2008年01月07日

シベリア出兵

 新年おめでとうございます。旧年中はコメント等により色々ご教示頂き有難うございました。
 本年もどうぞよろしくお願い致します。

日米抗争の史実7

今回引用している書籍は、昭和七年三月に発行され、同年四月には五十八版を重ねた、海軍少将匝瑳胤次著「深まりゆく日米の危機」です。昭和七年頃までの米国の動きから、当時の日本と日本人が米国に対してどのような感情をもってどのような状勢判断をしていたかを知る資料になるものと思います。
写真はこの本の中表紙です
nakahyoshi.jpg

引用開始
 彼等米人の鉄道政策は、鉄道そのものの利益ばかりではなく、その延長区域の富源を吸収することであることは勿論である。この意味に於て彼らが支那に眼を付けるのは無論であるが、またシベリアの富源に多くの関心を払うのも自然の数でなければならぬ。・・・
 1917年(大正六年)聨合国側の露国に革命が起ったが、何分にも資金と物資の欠乏で戦争の継続もむつかしくなってきたので、露国は大戦のために、さなきだに不完全なるシベリア鉄道を、根本より破滅せんとするまでに酷使したのである。・・・・
 この時期こそ米国にとっては、多年の宿望を達すべき最好の機会であるから、同国政府は早速前国務卿ルートを特使として、ケレンスキー政府を訪問せしめ、革命政府と親交を結ぶと同時にシベリア鉄道修理問題を交渉させた。これが1918年の春のことである。ルートは十二分の成功を収めて帰国し、直ちに多量の鉄道材料をシベリアに送り、別に鉄道技師スチーブンスに率いられた三百名の鉄道技術団員を派遣したが、不幸にも彼らが我が長崎に到着した頃には、折角鉄道修理を約したケレンスキー政府は倒れて、露国の天下は過激派の横行闊歩する所となり、米国の一大特権は、ここに頓挫の止むなきに至った。・・・・
 この時我が国ではシベリア出兵の白熱的議論が行われて、今にも日本軍のシベリア上陸が実現せられんとする形勢を呈した。スチーブンスは遂に擾乱のシベリアに突進して、従業員を東清線の各要所に散布したのである。これ実に米国の技術上に於ける同線の占領を意味し、聨合出兵後に於ける共同管理の主人公たる運命を定めたものである。・・・・

 最近に於ては、ほとんど攻守同盟に近き日露協商まで出来上がった。米国が水を注せば注すほど日露は親しくなって行った。さすがの米国も手の下しようがなかった時に、露国の革命が突発して反政府方の天下となったのである。どうして米国はこの機会を逃そう、先ず同情を売り成功を祝してその感情を和らげ、一億ドルの貸与を約して実物の援助を示し、かくして米露親善の端緒を開いて、日本を孤立に陥れ、露支両国に於て自分に都合よき政策を行わんとするの方便とした。さればこそ、ロシヤがレーニンの手に落ちシベリアが乱れると、必然の順序として米国のシベリア干渉が始まって来たのである。
 而もシベリア出兵は我が国のいわゆる自主的出兵説に端緒を発したのであるが、これが実行に先立ち我が政府はこれを英米仏に提議した。英仏はこれに賛成したが、米国は日本から来るの故を以てこの提議を刎ね付けた。当時米国はケレンスキー政府時代に於て、シベリア鉄道の経営を約し、既にその従業員まで派遣していた時である。且一面に於ては露国の民主政体となることに同情を表し、あまつさえ過激派との了解の下にシベリア鉄道の経営に着手せんとした時である。故にこの際日本のシベリア出兵は米国の企画に大なる齟齬を来さしむるものであるから、日本の提議に対し『出兵は露国内政の干渉である』と称してこれに賛同しなかった。・・・・

