2006年07月18日

満洲事変

 近現代史の復習12
 カテゴリー<近現代史の復習>で、反日、左翼、新聞、テレビから発する嘘、隠蔽、捏造での汚染を予防するため、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【張作霖爆死事件】
 蒋介石の率いる国民党軍(北伐軍)に敗れ、北京から満洲の奉天に引き上げる列車に乗っていた張作霖は、1928(昭和三)年、日本の関東軍によって爆殺されました。[★最近出版されたユン・チアン著の『マオ』によれば、張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいて、ナウム・エイティンゴン(後にトロッキー暗殺に関与した人物) が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという]。
 日本の田中義一首相は、支那は国民党の蒋介石にまかせ、満洲は張作霖に支配させて、張作霖を通して満洲における日本の権益を守ろうと考えていました。
 以後満洲は張作霖の息子の張学良が支配するようになり、国民党と手を組み、満洲に国民党の「晴天白日旗」を掲げます。

 【柳条溝事件】
 1931(昭和六)年9月18日、奉天郊外の柳条溝で満洲鉄道が爆破されました。これは関東軍の石原莞爾中佐と板垣征四郎大佐が中心となって計画された事件で、関東軍はこの満鉄爆破事件を張学良の仕業であるとして、その本拠地を攻撃し、翌19日には満鉄沿線の諸都市を占領し、張学良はほとんど無抵抗で退却。わずか二ヶ月で全満洲を占領しました。
 日本政府は不拡大方針を掲げていましたが、現地の軍部を抑えることはできず戦線は拡大し、結局既成事実として事後承認となります。これを柳条溝事件又は柳条湖事件といいます。
簡単に満洲が占領された原因は
 関東軍の一万数千人に対して張学良軍は30万人とも45万人とも言われましたが、彼らは馬賊(騎馬の群盗)・匪賊(盗賊)の寄せ集めであり、張作霖、張学良時代、当時3000万といわれた満洲の民衆の支持を得ていなかったことで、満洲の民衆は悪政に苦しめられ、国家予算の85%が軍事費で、税金は数年先まで前払いさせるような有様でした。

 【満洲事変以前の満洲の実態】
1,そもそも、満洲は清国の領土であったが、支那の領土ではなく、辛亥革命で支那人(漢民族)が清朝を倒して独立したのだから、清朝を建てた満洲人(女真族)は満洲へ帰ればよいのです。
同時に、清朝に征服されていた蒙古民族・チベット民族・ウイグル族・苗族も同様に独立すればよい。

2,満洲は元来「封禁の地」として立ち入ることを禁じられていました。それは満洲族の故地として、満洲族が支那にこぞって移住した後、満洲族に万が一のことがあった場合に戻れるよう確保しておいたのです。したがって満洲は近代産業といわれるようなものは何一つない荒れ果てた地でした。

3,それを日本が、ロシアの南進を阻止するため日露戦争を戦い、インフラを整備し、近代産業を移植し、治安を維持し、支那の内乱が及ばない別天地にしたのです。

4,そのため大量の漢民族が、内乱に明け暮れる支那から安定した満洲へと流入してきたのです。
日露戦争(1904年)の頃は1000万人、辛亥革命(1911年)の頃は1800万人であった人口が、満洲事変後には3000万人に達していました。

 【当時の諸外国の状況】
1,満洲に最も関心を持つソ連は、第一次経済開発5カ年計画の真っ最中で、中立不干渉を表明し、国内の経済政策に忙殺され、対外的な余裕がなかった。

2,蒋介石の国民党政府は、国内統一を優先し共産党掃討に没頭していたため、張学良の応援には一兵も送らなかった。

3,イギリス・フランスは、大恐慌が猛威を振るっている最中であり、恐慌対策に必死で、日本の行動を黙認していた。イギリスなどは、支那の中央部にある大きな権益が保証されるなら、日本の満洲占領を認めてもよいという立場だった。

4,例によってアメリカのみが反対で、国務長官スチムソンは満洲事変に関するすべての結果に「不承認」であることを宣言した。しかしアメリカも不況対策で忙しく、単独で日本に干渉する余裕がなかった。
 
 【支那お得意の条約違反】
1,日露戦争で日本は南満洲鉄道(東支鉄道の南支線)の敷設権を得、それと同時にこの支線と競合する鉄道建設禁止を約束していた、にもかかわらず、張作霖・張学良は満鉄の東西に二大併行線を敷設し(1929年)、これがために満鉄は衰微してしまった。

2,1915年の日華条約で、南満洲での日本人の土地商租権(商工業、農業を営むために外国人が支那の土地を租借する権利)を認めたが、同時に国内で日本人に土地を貸した者を死刑にする法令を発布している。

3,排日教育により反日感情を煽る。

【満洲国建国】
満洲人・支那人・蒙古人よりなる「東北行政委員会」は1932(昭和七)年2月、満洲の独立を宣言し、清朝最後の皇帝である宣統帝溥儀が全会一致で元首に選ばれている。
3月1日満洲国政府は建国を宣言し、9日には溥儀が執政に就任しました。日本国内では満洲国を承認するか否か議論が沸騰しましたが、早期承認の声が高まり、6月衆議院が全会一致で承認促進決議を行い、9月正式に承認しました。

【リットン報告書】
1932(昭和七)年、国際連盟は「満洲事変」に関する調査団を派遣し、『リットン報告書』が作成されます。1933(昭和八)年、『リットン報告書』に基づき、国際連盟で満洲国の主権は支那に属するとされ、日本軍の撤収が勧告されます。「分裂内戦支那」「複数政府支那」のどこに主権があったというのでしょうか。
 同報告書は「満洲国建国」を否定しましたが、「満洲事変」を「極度に複雑な事件」として、当時の日本の置かれた状況を的確に掴んではいます。
「日本は共産主義及び排日宣伝に染まざる満洲を介在せしめんとする希望を感ずるに至れり」・・・・
posted by 小楠 at 07:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 近現代史の復習
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