2006年06月29日

昭和二年の南京事件

「もうひとつの南京事件」(日本人遭難者の記録)田中秀雄著
nankin2.jpg
 最後にある解題と解説によれば、
 以下引用
 この本は、昭和二年八月に刊行された『南京漢口事件真相 揚子江流域邦人遭難実記』の内容をそのまま翻刻したものである。
 読んでいただければお分かりのように、『南京漢口事件真相』は昭和二年の三月から四月にかけて、中国の南京、漢口を中心とした揚子江流域各地で起きた、中国軍兵及び中国民間人による日本人襲撃事件の実相を証言や公文書を用いて臨場感鮮やかに再現したものである。普通これを「南京事件」と呼んでいる。
解題と解説の引用終わり。
 この時には日本人だけでなく、欧米の現地居留民も同じく残虐な被害を被っています。(例として本書にある南京須藤医院長須藤理助氏の講演内容に、「フランス学校男教師二名が殺害された上、その一名は陰毛を焼かれ、かつ右大腿部を切断された」とあります)これにつきましては以前に掲載しました、ラルフ・タウンゼント著の「暗黒大陸中国の真実」の「本当にあった1926年の南京虐殺」もご参照下さい。

本文より一部引用してみます。
引用開始
 ・・・略・・・三月二十三日には城内は一層の混乱に陥り、総司令以下支那官憲の全部は逃亡し、城の内外にあった軍隊も、午後から夜にかけて下関浦口方面に潰走し、銃砲のとどろき、兵馬の波は満街を埋め、難を避けて逃げまどう市民の叫喚も混じりて、凄愴の気は全城を包んだ。
 南京在留の邦人側においては、連合軍敗北の際における掠奪暴行を予想し、二十二日城内にある邦人婦女子だけを領事館に避難せしめたが、混乱いよいよ甚だしきに及び、市中に散在していた人々も続々避難し来り、二十三日午後八時頃までには、下関方面の在住者と市内の二十三名を除く外全部の引揚げを了し、領事官舎十五名、本館三十八名、警察官舎二十名、書記生室十九名、署長官舎十名という振当てでそれぞれ収容した。・・・略・・・
 邦人一同は、二十四日の黎明を迎えて救われたような思いに充たされた。不思議にも連合軍の退却は思いの外に平穏に過ぎた。・・・略・・・
 無心の子供は嬉々として床を出でた。婦女子たちはかいがいしく朝餉の支度に取掛かった。やがて六時過ぎとも思ぼしき頃、はるか遠くに嚠喨たるラッパの声が聞え、間もなく晴天白日旗を先頭にした一隊が、領事館前の鼓楼近くを前進するのが見えた。・・・略・・・
 館内の一同は、かねがね革命軍の規律正しいことを聞かされていたので、むしろ歓迎の目を以って領事館のベランダから眺めていたが、門口の土嚢の取除かれると前後して、いつの間に入り込んだか二三名の支那人がうろうろしていて、何かの合図でもしているようすですこぶる気味悪く感じられたが、或いはこれが言う所の革命軍特有の便衣隊なるものであったかもしれない。・・・略・・・
 それから半時間も経たと思う頃、約一個中隊の歩兵が将校指揮の下に正門から闖入し来り、折柄歩哨に立っていた西原丹等兵曹に向かってイキナリ銃剣を突きつけ、外套越しに突きまくった上、散々に打ちのめした。急を聞いて駆けつけた数名の水兵もたちどころに包囲せられ、これまた銃剣を突きつけて時計や財布など残らずもぎ取られてしまった。・・・略・・・
 その時露台に身をかわした根本少佐は横腹に一撃を見舞われ飛び降りようと身構えた所を無残にも銃剣を以って臀部を突き刺され露台から突き落とされた。鮮血に染まって下の貯水タンクの上に落ちた少佐は人事不省に陥った。
 その時室内にいた人たちには、領事夫妻、根元少佐、木村署長の外に、板阪民会長、山本訓導、綾野茂氏らがあったが、続けざまに十数発を乱射し、一同を威嚇した暴兵らは、「金を出せ」「金庫をあけろ」「出さねば皆殺すぞ」と口々に罵りつつ各人を捉えて所持品を奪い取り、衣服を剥がし、はては領事夫人にまで及んだ。
・・・略・・・

