ氏ほか三名からなり、二月十三日、ブサ団から派遣されたものであった。いま一組の密使はトンクアブドルハミッド氏ほか三名からなり、二月二十日、ブサ団から派遣されたものであった。いずれも日本軍当局に、アチェ民族のオランダに対する抗争状況や、日本軍に対する忠誠の誓いを報告し、日本軍の急援を要請する使命をもってきた決死の密使であった。・・・・
 密使の報告によってわれわれは初めてアチェの驚くべき情勢を知ることができた。またスマトラのオランダ軍に関する最新の情報を詳細に知ることができた。密使の語るスマトラの情勢は次の通りであった。

 1940年5月、オランダが独逸に蹂躙された当時から、アチェ人の間に民族運動の意識が復活し始めていた。日、独、伊三国同盟以来、緊迫する太平洋情勢に即応して、オランダ政府は色々の戦時の法令を造ってインドネシヤ民族を防衛に結束せんとしたが、これらの措置はかえって民衆の反感を募らせつつあった。12月8日、日本軍がマレイに進撃を開始すとのニュースを聞くや、ブサ及びブサ青年団の幹部は、全アチェの各支部に遊説して「いついかなる土地に日本軍の進駐をみる場合においても、直ちにこれを歓迎し、かつ日本軍の要求するいかなる援助をも与うべし」との宣伝を開始していた。ハンリマサキ氏とトクニア・アリフ氏が指導に当った。
 12月中頃にはトクニア・アリフ邸でブサ団の会長トク、モハマッド、ダウッド、ブルウェー氏始め、首脳五名が密会して堅い誓約を交わした。その誓約は、「回教および民族、祖国に忠誠をを誓い、大日本政府に忠誠を尽くし、共にオランダに抗争し、ブサの名において暴動を起こす」との内容であった。
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2008年06月30日

モハンシン将軍

印度独立運動史初の革命軍誕生

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 モハンシンINA司令官は、作戦中の投降兵を加えて五万五千の印度人将兵を掌握することとなった。そしていよいよ、INAの組織に着手した。長い苦難の印度独立運動史に、初めて、独立抗争必須の利器―革命軍をもつことになったのである。投降将校の中には、ギル中佐、ボンスレー少佐(何れも英本国の士官学校、陸軍大学校修学者)等二十名近い先任将校がいた。モ大尉の統率には容易ならぬ困難が伏在することとなった。モ大尉は、INA将校の推薦と諒解を得て、少将に昇進し、革命軍INA司令官としての貫録を整えた。私も「将軍」として、心から敬意を表した。彼は戦後も印度でモハンシン将軍と愛称されている。英軍から反逆者として位階を剥奪されたにかかわらず。

 18日正午、シンガポール印度人有力者三十名以上の共同主催のもとに、F機関、IIL、INAの幹部と昨日投降した印度人将校の有力者の招宴が、印度人商工会議所において催された。定刻会議所におもむくと沢山の紳士淑女が私達の到着を待っていてくれた。ゴーホー、メノン両氏も見えた。受付の紳士から生花の花輪を首にかけられた。美しい淑女が胸に清らかな花を飾ってくれた。一昨日まで六十日にわたってすさまじい戦場を馳駆し、夜を日に次ぐあわただしい仕事に忙殺されて、戦塵を洗う暇もなかったぶしつけな私達には、一寸とまどうような雰囲気であった。私は主催者側に促されて、先ず一場の挨拶を述べた。
このように和やかな、更に有意義な宴を、占領地の紳士淑女が挙って、占領早々の軍人のために催していただくような例は古今にも、東西にも、そう例は少ないと思います。このことは日印両民族の友情の宿縁を証明するものであり、またプ氏やモ大尉の祖国と民族を愛する犠牲的奉仕の結果を示すものだと思います。日印両者がいままで握手を妨げられていたことは神の思召しに背くことであったと思います。私は六十日間にわたって激戦と電撃的進撃の果てに、いまここに着いたばかりの武人でありますので、戦塵にまみれ、服装も応対もまことにぶしつけでございます。しかも久しくこのような珍味にお目にかかる機会に恵まれませんでした。今日は紳士淑女の御好意と御理解に甘えて、六十日間のカロリー補充の意味で、野戦並の行儀で、うんと沢山御馳走を頂きます。お許しを願います。どうか他の日本人もこのようにぶしつけだとは誤解しないで下さい」と軽いスピーチを終えた。・・・
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2008年06月27日

