2006年06月27日

義和団事件時の日記2

 「ベルギー公使夫人の明治日記」エリアノーラ・メアリー・ダヌタン著
 最後に少し遡って、1893年[明治二十六年]10月2日から始まるこの日記の中から、1900年の義和団事件の頃の彼女の日記を見てみましょう。

 引用開始
 1900年[明治三十三年]6月23日
 新任のロシア公使イズヴォルスキー氏とその夫人が来訪した。夫人は可愛い洒落た感じの人で、とても快活だった。天津が全焼し、外国人居留地の全員百五十人の西洋人が虐殺されたというニュースが届いた。この恐ろしいニュースは一体本当なのだろうか。

 1900年[明治三十三年]6月28日
 清国筋を通じて、外交団が二十四時間以内に北京から退去を命ぜられたというニュースを受け取る。どこへ行くのかは誰も知らないらしい。夜になって送られてきた他の電報によると、彼らは二十五日現在ではまだ無事で北京にいるという。どちらを信じたらよいのか?これらの電報は日本の外務省から直接アルベールに送られたものであるから、私たちはすぐにニュースを知ることができた。

 1900年[明治三十三年]7月2日
 恐ろしいニュースがもたらされた。ドイツ公使フォン・ケテラー男爵が先月十三日に総理衙門へ行く途中、清国兵によって殺されたというのだ。ある報道によると彼の遺体は総理衙門へ運びこまれたが、総理衙門も焼打ちに遭い、そのあと遺体は北京市中を引き回されたという。可哀そうな彼の若い妻!彼女のことを思うと心が痛む。夫を失った驚愕と悲劇を乗り切るのは彼女にとってどれほど辛いことだろうかと私は心の中で思った。

 1900年[明治三十三年]7月4日
 ドイツ皇帝が非常に好戦的な演説をした。彼はフォン・ケテラーの死に復讐することを誓い、ドイツの国旗が他の国の国旗と共に、北京の丘の上に翻る日までは決して気を休めないと言明している。・・・

 1900年[明治三十三年]7月7日
・・・・・日本は遂に二万人の軍隊を送るという話である。現在何も手のつけようがないし、もし彼らが既に虐殺されていないとしても、それは日にちの問題、あるいは時間の問題だということは誰もが思っている。清国軍は大砲を据え付けて英国公使館を砲撃している。ある電報によれば、公使館で火事が発生しているという。・・・・・

 1900年[明治三十三年]7月14日
 上海で発行されていつも情報をたくさんのせているオーストリアの新聞に、外交団、宣教師、税関職員の全員が七月一日に虐殺されたことは疑いの余地が無いという記事が出でているそうだ。 ローマ・カトリックの大司教ファヴィエ師は首を切られ(実際は数千のキリスト教民と教会に立て籠もり二ヶ月間持ち堪えた)、その他の宣教師は全員残酷にも手足を切断されたという。私たちの最も恐れていた事態が現実のものとなりつつあることを憂慮せざるを得ない。可哀そうな包囲された人たちが最後の時がくるまで耐えたであろう苦難の詳しい事実は、決して知ることができないだろう。
 清国筋から東京へ届いた電報によると、外国人の状況は「極めて危殆に瀕している」という。明らかにこれは彼らが二週間前に既に知っている事実を、私たちに報せるための準備である。神よ、彼らの魂に慈悲を垂れたまえ!私の心はひどく痛む。もうこれ以上書けない。

 1900年[明治三十三年]7月20日
 英国公使館付海軍武官のオトリー海軍大佐が中禅寺へ行く途中、日光に立ち寄った。彼は広島から日本の軍隊が出発するのを目撃したが、あらゆる作業がすばらしい組織力と非常な迅速さで行われたことに、大変驚いていた。彼の話では、たった四十八時間で、商船が千人の兵隊と五百頭の馬を収容できる輸送船に改装されたという。

 1900年[明治三十三年]7月22日
 アルベールは北京へ行く途中、上海で足止めされていた公使館の前書記官ド・カルティエ氏から、外交団はまだ無事でいるという電報を受取った。その後で彼はアメリカ公使バック氏からもう一通の電報を受取ったが、それによると北京のアメリカ公使コンガー氏が十八日にワシントンへ電報を送ることに成功し、彼らはまだ持ちこたえていると報せてきたそうだ。本当に嬉しいニュースである。

 1900年[明治三十三年]7月25日
 天津から避難してきたデトリング一家と知り合いになった。彼らは素敵な家族で、一家は母親と二人の成人した娘と二人の子供で構成されている。
 彼らは天津で砲撃が続いている間、地下室で一週間過ごしたが、米とじゃが芋だけを食料とし、その間中、着のみ着のままで過ごした。とうとうデトリング夫人と小さな娘の一人が熱を出したので、少しばかり新鮮な空気を吸おうと、砲弾が破裂し、鉄砲の玉が飛び交う街の中へあえて出てみた。さらに逃げてきた元の家にも行ってみた。・・・略・・・天津では援軍が到着しないし、弾薬は一日分しかなくなったので、婦人や子供たちを清国軍の手に渡すよりも、射殺すべきだとの決定がなされた。デトリング夫人は夫が非常に悲しそうな顔をしているのを見て、とうとうどんな計画があるのか夫から聞き出すのに成功した。彼女がそれを娘たちに話すと、娘たちはみんな覚悟していると答えた。
 遂に弾薬が尽きようとするきわどい時になって、援軍が到着し、最後の必死の応戦のあとで彼らは救われた。そして婦女子は全員天津を離れるよう命令された。デトリング嬢の話では、その後も川を下るときに方々の村から銃撃や砲撃があったので、非常に危険な状態だったそうだ。・・・略・・・
引用終わり。
posted by 小楠 at 07:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 書棚の中の中国
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/907967
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。

この記事へのトラックバック