2008年01月10日

米支関係の進展

支那をめぐる日英米3

今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。
昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は本書今回の引用部分です
beishikankei.jpg

引用開始
 米国の富は世界戦争によって驚くべく増大した。パリ会議に失望した支那国民は、米国を将来の救世主の如く思ったであろう。米国からみても、支那大陸は開け過ぎた欧州から比べて恰好の資本の捌け口である。列強の協調によって支那の現状を改善して行くことは、米国にとって最も必要なことである。これには列強の特殊権益を無視して自由に且つ実質的に機会均等を振り廻すことでなければならぬ。それは米国の希望でもあり、支那の希望でもある。そこに1921年のワシントン会議が召集されて、表面的には特殊地位の消滅を達成し、山東問題によって支那に対する好意斡旋を示したゆえんである。

 支那はワシントン会議において七年越の山東問題も片付き、不平等条約撤廃も原則的に承認を得、また英国は威海衛を仏国は広州湾を還付する声明を発したから、米国を徳として悦んだであろうが、其の実余り収穫はなかったのである。現に英仏両国の声明の如きも今もって実現されないし、関税自主も僅かに日本だけに協定が成立したばかりである。蓋しこれらのぬか喜びも、根本的に支那自身の状態が、列国からみて支那の要求を容れるには、あまりに事実において不安心であるからである。然らばワシントン会議において丸儲けした米国はどうなるかと云えば、支那における特殊地位なる邪魔物排除の宿望は達せられ、競争相手の日本を孤立せしめ、支那に対する善意の列国の協調をもってその統一を援助し、日本の頭を抑えて、その代りに米国が牛耳るということになった。だから一面においては真実支那の主権を尊重して米支関係に一生面を拓いたというよりも、米国中心に支那を監視し指導するということになるのである。この米国の真意はたちまち臨城事件によって暴露された。

 臨城事件というのは、1923年の夏、津浦線の江蘇と山東の境の臨城駅付近で、支那の土匪が一列車を襲い、乗客中の外支人等を拉致し、支那と列国との間に問題を起したのである。当時米国は英国と一処になって支那鉄道を列国の共同管理にすべしと主張したのであったが、日本がワシントン条約を盾にとって、頑として動かなかったので、遂に物にならなかった。この事件は簡単のものであったが、その善後処分に対する米国の態度は果たして支那人にどんな印象を与えたであろう。

 その後北京の関税会議においては、日本は日置大使を特使として派遣し、劈頭支那国民の要望する関税自主に関しては充分考慮を払う旨を述べて、完全に会議をリードしたのであるが、途中段執政内閣の没落となり、その他各国各自の立場を固執して容易にまとまる見込みが付かなかったので、遂に英国側から会議中止を提議し、折角の関税会議もお流れとなってしまった。そしてこの会議において列国の歩調はすっかりバラバラに混乱してしまったのである。

 この間において広東を中心とする国民党には、ロシアの『被圧迫民族の解放』なる思想が多分に浸潤して来た一方において、純然たる平等の立場に立って露支協定が成立したので、なかなか正義人道の声が美しいだけ、それだけ米国の対支政策が極めて不徹底なものとしか考えられなくなった。たまたま国民党は北伐を敢行し、国民政府の名をもってひとまず支那統一の形をとったが、関税会議を終末として、列国の協調が乱れたので、米国は自ら進んで、この新興勢力の中心と握手するを得策と認め、1927年一月ケロッグ国務卿の名をもって、極めて友好的な然し極めて漠然たる声明をやって国民政府の機嫌を買ったのである。

 然るにその後間もなく単独南京事件の解決を国民政府との間に協定して各国に鼻を明かした。また同年七月二十四日には、ケロッグの名で対支新通牒が発せられて、米国はしばしば声明せる通り、支那に対して、満腔の同情を持っている。ついては関税問題についての条約締結のため、いつでも用意があると申して寄越したのである。例によって内容頗る曖昧な掴みどころのないものであるが、その翌日駐支米公使マクマレーと国民政府代表財政部長宋子文との間に成立した米支関税条約なるものが発表された。その内容は、米国は1929年よりの関税自主を承認する。然し他国品に比して、決して差別的待遇を与えてはならないというのである。・・・・・

 同年十月南京に国民政府が成立し、同政府は新政治に関し先ず米人顧問の多数を招聘した。・・・・
 又国民政府は、昭和四年三月、有名な排日系支那通トーマス・エフ・ミラード氏をも政治顧問として招聘したことを忘れてはならない。これら多数の顧問によって支那の内情を調査し、支那のために働くと同時に米国の勢力を援引するに努むれば、支那の財政、経済、投資、企業等はいつしか米国の手に管理せらる時が来るのであろう。・・・・
 すでに空輸と通信に利権を獲得した米国は、今後その宿望たる支那鉄道に手を下すことは必至の勢いと見なければならぬ。ハリマン、ストレート以後臨城事件においても見るように、何かの動機か機会が、はた列強の政治的地盤の減退か、予期の軍備縮小かが完成する場合には、列強の既得の利権に割込むは勿論、新規独力の鉄道利権を成立せしめることは、必来の事実として顕われるものと考えなければならない。この時における日英米支の紛争は今日より更に更に、複雑を極めるであろう。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の戦争
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/9313647
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック