2006年07月07日

満洲と日露戦争

 近現代史の復習3
 カテゴリー<近現代史の復習>で、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。 
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

 【「満洲」は民族の名】
 「満洲は現在では地名となっていますが、本来は「民族名」でした。
 満洲には「ジュルチン」という民族が住んでおり、漢字では「女真」「女直」と書きます。ジュルチン族は仏教を信仰し「マンジュ菩薩」(文殊菩薩とも書く)を崇拝し、「ジュルチン」を「マンジュ」と変えました。これに満洲の字をあてて新しい民族名としたのです。

 【「東北」「東三省」「関外」「関東州」】
 現在、中華人民共和国は満洲を「東北」と呼びますが、中華民国時代は「東三省」と呼び、それ以前は「関外」と呼んでいました。「関外」とは万里の長城の東端にある「山海関」の外という意味です。「山海関の東」すなわち遼東半島の大連一帯を「関東州」といい、ここに置かれた日本軍が関東軍と言われたのです。
漢民族にとって、万里の長城より北は歴史的に異民族の土地であり支那固有の領土ではなかったのです。

 【日清戦争後のロシアの動き】
 三国干渉後、1896年「露清密約」により、清国はロシアの「東支(東清)鉄道」建設を許しました。また、1885年には、韓国はロシアの軍事顧問を受け入れ、港湾の使用を許可するとした「露韓密約事件」も起きています。もちろんロシアは、日本が三国干渉の結果清国に返還した遼東半島も横から何の苦もなく1898年に租借していました。

 【義和団事変・北清事変】
 (義和団事変については義和団事件時の日記もご覧下さい)
 1900(明治三十三)年、宗教的秘密結社である義和団が「扶清滅洋」(清朝を助け、外国を滅ぼす)を唱えて北京の諸外国公使館区域を包囲しました。すると清帝は義和団を義民とみなし、列国に宣戦布告したのです。
 列国は日本に出兵を要請しますが、日本は他国の疑惑を考慮して出兵には慎重な態度をとっていました。ロシアは、満洲占領の口実を得るため公使館区域の籠城者が殲滅されることを望み、欧米の日本に対する救援要請の妨害をしています。しかし、イギリスからの四回の要請を受けた日本は遂に派兵し、八カ国連合軍(約二万のうち半数が日本)が外交官や居留民を救出し、西太后・光緒帝は西安に逃れました。
 この結果締結された議定書により、日本は諸外国と共に支那駐屯軍を置くことになります。
 義和団事変で日本軍の軍紀の厳正さは各国の称賛を浴びます。最もひどかったのがロシア軍で、「江東六十四屯虐殺事件」と呼ばれる大虐殺を行っています
 事変後の北京城内管理で日本地区が最も治安が安定し、ロシア地区が最もひどかったため、北京市長は英国公使に、ロシア担当地区を日本軍が受け持つよう要請したほどです
 義和団事変で最も功績のあったのは日本でしたが、賠償金については多くを要求していません。以下主要国の賠償金要求割合は
ロシア・・・・29% ロシアは日本の四割の出兵。当初は欧米の
           日本軍出兵要請の妨害までしていた。
ドイツ・・・・20% 一兵も出兵せず。
フランス・・・16%
イギリス・・・11%
日本・・・・・7.7%

 【日英同盟】
 三国干渉以後のロシアの極東侵略政策に対し、日本では伊藤博文らの、ロシアと妥協して侵略政策を緩和させようとするものと、小村寿太郎らの、イギリスと結んでロシアの南進を防ごうとするものがあったが、結局1902(明治三十五)年、日英同盟が締結されました。これには義和団事変での日本軍がイギリスの日本に対する認識を変えたことも影響しています。

 【日露談判】
 義和団事変で満洲を占領したロシアは、事変鎮定後も満洲に居座り、日英米などの抗議で撤兵を約束しましたが、期限がきても撤兵せず、逆に兵力を増強します。また鴨緑江河口の竜岩浦を軍事占領し、韓国と竜岩浦租借契約を結び、ここに要塞を築きポート・ニコラスと改称しました。
 日露は次のような外交交渉を行った。
日本 :韓国における権益は日本、満洲における権益はロシア。これを相互に認める。
ロシア:満洲は交渉の対象外であり、韓国は北緯39度以北を中立地帯とする。
日本 :満洲を日本の権益の対象外とするなら、韓国はロシアの権益の対象外とすべき。中立地点を設けるというなら、満洲と韓国の境界の両側50キロとすべきである。
日本はこれに対する返事を三週間待ったが回答なく、ついに国交を断絶しました。
 (日露戦争については公使夫人の日露戦日記もご覧下さい)

 【日露戦争の歴史的意義】
1,日本の勝利により、ロシアの南進を阻止、朝鮮半島での日本の  優位を確実にし、満洲のロシア軍を撤退させた。
2,白人の帝国主義に苦しむアジア始め世界の諸国を覚醒・奮起させ、民族独立への希望と勇気を与えた。
結果的に、日露戦争以後白人の植民地は一つも増えていない。
○ 孫文・・・・・バルチック艦隊が壊滅し日本の決定的勝利に東洋が興奮に包まれているとき、孫文は東京で「中国革命同盟会」を結成した。
○ ネルー・・・・「もし日本が、最も強大なヨーロッパの一国に対してよく勝利を博したとするならば、どうしてそれをインドがなし得ないといえるだろう」
○ ムスターファー・カミール・・・「日本人こそは、ヨーロッパに身の程をわきまえさせてやった唯一の東洋人である」

日本は150万円、ロシアは200万ルーブルの「戦場使用代」を清国に支払っています。つまり清国は、満洲で日露両国が戦ったことに国際法上主権侵害などとは言えません。
posted by 小楠 at 07:11| Comment(0) | TrackBack(1) | 近現代史の復習
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西暦1904年 - 日露戦争
Excerpt: 1904年、日本がロシアに宣戦布告し日露戦争が始まる。ロシアのバルチック艦隊を破るなど戦局を有利に進めた日本は、1905年、ポーツマス条約を結びロシアと講和する。
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Tracked: 2009-10-25 19:17