2006年07月06日

朝鮮開国と日清戦争

 近現代史の復習2
 カテゴリー<近現代史の復習>で、正しい日本の近現代史の一連の流れをまとめておきたいと思います。
 ここでは、「近現代史の必須知識」を参考、引用して、日本人として知っておくべき近現代史を簡潔に掲載していきます。学校では習わなかった(教えられなかった)ような内容も多々あると思いますが、その部分が戦後の日本教育の歪であると理解されれば、反日や左翼の意図が見えてくるのではないでしょうか。

【明治日本と朝鮮】
 当時の日本にとって最大の脅威はロシアでした。ロシアは1860年には清国に沿海州を割譲させてウラジオストックに港を開いていました。このロシアが南下し、朝鮮を植民地化すれば、次は日本が標的となることは自明の理です。そこで明治政府が期待したのが朝鮮の開国・近代化でした。またこれは日本にとっての死活問題でもあります。
 明治元年、維新政府は朝鮮と修好回復を希望する国書を提出しましたが、その文中に清の皇帝と対等であることを表す「皇」の文字などがあるという理由で朝鮮は国書の受理を拒否しました。日本は、朝鮮が華夷秩序の中で、かたくなに国交樹立を拒否するため、先に清国との「日清修好条規」を締結します。

 ≪華夷秩序・小中華思想≫
 華夷秩序とは、世界の中心に天子のいる中華があり、その周辺の蛮族がみなその属国となって朝貢する関係のことで、この宗主国と属国の関係を「宗属関係」といいます。朝鮮は支那が親で、日本は下位の弟分と考えており、これを「小中華思想」といいます。現在でも韓国は日本の天皇を「日王」と呼んでいます。
 日本はすでに、聖徳太子が隋の煬帝に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という手紙を送り、華夷秩序を脱しています。
 ≪朝鮮の国名と年号≫
 14世紀末、李成桂が「李氏朝鮮」を建てたとき、明の朱元璋(太祖)より国号を報告するよう要請がありました。そこで李成桂は「朝鮮」と「和寧」を提示し、いずれとすべきか選んで欲しいと頼み、「朝鮮」と決めてもらいました。年号も明国の年号を使用しています。

【江華島事件(雲揚号事件)】
 1875(明治8)年、測量目的で江華島の沖合に停泊していた軍艦雲揚号の井上艦長が、飲料水を求め自らボートで陸地を目指していたところ、突如朝鮮側が発砲してきた。ボートで陸地に近づいたのは無害通行で、これに発砲するのは万国公法違反です。この武力衝突の結果翌年、江華島条約(日朝修好条規)が締結されました。この条約は「朝鮮国は自主の邦として日本と平等の権利を有せり」という、清国との宗属関係を否定した、朝鮮にとっては画期的な条約でした。
 
 【日清戦争】
 日本が朝鮮の独立を主張し、清国が朝鮮を属国であると主張して対立した戦争です。日本は朝鮮の独立を援助し、清国はこれを妨害しました。
 日本の宣戦布告の勅令には「朝鮮は・・・列国の五伴(仲間)に就かしめたる独立の一国たり」とあり、清国の宣戦詔勅には「朝鮮はわが大清の藩屏(直轄の属領)たること二百余年、・・・」とあります。戦後の下関条約(1895)で、清国は朝鮮の独立を承認しました。

 【三国干渉】
 日清戦争後の下関条約で、日本は遼東半島を割譲されましたが、清国は列強の力を利用して日本を追い出そうとしました。
 これは支那伝統の外交術「以夷制夷」(夷を以って夷を制す)で、露仏独の三国が遼東半島の清国への返還を日本に迫りました。これは、下関条約調印の六日後のことです(調印4月17日)。
 三国に対抗する国力のなかった日本は、やむをえず遼東半島を清国に返還しました。
 ≪三国干渉の影響≫
 1,清国
 清国にとって三国干渉は、日本を追い出した代わりに狼を引き入れるような結果になります。三年後の1898(明治三十一)年、ロシアは遼東半島を租借地として獲得します。何のことはない、日本が戦争で得た領土を横からさらっていっただけです。(当時の戦争は、敗戦国が領土を割譲し賠償金を払って決着をつけていた)。それだけでなく他の二国すなわちドイツは膠州湾を、フランスは広州湾を租借したのです。

2.朝鮮
 三国干渉で日本が屈服すると、朝鮮の中で親日派が動揺し、親露派が台頭します。朝鮮国王はロシア公使館に移され、一年間ここで政務を執ることになりました。

 【朝鮮の事大主義】 
 朝鮮は、日清戦争前は清国側に付いていましたが、日本が勝利すると日本側に付き、三国干渉で日本が屈服するとロシアに傾き、日露戦争で日本が勝利するとまた日本に傾いてきました。このように朝鮮は常に強い方に頼ろうとします。これを「事大主義」(大につかえる)と言います。
 日本は、朝鮮を独立させ、内政改革により近代化させ、ロシアに対する日本の防波堤にしようとしました。ところが朝鮮は日本の近代化支援を侵略として排斥しようとし、伝統的な事大主義から抜け切れず、この千載一遇のチャンスを活かせず内部の暗闘に明け暮れ、近代国家として独立する絶好の機会を逸してしまったのです。

 日本は、信義も何も無い朝鮮の事大主義にはほとほと困ったようです。当時の外交文書を見ても、その様子がよく解ります。福沢諭吉が一転して「脱亜論」を唱えた理由もうなずけます。
posted by 小楠 at 07:21| Comment(5) | TrackBack(1) | 近現代史の復習
この記事へのコメント
<朝鮮は常に強い方に頼ろうとします。これを「事大主義」(大につかえる)と言います>・・・・これは民族の宿命と言うか、生き抜く知恵として彼等のDNAに刻まれたものでしょう。日本はこの事をしっかり知った外交交渉が必要ですね。
Posted by カピタン at 2006年07月06日 07:58
とても解りやすい日本周辺近現代史。特に鮮国鮮人鮮匪の下劣さ下品さ下賎さが読めました。どうしようもない悲劇の民族ですね。呪われていますね。サンドウイッチの腐ったハムみたいで気の毒にもなります。毛の抜けたイヌみたいな民族です朝鮮半島人は。人種偏見はいけませんが民族の貴賎の区別は必要です。元気が出てきました。
Posted by ケイさん語録 at 2006年07月06日 11:49
朝鮮との外交文書で、面白かったものの一つですが。
ある書類で、日本側が「大日本帝国は韓国に対して・・・」という記述を見たあちらの役人が、韓国の文字の前にも「大」の字をつけて「大韓国」として欲しいと、書き直しを要求していた部分です。
まるで大人が子供をあやしながらの交渉のようでした。
Posted by 小楠 at 2006年07月06日 16:07
まことに要領を得た近現代史だと思います。
まさしくこの通りだと思います。
Posted by Minesan at 2006年07月08日 07:09
Minesan いつも有難うございます。
ブログに歴史上の色々な事項を掲載するのに、近現代の正しいあらすじを基本にすることが大切と考えましたので、何回かに分けて掲載しておこうと思いました。
Posted by 小楠 at 2006年07月08日 08:50
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西暦1894年 - 日清戦争
Excerpt: 1894年、東学党の乱をきっかけに、朝鮮半島において清と日本が衝突し日清戦争が始まった。翌年、清が敗戦し、下関条約が結ばれる。
Weblog: ぱふぅ家のホームページ
Tracked: 2009-10-23 22:38