2006年07月13日

共産主義の脅威

 近現代史の復習8
 カテゴリー<近現代史の復習>で、反日、左翼、新聞、テレビから発する嘘、隠蔽、捏造での汚染を予防するため、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。 
 
 【辛亥革命】
 日露戦争中の1905(明治三十八)年、孫文は東京で「中国革命同盟会」を結成、1911(明治四十四)年、武昌で革命軍が挙兵し、辛亥革命が起こると、急ぎアメリカから帰国し、翌年1月1日、中華民国の臨時大総統に就任しました。
 清朝皇帝を退位させることを条件に、孫文は袁世凱に大総統の地位を譲りますが、皇帝の座を狙う袁世凱は武力で孫文の国民党を弾圧し、孫文は日本に亡命します。袁世凱の死後、1917(大正六)年、孫文は大元帥となって広東政府を樹立しましたが、諸外国の承認は得られませんでした。諸外国は依然として北京政府と国交を持っていましたが、北京政府も全国を統治していたわけではなく、軍閥、匪賊らが跋扈する複数政府の状態でした。

 【コミンテルンの狙い】
 1917(大正六)年にロシア革命が起こり、ソ連邦が出現し、多数の国に共産党が結成され、1919(大正八)年、世界の共産党の国際組織であるコミンテルンができますが、ヨーロッパでの革命は失敗し、レーニンは革命の場をアジアに求めます。
 ソ連軍は1921(大正十)年、蒙古西方に侵入し、「トワ人民共和国」を樹立。1924(大正十三)年には「蒙古人民共和国」を樹立しました。
 清朝滅亡後軍閥が割拠し混乱が続く支那は格好の標的でしたが、そこには打倒すべきブルジョアジーもいなければ革命の担い手たるプロレタリアートもいませんでした。マルクスによれば資本主義が成熟したとき、プロレタリアートがブルジョアジーを暴力で倒すのが共産主義革命です。
 そこでコミンテルンは、清朝滅亡後十年近く経っても統一国家が成立せず、軍閥や匪賊に苦しめられている一般大衆に目をつけます。打倒する相手は軍閥・匪賊そして諸外国とし、排外運動に結びつけました。つまり排外運動を支援することにより共産主義を輸出し、それによって世界を支配しようと考えました。そしてこれは見事に成功します。

 【中国共産党と国民党】
 コミンテルンは、1921(大正十)年、上海で中国共産党を組織、これを支援すると同時に、国民党を利用しようとしました。1924(大正十三)年、国民党第一次全国代表大会が開かれ、この決議には国共合作が含まれています。翌1925(大正十四)年、中国共産党は「国民党内工作決議案」という秘密決議案を全党員に指令しています。その後国民党と中国共産党は離合集散を繰り返しますが、国民党内には共産主義分子が深く浸透していきました。
 孫文の命令でモスクワに派遣された蒋介石は、共産主義の危険性を嗅ぎ取り、国民党から共産主義分子を排斥しようとしました。
 国民党と中国共産党は、孫文を中国革命の父とし、それぞれの後継者を任じています。

 【シベリア出兵】
 第一次世界大戦前、チェコはオーストリアの支配下にあり独立を願っていました。ロシア国内には多くのチェコ人がいて、オーストリアと戦う連合国のために戦っていました。ところがロシアでは革命が起きソヴィエト政府が誕生し、戦場から離脱します。 連合国は共産主義を脅威と感じ、ソ連と戦うことを決めます。そして連合国のために戦うチェコ軍を支援しシベリアに出兵することを決め、日本にも出兵を要請してきました。日本は出兵を拒否していましたが、アメリカが共同出兵に同意したため、1918(大正七)年出兵に応じます。
 アメリカは日本ほど共産主義を危険と思っていなかったのか、1920(大正九)年、突如撤兵してしまいます。日本も撤兵の方針を声明しましたが、思いがけない事件が発生したため、撤兵は大幅に遅れました。

 【尼港事件】
 1920(大正九)年3月、樺太の対岸にある尼港(ニコライエフスク)の七百数十名の日本人居留民・陸軍守備隊が、突如四千人からの共産パルチザンに包囲攻撃されます。日本は雪解けを待って救援軍を派遣しましたが、その前に尼港市民のうち、共産主義に同調しない約六千人が虐殺され、うち日本人七百数十名が、凌辱暴行され虐殺されました。

 【治安維持法】
 1922(大正十一)年、コミンテルンの世界大会で「君主制の廃止」を決議し、ロシアでロマノフ王朝の王族がその愛馬に至るまでことごとく惨殺されたことから、日本人は皇室の廃止と皇族の虐殺を恐れました。尼港事件の影響もあり、暴力的なテロ行為の流入を防ぐため1925(大正十四)年、「治安維持法」を制定しました。
 共産主義には暴力・大量殺人・大量犠牲がつきものです。スターリンのソ連では二千万〜五千万人が虐殺され、毛沢東の中華人民共和国では、大躍進政策で二千万人の餓死者を出し、文化大革命では二千六百万人もの犠牲者を出し、さらにチベットでは百二十八万人が殺害、ポル・ポト派のカンボジアでは二百五十万人が虐殺されました。
 「治安維持法」の目的はあくまでも暴力や大量殺人を伴う「共産主義」の取締りであり、「労働運動」や「社会運動」を取り締まるものではありませんでした。それは「治安維持法」と同時に公布された「普通選挙法」により、社会民衆党・労働農民党・日本労農党など無産政党が議席を獲得していることからも明らかです。また、同法成立の翌年には「日本労働組合総連合会」が結成されています。
 なお「治安維持法」で死刑になった者は一人もいません。しかし、多くの人が冤罪で捕まり、プロレタリア作家小林多喜二のように警察の取調べの途中拷問で亡くなった人もいるため、悪法といわれています。が、前述のように共産主義の下では、何ら取調べもなく虐殺された人々の数は、数千万人単位です。

 コミンテルン日本支部が日本の共産党でした。コミンテルンの指示に従って、天皇制打倒など、戦争の混乱を利用して日本の国体破壊を目論むため、日本がかかわる戦争は、長引かせるほど彼らには都合がよかったのです。共産党、共産主義者の本質を知って、普段の美辞麗句、平和、人権、差別、自由などに騙されないようにしましょう
posted by 小楠 at 08:01| Comment(2) | TrackBack(0) | 近現代史の復習
この記事へのコメント
『全文リットン報告書』の解説(渡部昇一)にタンヌ・トワ人民共和国とあり、ネットで検索をかけたら、このサイトに来ました。コミンテルンの動きがよくわかりました。ありがとうございます。
Posted by 田中清照 at 2006年11月29日 15:33
田中清照様
トワ人民共和国のことでしたか。
お役に立てたようで幸いです。
コメント頂いて有難うございました。
Posted by 小楠 at 2006年11月29日 16:26
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