2006年06月24日

公使夫人の日露戦日記4

「ベルギー公使夫人の明治日記」エリアノーラ・メアリー・ダヌタン著
 今回は、1893年[明治二十六年]10月2日から始まるこの日記の中から、日露戦争当時の部分を抜粋して掲載しています。
 日露戦争に関する日記引用の最後に、ここをお読みの皆様に、アルベール・ダヌタン男爵が臨終に際して、自分の死後の未亡人の生活を心配して、天皇皇后両陛下に宛てて次のような、涙なしには読めない遺奏書を作成して、御慈悲を奏請したことが、明治天皇記第十二に記されていますので、掲載しておきます。
 「陛下、皇后陛下
 余は日本国に幾多の年月を経過したる後、今や全く資産を有せざる余が寡婦を残して瞑目す。願わくは両陛下、余が寡婦の為に慈悲の御心を垂れ給わんことを
 ダヌタン男爵夫人は余と等しく常に両陛下に対し深厚なる敬意を以って満たされたり。余等は実に日本国を余等の第二の本国として思量せり。茲に余は両陛下並に皇統の幸福を祈り、併て上帝の日本国を加護あらんことを懇祷す。余は最早僅に手に筆を執り得る迄衰弱したり。
                    男爵 アルベール・ダヌタン」
 言うまでも無く、両陛下はこれにお応えになり、夫人をお召しになって、皇后陛下より相応の大金が直接手渡されました。

 引用開始
 1905年[明治三十八年]6月7日
 私たちはバークレイ家で夕食をした。バケナム大佐が戻ってきたという話をそこで聞いた。バケナム大佐は英国公使館付海軍武官で、彼とジャクスン大佐の二人だけが、戦艦に同乗して大海戦を目撃することを許された海軍武官であった
 彼は朝日に乗艦し、他の士官と共に艦橋で観戦した。何の遮蔽物もない艦橋を降りて、安全な司令塔にいて下さいと何度も言われたが、彼はどうしても艦橋に留まると言い張って、戦闘の間ずっと記録をとり続けた。・・・略・・・
 日本軍は悪魔のごとく戦い、その砲撃は百発百中だったが、ロシア艦隊の砲撃は全くでたらめだった。・・・略・・・

 1905年[明治三十八年]10月13日
 (注:この年の八月十二日に調印された第二回日英同盟協約を記念して日本を表敬訪問するため、ノーエル提督率いる英国シナ艦隊が十月十一日横浜に入港した。)
 祝賀の行事は昨日の繰返しであった。日比谷公園で芸者がビールを無料で接待したため、思慮の足りないこの行為の結果として、その日あとになって見られた光景は決してその場にふさわしいものではなかった。
 しかし、英国の水兵と日本の水兵が一言も言葉が分からないのに、お互いに肩を組んで、楽しそうに歩き回っている姿は見ていて面白かった。どこの店でも「勇敢な同盟国兵士に値引き販売」と書いた貼紙を掲示していた。

 1905年[明治三十八年]10月22日
 東郷提督が東京へ帰ってきた。首都東京へ戻る前に、提督は日本国中で一番神聖な場所、すなわち伊勢神宮へお参りして、輝かしい勝利を達成できたことに対して敬虔なる感謝を捧げた。この英雄の凱旋を歓迎して、おびただしい数の群集が集まり、すばらしい装飾が飾り付けられた。
 新橋駅の前に焼き石膏で作られた巨大な凱旋門が建てられた。私たちは駅まで馬車を走らせて、数枚の写真を写した。私は今までにこれほど大勢の人々が集まったのを見たことがない。彼らは最高に熱狂し、割れるような歓声を上げていたが、それにもかかわらずみんな実に秩序整然としていた。
 東郷提督は駅から馬車で市街を通って皇居に向かうとき、その歓迎ぶりに控え目ながら喜んでいる様子だった。
 私は翌日の観艦式を参観するため、急行で横浜へ向かった。そしてホーキンズ夫妻の家に泊まった。あらゆる場所に無数の群集が群がり、駅を通り抜けることさえ難しいほどだった。横浜の市街は様々な旗や色とりどりの提灯で美しく飾りつけられていた。確かに日本人は装飾技術において他を抜きん出ている。あらゆるものが実に綺麗に出来ていて色彩豊かである。

