2006年07月01日

大嘘の南京事件2

 陥落が迫った南京では、一般民衆保護のため、在留外国人たちにより安全区を設定し、非武装地帯とすることで日本軍の攻撃から一般人を守ることとしましたが、外国人委員たちとの約束に反して、中国軍兵は武装の撤去どころか、武器を隠し持った兵自身が軍服を脱ぎ捨てて、安全区に紛れ込むという非常に危険な状態としてしまいました。そのため日本軍にはまず便衣兵(便衣は日常服の意)と市民の選別が重要な仕事となったのです。
またこちらの「極東国際軍事裁判」のページもご覧下さい。

「南京事件」(国民党極秘文書から読み解く)東中野修道著より
 引用開始
 一九三七年(昭和十二年)十一月十二日、蒋介石は南京死守を決定したものの、十六日には南京放棄をひそかに決定し、全官庁の撤退を命じた。蒋介石はそれから南京に二十日間とどまったのち、ひそかに飛行機で逃亡した。それが南京陥落六日前の十二月七日であった。
 十一月十七日、南京放棄決定の翌日、非戦闘員のための安全地帯を作る目的で、南京にいた欧米人が国際委員会を結成した。・・・略・・・
 そのメンバーは時期によって多少の異同があるにせよ、アメリカ人六名、ドイツ人四名、イギリス人五名、デンマーク人一名であった。
 十一月二十二日、国際委員会の代表にジョン・ラーベ氏が推された。
・・・略・・・
 ラーベ委員長は日本に安全地帯を承認してもらうため、アメリカ大使館の無線を経由して上海の日本領事館に電報を打った。その内容をラーベ委員長の十一月二十二日の日記から引用する。
 「国際委員会は、次の点を国民政府に保証してもらうことを約束する。
 @軍事交通局を含むあらゆる軍事施設を安全地帯から撤退させ、非武装地帯とし、ピストルを装備した民団警官のみを置く。また、その場合、
 Aすべての兵士及びあらゆる身分階級の仕官の立ち入りが禁止される
。国際委員会は、これらが遵守され、滞りなく遂行されるよう配慮する。
・・・略・・・」
 国際委員会は、すぐにも安全地帯から兵士や軍事施設を撤去するよう中国軍に要求し、国民政府側も軍事施設などの撤去を約束している。ところが、その約束が実行されないばかりか、逆に軍事施設が拡充されるという憂うべき事態が進行していった。「ラーベ日記」から引用してみよう。
 「十二月三日。防衛軍の責任者である唐が、軍関係者や軍事施設をすべて撤退させると約束した。それなのに、安全地帯の三ヶ所に新たな塹壕や高射砲台を配置する場が設けられている
 「十二月四日。・・・・兵士たちは引き揚げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係の電話を引いている有様だ」・・・略・・・
 南京陥落直前の「ラーベ日記」を見てみよう。
 「十二月十一日、八時。・・・・いまだに武装した兵士たちが居すわっているのだから。いくら追い出そうとしても無駄だった。これでは、安全地帯は非武装だと日本軍に知らせたくともできないじゃないか」
 「十二月十二日。・・・・これでは安全地帯から軍隊を追い出すことなど、とうてい無理だ」
・・・略・・・
 この中国軍の非協力的態度を、すべての南京の欧米人が、ラーベ委員長と同じく気にしていたと思われるであろう。しかし、実はそうではなかった。
 国際委員会のメンバーだったジョージ・フィッチ師は、匿名で『戦争とは何か』に執筆した際、実際とは逆のことを書いていた。「唐将軍は首都防衛の任を帯び、安全地帯から軍隊と高射砲を一掃するという非常に困難な仕事に、概して非常によく協力してくれました。それで、十二日の日曜日に日本人が入城を開始する直前までは、称賛すべきほどの秩序が維持されていました」
 南京にいたダーディン記者も、十二月八日南京発の『ニューヨーク・タイムズ』に、「本日、高射砲一個中隊と多数の軍事機関が安全地帯から退去した。同地帯の非軍事化の約束を実行しょうという中国軍の意志を、一層はっきりと示すものであろう」と書いている。