英印度兵が日本軍下に

印度独立運動史に残るフェラパーク・スピーチ

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真は印将兵に祖国解放を訴えるモハンシン将軍、一人おいて藤原氏
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引用開始
 午前10時から私はプ氏やモ大尉と共にファラパークにおもむいた。パークの四周から雲霞のごとく印度兵の部隊がい集した。正午ごろには、旧競馬場のこの広いパークが、印度兵で埋まるように見えた。競馬場のスタンド二階の英ハント中佐参謀が、各部隊の指揮官(印度人将校)から到着部隊名と人員の報告を受けていた。・・・
 ハント中佐の側で、立派な風貌と偉躯のシークの中佐が懇切に各部隊に指示を与えているのが私の注意を引いた。・・・・そのうち、モ大尉はその中佐を私のもとに伴って来て、私に紹介してくれた。この中佐こそ、ギル中佐であった。・・・私はモ大尉のこの愛国的活動に対してギル中佐の熱烈な支援を希望した。・・・・

 直ちに接収の儀式に移った。マイクを通じて、全印度兵はスタンドに面してき坐を命ぜられた。将校は最前列に集合した。ハント中佐はマイクの前に立った。パークを埋める印度兵が整列を終わって、スタンドのハント中佐に全神経を集中した。中佐はきわめて簡単に、かつ事務的に「印度兵捕虜をこのときをもって日本軍に引渡すことになったから、爾後は日本軍当局の指導に基づいて行動すべし」という意味の数語を語ったのち、私に面して人員名簿を手渡した。その数は五万を上回った。これをもって全印度将兵は日本軍の手に接収された。・・・・
 かねてのプランに基づいて、私はまず壇上に立ってマイクに身を寄せた。十万の視線が私の両眼に注がれた。水を打ったような静粛に帰った。私の左に英語通訳に当る国塚少尉が、更にその左隣りにヒンズー語通訳に当るギル中佐が立った。日本軍を代表してこの高壇に立ち、五万になんなんとする印度人将兵に私の使命の理想を宣言する歴史的行事に当ろうとするのである。全身の血がたぎるような感激を覚えた。・・・・
 私は改めてマイクの位置を確かめた後、全印度人将兵を見渡しつつ「親愛なる印度兵諸君!」と呼びかけた。数万の視聴は私の口もとに注がれた。語を継いで「私は日本軍を代表して英軍当局から印度兵諸君を接収し、諸君と日本軍、印度国民と日本国民との友愛を取結ぶために参ったF機関長藤原少佐であります」と自己紹介の前言を述べた。・・・
 私が東亜の共栄体制を打ちたてんとする日本の理想を説き、印度独立支援に対する日本の熱意を宣明するや、五万の聴衆は熱狂してきた。シンガポールの牙城の崩壊は、英帝国とオランダの支配下にある東亜諸民族の桎梏の鉄鎖を寸断し、その解放を実現する歴史的契機となるであろう、と私の所信を述べるや、満場の聴衆は熱狂状態に入った。拍手と歓声とでパークはどよめいた・・・・
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2008年06月26日

英軍印度兵の接収

F機関、シンガポールへ進出

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はファラパークに接収された45000人の英軍印度兵士
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引用開始
 2月16日朝、軍参謀長の認可を受けて、われわれの本部はシンガポールに推進された。・・・・山下軍司令官特別の意向によって、一般部隊はすべて市街に入ることを禁じられていた。憲兵と一部の補助憲兵部隊だけが治安維持のため市街に入ることを許されていた。市街の入口には関門が設けられて、部隊は勿論単独兵の通過さえ厳重に取締られていた。・・・・
 この日の午後、司令部やINA本部、スマトラ青年団が続々到着した。
 夕刻、フォートカニングの英軍司令部でシンガポール接収に関する日英両軍の委員会が開催された。この委員会において、F機関が接収すべく命ぜられた印度兵捕虜は、明17日午後フェラパークの公園において接収することが打合せられた。
 英軍委員の報告によると、印度兵の数は五万に達すべしとのことであった。白人捕虜もほぼ同数と概算された。シンガポール島の英軍総兵を三万、そのうち印度兵の数は一万ないし一万五千と判断していたわれわれ日本軍委員は、英軍委員のこの報告に接して顔を見合せて驚いた。英軍の兵力は実に日本軍の兵力に数倍していたのである。もし英軍が日本軍の兵力と弾薬欠乏の状況を知悉して、更に数日頑強な反撃を試みたならば、恐るべき不幸な事態が日本軍を見舞ったであろうと直感して慄然とした。