 1905年[明治三十八年]10月23日
 講和を祝う大観艦式が行われた。ホーキンズ夫妻と私は、グラント海軍大佐から英国軍艦サトリッジ号の上で観艦式を見物するように招待を受けていたので、途方もなく早い時間に起きなければならなかったが、軍艦の上で楽しい一日を過ごすことができた。サトリッジ号の下舷の丸窓から、天皇陛下の御召艦浅間の写真を何枚か撮るのに成功した。日本の軍艦が二百隻と、その他に多数の英国軍艦がいたが、遠くの方に捕獲されたロシアの軍艦が数隻いた。私たちは観艦を行う浅間の勇姿を堪能した。・・・略・・・
 艦隊は三度礼砲を放ったが、一回ごとに二十一発の弾丸を放った。それは実に荘重で感動的な場面であった。私たちが下艦したときは五時を過ぎていた。
 夜になってから私たちはイリュミネーションを見に行った。全部の軍艦が照明されて、列になった電球がその輪郭を浮かび上がらせており、どの艦の旗も様々な色の電球に照らされて燃え立つように鮮やかだった。それはすばらしい光景であった。

 1905年[明治三十八年]10月24日
 横浜から十二時の汽車に乗って、東郷提督とその他の提督を歓迎するために、山本権兵衛提督が主催した海軍クラブ(水交社)の園遊会に出席した。・・・略・・・園遊会で東郷提督に紹介されて、この偉大な人物と話をした。彼は小柄な痩せた人で、極めて謙虚な遠慮深い態度であった。彼がネルソンの偉業を凌駕しないまでも、それに匹敵する業績を挙げたとは信じ難いことだ。
 宴会の席で私は彼の隣に座り、私のもう一方の側にノーエル提督が座った。食堂はすばらしく立派に飾り付けてあった。当日の来客は二千人にのぼった。・・・略・・・ノーエル提督がスピーチをして、その中で東郷提督の健康を祝して乾杯をすると、万歳の叫び声が何度も繰返して起こった。

 1905年[明治三十八年]11月3日
 今日は天長節である。外交団一同と日本政府高官に賜った皇居の御餐会で、天皇陛下が次のようなお言葉をお述べになった。
 「本日わが誕生日に当たり、ここに各国公使、諸大臣、諸官その他の名士を歓待することは私の大いに喜びとするところであります。不幸にして一時中断されていたわが帝国の平和が、再び回復したことを声明できるのは喜びに堪えません。本日お集まりになった各国の代表者の君主および大統領のご健康を祝し、合わせて帝国と各国の友情の絆が一層強固になることを衷心から願うものであります」・・・略・・・
 小村男爵が外務大臣官邸で天長節を祝う晩餐会を催した。アルベールが日本の天皇の御健康と、合わせて桂伯爵の健康を祈って乾杯をし、桂伯爵がそれに答えて返礼の乾杯をした。 

 1906年[明治三十八年]2月19日
 コノート公アーサー殿下が本日、日本へお出でになった。殿下は天皇陛下にガーター勲章を贈呈なさるために、特使として派遣されたのである。私は馬車に乗って、駅まで殿下のご到着を見に行った。それは華やかな光景であった。天皇陛下ご自身が殿下を駅までお出迎えになったのである。・・・略・・・かつていかなる外国の皇族に対しても、これほどの名誉が与えられたことはない。
引用終わり。

 今回は、ダヌタン夫人の日記から、日露戦争当時のものだけを引用しました。当時来日し長く滞在した多くの外国人が、このような日記や日本の印象記を残しています。当時の日本と日本人を客観的に見たい場合これらの書物は大変有用であると思っています。
なお次回からは、同じ日記の中から、1900年の義和団事件の頃のものを引用する予定です。
posted by 小楠 at 07:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 外国人の見た日本A
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