 以上のことはラーベ委員長が同じ十二月八日に日記で怒りを表明しているのとは対照的だ。
 「われわれは全力を挙げて安全地帯を拡張しているが、何度も何度も中国軍がくちばしを入れてくる。未だに引き揚げないだけではない。それを急いでいるようにも見えないのだ。・・・・われわれは皆お互い絶望しかけている。中国軍の司令部にはほとほと手を焼く。せっかく掲げた安全地帯の旗をまたもや全部持って行かれてしまった。安全地帯は縮小されることになったと言うのだ。大砲や堡塁のために予備の場所が要るからだと言う。・・・・日本にかぎつけられたらおしまいだ。おかまいなしに爆撃するだろう。そうなったら安全地帯どころか場合によっては大変な危険地帯となってしまう。・・・・こんな汚い手を使われるとは
・・・略・・・
 当時の現行法はハーグ陸戦法規で、それは「交戦者の資格」として次の四条を定めていた。
@部下の為に責任を負う者其の頭にあること
A遠方より認識し得べき固着の特殊標章を有すること
B公然兵器を携帯すること
C其の動作に付き戦争の法規慣例を遵守すること
 日本軍が南京に入ったとき、安全地帯にいた中国兵はハーグ陸戦法規の定める上の四条を守っていたであろうか。そして捕虜と認定されるための法的資格を有していたであろうか。
 @の指揮官について言えば、南京では唐生智将軍が数人の将校とともに逃亡し、指揮官は不在であった。
 Aの「遠方より認識し得べき固着の特殊標章」について言えば、中国兵は軍服を脱ぎ捨てていた
 Bの「公然兵器を携帯すること」について言えば、陥落後、彼らは軍服を脱ぎ捨てて市民になりすましながら、武器を捨てる者もいれば武器を隠し持っている者もいた(日本軍が摘発した中国兵の隠匿兵器は「南京特務機関報告」によれば、一九三八年(昭和十三年)二月中に「トラック五十台分」に達していた)。・・・略・・・
 南京は陥落したが、中国軍は降伏して来なかった。私たちは戦争がまだ終わっていなかったことを頭に入れておかなければならない。・・・略・・・
 戦闘が続くなか降伏もせず、巨大な城壁に阻まれて脱出できない中国兵が勝手に軍服を脱いだところで、日本軍としてはそれを直ちに降伏と認めることはできなかった。・・・略・・・ 
 南京防衛軍司令官は日本軍の降伏勧告を拒否したうえ敵前逃亡し、中国軍の誰も日本軍との契約を結んでいなかったからである
引用終わり。

 このような状態に終止符を打つには、安全地帯に紛れ込んだ兵士たちを区別し、一般市民が戦闘にまきこまれないようにする必要があります。
 それが掃蕩戦での摘発であり、反抗する兵士については処刑するのが戦時においての自然の流れであります。また、本来、法規に準じた兵士の資格の無いもの(便衣兵)は捕虜にして保護する必要もなく、見つけ次第射殺されても当然でしたが、それでも日本軍はそれらの多くに捕虜の扱いをしたということです。
posted by 小楠 at 07:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国
この記事へのコメント
今でも支那人なんてただの詐欺師か泥棒強盗と同じ水準なんだから、当時の大陸支那人などは土匪・土賊の禽獣集団だったんでしょうね。それを取り締まる過程で数人が銃殺になったことを屠殺だなんて・・・。支那人民たちからも喜ばれていた筈です。戦後になって、自分たちがやってきた歴史をそっくり旧日本軍に嵌めてしまいぶーぶー喚いている。困ったさんです。中国では"三"は単なる"数が多い"を意味するので屠殺三千人が三万人になり、今や三十万人になってしまいました。村山富一はそれを真に受けて頭を下げに行ったそうです。能天気な極楽トンボですね。三百万人にならないうちに日本正規軍隊を今日にでも立ち上げるべきだと思います。
Posted by ケイさん語録 at 2006年07月02日 14:59
蒋介石も毛沢東もこんな事件のことは全く話題にもしてないようですね。
実際にあった昭和二年の南京事件、三年の斎南の虐殺事件、そして十二年の通州虐殺事件こそ教科書に載せるべきでしょう。彼らがいかに猟奇的な虐殺をする民族かをしっかり教えるべきです。
Posted by 小楠 at 2006年07月02日 20:46
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