次いで私の胸裏をかすめた懸念は、現在わずかに四名の将校と、十名余りのシビリアンしか擁していない貧弱なF機関のメンバーで、何らの準備もなく、五万の印度兵を接収し、その宿営、給養、衛生をどんな風にして完うするかということであった。しかも、F機関本来の任務を完遂しなければならない。本部に引上げる自動車の中で明日に迫ったこの難問題に頭を悩ました。・・・・・
 そののち、私はモ大尉、プ氏と会合して明日の接収儀式に関して打合せを行った。17日午後一時、英軍代表者から正式に印度兵捕虜を接収したのち、先ず日本軍を代表して私が、次いでINA司令官モ大尉、IIL代表プ氏の順序で演説を行うこととなった。更に印度人将校一同との懇談を実施したのち、計画に基づいて兵営に分宿することとした。続きを読む
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2008年06月25日

ハリマオの母の手紙

シンガポール大英帝国の降伏

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 ランプールから本部のFメンバーの全員が到着していた。神本君が沈痛な面持で私を待っていた。ハリマオ(谷君)が1月下旬ゲマス付近に潜入して活躍中、マラリヤが再発して重態だという報告であった。ハリマオはゲマス付近の英軍の後方に進出して機関車の転覆、電話線の切断、マレイ人義勇兵に対する宣伝に活躍中、マラリヤを再発しながら無理をおしていたのが悪かったのだという説明であった。私は神本君になるべく早くジョホールの陸軍病院に移して看護に付き添ってやるように命じた。
 一人として大切でない部下はない。しかし、分けてハリマオは、同君の数奇な過去の運命とこのたびの悲壮な御奉公とを思うと何としても病気で殺したくなかった。敵弾に倒れるなら私もあきらめきれるけれども、病死させたのではあきらめ切れない。私は無理なことを神本氏に命じた。「絶対に病死させるな」と。私は懐に大切に暖めていたハリマオのお母さんの手紙を神本君に手渡した。そして読んで聞かせてやってくれと頼んだ。この手紙は、大本営の参謀からイッポ―で受け取ったのであった。

 手紙は、ハリマオの姉さんが達筆で代筆されていた。手紙には、ハリマオが待ち焦がれていた内容が胸が熱くなるほど優しい情愛とりりしい激励とをこめて綿々と綴られていた。
「豊さん、お手紙を拝見してうれし泣きに泣きました。何遍も何遍も拝見致しました。真人間、正しい日本人に生まれ変わって、お国のために捧げて働いて下さるとの御決心、母も姉も夢かと思うほどうれしく思います。母もこれで肩身が広くなりました。許すどころか、両手を合わせて拝みます。どうか立派なお手柄を樹てて下さい。母を始め家内一同達者です。毎日、神様に豊さんの武運長久をお祈りします。母のこと家のことはちっとも心配せずに存分に御奉公して下さい」という文意が盛られていた。まだF機関ができる前の昨年四月以来、ハリマオと一心同体となって敵中に活動し続けてきた神本君、ことに情義に厚い熱血漢、神本君はこの手紙をひ見してハラハラと涙を流した。「この手紙を見せたらハリマオも元気がでるでしょう。必ず治して見せます」といって、ゲマスに向って出発して行った。・・・・

