近現代史の復習14
カテゴリー<近現代史の復習>で、反日、左翼、新聞、テレビから発する嘘、隠蔽、捏造での汚染を予防するため、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。
【満洲事変の終結】
1932(昭和七)年の満洲建国後も張学良は満洲内の熱河省に留まり、反満抗日を続けていたため、これを万里の長城以南(関内)へ追った。これが「熱河作戦」です。
その後、国民党政府は中央軍を北上させ、日本軍が関内に踏み込まないと知って長城から攻撃したため、ついに関内まで進撃します。これが「関内作戦」で、1933(昭和八)年5月31日「塘沽停戦協定」が締結され、長城の南部に非武装地帯が設定されます。
この後、日中間には目立った戦闘はなく、満洲事変は終結します。
最近15年戦争などという向きもあるが、適当な表現ではありません。それは、日中間の戦争が満洲事変からずっと継続していたかのように、また大東亜戦争が「満洲事変」から始まったかのように誤って理解されるからです。
【満洲事変終結から盧溝橋事件まで】
1,蒋介石の国民党政府は、日本との争いが一段落し、共産党掃討作戦に注力することができた。そして第5次掃共作戦の結果、1934(昭和九)年、中共軍はついに瑞金を捨てて一年に及ぶ逃避行、いわゆる「大西遷」(長征とも)を余儀なくされました。
2,1935(昭和十)年には広田弘毅外相の「不侵略演説」などもあり、日中関係は比較的平穏でした。
3,延安にたどり着いた中国共産党を救ったのは、1935年のコミンテルンによる第7回反ファシズム人民統一戦線の宣言です。これに基づき「抗日救国」を全国に呼びかけた、いわゆる「八・一宣言」です。従来の労働者中心を変更し、小ブルジョア・労働者・農民・学生など各階層を味方にし、かつ国民党政府陣営に深く浸透する作戦でした。
4,1935年終盤、万里の長城南部に「冀東防共自治政府」が誕生、これは南京政府の支配を受けたくない華北人による親日政権です。これに対応して、国民党の南京政府もこれに隣接する北支那に、河北省とその北方のチャハル省を管轄する「冀察政務委員会」を発足させました。
【西安事件】
1936(昭和十一)年12月、蒋介石は、兵力が激減し壊滅寸前であった共産軍の根拠地延安に総攻撃をかけるため、張学良軍などを西安に集結させていました。ところが西安にやって来た蒋介石が、突如張学良に逮捕・監禁されるという事件が起きました。そして張学良は中国共産党との内戦の停止と抗日を要求する宣言を発表します。コミンテルンより蒋介石を殺さないよう指示を受けた中国共産党は、周恩来を西安に派遣し、蒋介石に共産党との協力を条件に張学良に蒋介石を釈放するよう説得し、こうして第二次国共合作が実現して、蒋介石は掃共を中止して抗日に向かうことになります。
【盧溝橋事件の発端】
1937(昭和十二)年の「盧溝橋事件」は、日本側が仕掛けた「支那事変」の発端と言われていますが、その経緯は以下の通りで、日本軍が反撃に出たのは、実に最初の発砲から7時間も後のことでした。
7月7日
22:40 演習を終了した日本の「支那駐屯軍」の中隊に発砲があった。中隊から大隊・連隊へ報告され、軍使を派遣することになった。
7月8日
03:25 再び日本軍に向け銃撃があった。
04:00 軍使が連隊本部を出発。
04:20 2回目の銃撃の報告で、連隊長は戦闘を許可した。しかしこれは砲撃に至らなかった。
05:30 日本軍に向け3回目の猛射があり、ついに日本軍は反撃に出た。最初の不法射撃より7時間後であった。
7月9日
02:00 停戦協定が成立した。その後、13日に北平(北京)大紅門で日本兵が襲撃・虐殺され、14日には天津駐屯騎兵隊の兵が襲撃・惨殺されています。
そして20日、盧溝橋城の支那軍が日本軍に一斉射撃を仕掛け、日本軍も砲撃を開始しました。
ここでついに同日20日、内地3個師団の派兵が承認されますが、翌日、満州・朝鮮からの増派で十分との報があり、22日再度内地派遣を見合わせました。
その後、25日「廊坊事件」、26日「公安門事件」という日本軍が襲撃される事件が発生し、ついに27日、陸軍中央は内地師団派遣の動員を命じ、28日全面攻撃を開始しました。実に事件発生の3週間経過後です。
【盧溝橋事件に関するコミンテルンの指令】
1939(昭和十四)年10月の興亜院政務部資料では、
1,あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かねばならぬ。
2,右の目的を貫徹するため、あらゆる手段を利用すべく、局地 解決・日本への譲歩によって、支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してもよい。
3,下層民衆階級に工作し、これをして行動を起さしめ、国民党 政府をして戦争開始のやむなきに立ち至らしめなければなら ぬ。
4,党は対日ボイコットを全支那的に拡大しなければならぬ。日本を援助せんとする第三国に対しては、ボイコットを以て威嚇する必要がある。
5,紅軍は国民党政府軍と協力する一方、パルチザン的行動に出なければならぬ。
6,党は国民党政府軍下級幹部・下士官・兵士並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならぬ。
この頃についてはユン・チアンの「マオ」に詳しく書かれています。コミンテルンの支持の下、中国共産党が国民党内部に巣食い、日本軍と国民党との戦いを長期化させることが、ソ連の戦略であり、中狂が様々な虐殺事件を引き起こすのもこのためでした。
2006年07月20日
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西暦1937年 - 盧溝橋事件
Excerpt: 1937年7月、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が小さな衝突を起こしたが、これがきっかけとなって日中戦争に発展する。
Weblog: ぱふぅ家のホームページ
Tracked: 2009-11-06 23:18
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西暦1937年 - 盧溝橋事件
Excerpt: 1937年7月、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍が小さな衝突を起こしたが、これがきっかけとなって日中戦争に発展する。
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下のURLには、比較的中立的に書かれているみたいです。日本にもまだ支那に毒されていない賢者が少数でも居るだけ救いだと思いました。
盧溝橋事件 (Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6
(支那人の攻撃に遭って改竄されないよう祈るばかりです)。お邪魔致しました。
そうでしたか、今再度歩かれることがあれば、また異なったお気持ちでしょうね。
確かこの橋は「マルコポーロ橋」とも呼ばれていますね。
盧溝橋事件の説明はなかなか確かに中立的でした。
また石原莞爾は 当時から上記の考え方であった。 満州だけであればその後の惨めな敗戦となることはなかった。 今のイスラエルと当時の日本は 英米を味方につけるか否かの差。 これは外交戦略の差。
>>満州だけであればその後の惨めな敗戦となることはなかった。
私もそのように考えています。最後まで不拡大方針を守り通していたら、また展開も違っていたでしょうね。