 こうして各室を暴れ回った暴兵は、あとからあとからと新手が押し寄せ、来る者ごとに何物かを奪い何物かを毀していく。瞬く間に各館は階上階下とも、それこそ遺憾なく破壊され、その上に暴兵の後から紛れ込んだ付近の住民、老人といわず子供といわず、女房といわず娘といわず、苦力、破戸漢、乞食に至るまで、てんでに物を持ち去る。電球、電線、その他の装飾器具はもとより、炊事道具から風呂桶まで担ぎ出し、いよいよ取るものがなくなるとストーブの壁を剥がし、はては痰壷から便器まで持ち出した。
・・・略・・・
 取るものを取り尽くし毀すものを毀し尽くした後に来るべき場面は言わずとも明らかだ。銃剣に追い詰められ、所持品をかきさらわれた同胞を捉えては上着を脱がす。その後に来た暴兵はこれまた銃剣を突きつけてズボンを脱がす、その後のは帽子をさらって行く、靴を奪って行く、しまいにはシャツ、ズボン下、猿股までも脱がして持って行く
 さらに婦女子に加えた暴虐に至っては、まったく正視するに忍びなかったという。髪を解かせ帯を解かせ、肌着を脱がせ足袋を脱がせ、・・・略・・・
 終わりに臨んで特記すべきは、当日の革命軍士卒の掠奪暴行が、決して偶然的にまたは発作的に行われたものでなく、事前に十分に計画され準備されたことである。これには推定すべき多くの事実がある。
 前にもあるように、事変当日日本領事館の入口付近には朝早くから胡散臭い平服支那人が、三四人うろうろしていた。そして内と外かけて何かの合図でもしているようであった。・・・略・・・
 殊に当日の暴兵は二十元の懸賞付で募集された決死隊様の者で、その上に掠奪破壊すべき家々はとっくに共産党南京支部の手によって調べ上げられていたと称せられている。
 南京各所に散在せる日本人の家屋が、ほとんど一軒残らず、しかも極めて短時間の間に襲撃されたのを見ても、暴兵の背後に共産党一味があったことは主肯し得らるる。事実当日暴行の現場には幾多の平服支那人が混じっていた。
 領事館の正門から一番に雪崩込んだのはもちろん革命軍の暴兵であったが、中には平常服に毛皮の帽子をかぶった男が呼子笛を吹き鳴らしつつ指揮しているものもあった。
 殊に掠奪品が後から後からと持ち出されると、門前には自動車、馬車、驢馬などが待ち受けていて山積みしては何処かへ運んで行く。その指揮者の中には二十七、八くらいの斬髪婦人もまじっていた。
 さらに欧米人に対して行われた暴虐もまったく同様の手段であった。英米領事館を始め、欧米人の住宅、店舗が遺憾なきまでに荒らされたのはもとより、各学校にある欧米人までが一々物色して危害を加えられた。
 中にも金陵大学副校長イー・ゼー・ウイリアム博士と、震旦大学の仏人教師二名は暴兵のため惨殺され、その中の一人は頭髪から髯、陰毛までも焼かれた上、大腿部を切断され街頭に遺棄されていた。この他に重傷を受けまたは衣服を剥がされたものは数うるにいとまないほどである。殊に婦人にして凌辱を受けたもの少なからずと言うが、これらの事実に徴しても、いかに計画的に行われたかが分かると思う。
引用終わり。

 中国兵は軍隊と言うよりも強盗の集団です。当時日本は再三これら暴徒の取締りを要請しましたが、その都度裏切られ、在留邦人保護のために軍を出動していたことが分かります。中国や日本の反日、左翼が言う侵略のためなどとは真っ赤な嘘です。
posted by 小楠 at 07:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国
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