 14日の夜は終夜にわたって激戦が続いた。15日の朝になってもこの状況は変わらなかった。負傷者が戦車に収容されて続々と後退してきた。日本軍第十八師団はケッペルスの兵営と標高150mの丘を占領し、第五師団も墓地を奪取した。近衛師団は、シンガポールの市街の東側に侵入してカランの飛行場占領に成功した。日本軍の飛行機はピストンのようにクルアンの飛行場から爆弾を抱いて英軍陣地にたたき込んだ、英軍の抵抗は頑強をきわめた。よくもこれだけ弾丸が続くものだ。銃身も砲身もよくも裂けないものだと思われるほど英軍の射撃は猛烈をきわめた。
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2008年06月24日

シンガポール総攻撃

英印度兵が続々投降、INAに参加

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 マレイ半島とシンガポールの島をつなぐただ一本の陸橋は、英軍の手によって破壊されてしまった。
 制海、制空権を失ったこの島の英軍は、全く孤立にも等しかった。この島の防備は島の東方にあるチャンギー要塞と市街の西側にあるブラカンマティの要塞によって骨組まれていた。東および南の海正面に対しては不落を誇る厳しい備えを持っていたが、北のマレイ半島に対する陸正面の防備は手薄のようであった。日本軍はこの島によっている英軍の勢力を三万と推定していた。
 これに立ち向かう日本軍の総勢力は、鉄道や補給部隊まで加算して五万内外であった。前線で戦闘する兵員の数は二万にもおよばなかったであろう。第五、第十八、近衛の三つの師団があったけれども、完全な師団は第五師団だけであった。そのほかに、戦車連隊が二個と、重砲兵連隊が三個あった。第十八師団以外は、いずれの部隊もマレイ半島で数度の激戦で相当ひどい損害を被っていたが、士気は天に誅する勢いであった。

 百四十機の航空部隊は日本軍のために絶対の強みであった。
 山下将軍は巧妙な陽動によって日本軍がセレタの方面から攻撃するように見せかけて、英軍をこの正面に牽制しつつ、陸橋より西の正面を攻撃する戦術をとった。2月7日には近衛師団をジョホールの東方に行動させ2月8日の未明にそのほんの一部の部隊をもってウビン島を攻略させた。軍砲兵の主力は、この正面の為陣地からセレタの敵陣地を砲撃した。こうして、英軍が陸橋の東正面に注意をひかれている隙を狙って、2月8日二四○○を期して、陸橋の西の正面から軍主力は一斉に渡河を開始し、テンガ飛行場を目指して殺到した。陽動に任じていた近衛師団も翌9日の夜、陸橋の直ぐ西側正面で渡河してマダイの高地に突進した。北から攻撃する日本軍に対してブキテマ、マダイの高地線は、英軍のためにシンガポールの運命を決する戦術上の要線であった。ブキテマ高地に上るとシンガポールの町は指呼の間にあったし、シンガポール百万市民の死命を制する水源地は、マダイ高地の南側に横たわっていた。

 日本軍は、英軍がこの要線で組織的抵抗を試みる前に、一気にこの要線を奪取する計画をもって遮二無二攻撃を急いだ。
 2月10日の朝、私はジョホールの王宮に到着し、砲兵の観測所となった高塔に上った。2月8日以来、日本軍砲爆撃のためにセレタやブキバンジャンの数十本の重油タンクが燃えさかって、捲き起る黒煙が空をおおい、また遠くシンガポールの市街方面にも幾十条の黒煙が吹き上がっていた。黒煙と青空の接際部を縫って乱舞する数十機の日本軍の飛行機に対して、数百門に上る英軍高射砲が必死の反撃を試みていた。彼我の砲撃が殷殷として天地を震撼し、シンガポールはとてもこの世のものとは思えないほど、凄絶な煉獄の形相を呈していた。
 私は直ちに渡河作業隊の舟艇に移乗して、テンガ飛行場付近の山下将軍の戦闘指揮所に向った。・・・・・
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2008年06月23日

