今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真は義和団事件で北京大使館に篭城した日本人

引用開始
日清戦争後義和団事件が支那に発生して、北京(北平)に於ける公使館区域は団匪の襲撃に会った。・・・然し列国聯合軍が北京を占領してから、支那との間にいわゆる団匪事件議定書なるものを作成して、ここに支那の国際関係の上に、一つの紀元を作った。その後日露戦争により東洋の気運も漸く一変することとなり野郎自大の支那人もまた漸く覚醒して、泰西文化の輸入が国内の大勢となり、或は憲政の準備、法典の編纂等、範を我が国の学者識者の招聘されるものが少なからずあった。実際支那人の国際観念はこの時節から涵養されたものといってもいいのである。
先年パリ講和会議に於て支那全権たちが・・・・その引用せる国際法論には我儘勝手の我田引水論が多かったに拘らず、・・・・これと同時に支那は欧米外交界の悪流行たるプロパガンダを多分に見習い、山東問題をかって、極力排日宣伝に努め、無実無根の事柄を捏造して日本の信用を毀損せんと計った。
たとえ其の行動が露骨劣悪なるものであっても、当時排日の気勢熾烈なる米国内では、この支那人の 排日宣伝、朝鮮亡命者の独立宣伝、在東洋米官吏伝道師商人の排日運動が二重三重に重なり合って放送されたのであるから、日本の真意は根底より誤解せられて、爾後の国交に頗る迷惑を与えたのである。
支那が完全な独立と、確固たる統制と着実なる発達をすることは、善隣の日本として最も希望する所であるが、徒に以夷制夷、遠交近攻等の弱国的術数を以て他国の排擠に努め、これを以て自国の向上手段かの如く考えて居る間は、何時までたっても東洋のバルガンたるの地位を免れることができないのである。・・・・濫りに旧来の陋習に囚われ、露国の事例に倣って、国際条約を勝手に破壊し国際間の信義を無視するを以て能事とするような態度は、中華民国として甚だ採らざる所である。・・・・・私は支那外交史の変遷を四期に分けて考えて見たいと思うのである。
第一は阿片戦争以後、第二は日清戦争以後、第三は日露戦争以後、第四は世界戦争以後である。・・・・
印度経略から東進して来た英国と阿片問題で衝突し、いわゆる阿片戦争を惹起して支那が負けた結果、英支間に1842年の南京条約、翌年の虎門鎮条約が締結され、英国に香港を割譲し、広東、アモイ、福州、寧波、上海の五港を開き、ここに居留地なる特殊地域を設けて初めて外人の治外法権を認めた。・・・・爾来各地の居留地制度は著しく発達して、其の地域内は全く支那の行政権の支配から離れてしまった。
1894年の日清戦争によって、支那は其の無能力を暴露し、あまつさえ日本牽制のため露国の歓心を求むるような姑息な外交を弄した結果、露は独仏両国を連ねて日本を圧迫し、遼東を還付せしめ、且つ借金を露仏両国で引き受けて支那に恩を売った。これが他日の口実となり、露は大連旅順、独は膠洲湾、仏は廣州湾、英は威海衞を各々租借することになり、支那瓜分の勢いを誘致したのである。この時代の特色は従来の如く各国共通の通商の利権を取得するのでなくて各地に自己の勢力地域を設定し互いに割拠して積極的に利権の獲得競争を開始したことである。・・・然もこれらの地域には各々軍隊を駐屯せしめて、露骨に利権獲得策を講じたのであるから、ややもすれば支那分割の形勢さえ現れて来たのである。
第三には1904、5年の日露戦争であるが、この戦争の結果により、我が国は露国の勢力を南満洲及び朝鮮から駆逐してその遺産を継承することになったために、一躍支那問題に対する立役者となり、列強の支那分割策に一大痛棒を与える役目を担うこととなった。・・・・
然るにこの日本の戦勝の結果、支那は列強の分割より免れ得たにも拘らず、日本の満洲に於ける特殊地位の強固となるにつれ、かえって従来の親日気分を棄てて日本を目するに帝国主義的侵略者を以てするようになって来たのである。また列国も漸次日本の実力に対する嫉視を増長させ、なるべく日本の活動を制限せんと図るに至った。その主導者となったのが、新たに極東に興味を持ち出した米国であった。
さてこの時代に於ける特徴は、支那の財政窮乏に付込んだ借款団の活動である。・・・・
米国は・・・・日露を疎外した英、仏、独の三国を誘って四国借款団を組織し、支那の希望に応ずることとしたのである。然し一方満蒙開発の借款には、日露両国の強硬な反対があって、支那問題に関する限り両国を除外することの不可能なことが判明し、四国借款団は日露を加えた六国借款団に変形した。翌年ウイルソンの消極政策により米国は脱退して、五国借款団となり・・・・世界大戦後露独に代わって又米国が復帰し、いわゆる新四国借款団なるものが成形したが、兎も角、支那に対し実際の発言権を有する列国が、この財団の形で、ある一国の単独的進出を防ぎ、経済的方面から支那問題に対する大きな働きをするようになった。
第四は世界戦争以後である。この時代に於ける支那は色々の方面に於て覚醒したものと言い得るのである。・・・・
これが大戦の末期から講和会議に於て最高潮に達し、ワシントン会議を経てやや成功し、爾来国権回復、不平等条約撤廃運動として継続されているのである。・・・・これに関して最も迷惑を蒙ったのは日本で、講和会議に於ける支那全権の如きは、支那の国際地歩の今日の如き欠陥を生じたのは、一に日本の圧迫に基くものの如くに吹聴して、列国なかんずく米国に対して各種のプロパガンダを行ったのである。これがため日本をしてほとんど孤立の地位に立たしめ、列国疑惑の中に、苦闘を続けるの止むなきに立至らしめた。
以上最近の形勢は日本に苦面を促し、英国に渋面を作らせ、米国に破顔一笑せしむる外形を与えたのであるが、内実は必ずしもそうではないのである。
引用終わり
どうでしょう、支那のやることは今現在も同じようなことに思えます。以夷制夷によって現在も日本はあらぬ非難を受けています。