2006年07月14日

南京事件と第一次北伐

 近現代史の復習9
 カテゴリー<近現代史の復習>で、反日、左翼、新聞、テレビから発する嘘、隠蔽、捏造での汚染を予防するため、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【混迷続く支那】
 ソ連はワシントン会議に参加することもなく、九カ国条約にも制約されず、従って自由にアジアを侵略することができました。
 支那には統一された近代国家は生まれず、軍閥・匪賊が跋扈する状態が続き、いくつもの政府が分立していました。満洲の馬賊から身を起した張作霖率いる「奉天政府」、袁世凱の後を継ぐ軍閥勢力による「北京政府」、そして南方に孫文の「広東政府」が分立することになります。この前年(1921年)には、中国共産党が成立しています。
 他の軍閥に敗れ満洲の奉天に逃れた張作霖は、その後巻き返しを図り、北京の実権を握ります。このように九カ国条約により、支那の領土保全・独立尊重などが列国の間で決定されたにもかかわらず、支那は混沌とした複数政府状態が続きます。
 1924(大正十三)年、ソ連は「北京政府」と「東支鉄道暫行管理協定」を結び、東支鉄道をソ連と支那と共同運営することを決めます。こうしておきながら同年、ソ連は張作霖の「奉天政府」とも同一の協定を結んでいます。このことは、ソ連がすでに満洲を支那から独立した自治地域であると認めていたことを物語っています。これは満洲事変後の『リットン報告書』に記載されています。

 【第一次北伐】
 孫文が死ぬと(1925年)、蒋介石が台頭し国民革命軍総司令となります。蒋介石は1926(大正十五)年、北方の軍閥政府を打倒するため北伐軍動員令を布告し、広東を発した蒋介石の北伐軍(国民革命軍)は、武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽)を陥落させました。蒋介石はさらに南昌に軍を進めますが、共産党と国民党左派はこれに従わず、武漢に国民党政府の移転を宣言しました。これに喜んだコミンテルンは、彼らに国民党右派と徹底的に戦うよう指示します。

 【南京事件】 1927(昭和二)年、蒋介石は「武漢政府」より国民革命軍総司令の地位を剥奪されましたが、蒋介石はそれを無視して北伐を続行、強大な軍隊で上海近郊・南京を占領しました。ここに
「南京事件」
が起こります。
 南京に押し寄せた北伐軍は各国の領事館を襲撃し略奪を働き、日本の領事館にも兵士が乱入・略奪しましたが、そのうち一般市民まで略奪に加わりました。
領事館の警備を担当していた荒木海軍大尉は、革命軍を刺激しないようにとの居留民たちの依頼で無抵抗主義を貫いたのですが、事件後、領事館警備の任務を全うできなかったとして、軍艦利根艦上で引責自決しました。
 
 英米も領事館・学校・会社等の略奪を受けたため、両国は軍艦から南京城内に砲撃を行いましたが、日本はこの砲撃には加わりませんでした。
 「南京事件」は、蒋介石の国民革命軍と外国との衝突を引き起こすことにより、蒋介石を失脚させ、国民党右派を排斥し、国民党を共産化しようとするコミンテルンと中国共産党の陰謀でした。この事実は国民党右派が入手した、モスクワから北京駐在ソ連大使館あての秘密文書でも明らかです。イギリス外相チェンバレンは「『南京事件』はコミンテルンの指揮下に組織され、発動された」と述べています。その三日後にロンドンのソ連通商代表部でその証拠文書が押収され、イギリスはソ連と国交を断絶しました。
 ☆この南京事件については、ラルフ・タウンゼントの「暗黒大陸中国の真実」にも記述されています。

 【南京政府樹立】
 国民党内に潜伏している共産党分子の暗躍に対し、蒋介石は上海で大粛清を行い、南京で「南京政府」を樹立しました(1927年)。
 この時点で支那では、国民党が左右に分裂し、共産党・国民党左派の「武漢政府」と反共の「南京政府」が対立し、さらに北には張作霖の「北京政府」が分立していました。

 【第一次山東出兵】
 このような状況下で1927(昭和二)年5月、日本政府は支那における居留日本人保護のため「居留民の危険が去ったら速やかに撤兵する」という声明をして、旅順駐屯軍を山東省に派兵します。
 これに対し、「北京政府」「武漢政府」「南京政府」から厳重な抗議があったが、支那は一つの国に三つの政府が存在し、それぞれから抗議を受けるというような状態でした。

 【国共合作の終了】
 蒋介石が共産分子の大粛清を実施すると、コミンテルンは、中国共産党に農民の武装蜂起を指令し、農民・労働者の団体内に共産党秘密機関を作るよう指示しました。これを知った国民党左派は、これは孫文の唱える「三民主義」ではなく、共産革命であることに気づき、「武漢政府」は1927年7月、共産党との絶縁を決意し、ソ連の政治・軍事顧問を解雇し、1924(大正十三)年孫文が認めた国共合作が終了します。9月、武漢の国民党左派である汪兆銘は、蒋介石の南京の国民党と合体し、共産党の幹部は四散しました。

 【北伐の中止と日本軍の撤兵】
 1927(昭和二)年、7〜8月に蒋介石の国民革命軍が張作霖の北軍に大敗するという事態が起き、8月14日蒋介石は下野し、北伐は中断せざるを得なくなります。
 山東省に出兵していた日本軍は、「居留民の危険が去ったら速やかに撤兵する」という声明を忠実に守って、9月には山東省から撤兵しました。

 昭和二年の南京事件も、国民党の中に潜り込んだ共産党分子が計画的に引き起こしたことが、モスクワから北京駐在ソ連大使館あての秘密文書でも明らかになっているということです
 今の日本でも、反日分子がマスコミや官僚の中に潜り込んでいるための現象が数多く見られます。これらを速やかに排除することがまず重要でしょう。
posted by 小楠 at 07:36| Comment(2) | TrackBack(0) | 近現代史の復習
この記事へのコメント
我が日本にもこのような陰謀策術の時代があったなんて・・・想像も出来ませんね、現代の為政者・何たら解説者・かんたら評論家どもを眺めていると。支那は一貫として捏造詐欺ペテンで通しているのに、日本は戦後骨抜きにされて見る影もなくなってしまいました。口達者な支那国の言われるままに騙されるままに誇りを失って同調する者まで現れました。愚かな日本人ですね。したたかなる人材を育成するのにあと数十年は掛かります、その頃には日本は支那の一省に組み込まれてしまいそうです、このままでは。何とかなりませんかねえ。不良外国人に甘い顔をしていると痛い目に遭うことを先ず教えてあげないといけませんね。"国益"に成る人ならない人を見分けることと"区別"の必要性を説かないとなりません。
Posted by ケイさん語録 at 2006年07月16日 14:58
>>"国益"に成る人ならない人を見分けること

最近のネット上では、絶対に投票してはならない政治家の名前なんかも出るようになってきました。
これももっと大々的にネット上に蔓延させればいいですね。
それ専門のページがあればいいかな。
Posted by 小楠 at 2006年07月17日 11:07
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