日本軍とINAの協働

日本軍の態度に感激したINA

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 クアラルンプールを占領直後、第三飛行団司令部が前進してきた。私は米村少尉を司令部に派して「リビス」における少数将兵の不心得なる事件を通報して善処願った。その翌日遠藤少将の副官が一少尉を伴ってF機関の本部を訪ねてきた。その少尉がリビス事件の責任者であった。遠藤少将は直ちにこの将校を処罰したうえ、遠藤少将の代表として副官が、責任者を帯同して、私およびモ大尉に陳謝し、かつ品物を返還するという申出であった。
 私は遠藤少将の処置に感激して、直ちにモ大尉にこれを取次ぎ、私も共に陳謝の意を述べた。モ大尉は遠藤少将のこの正々堂々たる処置に全く感動し恐縮してしまった。
戦場において、このような一部将兵の不心得は、どの国の軍隊にもあることです。そしてこれ位のことに勝者の将軍が、捕虜の下級の将兵に丁寧に謝意を述べるなどということは例のないことです。私および私の将兵は、日本軍のこの正しく美しい行為によって日本軍に対する敬愛と信頼とをどんなに強めることでしょう。また、われわれINAの軍紀を自粛せしめる上に計り知れない感化があるでしょう。」と語った。なお私に、こっそりと「あの少尉は将軍からどんな処罰を受けたのでしょうか。重処罰ではないでしょうか。将軍に少尉を罰しないようにお願いして下さい」と申し出た。

 私はモ大尉のこの意向と思いやりを伝えた。副官も非常に喜んでくれた。たまたま懇談の際に、一番大事なクアラルンプールの飛行場が英軍の破壊と日本軍の爆撃とで使用困難な状況にあって、差迫りつつある戦況にかんがみて、当惑しているという話が出た。副官の当惑顔の話に気付いたモ大尉は、「今の話はなにか」と尋ね顔であったので、私からこの話を説明した。モ大尉は即座に「それでは直ちにINAがお手伝いを致しましょう」と申出でた。
 モ大尉のこの申出を遠藤少将は非常に喜んでくれた。まず中宮中尉が司令部を訪問して印度兵の風俗や習慣や、またINAのことについて司令部や飛行場勤務の将校に詳しく説明して、その理解と尊重を希望した。更に当初は毎日数少ないFメンバーから一名を割いて、日本軍との連絡に当たらせることとした。翌日から毎日1000名以上のINA部隊が飛行場の作業援助に出た。規則正しく、朝の九時から午後四時まで熱心に作業に従事した。飛行場部隊の日本軍将校と印度兵はたちまち大の仲好しになってしまった。能率はぐんぐん上がった。一つの些細なトラブルも起きなかった。遠藤少将は印度兵の労をねぎらうために、金や食料品や日用品などを寄贈して皆を喜ばせた。このINAの協力によって一週間ほどの間に飛行場は使用できるようになった。作業に出たINAの将兵は遠藤少将を敬愛した。作業が完成した日、遠藤少将に敬意を表するため、INA将兵は飛行場で分列式をやって少将をいたく喜ばせた。・・・・
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2008年06月20日

ハリマオとの初会見

ハリマオの母親宛ての手紙

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。

引用開始
 1月7日からトロラック、スリム地域の英軍陣地に対する総攻撃が予定された。その前日私は石川君を伴って自ら戦線に進出した。戦線におけるF機関やINA、IIL宣伝班の活動を親しく激励し、その活動成果を確認するためであった。私がカンパルの村に到着したとき、村の入口に米村少尉を発見した。少尉は両手を広げて私の車を停めた。少尉は私の車に走り寄って「機関長殿。谷(ハリマオ)君が中央山系を突破してカンパル英軍陣地の背後に進出して活動していました。谷君は次の行動に出発する前に、機関長殿に一目おめにかかりたいと申しますので、いまからイッポ―の本部まで急ごうと思ってここまできたところです」と訴えた。その態度は遠い異国に苦難の長い旅路の途中、一目父にと願う弟を、案内して来た兄のようであった。眼は連夜の活動で充血していた。頬もこけていた。私は米村君の申出に驚きかつ喜んだ。「なに谷君が待っているか。おれも会いたかった。どこだ谷君は」と急き込んで車から降りた。少尉は私を本道から離れた民家に案内した。そうだ、私は重い使命を負わせ、大きな期待をかけている私の部下の谷君に、今日の今までついに会う機会がなかったのである。・・・・