 然るにその後チェコ・スロヴァキア軍救援の申請を見るに至って、先に日本の出兵を刎ね付けた米国は今度は反対に自分から我が国に共同出兵の提議を持ち出して来た。この裏面の消息を観察すると、米国の言い様もなき我儘ぶりが発揮されているのを見るのである。元来米国は露国出兵を以て内政干渉となし、且新たに起り来たった露国民主政治の発達を阻害するものであると称して、その実米国は独占的に露国に対して経済的援助を与え、かくてシベリアに於ける利源を独占せんと企画したのであるが、シベリアの現状が過激派の跋扈と争乱の巷と化するに至って、彼等計画の実行に危険と困難が伴い、到底継続の不可能なるを見極めた所で聨合出兵の提議をなし、その秩序の回復を待って更に予定の計画を続行せんとしたのである。
 日本はかつて出兵を提案したかどにより米国に反対するの理由なく、共同出兵の提議に応じて、チェコ軍救援の名によってウラジオに出兵することとなった。これが1918年(大正七年)八月上旬であった。・・・
 ここに至って今や米国は日露戦役当時よりの計画であったハリマンの鉄道政策たる、世界一周交通機関管理の実現を見るに至った。
 かく計画通りに進行した米国の企図は、更にオムスクに出来たコルチャック政府援助に対して日英仏を誘ったのである。但しこの運動はコルチャックとオムスク政府承認の条件について意見の一致を見ることができず、ぐずぐずしている間に形勢一変し、聯合軍の間にも何かと問題が起り、そのうち英仏二国も欧露及びシベリアからほとんど撤兵することとなり、米国またウラジオ其の他一二の要所に兵を駐めて深く内地へ進入しないと云うことになった。かかる間にオムスク政府は過激派軍との戦いに敗れて1919年イルクーツクへ退却し、コルチャック提督は該地に蜂起した社会革命党などに攻められ、遂に捕えられて殺されることとなったのである。こうなっては米国の提議した聯合軍のシベリア干渉は何のためであるか分からぬ、見苦しき失敗の結果となったのである。

 その後日本は過激派勢力が満洲蒙古へ侵入するのを防ぐためとあって、増兵計画を立て、米国の賛同を求めたが、米国政府はこれに答えるに先だって、1920年一月日本と相談することもなく、自国軍をどしどしシベリアから撤退せしめ、スチーヴンス以下の鉄道隊員をも帰国さしてしまった。これはシベリア出兵の発頭人たる米国として決して責任を尽したものと云われないのであるが、最早シベリア鉄道管理の見込みが付かないと見切りを付けては、跡は野となれ山となれ、シベリアあたりに用はないと云うことになった。自分に用事がなくなるか、用事が済めば、他人の参酌などに頓着なく、我儘勝手に振る舞うのが米国式である。日本は犬鷹に浚われて寒いシベリアに独り取り残された勘定となったのである。春秋の筆法を以てせば、尼港虐殺の元凶はまた米国であるといわれないことはないであろう。
引用終わり
posted by 小楠 at 07:13| Comment(2) | TrackBack(2) | 書棚の中の戦争
この記事へのコメント
小楠様
今年も宜しくお願いします。
ご紹介の本は大変興味深いですね。
シベリア出兵は原敬首相が完全撤退をすることが出来ず、結局加藤友三郎首相の英断でこれを終わらせますが、ワシントン会議の米国の身勝手さを併せて考えますと、余程用心して掛からねばと思います。
FDRは論外ですが、戦後もニクソンショックやクリントン氏の振る舞い、最近は小ブッシュ政権の<裏切り>など彼の国の政治的信義など本当に当てに出来ない。
また面白い本をご紹介下さい。
Posted by 茶絽主 at 2008年01月07日 10:20
茶絽主様
こちらこそ今年もまた宜しくお願いします。
アメリカはただ極東覇権のためで、自国の防衛など考える必要もなかったはずですね。
自国のみ実質海軍拡張、日本には縮少を強いて、先々の対日戦の準備としか考えられませんが。
Posted by 小楠 at 2008年01月07日 12:38
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西暦1918年 - シベリア出兵
Excerpt: 1918年、ロシア革命に対してイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、日本などの連合国はシベリアに出兵する。
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Tracked: 2009-10-28 19:52

西暦1598年 - シビル・ハン国の滅亡
Excerpt: コサックはシビル・ハン国に攻撃を仕掛け、1598年、滅亡する。ロシアは東進を続け、1636年にシベリア全土を征服する。
Weblog: ぱふぅ家のホームページ
Tracked: 2009-11-18 17:08