2008年01月11日

英支関係の推移

支那をめぐる日英米4

今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は昭和二年の南京事件の本です
nankin2.jpg

引用開始
 新しきロシヤの出現は、支那国民思想に非常な変化をもたらした。1919年、カラハンの名を以て、モスクワの人民委員会から発表された長文の宣言は、支那民衆に偉大な感銘を与えた。彼は言った。ソヴィエト・ロシアは、帝政露国が、支那を搾取するために、欧米及び日本の帝国主義者たちと取り定めたあらゆる条約を廃棄する。ロシヤは満洲及び支那各地において昔得たあらゆる土地を支那に還付する。団匪賠償金も還付する。治外法権も還付する。支那はパリ会議において第二の朝鮮とされようとしたではないか。支那は聨合国に欺かるることなく、ソヴィエト・ロシヤを理解し、これと正式に手を握るべきであると。
 かくて1920年以降、ユーリンを先頭にバイケス、ヨツフェ、と入れ代わり国交回復の使節がやって来たが、支那政府は蒙古問題に対する疑惑と、赤化宣伝の恐怖とで、交渉なかなかはかどらなかった。その後カラハンがヨツフェの後任として着京し、顧維鈞との間に、1924年五月、全然白紙平等の立場に立った露支協定が成立して、両国は完全なる国交関係に這入った。これは支那政府も以外であったであろうが、支那民衆には久振りで青天白日を仰いだような感想を与えた。

 ロシヤは外蒙古、東支鉄道は依然としてその手中に掌握して放さないのであるが、支那の民衆の目にはあらゆるものを棄てたように映じたのである。ロシヤはこの一挙で支那の全国民の心中を掴んで、爾来縦横無尽に活動し出した。特に広東国民党と共産党との提携以来、国民革命の指導方針は、ほとんどロシヤがその論理と戦術を与えた。
 打倒帝国主義打倒軍閥、これ等の鉾先は直に日英両国と張作霖に向けられた。しかして彼らは先ず英国を倒せ、英国倒るれば日本は自然倒れるというのであった。これらは甚だしく南支那における排英熱煽揚の機会を造って、空前の反英的海員罷業が香港に起り、次いで広東の租界でいわゆる沙面事件を惹起して、英国軍と支那の大衆とが睨み合った。またロシヤは北京大学以下北方青年に宣伝を進めて、相応の収穫を収め、非帝国主義の声を強めて、支那において最優勢を保持する英国への反対熱を助長したのは誰も知る通りである。1923年の北京大学を中心とする反キリスト教運動、京漢線鉄道従業員大罷業、1925年上海租界警官支那学生射殺事件等、つぎつぎに起る排英運動は、たちまち全国的に瀰漫したのである。・・・・


 その背後にはその目的の異同こそあれ、露、米の息吹がかかっていることを忘れてはならない。
 さてこうなった状勢に当って、英国政府も大いに考え直さなければならなくなった。従来の高圧政策の転換、即ち無力な支那政府を見限って支那大衆の心を掴むいわゆる民心懐柔政策に転換するの外はなかったのである。この英国の対支新方針は1927年一月、時の外相チェンバレンによって対支声明となって表れた。・・・・
 ところがこんな通り一片の声明や通告などでは、なかなか熱狂した支那人の耳には這入る暇なく、皮肉にもこの声明と前後して、同年一月三日に、漢口事件が勃発した。
 同事件はちょうどその前年の暮、北伐軍が湖南から漢口に入ったその祝賀行列と、漢口英租界税関河岸に集っていた正月休みの多数労働者に対し、排英的宣伝が行われると、英警官はこの数千を超える群集が煽動せらるるのを危険と考えたのであろう、これに退去を命じた。演説に激昂した群衆は石を投げ、棍棒をふるって暴行を働いたので、警官と彼等との衝突となり、やがて、英国水兵義勇兵の出動となり更に転じて遂に支那側士官よりする英兵撤退要求ともなり、支那兵は英兵に代って英租界の警備に当り、かくして支那側は英租界を占領して終った。この暴力に始まって租界を占領した支那人は、後数日を経て同じ手で九江の英租界をも無断で占領した。・・・・・
 そうこうする間に、同年三月二十三日国民党の北伐軍が南京を占領し、南京虐殺事件を惹起した。

 日英米仏は各々その被害を蒙り、英米の軍艦からは大砲で応酬した。各国の世論は頗る喧鷔を極めて列国の態度も大いに硬化して来たが、勘腎談判の相手が海のものとも山のものとも判らない国民軍と来ているので武力の行使以外は暖簾の腕押し同様、何らの留保だも得ることが出来ずに、北伐軍はせっせと北上して終った。それでも国民党の内部でも列国を一手に敵に廻しては、北伐完成に至大の障碍をもたらすべきを覚っていわゆる共産系退治の清党運動が起った。これが一段落付いて自然排英第一主義も下火となって、英国もほっと息をついた。
 折も折り、北伐途中に日支の済南事件が起り、排英たちまち排日と変って、英国の対支緩和政策の実行に好個の機会を与えた。・・・・

 以上述べたように英国最近の対支政策は、譲歩また譲歩を続けて、専ら支那民心の緩和に努めているのであるが、これを昔から対支高圧政策を一貫し、支那の財政管理や鉄道管理に目をつけ、臨城事件で鉄道共同管理論まで持ち出し、また北京関税会議で支那の関税自主を支持した日本と争った英国と比ぶれば何という驚くべき豹変振りであろう。これ一つはワシントン会議以来列強の対支歩調が、目茶苦茶となり南京事件のごとき列国協調の必要を感ずる際にも、各国各自の態度を固持して、泡よくば抜駆の成功を収めんとするようになった結果にもよるが、対支政策上、両立し難き英露外交の衝突、立場の相違からなる英米外交の不調和、日英同盟廃棄からする日本の手前、等々により、今や英国は孤立無援の姿を以て支那国民に直面しなければならなくなったのであるから、ここに政策の転換を計って、暫らく過渡的時勢の推移に善処するより外はなかったのである。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の戦争
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