 そうだ、開戦も間近の11月上旬ごろであったろうか、谷君がたどたどしい片仮名文字で綴った一通の開封の手紙をバンコックの田村大佐のもとに託してきたことがあった。この手紙を彼の郷里、九州の飯塚にある慈母のもとに、届けてくれという申出であった。神本君が仮名文字を教え、手をとって綴らせた手紙であろう。谷君は生後一年の幼い頃から異境に育って、目に一丁字も解することのできない気の毒な日本人であった。昭和16年4月、神本君が南泰で同君に接触以来、片仮名を教えていることを聞いていた。諜報の成果を報告させるために。

その手紙には
 お母さん。豊の長い間の不幸を許して下さい。豊は毎日遠い祖国のお母さんをしのんで御安否を心配致しております。お母さん! 日本と英国の間は、近いうちに戦争が始まるかも知れないほどに緊張しております。豊は日本参謀本部田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くことになりました。お母さん喜んで下さい。豊は真の日本男子として更生し、祖国のために一身を捧げるときが参りました。
 豊は近いうちに単身英軍のなかに入って行ってマレイ人を味方にして思う存分働きます。生きて再びお目にかかる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。お母さん! 豊が死ぬ前にたった一言! いままでの親不孝を許す。お国のためにしっかり働けとお励まし下さい。お母さん! どうかこの豊のこの願いを聞き届けて下さい。そうしてお母さん! 長く長くお達者にお暮らし下さい。お姉さんにもよろしく。
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2008年06月17日

インド国民軍の誕生

F機関とモハンシン大尉の決起

 ご存知の方には興味深い本ではないでしょうか。インド独立とは切っても切れない人物・藤原機関のご本人(明治四十一年生れ)の著です。
 表題は「F機関」副題として「インド独立に賭けた大本営参謀の記録」となっています。昭和六十(1985)年初版の本から抜粋してご紹介します。
写真はINA幹部、左からモハンシン将軍、ギル中佐、アグナム大尉
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引用開始
 昭和16年の年の瀬、12月31日も日没となった頃、アロルスターからモ大尉が予告もなく突然訪ねて来た。・・・・
 モ大尉はおもむろに口を開いて、「われわれ将兵は数次の慎重なる協議の後、次に述べる条件が日本軍によって容認されることを前提として、全員一致、祖国の解放と自由獲得のため決起する決意を固めました。ついては、次のような取り決めが、日本側から快諾されることを希望します」と語った。モ大尉から提言された内容は、
「(1)モ大尉は印度国民軍(INA)の編成に着手する。(2)これに対して日本軍は全幅の支援を供与する。(3)INAとIILは差当り協力関係とする。(4)日本軍は印度兵捕虜の指導をモ大尉に委任する。(5)日本軍は印度兵捕虜を友情をもって遇し、INAに参加を希望するものは解放する。(6)INAは日本軍と同盟関係の友軍と見做す」等々の条件であった。私はモ大尉のこの決意と申出は、個人としては直ちに賛同し得るものがあった。しかし、きわめて重大な問題であり、軍司令官の意向を確認する必要があるので即答を保留した。・・・・

 モ大尉の要望事項の一つ「同盟国軍に準じてINAを処遇する」問題については、公的な正式取決めは、現段階においては技術的に困難が伴うので、差当り実質的に希望に応ずることとして諒解に達した。INAの結成については、健全な育成に達するまで、差当り公表を見合すことに意見が一致した。モ大尉はINA本部を編成して、近日イッポ―に前進することとなった。
 私とモ大尉の討議が完全なる諒解に達したので、私は直ちに山下将軍の司令部に鈴木参謀長と杉田参謀を訪問して、モ大尉の申出を報告し、私とモ大尉と討議の経緯を説明した。鈴木参謀長は同盟国軍として正式に取り決めることについては、私と同様の見解を明らかにしたのち、モ大尉の提案を容認し、山下将軍の認可を受けた。私はこの機会に、更にYMA副会長オナム氏やスマトラ青年サイドアブバカル君との接触についても詳細に報告した。鈴木参謀長、杉田参謀はこの接触の成功も非常に喜んでくれた。
 私は急いで本部に引き返し、山下軍司令部のこの意向をプ氏とモ大尉に通告した。
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posted by 小楠 at 07:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の人物