近現代史の復習10
カテゴリー<近現代史の復習>で、反日、左翼、新聞、テレビから発する嘘、隠蔽、捏造での汚染を予防するため、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。
【第二次北伐と山東出兵】
蒋介石は1928(昭和三)年4月、国民革命軍総司令に返り咲き、「第二次北伐」を宣言しました。
日本政府は、第一次北伐の際の「南京事件」の経験から、日本人保護のため4月下旬再度山東省に出兵しました。
【済南事件】
山東省の済南城には、北軍が撤兵すると5月1日蒋介石の北伐軍が入城してきました。2日、北伐軍の蒋介石より、治安は北伐軍が確保するから済南城内の日本軍の防御を撤去するよう要請がありました。
日本軍は衝突を避けようと、徹夜で防御を撤去します。すると防御撤去直後の5月3日朝、北伐軍がいきなり居留民家を襲撃し略奪を行いました。日本の救援部隊が駆けつけ交戦状態に入りますが、済南城内のいたるところで日本人居留民が北伐軍により惨殺され、略奪なども含めると被害者は400人にのぼりました。虐殺の仕方は支那伝統の言語に絶する残虐なもので、「腹部内臓全部露出せるもの」「両眼球全くなし」といった、外務省公電や病院の検視結果があり、この結果日本国民の憤激は極度に沸騰しました。
7日、日本の山東省派遣軍は12時間の期限付きで北伐軍の撤兵などを要求しましたが拒否され、砲撃を決意します。砲撃は敵司令部と城壁に限定し、安全地帯と避難路を指定したため、北伐軍は城外へ逃げ、11日には済南城を簡単に占拠しました。
中共では、この事件を反日運動に利用しているが、それなら以下の事実はどう説明するのか。
@北伐軍の要請により防御を撤去した。
A北伐軍10万人に対し、日本守備隊はわずか3500人。
B日本軍は砲撃に際し安全地帯と避難路を指示した。
海外の論調は日本を支持しています。
☆英紙デイリー・テレグラフ「支那人は略奪と殺人を天与の権利であるかのごとく暴行を繰り返している」「日本の忍耐にも限度がある」
☆フランス紙ル・タン「日本の行動は居留民保護で、何等政治干渉の意味はない」
☆アメリカ極東外交史家タンシル教授「支那兵、済南事件を挑発す」
☆アメリカ公使マクマレー「国民党指導者と称する者が現実を直視して日本との衝突を避けようとしなかった」
蛇足ながら岩波の『広辞苑』は、「済南事件」を「・・・・日本軍が居留邦人保護の名目で山東に出兵、済南を占領、多数の市民を殺傷した事件。・・・」と書いています。
これではどう読んでも市民を殺傷したのは日本軍としか読めない。
【掃共戦】
北伐軍は張作霖を追って、1928(昭和三)年6月、北京に入城し、北伐は完了しました。
蒋介石は、1930(昭和五)年から33年まで、5次にわたり共産軍掃討作戦を展開し、共産軍は次第に弱体化していき、その間毛沢東は瑞金に「中華ソヴィエト共和国臨時政府」を樹立しました(1931年)。
【大西遷・長征】
第5次掃共戦で国民政府軍に包囲された共産軍は、1934(昭和九)年10月、ついに根拠地である瑞金を捨てて1万4000キロの逃避行の末、延安にたどり着きました。これを「大西遷」「長征」といいますが、翌年延安にたどり着いたときは、10万といわれた軍隊は6000に激減していました。
共産党というのは、逃げ回った敗北までを隠蔽して「長征」などと表現し、何か偉大なことでもしたかのように騙しています。とにかく共産も反日も、左翼は嘘の塊でしょう。
岩波書店の出版物も私は全く信用していません。それは著者の名前で判断できます。翻訳物に関してはなおさら左翼に都合の悪い部分の隠蔽、削除、書き換えなどで、上述のような印象操作があるからです。
2006年07月15日
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